八月の半ばといえば、夏の暑さも真っ盛り。
ただ息をしてるだけで身体も頭もどろーっと溶けちゃいそうな熱帯夜が続くこの季節には、
毎年恒例、暑さを凌ぐにはぴったりなアレも真っ盛りになる。誰でも一度は目にしたことがあるはずのアレ。
深夜の番組なんかでよくやってる、背筋がひやーっと凍りついちゃう、こわぁ〜〜〜い怪談特集が。
「・・・なー。なぁなぁなぁなぁ。ちょーーーっと聞きてーんだけどぉ、ちゃーん」
「だから暑いってば銀ちゃん。もっと離れてよ」
そんな真夏の蒸し暑い夜、あたしの背中にはおんぶおばけがくっついてる。
でもこのおばけは、怪談に出てくるようなおばけとは違って足がある。おばけのくせによく喋る。おばけのくせに体温が高い。
こんなふうに後ろからべたーっと抱きつかれても、ちっとも涼しくなんてない。むしろ暑い。暑っ苦しい。
それにこのおばけは、おばけのくせに怖い話が大の苦手だ。
先週一緒に深夜の怪談特集を見たときには、気づいたら座布団被って丸くなってブルブル震えてたし。
ついさっきだって、お花屋さんの屁怒絽さんが出店してるおばけ屋敷に誘ったら、土煙がぶわっと舞い上がる勢いでぴゅーっと遠くへ逃げていったし。
「あのよー、なーんか話が違うんだけど。銀さんが思ってたのと違うんだけど。これってデート?デートなの?」
「デートでしょ。二人で浴衣着てー、夜店眺めてー、おいしいもの食べながらぷらぷらしてー。ほらぁ、立派な縁日デートじゃん」
「うんうん、だよねー、縁日だよねー。だけどガキども連れて歩いてんのを二人でデートとは言わないからね」
横目にちろりと眺めたら、銀ちゃんは跳ねまくった前髪の下でうらめしそうに眉を寄せていた。
ぐいぐい、ぐいっ。ゆるい三つ編みにしてまとめた髪の芯に刺してる、お気に入りのかんざしを引っ張ってくる。
ああもうっ、せっかくのデートだから頑張ってていねいに結ったのにっ。
「ちょっ、やめてよ髪崩れるっ。結うの大変なんだからねっ」
「あーあーんだよもぉぉ、いくら色っぺー浴衣姿見せられたってよー、コブつきじゃなーんも出来ねーしよぉっ。
しかもよー、っだよこれぇぇ、んな時に限ってうなじなんか出しちゃってよー。生殺しじゃねーかよコノヤロー」
口を尖らせてブツブツとネチネチとつぶやく銀ちゃんは、めずらしくいつもの着流し姿じゃない。
浴衣のあたしに合わせてくれたのか、お登勢さん手製の白地の浴衣姿だ。両腕の肘には大量のビニール袋がぶらぶらしてる。
ほとんどは神楽ちゃんがゲットしたものなんだけど、お祭りの夜店にはつきものな当てモノ系ゲームの戦利品だ。
白っぽい髪の毛がぽわぽわと跳ねまくってる頭の横には、耳にピンクのリボンなんかつけてる可愛らしいうさぎさんのお面。
これはあたしがここの出店で神楽ちゃんに買ってあげたもので、なのにいつのまにか銀ちゃんが被ってた。
左手には食べかけのかき氷いちごミルク味のカップ。口には食べ終わったわたあめの棒がぷらぷらぷら。
ぱっと見、お祭りで年甲斐もなくはしゃいでる浮かれまくった人にしか見えない。まあ顔はちっとも浮かれてるようには見えないけど。
どっちかっていうと不機嫌顔、かな。お母さんに夜店のおもちゃを買ってもらえなくて拗ねてる子供みたいな。
「なーなーちゃーん、思い出してみて。銀さん寝る前に何て言った?」
「またその話?しつこいなぁもう。だからデートしようって話でしょ。ちょうどお祭りだから縁日に行こうって話でしょ」
「だよなぁデートだよなぁこれ。なのにお前、なーんで皆で祭りに行こうとか言い出しちゃうの、
何であいつらまで連れてくんの。中学生のグループ交際じゃねーんだからよー」
