その日の銀ちゃんは変だった。
玄関扉をがらがら開ける音が聞こえたから、夕飯の支度をしていた台所から「おかえりー」と声を掛けたら、おぅ、と気抜けした声が。
ここまでは別に変じゃない。いつもの、ふつうの銀ちゃんなんだけど、そこから先はふつうじゃなかった。
裸足の足をぺったぺた鳴らしながら台所の前を素通りすると、さっさと奥の寝室に籠ってしまった。
・・・どーしたんだろ。あたしが台所に立ってると必ずおかずを摘み食いしに来る食いしん坊が。
気になったからガスコンロの火を切って、フライパンの中でじゅーじゅー音を立ててる特大ハンバーグに蓋をする。
焼き上がりに角切りベーコンときのこのソテー、賽の目切りにしたトマト、それからチーズと半熟の目玉焼きを乗せるちょっと豪華な夕飯のおかずはうちのお母さんの定番レシピだ。
このところ万事屋でも定番化してきたおかず、・・・かな?
「ハンバーグはいいけどゴチャゴチャしすぎネ。私チャラついたおかずに興味ないネ」なんて最初は渋ってた神楽ちゃんも、これは気に入ってくれてるみたい。
最近ロクなもん食ってねー、肉食いてー、ってぶちぶち文句垂れてた銀ちゃんも、この大きさなら満足してくれるはずだしね。
前に作ってあげたときも、夢中でガツガツ食べてたよね。
あっというまに食べ終わっちゃって、新八くんの食べかけまで意地汚く奪おうとしてたし。
まぁ、あれだけ夢中で食べてもらえたらもちろん悪い気はしないよ。
悪い気どころか「次は何作ってあげようかなぁ」なんて、余ったハンバーグの争奪戦まで始めちゃう三人を眺めてこっそり喜んでたんだもん。
「銀ちゃーん?あのさー今日ハンバーグなんだけど、ケチャップソース味とおろしポン酢味どっちがいい」
あたしがこの家に出入りし始めた頃からあった、古いフライ返しを持ったまま台所を出る。ぱたぱた、ぱたぱた。
数歩で端まで行けちゃう短い廊下をまっすぐに抜ける。
午後の陽射しでほんわり暖まってる居間に入ると、寝室の閉め切った襖戸をとんとん叩いて話しかけた。そしたら数秒後くらいに、
「・・・んー、ケチャップ」
返ってきたのは気乗りしないかんじの声だけだ。えー、なにそれ。
なにその「んなもん別にどっちでもいーけど」って言わんばかりな低ーいテンション。
ひさしぶりにお肉をたらふく食べさせてあげようって優しい彼女がこんなに張りきってるのに、どーいうことですかコノヤロー。
フライ返しの端っこで襖戸をつんつんつつきながら、あたしは口を尖らせた。
だってひさしぶりのお肉だよ?銀ちゃんたちがいつもよだれ垂らして喜んでる、大大大好きなお肉だよ?
近所のお肉屋さんで「本日の超お買い得品 国産合挽き肉100グラム100円」の値札を見つけたときには
「これなら2キロ買いできる!銀ちゃんたちも喜んでくれる!」って、お財布握りしめてうきうきしてたのにっ。
「・・・なんか反応薄くない。もしかして外でご飯食べちゃった?」
「いや、食ってねーけど。腹ぺこだけど」
「じゃあどっか具合でも悪いの。おかしいよ銀ちゃん。夕飯がお肉の時にこんなにテンション低いとかはじめてなんだけど」
「はは、そーだっけ」
薄い襖戸を挟んだ向こうで、すっとぼけたかんじの乾いた声が笑ってる。
こーいうとこはいつもの銀ちゃんっぽいけど――でも、やっぱりおかしいよ。
言ってることは普段とそんなに変わりないけど、行動が不審なんだもん。
いつもは挨拶代わりだとか訳のわかんないこと言って帰ってくるなり抱きついてくる触り魔が、抱きつくどころか顔も見ずに台所前をスルーしちゃうし。
なぜか帰ってきた途端に部屋に籠っちゃうし。だいたい、何でここ閉め切ってるの?
ここの戸なんて普段はしょっちゅう開けっ放しにしてるから、だらしない、っていつも新八くんに叱られてるじゃん。
なのに今日に限って隙なくぴったり閉めきってるんだもん。それだけで充分あやしいよ。
しかも扉の向こうでは、銀ちゃんが忙しそうに動きまわってるみたいな音がする。
がさがさ、ごそごそって何かを探してるような音が。何してるんだろ・・・?
