「・・・、さっきは、ごめん」
ノックに続いてドアが引かれた。ドアの向こうに立っていたのは彼だった。
保健室に入ってもあたしとは距離を置いたまま。戸口の前から動こうとしない。
そこで何も言わずに深く頭を下げた。頭を上げてからはずっと、あたしの左の手首を気まずそうに見つめている。
さっき廊下で掴まれたところ。目線の意味に気がついて、なんとなくそこを握って隠した。
大丈夫だよ。気にしないで。
そう言いたかったけれど、何も言えずに首を振る。
あたしの態度が曖昧だったからなのか、彼はもっと気まずそうな表情になった。
それから背後を――開けっ放しにした戸口のほうを振り返った。
「今出てったの沖田だろ。俺らの話、あいつから聞いた?」
「・・・ごめん。」
「・・・ははっ、なんで謝んの?俺、あいつと話したのかって聞いてみただけだよ、・・・」
軽く笑った彼の表情がすこしずつぎこちなくなっていった。
握って隠したあたしの手首を、後悔しているような目つきで見つめている。
「・・・って、そっか。俺がビビらせるようなことしたからだよな」
そうだよな。
自分に言い聞かせるようにつぶやいた彼は、しばらくあたしの手許を見つめて黙り込んでいた。
それからがらりと口調を変えて、普段の率直な話し方になった。
「実は話したっていっても、たいした話はしてないんだ。銀八の奴すぐどっか行っちまったから、あいつが俺に、
と別れるなら殴っていいって言って。それで。・・・空き教室行って一発殴った」
「・・・・・・・」
「殴った、っていうよりは殴らされたってかんじだったけどさ。おかげで俺はすっきりしたよ」
「・・・・ごめんね」
「もういいよ。謝んなよ。ていうか、・・・俺、あいつにもにも謝ってほしいわけじゃないし。・・・うん。謝られても、困るよ」
うつむき気味に頭を掻きながら言った。
あたしと目が合うと、ははっ、と情けなさそうに眉を下げて笑う。教室でよく見掛ける、いつもの彼の笑顔だった。
「さっきクラスに戻ったら人目がヤバくてさ。かなり噂になってるみたいで参った。・・・でさ。俺、当分には近づかないから。
だけどのこと怒っててそうするわけじゃないって、知っててほしいんだ。それだけ言いに来た」
「・・・・・・、うん。わかった」
「まあ、沖田とは卒業まで口聞かないかもな。けど、恨んでるとか、そーいうんじゃないんだ。だから、・・・」
そこで言葉を切った彼は、何かに迷っているみたいに見えた。
目線を床に落として、肩に掛けた通学カバンの紐をぎゅっと握り締めている。
「あのさ。俺――」
言い辛そうな前置きをして、硬い表情で唇を噛んで。すぅ、と深く息を吸い込んだ。
涙の行方
戻ってきた本校舎には人と声と物音と熱気に溢れて、むせ返るようなあわただしさだった。あたしは人の間を縫って急いだ。
最後の準備のラストスパートでひしめきあっている廊下は、どこもまっすぐには抜けられない。
校門前に出す露店に使いそうな長い鉄パイプ。あたしの背丈くらいあるすごく大きなスピーカーやアンプ。
演劇で使う舞台背景っぽい、壁みたいなセット。普段の学校ではあまり見かけないものばかりが目の前を運ばれていくのは
壮観だったけれど、ひとつひとつを眺めていられる時間はなかった。
運搬の邪魔にならないように右へ左へ避けながら自分のクラスへ向かった。急げば急ぐほど息が上がって、
二つ重ねて脇に抱えた通学カバンがごつごつとお腹にぶつかって痛かった。
――もう帰っちゃったかもしれない。総悟が保健室を出ていってからかなり経ってるし。
そう思うのに諦めきれなくて、混雑した廊下を小走りに進んだ。
廊下がこんなに混んでなかったら追いつけたかもしれないのに。熱なんか出してなかったら追いつけたかもしれないのに。
いろんなことに歯痒くなりながら、はぁはぁと息を切らして階段を上がる。途中で息がつけないくらい苦しくなって
手摺りにしがみついて休んでいたら、上から「あれっ、ちゃん」と声を掛けられた。
ぐったりしながら顔だけ上げる。踊り場でダンボール箱を抱えてる新八くんが、あたしを不思議そうに見下ろしていた。
「えっ、どうしたの、もう走っても平気なの?」