「いいじゃんたまにはグループ交際で。あたしは楽しいよ、みんなでデート」
斜め上からあーだこーだと降り注いでくる銀ちゃんの文句は「はいはい」と右から左に受け流して、
かき氷カップを握ってる大きな手をぱっと掴む。
にこにこ愛想よく笑ってるファンシーなうさぎさんのお面を被った、いい年こいた大の男ににっこり笑って、
「ほらぁ銀ちゃん、神楽ちゃんが手振ってるよ。振り返してあげなよ、ほらほらほらぁ」
見た目より筋肉がついてる重たい腕をぐぐーっと上まで押し上げて、夜店で金魚掬い中の新八くんたちのほうに無理やり向ける。
ひらひら、ひら。ものすごーく嫌そうな顔した銀ちゃんは、それでもちょっとだけ手を振ってくれた。
「銀ちゃん、ー!見て見てすごいネ大漁ネ、入れ食いヨ!!これで明日の定春のエサ代が浮いたアル!」
「ちょっっっ、そんなつもりで掬ってたの神楽ちゃん!!?」
「おーヨあたぼうネ!お前らが男どもがだらしないから私が頑張って定春をおなかいっぱいにしてあげるネ!」
なんて、濡れたアミでぶんぶん素振りしながらけらけらと笑う神楽ちゃん。銀ちゃんと同じくお登勢さんお手製の浴衣姿だ。
赤やピンクのにぎやかな花柄地や真っ赤なひらひら兵児帯は、いつも元気な神楽ちゃんのイメージにぴったりでとっても可愛い。
そしてその隣には、神楽ちゃんの高速素振り攻撃の犠牲になってすっかりびしょ濡れな新八くん。濡れたメガネを拭きながら
「いやいやいや金魚はダメだよかわいそうだよやめようよ神楽ちゃん、ドッグフードなら明日僕が買ってくるからさぁぁ!」なんて必死に説得中だ。
二人の手元のアルミカップでは、数十匹はいそうな金魚がうじゃうじゃと狭そうに泳いでる。これでもう何件目かなぁ。
縁日をやってるお寺前の参道に着いた瞬間から、神楽ちゃんは屋台のお店を片っ端から荒らし回って奮闘中だ。
最初に飛び込んだ射的屋さんでは長谷川さんが店番をしてたんだけど、神楽ちゃんはそこで軽いコルク弾を当てても絶対倒れそうにない
大きな景品を六個もゲット。景品に当て損なったフリで長谷川さんのグラサンを壊す、ていう器用な技まで見せてくれた。
その次に飛び込んだ町内会出店のお好み焼き屋さんでは、店の看板娘として借り出されていたキャサリンさんとたまさんが
「五分で食べたらお代はタダ」の直径30センチ超特大お好み焼きを売っていた。神楽ちゃんはそれをほんの一分でぺろりと完食。
清々しい大食いっぷりに家政婦としての使命感を刺激されたらしいたまさんは「神楽様、次はぜひ私の特製もんじゃ焼きもお
召し上がりください」なんて言ってさっそくもんじゃ作りに入ろうとしたんだけど、キャサリンさんや銀ちゃんたちはなぜか
「いい!お前は作らなくていい!!」って血相変えて止めていた。それからも神楽ちゃんの快進撃は止まらなかった。
すまいるが出店したクレープ屋さんではお妙さんの鶴の一声でトッピング全部入りのスペシャルクレープをタダで三個もゲット、
西郷さんたちかまっ娘クラブのチョコバナナ屋さんではどこかの星の特産品だっていう特大チョコバナナ五個をタダでゲット、
狂四郎さんたち高天原出店のピンボールゲームでは賞品八個をゲット。他にもなんやかんやとあれこれとお金を出さずにタダで食べ物を貰ったり、
大人でもなかなか取れないシューティングゲームの高額賞品を次々にゲットしまくったり。見た目は小柄な可愛い女の子なのに、こうしてると
まるで縁日に現れた台風の目みたいだ。どーやらここに出店を出してる店主さんたちにとっても、この小さな賞金稼ぎさんはちょっと知られた顔みたい。
だって神楽ちゃんが顔を出しただけで、どの店の人もみんな青ざめて顔を逸らしてるし。