「ちょっと銀ちゃん、何をガサゴソやってんの。探し物?急いでるなら手伝うよ」
「んー、や、いいって俺一人で。それよかよーちゃん、ちょっと頼まれてくんね。ババアんとこ行って回覧板貰ってきて。そんで裏の花屋に回してきて」
「えー。自分で行けばいーじゃん」
「ここんとこツケ溜まってっから顔合わせづれーんだって。な、頼むわ」
「ツケが溜まってるのはいつものことでしょ。あ、わかった。ほんとは屁怒絽さんと顔合わせるのがこわいんでしょ」
そんなに敬遠することないのに。すごーくいい人じゃん、屁怒絽さん。
いつ会っても穏やかだし親切だし、お花を愛する平和主義者だしさ。
まぁ見た目はぜんぜん平和主義者っぽくないけど。
クールでドSな地獄の第一補佐官さまに虐げられてる閻魔大王さまよりも閻魔大王っぽいけど。
強烈に怖い顔面と心優しい内面のギャップがすごいご近所さんを思い出しながら、なんとなく視線を下に落としてみる。
すると、襖戸の取っ手に目が留まった。
あれっ、なんだろこれ。
首を傾げてそこに見入ってみる。
――こんなところに泥がついてる。よく見れば黒っぽい染みみたいな何がが、襖戸にもこびりついてた。
でも、変なの。さっきお掃除したときにはこんな汚れなかったよね・・・?
不思議に思いながら腰を屈めて、もっと顔を近づけたら、
「――・・・・・・っ」
――違う。泥じゃない。
喉から湧き上がってきた悲鳴を咄嗟に閉じ込めようとして、あわてて両手で口を覆う。
すうっと頭から血の気が引く。身体がへなへな崩れ落ちそうになった。
襖戸の白い目地をべったり汚した、泥汚れっぽく見える染み。
それは、茶色に見えたけどそうじゃない。近くで見れば赤黒くて――
「――ぎ、銀ちゃん、ねぇ、入っていい」
「んー、なに。悪りーけどよー急いで行ってきてくれる。回すの遅れるとうるせーんだわ、下のババアとかデカいオカマとか近所の化け物連合が」
「・・・・・・」
・・・やっぱりそうだ。銀ちゃん、あたしをここから遠ざけようとしてる。
胸の奥までざわざわしちゃって不安で一杯になりながら、えいっ、と思いきって戸を引いた。
するとばさばさっと音がして、銀ちゃんがこっちに振り返る。そこには予想したとおりの光景があった。
いつも着ている白い着物と黒い服は、脱いで畳に放り出してる。どっちも背中やお腹のところが破れてて、ところどころが鮮やかな血の色で染まってた。
上半身だけ裸になってる銀ちゃんの背中も、斜めに走った傷口が生々しい赤を滲ませてる。
同じように赤くなった脇腹の影にはいつも持ってる木刀やベルト、中身がひっくり返された救急箱。
ばらばらになって転がる薬。畳にころころ転がって伸びきった細い包帯。
黙って睨みつけたあたしと目を合わせれば、「うっわ、やべぇ」って顔をした銀ちゃんのこめかみからつーっと汗のしずくが伝う。
視線を逸らせないで固まってる顔が、気まずそうな苦笑いに変わっていく。よっぽど後ろめたい気分なのか、ごくん、と生唾なんか飲み込んじゃって、
「えっ、何、んだよ、俺着替え中なんだけど。えっ、あ、あれなのお前そんなに銀さんの裸見てーの?いやーんちゃんのえっちぃぃ」
「病院は。行かなくていいの」
「へ?ぃっ、いや、病院ってほどじゃねーし。皮一枚くれーで避けたからたいしたこたぁねー・・・っていやいやいや!」
冷えきった目で眺めながら部屋の中まで踏み込むと、銀ちゃんはあからさまにうろたえ始めた。
珍しくガチガチに緊張しきった声がおかしい。なのに、笑えなかった。笑うような気分にはなれなかったから。
そんなあたしを銀ちゃんは困ったような目で見上げてたのに、近寄った途端に人の腰をぐいっと引いて抱き寄せて、
「まぁまぁ、そんな恐ぇー顔すんなって。平気だってこんなもん、がおかえりのちゅーしてくれたらすーぐ治っちまうからぁ」
なんて引きつり気味な顔でへらへら笑って、さわさわ、すりすり、むにむに、もみもみ。
