「――ー、なにこの匂い。なーんか焦げ臭くね?つーかよー廊下まで煙てーんだけど何作っ・・・って、オイィィィィィ!?」
「・・・っ・・・・っく、・・・・・・ぎ。ぎ、んちゃあ・・・っ」
「銀ちゃんじゃねー!火ぃぃ!火ぃ止めろ火いぃぃぃぃ!」
――なんてかんじで一人で悲しくなってめそめそ泣きじゃくってたあたしの涙は、そこでぴたっと止まってしまった。銀ちゃんが台所に来たから。
そして、いつのまにか台所内がとんでもないことになってたからだ。
ぺったぺたと足音が近づいてきて、銀ちゃんは胸からお腹にサラシを巻いただけの姿でひょこっと入口に現われた。
ほっぺたなんかぽりぽり掻いてばつが悪そうな顔してたんだけど、こっちを見たとたんに真っ青になって絶叫。
そこであたしもようやく気づいた。周りを見回したら、台所中に薄い靄がかかってる。
フライパンからぶわぁーっと昇ってもやもやーっと漂ってくる、焦げ臭い灰色の煙で。
ものすごい勢いで飛び込んできた銀ちゃんに、頭をがばっと抱えられる。
あたしをコンロの火から遠ざけたかったのか、そのまま床にばたっと押し倒された。
そのときこほん、って咳が出て、さらにけほけほ止まらなくなって、次は目が痛くてたまらなくなる。
「口押さえろ!」って怒鳴ってあたしの手を顔に押しつけた銀ちゃんは、普通の動体視力じゃ目が追い付かないよーなスピードでコンロの火を切る。かちっっ。そしてものすごい素早さでだだーっっと走って奥のお風呂場へ。
ゲホゲホ咳してむせ込みながら小さな換気窓を開けるとあっというまに戻ってきたから、ようやくあたしは口を開いた。
「・・・ごめんハンバーグ焦げちゃった・・・」
そしたら銀ちゃんは「えっ、何言ってんのこいつ」ってかんじで唖然としてた。
かと思えば口をぱくぱくさせながら眉を吊り上げて血相を変えて、あたしのほっぺたを両手でむぎゅっと押し潰して、
「はぁ!?どーでもいい!死ぬほどどーでもいいわんなもんは!」
裏返った甲高い声で怒鳴られて、ほっぺたを両手でぺちぺちぺちぺち。
それでも気がおさまらなかったのか、わなわな震えてる声で「〜〜〜っっなななにやってんの、何やってんのお前!」ってまた叫ぶ。
うっすら白い煙がお風呂場のほうへ流れていって、目に染みる焦げ臭さもそっちへ流れて薄くなっていく。でも苦しい。咳がなかなか止まってくれない。
腫れぼったくなった目を擦りながら身体を起こす。肩を揺らしてけほけほしながら「ごめん」って、しょんぼりと頭を下げて謝った。
でも、銀ちゃんにはどう見ても聞こえてなさそう。
換気したおかげで空気がきれいに晴れていっても、あたしの咳がおさまっても、何か一気にだだーっと、ががーっと、よく回る舌を駆使して一方的に喋り続けてる。
・・・ああ、そっか、これお説教なのかな。
変なの、銀ちゃんがあたしにお説教なんて。いつもと立場が逆になっちゃってる。
だけど頭がまだぼーっとしてるせいか、何を言われても響いてこない。
銀ちゃんが本気で怒ってるってことはわかるよ。でも、それくらいしかわからない。
ぼんやり涙目で見上げてたら、あたしの反応の薄さが頭にきたみたいだ。
大きいうえにやたらと馬鹿力なあの手で、むぎゅーっ、って思いきりほっぺたを引っ張ってくるからすごく痛い。
「ぎんひゃんいたぃ、ごめん」ってもう一度謝ったら、今度は聞こえたみたい。
跳ねまくってる白っぽい癖っ毛の影で、離れ気味な眉がへなぁっと下がる。
銀ちゃんは呆れたような困ったような、だけど歯痒くてたまらなさそうな表情でがしっと肩を鷲掴みしてきて、前後にゆっさゆさ揺さぶって、
「なぁおい聞いてる?聞こえてんの!?っっとに何やってんだよ気ぃつけろよ、心配すんだろーが!」
「うん、ごめん・・・火事になっちゃうよね」
「そっちじゃねーよ!危ねーってお前、わかってんの!?今の危機一髪だったよ?あと一分遅かったらあれ絶対火ぃ点いてたから!お前の頭燃えてたから!」
見ろよこれ!って、ぐいっと腕を引っ張られて、コンロのほうへ。
「ぅおっ、熱っっ!」って舌打ちしながら銀ちゃんが勢いよく蓋を持ち上げると、
「・・・ぅわぁ・・・」
「ほら見ろどっかのメガネが毎日食わされてるダークマターと変わんねーだろ?ここまで燃えてんだぞ?