今は金魚掬いにハマってるんだけど、ここでもあの小さな体で大型台風なみの猛威を奮ってる。赤や黒の金魚がすいすい泳ぎ回る
水槽を囲む他の子たちは、みんな手を止めて神楽ちゃんの奥義に見入ってる。…ていうよりは、神楽ちゃんのあまりのすごさにすっかり戦意喪失しちゃってるみたいだ。
新八くんの隣に座ってる小さな男の子なんて、一匹も掬えなくてしくしく泣き出しちゃってるし。
「・・・あーあー、とうとう泣いちゃったよあの子。あたしたちが来る前から頑張ってたのに、まだ一匹も掬えてないもんね。なんかかわいそう」
「いーんだって泣かせとけよ。ガキはこーいう場で競争社会の熾烈さを学ぶもんなんだよ。なーー、次は何食う?」
「んー。ええとー、どーしよっかなぁ・・・」
「たまには奢るわ、久々に金入ったしな。何がいい?」
「え、いいの?やったー」
なんて喜びながら、さっき買った焼きとうもろこしをしゃくしゃくしゃく。
ああ美味しい。いい匂い。冷たいかき氷や昔懐かしい林檎飴なんかも魅力的だけど、やっぱり夏の屋台の定番て、
このお醤油やソースが焦げた香ばしい匂いじゃないのかな。齧るたびにタレの甘辛さととうもろこしの実の甘さがじゅわーっと口に広がってきて、
顔が勝手ににまにましちゃう。ええと次は何を食べようかな。ここはやっぱり定番のあれかな。
「じゃあアメリカンドッグ。たしか入口のとこにあったよね」
そう言ったら銀ちゃんの眉が微妙に上がった。
ちょっと呆れてるときみたいな、「あーあーこの子はぁ、わかってねーなぁ」って顔になる。え、なんで。
「ブーーーー。アメリカンドッグだめー。こっから入口じゃ遠いしな」
「あ、そっか。じゃあイカ焼きがいい。西郷さんのお店のチョコバナナも食べてみたいな」
「ブーーーーーーー。だめー、どっちもだめー、絶対だめーー」
「何で!?」
「まぁとうもろこしはギリギリ許すけどな。祭りでそれ以外の棒モンは全部NGな」
「ずるいよ銀ちゃんだってイカ食べてたじゃん、美味しいって言ってたじゃん、あたしも食べたいぃ!」
「いーんだよ野郎はどこで何食ったって。けど女はダメなの。こーいう浮かれたとこにはなぁ、あーいうもんを咥えてはふはふしてるちゃん
にヨダレ垂らして喜ぶ奴らがいるに決まってんの、ぜってーダメなの。これからはそーいうとこは銀さん以外に見せちゃいけません。わかった?」
「・・・?何それぇ。意味わかんないんだけど」
「いーって、わかんなくていーって。それ以外なら何でも買ってやっから、な?」
何がいーの、と妙ににやにやしてる銀ちゃんに訊かれて、うーん、と夜空を見上げて考え込む。
棒モノ以外、棒モノ以外・・・・・・・、何がいいかな、
こういう時は焼きそばなんかも外せないよね。サンバが流れるラテンカラーなお店で売ってた、チリビーンズたっぷりのタコスもすごく美味しそうだったよね。
金魚掬い屋さんのテントの陰から、真っ赤な提灯が揺れる下にずらりと並ぶたくさんの夜店をきょろきょろ眺める。
かぶき町の夏祭りは町内会のお祭りのわりに盛大で、参道に並ぶ屋台の数もすごく多いから迷っちゃう。
万事屋っていう商売柄のせいもあって顔が広い銀ちゃんは、夜店のテキ屋さんたちや町内会の役員さんたちに
しきりに声を掛けられてた。今食べてるかき氷も食べ終わったわたあめも、その前に食べてたイカ焼きもたこ焼きも、
全部知り合いの人たちから貰ったものだ。
・・・でも、あの、今頃になってこんなこと言うのも何だけど。あれって大丈夫だったのかな。あれってお店の人の好意で貰ったっていうよりは、
ほとんど強奪だったよね。銀ちゃんの図々しい態度とよく滑る口と卑怯な脅しに負けた人たちが、しかたなく、泣く泣く奢ってくれた
ようなものだったよね・・・?
