っ!」

あとちょっとで手が届くところで、後ろから腕を掴まれた。セーラー服の袖を鷲掴みした九ちゃんの手は痛いくらいで、 いつものあたしだったらどうやったって逆らえない強さ。なのにあたしはどうにか九ちゃんを振り切って 彼の腕に飛びついていた。
両腕で肘に縋ったけれど、縋った瞬間に簡単に振り払われた。凄い力だ。よろけて足元が崩れて、 廊下にどんっと腰から落ちる。痛さを噛みしめながらまた飛びついたら、後ろから誰かの手があたしの肩を掴んだ。 やめろ、危ない、って真剣な声が叫んでる。九ちゃんの手だ。判っていても振り返らなかった。 我を忘れて掴んだ肘をぐいぐい引いていたら、総悟のシャツの衿元を締めつけていた彼が ようやく振り返った。きっ、と睨みつけてくる視線が怖い。縋っていた手の力がすうっと抜けていく。 彼の目に浮かんでいるのは激しい怒りと、あたしに対するわずらわしさだけだ。どうしよう。 身体が竦んで動けなくなっていたら、目の前に、何かが――

「はいそこまでー」

あたしと彼の間を遮った黒い何か。よく見れば日直がつけるクラス日誌の表紙だ。ぽかんとそれを見つめていたら、 すっかり気抜けした声の彼がつぶやいた。

「銀八、・・・・・・」
「銀八ぃ、じゃねーよ。ぁにやってんだおめーら」

頭を上げるとよれよれのズボンとよれよれの白衣が見えて、先生がかったるそうに立っていた。 瞼が下がった眠そうな目であたしと彼を交互に見て、いきなり日誌の角を振り下ろす。 こんっ、と勢いよく頭を小突かれた彼は、いてっ、とうめいて頭を抱えた。 先生は、あーあー、と苦笑いで彼を眺めて、それからあたしを見下ろした。日誌の角を使って首をぽりぽり掻いている。

「大丈夫かー、
「は、・・・はい、」
「あっそ。そんならいーけどよー。ヤローどもの間に入るとあぶねーぞ。もうやめとけよ」

そう言いながら先生は手を伸ばす。あっけにとられているあたしを引っ張って立たせた。 倒れたままの総悟をちらりと見てから、不服そうに頭を押さえている彼に呆れたような目を向ける。

「なにお前。祭りだからって浮かれすぎじゃねーの。 まー、たしかに俺も祭りでもケンカでも好きにしろっつったけどな。女泣かせてケンカってよー」
「先生、あれは総悟が悪りーんだ。こいつが先にふっかけたんだよ」

近藤くんがいつのまにか教室から出てきて、総悟の傍にしゃがんで困った顔をしていた。 その横に土方くんと山崎くん。山崎くんに支えられて起き上がった総悟の口許が、ほんのかすかに動いている。 土方くんに何か話しかけているみたいだ。
先生は、ふーん、とあまり気にした様子もなくつぶやいて、 「こいつはそー言ってっけどよー。実際どーなんだよ」と彼に尋ねた。

「・・・・・先に手を出したのは俺です。けど、沖田は、」
「あーはいはい、それ以上はここで喋るんじゃねーよ。言っとくけどお前らの声、廊下の端まで聞こえてっからな」

先生は顎で廊下の先を指した。見ると、廊下にいる全員の足が止まっていた。
隣のクラスでは大道具の運び出しの手を止めて全員がこっちを見ていた。その向こうのクラスでは、 窓やドアから顔を出してこっちを覗いている。 ついさっきまではがやがやとにぎやかだった廊下は不自然な静かさで固まっていた。

「どーすっかなぁ。生徒指導室、・・・は校長に知られるとめんどくせーからなぁ。 んじゃ食堂で話聞いてやるわ。お前ら二人は迷惑料として先生にいちご牛乳を奢るよーに」

かったるそうなお説教はそれであっさり終わって、先生は彼を床から引っ張り上げた。 くるりと踵を返した先生が歩き出す。「はい」と苦い顔で頷いた彼が続いて、黙って立ち上がった総悟も後を追った。 ついていこうかどうしようか迷っていると、、と後ろから硬い声で呼ばれた。九ちゃんだ。ハンカチを差し出してくれている。
あたしは黙ってハンカチを受け取った。それから「ごめんね」とだけ謝った。九ちゃんはただ頷くだけで、何も訊こうとしなかった。 けれど、何がどうなっているのかわからない、訊きたいことがたくさんあるんだ、って心配そうな表情には書いてある。
曇った大きな瞳を見つめかえすのが、今のあたしには辛かった。ハンカチで顔を覆ってうつむいていたら、、と後ろから呼ばれる。 振り向くとそこに土方くんが立っていた。

