※ 1話目に (≠銀さん)×(主人公) な場面と暴力的表現等があります ↓









わたしの世界には嘘があふれている。
最初にそう気づかされたのは、三年前。まだ16歳だった。母の再婚で義兄になった人が深夜に部屋にやって来て、拒むことすら許されずにすべて奪われたときだった。



 わ た し だ け の か わ い い 化 け 物




「――ずっと会いたくてたまらなかったんだ。きみもそうだった?」

そう囁いて抱きしめてきた人の胸に凭れかかると、わたしは無言で頷いた。
「きみのほうから甘えてくれるなんて珍しいね。一人暮らしがさみしかったのかい」
自分の言葉に酔っているような響きの声にそう言われ、耳元で揺れるピアスの小さなモチーフを弾かれる。 唇を噛みたくなるような悪寒で背中が竦んだけれど、うん、ともう一度頷いた。 二度の肯定はどちらも嘘だ。けれど義兄は、わたしが本気でさみしがっていると信じきってくれたらしい。
「かわいそうに・・・今日は一晩中甘えさせてあげるよ」
興奮で上擦った慰めの言葉を囁きながら、わたしを着物の上からまさぐり始めた。 すぐに胸を揉みくちゃにされる。止める間もなく首筋に齧りつかれ、悲鳴を上げてしまいそうなくらいの痛みが走る。 ひさしぶりに感じさせられた気味の悪さに全身が強張り、咄嗟に口を押えて悲鳴をこらえる。そんなことにも気づかずに、義兄はわたしを撫で回し続けていた。

「また少し痩せたんじゃないか、。駄目だなぁ、きみは食事をおろそかにしすぎるよ。 ろくに食べていないんじゃないかって、お義母さんも心配していたよ」
「義兄さん、痛い・・・」

強めな口調で訴えても、聞く耳すら持ってくれない。胸を押して拒むわたしを気遣うこともなく窓硝子に押しつけ、義兄は噛み痕をさらに増やしていく。 きつく噛まれた首の付け根が、うなじが痛い。血が出ているんじゃないかと思うような、ひりついた痛みだけが肌に残る。 加減を知らない義兄の愛撫は、いつもわたしに恐怖感以外の何ももたらしてくれない。 この人はわたしが触れさせなかった間、どれだけ女の身体に飢えていたんだろう。 そんなことを思ってしまうような落ち着きのなさで手指が動き、着物の上から胸や腰を鷲掴みにする。 気に入った玩具を弄っているときの子供みたいな、思いやりのかけらもない手つきだ。 自分の欲を満たすことしか頭に無さそうな性急さにぞっとしながら、わたしは目の前の窓を見つめた。
普段は目隠しのために閉じているカーテンが、今夜は端まで開ききっている。 この部屋がある十七階から見えるのは、一人暮らしには不必要な広さのバルコニー。 それと、無機質な光を放つ高層ビル群や近所の繁華街の明かりに照らされた薄赤い夜景だ。 けれどわたしが眺めたかったのは、それとは別の光景だった。 嫌悪感しか持てない愛撫から少しでも気を逸らしたい。そう思って眺めたのは、暗い硝子にぼんやりと映った自分の部屋。 一人で使うには広すぎる室内の窓際に置かれた、ちいさなテーブル。 その上に出しっ放しにされたままのネイルの小瓶に、視線は自然と吸い込まれていった。
身勝手に押しつけられる義兄の身体に仕方なく全身を揺らされながら、わたしはきつく目を閉じた。 必死になって思い出そうとした。あの手がどんなふうにあの小瓶を持っていたか。 光をわずかに弾いて輝くブラッドオレンジの輪郭に、あの手がどんなふうに触れていたのか。
(男の人に塗ってもらうなんて、なんだかちょっと倒錯してる。)
そんな理由で塗ってもらうのを遠慮したわたしに、あの人がどんな表情を向けてきたか。 あの手がどんなふうにわたしの指に触れてくれたか。塗り終わった後でくれた短いキスが、どんなに優しかったか。どんなにわたしに勇気をくれたか。
思い出したい。あの手がくれたものを、もっと鮮明に、もっとはっきりと。
身体に纏わりつく義兄の感触を頭の中から追いやってしまいたくて、わたしはそれだけを考え続けた。 わたしを護ってくれる手を。壊れ物でも持つように触れてくれた人のやさしさを。 そのとき感じた泣きたくなるような安堵感や、めまいがしそうなくらいにしあわせな気分を――
なのに義兄は「そんなことは許さない」とばかりに、見たくもない現実へと引き戻そうとする。ぐい、と無造作に髪を引っ張られ、全身が粟立つ。 顔だけを振り向かせて非難するような視線を流せば、得意げに目元を細めていた兄はわたしの顎をくいと引いた。