こんなもんの傍でうずくまってりゃあ、肉どころかお前までダークマターになっちゃうよ!?」
そこには黒焦げになった物体が3つ。
どれもぷすぷすぷすぷす、音を立てながら煙を噴いてる。
上手く焼けたはずのハンバーグは、発火寸前まで煮え滾った油の中ですっかり燃えかすに変わってた。
「――なぁ。俺のせい」
「・・・え?」
ぼそっと尋ねてきたその声は、聞いたことがないくらい硬い声で。
びっくりして振り返ろうとしたら、後ろからがばっと抱きつかれた。
そのまま腰を引っ張られて、ぐらりと身体が大きく揺らぐ。
あっ、と小さな声を上げたときには、裸の胸に抱き止められてた。
腰と背中に両腕をきつく回されて、なぜかがむしゃらに抱きしめてくる銀ちゃんの体温に包み込まれる。
ぴったり押しつけられた肌の熱さにどきっとしたら、背中を拘束してた腕が肩や首筋を撫でながら這い上がってくる。
その動きがなんだか変だった。なんだか銀ちゃんらしくない動きだ。あたしの身体の感触を、息を詰めて慎重に確かめてるみたい。
しかも、手が震えてる。きつく拳を握って震えを止めようとしても、どうしてもおさまらないみたいで――
「・・・・・・ぎ・・・銀ちゃん・・・?」
「・・・だよなぁ。俺のせいだよな。、どこも火傷してねえな」
「してない。してないよ。フライパン、触ってないし」
「ん。そんならいーわ」
疲れきったような沈んだ声でそう言って、ゆっくりと深く息を吐く。
脱力しきった身体を預けるみたいにして、腕の中のあたしに体重を掛けてさらにきつく抱きしめてきた。
上から覆い被さってくる硬い胸板がすごく重い。
むせ返りそうなくらいに濃い銀ちゃんの匂いを吸い込んだら、心臓が勝手にどきどきしてきた。
、って思いつめたような声で呼ばれて、エプロンや着物が皺になりそうなくらいぎゅううぅっと抱きすくめられたら、それだけで胸が苦しくなっちゃう。
頭の横におでこをぐりぐり押しつけられて、ちょっと痛い。
だけど銀ちゃんの手がまだ震えてるから、いつもみたいに「やめてよ」って文句をつける気にはならなかった。
「・・・・・・っ。ね。ねぇ、どうしたの・・・・・・?」
どうしちゃったの。なんで。どうして震えてるの。
ほっぺたを撫で始めた震える手に、おろおろしながら触れてみる。
――ああ、まだ震えてる。銀ちゃんの手が、腕が、肩が、震えてる。
こんなこと、はじめてだ。竦みきったあたしの肩をすっぽり包んじゃう腕が、大きな手が――指先まで小刻みに震えてる――
「はは・・・・・・笑っちまうよなぁ。んだよこれ。止まんねぇし・・・・・・」
心臓止まるんじゃねーかと思った。
肩口に広がる髪に触れてる唇から、笑い混じりなつぶやきが漏れる。その声や、唇まで震えてた。
どうしたの、ってもう一度尋ねてみる。だけど答えてくれなかった。しばらく何か考えるみたいに黙り込むと、
「・・・悪りーな」
「・・・なんで謝るの」
「に怖ぇー思いさせたから。・・・つーか、させてきたから?今まで、何遍も」
圧し掛かられて身動きできないあたしのうなじに、ちゅ、って熱くてやわらかい感触を落とす。
それからすごく銀ちゃんらしくない、やけに重たい溜め息をついた。
「だよなぁ。そらぁ怒るわ。俺、甘えちまってるもんなぁ、お前が何も言わねーのをいいことに」
気まずそうな苦笑いが混じった声でもう一度、悪い、って言うと、