。お前、熱があるんだろ」
「・・・え、・・・・・?」
「総悟の奴に頼まれたんだ。お前の顔色が悪い、触ったら頭が熱かった、保健室に連れてってくれ、ってよ」

行くぞ。
素っ気なく言った土方くんは、くるりと向きを変えて歩き出す。 迷っていると山崎くんが困った笑顔で寄ってくる。行こうか、とやっとにぎやかさが戻ってきた廊下の向こうを指した。
半分開いた教室の窓から、数人のひそひそ声が流れてきた。

「えーっ。なにそれぇ。そんな話だったんだー」
「それはキレたくもなるよねー。あいつ、知らないうちに沖田くんにさんをとられてたんじゃん、 かわいそー」
「・・・てことはさー、え、あの子、・・・二股?えー、マジで?」
甲高い女の子たちの声が頭に響いてくる。毎日会ってるクラスメイトの声だ。 誰の声なのかはすぐわかったし、今ここにいる子たちが、あたしじゃない他の誰かの話をしているとは思えない。

そっか。・・・そうだよね。
二股かけてた。そう言われちゃうことをしてたんだ、あたし。
言われたことの意味をあらためて噛みしめる。 ショックで足が動かなくなって、山崎くんをしばらくその場に待たせてしまった。





 three sheep





「すいませーん、先生ー。ベッド貸してくださー、・・・・って、あれっ。誰もいないや」
「・・・そーいやぁさっき講堂にいたな、あの養護教諭」
「えー、そーなんですか?なんだぁ、知ってたんなら言ってくださいよ」
「言ってくださいよじゃねーよ。おめーも俺と講堂にいただろーが」

目の前通ったのに見てねーのかよ。
溜め息をついた土方くんは、無人の保健室をきょろきょろと見回している山崎くんに呆れていた。 開けたとたんに消毒液の匂いが漂ってくる入口を抜けて、奥までさっさと入っていくと、 いちばん窓に近いベッドを仕切っているカーテンを開ける。

さん、先生が来るまでそこで寝てなよ。あ、そーだ、熱も計ったほうがいいよね」

ええと、体温計はー、と山崎くんが壁際に並んだガラス戸の薬品棚に寄っていく。 あたしはカーテンを開けてもらったベッドまで行って、マットの端っこにそっと腰を下ろした。 ぴんと敷かれた真っ白なシーツに触ると、さらっとした感触が妙に冷たく感じた。 はぁ、と溜め息をつきながら肩の力を抜く。すると身体中が急にぐったりしてだるくなった。
前髪を避けておでこに触れてみると、たしかにかあっと火照ってる。そういえばさっきから、頭がやけにぼうっとするなあって思ってた。 喉の奥も熱くてなんだか気持ち悪い。熱があるんだろ、なんて言われたときには驚いたし、半信半疑でここまで来たけど、
・・・なんだ。ほんとに具合が悪かったんだ、あたし。

「ごめんね。二人とも忙しいのに」

窓際に立つ土方くんに声を掛ける。ガラスの向こうの渡り廊下を眺めている姿がちらっとこっちを向いて、いや、とだけ返された。

「まあ、校内の見廻りもあるし、クラスの揉め事に手ぇ回すほど余裕はねーけどな。・・・うちはクラス委員があれだからな」

土方くんはうんざりしたような目を細めて窓の外を見ている。体育館に繋がる渡り廊下の前には特設ステージが組まれていて、 そこに貼られた垂れ幕には「文化祭お笑いライブ予選会」と書かれていた。そのステージ上に見慣れた長髪の男子を見つけた。 うちのクラス委員、桂くんだ。漫才コンビみたいなお揃いのブレザーを着ていたり、コスプレしたりで見るからにお祭り気分な 出場希望者の集団に、やけに意気込んだ顔つきで紛れている。
「この忙しい日になにやってんだあいつは」と、土方くんは頬をぴくぴくさせながら睨んでいた。 見ているのも腹が立つと思ったのか、しゃっ、と勢いよくカーテンを閉める。 西日を遮られて薄暗くなった保健室は、急に落ち着いた雰囲気になった。