「もう我慢できないよ。ねえ。いいだろう、・・・」
「・・・・・・うん」

芝居がかった猫撫で声の薄気味悪さに、一層寒気が増してくる。 義兄と視線を合わせないように気をつけながら、わたしは唇を噛みしめた。
嬉しいよ、と背中に軽く口づけられれば、ぶる、と背中に寒気が走る。 本当なら、窓硝子に押しつけられた胸やお腹のほうが冷たさを感じていいはずだ。なのに、義兄の重みを感じている背中は胸やお腹よりもずっと寒い。 これ以上何かされたら、もう凍りついてしまいそうだ。 視線を伏せたわたしの目元に、義兄が唇を寄せてくる。 押しつけられる寸前だった口づけを自然に避けるために、彼の頬を撫でながらそれとなくやんわりと押し返した。 あまり近づかれると困ってしまう。胸の中はすでに嫌悪感でいっぱいで、そういう自分を顔に出さないようにするけでも精一杯なのに。

「こんなに僕を我慢させて、酷い子だな。何度電話しても出てくれないから、他に男が出来たんじゃないかと心配だったよ・・・」
「・・・会う時間がなかったの。大学が忙しかったから」
「本当に?メールも返してくれなかったじゃないか。僕を嫌いになったからじゃないのかい」
「・・・本当。義兄さんを嫌いになったことなんてない」

ねっとりと厭らしく動く男の手が胸から衿元へと這ってくるのを感じながら、わたしはまた苦し紛れな嘘をついた。
どれも嘘だ。この人を嫌っていない、というのも大嘘だし、大学が忙しい、というのも嘘。 身体を壊す寸前まで勉強して合格した学校だけれど、大学にはあまり行っていない。 そう熱心に通う必要がないからだ。あの学校に進学できた時点で、わたしの目的はすでに果たされている。 義父の世間体に傷をつけないレベルの大学に進学すること。それと、一人暮らしを始める口実として家から遠い大学に受かることだ。 どちらの目的も無事に達成されたのだから、あとは真面目に通っているふりをすればいいだけだった。 さいわい、通っている学部は女子率が高い。女子高育ちのわたしにとっては、過ごしやすい環境だった。 女の子同士の付き合いに必要なコツは、幼い頃から自然と身についている。多少は心を開ける友達ならすぐに出来た。 専攻しているゼミの子たちとそれなりな友好関係を築き、たまに代返を請け負ったりすればノートのコピーが回ってくるから、試験もどうにか乗り切れる。 だから出席率が悪くても支障はない。そのおかげで、自由に使える時間はたっぷりあった。 義兄をわたしの世界から永久に追放してしまう方法を、その間ずっと考え続けてきた――

「――ねえ、本当に嫌いになってないの。きみと連絡が取れなくなってからずっと疑ってたんだ」
「本当。・・・嫌いになったりしない。わたしがこんなことを許すひとは、義兄さんだけ」
「そんな醒めきった顔で淡々と言われてもなぁ・・・。ねえ、たまには笑ってみせてくれないか。 普段の素っ気ないきみも好きだけど、久しぶりに愛し合えるときくらいは甘い雰囲気も見せてほしいな」
「・・・そういうの、恥ずかしいから」
「そうか。それなら、恥ずかしさなんて忘れてしまうくらいに乱れさせてあげるよ・・・」

『恥ずかしい』と拒んだときのわたしの声に微かな嫌悪が混じっていたことには、どう見ても気づいていなさそうだった。
『会いたいから部屋に来てほしい。』
そんな嘘のメールで義兄を誘ってから、数時間後。 この人は以前にもそうしていたとおりに服装を変え、帽子まで被り、人目を避けるようにしてわたしの部屋へやって来た。 そして以前そうしていたのと同じように、窓際に立っていたわたしを冷たいガラスに押しつけるようにして抱きすくめた。 彼はいつも、女の子を辱めるようなことばかりを試したがる。 この高層マンションに移り住んでからはそんな傾向が特に強まっていて、とりわけ、カーテンを開けた夜の窓辺で後ろから犯すのがお気に入りだった。
『何をしても表情が変わらないきみもいいけど、こうしているときのきみはたまらなく好きだよ。 泣きながらガラスに爪を立てたり、必死に声をこらえて苦しそうにしている顔を見ると興奮する』
彼はときどきそんなことを言った。生温い吐息と下卑た声を首筋に押しつけられながら、その言葉をとても不思議に思っていたことを覚えている。 今もそうだ。この人の手から逃れるために家を出た今でも、わたしにはこの人の気持ちがよくわからない。 あんなことを言われたわたしが本気で喜ぶとでも思っていたんだろうか。もしそう思っていたとしたら、なんてしあわせな人だろう。 どうやったらわたしが、この人の言葉を信じられるというんだろう。義理とはいえ、にいさん、と呼ぶべき人の歪んだ欲の捌け口にされ続けてきたわたしが。 父母の前では仲の良い義兄妹を演じさせられ、裏では兄になった人の言いなりになる愛玩物として扱われていたわたしが。 あの家に居た三年もの間、義兄とのことを誰にも相談できず、一日も早くあの家を出ることだけを夢見てきたわたしが。
(僕たちのこんな関係を周りが知れば、父さんたちの再婚は台無しになる。きっと悲しむだろうね、お義母さんは。)
わたしが拒もうとするたびにそう言い続け、ずっと脅し続けてきた人を、どうして信じられると思ったんだろう。 まさか、秘密の恋人でも持ったつもりでいたんだろうか。わたしが彼に好意を持って身体を許したと、無邪気に信じていたんだろうか。
それとも、――親や周囲の目をくらますために嘘ばかりついてきたこの人は、自分にも嘘をついているんだろうか。
この人にも人並みの罪悪感があったとしたら――嫌がる義妹を犯した罪悪感をごまかすために、彼は自分で自分を騙しつづけてきたのかもしれない。
(これは、心も身体もすべて許してくれた相手との行為だ。)
そう思い込むことで自尊心を保とうとして、彼は彼なりに必死だったのかもしれない。 そういえば、感情が考えがあまり外に出ないわたしの態度を義兄はよく冗談交じりに責めていた。 もしかしたら、嫌われているんじゃないか。そんなことを考えて、ひそかに不安でも抱いていたんだろうか。 だとしたら滑稽な話だ。わたしは彼が何をどう思おうと気にしたりしない。 嘘を嘘で塗り固めてきた彼の中にどれだけの虚実が渦巻いていたとしても、どんな真実があったとしても、わたしにとっては何の意味もない。 それどころか、いくら身体を重ねても、この人のことなんて何ひとつ知りたいと思わなかったのに――


