「あーこれ、この子な、俺の彼女な。っつーんだわ」
参道の入り口でアメリカンドッグを買ってくれた後で、銀ちゃんがフラフラと寄って行った輪投げのお店。
そこで銀ちゃんがあたしを指してそう言ったら、店番してたショートカットの美人さんは「信じられない」って顔になった。
手にした煙管をぽろっと落として、
「はぁ?・・・彼女ってあんた、冗談だろ」
気だるげでアンニュイな雰囲気のそのお姉さんに「こんばんは」と軽く頭を下げて挨拶する。「ああ、どうも」と上の空でつぶやいたお姉さんは、
まるで何かとびきり珍しい生き物にでも会ったよーな顔してあたしを上から下までしげしげと眺めた。
あたしは「はじめましてー」なんて出来るだけ愛想よく笑いながら、銀ちゃんのお友達に紹介されるたびに思ってきたことをまた思う。
・・・まただよ。またこれだよ、この反応。正直ちょっと気になるよ、どーしてなんだろ。何でそんなに驚くのかなぁ。
そんなに銀ちゃんと釣り合ってないのかなぁ、あたしって。
お姉さんはひとしきりあたしを眺めると、「驚いたねぇ」って呆れ顔で唸る。まだお金も払ってないのにプラスチックの投げ輪を勝手に
ポイポイ投げ始めた銀ちゃんに、
「どこから見てもカタギのお嬢さんじゃないか。こんな子をどーやって騙くらかしたのさ」
「うっせーな騙くらかしてねーよ人聞き悪りーこと言うんじゃねーよ。あー、ー、こいつな、地球防衛軍の姉ちゃんな」
「・・・・・・・・・・・、は?」
「いやだから、地球防衛軍の姉ちゃんだって」
「ち、地球?ぼ・・・?」
「そ。地球防衛軍」
たりめーだろ、って顔してあっさり頷く銀ちゃんに、目を見開いてまじまじと見入る。
地球を防衛。
・・・・・・・・それってつまりあれだよね。地球を護って戦っちゃう人ってことだよね。
M78星雲からやって来る三分間だけ巨大化するヒーローとか、人類の存亡を賭けて戦うプラグスーツ着た少年少女とか、
友達や家族の幸せのために宇宙の因果律を組み変えて消えちゃうけなげな魔法少女とか、
「・・・あのさ。ずーっと前から思ってたんだけどさ。なんだかすごい肩書の人ばっかだよね銀ちゃんのお友達って。
地球防衛軍とか忍者とか始末屋とか、テロリストとか死神太夫とか特別武装警察とか」
「いやいや違うって、こいつはそーいうんじゃねーから。つーか最後の奴らとは友達でも何でもねーんだけど」
なんて言いながら、大きな投げ輪をひょいっと高めに放り投げる。
銀ちゃんが狙ってるのは中古品の小さいテレビ。だけど投げた輪は隣の景品にぶつかって跳ねて、クルクルと奥まで転がっていった。
「そーいうアレじゃねーんだってこの姉ちゃんは。イカツい名前してっけど、ただのガラクタ屋店主だからね」
「ちょいと、誰がガラクタ屋店主だって。ガラクタにもなれないクズみたいな男が言うじゃないか。
・・・ねえあんた、こんなろくでもない男のどこがいいんだい。悪いこたぁ言わないから他を探しなよ」
と、どうやら銀ちゃんから過去にろくでもない目に遭わされたらしい「地球防衛軍」のお姉さんは、眉を吊り上げてあたしに耳打ちしてくる。
近くで見ると目元に色っぽい憂いがあってますます美人だ。あはは、とあたしは微妙に顔をひきつらせて笑った。
さっきから頭の中で指折り数えてるのは、これまでに銀ちゃん関係で出会った女の人たちとその顔ぶれだ。
…えーと、お妙さんに九兵衛さん、さっちゃんさんに月詠さん。銀ちゃんが入院した時にお見舞いに来てくれた鍛冶屋の鉄子さん、
火消しの辰巳さん、吉原の日輪さん。前に銀ちゃんと歩いてた時にばったり会った見廻組の美少女さんに、銀ちゃん行きつけの
ラーメン屋のお姉さん。それから、アンニュイ美人なこのお姉さん。それからえーと、えーと…
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
覚えてる顔を端から順に数えるうちに、顔がぷーっとむくれてくる。
なにこれ。なんなの、このモヤモヤドロドロした気持ち。あぁ納得いかない、
なんなのこれって。何の仕打ちですかコノヤロー。どこから見ても平々凡々、自慢じゃないけど告白されたことも
ナンパされた経験もほとんどない、女の子としての魅力なんておかあさんのお腹の中に置き忘れたまま生きてきたあたしに対して、
一体どーいう仕打ちなの。
どーしてこんなに綺麗どころがうじゃうじゃしてるの、銀ちゃんの周りの女の人って・・・!
