そのちょっとした痛みは、目指していた祠に着いたあたりから感じていた。
けれど山育ちで足には自信があったものだから、たいして気に留めるようなことじゃ
ないとたかを括って歩き続けた。――その過信が災いしたみたいだ。気付いた時には
下駄の鼻緒を挟んだ足の指の間に妙にぬるぬるした感触が生まれていたから、
先を歩くヅラに声を掛けて立ち止まった。
着物の裾をちょっと引き上げて、下駄履きの足元を見下ろしてみたら――
「鼻緒が食い込んだのか。・・・爪先まで血塗れだな、痛むか」
「平気よこのくらい。でも傷に何か巻いておかないとね」
「そうだな。手当てついでに少し休むといい」
うん、と情けない気分で答えながら、山道を半分塞ぐようにして構えた大きな岩に腰掛けた。
下駄を脱いで足先を見下ろす。鼻緒が擦れた指の間は皮膚が破れて血が滲んで、触るとひりひりと痛む。
買い出しだ水汲みだと毎日のように山道を上り下りしていた頃は、この程度の遠出でこんな
ことにはならなかった。たった半年の都会暮らしで、あたしの足は随分と鈍ってしまったみたいだ。
「どれ、手当てしてやろう。貸してみろ」
「ああ、いいわよ。自分で出来るから」
「そう遠慮するな」
傷口の手当てに使うつもりで取り出した手拭いを、ヅラは掴んだ。しゅっと引いて取り上げられる。
あたしは目を丸くしてその手を眺めた。めずらしい。こいつらしくもない強引さだ。
ヅラはその場にしゃがむと、手拭いを縦に細長く裂いていく。
「」
「うん?」
「足を出せ」
うん、と返事して、岩に乗せていた足を下ろす。ヅラはちょうど目の高さになった傷口を
じっと目で確かめる。「そう深くはないようだな」と安心したように言いながら、広げた手のひらに
あたしの足裏を乗せて持つ。触れられた瞬間、妙な感じが肌に湧いたけれど。
――何もなかったふりで無視することにする。
即席の包帯の端を口に咥えると、うつむいた顔は前髪で隠れてほとんど表情が見えなくなる。
よかった。目が合うと必要以上にこの状況を意識しそうになって、なんだかお互いに
気まずいことになりそうだ。・・・それにしたって、こんなこと。
まだ子供だった頃に、母さんに手当てして貰って以来かもね。
照れ臭さを紛らわすためにわざとあれこれと小さな頃のことを思い出しながら、
あたしはヅラの手許を黙って眺めた。
「・・・ええと。悪いわね、足手まといになっちゃってさ。あんた、急いで帰るつもりだったんでしょ」
「・・・・・」
「うん?」
「実は。・・・もう一つ尋ねておきたいことがあるのだが」
傷口に白布を巻きながら唐突に切り出してきた口調は、やけに緊張していて固かった。
ごほん、と咳払いを打つ。その仕草もちょっと固くて、なんだか緊張気味に見える。こっちがじっと
ヅラの様子を眺めていても、妙に深刻ぶった顔して黙りこくっちゃって気付きやしない。
「はいはい何よ。そんなにもったいつけてないで、何でもばんばん聞きなさいよ。
男に襲われた時のことまで白状させられたんだもの。もう何だって白状してやるわよ」
任せなさい。
逸らした胸をとんとん叩いて、空笑いで請け負った。
秘密にするつもりだった晋助との遣り取りを辰馬が見ていて、それをこいつにまでバラされたことで
半分自棄にもなっていた。もう半分は、男に足を触られて動揺する自分を見抜かれたくなかったせいだ。
何だろう。晋助とのことだろうか。それとも、――こいつも薄々勘付いているらしい、もう一人の
ほうだろうか。顔で笑って内心では冷や冷やしながら、手を止めてあたしを見つめる真面目顔の男に
仕方なく張った虚勢だけを頼りにへらへらと笑いかける。
ところが違った。持ち掛けられたのは、そういう類のきわどい問いかけでも、何でもなくて。
「どうして俺だけ「ヅラ」なんだ」
「―――、はぁ?」
「銀時も坂本も高杉の奴も、お前は皆を名前で呼んでいる。なのにどうして俺だけ「ヅラ」なんだ」
「どうしてって・・・・・・・・そんな顔してるから何かと思えば。ちょっと、なによもう、そんなこと?」