「さっき、お前もこーいう気分だったんだろ」
「・・・・・・さっき、って」
「俺の傷見て怒ってたじゃん。怒ってたけど怖かったんだろ、あれ。今の俺とまるっきり同じだよなぁ」
「・・・ばっかじゃないの。あたしが銀ちゃんに怒るなんていつものことじゃん」
「じゃあ何で泣いてんだよ」
「・・・・・・・・・・・・違うってば。これは、ほら・・・煙かったから、目が痛くて――」
――そう。そうだよ。
言っとくけどその心配、すっごく的外れだからね。
勝手にわかったよーなこと言って謝っちゃってるけど、それってまるっきり銀ちゃんの謝り損だからね。あたしはこのくらいぜんぜん平気なんだから。
なのに何それ、慣れない真面目な声出しちゃって。
しかも、まだ手が震えてるし。ばっかじゃないの、どうしちゃったの。柄じゃないよ、似合わないよ――
「・・・ちがうよ。そうじゃなくて。あたし別に平気だし。このくらい、別に・・・・・・」
重たい空気を笑い飛ばそうとして頭の中にたくさん並べた言葉は、結局、ひとつも役に立たなかった。
声を出そうとしただけで唇がぶるっと震えて、胸の中をせつなくする何かがこみ上げてきて息が詰まる。
口籠ったままうなだれたら、微かに嗅ぎ取れる程度の血の匂いが流れてきた。
視線をそっちに向けてみたら、いきなり何かに刺されたみたいにつきんと心臓が痛くなる。銀ちゃんの親指の先が、血で赤黒くなっていた。
これ以上見たくないのに目を逸らせなくなってしまったその指が、あたしの目元まで近づいてくる。さっき泣いたときの涙の跡に、ふにっと触れる。
すうっと横に撫でるみたいにして、肌に残っていたしずくをきれいに拭き取ってくれた。
今にも歪んでしまいそうな情けない顔で、震える唇をきゅっと噛む。
あたしって単純すぎるよね。一度はおさまったはずの泣きたい気分が、ちょっと優しくされただけでこんなに簡単にこみ上げてくるなんて。
・・・・・・うん。そう。銀ちゃんが言ったとおりだよ。
そんなこと気にしてほしくないからいつも隠そうとしてたけど、そうだよ。ずっとそうだった。
銀ちゃんが傷ついて帰ってくる。そのたびにあたしは、こわかった。
心の中で答えたら、我慢するはずだった気持ちが胸の中から一瞬で溢れ出しそうな勢いでぶわりと膨らむ。
それと同時で熱いしずくが銀ちゃんの手にぴちゃんと落ちて、次から次へと涙がこぼれて、拭っても拭ってもきりがない。
――そう。そうだよ、ずっとそうだった。
本当はね。言いたいことはたくさんあるの。聞きたいことも、たくさんある。
だけど、しょうがないよね、っていつも思うの。
呆れちゃうほど図々しくて周りの人のことなんてどーでもいいって顔してるくせに、いざとなると自分そっちのけで他の誰かを護ろうとしちゃうおひとよし。
あたしが好きになっちゃったのは、そういう銀ちゃんなんだもん。
変わってほしいなんて思わない。いくら不安な思いをしても、離れたいなんて思わない。
口はよく回るくせに自分のことはあまり喋りたがらない銀ちゃんに、胸の内に抱えてることまで無理して見せてほしいとも思わない。
でも、だから困っちゃうんだよ。それじゃあどうやっても、あたしはこういう苦しい気持ちから逃がれようがないってことになるから。
でも。でもね、銀ちゃん――