「・・・・・・・・・銀ちゃんのばかぁ」
「ん、なに。何か言った?」
「・・・・・・。しらない。空耳じゃないの」
ちょっと口を尖らせてごにょごにょっと答えたら、銀ちゃんは、ふーん、と目をぱちくりさせていた。ぐいぐい、ぐい。
ここから輪を投げてください、っていう目印になってるロープで線が引いてあるところにあたしを引っ張っていくと、
手に投げ輪をひとつ持たせて、
「見てるだけじゃつまんねーだろ、もやれって」
「・・・・・・。いーよあたしは。銀ちゃんが投げてよ」
「いーからいーから、やってみろって。ほらあれな、真ん中のテレビ狙えよ、あの小汚ねーテレビ」
「悪かったね小汚くて。言っとくけどあんたには当てたって何もやらないからね」
なんて言ったのに、――狙いをつけてたテレビの奥にあったガラスのかんざしを銀ちゃんが当てたら、
お姉さんはそれを「はい、これはお嬢さんにね」とあたしに手渡ししてくれた。わぁ、とおもわず声が出る。
飾り部分の細かさがはっきり判る近さで目にしたそれを、
あたしは一目で気に入ってしまった。
古そうだけどすごく可愛いかんざしだ。先に付いてる花飾りは、透明なガラスの中で
水色や白や藍色の顔料が細い渦を巻いて入り混じってる。いいなこれ。渦の入り具合が繊細で色合いが涼しげで、すごく綺麗。
・・・でもいいのかな、お金も払ってないのに。雑貨っていうよりは繊細な工芸品っぽくて、
安いものには見えないんだけど。
「ありがとうございます。でもいいんですか、これ高そうなのに。あの、じゃあ輪投げのお金だけでも」
「いいよ、よかったら持ってっておくれよ。物は良いんだけどね、花の裏側がほんのちょっと欠けちまってて商売物にはならないんだ」
「んだよつまりゴミじゃねーかよ。人の女に不燃ゴミ押し付けてんじゃねーよ」
「あはは、よく言うねぇ物の価値もわからない不燃ゴミ以下の男がさぁ」
何かっていうと人にいちゃもんをつけたがる銀ちゃんと、銀ちゃん相手だとやけに辛辣なお姉さん。二人はお互いに不気味な
笑顔で睨み合ってる。どうしよ、これって止めたほうがいいのかなぁ。困りながら眺めていたら、
ぱぁああああああん。
すごく大きな音が鳴った。地面がびりびり、って震えるくらいの大きな音。雷が落ちたときのあれによく似てる。どこか遠くで鳴った音みたいだ。
え、何。何の音?きょろきょろと周りを見回したけど、あたしたちがいる縁日には何の変化も起こってない。
隣の焼きそば屋さんに立ち寄ってる人たちも、額に汗を流しながら鉄板のキャベツを炒めてる
その店のおばさんも、林檎飴を舐めながら参道を歩いてた子供たちも、なぜかみんな夜空を見上げてる。
おや、と首を傾げたお姉さんがテントの幕の陰から顔を出す。まぶしそうに空を見上げて、
「へぇ、もう始まったんだね。隣町の花火大会」
「隣町で?・・・あの、今までもやってましたっけ、花火大会なんて」
「今年からだよ。予定は先週だったけど雨のせいで雨天延期、ここの祭りと日取りが被っちまったんだってさ」
「あー。そーいやぁんなこと言ってたな、下のババアが」
眠そうな半目で空を見上げてた銀ちゃんは、ぼそっと小さくつぶやいた。どぉぉおおおん、と二発めの音が鳴る。