「そんなこととは何だ。俺は真剣だぞ、お前も真剣に答えてくれ」
「いやだから。そんなことで、真剣にって、・・・・・・・・・・・」
力んでいた肩をがくりと下げる。ははは、とあたしはヅラを見下ろして力無く笑った。
「俺は真剣だ」って・・・そんなの言われなくても顔見たら判るわよ。
まぁ、あんたはいつだって、年中無休で朝から晩まで、絵に描いたような
真面目くさった顔してるんだけどね。
「・・・あのねぇ。そんなの、わざわざ問い質されるような理由なんてないわよ。
他の奴らの真似しただけよ。だってあんた、皆にそう呼ばれてるじゃない」
事実をそのまま伝えたら、ヅラはぎゅーっと大袈裟に眉を寄せる。
何か盛大に言い返したそうな顔で口をぱくぱくさせていたけど、結局何も出てこなかったらしい。
仕方なく絶句した生真面目そうな顔が、今にも「何故だ、納得がいかん」と迫ってきそうな
表情で歪んだ。どんな質問が来るかと待ち構えていたあたしは心の中では肩を撫で下ろして、
拍子抜けした気分で次の言葉を待った。けれどヅラは口を開くことなく、無言でゆっくりと
行動に出た。言葉じゃなくて態度で示してきたのだ。
――足の裏を持ち上げていた手の力加減が、だんだん変わってくる。少しずつ強くなってくる。
綺麗な顔の印象には似合わない、頑丈そうで傷だらけの指が動く。手のひらに
乗せていたあたしの汚れた爪先をそっと握られたから、どきっとして足が震えた。
まるで大事なものでも取り扱うように。指全体を使って、やけに熱い肌の中に包み込んで。
「奴等の呼び方などどうでもいい。俺は、お前にはちゃんと名を呼んでほしいのだ」
「・・・・・っ」
そのひとことで、立場はすっかり逆転してしまった。
今度はあたしが絶句させられる番だった。もごもごと口籠って、目を白黒させてヅラを見つめて、
「・・・・・・・・・・・・・・・・・ば。ばっかじゃないの」
包まれた足先のくすぐったさにごくりと息を飲んだ。自分でもどうしてこんなに
焦っているんだろうとは思ったけれど、それも当然といえば当然だ。滅多に人に触られる
ことがないところを――ちょっと触られただけでもくすぐったく感じる素足を、男の手の中に
握られてるんだし。普段は目線の高さがあたしより上なこいつに、上目遣いに見上げられてるし。
そのうえ、妙に意味深で真剣な態度で「名前で呼んでくれ」と足元にかしずいて迫られてるんだから。
あはは、とかろうじて絞り出した笑い声がすっかり動揺しきっていたことくらいは見逃してほしい。
ていうかこれ。・・・なによこれ。・・・何なのよあんた、何よその手。何やってんの?
相手がどこかのおしとやかなお嬢さまや、由緒正しいお姫さまだったらまだ判るけど、
・・・いったいどこの誰と間違えてんのよ。相手はあたしよ?
こんな山育ちの猿みたいな田舎娘に。怪獣に例えられるのがせいぜいな女にかしずいちゃって・・・!
「は、放してってば!」
「放すぞ。お前が答えてくれたならすぐに放してやる」
「ななな、なによこれっ、銀時たちが見たら腹抱えて笑うわよ!?」
「・・・はて、妙なことを言うなは。この場には俺とお前しか居ないではないか」
人目を気にする必要がどこにある。
心底不思議そうにヅラが尋ねてきてから、あたしは自分が掘らなくていい墓穴をさらに
掘ったことに気付いた。そうだ、この場に居るのは二人きり。あたしとこいつだけで、
なのにこいつは状況の微妙さなんてどこ吹く風で人の足を握っている。意識しているのは
あたしだけだ。・・・ああいたたまれない。困っているうちに握られた足がじわじわと熱を
持ち始めて、心臓の動きが早くなって身体が火照って、しまいには顔までかぁーっと熱くなってくる。
・・・いや、そんなことはもうどうでもいい。いいからお願い、とにかく足を放してよ、足を。
この恥ずかしさでもんどり打ちたくなるような、身体中がむずむずしちゃってたまんない
状態から一秒でも早く解放して・・・!!
