「――・・・ぅしーち、ごじゅうはーち、ごじゅうきゅー、・・・・・・・60、っと。・・・・・・・・・・」
ちょっと緊張気味に、だけどゆっくりと確実に数え上げたはずの60秒は、終わってみれば拍子抜けしちゃうあっけなさで過ぎていた。
手にしたものを目の高さまで持ち上げて、寄り目になりそうなくらい顔を近づけて再確認。
・・・・・・うん、出てない。まっしろ。何もない。
これで終わり。検査終了。何をしてても落ち着かなくってふわふわ浮き足立ってたここ数日のそわそわ気分も、これで終わりってことになる。
あたしはほっとしたようなちょっと残念なような、複雑な気分でためいきをついた。
じっと座り込んでた便座のフタからぴょこんと立つ。
万事屋のトイレを出て、体温計みたいなかたちをしたあれを持ってまっすぐ銀ちゃんの元へ。毛先という毛先があらゆる方向に、
自由気ままに跳ねまくった白っぽい頭は、ぱたぱた走った廊下の先に見えている。
居間へ飛び込んだあたしの足音が聞こえてたみたい。銀ちゃんはすぐに振り返った。
「――終わったかぁ?で、どーよ。どーだったよ。当たりかぁ?それともハズレだった?」
あたしと真逆で何の気負いもなさそうな、すっとぼけた半目顔が尋ねてくる。しかも「当たり」「ハズレ」って、・・・
駄菓子屋で買ったアイスの当りくじの結果でも確かめるよーなかんじで言わないでほしい。
そんな銀ちゃんの手元には、今日の特売セールで買ってきたいちご牛乳500ミリリットルパック。
見るからに甘そうなピンク色をストローでずずーっと啜り上げながら、銀ちゃんはソファの背もたれに頭を預ける。
真後ろに立ったあたしを見上げて、今にも瞼がくっつきそうな、眠そうな視線を送ってきた。
・・・ふーーーん。そっか。そーなんだ。銀ちゃんて、こんな時でもいつもと全然変わらないんだ。
反応薄いなぁ、ってがっかりしたような気分になる。だけどその反面、反応が薄いほうが言い出しやすいかな、なんて安心した気分にもなった。
あたしが首をぶんぶん振ったら、あー、とちょっとだけ眉をひそめて、
「だーよなあぁ、出来ねーよなぁぁ、あれ一回ぽっきりじゃよー」
「うん、単に遅れただけみたい。ていうかその言い方やめて。「ぽっきり」とか言うな」
「やぁーっぱムズいよなぁ、たった一発でガキ仕込むってのはよー。一発必中狙ったのによー」
「銀ちゃん、その言い方もやめて」
むぎゅ――っっ。目を閉じてうんうん頷いてる訳知り顔のほっぺたを、皮が伸びそうな強さで引っ張る。
なにそれ。何なの、一発一発って。それじゃあまるで昨日行ったパチンコの話みたいじゃん。
ぶーっと膨れて睨みつけたら、銀ちゃんは飲み干したいちご牛乳のパックを、ぽいっ。適当な手つきで放り投げてゴミ箱にホールインワンさせて、
「いやいやあれだわしくったわ、今回は俺の作戦ミスだったわ。数打ちゃ当たる方式で十発くれーイッとくべきだったわ」
「銀ちゃんその言い方もやめて。ていうかじゅっぱ、・・・・・そ、そんなに無理だからっ」
口を押えてもごもごもご、耳まで赤くして目を逸らす。ああ、今のはちょっと危なかった。
つられて言いそうになっちゃったよ、口にしたら最後、お年頃の女の子にとって大事なものが木端微塵に砕け散っちゃいそーなひとことを。
すると何かよからぬことを思いついたらしい銀ちゃんがにたーっと顔中を緩めて、
「いやいやいや、大丈夫だって無理じゃねーって。十発くれー平気だって、やってみりゃー案外イケるって!