「っ、・・・新八く、っ、総悟っ、見な、かった?」
途切れ途切れに尋ねたら、新八くんは目を丸くしてきょとんとした顔つきになった。
「あれっ、変だなぁ。沖田さんに会わなかった?さっきちゃんのカバン持って教室出ていったよ」
「・・・・、っ、会った、んだ、けどっ・・・・・」
「なんだか急いでたから、あれはてっきり保健室に迎えに行ったんだと、・・・え、ちょっ、ちゃん!?」
――なんだ。もう教室にはいないんだ。
新八くんの声を聞いているうちに脚から力が抜けて、ずるずると身体が崩れる。床にぺたんとへたり込んだあたしの前を、
同じ三年生だと判る顔が何人か、邪魔そうに眺めながら追い越していった。
(なあ、あれ、・・・だよな。何あれ、すごくね)
(マジかよ、また違う奴じゃん。揉めてた奴らはどーしたんだよ)
頭の上からひそひそとささやく声がする。その声に気づいたら、きぃん、と頭の奥が軋むみたいに痛くなった。
じわじわと嫌な感触で身体が竦んでいく。
・・・こんなに人の目を怖く思ったのなんて、初めてだ。
こめかみをぎゅっと押さえてうつむいた。床に落としたカバンをぼうっと見つめる。途方に暮れながらつぶやいた。
「・・・・・。もう帰っちゃったのかなぁ・・・」
「いやそれよりもさ、顔が青いよ、大丈夫?」
「うん。あんまり、・・・・・じゃなくて、あの、うん、さっきよりは、ぜんぜん、平気」
「いやちゃん、どう見ても平気そうには見えないよ」
ぱたぱたと駆け寄ってきてダンボールを下ろした新八くんが目の前にしゃがむ。落ちたカバンを拾ってくれた。
眼鏡越しにあたしを見ている表情は眉がすごく寄ってる。「どうしよう、困ったなぁ」って顔をしてる。
その顔を見ていたらこっちも自然と眉が下がってきて、すごくもうしわけない気分になった。
新八くんだってあの時教室にいた。あたしたちを見てたはずだ。
妙ちゃんを通してあたしとも仲良くしてくれているぶん、すごく心苦しい気分にさせたはずだ。
「だめだよ、熱があるなら寝てなくちゃ。保健室に戻ろうよ」
「ううん。熱はもう下がったんだ。ちょっと走ったら息が切れただけ」
「そうなの?それならいいけど・・・」
「・・・・・。ごめんね。せっかくみんな盛り上がってたのに。新八くんにも嫌な思いさせたよね。ごめんね」
ぽつり、ぽつり、とちいさくつぶやく。すると新八くんが変な顔をした。
もっとぎゅーっと眉が寄って、ものすごく困った顔になった。どうしてなのかほっぺたがりんごみたいに赤い。
「〜〜っ、ちゃん!」
「う、うん、・・・?」
「あのさ、ええと、ぼ、僕っ、こ、こういう時に、女の子をどう励ましたらいいのかなんてわからな、
・・・いや、ていうかっ、そもそもっ、ぼ、僕に励まされたってちゃんは元気出ないかもしれないんだけどっ、」
階段どころか一階や二階にも響き渡る、ものすごく大きな声だった。通行中のみんなが足を止めてこっちを見てる。
顔を赤くしてあたふたと立ち上がった新八くんは、シャツの胸ポケットから何かを出した。
手渡されたのはジュースの缶に丸い顔と爪楊枝みたいな手足をちょこんとつけたような、小学生の工作みたいなかたちのキーホルダー。
自転車の鍵がくっついている。
「それ貸すよ。裏の自転車置き場にあるから乗って帰ってよ。
歩いて帰るよりは楽だろうし、自転車なら沖田さんにも追いつくかもしれないしね」
ダンボールを抱え上げた新八くんが、じゃあね、と先に階段を降りていく。
降りる途中で振り返った。ぽかんと見ていたあたしとばちっと目が合うと、小首を傾げて照れ臭そうに笑ってくれた。
妙ちゃんとそっくりな優しい表情。見ていたらなんとなくほっとして目が熱くなってきて、ぽろっとしずくが零れてくる。
ほっぺたに流れたしずくを手の甲で拭いながら頷く。何度も何度も頷いた。
「うん。ありがと。・・・新八くん、ありがとう」
「じ、じゃあね、また明日!」
お礼を言っただけなのに、よっぽど恥ずかしかったみたいだ。かーっと顔が火照って真っ赤になった新八くんは
ぎくしゃくと人混みを掻き分けて逃げていった。
うん。また明日ね。