「・・・いいよ、そんな、の、も、いぃのっ・・・銀ちゃんが必ずここに帰ってきてくれるなら、ぜんぶ忘れてあげる・・・っ」
ひっく、ひっく。
止まらない嗚咽で肩を揺らしながら、みっともなくべそべそ泣きながら、涙を吸いすぎてびしょびしょに濡れちゃった着物の袖口で顔を覆う。
あたしが鼻声でぐすぐす話してるうちに、ぎゅうって背中を抱きしめてた腕の力はいつのまにか緩くなってた。
肩口を掴んでる手にふと視線を流したら、血がこびりついた指の震えは止まってた。
よかった。もう止まったんだ。
どうしても顔が見たくなって、目元をごしごしし拭いながらぐしゃぐしゃな顔を上げてみる。
そしたら、泣くのも忘れてきょとんと目を丸くしてしまった。だって――
「・・・・・・銀ちゃん。もしかして、照れてる?」
「ばっっっか違げーって。こ、これはあれだよあれ、引いてんのドン引きなの!
〜〜おめーがなんか、か、必ず帰ってこいとか・・・いやだからあれだよあれっ、なーんか重てーこと言うからっっ」
なんてぼそぼそもごもご言い訳するから、余計にあやしい。
むっとしてるみたいに口端をひん曲げて視線があさっての方向に逸れちゃってる顔は、どう見ても「引いてる」って顔じゃない。
言われたことに戸惑って「どーしたらいーのこの子」って困ってるような、複雑そうで照れくさそうな表情。
その顔を確かめたら、もうじっとしていられなかった。勝手に腕が伸びていって、銀ちゃんの首にぶらさがる勢いで縋りつく。
いきなり飛びつかれてちょっとよろけてた銀ちゃんが、おそるおそる、少しずつ腕に力を籠めながら抱きしめ返してくれる。
かかとを上げてうんと背伸びしてたあたしの爪先が、床の感触からふっと離れる。
その瞬間ぐらりと揺れた身体は、お尻の下に回された腕で軽々と抱き上げられた。
薄いサラシ越しに体温を感じられる逞しい胸に、甘えるように凭れかかる。お互いの身体が、隙間なく触れ合ってる。
・・・銀ちゃん、あったかい。よかった。帰ってきてくれて。
心臓の音がとくんとくんて、着物越しに伝わってくる。嬉しくなって泣き笑いしながら、熱い首筋に顔を埋めて抱きしめた。
「・・・だからもういいよ。あたし大丈夫だから。帰ってきてくれたら、それでいいから・・・」
――だから。だからね。そんなに気にしなくていいんだよ、銀ちゃん。
あたし、ずっと考えてたの。
いつも銀ちゃんを傍で眺めながら、あたしはどうしたらいいのって、ずっと一人で考えてた。
考えて考えて、何を考えてたのかもよくわかんなくなるくらいぐるぐる悩んでから思ったの。
普段つんつんしてるけど中身は泣き虫で強くないあたしでも、銀ちゃんにしてあげられることって何だろうって。
だから決めたの。
この先何があっても、銀ちゃんの隣にいるために。
――だから。だからね。
あたし待ってる。何があっても銀ちゃんのことを信じて待ってる。
これからも何も訊かないよ。いつか銀ちゃんが自分から話してくれるって信じて、その日まで待ってる。
いくら不安にさせられても、心細くても、こわくなっても、逃げないよ。
今はまだ、自分で自分が情けなくなっちゃうくらいに頼りないけど。何かあるとすぐ泣いちゃうけど。
でも、それでもここにいるよ。銀ちゃんに何があっても、どれだけ遠くに行っちゃっても、いつでもここで銀ちゃんの帰りを待ってるよ。
だって、がんばるしかないでしょう?