「・・・ねぇ銀ちゃん。神楽ちゃんの容赦ない夜店荒らしって、間違いなく銀ちゃん仕込みだよね」
「んぁー、まーな」
「・・・・・・・・・・」
さっくり認めてかき氷をパクパク頬張るかったるそうな顔を、斜め下から白い目でちろり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・うん忘れよう。
何もなかったことにしておこう。うん、そうそう、気にしない気にしない。
面の皮の厚さがジャンプS.Qなみな銀ちゃんの彼女を務めるには、
S.Qとまではいかないまでも女性ファッション誌くらいの面の皮の厚さは必須だもん。はぁ、と諦めの溜め息をついてから、
香ばしい匂いのとうもろこしの残りをしゃくしゃく食べる。食べているうちになんとなく、長い石段の上に建つこのお寺の本堂が目に入った。
数はそんなに多くないんだけど、石段を昇って真っ暗な建物へ向かう小さな人影がぽつり、ぽつり。あそこにも何か催し物があるのかな。
「銀ちゃん、あっちは?上のお寺でも何かやってるのかなぁ」
「あー、あそこな。知らねーけどどーせ今年も肝試しじゃねーの。今年も冴えないオッサンが落ち武者やってんじゃねーの」
「肝試し?いいなぁ行ってみたいなー。さっきはおばけ屋敷に入り損ねちゃったもんね、誰かのせいで」
「っだよいーじゃねーかよー、無敵の銀さんだって苦手なもんくれーあんだよっ。つーかお前そんなに好きだっけ、真夏の絶叫系」
「ううんー。おばけよりも銀ちゃんがおばけを怖がるとこが見たいの」
「・・・あのさーちゃんさー。銀さん泣いてもいいかなぁ・・・」
銀ちゃんたら顔を覆ってめそめそしてる。でも、どう見ても泣き真似だから放っとこう。
首を伸ばして見上げた丘のてっぺん――お寺の本堂のほうからは、祭囃子の音色が途切れ途切れに流れてくる。
たぶん町内会の役員さんがスピーカーで流してる夏祭り用のBGMなんだろうけど、それでも雰囲気はたっぷりだ。
ぬるくて湿気が多い真夏の夜風に乗って、いろんな人の声や物音が流れてくる。
耳をくすぐるお祭りの騒音をなんとなく追いかけてると、すこしお酒を飲んだ時に感じるみたいな心地いい気だるさが漂ってきた。
ちょっと迷ったけど、横に立ってる銀ちゃんの肩にちょこんともたれる。銀ちゃんは何も言わなかったけど、くすりと笑う声がした。
黙って手を握って指を絡めてくるから、あたしも大きな手をきゅっと握り返す。広い手のひらは湿り気味で、でもあったかい。
あたしたちがこっそり手を繋いでたって、お祭りを楽しんでる周りの人たちはたぶん誰も気にしないんだろうけど、
・・・どうしてかな。こうしてるだけでちょっといけないことをしてるみたいで、ドキドキする。
普段は外でこういうことなんてしないんだけどな。周りの暗さと人の多さのせいで、いつもより大胆になってるみたい。
「・・・・・。銀ちゃん」
「んー?」
「・・・。あのね。ありがとね。誘ってくれて」
「ははっ。んだよ改まっちゃって」
「だってさっきは銀ちゃんすぐに寝ちゃったから。お礼とか言えなかったから。・・・言いたかったの」
恥ずかしかったからうんと小さな声でつぶやいたら、また銀ちゃんがくすりと笑う声がした。
くいくいと手を引っ張られて、二人で夜店の裏まで引っ込む。
ちょうど腰を下ろせるくらいの低い垣根に並んで座って、夜店が並ぶ明るい参道を黙って眺めた。
ときどき、銀ちゃんに気づかれないようにそっと隣に目を向ける。ななめ横に被ったうさぎのお面も、そのお面で半分隠れた横顔も、
夜店の灯りでぼうっと赤く染まってる。口端ではわたあめの棒がぷらぷらしてる。コブつきなんてデートじゃねーよ、
なんてあんなにうるさくゴネてたくせに、新八くんたちを見守る銀ちゃんの目は穏やかだった。
いいなぁお祭り。いいなぁ夜の縁日。提灯や屋台のあかりに照らされながら歩く人たちはみんな楽しそうで、