さっきの打ち上げよりもうんと音が強い。鼓膜まで痺れさせるような、重たくって身体に響く爆音だ。
やや遅れて、真上がぱっと明るくなる。
この参道の入り口から続いてる細長い夜空に、大きな大きなオレンジ色の光の花が広がる。大きすぎて一部分しか見えなかったけど、
一瞬でぱあっと丸く咲いて、まるで空の暗さに溶けていくみたいにすーっと消える。――すると、黙って空を眺めてた銀ちゃんが、
「ー。どーする、花火見たい?」
「えー。・・・うん、見たいよ。見れるなら、だけど」
真上の空に開いた三発目の花火にぼうっと見とれながら、こくんと頷く。
・・・銀ちゃんと二人で花火、かぁ。
いいな、見たいな。実はちょっと憧れてたんだよね、そういうの。本格的に「お付き合い」するのは銀ちゃんが初めて
なあたしには、彼氏と花火見物、なんて絵に描いたよーなデートは夢のまた夢だったし――
「あっそ。んじゃ行こーぜ」
「え、」
行こうって、どこへ?そう尋ねる間もなかった。銀ちゃんはお姉さんに「じゃーな」とひとこと言い置いて、軽く抱いたあたしの肩を押して
そのまま参道の奥へスタスタ向かう。いつでもどこでも自分ペースでのそのそ歩く銀ちゃんにしては珍しく早足。なんだか急いでるみたいだ。
だけどどうする気なんだろ。隣町に行くにはこのお寺を出て、川を渡らなくちゃいけないのに。こっちとは逆方向なんだけど。
「どこ行くの、逆じゃないの。隣町なら川に出て、橋渡って――」
「あー隣町な。いやいや、そっちは行かねーから」
「・・・?」
「今から行ったって川沿いはゴミゴミしてっからな。の背丈じゃ人混みに潰されちまうし、ろくに見れねーだろ」
「でも、ここからじゃあんまり見えないよ」
「まぁついて来いって。銀さんのとっておきの穴場、教えてやっから」
こっちを見おろした銀ちゃんがにいっと笑う。
カタカタと鳴る下駄の音を速めながら、どんどんあたしを引っ張っていった。花火を見上げる人があちこちに立ち止まってる狭い参道を抜けて、
本堂へ続く石段に向かう。うわ、早い、早いよ。いつもぐーたらで面倒臭がりな銀ちゃんが、いつにない軽快さですたすたと昇り始める。こ
んなに長い階段には慣れてないあたしは、すぐに銀ちゃんの足についていけなくなった。「ちょっ、待って」と何度か声を掛けて止まってもらいながら
上へ昇る。提灯と夜店の灯りに照らされてる参道と違って、長い石段は薄暗い。でこぼこしていて歩きづらい。・・・だけど変なの。薄暗いわりになぜか人気が多いんだよね。
みんなところどころに立ち止まってたり、段を椅子代わりにして腰を下ろしてたり。なぜかほとんどが二人連れだ。
どの人たちもお互いに身体を寄せ合ってて、ひそひそとくすくすと小声で何かを話してて。不思議に思って首を傾げていたところに、
空では超特大の大玉花火がどーーんっと弾けた。隣町の空で広がった光の花は、あたしたちが歩いてる石段の景色もぱあっと明るく浮かび上がらせて。
・・・・・・・・・・・・・あれっ。
な、え、ちょっ。ち、ちちちょっと待って。よく見ると、これって、・・・・・・・・・!!