よたよたと人にぶつかって危なっかしく廊下を走っていく背中を、手を振りながら見送った。
階段を通る人たちから怪訝そうな顔で見られてる。でも、そんなことどうでもよくなっちゃうくらいに嬉しい。
あわててる新八くんは間違っても振り返ったりしなさそうなのに、背中が見えなくなるまで手を振り続けた。
さっきまでは破裂しそうなくらい暴れてた心臓がもう静まっている。息苦しさも消えていた。
あたしはようやく立ち上がって、手摺りにしっかりつかまって。階段を一歩ずつ踏みしめて降りていった。
混み合う階段を降りたら昇降口は目の前だ。
人と人の合間を横切って、背の高い下駄箱がずらりと整列している中へ駆け込んだ。薄暗いすみっこにある自分の下駄箱に飛びつく。
あわてて蓋を開けてローファーを出した。
早く。急がないと追いつけない。ああ、でも、どうしてこんなに急いでるんだろう、あたし。
別に今追いかけなくたって、後で総悟の部屋に行けばいいだけじゃん。それに、別にどうしても今日じゃなくたっていい。
明日だっていい気もする。だけど、・・・だけど。それじゃだめだ。
それじゃだめなんだって言ってる。あたしの中にいるあたしが、泣きそうになって急かしてる。
早く。早く探しに行かなきゃ。
カバンの中では妙ちゃんからの着信メロディーが鳴っている。ごめんね妙ちゃん。後でちゃんと報告するから。
心の中で謝りながら、上履きを下駄箱に乱暴に突っ込んだ。ローファーに履き替えてカバン二つを持ち直して、
走ろうとしたら誰かの視線を感じた。顔を上げたら――
玄関の手前で壁に寄りかかって、じっとこっちを見ている男の子が目に入った。
「――――、」
暗すぎて顔も姿もよく見えない。でも、あの細い身体の輪郭は、――
「・・・総悟?」
帰ったんじゃなかったんだ。
驚いて肩から力が抜けて、カバンがずり落ちそうになる。呆けた声を掛けたら、黒い人影が壁から身体をひょいっと起こしてこっちへ歩いてきた。
だらりと羽織ったシャツの裾がはためいている。腰ポケットに突っ込んでいた両手があたしに伸びて、カバン二つをもぎ取って自分の肩に掛けた。
「・・・、まだいたんだ」
「お前の友達、うるせー奴ばっかでムカつく」
「え?」
「帰ろうとしたら志村姉と柳生に説教されたんでェ。やっぱ俺が送ってくべきだとか何だとか、
そこに近藤さんまで乗っかってきて、あげくに山崎のやろーまで便乗してきやがった」
「・・・・。みんな心配してくれてるんだよ」
「袋叩きの間違いだろィ。ま、どーでもいーや。帰ろーぜ」
ふぁあ、と眠たそうな顔で欠伸をしながら、総悟は腕を上げる。んん、と大きく伸びをした。
まだ眠たそうな顔してる。女の子みたいに大きくて色素の薄い瞳が、いつもと変わらないとぼけた様子であたしを眺めた。
あたしはおもわず目を逸らして一歩退いた。とくとくと心臓が速まり出す。保健室であんなことがあったばかりだ。すごくきまりが悪かった。
「・・・あ、あのね。さっき、新八くんから、」
「知ってる」
総悟はあたしの手を掴んだ。
手首を握られたらそれだけで顔が熱くなる。どうしよう。ますます総悟の顔が見れない。
掴んだ手は顔の高さまで上げられたけれど、力がぜんぜん籠っていない。
なにか遠慮しているみたい。あたしに触ることに戸惑っているような手つきだった。
黙って指を押し広げて手のひらを開かせると、そこに握っていた自転車の鍵を勝手に取り上げる。
何するの、という目で見上げたらちょっとだけ口端を下げて、ほんの一瞬、すごくつまらなさそうな顔をした。
「志村弟がでけー声出すから、全部聞こえた」
すぐにくるりと背を向けて、あたしのほうなんて確かめもしないで玄関に向かった。
いつもと同じマイペースな態度だ。違っているのは、総悟の手があたしから離れないことだけ。
学校の、しかもこんな誰に見られても不思議じゃない場所で、総悟が手を握ってくるなんて。
・・・初めてかもしれない。
人目が気になって、落ち着かない気分で周りを見回す。
温度の低い手はあたしを連れて歩きだした。足取りは急いでいるけれど、手首を握った指の感触は、あたしに遠慮しているのか
あんまり強く掴もうとしない。