お祭りの雰囲気にはしゃいで下駄を鳴らして駆け回ってる子供たちはみんな笑顔で。
たくさん人が行き交ってる中で色とりどりの看板がまぶしいきらきらした景色に混ざってると、それだけでも
なぜかおもいきり夏休みを満喫してる気分になれるんだよね。
――しかも今年は女友達と一緒じゃなくて、好きな人と一緒なんだもん。これまでに見てきたお祭りの景色とはぜんぜん違って見える。
どこを見てもキラキラしてる。どこにでもある夏の景色のはずなのに、今まで一度も見たことがないきれいな景色に見えてくる。
「な。」
「うん?」
「他ぁ行こーぜ、他。あいつら当分ここから動きそうにねーし」
「もぅ、またその話?いいじゃん四人で。それに二人の保護者は銀ちゃんなんだからね。二人ともしっかりしてるけど、こういうところでは
大人がちゃんと見守ってあげないと」
「あー、あいつらはいーんだって、平気平気。さっきキャサリンに頼んどいたからよー。店番終わったらガキどもも連れて帰ってくれって」
「・・・こーいうときだけ根回し早いよね銀ちゃんて」
「んだよ褒めんなよ照れるから」
「ぜんぜん褒めてないから。どっちかっていうと呆れてるから」
溜め息混じりに言ってあげたら、銀ちゃんは「え、ちょ、なにお前。何か不満そーじゃね」と、
あたしよりも遥かに不満そうな顔して肘でくいくい突いてくる。
甘いとうもろこしを齧りながら、ううん、とあたしはかぶりを振った。
二人きりになりたいって思ってくれることが嬉しくないわけじゃない。もちろん嬉しいよ。嬉しいんだけど。
…なんてことを考え込んでうつむいてたら、銀ちゃんにはそんなあたしがよっぽど嫌そうに見えたみたいだ。
なんだか焦った顔になって、
「ちょ、どーいうこと。そんなにあいつらがいーの、銀さんだけじゃ物足りねーの?
俺と二人じゃ不満?不満なの???」
「不満じゃないけどー、・・・あたしはもすこしみんなで遊びたかったなぁ」
言いながら最後のひとくちを齧る。金魚掬いに夢中な二人が囲んでる、水色に塗られた水槽を眺める。
赤や金色、黒や白。細長い水色の水槽の中は、小さな宝石が泳ぎ回ってるみたい。透きとおった色をしたかわいい金魚たちが、ゆらゆらとすいすいと回遊してる。
その水槽をばちゃばちゃと荒らしまくってる楽しそうな神楽ちゃんと、ごめんねごめんね、と本格的に泣き出しちゃった隣の男の子をあたふたと宥める新八くん。
あたしはくすくす笑いながら二人を眺めた。それから、ちょっと不思議そうな顔してる銀ちゃんを見上げて、
「一度みんなで来てみたかったんだー、こういうとこ。銀ちゃんたちとは結構付き合い長いけど、一緒にお祭りなんて初めてだもん」
「へ。そーだっけ」
「そーだよ、初めてだよ。ほんとそういうこと覚えてないよねぇ銀ちゃんて」
「そーだっけ。え、なかったっけ一度も」
え、マジで、とぜんぜんピンとこないような顔してる銀ちゃんにこくこく頷く。間違いないよ、一度もないよ。
銀ちゃんは去年まではあたしのことなんてちっとも意識してなかっただろうから、そういうことはひとつも覚えてないんだろーけど。
「いやいやいや、一度もってこたーねーだろ。あったんじゃねーの一度くれーは。
だってよーお前、親元離れてこっちに越してきた頃からずーっとうちに入り浸ってんじゃん」
「でもみんなとお出かけはしてないよ。・・・ほんとはね、毎年この時期になると、みんなと一緒に行きたいなあって思ってたんだけどね。
誘う勇気がなかったの」
「へ。何それ。なんで。言えばいーじゃん、そのくれー。たかが祭りだろぉ」
「・・・。だからー、そういう気軽な気分じゃ言い出せなかったの。銀ちゃんにはたかがお祭りでも、あたしにとってはたかがお祭りじゃなかったんだよ」
