山の空気はどこまでも青くて、水の匂いで満ちている。
獣を狩りにやって来る猟師たちくらいしか通らない細い道。木の根が縦横に蔓延って歩きづらい
林道は、鬱蒼と茂る木々から生まれる露の匂いに包まれている。深呼吸しただけで喉の奥まで
潤してくれそうな湿度の濃い山の大気は、どこも青々として澄んでいる。
街の空気とはまるで違う。濁った匂いなんてどこにもない、生まれたてのみずみずしい空気は、
生まれ育った小さな村のそれによく似ている。けれどあの村とは少し違う。ほんの少しだけ、
何か違う匂いが混じっている。それは、天人の襲撃で家族を失くして里を捨てたあの日から、
どんな場所に行ってもつきまとっていた違和感だ。この山の空気も、眺めもそう。あたしの村があった
あの山と瓜二つに似ているのに、どこか違う。風が運んでくる土や草木の匂いの、ほんの僅かな
色味が違う。胸に仕舞っている思い出と重なりそうで、でも、決して一つには重ならない。
もし、里で死んだ母さんや妹に似たような人がこの山の何処かに暮らしていたとしても、
あたしがもう一度会いたいと願ってやまないあの二人とは、別人なのと同じように。
――おかしなものだ。自分でも知らないうちに、あたしの心は少しずつ修復されてるんだ。
前は家族のことを思い出すだけで辛くて、こんな辛気臭い例え話なんて考えつきもしなかったのに。


「・・・それにさー、最近ね、街で妹みたいな子を見るとついつい目で追っちゃうのよ。
前は逆に避けてたのにさ。・・・それって、今になってようやく認められるようになったせいかもね。
もうあの子はどこにもいないんだって」

一昨日も通った山道を下っていく間の暇潰しにと、ヅラを相手にそんな話をした。
隣を黙々と歩いていたヅラは、朝から晩まで戦のことしか考えていなさそうなあの大真面目顔を
崩すこともなくこう言った。

「やはり肝が太いというか、・・・どこまでも気丈な女なのだな、は」
「はぁ?なによそれ」
「お前にはピンと来ないかもしれんがな。失くしたものを、失くしたのだと認められぬ奴もいる。
そういう奴は亡者の影を求めてふらふらと彷徨い歩きたがる。生きながらにして地獄の淵目を覗いている」

この戦が長引いたせいで、そんな輩も増えたことだろう。
そう前置きをすると、何か思い出しているような顔になった。

「・・・ねぇ。地獄だの亡者だの、あたしには難しくてよくわかんないけどさぁ。
あんたの話ってたまに坊さんの説法みたいよね」
「ああ。そうだな、つまらん話だ」

自分に言い聞かせているような口調でそう言うと、表情を変えずにくすりと笑った。
山道を左右から挟む木陰からは、薄緑色の木漏れ日がちらちらと落ちてくる。すこし眩しそうに
頭上を見上げて、かざした手で光を遮る。背中を半分覆う長い黒髪は山風にさらりと靡いていた。

「失った者への妄執に身を窶すくらいなら、我が身が生き永らえた意味を追い求めるべきだ。
・・・いつかは認めねばならんのだ。奴等も、俺も」

つぶやきはどこか自嘲気味な声だった。風にさらさらと葉を揺らす木立の音がざわめく中で、
静かなのに通りがいいあの声はやけにはっきりと耳に響いた。








W h a t a w o n d e r f u l w o r l d !

青藍

―せいらん―










太陽が空の真上まで昇ったころ、あたしたちは昼御飯を食べることにして足を止めた。
葉色がみずみずしいブナの林の向こうからは、かすかなせせらぎの音がする。山頂からの
清水を走らせる渓流の音だ。それを頼りに谷まで降りて、陽射しを避けた木陰に敷き物を広げた。
河辺まで出て手拭いを浸す。水の冷たさが肌をきりりと引き締めてくれて心地良い。
先に腰を下ろして汗を拭っていたヅラに濡らした手拭いを差し出せば、「すまないな」と
律儀なお礼を返された。隣に座って握り飯と質素なおかずだけの弁当を広げる。
どうぞ、と大きめにこしらえた握り飯を差し出すと、受け取った奴は握り飯に向かって
手を合わせて「いただきます」と頭を下げてから食べていた。
そういえば、あの連中の中ではこいつだけかもしれない。
あたしの雑な田舎飯にいちいち手を合わせて、仰々しく頭を下げてくれる奴なんて。
こいつも晋助みたいにお金が有り余った家で、躾が行き届いた良家のお坊ちゃんとして
大事に育てられたんだろうか。そう思って尋ねると、心外だと言わんばかりに反論された。