「・・・待って、」

下肢を押しつけられる寸前で、腰に回されようとしていた腕を押し返す。 胸元に入れておいた携帯が鳴っている。一回、二回、三回。短く素っ気ない旋律は、すぐに途切れた。 切れると同時で、その番号にリダイヤルする。
ベッド際の間接照明しか点けていない薄暗さの中で、両手で持ったちいさな画面だけが白く浮かび上がっていた。 視界をまぶしく照らすちいさな発光体を見つめながら、心臓が凍りついてしまいそうな気分で数える。
一回。二回。三回。
あらかじめ決めてあった回数が過ぎると、夕陽のような赤に染まった爪先で発信を切った。

「・・・友達から?掛け直さなくていいのかい」
「いいの、すぐに切れたから。・・・他の子に掛けようとして間違えたのかもしれないし」

そう返すと、義兄は何か問いかけたそうな表情になった。かと思えば、すぐにわたしの身体をまさぐり始めた。 直接肌に触れられれば、途端に吐き気がこみ上げてきてくる。 それでもどうにか我慢して、教えられていたとおりの演技を続けた。 適当に感じているような声を上げて、たまにキスされそうになるのを上手く躱して。 着物をずり下ろされた肩や背中に唇を押しつけられた時は悲鳴をこらえるのが大変だったけれど、寒気のするような嫌悪感しか抱けない相手に唇を許すよりはずっとましだ。 下着を掴む手の感触が、耳を掠める吐息の熱がわずらわしい。 爪を立てて縋りついた窓の向こうに、最近ようやく見慣れてきた十七階の夜景が広がっている。 この街の光のすべてが集まっていそうな、煌びやかな光景が映っている。 好きでもない男に抱きしめられている、誰かの姿も映っている。 きぃ、と塗ってもらったばかりのネイルが剥げそうな音を鳴らして爪先が軋む。大好きな人がゆっくり時間をかけて、とても綺麗に塗ってくれたのに。 身体を窓に押しつければ、氷のような冷たさが動かしようのない壁になってわたしを阻んだ。いやだ。もう逃げたい。 そう思ったら、電話を切ってからずっとこころの中で唱え続けていた言葉がほろりと口からこぼれてしまった。

「・・・・・・はやく・・・、」
「何だ、もう欲しいの。いけない妹だな、そんなに兄貴を欲しがるなんて」
「・・・っ。ちがう、違うの、今のは・・・」
「違わないだろう。きみから誘ってきたんじゃないか」

腰に腕を回される。ぐい、と彼のほうへ引かれるままに突き出すと、「いい子だ」と義兄は頭を撫でてくる。 寒気で身体が震え上がりそうだ。髪を撫でてくるもったいぶった手つき。従順な愛玩物に満足しきっている、だらしなくて征服欲に満ちた男の声。 いや。いやだ。どちらにも嫌悪感しか感じられない。どうしてこの人はこんなことをするんだろう。 いつもそう思っていた。だけど、苦労して育ててくれた母を思えば、何も言えなくなってしまう。
義理の娘にこんな高級マンションを与えてしまう資産家の義父は、母の昔の恋人だった人だ。 あの人が他に何人か女の人を囲っていることは、母が結婚してから知った事実だった。母は何もかも承知の上で義父と結婚したのだ。
(昔から女癖は良くなかったけど、そう悪い人じゃないのよ。何より、あの人のお金はのためになる。 学費の心配もなくなるし、不自由のない生活が送れるわ。)
そう言って心からの笑みを見せてくれた母に、わたしは何も言えなかった。 もし、わたしのことが原因で、母と義父との間に亀裂が生まれてしまったら。 わたしと義兄のことを知ってしまったせいで、母がやっと手に入れた幸せが壊れてしまったら。 そう考えたらおそろしくなって、この手を振り払って義兄に抵抗することすら罪悪のように思えてしまう。 なのに義兄はそんなわたしの葛藤も知らずに、脚を開いて、と上擦った声で囁いてくる。 いや、と叫んで振り払ってしまいたい気持ちをこらえて、わたしは黙って頷いた。 寒気で身体がどんどん縮み上がっていくのに、心臓は破裂しそうなほど暴れている。くるしい。息が出来ない。 後ろにいる人の手の動きは、わたしの異変なんて感じていなさそうだ。 はぁ、はぁっ、と気味の悪い呼吸を繰り返し、もう襦袢の裾を割ろうとしている。
早く来て。早く。早く――
舌を噛みきって死んでしまいたい。本気でそう思ってしまう自分を必死で押さえ込みながら唱え続けていたら、玄関からのチャイムの音が耳を突き抜ける。 とても穏やかな音色なのになぜか身体が震え上がって、それと同時で義兄の手の動きも止まった。喉の震えを押し込めながら、わたしはなんとか口を開いた。