そう言ったら銀ちゃんはまた「へ」と間の抜けた声でつぶやいた。何でだよ、誘えばいーだろそのくらい、って顔になる。
・・・ほら、やっぱり覚えてない。銀ちゃんて付き合う前の自分があたしに対してどんなかんじだったかとか、そういうことは全然覚えてないんだよね。
無理だってば。あたしから誘うなんて、そんなの無理無理。あの頃のあたしはどう見ても、銀ちゃんにとってただの友達だったじゃん。
女扱い、っていうよりは妹扱い。女の子、じゃなくて気のおけない近所の子。だからこそしょっちゅう万事屋に通ってても許された
んだろうし、銀ちゃんも肩肘張らずに受け入れてくれてたんだと思う。そういう空気にうすうす気づいてたっていうのもあって、
なかなか勇気が出せなかった。あたしが言い出したひとことが、あの頃の居心地がいい関係を崩しちゃいそうでこわかったんだ。
なんだかよくないことばっかり考えてたもん。もしもあたしから誘ったら銀ちゃん迷惑するんじゃないかなぁとか。
微妙な反応されたらどうしようとか。そうなったら万事屋に行きづらくなっちゃうなぁ、そんなことになったらどうしよう、とか。
「・・だからね。今なら普通に言えることもあの頃はなかなか言えなかったの。
銀ちゃんにはわかんないかもしれないけど、片思い中の女の子っていろいろと複雑なんだよ」
「ふーん。そーいうもんかねぇ」
「うん。そーいうもんなの」
「・・・・・・・・・あー。そーいやぁよー。俺もここでこれは初めてだわ」
「・・・、何が?」
「んー、だからよー。これな、これ」
繋いでる手をちょっとだけ持ち上げる。銀ちゃんはその手を何か珍しいものでも見るような目つきでしげしげと眺めて、
くくっ、と喉の奥で笑った。
「俺な。ここの祭りには毎年顔出してっけどー、女連れて来んのも、こーいうことしてんのも、初めて」
指と指がしっかり絡み合った手を、きゅ、と柔らかく握り直す。それからあたしに視線を向ける。
おかしそうに目を細めた顔はいつも通りに気だるそうで、ちょっと眠たそうで。
だけど、まぶしい夜店の灯りに照らされた表情はいつもよりも少し嬉しそうで、どこか色っぽくも見えるから、――間近で見るとついどきっとしちゃう。
なんだか銀ちゃんから目が離せなくなっちゃう。・・・それに、さっきの銀ちゃんの言葉。
――真に受けちゃっていいのかな。ほんとなのかな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ほんとに?あたしだけなの?他にはいないの? 銀ちゃんがここに連れてきた女の子って――
「・・・ふーん。そう。・・・そぅ、なんだ。・・・・・・・」
「んー、まぁそーいうこと」
なんて言いながら背中を丸めて、あたしに顔を近づけてきた。覗き込む顔がやたらに近い。
「ぎ、銀ちゃん顔近すぎっ。な、ゃ、離れてよぉっ」
「どーしたよその顔。ふにゃーっとほっぺた緩めちゃってぇ、やけにうれしそうじゃんお前ぇ」
「・・・っ。ち、ちが、別に、うれしいとかそんな、」
「いやいやどー見ても喜んでんじゃん。え、もしかしてあれなの、銀さんの初めて奪ったのがそんなに嬉しいの。いやーんやだぁ〜〜、ちゃんのエッチぃぃ」
「っっち、違うぅぅ、違うから!ていうかやめてよそのオネエ口調っ。ここでパー子にならないでっっ」
「いーっていーって照れんなって。いやいやあれな、俺もには貰いっ放しだからよー、何か返さねーとなぁとは思ってたんだわ。
なんせちゃんのはじめてはどれもこれもぜーんぶ銀さんが奪っちまったからぁ」
「っっっだからこんなとこでそーいうこと言うなぁああっっ」
銀ちゃんのばかっ、ここをどこだと思ってんの!?金魚掬いの夜店の前だよ?周りは子供ばっかなんだよ?
見てよほらっ、あの無垢な視線の集中砲火を!みんなこっち向いてるじゃん、
どの子もどの子もこっち向いて、みーんな不思議そうに見てるじゃん!