「高杉と一緒にしてくれるな。我が家は貧しいとまでは言わんが楽な暮らしでもなかった」

高杉と、と口にした瞬間、川の流れを眺めていた目がかすかに曇る。
微妙な表情には気付かないふりで、わざと気楽な調子で返した。

「ふーん。こんなのびのびした気持ちいい場所に来ても堅っ苦しさが抜けないなんて、
とことん変わり者よねぇあんたって」
「・・・?堅苦しい?何がだ」

握り飯に齧りついた顔をしげしげと眺めながら卵焼きを味わっていると、心底不思議そうに
尋ね返された。相変わらずのズレた反応も、今はなんだか懐かしい。思えば、こいつの
堅苦しさのおかげであたしは随分と助けられたものだ。山奥で育ったガサツな田舎娘に
根気良く礼儀作法を仕込んでくれた世話焼きな奴。置屋でとんでもない大恥をかかずに
済んでいるのはほとんどこいつのおかげだと、今でもあたしは感謝しているんだけど。

「ところで。他にも何か聞き捨てならないことを言っていたな」
「あーはいはい、いーからいーから。ほらほら、卵焼きもどーぞ」
「うむ、美味そうだな貰おう。・・・いや卵焼きではなくてだな、お前今、人のことを変わり者だなどと」
「あー足痛ぁい。山道なんて久しぶりだし、下りが長くてきついのよねーこの道」

あ、そうだ。いいことを思いついて、立ち上がって川へ駆け出す。
履いていた下駄を白い砂利石敷きの河原にぽいぽい放って裸足になる。ちょっと屈んで、
着物と襦袢の裾を一手に膝上まで捲くり上げた。

「〜〜〜っ、っっっ!」

妙に甲高い叫び声にびっくりして、えっ、と振り向く。ヅラはなぜか立ち上がっていた。
なぜかあたし以上に驚いた顔をしている。驚きで固まったその顔は、
ここに来る途中で見つけた、熟した野苺の実の色以上に真っ赤っ赤だ。
ー・・・! ーー・・・・・! ーーーーー・・・・・・・・・・・!
裏返った叫びは谷の斜面にぶつかっては反響し、山中に高く長くこだましていく。
どこまでも広がっていく自分の名前をしばらく耳で追ってから、あたしはヅラを
胡乱げな目つきでじとーっと眺めた。

「はいはい何よ。ていうかあんた、こんな静かな山奥でなんて大声出してんのよ」
「なっ、なななっ、お前っ、なっ、何をっっっっっ」
「何って見ればわかるでしょ、疲れたから足を川で冷やすのよ」

だっ、だからといってそこまで足を露出する必要は・・・!とかなんとか、あたしから
目を逸らしたヅラは握り飯に向かって何やらブツブツとほざいてる。でもとりあえず放っておこう。
水辺に寄って爪先だけを清水に浸す。水の冷たさに足が痺れた瞬間、ひぁあ、と思わず高い声が出た。

「な、ななっ、っ!おなごがそのようなはしたない声を!」

やめんか、と騒ぐヅラは放っておいて、素足を撫でる透きとおった山水の冷たさと気持ちよさを楽しむ。
こういう過剰反応な時のヅラは放置するに限る。まったく、誰がはしたないって?失礼な。
藻で覆われた岩肌で滑らないよう気をつけながら、そろそろと浅瀬を進む。
「気持ちいいわよー、あんたも来る?」水をぱしゃぱしゃと蹴り上げながらそう言ったら、

「足を上げるな!見え、・・・いや、おっ、女から誘うなど、ふ、ふふふふふしだらな・・・!」
「失礼ねぇ水浴びのどこがふしだらよ。ちょっと足を冷やしてるだけじゃない、一体何が悪いってのよ」
「い、いや、悪いとは言わん。言わんがその、おっっっ、お前の肌が、人目に、その・・・!」
「はぁ?・・・人目ってあんた、こんな山奥よ?あたしたち以外に誰も来やしないってば」
「〜〜〜〜〜・・・っ。いいから早く上がってくれ!」

足を隠せ、とにかく隠せ!いまだに赤面してる奴にそればかりを連呼されたから、
着物の裾は仕方なく直した。濡れてぴとりと張り付いてくる襦袢の感触はいまいちだけれど、
火照ってむくんでいた足先は幾分か楽になっている。砂利上に転がった下駄を拾い上げて
木陰へ戻れば、食べかけの握り飯を膝に落とした男ががくりとうなだれて待っていた。