あたしが好きなのは他の誰でもない、銀ちゃんだから。
こうやって抱きしめられて、心の底からほっとするのも。
何か怖いことが起きて、不安にさせられるのも。一緒にいて嬉しくなっちゃうのも、一緒にいて困らされるのも。
――どれも、他の人じゃだめ。ぜんぶ銀ちゃんにしてほしいんだもん――
「・・・・・・・・・・・・あーあー。・・・やってらんねーわ」
「え・・・?」
「ったくよー、っだよそれぇ。あーもぅ、これだから腹括った女ってのは敵わねーんだよなぁ・・・」
ずっと黙りこくってたくせに、銀ちゃんはあたしが顔を上げたとたんに小声でぼそぼそ愚痴り始めた。
何を思ったのか頭をなでなでしてくれて、なのに、はーっ、っとうんざりしきったような溜め息を吐く。
あーあー、なんて言いながらがっくり頭なんか垂れちゃって、あたしの肩に顔を埋めて不満そうに口を尖らせる。
光に透けそうな色のふわふわした髪を、首筋や顎下に無言でぐりぐりぐりぐり擦りつけてきた。
えっ。何なの。どうしちゃったの。
「ぎ、銀ちゃん、ちょっ、これ、くすぐった――・・・〜〜〜っ!」
首を竦めながら涙目で見つめてたら、急に銀ちゃんが顔を上げる。
恨めしそうにじとりとあたしを睨んだ目は、だけどぜんぜん迫力がない。
怒られて拗ねてる子供みたい、って思ったら目の前がふっと暗くなる。反射的に目を瞑ったら、何が起こったのかわけがわからないまま熱い感触を押しつけられる。
えっ。ちょっと。待って――
唇を隙間なく塞がれちゃって、んんんんっ、って仰け反って、宙に浮いてる足を振ってじたばたじたばた暴れてたら、強引に唇の隙間を割ってきた舌にあっというまに口の中まで入り込まれて、
「〜〜〜っ、んぅっ、ぎ、っん、ふ・・・ぅ・・・・・・っ」
あわあわしてる間になぜかまた頭をなでなでされて、背中もやさしく撫でられた。
手ではそんなことしてるくせに、口内まで潜り込んできた舌は弱いところばかり狙ってくる。
感じやすい上顎の裏を舌先で器用になぞったり、あたしの身体が反応しちゃうところを繰り返し舐めたり。
くちゅ、くちゅ、って舌を深く絡めて唾液を混ぜ合わせるいやらしいキスを繰り返したと思ったら、触れられただけで身体中がぞくぞくしちゃう奥のほうまで撫でてきたり。
ずるい、ずるいよ銀ちゃん。こんな時に限って本気出してくるんだから。
おかげで身体どころか頭の芯までぽわーっと火照って、そのうち全身がアイスクリームみたいに蕩けちゃいそうな気分になる。
へなへな力が抜けていく。
それでも無駄に抵抗しながら、うわわわわ、って内心ではあわててたら、いきなりがじっと耳に噛みつかれて――
「っは・・・・・・・・・んん・・・っ」
いきなりだったから間に合わなくって、ぞくり、って身体が震え上がる。鼻に抜ける甘ったるい声が唇から漏れる。
ちょっと加減してくれたのかな。噛まれたところに痛みはそんなに感じない。
だけど耳たぶを挟んだ唇の熱や、肌を舐めながらちろちろ動いてる濡れた感触のせいで、身体がびくびく反応しちゃう。
ぎゅうっと抱きついてこらえてたら、そのうちになぜか腰を思い切り持ち上げられた。
ちょうど銀ちゃんの顔の高さになった胸にむにゅっと顔を埋められて、さらにむにむにと押しつけられて「っななななにしてんのっっ」ってうろたえてるうちに、膨らみにがぶっと噛みつかれて。
着物の上からぺろぺろされて、ちゅ、って吸われる。
何の遠慮も恥ずかしげもなくやわらかいそこにむしゃぶりつかれて、たまに舌まで使われながらちゅーちゅー吸われる。
なっ。なななななっっっ、なにやってんの。
着物できっちり押さえてるうえにブラもしてるのにどーしてそんなに的確に・・・・・じゃない、この変質者ってばここをどこだと思ってんの、台所でなにやってんの!