先を行く手に引かれながら昇降口を後にする。
出たとたんに目がくらんだ。オレンジ色の陽射しを全身に浴びて、急に目の前がまぶしくなる。耳には一気に音が飛び込んできた。
人気がなくて比較的しんとしていた昇降口の中とは逆に、玄関前は声を張り上げて話さないと何も聞こえないくらいのにぎやかさだ。
校門からは一直線に模擬店の屋台が並んでいる。明日の試作品を焼いているのか、お好み焼きやクレープなんかの香ばしい匂いが
あちこちから流れてくる。どのお店も最後の準備に忙しそうだ。
「あれっ。そーいやぁ土方が今日は最後まで残れって言ってたよーな。・・・ま、いーか」
「・・・・・・・・」
「帰ったら志村姉と柳生にメールしろよ」
「・・・うん」
「あーあ、腹減ったぁ。な、お前んちで飯食っていい」
「・・・そういうことは帰ってからママに聞いて」
――もっと他に言うことないの。あるでしょ。なんでどうでもいい話ばっかりするの。
かあっと火照った顔をうつむかせて、頭の中では文句をつけながら歩く。あたしの返事を聞いた総悟は、
ちぇ、と面白くなさそうに口を尖らせた。
とはいってもママは総悟に甘いから、だめだなんて絶対に言わないだろうけど。
総悟は屋台の列を眺めることもなく右へ曲がって、裏口へ繋がる講堂のほうへあたしを引っ張っていった。
横切った中庭では一年生たちがアイドルっぽい振付のダンスの練習をしている。
窓を開けた講堂からはどこに居ても耳につく松平先生の声がして、その合間にギターやドラムの音がたどたどしく鳴っていた。
通路を何度か折れていくうちに人の姿が少なくなっていって、無人の自転車置き場に着く。
この時間にしては珍しく誰もいない。きっとどこのクラスも準備に追われていて、帰るどころじゃないんだろう。
新八くんの銀色の自転車はいちばん端にあったからすぐに見つけられた。
あれ、と立ち止まった総悟の隣から指で差す。総悟はあたしの手を離して自転車に向かった。
カゴにカバンをどさりと落として、腰をかがめて持っていた鍵を差し込む。がちゃん、と鍵を外す音に合わせて口を開いた。
「来ただろ、あいつ」
「・・・・・・・、うん」
訊かれたら、さっき見た彼のぎこちない笑顔を思い出してしまった。あたしは重たい気分で頷いた。
総悟はちょっと機嫌を悪くしたような顔つきになる。
栗色の髪に半分隠れた大きな目を、怪訝そうに細めて問いかけてきた。
「あいつと何話したんでェ」
「総悟はどんなこと話したの」
「覚えてねーや。腹減りすぎて全部忘れた」
「ふーん。・・・いいよ。総悟が言わないならあたしも言わないから」
皮肉っぽく言い返したら、総悟は眉をしかめて判りやすくむっとしていた。引き結んだ唇が何かを言いかけてかすかに動く。
それからあたしに背を向けて自転車を引っ張り出して、物も言わずに歩き出した。
数歩歩いて立ち止まって、来いよ、と目で呼びかけてくる。あたしを睨んでいる顔つきは
何か言いたげなのに言うのが悔しいから我慢しているというか、すごく子供っぽく見える。
腕を包帯で吊っていた小学生の頃の総悟と重なってみえて、なんだかおかしくなってきた。
「なに怒ってんの」
「別に怒ってねーし」
うそばっかり。ないしょにされて拗ねてるくせに。
立ち止まった総悟まで駆け寄って、自転車の後ろの荷台を引き止めるようにして手を掛ける。
言おうかどうかしばらく迷ってから、小声で切り出した。
「・・・ほんとはね。言わないって約束したんだ。だから、総悟には言わない」
「ぁんでェ、それ」
「総悟だけじゃないよ。誰にも言わない」
「・・・・・・・・、」
総悟がサドルに腰を下ろしたから、あたしも荷台に腰掛けた。
漕ぎ始めると自転車はふらふらと左右に蛇行した。今にも落っこちそうでこわくて、ひゃあ、と悲鳴を上げてしまった。
あわてて総悟に両腕を回す。ぎゅっと抱きついたお腹や胸は、くくっ、とおかしそうな笑いで揺れていた。
「なに。なんで笑うの」
「いやぁ。お前がすげー大胆にくっついてくっから。教室では俺に「触んな」っつったくせによー」
「っ・・・、あ、あれは、だって、みんなが、見てたから・・・!」
