――夕刻にいそいそと出かけた局長が、夜半過ぎにはひどい怪我を負わされボロ雑巾のごとき風体で帰ってくる。
近藤がかぶき町のキャバ嬢に惚れて日々付き纏うようになって以来、それはもはや真選組局内の誰もが見飽きた馴染みの光景と化していた。
とはいえその光景が拝めるのは夜だけではない。
最初は店に通い詰めるだけだったが、今となっては昼夜を問わずに彼女を追い回す状態だ。
その日も近藤は、朝から彼女の自宅に押しかけていたらしい。
昼過ぎに屯所へ戻った彼は、顔に鼻血を垂れ流し隊服は破れて右腕がノースリーブ状態。
沖田が会った時には救急箱片手に左足を引きずり、廊下を行く隊士たちの視線を浴びつつよたよた歩く有様で――
「大丈夫ですかィ近藤さん。あーあぁ、またこっぴどくやられちまって」
「なぁに、たいしたこたぁねえよ。やっちまったのは脚だけで、腕はほらこの通り!」
額に掛けたアイマスクを外しながら沖田が彼に寄って行くと、近藤はいつもの人懐こい笑みを浮かべた。
袖が千切れた右腕をぶんっと豪快に振り上げようとしたが、
「・・・ん?あれっ、おかしいな、上がらねーなぁ右腕」
「やめときなせェ、肘から先がプラプラしてらぁ。それ、たぶん関節ごと外されちまってますぜ」
「えっ、マジで!そーいやぁ帰りの運転が上手く行かねえっつうか、どうも遣り辛れぇなぁと」
「あんた今頃気付いたんですかィ」
ところどころが寝癖で跳ねた頭の後ろを掻きながら、沖田は黒の隊服を引っかけた肩を竦めてみせる。
――近藤さんにも困ったもんだ。いや、呆れたもんだ。あの女のせいですっかりイカれちまってらぁ。
どれだけ痛い目に遭わされたら、あの凶暴なぼったくりキャバ嬢への入れ揚げっぷりがおさまるのか。
本人の談によると、どうやら今日も女から殴る蹴る締め上げるの一方的な暴行を受けたようだが・・・恋は魔物、とはよく言ったものだ。
ストーカー化してまうほどこの恋にのめり込んでいる近藤にとっては、関節外し、なんて下手をすれば致命傷ものの大技さえも、可愛い女のどうってことない悪戯に思えるらしい。
「あれぁ俺が近寄りすぎたせいで照れたんだな、恥ずかしがり屋さんだからなぁお妙さんは」
なんてことを言いつつもでれでれと崩れきった表情は、よく見れば沖田が知る誰かと似ているような気がしてきた。
しばらくぼーっと話の続きを聞くうちに、あぁ、と彼は色素が薄い大きな瞳をぱちりと見張る。
そうか、あれか。これは誰に似てるって、屯所近くの猫の溜まり場で馴染みになった爺さんだ。
猫好きなその爺さんは最近新たに黒ぶちの仔猫を拾ったとかで、やんちゃなそいつに顔だの手だのを引っ掻かれたことをやけに嬉しがって自慢していた。
「それでな総悟、今日のお妙さんは卸し立ての山吹色の着物がよく似合って、そりゃあもう天女のような美しさでなぁ」
「あぁ、そういやぁ前に街で顔合わせたときもそんな着物を着てたような」
「だろ、似合ってただろ!?まぁお妙さんほどの美女となれば、何を着たって似合わねぇはずがねえんだがな!