「あ、あんたねぇ・・・ちょ、何なのもうっ。どうせ意味も無くやってるんだろうけどさ、
おかしいわよ、何よこれ。あたしだったからよかったものの、こういうのって女にとっては
要らない誤解を招くっていうか、・・・ほいほいとやっちゃいけないことなんだからね!?」
「誤解?誤解とは何だ。何の誤解だ?」
「〜〜・・・っ。わかったわよ、もういいわよっ。呼べばいいんでしょ呼べば!」
「そうだ。試しに呼んでみてくれ」
「えっっ。い、今呼ぶの」
「ああ、今がいい」
「・・・・・・・はいはい、呼べばいいんでしょ呼べばっっっ」
もうこれ以上にうろたえた表情を見られるのは御免だ。ぷいっと、思いきり横に顔を逸らして、
「・・・・・・こ。・・・・・・・・・・小太郎・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・」
あたしたちの声以外には鳥の鳴き声くらいしか響かない静かな山の雑木林に、何とも言えない
気まずすぎる沈黙が流れた。
――恥ずかしい。もう嫌だ、逃げたい。
頭の中をそれだけがぐるぐる渦巻く。言い終った瞬間に足を握り締めた手を振り払って逃げたかった。
それにしてもひどい。とても芸妓になろうって女とは思えない、目も当てられない男のあしらい方だ。
こんなズタボロなあたしを見たら、置屋のおかあさんは深々と溜め息をついて嘆くだろう。
何よ今の声。緊張して何が何だかわからなくなっている学芸会の子供並みにひどい、
緊張がだだ漏れになった声。名前を呼ぶだけっていう、短いだけにごまかしがきかない台詞が
却って災いしてしまった気がする。
・・・情けないったらありゃしない。あたしはこんなことで、本当に芸者になんて
なれるんだろうか。頭を抱えて真剣に悩み始めたころに、預けっ放しの足元から、
ふっ、と控え目な笑い声が上ってくる。見ればヅラは、とっくに包帯を結び終えている。
下駄をあたしの足に履かせながら、押し殺した笑いにくつくつと肩を揺らしていた。
「なっ。なによっっ。これでいいでしょっ、何か文句でもある!?」
「いや。文句などないぞ」
俺にはそのひとことだけで充分だ。
言いながらヅラが顔を上げると、肩を覆う長い黒髪がしなやかに流れる。目を細め、
何の衒いもなくまっすぐにあたしを見上げた表情は、満足そうで穏やかな笑みを湛えていた。
そう、とだけつぶやいてあたしは黙った。
独り言のように静かに漏らした意味深な台詞は、聞かなかったつもりでやり過ごした。
「――さあ、行くか。夏場で日が長いとはいえ、先を急がなくてはな」
「・・・そうね、うん。行こうか」
「」
「〜〜ちょっ、もうやだ喋らないでよっ。また妙なこと言い出されたらたまったもんじゃ、」
「いや。・・・・・―――何か聞こえないか。この林の向こうだ」
「え?」
きょとんとして尋ね返して、周囲を流れる風のざわめきに耳を澄ました。
やや経ってから、ばさばさ、ざわざわと木々が大きく揺らされる音がようやく耳に響くようになった。
何かが来る。正体が知れない何かの気配を感じとって、背中にぞくりと怖気が走った。
仲間かもしれない。獣かもしれない。まだわからない。――でも、天人かもしれない。
そう思って、目には見えない藪の向こうの不気味さに固唾を呑んだ。
誰かが来る。走って来る。
がさがさと雑木を掻き分け枝を踏み、林の緑を荒らしながら、あたしたちのほうへ一直線に――
「…足の早い奴らしい。これでは逃げる暇もないな。、お前は岩陰に隠れていろ」
声を出すな。何があっても、俺がいいと言うまで隠れていてくれ。
さっきまでは穏やかだった表情が変わる。すっと立ち上がった青い羽織姿が、
傍に立っているあたしにまで伝わってきそうな、ぴりぴりした緊張感で包まれていく。ヅラは刀に