恥ずかしくって顔どころか耳まで真っ赤になっちゃって、あたしは口をぱくぱくさせる。
あぁもう何か言い返したいっ。でもここで言い返したってどーせ口から生まれた男の思うツボになるに決まってるから、
食べ終わったとうもろこしの芯を、がばっ、と高ーく振り上げる。
顔中がにたぁーっとやらしいかんじに緩みまくってるモジャモジャ頭を、思いっきり殴ろうとしたんだけど、
――スカッ。
・・・無理でした。あえなく空振りに終わりました。しかも武器にしてたとうもろこしはひょいっと取り上げられて、
妙に嬉しそうににまにま笑ってる銀ちゃんに頭を念入りになでなでされる。・・・うぅぅ、まるっきり子供扱いだ。
「はいはい暴れない暴れない。今日はせっかくめかし込んでんだからよー、こーゆーの無しな」
「はぁ!?誰が暴れさせたと思ってんのっっっ」
「まぁいーじゃんそんなに怒んなって。ちょっとこれ持って待ってろって、な」
神楽ちゃんが取った景品の袋をあたしにどさどさっと預けると、銀ちゃんは新八くんたちのほうへ歩いていく。
金魚掬いに夢中で銀ちゃんに気付かない神楽ちゃんの頭を、後ろからぺしっ。何するネ、と食ってかかる神楽ちゃんから
アミをひょいっと取り上げた。それから金魚がうじゃうじゃ泳ぐ大漁のアルミカップを持ち上げて――
「ぎゃあああああっっ」
金魚が泳ぐ水色の水槽の中へぼちゃぼちゃ、ぼちゃっ。手にしたアミで金魚を追いかけまわす子供たちの目の前で、
高い水飛沫がぱしゃぱしゃと飛び散る。神楽ちゃんが飛び上がって悲鳴を上げる。
新八くんも他の子たちも、びっくりして目が点になってる。遠目に見てたあたしも思わず目が丸くなった。
…うわぁひどいよ銀ちゃんてば。全部戻されちゃったよ。神楽ちゃんが頑張って掬った釣果、一気にぜんぶリリースされちゃった。
お店のおじさんを含めた全員が、子供ばっかの水槽に突然乱入してきた大人に目が釘付けだ。それでも銀ちゃんはすっとぼけた顔でおじさんに向かって、
「おっさん、ウチじゃ飼えねーから返すわコレ」
「あぁあああ定春のエサぁぁ!ひどいヨ銀ちゃんのバカぁああ!」
「バーカ、これっぽっちの小魚があの大喰らいの腹の足しになるかよ。
そんなに定春に魚食わせてーんならよー、ここの庭に忍び込んで池の錦鯉掬ってこいよ新八と」
「僕は嫌ですよ。ていうかそれって犯罪じゃないですか」
憮然としてる新八くんや背中に飛びついて髪をぎゅーぎゅー引っ張る神楽ちゃんのことはまるっきり無視して、
銀ちゃんは手にしたアミを軽く動かす。ひらり、と手首を返すだけの、ほんのささいな動きだったんだけど――
「――あ、・・・・・・・・」
ぽつりとつぶやいて、あたしは銀ちゃんの様子に目を見張った。
アルミカップとアミをぽいっとおじさんに投げ返した銀ちゃんは、新八くんと何か小声で話してる。
呆れ顔した新八くんが仕方なさそうに頷くと、すっかりおかんむりな神楽ちゃんを背中からべりっと剥がして降ろす。
ふざけんな天パー、とわめいてる神楽ちゃんの声を背にして水槽からこっちへ戻ってくる。戻ってくる前に銀ちゃんは、ある子に向けて一瞬だけ
目配せをした。新八くんがずっと宥めていたあの子。金魚が掬えなくって泣いていた小さな男の子だ。
男の子は銀ちゃんを涙目で見上げて、それから、さっきまでは水しか入っていなかった自分の
アルミカップをびっくり顔でまじまじと眺める。さっきまでは泣きべそをかいてたその子の顔が
じわじわーっとほころんで、ぱぁっと花が咲いたような笑顔に変わっていく。浴衣姿でも普段通りにのそのそっと歩いてる銀ちゃんが、
下駄をかたかた鳴らしながら戻ってくる。あたしの手から荷物を全部引き取ると、
「行こーぜー」
「え。でも、いいの?」