「〜〜っっっっ!」
「どーしたよ、首絞められたニワトリみてーな声上げちゃって。・・・つーかあれっ、顔真っ赤じゃんお前」
「やっぱいい。花火、見なくていいっ!戻ろう銀ちゃんっっっっ」
「へ。なに、もー疲れたの。いやいやここでそれはねーだろぉ、もーすぐ穴場だってのによー」
「ほ、ほんとに!?ほんとに花火の穴場!?純粋に花火!?」
「あーほんとほんと、嘘じゃねーってほんとだって。・・・あー、何、もしかしてよー。コレ見て誤解してんのお前」
コレ、と言いながら銀ちゃんがちろりと目線で指したのは、長くて暗い階段中にぽつぽつ点在してる人たちだ。
その中でもかなりぴったりと――正確に言うなら、ねっとりと、だけど――身体と身体を隙間なく密着させてる二人を
すっとぼけた半目で眺めながら、
「祭りの夜ったらつきもんだろぉ、こーいうもんは。風物詩だろぉ。別に気にするこたーねーって」
「っっやだ無理、もう無理ぃ・・・!気にするよ、気にするってば!!」
「いやいや、お前が恥ずかしがったって向こうは気にしてないからね。どーせどいつもてめーらの世界に入っちまってて、誰も俺らのことなんざ見てねーから。な?」
まーな、こーいうのに素直に驚いちゃうおぼこいとこが可愛いんだけどよー、は。
なんてやけに嬉しそうに笑いながら、銀ちゃんがぎゅーとあたしの肩を抱き直す。肩を抱いた腕はやらしい手つきで
するする下へ下がっていって、腰のあたりをさわさわしてくる。ああ殴りたい。明らかに調子に乗ってるよ、
なんだか目つきがでれでれしちゃってるし。だけど、普段ならそれだけで恥ずかしくなって「ばっかじゃないの」って突き離しちゃうよーなことを
されても、今はぜんぜん抵抗出来ない。白い浴衣の袖をぎゅーっと掴んで、身体を縮めて銀ちゃんの陰に避難する。薄暗い足元におどおどしまくった視線を落とした。
・・・ああ無理、こんなの無理っもう帰りたいぃ!銀ちゃんはなんてことなさそうな顔してるけど、あたしは無理だよ。
『みんな、こんな何もないところで何してるんだろう』そんなことを不思議がってた三十秒前のお馬鹿さんな自分が、全身から火が出そうなくらい恥ずかしいよ!
道理でみんな小声なはずだ。だって、みんなその、あの、
・・・・・・・・・・だからつまり、この階段で何が起こってるのかっていうと。
お祭りからちょっと遠のいた暗さに紛れて、キスしたり触ったり抱き合ったり、もしくはそれ以上のことをしていたり。
・・・ひ。人前でしちゃ、い、いけないことを、びっくりするくらい開放的にあはんうふんと・・・・・・・・・・・!
「なー。ー」
「っななっ、なにっ」
「そんなに嫌なら目ぇ瞑っててもいーけど」
「・・・!?」
「あのよー、この階段な、上に行けば行くほどすんげーことになってんだわ」
「っっ!?」
ぼそぼそっと銀ちゃんが小声で耳打ちしてきて、本堂へ続く正門が建ってるこの丘の上を見上げた。
やる気のなさそうな半目がじとーっと上の様子を調べてる。「うっわすっげ、やべーってあの子いーのかよこんなとこでよー、えげつねー」なんて
興味深そうにガン見しながらボソボソと述べる。
・・・ちょっ、どーして見えるの、あたしの目には真っ暗すぎて人影も何も見えないんですけど!?
うさぎさんのお面の陰になって半分しか見えない横顔を目を点にして見つめてたら、銀ちゃんがくるりと振り返る。
かと思ったら腰を屈める。肩に回ってた腕にぐいっと引き寄せられて、真正面から向き合わされて。
へ、と間抜けにつぶやいたあたしを眺めた銀ちゃんは、にたーっとぶきみな笑いを満面に浮かべる。腰にも腕を回されて、
そのまま、ひょいっと、
――え、ちょ、ちょっと、――!?
「ぅわ、ひわわわ、っっっぎ、銀ちゃ、っっ!?」
「お前にこれ以上刺激の強ぇーもん見せてもなー。なぁんか危なっかしいし。
動揺しすぎて足とか滑らせそーだしよー」
なんて平然とほざいた銀ちゃんに抱き上げられて、ぽすっ、と白い浴衣の肩に顔が埋まる。後はすっかり銀ちゃんペースで、あたしは
何も見えないままで軽々と上へ運ばれた。ここで嫌がっても仕方がないから、もじもじと銀ちゃんの首に両腕で縋り付く。
途中で何度も「なーなー、俺らって上に何しに行くよーに見えるんだろーなー、な〜〜どー思うぅちゃぁーん」なんて面白がって
しつこく尋ねてくるセクハラ男の急所を蹴ってやりたくなったけど、「降ろしてよっ、自分で歩ける!」・・・なぁんて
強がりもここじゃさすがに言う気になれない。だって、ここで降りたらもっと恥ずかしくなること請け合いだ。
こうやって目を瞑ってる間にも、なんだか色っぽくてあやしい声がひそひそぼそぼそ聞こえてくるし・・・!