手を掛けた。柄を握り締めて音もなくすらりと引き抜き、次第に音が迫ってくる雑木林のほうへ
立ち向かっていく。二人ぶんの荷物籠を急いで抱えて、言われた通りに岩陰に隠れようとしたら、
「――いや。違うな。この足音・・・・・――」
不思議そうにつぶやくと、なぜかこっちへ戻ってくる。不安に顔を強張らせていた
あたしを背に庇うようにして立ち塞がる。両手で握った刀の構えは、雑木林に向けたまま
崩そうとしなかった。すると、ざざっと藪の薄暗さを割って、獣にしては大きな何かが
そこから躍り出てきた。目の前が眩暈がしそうな血臭で曇る。雑木林の葉を周囲に撒き散らし、
鮮血に濡れた刀を握って現れたのは、袖や裾を深紅に染めた白の羽織姿だ。ヅラはその姿を
確かめるが早いが、途端に刀を鞘に納める。あっけにとられているあたしから離れ、
そいつの許へと駆け寄った。
「銀時・・・!」
「・・・・・・っ、てっめぇ、どこまで行ってもいやしねーと思ったら、まだこんなとこで、
・・・・・ははっ。んだよ二人とも無事じゃねえかよ。どんだけ探したと思って・・・」
女とのんびりお散歩ですかこのヤロー。こっちは山の中腹から下り坂全力疾走で膝ガクガクだっつーの。
前屈みになって膝を掴み、ぜぇぜぇと息を切らしている銀時はひどく苦しそうだ。それでもいつもと
変わらないとぼけた顔で憎まれ口を叩いてみせた。細い白布を巻いた額からは、大粒の汗が絶えず
ぼたぼたと流れ落ちてくる。肩には何か下げていて――よく見れば、それはあたしが野営地に
持ち込んだ泊り用の荷物だった。
「銀時どうした。何があった!?」
「奇襲だ、昼過ぎに天人どもが襲ってきやがった。全員逃げたが野営地はもう駄目だ。
高杉と辰馬が山中で仕掛けるっつって他の奴等を連れてったが、天人どもの数が昨日までの倍だ。
とても夕方まで持ちそうもねえ」
「・・・!」
表情を固くした銀時が早口に語った戦況に、ヅラとあたしは青ざめた。
銀時は額の汗を腕で拭いながら、たった今出てきたばかりの藪を振り返って、
「ヅラ、お前の帷子と防具は新入りが持ってる。今頃この藪の中ぁ走ってるはずだ」
それを聞いたヅラは、頷くこともせずに銀時が来たほうへ走り出した。藪の雑木を
がさがさと手で避けながら、青い羽織を重ねた後ろ姿が遠ざかっていく。
途中で思い出したように振り返って、大声を上げて。
「――銀時、を!」
「おぅ、んなこたぁいいからさっさと行け!」
銀時とヅラがそんな遣り取りをして、藪を探る音や足音が遠くなって。羽織の青が雑木の緑に
紛れて見えなくなっていくうちにも、銃声や騒音が近くなっている。今はまだ遠い、霞んだ音。
けれど、確実に、少しずつこっちへ迫っている。銀時の視線は絶えずちらちらと横に逸れていた。
明らかに背後からの音を気にしている。――残してきた仲間のことを、気にしてるんだ。
ここでこうしている間にも、仲間の誰かが怪我を負っているかもしれない。誰かが命を
散らそうとしているかもしれない。そんなことを考えていそうな焦りの色が、汗が滲んだ
表情を翳らせていた。
「・・・・・・・ねえ、銀時、」
「――、悪りいけど途中までしか送ってやれねえ。麓が見えるあたりまで」
「銀時、戻って。あんたもヅラを追いかけて。皆のところに戻って・・・!」
銀時に飛びついて頼んだ。洗っても取れない血の跡がところどころに残ったままの、
白い羽織の袖を――戦場では誰よりも頼りにされている奴の腕を、ぎゅっと握り締めて。
「はぁ?馬鹿言え、奴等ぁそこまで来てんだぞ?聞こえんだろ砲弾の音が!」
「あたしは平気よ、山には慣れてるもの。どんな獣道だって歩けるし、沢伝いに山を降りる
方法だって子供の頃から習ってる。何があっても上手く逃げられる。だから戻って、銀時」
あいつらのところに戻って、今すぐに。