「へェ。誰も見てねー時ならどこ触っても許してくれんのかィ」
「そんなこと言ってないっ」
違うからっ、とTシャツのお腹のところをぐいぐい引いた。
総悟は肩越しにこっちを見た。細めた目が意地悪く笑ってる。
見られているうちに耳までかあっと熱くなって、肩を縮めて背中の影に隠れた。手でぱたぱた扇ぎながら顔の火照りをごまかす。
裏門を抜けたらぐんとスピードが上がって、スカートを押さえないとふわふわ浮くようになった。
風になびいた栗色の髪が、時々目の前をかすめていく。
近所の子供の遊び場になってる大きい公園を抜ける。たまに寄るコンビニが見える。いつも待たされる長い信号を過ぎる。
夕陽に染まった水面がきらきら輝く河辺に出ると、野球場やサッカーコートが見える。もう陽が暮れそうなのに、おじさんたちが草野球をしていた。
自転車通学なんてしたことがないから、いつもと違うスピードで過ぎていく帰り道の景色はなんだか新鮮だ。
総悟と二人乗りするのも久しぶり。あたしを乗せてもたいして重みを感じていなさそうな顔で飄々と走っている幼馴染みの背中は
相変わらず細身だけれど、半袖のシャツから伸びた長い腕や、たまに振り向いたときの横顔は、小さかった頃とは比べものにならないくらい男の子っぽくなった。
シャツの左肩にこつんとおでこを預ける。流れていく景色を眺めながら思い出す。彼が勇気を出して打ち明けてくれたこと。
あたしが知らなかった ――たぶん総悟も知らない、本当のこと――――
『あのさ。俺も、ごめん――』
ほんの十数分前の保健室で。
言い辛そうな前置きをして、硬い表情で唇を噛んで。深く息を吸い込んだ彼は、一息に秘密を話してくれた。
『俺、前から知ってたんだ、沖田の気持ち。のこと見てたら沖田の目が気になってきて、そのうちに沖田が
近藤たちにのこと話してるの聞いて。それでなんとなく判っちゃってさ。・・・だから先越してやろうって、焦って、告って、・・・』
ごめんな、あんなことして。・・・嫌だったよな。
追い詰められた表情でうつむいて、彼は思いきり深く頭を下げた。
ごめん。
繰り返しつぶやいた声は消えそうに弱かった。同級生に混じっていると一人だけ大人っぽく見えるがっしりした身体つきは、
なんとなくいつもより小さく、頼りなく見えた。
『沖田といる時のは、すげー自然に笑ってて。俺、そういうのことがいいなって思っててさ。だから告ったんだ。
・・・付き合って、もっと仲良くなれば、俺にもああいう顔見せてくれるんだと思ってた』
そんなにうまくいくわけないよな。
そう言って辛そうに笑った顔の表情を見たら泣きそうになった。
だけど、一番泣きたいのは彼だ。一番我慢しているのは彼だ。
あたしがここで泣くのはずるい。そう思ってスカートの上から足を抓って我慢した。
だけど。今、総悟にしがみつきながら思い出すと――
「腹痛てー。お前、しがみつきすぎ」
「だって。こわいんだもん。あんたの運転が荒いから、・・・・」
ぐすぐすと啜り上げながら涙声で返した。声をこらえて顔をくっつけていたシャツは、あたしの涙でしっとり湿ってる。
背中の感触で判ってるはずだけど、気付かないふりをしてくれるのは気が楽だった。
学校で二度も泣いて目が厚ぼったく腫れてるのに、そんな顔をじっくり見られるのは恥ずかしい。
「総悟」
「ぁんでェ」
「殴られたんでしょ」
頬や顎に流れた涙を拭きながら言ったら、視線だけで振り向いてちらりとこっちを見る。あー、とどうでもよさそうにつぶやいた。
「痛かった?」
「痛てぇに決まってんだろ」
・・・そうだよね。馬鹿なこと聞いちゃった。
横顔からたまに見える目元のあざは、まだらになった紫色が生々しい。
「・・・と思ったんだ」
「え?」
聞き返したら自転車が止まる。ここから先のあたしたちの帰り道には信号も何もない。ただまっすぐ続くだけの、河原沿いの遊歩道。
総悟はそこで何を思ったのか、きいっ、と音を鳴らして急なブレーキを掛けた。
いきなり止まった反動であたしの身体は総悟にぴったりくっついて、顔がぼすっとシャツに埋もれて。