「疲れた・・・・・・」
「へえ〜。めずらしいわねぇ、いつも無駄に元気なあんたがこれくらいの山道で音ぇ上げるなんて」
「そういう意味ではない・・・!」
「・・・?あ、そーだ。祠まであとどれくらい?日が暮れるまでには帰れるわよね」
「もうすぐだ。お前がのんびりと花など摘んでいなければ、今頃はとっくに着いていたがな」
「だって墓参りにお供えの花はつきものでしょ。手ぶらじゃ仏さんもさみしがるわよ」

言い返してヅラの肘を小突いた。荷物籠の端に挿した、竜胆によく似た青紫の花へ目を向ける。
昨日はうっかり寝坊をしたから、銀時と約束した墓参りには行けなかった。だから明日は西の山の
山道口までちょっと出掛けてくる。昨日の夕飯でそう口にしたら、その場の全員が顔色を変えた。
敵の野営地が急に移動したせいだ。砲弾にやられて命を落とした人が眠っている山は、
互いの勢力が競り合うかどうか、一色即発でぎりぎりな場所へと変わったらしい。
男どもが顔を突き合わせてあれこれ相談した結果、女が一人で行くにはさすがにまずい、
あたしに護衛を附けようということになった。護衛役は面倒な敵地の偵察を一日免除される、
という、誰もがこぞって飛びつくおいしい特典付きだ。「俺ぁ偵察でいい」とあっさり権利を
放棄した晋助を除いた全員が挑んだ、恨みっこなしのじゃんけん十回勝負。いい年こいた男どもの
童心に帰った意地汚い戦いが繰り広げられて、圧倒的勝利を収めたのがこの男。運の良さには
やたらと定評があるヅラだったんだけど――

「うん、うまい。握り飯もいいが卵焼きも美味いぞ。特にこの漬物、なかなかの味だ」
「本当よねー。どうしてこんなに美味しいんだろ、山歩きの後で食べるご飯って」

空気が美味しいせいかしらね。そう言うとヅラは食べる口を止めて、

「空気のせいだけではないだろう。の料理の腕が前より上がっているせいだ」
「あはは、何よあんた。半年会わなかった間に急に誉め上手になっちゃってさぁ」

慣れないお世辞がこそばゆい。しかもこいつの場合、すべてが真顔で真正面からときている。
やめてよもう、と青の羽織を重ねた背中をべしっと叩く。するとヅラがぶほっと咳込み、
握り飯の米粒にゲホゲホとむせ始めた。
しまった、もっと加減すればよかった。咳で揺れる背中を慌てて擦る。「ごめんごめん」と謝ったり、
水筒のお茶を勧めてみたり。ヅラはそんなあたしを怪訝そうに眺めていた。無駄に綺麗で目を惹く
いいところのお坊ちゃん風な顔は、それなりに真剣な表情だ。目はまだ情けない涙目だけど。

「・・・?、なぜそこで茶化す。
俺は世辞など使っていない。お前の飯は美味い。事実をありのまま口にしたまでだぞ」
「あーあーはいはいそうですか、説明してくれなくても判ってるわよ」

ありがとね、と水筒を差し出して笑った。そんなあたしの態度に納得がいかなかったらしい。
ヅラはすっきりした造りの目元をふっとひそめた。「世辞ではないと言っているのに」とつぶやきながら、
川を眺めてほうじ茶をずずーっと啜り出す。あぁそうでしょう、そうでしょうとも。そのくらい判るわよ
あたしにだって、あれがお世辞じゃないことくらい。だって一度も見たことがないもの。クソがつくくらいに
生真面目で潔癖なあんたが人にお世辞を言ってるだなんて、そんな世にも珍しい奇妙な現場は。
・・・だけどこっちだって、茶化したくて茶化したんじゃない。
あんたが何でも真正面から照れもせずにぶつけてくるから、ちょっと恥ずかしくなったんじゃない。

「けどさぁ、あいつらの中じゃあんただけよ。あたしの雑な田舎飯に一度も文句つけなかった奴は」
「そうなのか?俺は最初からお前の飯は美味いと思っていたが」

どいつも見る目がないことだ。
そう付け足して握り飯を見つめる顔は心の底から嘆かわしげだ。
はいはい、どうもありがとね。照れ臭いなぁと苦笑いしながら、心の中でそう唱える。
でも、どんな女だってこんなに率直に誉められたら悪い気はしないだろうな。そうも思った。

「気にするな。銀時や他の連中はお前をからかって遊ぶ口実が欲しいだけだ。現に昨夜も今朝も、
何を出してもぺろりと平らげているではないか。坂本に至っては鍋ごと抱えて掻き込んでいたぞ」
「んー、まあねー、辰馬はね。・・・何があってもご飯はぺろっと平らげるし」