強張った声で早口に頼み込んだ。こんな最悪な戦況だ。あたしが問い質したって銀時は
認めやしないだろうけれど、本音では仲間を心配しているはずだ。一刻も早く山道を
駆け上がって、今もこの山のどこかで戦っている奴らの援護をしたいに違いない。
お願い、と腕に縋った手に力を籠める。それでも銀時はまだ迷っているみたいだった。
「・・・・・お前、大丈夫か。本当に平気なのかよ」
「当然でしょ。あたしのほうがあんたたちより山には詳しいんだからね」
「・・・んなこと言ってお前、そのへんで敵に見つかって無駄死にしやがったら許さねえぞ」
「そこまで間抜けじゃないわよ。ほら、いつまで油売ってる気?早く行って」
「・・・・・・・・・」
銀時の目が、何か強固な決心をつけたような真剣さであたしを見据える。ふっと眉を下げ、
困ったような笑みを浮かべると、黙って荷物を押しつけてきた。素早く周囲を見渡して、
あれだ、とつぶやく。あたしの肩を力強くぐっと抱いて、木が密集しすぎて木漏れ日すら
射さない、真っ暗な雑木林へ向かって走り出した。あたしはその足の速さについて行くのが
やっとだった。とてもあのぐうたらな銀時とは思えない俊敏さだ。ちょっと気を抜くと木の根に
躓いて転んでしまいそうになる速さで駆けていって――
「暗くなるまで待ってから動け。ああ、山道伝いは危ねえからな、川沿いに降りろよ」
山育ちのお前ならやれんだろ。
早口で畳みかけるように言い終えると、抱いていた肩をぱんと叩く。身を隠すには格好の、
一際に緑が深く生い茂った木立に向けて押し出した。
「じゃーな。天人どもに見つかるんじゃねーぞ」
「うん、大丈夫よ。あんたこそ」
(あんたこそ気をつけて。)
それだけを伝えて別れるつもりだった。
なのにいざ言おうとしたら、言えなくなった。何か胸の奥につかえているものが邪魔をする。
荷物を胸に抱きかかえ、銀時の背中を見つめて立ち竦むあたしの中で、それはみるみるうちに
色んな感情を渦巻かせながら膨らんでいった。
「―――― ぎ、・・・銀時っ!」
気が付いた時にはあいつを呼び止めていた。すでに背を向けて藪へ飛び込もうとしていた
銀時がぴたりと止まる。
少し間を置いてからぼりぼりと頭を掻き出して、いかにも面倒そうな顔で振り返って。
「あぁ?んだよ、何。すぐ戻れって言ったのおめーだろぉ」
「死ぬんじゃないわよ・・・!」
言ってしまってからはっとして、思わず口を抑えた。
――今でも判らない。どうしてあの時に、そんなことを言ってしまったのか。
これまでは思っていたって一度も口にしなかったことを、――口にしたら最後、
どんどん不安が溢れてしまいそうで秘かに封印していたことを、どうして口に出したのか。
今でもそんなことを思い出してふと考え込んでしまうくらい、あの時のあたしは必死だった。
身体の中でもやもやと膨らんでいた感情はあっというまに溢れ出した。何の取り繕いも臆面もない
素っ裸の言葉になって、止める間もなく口を擦り抜けて飛び出していた。
言い出したあたしでさえ、柄にもなく弱気な自分に呆然としかけたのだ。言われた銀時は
なおさら驚いたようで、何が起きてもすっとぼけているあの半目が珍しくぽかんと見開かれた。
「・・・・・・・・・ははっ。っだよその必死な面ぁ、」
言いながら、何かこらえているような顔になって。その直後、ぷっ、とたまりかねたように吹き出す。
さらにげらげらと腹を抱えた大笑いに突入した。あたしを指して「ぁに言ってんのお前ぇ」と憎たらしい
馬鹿面でからかってきた時には、あたしはさっきまでの不安も忘れてすっかりむくれていた。
…少なくとも、恥ずかしさのあまり一発殴ってやりたいくらいの気分にはなっていたと思う。
「なに。なにお前ぇ、もしかしてよー。前からずーーーっと、んな柄にもねえ心配してたのかよ?