なーなーだからよーどーよ今晩あたり、ちゃんちでこないだの続きってことで。こないだ貰ったえっろい誕生日プレゼントのお返しってことで」
「やだ。そんな迷惑なお返し絶対いらない」
「ぇえええええええええええええーーー!!」
泣きが入った絶叫は鼓膜が破れそうな大声だ。がばっと跳ね起きて「何で!!?」って迫ってくる悲しげな顔は、
情けないことに本気の涙目。「何で何で何で何で何で!?」よくそんなに舌が回るよね、っていう早さで連発しながら迫ってくるうっとおしい顔を掴んで、
むぎゅぎゅぎゅーっ。スキあらばちゅーしようとしてるんじゃないかってくらい近づいてきた銀ちゃんを、醒めきった顔で押し返してあげた。
・・・冗談じゃないよ、誰が平気だっていうの。どう考えたって平気なのは銀ちゃんだけじゃん。
こーんなだるそうな顔しといて、実は銀ちゃんって体力無尽蔵なんだもん。
そんな銀ちゃんに付き合わされちゃう凡人のあたしの苦労も少しは考えてほしいよ。
それに、この前のあれはちょっとしたイレギュラーっていうか想定外の事故っていうか、
・・・自分でも無責任だなぁって反省してるけど、半分はその場のノリに呑まれた結果っていうか、何て言うか。
えっちしてるときの色っぽい銀ちゃんのおねだりと甘い雰囲気に流されて、ついOKしちゃっただけのことだもん。
あの時だから出来たことなんだもん。すっかり素面に戻ってる今となっては、あんな羞恥ぷれいもどきなことをもう一回だなんて――
・・・・・・・無理無理無理、絶対無理。しかも十回!?・・・とんでもないよ。
お仕事してるときはやる気のかけらも見せないくせに、やらしい事に限っては目がキラめいて人が変わったみたいに
ノリノリになっちゃう銀ちゃんにそんなにされたら、
――なんてかんじでその場を思い浮かべたら、それだけですーっと血の気が引いていった。わなわなわな。
ああ、想像しただけで怖くなっちゃって、肩も口も面白いくらいブルってる。
・・・・・・・・・・・・・・・どーしよう。そんなことになったら、あたし死ぬ。絶対、確実に、死ぬ!!
「〜〜〜とにかく無理!あんなこと当分させないからっ、絶対絶対、無理だからっっ」
「っだよぉぉ、何でぇ!?いーじゃん作ろーぜ子供!だって結構乗り気だったじゃねーかよぉぉ」
「ちっ、ちがっ・・・!あ、あれはほらっ、そ、その場の雰囲気に流されたっていうか、気が大きくなってたっていうか・・・!」
だってあの時はあたし、その、ほら、な、なんていうか、・・・・ちょっとおかしくなってたから。
今思えばどれもこれも恥ずかしくって、今ここに穴があったら迷わず飛び込んじゃいたいくらいのことしてた。
・・・うん、おかしかったよね。少なくともあれ、ふつーのテンションじゃなかったもん。
あの時のあたしは、銀ちゃん以外見えなくなってた。ただ銀ちゃんを喜ばせたい一心だった。
だからつい「いいよ」なんて言って、銀ちゃんがしたがってるままに許しちゃったんだけど――
「・・・だ。だからね。あのときは勢いで、ああいうことしちゃったけど。でも、・・・無理だよ。赤ちゃんなんて、無理」
困りながら答えたらソファの背もたれに突っ伏してた肩がびくりと動いて、銀ちゃんがむくりと起き上がる。
皮肉っぽく細めた目がじとーっと見上げてきて、つまらなさそうに口を尖らせて、
「んだよぉ。何それぇ。何でもかんでも無理だ無理だってよぉぉ。・・・・・・お前よー、俺のガキ産むのがそこまで嫌なわけ」
「違うよ、そうじゃなくて。・・・だって子供だよ?産んだからにはしっかり育てなくちゃいけないんだよ?
それにはやっぱり、・・・いろいろ必要になるでしょ。お金とか、子供を育てる環境とか、周りの人の協力とか。
そーいうのも含めて、それなりの準備が必要だと思うし・・・!」
「・・・ふーん。それなりの、ねぇ。なにお前、ここ一ヶ月ずーっとんなこと考えてたの。真面目だよなぁはよー」
「そーいうこと考えてない銀ちゃんが不真面目すぎるのっっ」
「いやいやいや、んなこたーねーって。俺もそこそこ考えてるって」
信用ならない言い訳をした銀ちゃんは、何か思い出したような顔になる。すっとぼけた態度で後ろ頭をぼりぼり掻く。
こんな真面目な話の最中だっていうのに、いつも通りのだらけた様子で鼻に指まで突っ込んで――
「要はあれだろ、産んだガキを一人前に育てられっかどーかが不安だってだけだろぉ?だったらいんじゃね?何も問題ねーじゃん」
「・・・・・、はぁ?」
歯切れいいくらいにさくっと言い切った銀ちゃんに目を見張る。ぽろり。手に握ってた「体温計的なあれ」がソファに落ちた。
・・・愕然としちゃって言葉も出ないよ。口がかぱーっと開ききってる。わなわな震える拳を握って、
「・・・・・・・・信じられない・・・」
「んぁ?んだよその面、どーしたよ。かぁーっと目ぇ剥いちまってぇ」
「・・・信じられない。信じられないぃ!〜〜なっっっ、何言ってるの?何言っちゃってるの?何でそんなに無責任なの銀ちゃんて!?」
お腹の底から振り絞った声で怒鳴りつけた。これまでだってなんやかんやと銀ちゃんがあたしを怒らせることは
あったけど、ここまでの剣幕で怒ったことは一度もない。あたしのフルボリュームの怒鳴り声を真正面から浴びた銀ちゃんは、
へ、何これ、何が起こってんの、って顔でぽかんとしてる。
急に熱くなったお腹の中には、自分でもびっくりしちゃうくらいにごぉーーっと燃え盛ってる怒りの炎が。
・・・何が?何が問題ないっていうの?何の準備もない銀ちゃんとあたしに子供が出来て、それのどこが「何も問題ねーじゃん」なの!?