辰馬はそう。だけど銀時はそうもいかない。同じもじゃもじゃ頭の馬鹿面同士でも随分な差だ。
二人とも似たようなすっとぼけた顔でへらへらとにやついているくせに、そういうところがまるで違う。
誰かを護れなくて落ち込むたびに何も食べなくなる銀時だって、根は人並み外れて図太い奴で。でも、
辰馬の図太さときたら銀時以上、どこか規格外な頑丈さだ。常人とは心臓の耐久度の桁が違う気がする。
あいつなら、もしお腹を斬られて死にかけたって「血が出たら腹が減ったー、飯はまだかのー」なんて
へらへら笑って言い出しそうだし。

「ていうか辰馬ってさぁ、味の違いなんてどーでもいいんじゃないの。
何を出しても「これっぽっちでは足りんのー、もう一杯貰えんかのう」としか言わないもん」
「そうか。なら、もう一杯食いたくなるほど美味かったのだと自惚れておけばいい」

ものは考えようと言うだろう。
振り向いたヅラに見つめられ、人差し指を立てた仕草で言い聞かせられる。
あたしは寺子屋なんてものには通ったことがない。でも、そこの先生っていうのは
たぶんこんな仕草をして、こんな真剣な目をして、毎日子供を諭すんだろう。
「そうね、それもいいわね」と笑って頷きながら、なんとなくそんなことを思った。

「銀時の口の悪さは許してやれ。
元よりあいつは男同士の暮らししか知らん奴でな。女が作った飯の味を誉めたことなどないはずだ。
言わばあの口の悪さは奴の照れ隠しだな。女が作った飯の美味さにはしゃいでいるのだとでも思っておけ」
「ふふっ、ちょっとやめてよもう。気味が悪いこと想像させないでよ」
「言っておくが、高杉にしたって銀時と大差はないぞ。あれは幼い頃から
ひねくれ口を叩くのが好きな奴だった。・・・今も昔も、本音はなかなか明かそうとしないが」

お前を憎からず思っていることだけは、俺にも判る。
声音を下げて言いながら、握り飯の最後の一口をごくりと飲んだ。


「・・・。なによ」
「あいつは何か言ってこなかったか」

食べかけの卵焼きを口から離した。まだ舌の上に残ったままの柔らかくて甘い味は、
どうしてか喉を詰まらせる。隣の気配を気にしながら、黙って適当な答えを探す。
山風が耳を掠めるかすかな音と、せせらぎが奏でる涼しげな水音だけが過ぎていった。

「・・・あいつって誰」

結局、意味なくしらばっくれるくらいのことしか出来なかった。はぁ、と自分で自分に溜め息が湧く。
・・・男を手玉に取ってなんぼの芸者になろうって女がこの体たらくだ、情けない。

「高杉だ。昨日の朝、奴の部屋に朝餉を届けに行ってしばらく戻らなかっただろう」
「よく知ってるわね。どこから見てたのよあんた」
「なに、坂本がな。朝飯の干物を譲ってやったら、聞きたくもない話を密告してきたのだ」
「はぁ!?何よそれっっっ」
「・・・奴が言うには昨日の朝、高杉の部屋からお前が喚く声がした、障子の穴から覗き見たら、」

困りきったような口調でぼそぼそと喋り終えたヅラは、片手で口許を覆って黙りこくった。
男のくせにやたらときめが細かくて白い肌が、耳や首までかぁーっと真っ赤になっていって、

「・・・・・・・・・っ。これ以上は言わせるな。お前に恥をかかせることになってしまう」
「ちょっとぉぉ!なっ、何よその顔っ、あんた何か誤解してない!?」
「いやだがこれ以上は口に出来ん、そんな、仮にも嫁入り前の娘の評判を貶めるような話は・・・!」
「やめてよっ、そこで変な気遣いしないでくれる!?あれは未遂よ、
完全に未遂!確かにおふざけで押し倒されはしたけど、別に何もなかったんだからっっ」
「そ・・・、そうなのか?」
「そうよっっ。襲われた当人がそう言ってんのよ、これ以上に確かな証拠があると思う!?」

なんて敷き物をばんばん叩いて言い返しながら、無理矢理唇を重ねられたことは黙っておこうと
心に決める。この規律に煩いクソ真面目な奴に知られたら、相当に面倒なことになりそうだし。
・・・それにしてもあいつったら。辰馬の奴ったら。本当にあの馬鹿ったら・・・・・!