それでな総悟、お妙さんが台所で昼飯作ってる時に」
「・・・・・・」
起き抜けで眠そうな目をしぱしぱと瞬かせながら、ふぁぁ、と沖田は生欠伸を漏らす。
自然と湧いた涙をごしごし擦りながら「はぁ」「へーぇ」と生返事を繰り返せば、近藤の弁舌にも熱が籠ってさらなる惚気が飛び出し始める。
身振り手振りを交えながら熱く語る男を前に、沖田は湧いてくる欠伸をこらえながらも黙って待った。
これが他の奴であればすぐにこの場を立ち去るが、相手が近藤なら話は別だ。ようやく話が途切れたところで、近藤が持つ救急箱に手を掛けて、
「部屋に戻るんでしょう。俺が持ちます、貸してくだせェ」
「ん?そうか?けど、お前これから出掛けるんじゃねえのか」
腰の刀を指されたが、いいえ、と沖田はしれっとした表情で首を振る。
「別にどこにも行く予定はねーですぜ。
自分の部屋で寝ちまうと土方の野郎が怒鳴り込んできて煩せーんで、どこか昼寝にいい場所はねーかと探してたんでェ」
「ははは、総悟ー、お前少しは仕事してくれよ・・・」
「そーですねィ、近藤さんの部屋で昼寝して目が覚めたら考えまさァ。さ、行きやしょーか」
苦笑いする近藤の背を押し、自室のほうへ向かわせる。
その後に続いて踏み出した沖田は、ふあぁぁぁ、と伸び上がって大欠伸を漏らした。
昨日寝つきが悪かったせいだろうか。午前中には二度寝もしたし昼飯後にも一寝入りしたのに、まだまだ寝足りない気がする。
ちちち、とさえずる鳥の声がやけに甲高く耳に刺さるし、縁側から降り注ぐ真昼の日射しはうんざりするほど明るくまぶしい。
軒上の澄んだ青空をどことなく疎ましげな目で眺めた彼は、その場を通る隊士たちの「沖田さんまたサボってたのか」といった視線も気にすることなく近藤の後をついていく。
今日は空気もからりと乾き、この時季にしては上々な天気だ。
空を眺めながら歩いていけば、頭や肩がほんのり温くて心地いい。
この陽気だ、普段なら近所の甘味屋あたりでもひやかしに行くところだ。しかし寝不足が祟っているのか、今日はどうも遊びに行く気が湧いてこない。
それなら人気がない稽古場に行って、昼寝の続きでもと思っていたが――利き手が使えねぇあの状態だ。
関節も戻さなきゃなんねぇし、大雑把で不器用なこの人じゃ、掠り傷の手当もままならないだろう。
手に提げた救急箱をぷらぷらと揺らしながらそんなことを考え、沖田は近藤の隣に並んだ。
「しっかしわかんねーなぁ、近藤さんも。あの凶暴女の一体どこにそこまで惚れ込んじまってるんです」
「ははは、まぁ俺もたまに不思議になるが、こればっかりは理屈じゃねぇからなぁ。
なぁ、お前も最近はその辺りが判ってきたんじゃねぇか」
「俺ですかィ?いやぁ、俺ぁそーいうこたぁさっぱりですから」
「・・・・・・へ?いやいや、けどよー、さっぱりってこたぁねえだろう?」
「いやいや、さっぱりわかりやせんねぇ。惚れた腫れたなんてもんは面倒くせーだけだし、わかりたくもねーや。
・・・ってまぁ、そんな俺が言うのも何ですけどね、近藤さんも少し頭ぁ冷やしてみたらどーです」
(あんた、どーして毎日そんな目に遭ってるか判ってんですか。)
(女になんざ本気で惚れちまうから、そんなことになるんですぜ。)
近藤の自室に入って隣に座り、救急箱を開けながら沖田は思う。
あの女絡みとなると一喜一憂してばかりの近藤の気持ちを尊重して、口に出すのは止めておいたが。
その近藤はというと、そんな沖田に意外そうな目つきを向けていた。どこもかしこも破れまくった隊服の黒い上着を脱ぎながら、