「問題大ありでしょ、ありまくりじゃん!ていうかそーいうことを鼻ホジりながら言うなぁぁ!」
「んごっっっ!!!」
ソファの横に立て掛けてあった木刀をはしっと両手で握って、ぶんっっっ。バッターの構えから全力で振り切った即席バットは
あさっての方向を見ながら鼻をほじってるだらけきった顔にクリティカルヒット、詰まった声で呻いた銀ちゃんは
撒き散らした鼻血と一緒にテーブルの上まで吹っ飛んだ。どどぉんっっっ、と部屋中に衝突音が響く。ああ情けない。
情けなさすぎて泣きたくなるよ、鼻の奥がつーんと痛くなってきたよ。この前お妙さんに教えてもらった「痴漢撃退法」が
まさかこんなところで役に立つなんて・・・!!
持ち主の鼻血がついちゃった小汚い木刀はぽいっと捨てて、ソファの背を乗り越えてそこからジャンプ。
落ちた時に後頭部を打ったらしい銀ちゃんは、まだ白目を向いてダウンしてる。
あたしがお腹に乗ってマウントポジションを取っても、うぐぅぅ、って変な声を漏らすだけだ。ぺちぺちぺちぺち、ほっぺたを叩いて、
「〜〜〜いい銀ちゃんっっっ、これが最後通告だからね?この返事によってはあたし銀ちゃんと別れるからね!
ねぇどこが?どこが「何も問題ねーじゃん」なの!?あたしにはむしろ問題山積みにしか思えないんだけど!!?」
おかげでこっちはすっかり涙目なんだけど?情けなくってかなしくって、今にも泣いちゃいそうなんだけど!?
「・・・ばかばかばか。銀ちゃんのばか!〜〜まさかここまで無責任だとは思わなかったよっ。
普段はぐーたらでいい加減でちゃらんぽらんでえっちなことしか考えてないセクハラ侍だけど、いざって時は頼りになると思ってたのにぃ・・・!」
ばかばかばかっ。べしべしべしっ。鼻血だらけな銀ちゃんの顔を、容赦なしの往復ビンタで張り飛ばす。
跳ねまくった髪を毛根からむしり取る勢いでぎゅーぎゅーぎゅーぎゅー引っ張ったら、やっと銀ちゃんはぶほっと息を吹き返して、
「〜〜っていででででっ、やめろっていてーって!ちょ、ー、っっちゃぁーーん?やめてくんねそれ、銀さんの頭が焼け野原みてーになっても
いーの?10年後の銀さんがどこぞのハゲ散らかったタコ親父みてーになってもいーの!?」
「しらないっ、そんなの別にどーでもいいし!もう銀ちゃんなんて愛想尽きたし!もう別れるし!どっちにしろ今だって焼け野原みたいな頭だしっっっ」
「だ〜〜〜からぁぁ、まだ話終わってねーんだって!最後まで聞けって!
あのよー、その点に関しちゃは悩む必要ねーから!お前の悩みはガキが出来た時点で勝手に解消されっから、間違いねーから!」
「はぁあああ!!?なにそれっっ。よく言えるよねそーいうことっ。信じらんないっ、信じらんないぃぃ!」
「いやいやいや信じろって、信じてくれって!〜〜つーかいっっ、痛ぇっ、ぃででででで!しっっっ信じてちゃんっっお願いぃぃぃっっ」
にゅっ、と飛び出てきた手にほっぺたを両方から挟まれた。それだけで途端に動けなくなって、あたしは怒るのも忘れて涙で潤んだ目で銀ちゃんを見つめた。
顔を挟んでる手から伝わってくるのはやんわりした力だけ。なのに動けない。頭をぶんぶん振ろうとしても、ぜんぜん振れない。何で!?