いつのまにかお尻と太腿に回った図々しい手が、着物の上から撫でたり揉んだり。あたしが何も言わないのをいいことにやりたい放題だ。
・・・まったく、銀ちゃんてば。この期に及んでもまだふざけてごまかそうとするんだから。
普通の人なら痛みを我慢できなさそうな傷作っちゃってるのに、こっちが拍子抜けしちゃうくらいけろっとしてるし。
「銀ちゃんどさくさに紛れて変な触り方しないで。・・・ね、痛くないの」
「んぁー・・・そらぁ痛てーけどー、平気だって。今夜一晩ミニスカナース服着たちゃんでドーピングしたら痛てーのなんて飛んでっちまうしぃ」
「そんないかがわしいドーピング絶対しないから。ていうか人を危ないクスリみたいに言うな」
さすがケダモノ銀ちゃんだ、煩悩で痛覚を捻じ伏せるなんて聞いたことないよ。
ていうか、この程度の傷じゃまったく身に堪えないんだろうな。そんなことを思いながら、無言でフライ返しを振り下ろす。
べしっ、て頭を叩いてあげたら、いってぇ、ってそれほど痛くもなさそうな呻き声が上がる。
いつもどおりに毛先がひょこひょこ跳ねまくった天パ頭にも、呻きながら頭を押さえた左の手にも、ちょっとだけ血がこびりついていた。
それを見てしまったら何とも言えない気分になって、髪に散った血の色がやけに目立つ白っぽい頭からむっとした顔で目を逸らす。
そんなあたしの冷たい態度で、銀ちゃんはさらに焦りが増したみたいだ。「違うよ違うからね!?」なんてエプロンの端をぐいぐい引っ張ってきて、
「っっこれはあれだよ、派手に血ぃ出てっけど見かけ倒しだからね?
っつーかあれだよあれ、ただの事故!事故だから!お前が思ってるよーなアレとは違うからね、依頼で走り回ってる間にちょっとやらかしちまっただけで」
「銀ちゃんそれ貸して」
「ぉ、おぅ!?」
指先まで血で染まってる右手の中で握りつぶされそうになってた消毒液を指すと、うろたえまくってひっくり返った甲高い返事が返ってきた。
――銀ちゃんたらあわあわしてる。
めずらしくかぁっと見開いた目も不自然だし、血の雫が飛び散ってるこめかみは後ろめたそうにビクビクしてる。
最初はこの場を誤魔化しきっちゃう自信があったのかやけに堂々としてたけど、今やすっかりたじたじだ。
だけど――強がってつんつんした態度取ってるけど、あたしだって内心では銀ちゃん以上にたじたじだ。
いやだ。おそるおそる消毒薬を差し出してくる手は、いつも通りにあったかいのに。だいすきな人の手。銀ちゃんの手なのに、
・・・いやだ。触るのがこわい。
固まって黒ずんできた血の色や、錆びついたような匂いがこわい。ああ、お腹の奥がきりきりしてきた。
ぱっ、とひったくった消毒液を持って、まだ言い訳したそうにこっちを見てる銀ちゃんの前に腰を下ろす。
ひっくり返った救急箱を持ち上げる。胃薬の瓶や頭痛薬の箱が重なった下に、脱脂綿の袋を見つけた。
箱に入れてあったはずの小さなはさみを探そうとしたけど、どこに行ったんだろ、見つからない。
ぶちまけられた箱の中身は、目の前で胡座を組んでる裸足の足に引っかかってたり、他のものとごちゃごちゃに混ざってたり。
銀ちゃんがあわててひっくり返しちゃったからだ。あたしに傷を見られる前に、自分で手当てしようとして――
台所から持ってきたフライ返しを、力を籠めすぎて指に震えが走るくらいにぎゅーっときつく握りしめる。
・・・・・・・・・・・・なにそれ。何も隠すことないじゃん。いくら隠そうとしたってこんなのすぐにバレるのに。
「・・・・・・なにそれ。ばっっかじゃないの」
「いや違う違うよちゃん、この怪我は違うからね?お前が思ったよーな危ねーアレじゃねーから、な!?・・・って聞いてるちゃん?」
「聞いてる。ていうか銀ちゃんしつこい、黙ってて」
「ってよーその顔、俺の言うことなんてこれっぽっちも信用してませんって顔じゃん。
違うよ銀さん嘘ついてないよ、これはアレだよ四丁目の河原で迷子の猫追っかけてたら土手で躓いてごろごろ転がり落ちちまって」