ぷは、と苦しくなって顔を離して息をついたら、いきなり腕を引かれる。もう一遍ぐいっと引き寄せられて、
あたしの顔はまた総悟の背中に飛び込んだ。
「・・・何かしてやりてーと思ったんだ」
「え。・・・なにが。何か、って?」
「俺もお前と同じなんでェ」
小声でそう言ってまた漕ぎ出した。
スピードがさらに上がって、ごうごうとうるさい風の音が耳を塞ぐ。
茜色が目を焼くまぶしい川沿いの景色は、めまぐるしい速さで過ぎていった。
「お前、さっき言ったよな。自分のせいで俺が悪く思われんのが嫌なんだろ」
「・・・。うん」
「俺だってそーだ。お前が悪く言われたり、それで傷つくとこは見たくねー。
だってのに結局、一番お前を傷つけちまってるのは俺で。そういう自分が死ぬほど嫌になってんだ」
だから、と言葉を継いで、抱きついている身体の気配が一瞬閉じた。
自転車を漕ぐ足が止まってスピードが緩む。風音が緩む。少しの間黙り込んでから、かすかに笑う気配がして。
「だから、・・・お前があいつとこじれてるって他の奴等に知られたら、全部肩代わりしてやろーって。それだけずっと思ってた」
声を落とし気味にしてつぶやいた総悟は、それ以上には話してくれなかった。
身体を前に倒し気味にしてまた自転車を漕ぎ始める。スピードが上がる。頬に当たる風が強くなる。
あたしは腫れぼったい目を大きく開いて、幼馴染みの背中を見上げた。
目元にあざの出来た横顔は、燃えるような色で光る河辺を眺めて眩しそうに顰められていた。
聞いているうちに身体から力が抜けてしまっていた。Tシャツをしっかり掴んでいた手がずるずると落ちていって、
シャツの端っこにかろうじて指がひっかかる。
言いたいことはいっぱいある。なのに何も言えなくて、ただ黙って、夕陽を受けて光る髪が風に靡くさまを見つめた。
――風が強い。耳が痛い。総悟があんまり急いで漕ぐからだ。
さらさらした、金色に光る糸みたいな髪が目の前で舞い上がってる。
座ってるだけでスカートが捲れる。頭の中がうるさい。ごうごうと荒れた音で飛び込んでくる風に、耳の奥まで占められる。
声を張り上げないとどんな言葉も掻き消されてしまいそうな強い音の中。
あたしの口からはたったひとこと、総悟の耳にも届きそうにない、弱ってかすれた声が漏れた。
「・・・、ばっかじゃん」
あんたがそんなこと、しなくていいのに。
総悟ってばかだ。
彼もそう。男の子ってみんなこうなのかな。
(何かしてやりてーと思ったんだ。)
さっきの総悟の言葉が、頭の奥で何度も繰り返し鳴っている。なんだかせつなくなってくる。
黙って自転車を漕いでる目の前の背中にしがみついて、わんわん泣きじゃくりたいような、やるせない気持ちになってきた。
何か言いたいのに声は出て来なくて、かわりに熱い目の奥から涙がじんわり滲んでくる。
こらえようとしても流れてくるから、風に翻るスカートには小さな染みがぽつぽつと落ちた。
自転車は角を曲がって、あたしたちのマンションのある通りに入る。
マンションの門を抜けてスピードが落ちる。自転車は奥にある駐輪場へゆっくり向かっていった。
きいっ、とブレーキを軋ませて自転車が止まる。駐輪場は建物の影になっているからもう真っ暗だ。
総悟が先にサドルから降りて、あたしを荷台に乗せたまま後輪を持ち上げて自転車を停めた。
「っ――!」
サドルにあわててしがみつく。総悟は一瞬振り返って「あ、悪りー」とあまり悪いとは思ってなさそうなしれっとした顔であたしを見た。
いきなり腰が持ち上がってびっくりしたし、総悟の意外な力の強さにどきっとして。驚いて涙まで引っ込んでしまった。
・・・びっくりした。クラスの男の子たちと比べるとすごく細身で、女の子みたいに見えるのに。
この細い腕で、自転車にあたしの身体まで。荷台に座ったままぽかんと眺めていたら、ははっ、と笑った総悟の背中が小刻みに揺れた。
「ひっでぇ顔してらぁ。お前学校で鏡見てねーだろ」
「・・・鏡見るひまなんてなかったもん」
しょーがないじゃん。
口を尖らせてそうつぶやいたら、
「・・・俺、お前を泣かせてばっかだ。」
「・・・・・・・・」
「でも本当は泣かせたくなんてねーんだ。