恥ずかしすぎてわなわな震えながら絶句してたら、銀ちゃんは伸ばした赤い舌の先でゆっくりそこを舐め上げる。
どこか挑発的な色っぽい目つきで、こっちを見上げる。やけに艶めかしい仕草で、濡れた唇をぺろりと舐める。
ちょっと気を抜くと24時間態勢で襲ってくる変態のせいであたしの恥ずかしさはピークに達しちゃって、ぼんっっ、っと顔が火を噴いて、
「〜〜っっちょっっなななにしてっっっししししねしんじゃえこのド変態いぃぃ!」
「何なのお前、バカなの?いーやバカだろ」
「はぁ!?ばっっ、バカは銀ちゃんでしょどー見ても!」
「いやいや俺じゃねーだろお前がバカだろ、バカだろーがぁ。っだよ、よりによってここでデレ発動ってよー」
ここでデレてどーすんの。ここでデレるくれーなら毎晩布団の中でデレてくれってーの。
やけに恨めしそうな声で「あんたこそバカだろ!?」と言い返されても当然な発言をした銀ちゃんが、ぎゅーっ、と馬鹿力な腕に力を籠めてくる。
うぐっ、って苦しくって呻いた瞬間、なぜか急に視界が反転して、ばたっっ。
気付いたら台所の床に押し倒されてて、何がどーなって仰向けに転がされたのかもわかんなくてぽかんとしてしまった。
いっしょに倒れ込んだ銀ちゃんは、いつのまにかあたしのお腹に顔を埋めて抱きついてる。重い、重いよ潰れそうだよ銀ちゃん起きて。
なんなのこれ、あたしにプロレス技でもかけたいの?何がしたいのこの痴漢。
いったい何を考えてるんだか、頭をぽかぽか殴っても髪をぐいぐい引っ張ってもびくりとも動かないし。
ついさっきまでやりたい放題でさんざん人をあわてさせたくせに、なんかぶすっと黙りこくってるし・・・!
「〜〜〜もう、なんなの、こんなところで・・・なんなの銀ちゃんっ」
「・・・っだよそれぇ、物分り良すぎじゃね」
「はぁ?なんで呆れたよーな声出してんの!?呆れてるのはこっちだよっっ」
「いやいやより俺のほうが呆れてるから。呆れて物も言えねーから」
いや言ってるけど。すっごく言ってるけど!?