「ところで総悟、さんとはどうなんだ」
「・・・。どうって、普通じゃねーですか。生意気でいけすかねー女なんで、俺ぁ気に入らねーけど」
あまり整理整頓がなっていない中から消毒薬や脱脂綿を見つけて取り出し、ちっ、と沖田は舌打ちする。
次に絆創膏を探そうとした手は、彼の急な不機嫌をそのままに表し箱の中身をごちゃごちゃに掻き回し始めた。
とは昨日から冷戦状態だ。
否応なしに組み敷かれた二度目どころか沖田の気が済むまで付き合わされた一昨日の夜が、本気で気に食わなかったらしい。
何かといえば寄ってきて沖田をからかっていた女が、用がなければ彼の傍には寄りつかなくなった。
どうしても顔を合わせなければならない時は、あの人を小馬鹿にしたにやけ顔が別人のように凍りつくという、珍しい現象まで起こるほどだ。
もう顔も合わせたくない、とが思っていそうなのは、沖田にも、そして彼女の異変に気付き始めた一番隊の隊士たちにも一目瞭然だった。
――昨日も、今朝もそうだった。
いつものムカつく笑みが消えた無表情で業務報告を上げる時以外は、は一度も沖田と目を合わせようとしない。
俺にあいつの機嫌を取ってやる気がねぇ以上、たぶん明日もそうなるだろう。
これからのことを考えると、自然と口が重くなる。しかし近藤には悟られないよう、沖田は口調を明るく変えた。
「何やらせても器用にこなすし、今んとこ特に失態もありやせん。
口は悪りーけど恨みは買わねぇ性質らしくて、隊の奴等ともまあまあ上手くやってますぜ」
「いや、職務上の話じゃねえよ。つまりあれだ、彼女とはうまくやってるかってぇ話だ。・・・ああ悪い、これ、脱がせてくれねぇか」
「へーい」
差し出された隊服の左袖を腕から引き抜き、ついでに後ろへ回って破れた隊服を広い背中から剥がしてやる。
すると近藤が、ちらりと振り向き沖田を見遣る。何か面白いことでも見つけたかのような、悪戯っぽい笑みをにんまりと浮かべて、
「トシから聞いたぞ。お前があの子を気に入って、仲良くやってるらしいって」
「別に気に入っちゃいませんぜ。俺ぁ近藤さんの言いつけどおりにしてるだけでさァ」
「言いつけ?何だそりゃあ、俺ぁお前に何か言ったか」
「何でェ忘れちまったんですか、あいつが入隊した時に言ったじゃねーですか。
女隊士を登用したもののすぐに逃げ出されたんじゃ困る、最初のうちはお前が面倒みろ、男どもよりも手加減してやれって」
『うちの訓練に耐え抜いた唯一の女子で、今後の女性隊士登用の試金石となる人材だ。
ここはどこも男だらけで若い娘にはキツい環境だろうし、お前が気ぃ使ってやってくれねえか。多少のことは大目に見てやってくれ』
を入隊させる直前、近藤は沖田にそう頼み込んできたのだ。
せっかく採用した初の女隊士だ。気に入らねえ奴をイビり倒すのが趣味の俺に、まんまと餌食にされては困ると思ったんだろう。
まぁ、頼み込んできた本人は既に記憶がないらしいので、今となってはその辺りも定かではないが。
「だから俺ぁ、近藤さんの仰せ通りに目ぇ瞑ってやってるだけですぜ。でなけりゃ誰があんな生意気な女。何かってぇと年上面しやがって、可愛げのねぇ」
「そうかぁ?たしかに気の強いところはあるが、あれぁお前の副官になった以上はしっかりしなきゃいけねえって気を張ってるせいだろ」
ぶらりと垂れた右腕を、指の節が高くて頑丈そうな左手が肩の高さまで持ち上げる。
「まぁはっきりした性格というか、言うこたぁ最初っからキツかったがなぁ」などと笑い混じりで口にしながら、近藤はぐっと力を籠める。
うっ、と呻いて眉を顰めつつも鈍い音で関節を鳴らし、自力で肘を嵌め直していた。