「・・・ぉ、お客さんみたい。ま、待ってて」
「どうして。やっとこうして触れ合えたんだ、放っておけばいいじゃないか」
「〜〜〜いやっ。もう、さわらないで・・・!」

腕を掴んできた汗ばんだ手を振り払ってしまえば、後はもう何が何だかわからなくなった。 恐怖ですっかり冷えきっていた手で両耳を押さえて、まるで狂った人のような金切声を上げる。 取り縋ってくる手を夢中で振り切り、広いリビングを突っ切って、わたしはまっしぐらに玄関に走った。
後ろで義兄の声がする。何か呼びかけてくるけれど、何を言っているのかわからない。 歯が震えて噛み合わない。うるさいくらいにがちがちと鳴っている。そのせいで何も聞こえなかった。 ぶるぶると激しく揺れる手で苦労しながらキーチェーンを外してしまえば、ドアは向こうから勝手に開く。 わずかに出来た隙間から走り出たわたしを、伸びてきた腕が抱き止めてくれた。

「――おいおいお嬢さぁん、どこ行くの」

飛び出してきた理由なんて全部わかっているくせに、どうしてこんなとぼけたことを言うんだろう。
少し恨めしくなったけれど、背中まで回された腕の温かさにどうしようもなく安心させられた。 がっしりした胸に顔を埋めて、奥から響いてくる心臓の音がいつもより大きいことに気付く。 じっとして心音に耳を傾けていると、おでこに押しつけられた唇から漏れる息遣いも、少し弾んでいるみたいに聞こえた。

「・・・急いで来てくれたの・・・?」
「あー、そらぁもう全力疾走だわ。俺じゃなくてバイクが」
「銀ちゃん、バイクで十七階まで上がってきたの・・・?」
「そーだよ、ああ見えてあのおんぼろバイク馬力すげーから。階段くれー普通に昇るって」

とぼけた口調で言いながら、銀ちゃんはわたしの表情を確かめるようにして顔を見合わせた。 義父の資産のひとつだという高級マンションの通路は、夜間でも消灯されることがなく白く明るい。 その灯りに照らされた、癖のある銀髪が光って見える。重そうな瞼の影からじっと見つめてくる瞳もかすかに光っている。 こちらへ投げかけられている視線も、普段とはどこか違う昂揚感を帯びているような気がする。 けれど義兄をここへ誘い出す計画をすべてお膳立てしてくれた人の顔はいつもと変わらず気だるそうだし、気負いもあまり感じられない。 そんな態度を目にしていると、わたしまで自然と落ち着いてくる。 叫んでしまうほど取り乱していたことも忘れそうになるし、何もかも上手くいくような気がしてきた。
「何これ、ボロボロじゃん」
顔色も変えずにわたしを眺め尽くした銀ちゃんは、自然な手つきで乱れた着物の衿を掴む。 肩口までずり下がっていたそこを引き上げ、すっかり崩れていた衿元や帯の緩みを整えてくれた。 肩を抱いたままでドアを開け、入ろーぜ、と何気なく勧めてくれる。 何の緊張感も無さそうな緩んだ笑みを見上げれば、強張りきっていたわたしの顔も緩み始める。 背中を押してくれる手の感触にも勇気を貰える。 裸足のままで飛び出した通路から玄関へと、自然と足が向かっていく。まるで魔法だ。 さっきまでは怖ろしくてたまらなかった室内に、わたしは自分でも驚くくらいにすんなりと入ることが出来た。 どれも銀ちゃんが傍にいてくれるおかげだ。信じられる人が隣にいてくれるだけで、こんなに安心していられる。 これまでにも何度も実感してきたことをまた感じながら、ブーツを脱ぐ間も惜しむような急いだ様子にぼうっと見惚れた。 そのうちに、銀色の髪に半分隠された目がこっちを向いて、