あわてて耳も塞いで「聞こえない聞こえない、何も聞こえないぃぃ!」って十回くらい唱えてたら、
そのうちに銀ちゃんの足の動きが変わった。脚は止めようとしないけど、なぜか一度右へ曲がる。曲がった、っていうことは、・・・階段はもう終わったのかな。
だけどまだあたしを降ろそうとしない。抱っこしたままずんずんとどこかへ進んでいく。ざく、ざく、ざく。
大股に進む足元からは、まるで草むらを掻き分けて進んでるみたいな、葉っぱを踏みながら歩いてるような音がする。
ほつれた髪がひらひら舞い上がって首筋をかすめる。銀ちゃんにしがみついた二の腕の、浴衣の袖がざわざわと揺れる。
すうーっと、強めな風が頬を撫でていく。下の縁日ではくぐもった音に聞こえてた花火の爆音が、やけにはっきり響いてる。
・・・どこだろう、ここ。ほんとにお寺の中なのかな。
空気の流れが今までと違う。身体に感じる風が強い。
どこか、風を遮るものが何もない場所に来たみたいな――
「ー。目ぇ開けて。着いたぜー、とっておきの穴場」
「・・・・・・、だ。大丈夫?もう、あ、あやしいこと、してる人とか・・・いない?」
「いねーって、ここなら人っ子一人来ねーから安心しろって。ほら、自分で確かめてみな」
「う、うん・・・」
銀ちゃんの肩に預けてた顔をおそるおそる上げる。前髪やうなじからほつれた後れ毛がさらさらと後ろへ流れていく。
やっぱり風が強いなぁ、なんて思いながらすこしずつ目を開けていったら、目の前には―――
「――ぅわ・・・・・・・・・・・!」
声を上げながら目を丸くして見つめるうちに、どきどきと高揚感で胸が詰まった。銀ちゃんの浴衣の袖をぎゅっと掴む。
すごい、すごいよ。遮るものなんて何もない。見渡す限りに江戸の夜景が広がってる。夜空に伸びる巨大な煙突みたいな形をしたターミナルを背景にして、
暗闇に次々と生まれて消えていく、まぁるく広がる大小の花火。赤から黄色。オレンジから緑。
青から紫に色を変えながら、大輪の光の花が空を彩る。小高い丘の上から眺めるこの景色は、
遠い場所で上がる花火を誰にも邪魔されずに独り占め出来る景色だ。
「すごーーーい・・・・・・・・!」
「いーだろ、すげーだろ。前によー、ここの屋根の修理に担ぎ出されてよー。そん時に見つけたんだわ、この穴場」
「うん、すごい!すっごく綺麗!銀ちゃんありがとう、連れてきてくれて・・・!」
「いやいやいーって、礼なんていらねーって。後でちゃんのアメリカンドッグ舐め舐めプレイ見せてもらえれば銀さんそれで満足だからぁぁ」
なんてやけにうきうきした様子で話す銀ちゃんは、腕にぶら下げた袋の一つを見下ろした。そこにはさっき買ってくれた
アメリカンドッグが入ってるんだけど、・・・何なのあの緩みまくった顔。何かよからぬことを考えてそーなやらしい顔して、
にやにや思い出し笑いしちゃってるし。
「なー」
「うん?」
「どーよ、気に入った?楽しかった?銀さんとデート。もっかいご褒美あげてもいーかなー、って気になんねぇ?」
なぁなぁ、と調子に乗った銀ちゃんが顔を寄せて尋ねてくる。夜店のアメリカンドッグ一本でどーしてそこまでテンションが上がるのか知らないけど、
目つきがやけにきらめいてる。だからあたしはじとーっと冷たい目線を銀ちゃんに送って、そっけなくぷいっと横向いて、
「なんない。ぜーーーんぜん」
「ぇえええーーー!」
「だって、花火見れるっていうから楽しみにしてついて来たのに、暗闇でカップルがいちゃいちゃしてるすっごいとこ見せられたし。
ある意味セクハラだよねあれ。女の子に対するいやがらせじゃん。あーあー銀ちゃん最っっ低。もう当分銀ちゃんには触られたくなーいぃ」