俺のせいでお前が傷つくとこなんて、本当は全然見たくねーや」
言いながら総悟は自転車のハンドルを強く握った。腕に筋が浮き上がっている。
背中越しに聞こえてくるのは、ちょっと怒ったような荒い口調だ。
あたしや他の誰かへの怒りじゃなくて、自分に腹を立ててるみたいな声。
「自分でもわかんねーんだ。お前が泣いてたら泣かせた奴にムカつく。
なのにどーしよーもねーんだ。傷つけたくねーのに泣かせたくなるんだ。お前を泣かせてるくせに、泣かれんのぁ嫌なんだ」
総悟が振り向いて、伏せた視線がゆっくりと上がってこっちを見た。
前髪がちょっと乱れている。色の薄い大きな瞳は思いつめた色を浮かべていて、あたしをじっと見つめて動かなかった。
ハンドルを握っていた左手が自転車を離れる。その手が無言であたしへ伸びてきたから、ふっと肩が震えた。
荷台にしがみついていた二の腕を掴まれる。軽く引き寄せられて、心臓が小さく脈打った。
見開いたあたしの目は、自然と総悟のほうへ釘付けにされていた。
「どれが本音かなんて俺にだってわかんねーよ。…けど、どっちの俺もお前が好きだ」
とくん、と大きく弾んだ胸の動きで息が詰まった。
逸らさない瞳に吸い込まれた目の奥で、熱いものが一瞬で膨らんだ。
きゅうっと心臓を絞られているみたいなせつなさが襲ってくる。
自分がどこにいるのかも忘れそうになった。総悟の表情があたしの全身を捉えてる。
何か言いたげな目で顔を傾げて、あたしの返事を待っている。
「うん、・・・・・・・」
それを聞いた総悟は、ほっとしたような表情になった。
かすかに口端を歪めて笑ったのに、眉を寄せて細めた目元はなんとなく泣きそうに見えた。
あたしも好きだよ。総悟が好き。
言えない言葉を籠めて、潤んで熱くなった目で黙って見つめる。
だらりと下がったシャツの裾をそっと握って、くい、と軽く引いた。
腕を掴んでいた手にぐいっと引かれて、もう片方の腕に腰を抱えられて。あたしは荷台に座ったまま、総悟の両腕に閉じ込められた。
首筋から漂ってくる男の子の匂いと、ちょっと低めな体温に包まれる。目を閉じろ、って促してくる視線と目が合って、少し迷ってから頷いたら。
――この腕を振り払う理由なんて、もう、どこにも探さなくていいんだって気がついて。泣きたくなった。
ねえ。総悟。
あたしもそうだよ。総悟といると自分がわかんなくなる。
ずっとわけわかんなくて、苦しくって。それでも総悟にいやって言えない。そういう自分がこわかった。
総悟と一緒にいるのはくるしい。好きなのにくるしい。
こんなに好きで、大好きなのに、一緒にいると時々つらくなる。
いいたいことがありすぎてどう言ったらいいのかわからないから。言葉なんかじゃ足りないから。だから苦しくなって、せつなくなって。
伝えきれない自分がもどかしくて、泣きたくなって。
ときどき心臓が潰れそうになるくらい悲しくなる。
なのに一緒にいたい。勝手にあたしを捕まえて抱きしめてくる男の子の腕も、慣れないキスも、総悟がしてくることは戸惑うことばっかり。
受け止めきれなくって、あたしはいつも変になる。ひどいことも言われる。
すごく傷つく。泣きたくなる。なのに、それでも離れたくない。一緒にいたくて仕方がない。
ちょっとくらい追い詰められて窮屈な思いをしても、すごく痛い思いをしても、それでもいいって思えちゃう。
身体を閉じ込めてるこの腕の狭さや自分勝手さに、ちっとも不自由を感じたりしない。
おかしいよね。
あの夏祭りの夜までのあたしは、こんな窮屈さなんて絶対にいやだと思ってた。
男の子と付き合うなんてどこがいいの。ちっともわかんない。
あの日のあたしは本気でそう思ってた。
あの日のあたしは知らなかった。
好きだ、って言われただけで心臓がぎゅっと縮んで、泣きたいくらい嬉しくなる男の子が、こんなに近くにいるなんて。
あの日のあたしは知らなかった。
あたしの身体を窮屈に閉じ込めようとする男の子の腕が嬉しくなる。そんな気持ち、理解できないって思ってた。
なのに今は、こうしているときがいちばん総悟を近くに感じて、いちばんわかりあえてる気がして。