「ん、なに、」
「・・・・・・何でもない」

わたしの考えを見透かしたようににやつく顔に尋ねられたけれど、黙って視線を床に落とした。 何を思って眺めていたのかは口に出来なかった。表情から何となく察してもらえればいいのだけれど、それもたぶん無理だろう。
義兄も言っていたように、わたしは感情が表に出にくい性分だ。
人よりも極端に表情の変化が少ない。口数だって、同じ大学に通う子たちより格段に少ない。 自分が抱えた感情を相手に説明しようにも、それが出来ない。義兄とのことがあってから、人と接することが苦痛になってきたせいだと思う。
人間不信。今のわたしは、そう呼ぶのに相応しい状態なんだろう。
あの家にいた三年で人に心を開くこと自体が恐ろしくなって、誰とも親しく関わろうとしなくなった。
(心を開ける人なんていなくていい。表面的な人付き合いさえ上手くいけば、それでいい。)
そんなふうに決めつけていた。 だけど、そんな上辺だけの関係では済ませてはくれない人が今のわたしの傍には居る。 こうして黙って視線を逸らせば、もちろん彼は知りたがる。わたしが何を思っているかを。 部屋に居る義兄のことも、たぶん気になっているんだろう。何かを調べているような目でしばらくわたしを眺めた後で、廊下の突き当たりに見える半開きのドアに視線を移した。

「どーよ。俺が言ったとおりに出来た?」
「・・・うん」

どうだったんだろう。本当のところは、あまり自信がない。
迷いながら頷いたら、肩に乗った腕に引き寄せられる。 顔の横に頬を押しつけるようにして抱きしめられれば、熱い首筋から汗の匂いが漂ってくる。ばさ、とブーツが倒れる音が足元で鳴った。 こつん、とおでこを打ち合わされる。こっち見て、と合図してくるときの、彼の癖だ。 ゆっくり顔を上げて視線を重ねれば、間近で瞳が細められる。どこか複雑そうに揺れる瞳の表情が、わたしにもはっきりと判る距離。 これが義兄だったら、きっと叫んでいただろう。 他の誰かなら嫌悪感を感じてしまう距離なのに、銀ちゃんに対しては欠片も感じない自分がいつも不思議になる。
まっすぐに目を見つめてきた視線がわずかに下がると、うわ、と銀ちゃんが悔しげにつぶやいた。 首の根元を指先でくすぐるように撫でられたら、触れられただけでひりっとする部分があった。たぶん、義兄に噛みつかれたところだ。

「・・・あーあーっだよこれ、みみず腫れになってんだけど。お前これ、痛くねーの」
「うん。触らなければ平気だから」

あまり追及されたくなくて当たり障りなく答えても、深く伏せた視線は噛み痕にじっと注がれたままだ。
それまでは下がり気味だった銀ちゃんの眉が、苦笑とともに歯痒そうに顰められた。

「全力で急いだのによー。やっぱこーいうの付けられちまったか」
「――っ、ん・・・」

腰に回していた腕でわたしを前へ押し出すと、何の前置きもなく唇を奪う。
熱いやわらかさに塞がれると同時で、後ろ頭を抱えられる。急に襲ってきた息苦しさのせいで、んっ、と鼻にかかった声が漏れてしまう。

「痛てー目に遭わせてごめんな。後で冷やしてやるから」

重ね合せたままの口の奥でつぶやかれて、嫌悪感で凍りつきそうだった胸の中を蕩かすような熱が生まれる。 黙って背中まで腕を回して抱きつけば、さっきまでのだるそうな様子が嘘だったような貪欲な動きで、銀ちゃんは口内を撫で回し始めた。 ちゅ、くちゅ、とわたしの舌を揉むようにして深く絡みつく感触は、呼吸することも許してくれない。 そんなにされたら胸まで苦しくなってつい押し退けたくなってしまうのに、好きな人からの口づけはどうしようもなく甘い。 どんなに苦しくても、やめてほしいとは思えなかった。
――ドアの鍵は開いたまま。奥のリビングには義兄もいる。
誰に見られてもおかしくないこんな場所でキスするなんて、自分でも自分が信じられない。 恥ずかしい。けれど、その恥ずかしささえ今は甘さや気持ちよさに変わっていく。 義兄に触れられたときの耐えがたい苦痛や不快さが、こうして深く絡め合っているだけで癒され浄化されていく気がする――
いつのまにか夢中になって、わたしは背伸びで彼に応えた。さらに強く抱きしめられて足先まで浮き上がる、その浮遊感すら心地いい。

「んん・・・っ」
「な。そーいう声、中に居る奴にも聞かせた?」
「・・・・・・っ・・・すこ、し・・・」

息を乱しながらぼうっとした顔で答えると、銀ちゃんは、あっそ、と小さく笑う。
よかった、気にしていないんだ。思ったよりも気楽そうな反応に安心して油断していたら、今度は両頬をぐっと押さえて唇を大きくこじ開けられた。 もっと激しくなった口づけが、すこし怖いけれど嬉しかった。 口内を撫で回す舌の動きに何度も背筋がぞくぞくして、わたしは何度も甘えた声で喘いだ。 縋りついた白い着物の背中の向こうで、ばん、とリビングのドアが勢いよく鳴る。 きっと義兄だ。速い足音がこっちへ向かってくる。わたしは反射的に背筋が震え上がったし、銀ちゃんも何が起こっているか判っているはずだ。 なのに、喉の奥まで入り込もうとするような長いキスは強引に続いて。玄関へ出てきた義兄が「おい!」と怒鳴る寸前まで、わたしを離してくれなかった。