「〜〜〜〜〜!!!」
て、わざと意地悪く醒めたかんじで言ってあげる。すると銀ちゃんは全身の毛を逆立てる勢いで背筋をびくーっと震わせて、
声も出さずに絶句した。かぱーっと縦に大きく空いた口が、わなわなと大げさに震えてる。顔がうっすら青ざめてる。
繊細なのに無神経で人として何かがブレているけどそんなところがとっても可愛いあの先生の名文句「絶望したーーー!」を、今にも
夜空に向かって吠えそうな顔だ。
ああおかしい。そんなにショックだったんだ、銀ちゃん。
最初は我慢してしれっと眺めてたんだけど、そのうちに銀ちゃんの目尻にじわーっと何か光るものが。
ぷっ、とこらえきれなくなって吹き出して、浴衣の袖で口を覆ってくすくす笑って、
「うそ。楽しかったよ」
「へっ」
「すごーく楽しかったよ。・・・・・・夢、叶ったし」
「〜〜〜んだよもぉっ、ひやひやさせんじゃねーよっっ。・・・・・・え、つーかなに、の夢って」
「うん。夢だったの。片思いしてた頃からね。夢だったの。銀ちゃんと、ずーっと一緒にいられる夏休み」
「・・・・・・・・・・・・」
だから、このお休みはどこにも出かけたくなかったの。
昼寝する前には言わなかったことを――この夏休みに何の予定も入れなかった理由を、笑いながら付け足した。
驚いたような顔して口を閉じた銀ちゃんを、上目遣いにちろりと見上げる。そしたら――
「・・・・・・・ふーん。あっそ」
返ってきたのは口を尖らせ気味にしたひとことだけ。瞼が半分下りたとぼけた顔は、どーん、どーん、と華々しく
上がり続ける花火をあんまり興味なさそうに眺めてた。しばらくそのまま黙りこくってから、ぼりぼりと後ろ頭を掻き出した。
よく見ると白っぽい前髪の下で眉がちょっとだけ寄っていて、視線のやり場に困っていそうっていうか、どことなく気まずそうなかんじだ。
銀ちゃんらしくないその表情を一日に二度も見られたことが嬉しくって、あたしは花火を眺めるのも忘れてじいっと見入る。
聞いたこっちが赤面しちゃうような恥ずかしいことや、人前で言っちゃいけないいやらしいことは普段からポンポン口にするくせに、
おかしなところで銀ちゃんは照れ屋だ。
「そんなとこで照れなくていーのに」
「べーつにー。照れてねーし。お前がつまんねーこと言うから花火見てるだけだし」
「ふふっ、変なのー。・・・ねえでも、どーして誰もここに来ないのかなぁ。こんなに綺麗に見えるのにね」
「あー、そりゃー普通は知ってても来ねーんじゃねーの。まぁ、だからこそ穴場なんだけどよー」
「・・・?」
「――あれっ。まだ気づいてねーのお前。んじゃーほら、下見て、下。俺の足元」
いきなり見るとびっくりすっから、ゆっくりな。なんて、銀ちゃんがなんだか不穏なことを言う。きょとんとしたまま下を向いたら、
―――真下は真っ暗だ。何もない。・・・ていうか、地面がない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぇえ?」
ぱちぱち、ぱち。
何度か瞬きしながらそこを見つめる。いくら目を凝らして見つめても、地面らしきものは見えてこない。真下は黒一色の闇だった。
下から風がひゅーひゅー吹き上がってくるだけの、真っ暗な断崖絶壁の一番先。高ーーーーい崖のぎりぎり端。
そこに下駄履きの銀ちゃんの足が、立っ、・・・・・・・・・・・・!!!
「っっっ・・・・・・ひぃやぁああああああ!!!」
へ、と気抜けした顔してあたしを眺めてた銀ちゃんの首に、はしっっっ、と死に物狂いでしがみつく。
・・・・・・・・・・な。ななななななな。っっなんなの、どこなの、ここ!!?