「・・・こんな浮ついた日に、あんなことになっちまったのは気の毒だけどな」

言いにくそうに前置きすると、土方くんはあたしのほうに振り向いた。

「総悟も悪りいがお前も悪い。こうなっちまうのは時間の問題だったんじゃねえのか」

言い方は遠回しだったけれど、口調は少し辛辣だった。 土方くんは眉を寄せた難しい表情をしている。あたしは唇を噛んで、何も言えずに頷いた。
・・・そっか。気付いてたんだ。土方くんは知ってたんだ、あたしたちのこと。
でもその通りだと思う。言葉も出ないよ。 土方くんが言ったことは、保健室へ来るまでの間にあたしが思いつめていたこと、そのままだった。

「うん。そうだよね。ごめんね迷惑かけて」
「いや、俺は別に。つか、こーいうこたぁ他人に謝るようなことでもねーだろ」
「・・・そうだよね。みんな嫌だよね、最後の文化祭でクラスの中にこんな揉め事があったら。嫌だよね。気ぃ使わせるなってかんじだよね」
「い、いや、その、つってもあれだぞ、8対2くれーで総悟が悪いけどな!?」

あたしがしょぼんと肩を落としたからなのか、土方くんはあわてて言い直してきた。 「まああれだ、色々言われんだろーがあんま気にすんじゃねーぞ」なんて焦った顔で言い聞かせて、すぐに気まずそうに背を向けてしまう。
土方くんは総悟とケンカばかりしているけれど、ぶつかりあってばかりなぶんだけ、総悟のことをよく知っている。 もしかしたらずっと前から、あたしたちがどこかおかしいって気付いていたのかもしれない。 あたしとはそんなに話すほうじゃないのに、急にあんなふうに言い出すんだもの。・・・今までも影で心配してくれていたのかな。

「ありがとう。・・・でも、総悟じゃないよ。8対2であたしだよ」

あたしが悪かったんだ。もっと早いうちにはっきりさせていたら、こんなことにはならなかったのに。
そう言うと、

「そうだな。そういう意味ならお前ら三人、全員が悪りぃ。総悟もお前も、あいつもな」
「・・・・・・。そんなことないよ」

足元を見つめながら首を振った。彼は何も悪くない。彼があんな乱暴な態度になったのは、今までのあたしの態度がさんざん彼を傷つけてきたからだ。 悪いのは、総悟のことをちゃんと話さなかったあたしだ。 話せばもちろん怒られたと思う。逆上する、とまではいかないかもしれないけど、彼に罵られる、くらいのことにはなったかもしれない。
でも、・・・それが何だっていうんだろう。
痛い思いをするのは裏切るほうじゃない。裏切られたほうがうんと痛い。辛い思いをするのは彼だ。裏切ったあたしじゃない。 彼にどんなに罵られても、あたしは黙って受け止めないといけなかった。許してもらえなくても、今日よりももっと怖い目にあっても、 きちんと彼に向き合って謝らなきゃいけなかった。
なのにあたしは、いろんなことを怖がってばかりで。ただ怖がるだけで、自分からは何もしようとしなかった。 自分がしているうしろ暗いことを見られないようにって、彼に背中を向けて必死で逃げていただけ。 逃げられる彼がどんなに傷ついているのかなんて知ろうとしなかった。あたしに逃げられてしまう彼の気持ちなんて、ちっとも考えようとしないで。

「ほんとに悪かったのはあたしだよ。このままじゃだめだってわかってたのに、はっきり言えなかったから、・・・」

胸が痛い。心臓がずしりと重い。鉛のかたまりを入れられたみたい。
彼のことを考えると、考えることがありすぎて、もうしわけない気持ちでいっぱいになってくる。 ごめんなさい。その言葉だけで頭の中がいっぱいになるのに、謝っても、謝っても、――何度謝っても、足りない気がする。

「それを言うならあいつも相当悪いだろ」
「え?」
「・・・・・、まあ、あれだ、今は何も考えねーで寝てろよ。文化祭本番は明日だぞ」

祭りの準備で燃え尽きて本番は参加出来ませんでした、じゃ意味ねーだろ。
ちょっと困っているような顔でそんなことを言って、棚の引き出しを端から開けている山崎くんのほうへそそくさと向かおうとする。あたしはあわてて呼び止めた。

「あのね、ありがとう。土方くんと話してたらさっきよりも落ち着いてきたよ」
「は?・・・・いや、別に俺は、礼をされるようなこたぁ何も」
「なんだか妙ちゃんと話してる気分になったよ。土方くんってさ、なんとなく妙ちゃんと似たとこあるよね」
「どのへんがだよ!?」

あたしよりもうんとしっかりしてて、人に気を遣うのがすごく上手なところが。
そう言おうとしたのに、土方くんは「おいィィィ、俺のどこが告ってきた野郎をフルボッコにする凶暴女と似てるってんだ!?」 なんてかあっと目を見開いて迫ってきて、急にすごい剣幕だ。そこへガラッと戸が開いて、