「あっそ。じゃあこれで血が出たとこ押さえといて」
「っっっっってぇ!」
小さく千切った脱脂綿に消毒液をたっぷり染み込ませたものを、傷口にぎゅうぎゅう押しつける。
銀ちゃんはそのたびに飛び上がって変なポーズで「うひぃ!」とか「んぎゃああ!」とか情けない悲鳴を上げてたけど、それでもしらんぷりで消毒を続ける。
「いやいや違う、違うからね?これは仕事で――ってぇええ!ちょっっ、グリグリすんなって染みるうぅぅ!」
言い訳と悲鳴を繰り返す声が突き抜ける寝室に、消毒液のつんとした匂いが漂い始める。
あたしは銀ちゃんの手が回らない背中の傷を拭きながら、ひとつひとつの怪我の具合をそれとなく見て確かめた。
「皮一枚で避けた」なんて言ってた自己申告どおり、傷口はどれも浅いみたい。
どれも皮膚を斬られた程度で、血も止まってる。病院のお世話にならずに済む程度だ。
・・・よかった。これならすぐに治るよね。
ほっとしたら自然と溜め息がこぼれて、強張ってた肩から力が抜けていく。
「・・・ね、新八くんと神楽ちゃんは」
「新八んち。ああ神楽な、今日は向こうに泊まっから」
「・・・・・・」
「あいつらは大丈夫だって。こんなんなってんの、俺だけだし」
よかった、二人は無事なんだ。
そう思ったら少しだけ胸の中が軽くなって、きりきりしてたお腹の痛みも収まってきた。
ぞんざいな扱われ方が不満そうだった銀ちゃんは「もー少し優しくしてくれたってよくね?」なんて恨めしそうな涙目で口を尖らせてる。
そんな銀ちゃんを後ろから眺めていたら、こっちだって言いたいことを言ってしまいたくなる。
それでもきゅっと唇を噛んで、何も考えなくていいように黙って手を動かし続けた。
背中の傷口の消毒を終えると、次はお風呂場から汲んできたお湯で銀ちゃんの身体を拭いていく。
ほわほわ湯気が立つ濡れタオルに、じっとり染み込んでいく赤い色。鼻につく血の匂い。これ、銀ちゃんの血なんだ。
当たり前なことをあらためて意識したらすごく胸の中がもやもやして、重苦しい気分になってくる。なんだか息が詰まっちゃいそうだ。
たらいの中の透明なお湯が濁ってきたころ、最後の汚れを拭き終わる。
切ったガーゼをぺたぺた、ぺた。テープで張り付けて傷を覆った。
まだ何か言いたそうな半目でじとーっと見つめてくる銀ちゃんの、よく見ると薄い傷跡がいっぱい残った広い肩をべしっと叩いて、
「はい終わり。次は包帯ね」
「ぃ、いやだからぁー、お前よーまだ疑ってんだろぉ?そーじゃねーってあのよー」
「傷口広すぎて包帯じゃ足りないよ。銀ちゃん家にサラシあったよね、どこだっけ」
「・・・・・・・・・・・・箪笥の二番目。・・・・・・・い。いや。わ。悪りーな、なんつーかあれな、あれだわ、あの」
「痛み止め、飲む?」
「へ?いやそれほど痛くね・・・・・・って、なぁー、話聞けって」
「――やだ。・・・・・・聞きたくない」
伸びてきた手に腕を掴まれそうになったけど、ぺちっと払って箪笥に向かう。
引き出しから出したサラシを一巻き、腹筋がうっすら割れたお腹にむぎゅっと強く押しつけた。
銀ちゃんはまだ何か言いたいみたい。いつも離れっぱなしのだらしない眉間が、今はぎゅーって不満そうに寄ってる。
そうだよね。自分でも「可愛くないなぁ」って思っちゃうような頑なな態度してるんだから、銀ちゃんだってそう思うにきまってるよ。
それでも素っ気なく部屋を出て、作りかけのご飯が待ってる台所へ。
短い廊下をぱたぱた走って狭い入口に飛び込んだら、フライパンが乗ったコンロに火を点ける。
じゅーっ、ってフライパンの中のハンバーグがちいさな音を立て始めるまで、1分くらいかかったと思う。
だけどその音が鳴り始めるまで、あたしはコンロ前につっ立ってフライパンをぼーっと見つめてた。
「・・・・・・・・・・・・あれっ」
小さかったはずのハンバーグが焼ける音が、いつのまにか大きくじゅーじゅー響いてる。
・・・・・・何やってんだろあたし。頭の中がぼーっとしすぎてるせいか、ちょっと意識が飛んじゃってた。