「――誰だ、お前は。ここは僕の父が所有する部屋だ。勝手に入られては」
「あれっ。んだよ察しの悪い男だなぁ、まだわかんねーの。俺、あんたの妹さんの今の彼氏な。よろしく、お義兄さん」

透明な雫で濡れたわたしの唇を指先でなぞるようにして拭きながら、銀ちゃんは平然と兄に答えていた。 さっきのことを思い出して震えが止まらなくなったわたしは、義兄の顔を見ることすら怖い。 震える手で胸元に縋ってうつむいていると、がっしりした腕に肩を抱かれた。 ゆっくりとその腕が動いて、わたしたち二人を見比べながら絶句している義兄と向き合わされる。 こわごわと眺めた彼の顔は、怒りですっかり引き攣っていた。

「お前に用はない、僕は妹と話したいんだ、今すぐ出ていってくれ。、どういうことなんだこれは」
「あーはいはい、そのへんは俺が説明すっから」
「・・・聞こえなかったのか。僕は出て行けと」
「先に言っとくけど、あんたがにしてきた事は全部知ってっから。でよー、いい加減こいつから手ぇ引いてくんね。 とりあえずな、あんたが淫行を強要した証拠を押さえたっつーか、ここの窓に妹押しつけていかがわしい行為に及ぼうとする兄貴の姿をばっちり撮ってきたから」

あんたの顔も何もはっきり映ってるぜ。これ、近くのビルの屋上から撮ったやつだから。
薄笑いで差し出したのは、肩に提げていた望遠レンズ付きの大きなカメラだ。紐を外して片手で持ち上げたそれを、ひょい、と放って受け止める。 「なっ」とつぶやいた義兄は声もなく立ち尽くし、数秒後、思ったとおりに真っ青になって逆上した。カメラの端をぐっと掴んで、

「な、何なんだお前は!この僕を脅そうとでもいうのか、チンピラ風情が!」
「俺のこたぁ何とでも言えや。けどよー、少しは自分の立場ってもんを考えて物言ったほうがいーんじゃねーのお義兄さん。 俺ぁ性質の悪りーチンピラだからよー、この写真でコピー作って、あんたの親父の会社と子会社の前でばんばんビラ配りしちまうけどそれでもいーの」
「〜〜なっ、何が悪い!今日のことはとは合意の上だ!僕は何も悪くない、何が悪いっていうんだ、悪いのは誘ってきたの方だ!」
「・・・。へぇ、そいつぁ意外だねぇ。あんた、自分は少しも悪かねーとか思ってんだ」

心底不思議そうに尋ねた銀ちゃんの声は、淡々としていて穏やかだった。 けれどその一瞬後、カメラを掴んでいた義兄の手が、ばっ、と突然振り払われる。びくっ、と義兄が竦み上がった。 銀ちゃんは玄関脇の飾り棚にカメラを置くと、義兄をじっと見つめながら近寄っていく。 仕事を依頼してきた人に見せる愛想笑いに似た表情のままなのに、目の色だけが冷ややかだった。途端に怯え始めた義兄を、上から浴びせる視線だけで射竦めていた。 隣に居るわたしの背筋まで寒くなるような、静かな殺気がちらつく雰囲気がこわい。 人の反応には鈍い義兄も、そのわずかな変化だけではっとしたようだ。今にも掴みかかってきそうだった気配が、徐々に薄れて消えていった。

「てこたぁあれか。ふーん。お義兄さんはさぁ、これまでのこたぁ全部が悪いとでも思ってるわけ」
「・・・銀ちゃん、もういいよ。もう」
「まぁいーじゃん。お前もこの際聞いとけば、お義兄さんの言い分を」

その言葉を聞いて、義兄の顔色が少し変わった。
自分の主張が理解されたと感じたようだ。馴れ馴れしくて卑屈な笑みを浮かべると、

「なんだ、あんた、意外と話が分かるじゃないか。そうだ僕じゃない、こいつがいけなかったんだ。 あんたはまだ知らないんだな、こいつの性悪さを!だいたい最初に誘ったのは僕じゃない、こいつが僕を誘惑してきたんだ! だから僕もつい・・・ち、違う、僕じゃない、この女が男を誘うような媚びた態度ばかりとるから!」
「・・・・・・そんな・・・そんなことしてない、わたし、ちがう、だって、にいさんが・・・!」
「ふざけるな、全部お前が悪いんじゃないか!でなければこの僕がこんな卑しい娘なんかに! そうだお前が悪い、お前が僕を騙しておかしくした!お前が僕を壊したんだ、お前がお前が、お前が・・・!」