なんて言い返してあげようとしたら、銀ちゃんはその寸前に持ち前のよく滑る舌であたしの言葉を遮ってきた。
「何なのお前、もっと他に言いたいことあんだろーによー、何で言いてーことのひとつも言わずにいい年こいたおっさんを甘やかしてんの。
普段はバカだの死ねだのマダオだのさんざんこき下ろすくせによー。俺がちょっと胸とかケツとか触っただけでぷりぷり怒って殴るくせによー!」
「殴るに決まってるでしょっ、銀ちゃんところ構わず襲ってくるし変態だし今だってケダモノ同然じゃん逆ギレするなっっ」
「だーかーらー、そこじゃなくてよー」
あたしにプロレス技をかけてた腕の力を抜いてから、むくっ、と白っぽい癖っ毛の頭が顔を起こす。
ちょっと怒ってるような、拗ねたような半目と視線がぴたりと重なった。
背中に回されてた手が、押し倒されたせいで解けかかった帯を掴んでざわりと動く。
眉間がきゅっと寄っててなんとなく複雑そうな表情の銀ちゃんが、言いたくなさそうに口を開いた。
「・・・なぁ。わかってんの?お前がそーやって甘やかすから、銀さんつけ上がっちまうんだぜ」
「・・・・・・」
開ききった目をぱちくりさせながら銀ちゃんを見つめる。
――だけど数秒後には我慢出来ないくらいおかしくなって、ぷっ、と吹き出してしまった。
「・・・なにその反応。ていうか、その言い草はないよ。ぜんぜん意味がわかんないんだけど」
優しい彼女がせっかく許してあげたのに、なんでぶすっとしてるの銀ちゃん。なにそれ、すっかり不貞腐れちゃって。
それにさ、たぶん銀ちゃんは気づいてないんだろうけど、あたしが甘いのは銀ちゃんのそーいう態度のせいでもあるんだよ。
こんな時に限って神妙な顔して謝ってきたり、妙なとこで照れて不貞腐れたりするんだもん。
そういう銀ちゃんを――こんな見慣れない銀ちゃんをひとり占め出来るのがね、あたしはすごく嬉しいの。
だから結局許しちゃう。「しょうがないなぁ、焦げちゃったハンバーグ、もう一回作り直してあげようかな」なんて気分になっちゃうんだよ。
あたしってだめだなぁ、なんて思いつつ、ついつい甘やかしちゃうんだよ――
「ふーん、そう。甘やかされるとそんなにいやなんだ。じゃあ今から今まで以上に厳しくしてあげるよ。とりあえず今からえっちなこと禁止ね」
「うそ、うそうそ今のうそ!いやごめん今のなし聞かなかったことにしてデレたちゃん最高大好きかわいいマジ天使!」
いらない墓穴を掘っちゃったせいで顔をびくびく引きつらせながら本気であわてふためいてた銀ちゃんは、そのうちになぜか表情を変えた。
どうしたんだろ、何か考え込んでるみたい。
あたしを抱っこしたままでがばっと勢いよく起き上がると、ちろ、って台所の床に視線を流して。
「・・・あのよー。悪りーんだけどもうちょっと甘えていい」
「なに、もうちょっとって。言っとくけどまた変なことしたら殴るからね」
「いや今度はそーいうあれじゃねーから。神楽だよ神楽。あいつよー、しょぼくれてんだわババアの店で」
「えっ・・・」
それってどーいうこと。
あたしは目を丸くした。言いにくそうに切り出した銀ちゃんが、毛先が自由に跳ねまくった頭をボリボリ掻き始める。
銀ちゃん、さっき言ってたじゃん。神楽ちゃんは新八くんの家に行ったって――
「実はあいつも腕とかやられちまって。まぁ俺と違って、小一時間で治っちまったけどな。
けど服とかボロボロになっちまってっから、帰れねーっつーんだわ。この格好で帰るとお前が泣きそうな顔すっから帰れねー、って泣きそうなツラして。だから」
「――行こ、銀ちゃん」
「へ」
「神楽ちゃん下にいるんでしょ。迎えに行こう」
早口に言いながら立ち上がって、早く早く、って太くて硬い腕を掴んでぎゅーぎゅー引いた。
どうしよう、そんなふうに思われてたなんて。ちっとも気づいてあげられなかった。神楽ちゃんに悲しい思いさせちゃった。