ずっとこうしていてほしい、なんて思っちゃうんだよ――
「・・・明日。模擬店とか、一緒に回れたらよかったのに」
唇がすっと離れていって、あったかい感触だけが残される。
目を開けたら総悟が見たことのない表情で笑っていた。いつものとぼけた顔とそんなに変わらないのに、ちょっとだけ
大人びて見える表情だ。
初めて会った知らない男の子みたい。
ぼうっと見つめていたらどきどきしてきて、どこを見たらいいのかわからなくなった。
恥ずかしさをごまかそうとして、どぎまぎしながらそう言ったら、総悟は眉をひそめて変な顔をしていた。
「一緒にって、俺とかィ」
「うん」
「うん、てお前。いーのかよ」
いいよ。
そんなことをしたらまた彼を傷つけてしまうかもしれないから、妙ちゃんたちと一緒に回ることになりそうだけど。
でも、誰に見られてもなにを言われてもいい。それでも一緒に回りたかった。正直にそう話したら、
「・・・変なやつ」
総悟は口端を上げてにやりと笑った。小さい頃から変わらない、いたずらっ子の顔。
あたしの髪を一房取って指に絡めて、弄ぶみたいに梳きはじめる。
それまでの総悟の表情は、いつもどおりに平然としているようでいて、どこか曇りがちだった。
その晴れない表情が、その時だけはなんとなく嬉しそうだった。
――明日、学校に行ったら。
妙ちゃんに総悟のことを報告しよう。真面目な九ちゃんは今もあたしのことで悩んでいそうだから、悩ませてごめんねって謝ろう。
今日は何も役に立てなかったから、たくさん仕事回してねって阿音ちゃんに言おう。
新八くんには泣き顔を見せて困らせてしまった。鍵を返すときには笑顔でお礼を言おう。
明日の教室は普段より人の出入りが多くて人目も多い。今日よりももっと大変なことが待っていそうだ。
噂は学年中に広まるだろう。知らない人にまで色々言われて、今日みたいに傷つくことだってあるかもしれない。
それを思うとちょっとだけ、憂鬱な気分になってくるけど。
でもいいの。それでもいい。
総悟が傍にいてくれるから。こうして笑いかけて、好きだって伝えてくれるから。
あたしが総悟を信じているなら。こんな重苦しい憂鬱さはいつかそのうちに嘘みたいに晴れて、どこかへ消え去ってしまうのかもしれないから。
「じゃあ、どっか静かなとこで一日中さぼろーぜ」
「えー。やだよ。最後のお祭りなんだから遊びたいよ」
「・・・・・・・。ガキくせー奴」
「いいじゃん、お祭りなんだから子供っぽくても」
「ガキくせーのは今までさんざん付き合ってやったじゃねーか。もういいだろィ。明日は祭りの違う楽み方教えてやらァ」
そう言って総悟はセーラー服のスカーフに指を掛ける。くいっと引かれて前のめりになる。
おでことおでこが、こつん、と骨に響く音をたててくっついた。
「静かなところで、二人で、・・・?」
「あぁ。屋上でも空き教室でも、俺ん家でも。の好きなとこでいーや」
「・・・・・・・なにも、しない?」
「さぁねェ」
思わせぶりな響きで総悟はつぶやいた。うっすらと笑った大きな瞳が、あたしに何かを言い聞かせようとしてる。
ほら、どうするんでェ。
そんなふうに言いたげな表情が、こつん、とおでこを押してくる。
あたしは困ってうつむいた。かあっとほてった顔から火が出そうだ。戸惑いながら目を閉じた。
総悟の手はあたしの首の後ろに回ってきて、うなじから差し入れた指で髪を優しく撫でていた。
まるでずっと前からそうしてたみたいに迷いがない手つきで、ゆっくりあたしを引き寄せていく。
頭の後ろを固く抑えた細い手が力強くて、もうどこにも逃がさない、って言われてる気がした。
柔らかく重なってきた吐息の熱さがくすぐったい。抱きしめられた背筋がきゅうっとしなる。
そっと触れ合った唇で確かめる。
背中に回ってセーラー服を握り締めた長い腕に、言葉じゃなくて仕草で言い聞かせられる。
このマンションで一緒に育ってきた、小さな子供だったあたしたちは。ただの幼馴染みだったあたしたちは、もうどこにもいないんだって。
恋はもう始まってしまったんだ。
――それが誰の目から見ても間違っていて、ちっとも正しくないはじまりだったとしても。