繰り返し何度も何度も、我を忘れた義兄は狂ったようにわたしを罵り続けた。
(――お前が悪い。全部お前だ、お前が僕を壊したんだ。お前が、お前がお前がお前がお前が――)
怒鳴り続ける顔に浮かぶ、激しい憎悪に足が竦む。照明が消えた暗い玄関口で目にした、表情を醜く歪めた男の人。 それはわたしの知らない義兄だった。 だんっ、と怒りに任せて壁を殴るその姿も、初めて目にするものだった。
すっかり取り乱して喚き続ける人をただ呆然と見つめるうちに、膝が力無く震えはじめる。 思わず銀ちゃんに縋りついた。全身からすうっと血の気が薄れていく。冷たくなった手で口許を押さえた。 そうしないと、また狂ったような悲鳴が飛び出てしまいそうな気がしたから。
だけど義兄の言い分があまりにショックだったせいか、喉が詰まって声は少しも出せなかった。

――最初から?何のこと。いつ。いつなの。どうして。
どうしてわたしが、この人を誘ったなんて――そんなふうに取られるようなことをした覚えなんて、一度だってない。
・・・わからない。浮かんでくるのは胸をざわつかせるような疑問ばかりだ。兄の言い分は、わたしにはわからないことだらけだった。 なぜこの人は、ここまで身勝手なことを堂々と言い張れるんだろう。怒るとか呆れるを通り越して、ただ呆然としてしまう。 こんな人に苦しめられてきた自分は、あの家での三年間は何だったの。 そう考えると胸が張り裂けそうなくらいに大きな虚しさがこみ上げてきて、絶望的な気分になった。 急に足元がガラガラと崩れていきそうな、闇しか見えない奈落の底まで落ちてしまいそうな錯覚まで起きる。 何かに縋りつかずにはいられなくて、力を失い滑り落ちていく手で白い着物の袖端を握った。

「――嘘。嘘だよ。ひどい。・・・ねえ、信じないで。この人が言ったこと、信じないで・・・」

唇を震わせながらそれだけを銀ちゃんに伝えると、くらりと眩暈がした。視界が上下に揺れ動く。
貧血だ、と気付いたときには膝が崩れて、もう力が入らない。気がつけば、ぺたんと玄関の冷たいタイルにへたり込んでいた。 横から抱き止めてくれた腕に身体を預けても、急に襲ってきた酷い眩暈は止んでくれない。 それでも義兄から目を離せなくて、わたしは冷汗が滲んだこめかみを押さえながらうつろな目で彼を見上げた。 くらくらと気味悪く回る視界を遮断したい。こんな人なんて、もう二度と見たくない。 そう思うのに、どうしても憎しみに歪んだあの表情から目が離せなくて――

「僕は悪くない、何も悪くないんだ!それに僕は、ぼっ、僕はこいつの兄だぞ!兄が妹に何をしようと他人のあんたには関係ない!」
「――誰が兄貴だよ。母ちゃんのこと考えたら逆らえねーこいつに三年も辛抱させてきた奴のこたぁ、間違っても兄貴たぁ言わねーだろ」
!どういうことだこれは、お前、こんな事をしてどうなるか判っているのか!?何とか言え、!」
「そう怒鳴るなよ、近所に聞こえんだろ。にあんたを訴えるつもりはねえし、あんたがやってきたことを義理の親父にチクるつもりもねえんだとよ。 なぁ、ここは潔く認めろよお義兄さん」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」
「・・・・・・っっ!」

いきなり腕を伸ばしてきた義兄に、腕をきつく掴まれた。竦みきって潰れそうな胸の奥から、声にならない悲鳴が飛び出る。 おぞましいとしか言いようがない感触に拘束される。掴まってしまう。嫌だ、と心の中でも怯えきった悲鳴が上がって、わたしは思わず目を瞑る。 痛みから逃れたくてすぐに身体を引こうとしたのに、
――その寸前に、腕を掴まれた感触が消えた。と同時に、だんっっっ、と廊下中を揺るがす鈍い振動が鳴り渡って、

「――触るんじゃねえ」

感情が凍りついたような低い声が間近で響く。わたしに向けられたものではないと判っているのに、聞いただけで身体が縮み上がった。 次いで、ぐほっっ、と何かを吐き出したような呻き声が上がる。「っっゃ、やめろ、返せっ」と、げほげほと咳込みながら取り乱した声で義兄が叫ぶ。 部屋全体を揺らす強く重い振動はそれからも止まらなかった。かちゃ、かちゃ、と頭上で小さく音が鳴り続けている。 玄関脇の飾り棚に置いた一輪挿しや小物が、衝撃と振動で揺らされている。ひどく苦しげな、嘔吐している人のような呻き声が立て続けに何度か上がる。 どう聴いても義兄の声だ。銀ちゃんの声は聴こえない。床か壁か、どこかに重たいものを叩きつけるような音が止まない。 呻き声が憐れな泣き声に変わっていく。何が起こっているのかは薄々察していたけれど、わたしは銀ちゃんを止められなかった。 声も掛けられなかったし、目も開けられなかった。 硬いタイルに突っ伏すようにしてうずくまって、震える手で耳を塞ぐ。その間も、嵐のような殴打の音が頭上で響く。 もしかしたら、義兄がこのまま死んでしまうかもしれない。そう考えたら死にたいくらいにこわくなって、それでも止められない。 わたしはすべてを拒絶して自分だけを守った。