関節の具合を確かめるために何度か腕を上下させながら、
「お前の前じゃどうか知らんが、あれぁ根は優しい子だぞ。何か月か前になるが、すまいるからの帰りに彼女に会ったんだ。
その時にさんがえらく心配してくれてなぁ。夜中の遅い時間で疲れてるだろうに、親切に手当までしてくれた」
「あぁ、その話なら聞きやしたぜ。随分と驚いてましたねェ、キャバクラ行ってどーやったらあんな大怪我負えるもんかとか、
局長が連日キャバクラ通いなんてもっての外だ、どうして野放しにしてるんだとか」
「はは、そうか、あの子はお前に話して聞かせたか。で、お前は彼女から数か月も前に聞いた話を覚えてるってわけだ」
「・・・・・・。何です、そのにやついた顔。妙な勘繰りはやめて下せぇ」
救急箱の前に腰を下ろすと、沖田は拗ねたような目で近藤を睨む。
しかし近藤はそんな彼を「まぁそう怒るなよ」と宥めると、耳元に顔を寄せてきて
「それにな、お前の顔色窺ってんのかおおっぴらに声掛ける奴はいねえようだが、うちの奴らにも影ではなかなか人気だぞ。
特に五番隊のあれ、・・・あー、何て名前だったか、夏に採用したガタイのいい新人なんだが」
「・・・さぁ、どいつですかねぇ。心当たりがねーや」
「あれぁどうも本気らしいな。さんを見る目つきが他の奴とは違うって、いつだかトシも言ってたしなぁ」
「へーえ、そーなんですかィ。そいつぁとんだ誤解だぜ、俺のことなんざ気にしねーでおおっぴらに声掛けりゃいーのに」
(五番隊に入った、ガタイがいい奴。)
そいつは誰のことなのか。言われた瞬間に数人の顔が浮かんだが、どの男もそれらしい奴には該当しない。
沖田は適当に千切った脱脂綿に消毒薬を染み込ませつつ「ふーん、五番隊ねぇ」とあまり興味もなさそうな声音でつぶやく。
かすかに目に染みる薬品の匂いが、すうっと鼻先まで昇ってくる。
救急箱の中身を確認するふりで深くうつむき、隣の近藤の視線を避ける。
そこで彼は目元をきつく歪め、瞳と同じく色素が薄い前髪の影で細い眉を嫌そうに顰めた。
なぜ自分がこんな顔をしているのか。なぜ身体中がもやもやとした胸糞悪さで一杯になっているのか。
どちらも理由は判っていたが、考えたくなかった。何ひとつ認めたくなかったからだ。
今の彼が認めているのは、今までは特に意識したこともなく、いくら目に染みようがどうでもよかった薬臭さが、なぜか急にうとましく思えて苛立っていることだけだ。
へえ、こいつは呆れた、驚きだ。
五番隊か。どんな奴だ。まぁ、よりによってあれに惚れたんだ、女の趣味が最悪な奴には違いねぇや。
「まぁともかくだ、さんはいい子だと思うぞ。口で言うほど態度はキツくねえし、男に混じってあの頑張りは大したもんだ。
それによー、生意気そうで誤解を受けやすいってのはどこかの誰かさんも一緒じゃねえか」
「はぁ?あれと俺のどこが一緒だってぇんです」
「いやいや、よく似てるぞ。お前とあの子は」
そう言った近藤が手を伸ばし、沖田の足元から絆創膏の箱を持ち上げる。
それを沖田の前にかざすと、にいっと瞳を細めて可笑しそうに笑って、
「これだよ、これ。ズタボロになって帰ってきた俺を放っとけなくて、口じゃあれこれ言いながらそれとなく介抱してくれるんだ。
どうだ、同じじゃねぇか?なぁ、総悟」
「・・・さぁ、どーですかねェ。あいつがどうだったかは知りやせんが、俺ぁ昼寝しに来ただけですからねェ」
きまりの悪さに沖田が何気なく顔を逸らせば、ぱん、と分厚い手の平に肩を小気味よく叩かれた。