すっかり混乱させられてる間に、銀ちゃんは素早く身体を起こした。太腿の上に座り込んでるあたしと向き合うと、
「あーあー、すっかり目ぇ潤ませちゃってぇ」
「ふぇ・・・?ひ、ぎ、ぎんっ・・・!」
にやにやと締まりがないうえに鼻血で汚れてるどこから見ても格好がついてない顔を寄せられて、
おもわずあたしは後ろに反った。逸らした背中を銀ちゃんの腕に支えられる。顔と顔が重なる寸前までぐいっと身体を引き寄せられて、
急な近さにどきっとしたら、
――ちゅっ。
目元にキスを落とされて、かあっとそこが火照り出す。涙で濡れた瞼の際に柔らかく吸いつかれて、
「っっ。ち、ちょ・・・!」
「っだよお前ぇ、言ってくれんじゃねーの。誰が無責任でぐーたらでいい加減でちゃらんぽらんでセクハラ侍だってぇ?
いやまぁだいたい合ってっけどー」
「・・・っ!」
同じように濡れてた目尻やほっぺたにも吸いつかれて、舌先で涙を掬い取るみたいに舐められる。ざらついて熱い感触に身体が震えて、
わわっ、と肩を竦めて小さくなっていたら――手の甲でごしごしっと鼻血を拭った銀ちゃんが、ぜんぶ見透かしてます、ってかんじに目を細めた
ムカつく笑顔で迫ってきて、
「なーなーっっちゃぁーん、何で泣いてんのぉぉ。え、もしかしてアレなの、
俺が無責任で頼りになんねーことばっか言うからショックだったとか?不安になっちゃったとかぁ?心細くなっちゃったとかぁ?そーいうアレかぁ?」
「〜〜〜〜っ。・・・そ。そうだよっ。そうだけどっっ。〜〜その通りですけど何か!!?」
「ははっ、それだけで普通あそこまで暴れるかぁ?まぁいーけどよー。かわいーからいーけど、泣き顔が」
「ふ、っっみゅぅ!?・・・・・・〜〜〜んむっ、んぅぅぅ!」
今度はいきなり唇を塞がれた。むにむにっと自分勝手に、思うままに押しつけてきた銀ちゃんに
隙間なく塞がれてしまった。く、くるしぃ・・・!「ちょっ、やめてぇえ!」って声を出すどころか、息もつけない。
ちろちろ動く舌先に唇の合わせ目を軽くなぞられて、開けろって、って言わんばかりにちゅ、ちゅ、とそこを啄まれる。やだやだ、って
腰を捩じって嫌がったら、くくっと笑った銀ちゃんが、
「だーめだって動くなって。・・・おイタした子にはきっちりお仕置きしねーとなぁ・・・?」
唇を触れさせたまま、吐息みたいな声が甘くささやく。それだけでもぞくっとしちゃうのに、
するーっと下に降りていった腕が、あたしのお尻をやらしい手つきですりすりと、さわさわと・・・!!
「んぅ〜〜〜〜!」
背中をぞくぞく這いあがるものを必死でこらえて、ぶんぶんぶんっ。右に左に頭を振っても銀ちゃんてばぜんぜん離れない、まるで吸盤に吸いつかれてる気分だ。
ああもう泣きたくなってきた、今までの「泣きたい」とは違う意味で!だけど・・・ここであたしが流されたら最後、銀ちゃんのお誕生日の
二の舞になっちゃうし!このまま恐怖の「十発コース」に突入しちゃう危険性大だし!じたばたじたばた、「何なのこれっ、鉄板でも入ってるの!?」って
叫びたくなるくらい硬くてびくともしない胸をマジ泣きで押しながらもがいてたら、
「――はーい、お仕置き終わりー」
へらっとほざいた銀ちゃんの唇が、ちゅ、と唇の端っこで軽い音を響かせる。やっと顔を離してくれた。
息苦しさで真っ赤になってぜーはーしてるあたしの肩をがしっと掴んで、
「だーからよー、人の話は最後まで聞けって。お前の心配の元な、それ誤解だから。いつガキが出来てもなーんも心配いらねーから、
いやマジで。だから泣くこたぁねーんだって」
「・・・ほ。ほんとにぃ・・・?」
「んー、マジでマジで。なーんかよー。俺もよく知らねーんだけどぉ。――すでにノリノリっつーか、準備万端みてーだからよー」
――ちろり。
とぼけきった顔の銀ちゃんは、なぜかあたしの足元あたりに――居間の床に視線を落とす。床を見つめるその目は目尻がちょっと下がってて、
どことなくおかしそうだった。