「大丈夫だって。新八がよー、神楽のこたぁ見ておくからダメ保護者はどこでも行ってこいってよ」
「・・・・・・」
「何食うか決めた?」
「うん。アメリカンドッグ」
「・・・あのさーちゃん、さっきの話聞いてた?聞いてないよね!?」
「だって食べたいんだもん。よくわかんないけど、銀ちゃん以外は誰もいないところで食べるならいいんでしょ」
なんて言ったら銀ちゃんは「うおっ、マジで!?」と叫んで豹変した。ほんの数秒前までは眠たそうだった半目が、突然ぱあっと大きく開く。
・・・・・・・・・ちょっと。態度変わりすぎなんですけど。誰。誰なのこの人。表情が別人みたいに輝いてるよ、
どう見ても下心ありありなときの顔だよ!喜色満面でにたーっと笑う銀ちゃん、超こわい。引きまくったあたしが
じりじり後ろへ逃げようとすると、すかさずあたしの両肩を掴んできて、
「いいのマジでいいの、誰も来ねー本堂の境内とか連れてってもいーの?おいおいィィィやっべーよぉぉぉ
二本目は銀ちゃんをいただきまーす!とかしてくれんの!?」
「銀ちゃんその顔やめてこわい。ていうか何?何で興奮してんの?やっぱり意味わかんないんだけど」
「いーのいーの、はわかんねーままでいーんだって!」
参道の入り口に向かって歩きながらペラペラと喋り倒す銀ちゃんの後を追って、あたしも石畳の参道を歩く。
すこし急いで隣に並んで、あっちー、なんて言って浴衣の衿をぱたぱたさせてるすっとぼけた横顔をちらりと眺める。
ちょっと経ってからもう一度見上げたら、だんだんおかしくなってきた。こみ上げてきた笑いに肩を揺らして、
「ふふっ」
「あぁ?んだよ。何」
「別にー。なんでもないよ。・・・ただ、銀ちゃんにしといてよかったなって思っただけ」
「・・・。ははっ。なにそれ」
鼻で笑った銀ちゃんは、眉をちょっとだけ寄せてなんだか困ったような顔をした。ボリボリ頭を掻いている。
それはちょっと気まずかったり照れくさかったりしたときの銀ちゃんがよくやってる、どちらかっていうと無意識な仕草だ。上がった腕で半分隠れた横顔を、
あたしは目を細めてにこにこと見つめた。
――他の子は誰も気づいてなかったんだろうな。
新八くんにも神楽ちゃんにも、お店のおじさんにも見えなかったんだと思う。
でも、金魚の水槽から離れたところに座ってたあたしの目にはちょうど見えた。
あのとき、水だけだった男の子のアルミカップには赤い何かが放り込まれた。
偶然だけど、見えちゃった。
どさくさに紛れさせて掬った金魚をぽちゃんとカップに投げ入れた、銀ちゃんの素早い手の動きが――
「・・・ね。銀ちゃん。ご褒美に手繋いであげる」
「えー、手だけかよ。もっといいご褒美くんねーの。祭り気分に乗せられてつい大胆になっちゃいました的なご褒美はねーの。
暗ーい寺の境内で浴衣乱されてあんあんゆっちゃうえっろいちゃん、銀さんに見せてくんねーの」
「・・・。そーいう最低なセクハラしてくる人とは一生繋いであげない」
「うそ、うそうそうそうそっ、今のうそ!!ご褒美ちょーだいっっ、なぁっっっっ」
まだ許してあげてもいないのに、長くて力が強くて図々しい指がむぎゅむぎゅっと手に絡まってくる。
冗談だよね、今の冗談だよね!?と目を剥いて迫ってくる必死な顔がすごくおかしい。あたしは浴衣の袖で口を覆って、しばらくけらけら笑い転げた。
二人であれこれと言い合いながら、じゃれあいながら、にぎやかな人混みを右に左に避けながらゆっくりと歩く。
かたかたと下駄を鳴らす二つの足音を重ねながら歩いていく。赤い提灯のほんわりと丸い光に照らされた夜の参道は、屋台から届く
香ばしくて美味しそうな匂いと、すこし湿った真夏の夜の匂いがした。