怖さで縮み上がっちゃった心臓をバクバクさせながら、もう一度足元をチラ見する。下に何があるのか、底がどこなのかもわかんないぶきみな暗闇が
目に入っただけで、手足の震えと背中の冷や汗が止まらなくなる。じたばたじたばた。こわくて声も出なくって、「いやぁああああ!!」と叫ぶかわりに
足をぶんぶん振っていたら、
「おいおいィ、暴れっと危ねーからはしゃぐなって。そんなに気に入ったのここ」
「違うぅ逆!こわいのっっ、ガクブルなのぉぉ!っっなにここっ、どこ、どこなの、ここ!!?」
「どこって寺だけど。寺の裏手な。門の手前から塀沿いに伝ってぐるーーっと回ってきたとこな。ここなら誰も来ねーし穴場だろ」
「穴場!?穴場なんて可愛いレベルじゃないじゃん秘境レベルじゃん!!信じらんないっ。信じらんないぃぃっっ」
「あー、まぁちょっとした危険が常に背中合わせにはなってっけどー。こんな眺め、そう拝めたもんじゃねーんだからな?もっと楽しめって」
「無理ぃ、楽しめないぃ!おち、落ちるぅっっ」
「落ちない落ちない。俺がを落とすわけねーだろぉ」
なんて呆れ気味に笑った銀ちゃんが腰を屈める。腕にあたしを抱いたままで膝を曲げて、どすん。断崖絶壁の端っこに座った。
両腕に下げてた多めの荷物を後ろに建ってるお寺の塀のほうにぽいぽい放って、
ブルブル震えてしがみつきっぱなしのあたしのお腹の両脇を掴む。よっ、と持ち上げて隣に降ろす。
芝が生えた柔らかい地面に座らされた。「落ちねーって大丈夫だって」と銀ちゃんが頭を撫でながら何度も繰り返してくるし、確かにここなら、
普通に座ってるぶんには別に危ないことはなさそう、なん、・・・だけど。
怖いもの見たさも手伝って、もう一度下をチラ見する。視線をちょっと上げれば夜空を輝かせる
綺麗な花火がどんどん上がり続けてるのに、銀ちゃんの腕にぎゅううっと全力でしがみつく。白地の浴衣に涙目になった顔をむぎゅっと埋めた。
「〜〜〜〜〜っ。銀ちゃんこわいぃっ。やっぱり、こわいぃ」
「ははっ。どーしたよ泣いちゃって。そんな怖ぇーの。お前高所恐怖症だっけ」
「そ、そうじゃないけど。だめなの。こういう、足場がしっかりしてないところは、だめなの・・・っ」
もし万が一落ちそうになっても、きっと銀ちゃんが支えて助けてくれる。それもわかってるけど、
それでも怖いものは怖い、怖いよ怖いぃぃぃ!下を見ただけで頭の中が真っ白になる!
銀ちゃんに掴まってないと怖くて怖くて、とてもじっとしてなんかいられないよ!
ひゅーひゅー吹き上がってくる真夏の夜風が、ぶらぶらしてる裸足のつま先あたりを抜けていく。
下のお祭りで感じた空気よりもすこし湿度が低そうな涼しい風。肌を冷やしてくれて気持ちいいのに、
その気持ちよさを感じる余裕も持てないんだから・・・!
「いやいや落ちねーって。平気平気」
「わ、わかってる、けどぉっ」
「・・・・・・・・・・ー。顔上げて」
言いながら銀ちゃんは素早く迫ってきた。
ふっ、とほっぺたがあったかくなる。あったかい何かが軽く肌にくっついて、すぐにふいっと離れていった。ざわ、とくっついた着物の肩と肩が擦れる。
まぶたに涙が溜まった目で、あたしを見下ろしてにやにやしてる図々しい顔をきょとんと見上げる。
もう一度銀ちゃんが近づいてきて、ちゅっ。今度は目尻に浮いていた涙を吸い取られた。
驚いて半分開いてた唇を塞がれて、突然呼吸が出来なくなった息苦しさで目を白黒させる。んんっ、とおもわず声が出る。
くちゅ、くちゅって音を立てて舌を撫でられたり、きゅーって絡めて吸われたり。
びっくりして身体が固まってるあいだに、好きなように口の中を混ぜ返された。
・・・なんだか熱い。頭の中、ぼうっと熱くなってきた。あんなに怖くて身体のどこもがちがちに竦んでたはずなのに、全身の力が抜けてきた。
力が抜けたら今度はふわふわした頼りない気分になってきて、ぐら、と大きく身体が傾く。
そこで銀ちゃんがあたしを支えて、顔を離した。ぼーっとした目で銀ちゃんに見蕩れるあたしを眺めて、にーんまり笑う。な。なに、いきなり・・・!