銀ちゃんの怪我でびっくりしたせいで、頭が回らなかったんだ。
喧嘩慣れしてる銀ちゃんがこんなになってるんだから、神楽ちゃんが怪我しててもちっとも不思議じゃないのに。
なのに、どうして銀ちゃんの言うこと真に受けちゃったんだろう――
いつも元気で図太そうにみえるけど、本当は繊細ですごく優しい女の子。
見た目は似てないけど中身はどこか銀ちゃんに似てる神楽ちゃんの、泣きそうになったときのしゅんとした表情を思い浮かべる。
そうしたらいてもたってもいられなくて、ようやく立ってくれた銀ちゃんを引きずる勢いで玄関へ向かった。
すると後ろからぺったぺた鳴る足音と、感心してるんだかバカにしてるんだかよくわかんない溜め息が聞こえて、
「いやすげーわ惚れるわ。お前さぁこーいう時すげー男前だよなぁ、行動早ぇーよなぁ。さすが俺の嫁、頼りになるわー」
「銀ちゃんがダラダラしすぎなだけでしょっ。て、ていぅか・・・ょ、嫁じゃないしっっ」
「いーじゃん別にぃ。そのうちなってくれんだろ坂田に」
「〜〜〜そ、そんなのしらないっ。いーから行くよっっ」
かーっ、っと一気に火照りきった赤いほっぺたを隠しながら、玄関目指してぱたぱた進む。
・・・まったく銀ちゃんてば、油断できないんだから。さりげにどきっとすること言うから動揺しちゃったじゃん。
そんなことより早く迎えに行ってあげようよ。そして、三人でハンバーグ食べよう。
残った材料でもう一回作れるかな。お肉の少なさをみじん切りの野菜でカバーしたら、二人とも物足りないかな。
いつも食材少なめな万事屋の冷蔵庫の乏しい中身を思い浮かべてたら、ぐいっ、って後ろに引っ張られる。
えっ、ってつぶやいて振り返ろうとすると、足袋を履いた足裏がつるっと滑る。次の瞬間には、もう片方の足裏からも床の感触が消えて、
―― えっ。なにこの突然の浮遊感――
「――っひゃあ!ち、ちょっ!?」
ふわりと身体が宙に浮く。
唐突に馬鹿力を発揮した銀ちゃんに、また抱っこされて持ち上げられた。
うわわ、ってよろけながらめちゃくちゃに振り回した腕でふわふわした頭にしがみついたら、
「なー、ー。ババアんとこ行く前にちゅーしていい。一回だけ。ちょっとだけ」
「ひ、〜〜〜っっっ!?」
ふにっ。
耳たぶに熱い唇をやわらかくくっつけられて、もう一秒も我慢できません、ってかんじのもどかしそうな声でおねだりされた。
それからほっぺたに、おでこに、まぶたに、目尻に――ちゅ、って啄むだけの短いキスが、顔中に降ってくる。
ひぃっっ、ってうめいたあたしは、全身を竦めて身悶えた。
・・・無理、もう無理。これじゃ下のお店になんて行けない。神楽ちゃんやお登勢さんと顔を合わせられないよ。
いつもどおりにすっとぼけてる目でまっすぐじいっと見つめてくる銀ちゃんのせいで、顔どころか耳や首まで真っ赤っ赤になっちゃったじゃん・・・!
「〜〜っっ。ぃっっ、一回だけって、一回だけって!!」
「ぁに言ってんの、こんなもんちゅーしたうちに入らねーよ。そーじゃなくてー」
「だめっ、もうだめっ。銀ちゃんいっつもそーやって騙すじゃん、そんな顔したってだめだからっ」
「しねーって。ほんとはめちゃくちゃセックスしてーけど我慢すっから。ちゅー以外はなんもしねーから。先っぽだけでいーから」
「先っぽって何の!?」
「あとハンバーグ、そのうちもっかい作ってくんね。すげー食いたかったんだわお前のあれ」
「・・・・・・」
もう。しょうがないなぁ、銀ちゃんは。これだから困っちゃうんだよ。
うん、って頷いて笑いながら抱きついて、ふわふわした白い癖っ毛を薄く被った耳元にそっと唇をくっつける。
誰かに聞かれちゃったら恥ずかしいないしょのお願いを、小声でこしょこしょささやいた。
――うん、いいよ。 許してあげる。
だから銀ちゃんもあたしを離さないでね。ずっとこのまま、離さないでね。