ははっ、ばっかじゃねーの。つーか誰に向かって言ってんだぁ?それ」
お前だって知ってんだろぉ。俺がここいらで暴れてる奴らや天人どもに何て呼ばれてるか。
笑いすぎて涙が浮かんだ目元を手の甲でごしごしと擦った銀時は、すっかりいつもの気抜けした
ふやけた顔に戻っていた。まだ可笑しさが収まっていないようで、にやにやとあたしを眺めている。
「だ。だって・・・・・!」
「あのなぁ。俺ぁそう簡単には死なねえし、ヅラや高杉や辰馬のバカや
他の奴等だって同じだ。どいつも殺したって死にゃあしねえよ」
「・・・・・っ」
「だからお前は安心して江戸に帰れ。自分の身の心配だけしてろや」
じゃあな。またな。
妙にさっぱりした清々しい顔つきで笑いながら、白の羽織姿は踵を返した。来た時と同じように
がさがさと藪を割って、遠くからの銃声が響く深緑の雑木林へと慌ただしく消えていった。
清らかだった山の空気は、それからすぐに掻き消されてしまった。硝煙のきな臭い匂いが、
血の匂いが、何かが焼け焦げる匂いが、――全身が勝手に震えるような、嫌な匂いばかりが立ちこめる。
あたしは地を揺らす荒々しい足音や、天人らしき声、砲弾らしい派手な爆音が遠ざかっていくまで、
そこで息を殺してじっと日暮れを待った。黄昏の視界の悪さに乗じて、かなり苦労しながら
沢伝いに山を降りて。麓の村に着いた頃にはもう朝日が昇りかけていて、身体はどこもくたくたで。
それでもどうにか無事にバス停まで辿りついて、その日には江戸まで戻ることが出来た。
――それからの時間はあっという間に過ぎていった。
結局、予定の半分で切り上げた夏休みの残りは、置屋の見習いとして
普段の毎日と変わりなく過ごすことになった。けれど普段と変わりがないはずの
毎日は、それまでと同じ心持ちではいられない、ひどく落ち着かない毎日でもあった。
夏が終わって、置屋の姐さんたちが秋らしい深い色合いの着物に衣替えする日がやってきた頃には、
あたしは毎日昼前にやってくる郵便屋のバイクの音を、首を長くして待つようになっていた。
そのうちに郵便屋を待つだけでは飽き足らず、神頼みに走るようになった。
――どうか。妙に筆まめなヅラが送ってくれるあの手紙が、どうか届いてくれますように。
毎日のように近所の神社へ祈りに行った。神様が匙を投げるくらいには不信心なあたしがこんな時だけ
神様に頼ったって、効き目のほどは目に見えるというものだ。それでも何かしないでは
いられなかったから、あたしは通った。通い詰めた。
秋が終わって冬を迎えても、江戸では数年に一回という大雪が降った日でも通い詰めた。
新年が来て、冬から春へと季節が移って、いつのまにか風が温かくなっていって、
江戸の街を咲き乱れた花が彩っても。
見習いから半玉になってお座敷に上がらせて貰うようになってからも、あたしは奴らの無事を
願うために、毎日のように神社の石段を駆け上がった。少ないおこづかいを賽銭に費やすのは、
正直痛かったけれど、それでも毎日詣でていた。
だけど。
――戦が終わる直前の、国中の誰もが疲弊しきっていたご時世の話だ。
この国を見守っている神様だって、人間たちが勝手に押しつけてくる願い事の多さに
すっかり疲弊しきっていたんだろう。百や数百の取りこぼしがあったっておかしくはない。
あたしの願いは、叶わなかった。
いくら待っても届かなかった。それまではこまめに送られてきていた戦地からの手紙は、
あの夏を境にふつりと絶えたままだった。それでも、どうしても諦めきれなくて、
あの頃のあたしは、毎日神様に縋るような気持ちで待ちわびていた。
半玉として迎えた最初の夏の忙しさは、稽古に座敷にとすさまじかった。何かに没頭していれば
その時だけは不安が軽くなる。だから寝る間も惜しんで踊りの鍛錬に励んだ。
お姐さんたちの足を引っ張ることがないように。お客さまに楽しんでもらえる芸者になれるように。
その二つだけを考えて、芸事とお座敷に明け暮れる日々を無我夢中で過ごした。
その間も、行方知れずのあいつらを片時も忘れたことは無かった。
なのに音沙汰無しは相変わらずで、修行中の忙しい生活に追い立てられるように、
あっという間に時間は過ぎる。季節はめまぐるしく変わっていく。
――深緑の林の中へ消えていく銀時の背中を見送った、あの夏。
戦に暮れる奴等と山奥で過ごした、あたしの短い夏休み。
江戸に出てからも懐かしく思っていたあいつらの許へ戻って、一緒に笑っていた最後の夏。
あの夏から数えて二度目の秋が、もうすぐ江戸に訪れようとしていた。
「 What a wonderful world ! *青藍 」
text by riliri Caramelization 2012/06/30/
最後までヅラ呼ばわりでごめんヅラ。遅刻しましたが祝お誕生日 おめでとうおめでとう!!!
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