――けれど、途中でそんな自分をおかしく感じた。わたしは何を守ろうとしているんだろう。

自分の身すら自分では護れなかった弱すぎるわたしに。 銀ちゃんがいなければ何も出来なかった、空っぽのわたしに。何が護れるっていうんだろう。 こんなに空っぽな、義兄の欲を満たすための人形でしかなかったわたしを護ることに、何の意味があるんだろう。 わからない。もう何も考えたくない――
混乱しきって自分でもどうしていいかわからなくなって、血が滲むほどにきつく唇を噛みしめる。
ここで少しでも気を緩めたら、また叫んでしまいそうだ。 あの狂ったような金切声を上げて、銀ちゃんのことも義兄のことも置き去りにして、どこかへ走って逃げてしまいたくなる。

「――。こいつ、どうする」

やがて殴打の音が止んで、義兄の啜り泣く声だけが廊下に漂うようになった。

呼ばれて恐る恐る顔を上げれば、吐瀉物にまみれた義兄が廊下の隅にうずくまってぶるぶると震えていた。 顔は壁に向けられて見えないけれど、頬や顎が青紫色に膨れ上がっている。 頭を庇うようにして丸くなった姿は、わたしが知る資産家の御曹司と同じ人とは思えない惨めさだ。 身を寄せている壁の真上は、丸く散った赤い色で汚れていた。混乱しきったわたしがそれが義兄の血だと気付くまで、しばらく時間がかかった。

「銀ちゃん・・・」

怯えて震えが止まらない全身の重みをかけて、義兄の前に立ちはだかっている背中にしがみついた。 ぽた、と水音が足元で鳴る。見れば銀ちゃんの腕は肘から握り拳まで、どこも血で汚れていた。 きつく握った拳から滴る生々しい赤が、ぽた、ぽた、と床に落ちる。裸足の足元にも白い着物の裾にも、その赤は点々と散っていた。
・・・こわい。血の匂いがこわい。この場に流れる空気がこわい。これまでに見たことがない銀ちゃんがこわい。 瞼を伏せてじっと義兄を見下ろす横顔の、静かすぎる気配がこわい。 それでもそのまま抱きついているうちに、肌越しに痛いくらいに感じられた銀ちゃんの殺気が、ふっと消える。 腰に回した手の上から、ぽん、と血に塗れた大きな手を重ねられる。ゆっくりと力を籠めながら、震えが止まらないわたしの手を握りしめた。 大丈夫、と言い聞かせるような仕草にほっとしていたところへ、義兄の身体がこちらに寝返りを打つようにして動く。 涙と血に塗れた顔はすっかり腫れ上がり、表情は恐怖と苦痛で歪みきっていた。 瞼が紫色に膨れ上がった目をこっちへ向けてわたしに気付くと、しゃくりあげながら涙声を漏らした。

「〜〜っ、・・っ、たすけてくれ、・・・!」
「・・・っ」

しがみついた広い背中を盾にしながらおそるおそる義兄を見つめて、わたしは自分の中に眠っていた本心をようやく知った。 もう少しで泣いてしまいそうな、途方に暮れた気分で義兄を見つめた。

――どうしたらいいんだろう。どう向き合えばいいんだろう。
(もうこれ以上、この人に関わらないほうがいい。)
泣きじゃくる義兄や壁に飛び散った血を見た瞬間、わたしは本心からそう思った。 心の底から後悔した。銀ちゃんにこんなことをさせたのは間違いだった。どんなにこの人が憎くても、こんなことはするべきじゃなかった。 もういい。あの三年間の辛さや苦しさは、忘れてしまおう。いつまでもこのひとを恨むのはやめて、赦してしまおう。そうするべきだ。 これからの自分のためにも、わたしの憎悪を代弁するかのように拳を奮った銀ちゃんのためにも、どれだけ苦しい思いをしてもそうするべきだ。
なのにわたしの中で眠っていたもう一人の自分は――あの家に居た間、じっと息をひそめて義兄の犠牲になってきたもうひとりのわたしは、 まだこの人を赦そうという気になれていない。それどころか、床中に血反吐を吐くくらい痛めつけられればいいと心の底から憤っている。 なんて酷いんだろう。自分でも自分が嫌になる。気位が高いこの人がこんなに無様な姿を晒してまで助けを求めているのに、それでもまだ赦せないだなんて。 だけど、わたしの中で「こんな人なんて死んでしまえばいい」と泣き喚いては血の涙を流し、感情を爆発させているその子は、どうしようもなくわたしそのものだ――


「なぁ。こいつ、どうしてほしい」
「・・・・・・約束させて。もうわたしの前に顔を出さないって。二度とここに来ないようにして」
!お前、よ、よくも裏切ったな、あんなに可愛がってやったのに・・・!」

よろよろと起き上がってわたしに掴みかかろうとした義兄が、銀ちゃんに髪を掴まれる。 そのまま片腕で壁に頭を叩きつけられ、目の前を赤く染めて生臭い匂いとくぐもった呻き声が飛び散った。




Caramelization *riliri 2014/06/08/          next →