「っ。な。なに、急に・・・・・っっ」
「んー、なんかあれだわ。怯えて抱きついてくるお前とか新鮮だし。ここ、赤くてうまそーだったから」
ここ、とにんまり笑って指された頬は、かーーーっと一気に火照って真っ赤になった。ぱぱっ、と反射的に顔を手で覆う。
にやつきながらあたしを眺めてる顔の横でにこにこしてるうさぎさんのお面を、べりべりっ。
無理やり銀ちゃんから剥ぎ取って、あたふたと被って顔を隠したら、
「あれっ。何、照れてんのお前」
「ぅ、うるさいぃっ。・・・・・・ぁ。あんまりこっち見ないでよ。花火大会なんだから花火見ようよ、・・・って、ちょっっ」
銀ちゃんがずいっと迫ってくる。あわてて押し返そうとしたけど、被ったお面を引っ張られる。ぱっ、と一瞬で取り上げられて、
「なんで。花火より見てーもん、傍にあんのに」
「〜〜〜〜っ!!」
すこし首を傾げた銀ちゃんが、緩んだ笑顔でこっちを見て言う。
ぅあぅぅ、とあたしはもごもご口籠って、真っ赤な顔でうなだれた。
掴みっぱなしな銀ちゃんの袖を無意味にぎゅーぎゅー強く引っ張る。こんなことでもしていないと、
一気に血が昇った頭の中が、ぼんっっっ、と煙を上げて爆発しそうだ。
ちょっっっ。なんでそんなにストレートに!!ここでそんなにけろっと言う!?
「っ。ち、ちがぁ、だ、だからそういう、・・・っっっもぉっやめてよ、あたしじゃなくて花火!あたしの顔なんていつでも見れるけどっ、
花火大会は年に一度しかないんだからねっ、花火見てよ!・・・ど、どーして、こっち、ばっかり・・・」
「んだよいーじゃん見せろって。花火よりだろぉ、こーいう時は」
「〜〜〜〜っだからそぉいう恥ずかしいこと言うなぁっっ」
「それによー。直接見なくても見えてっから、花火」
「・・・っ。な。なにそれ。見えないでしょ。見てないじゃん」
「いやいや見えるって。映ってんだわ、お前の目の中に」
な。もっとよく見せて。
顔を寄せてきた銀ちゃんが耳元でささやく。
芝生を擦ってすこしずつ指先から重なってきたおおきな手に、ゆっくり腕を引き寄せられる。バランスが崩れたあたしの身体は、ぐらり。
自然と白い浴衣の胸にしなだれかかった。視線をあたしの目から外そうとしない銀ちゃんの口が、ふっと笑って。
「・・・・・・・すっげぇ、綺麗」
いつになく照れくさそうな顔して目を細めた銀ちゃんの口から、不意打ちで飛び出した小さな声。
そのひとことにどきっとした。きっと花火のことを言ってるんだ。心臓をとくとく早鳴らせてる自分に一所懸命にそう言い聞かせても、
頬が勝手に熱くなる。銀ちゃんの腕が腰に回ってくる。あ、と肩をぴくりと震わせた瞬間には、
もう片方の手にうなじに落ちた後れ毛を掻き上げられている。
・・・ああ、やっぱり銀ちゃんにはかなわない。すっかり観念してへなへなと力が抜けていく背中を、力強い腕が抱き止めた。
「・・・ー。明日はどーすんの。何か予定とか、あんの」
「な・・・なぃ、けど・・・っ」
「ん。じゃあ、このまま明日の夜まで銀さんとデートとか。どーよ」
つーかよー、休みの間じゅうちゃん独り占めしてーんだけど。いい?
目の前まで迫ってきた銀ちゃんに訊かれて、黙ってひとつ頷いた。どぉん、と打ち上がった花火の音が鼓膜をいっぱいに震わせる。
どぎまぎしながらまぶたを閉じる。ゆっくり、すこしずつ閉じていったまぶたの裏が、ぱあっと白く、明るく染まる。
唇を重ねる寸前までぼうっと見蕩れた銀ちゃんの瞳には、何か夢でも見てるような、うっとり顔のあたしだけが映ってた。