「それによー、何つーかこう可愛らしいというか、いじらしいところもあるようだし」
「ははっ、いじらしい?あれのどこがでぇ」
どんな冗談です、と沖田は細い肩を小さく揺らして笑い飛ばす。
すると近藤は途端に眉を曇らせて、
「どこがってお前・・・総悟ー、お前、少し察してやったらどうだ。あの子はなぁ」
「わざわざ教えてやるこたぁねぇぜ、近藤さん」
そんな言葉を掛けられたときには背後の襖戸がすっと開き、土方が姿を現していた。
「そんなことも解らねぇガキには、年下扱いされて不貞腐れてんのが似合いだ」
淡々とした声音で語った口許には、咥え煙草の煙が揺らいでいる。手には灰皿、脇には何かの書類を携えていた。
「立ち聞きですかィ、趣味が悪りーや」
馬鹿にしきった半笑いで言ってやったが、土方は相手にする気がないようだ。
つい半時ほど前に沖田の部屋まで乗り込んできて「もうじき夕時だぞ、てめえいつまで寝てやがる!」と凄まじい剣幕で怒鳴った男が、今は眉一つ動かそうとしない。
沖田には一瞥もくれないまま、土方は部屋の中央にある座卓に灰皿をどんと置く。
「すぐに目ぇ通してくれるか」と、近藤に書類を手渡し、かと思えば「総悟」と不機嫌そうに声を掛けてきて、
「お前どうせヒマだろ。証拠品倉庫から先週のヤマで押収した密輸入の刀剣三振り、今すぐ持ってこい」
「あんたの使い走りなんて御免ですぜ、そのへんの奴に頼んでくだせェ」
「いいから行って来い。倉庫番に話は通してある」
そう言った土方がじろりと睨み、鋭い視線で沖田を押し切ろうとする。
あぁ面倒くせぇ、と沖田は醒めきった目で土方を眺める。こういった時の土方は絶対に退かない。
ここで命令を跳ねつければ、後でもっと面倒なことになるのだ。
付き合いの長い沖田は経験上それをよく知っているし、勿論、近藤もよく知っている。
室内に静電気のようなびりっとした空気が走っても、苦笑いで二人を見守るだけだった。
沖田は仕方なく立ち上がり、畳に投げた上着やアイマスクを拾い上げて部屋を出る。
廊下へ出た彼がほんの数歩進むと、背後の障子戸はすぐさまぴしゃりと閉め切られた。
お前は邪魔だ、しばらく戻ってくるな。そう言わんばかりな素早さだ。
「・・・・・・ちぇっ。何なんでぇ」
沖田はその場に立ち止まり、むっとした表情で薄い唇を尖らせた。
庭からの日差しに照らされた床に、やけにひょろりと細長い、頼りなげな影が伸びている。自分の足元から伸びるそれを、彼は歯痒そうに睨みつけた。
――何でぇ、土方の野郎。相も変わらず人をガキ扱いしやがって。
席を外せってぇなら、口でそう言やぁいいじゃねーか。何か局内には漏らせねえような、極秘裏の話でもあるんだろうが、
・・・それにしたって、気に食わねぇ。
俺が幾つになろうと、何をしようと、自分より幾つか年下だってだけで人をガキ扱いしやがって。
どうせあの堅物には、いつまでたっても俺を一人前と認める気などないんだろう。
いや、認めてねぇのはあいつ一人じゃねぇ。 だって――
廊下に落ちる自分の影をきつく睨んだ彼の視界に、女の顔が浮かんできた。
昨夜眠りにつく前も、寝付けずに過ごした真夜中にも、寝不足で頭がぼうっとしていた今朝も、昼寝から覚めた直後にも――幾度となく目の前にちらついている顔。
の顔だ。ムカつく薄笑いがすっかり消えて表情を失くしたその顔は、一度浮かべばなかなか頭から離れなかった。
知らず知らずに力が籠った握り拳から、嫌な匂いが立ち昇ってくる。さっき使った消毒薬の匂いだ。
目の奥に染みるきつめな香りを感じた瞬間、この匂いが漂う中で聞いた五番隊の男の話を思い出した。