「どこまで頭が軽いのよあのお調子者がぁぁ・・・!帰ったら急所蹴り上げてやる!!」
「いや、とはいえ坂本の言質がなくとも、お前たちの様子が何か妙だとは思っていたのだ」
「はいはい恐れ入りましたその通りよっ。ていうかあんた、どこまで人の行動を観察してるのよ?
そこまでバレてたなんて正直引くわよ。ねえ、どんだけ周りの奴らの情報握ってんのよ!?」
「別に握りたくて握っているのではない。常に一人一人へ目を配って弱味のひとつも握っておかねば、
いざという時あの荒くれどもを統率出来んからな。・・・・・あぁ、妙といえばあいつもそうだな。
お前たち以外にも、妙な奴はもう一人いるが」

そっちは敢えて詮索するまい。
言いながらこっちの様子を窺っているような、歯に物が詰まったような言い方をされる。
そんなヅラのお見通しな態度を半分感心して、もう半分はげんなりした気分で眺める。あいつを眺める
あたしの顔は、大層恨めしそうだったのかもしれない。最後に残った握り飯に迷い無く齧りついた
ヅラは、あたしの視線に気付いた途端、急にはっとした顔になる。「そうかこれはお前の分か。
済まん、口をつけてしまった」と見当はずれもいいところなことを謝っていた。

「口を付けたものでよければ分けてやるぞ、半分どうだ」
「いいわよあんたが食べちゃって。・・・ねぇ、ヅラ」

いつもの仇名で何気なく呼んだら、ヅラの眉間に深い皺が生まれる。あからさまに嫌そうな顔だ。

「ヅラではない桂だ。・・・まったくお前たちときたら、人の名を何だと思って」
「昨日ね、誘われたのよ晋助に。
――俺はじきにここを抜ける。お前も一緒に来ないか、って」

あたしは努めて早口に、素っ気なく答えた。これを白状したら気まずい空気が漂うだろう。
そう判っていたから、なるべくさらりと済ませたかったのだ。思ったとおり、
ヅラはきつく眉を寄せてあたしの話を聞いていた。さらさらと涼やかな音色を響かせている、
光が乱反射してまぶしい河辺へと視線を向ける。
身体の底から絞り出したような深い溜め息が、薄く開いた口から漏れていた。

「そうか。やはり本気のようだな、あいつは」
「やはりって。・・・なんだ。知ってたの」
「高杉から直接に聞いた訳ではないが、人伝てにな。
奴は数人に声を掛けていて、そいつらの一人が俺に相談を持ちかけてきた」

それでお前、どう答えた。
こっちへ視線を流したヅラが、まっすぐに目を見て尋ねてくる。ううん、とあたしは首を横に振った。

「まだよ。返事は待つって言われたからね。でも断るつもり」
「・・・・・・」
「その場で断ってもよかったんだけどね。芸妓見習いの仕事を放り出しちゃったら、
お世話になってるおかあさんや姐さんたちに顔向け出来ないしさぁ。色々と工面して
江戸へ送り出してくれたあんたたちにも悪いし。・・・・・・・・それに。思うのよ。晋助にはさ、・・・」

(晋助に必要なのは、あたしじゃない気がする。)

そんな言葉がぽつりと浮かんで、消えていく。
あたしでなかったら誰なのか。そもそも、あいつに何が必要だっていうのか。なぜそんな風に思ったのか。
昨日の朝に感じたすべては、ひどく直感的なことばかり。自分でもそう思った理由があやふやな、
まるで空に浮かぶ雲でも掴もうとしているような、根拠がなくて頼りにならない感覚で。
――とても人には説明出来ない。


「・・・なーんてね。今のは忘れて。たいしたことじゃないからさ」
「・・・・・・・そうか。では奴の申し出は断るのだな」
「うん。それにさ、晋助ならすぐに他の子がみつかるわよ。
どのみち江戸に帰れば女なんてよりどりみどりだしね、あのお坊ちゃんは」
「そうか断るのか。――それは良かった」
「え?」
「い。いや。・・・奴が抜けると確実に戦力が落ちる。良くはないな、良くは・・・!」
「そーよねー。ねぇ、あんたから話してみたら、あいつが留まってくれるように」
「そっ、そうだな、も、戻ったら、早速、説得してみるとしよう・・・!」

一体何があったのか、ヅラの様子が話の途中からおかしくなる。そわそわと落ち着きがなくなった。
あと僅かになった弁当箱の中身をわしっと掴むと、あたしのぶんの卵焼きまで食べてしまう。
「うん、そうだな、それがいい、そうしよう・・・!」
うつむいてもごもごと頬張りながらの独り言は、口調が妙にしどろもどろで変だった。




「 What a wonderful world !  *青藍(前編) 」
text by riliri Caramelization 2012/06/30/

 next