銀ちゃんの怪我でびっくりしたからかな。なんだか気が抜けちゃってる。すっかり抜け殻状態だよ。
早くご飯の支度しなきゃ。頭の中ではそう思ってるんだけど、何もやる気が起こらない。
お出汁を張ったお味噌汁用の小鍋にのろのろとやる気ゼロな視線を移して、ああ、ってひとりごとをつぶやいた。
そうだ、お味噌汁も作らないと。具は何にしよう。
コンロ前からふらふら歩いて、冷蔵庫を開ける。だけどやけにまぶしい庫内をぼーっと眺めるだけで、身体がぜんぜん動かない。お味噌汁の具も思いつかない。
そのうちにフライパンのほうからじゅわぁーっと大きな音が上がるようになって、お肉が焼ける香ばしい匂いも広がってくる。
そろそろ火を止めなきゃ。ハンバーグはお皿に移して、それからベーコンときのこを炒めて――
ぼんやりしてる意識のどこかに、作り慣れてるレシピの手順がぼんやり浮かぶ。コンロのほうにふらふら戻ったんだけど――
「・・・フライ返し。置いてきちゃった・・・」
そう、フライ返しがない。寝室に置いてきちゃった。
もうひとつあればいいんだけど、万事屋にはあれ一つしかない。
どうしよう。このままじゃハンバーグが完成しない。取りに行かなきゃ。
・・・・・・でも、取りに行かなきゃダメ?ダメかな。・・・うん、ダメだよね。でも、どうしよう。行きたくない。行きたくないよ。 だって――
「・・・・・・〜〜〜・・・っ。・・・っく、っ、・・・ぅう、っ・・・・・・ふえぇ・・・・・っ」
――ぼろっ。
ああ、泣いちゃだめなのに。そう思った瞬間にはもう遅くて、急に湧き出た熱い涙が目の奥からぶわっと溢れて止まらなくなった。
そこからはもう、何をどうやってもダメで。泣き止まないと、って思うのにひっくひっくと早い嗚咽がこみ上げてきて、身体がちっともいうことをきいてくれない。
それどころか「泣いちゃだめ」って思えば思うほど、涙はぼたぼた溢れてくる。ああもう最悪。
何これ。せめて家に帰るまで我慢しなきゃって思ってたのに・・・何これ。自分の身体なのに、自分の感情なのに、どっちもぜんぜんコントロールできない。
そのうち嗚咽はどんどん早くなってくるし、脚はがくがく震えてくるし。
最後にはもう立っていられなくなっちゃって、コンロの前にへなへなぁっとへたり込む。
頭の上で「じゅわーっ」って、ちょっと危険な音が鳴ってる。
フライパンの中身がちょっと焦げつき始めてそうな、危なそうなかんじの響きだ。
火を止めなきゃ。だけど立ち上がれる気がしない。身体に力が入らない。
どうにか声だけは噛み殺して、膝小僧に顔を埋めてひっくひっくと泣きじゃくった。
――こんなことは何回もあった。
怪我した銀ちゃんを見るのは初めてじゃない。それどころか、何回目にしたかわかんないくらいだ。
でも、それでもだめなものはだめ。何度見ても慣れる気がしない。この先あたしは、怪我して帰ってくる銀ちゃんを何回見なきゃいけないんだろう。
・・・だめだ。考えただけで震えちゃう。何度見ても、毎回同じ気分になりそう。
ああいう銀ちゃんを目にしちゃうと、あたしの身体は震え上がる。何度見ても心臓が止まりそうになる。
呼吸も上手くできないくらい不安になって、胸の中がざわざわする。心細くって泣きたい気分になっちゃうよ。
今だってそう。銀ちゃんの顔見たら、きっと泣いちゃう。泣きじゃくっちゃう。
わんわん泣いて困らせるかも。言っちゃいけないことも言っちゃうかもしれない。
『こーいうの、もうやめて』 『もう怪我するようなことしないで』
知ってる。知ってるよ。
銀ちゃんがぼろぼろになって帰ってくるときは、自分のためじゃなくて誰かのため。
それを知ってても言いたくなっちゃう。だから、こわい。いつか本当に言っちゃいそうで、こわい。
そんなこと言いたくない。言いたくないのに。こういう日は、言っちゃいそうになるんだよ。
――どうして、って。
どうして銀ちゃんがそこまでしなくちゃいけないの、って――