するとなぜかその時に胸を一杯にしていた重苦しい気分まで復活してきて、振り払おうにも振り払えないその感情の面倒さに嫌気がさした。
――近藤さん。やっぱり俺はいらねーや、こんな面倒くせぇ気持ち。
そうだ、俺にはこんなもんは要らない。自分自身に言い聞かせるように心の中でそう否定しても、胸の中の感情は重苦しく疼く。
あぁ、鬱陶しい。
ここに宿った思い通りにならないこの気持ちを、手掴みで引きずり出してひとおもいに千切り捨ててやりたい。そのほうが後腐れがねぇし、手っ取り早ぇーや。
そんな夢想に耽ってみても、縁側からの日射しを浴びる沖田の顔にはどこか不満そうな苦笑いしか浮かばなかった。
「お疲れ様です」
向こう側から歩いてきた他隊の隊士が、軽い会釈で頭を下げる。
唇を噛みしめ気味にした悔しげな表情を見せまいと、すれ違いざまに沖田は深くうつむいた。
手に提げていた分厚い上着を、ばっと翻して肩に掛ける。ようやく歩き始めた彼は、面倒くせぇ、と心底嫌そうにつぶやいた。
証拠品倉庫は広い屯所の敷地内の端だ。この隊舎から往復すれば、軽い散歩になる程の距離があった。
――これだから野郎とはソリが合わねぇ。土方の奴、こんな気分の時に面倒事押しつけてきやがって。
むっとしたまま辿り着いた埃臭い玄関口で、卸したばかりでまだ脚に馴染まないブーツをばしりと床に叩きつける。
倉庫へ行くのも面倒なら、わざわざブーツに履き替えるのも面倒だ。
それに加えて、任務から戻ったばかりの数人がわいわいと玄関内まで押し寄せてきたのも面倒だった。
「今日もサボリですか沖田隊長、また副長にどやされますよ」
何も知らずに声を掛けてきた気が良さそうなそいつは、沖田も顔と名前を覚えている。五番隊に席を置く古参の隊士だ。
他の奴等も同じく五番隊所属らしい。隊のまとめ役を務める先輩の冗談に和んだのか、どいつも気楽そうな面で笑っている。
普段なら適当な軽口で受け流すところだが、今の沖田にはうっとおしいだけだ。
むしゃくしゃした気分を隠す気もなく無言でブーツを拾い上げて履き、踝に当たるジッパーを手早く乱暴に締め上げる。
その時、先に靴を脱ぎ始めた別の男が不意に思い出したように口を開いて、
「そういやぁ沖田さん、さっきうちの新入りがさんと出て行きましたよ」
「――・・・」
「ああ、俺も見たな。あいつ、前にも彼女に声掛けてなかったか」
「はい、たまに食堂で相席してますよ。あの二人、昔からの知り合いだとかで」
「知り合い?いやいや、本当に只の知り合いかぁ?ありゃあそんな雰囲気じゃねーぞ、こいつらデキてんのかってくらい親しげじゃねーか」
「やっぱりそう見えますか。俺もそこは怪しいと思ったんすけど」
古参の隊士に問われた男がそう答えれば、「えぇっマジかよ」「聞いてねーよ!」と次々と驚きの声が上がる。
何気なく掛けられた隊士の言葉で弾かれたように顔を上げた沖田は、彼等の話に動きを止めて聞き入っていた。
暫くそのまま立ち尽くしていたが、やがて何事もなかったような顔で靴を履き、深くうつむき外へと踏み出す。
玄関口を出て行く間際に「へぇ、そいつは知らなかったぜ」と彼は独りごとのようにつぶやく。
隠しきれない激しい怒りをわずかに滲ませたその声は、意外な関係性に湧く隊士たちには少しも聞こえていなかった。
「スパイシーバニラビーンズ #2」
title: alkalism http://girl.fem.jp/ism/
text *riliri Caramelization 2014/12/15/ next →