「何だお前ら、騒がしいぞ」
「あっ、先生ー」
「遅せーよどこ行ってたんだよ。うちの担任とヤニ吸ってたんじゃねーだろーな!?」
「待たせてしまったか、それは悪かった。講堂で機材搬入していた二年生に怪我人が出たのでな。 で、保健室に用がある病人はどいつだ」

月詠先生はヒールの高い靴をカツカツ鳴らしながら恰好よく入ってきた。 「とりあえずお前が病人ではなさそうだな」と、細い眉をかすかに上げて土方くんを眺める。 着ているのはうちの担任と同じ白衣なのに、モデルみたいに颯爽と歩く先生が着ていると、まるで違う服に見えてくるから不思議だ。 先生はあたしのところまで来て幾つか質問をして、額に手を当てて熱を計ってくれた。山崎くんが持って来た 体温計をあたしに渡すと「熱はあるが高熱ではないな。解熱剤を出すから少しここで寝ているように」と涼しげな目で言い聞かせる。
「こらお前たち、の寝姿を覗く気か」
と土方くんと山崎くんを追いやって、ベッドとベッドを仕切っているカーテンをてきぱきと閉めて出ていった。


「咳も出ないし喉の腫れもない。風邪というより、疲れから来る知恵熱だろう。 しばらく安静にしてから帰宅させる、と担任に伝えておいてくれ」
「はい、わかりましたぁ」
「ああ、それとな、・・・」

土方くんらしい早い足音がすぐに部屋を出ていって、残った山崎くんと先生は抑えた声で話していた。 あたしはエプロンを外して、靴と靴下を脱いでから、ベッドにぱたんと身体を横たえる。 カーテンに映る人影を眺めて、その声を聞いているうちにうとうとしてきた。寝転んで三十秒もしないうちに目を閉じていた。


回りに誰もいなくなって気が抜けたからなのかもしれない。
カーテンを隔てた話し声がすごく優しい音に聞こえる。頬に当たるシーツのひんやりした感触が気持ちいい。 急に眠気が襲ってくる。意識が暗さに溶けていく。

ふわりと浮かんだ誰かの顔が――手を払いのけたあたしに驚いていた、あの顔が目の前をよぎった。
さっき髪を触られたときにおでこをかすった、固い爪の感触もよみがえってくる。

総悟。

意識が途切れる寸前に呼んだ幼馴染みは、その後に見た夢の中にも現れた。







―――夢の中で、あたしは家のリビングにいた。

見下ろしているのはぐちゃぐちゃに崩れたミツバちゃんのケーキ。粉々に割れたお皿。 買ってもらったばかりの真新しいスカートは生クリームまみれで真っ白だった。

「危ない、動いちゃだめよ」そう言いつけて掃除機を取りに走ったママの姿。
びっくりして泣き出したあたしを、背中を撫でて宥めてくれたおばさんの困った顔。
「泣かないで。いいのよ、ケーキはまた作ればいいんだもの」
そう言って慰めてくれた、おばさんによく似たミツバちゃんの困った顔。
無言でゆらりと立ち上がったパパの背中は見たことのない怖さで、顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、あたしは絶望的な気分になっていた。


あれはあたしの誕生日。10歳のお誕生日だった。
お姉ちゃんが連れてきた彼氏のせいですごく気まずかったお誕生日パーティーは、あたしの失敗をきっかけに、 さらに台無しになって終わろうとしていた。
そうだよ。台無しなまま終わるはずだった。――総悟があんなことをしなければ。

――そうだよ。総悟のばか。
小さい時から生意気でひねくれてて、わがままで気分やで。 あたしやミツバちゃんを困らせるようないたずらばかりしてた。顔は女の子みたいにかわいいのに、中身はまるで小さい悪魔みたいだった総悟。 顔を合わせれば意地悪するから、小さい頃のあたしは総悟に泣かされてばかりいた。
もしもこの子が幼馴染みじゃなかったら、絶対に仲良くなれないタイプだ。
ずっとそんなことを思ってきた。
幼馴染みじゃなかったら苦手な子。ずっとそう思っていた。 それでも嫌いになれなかったのは、・・・あたしが総悟以外の誰かのことで困ってるときに限って、 総悟がいつもの総悟じゃなくなっちゃうから。


総悟のばか。どうしてあんなことしたの。

あたしは台無しなままでもよかったのに。さっきだってそうだよ。
あんたがあんなことしなくたって――よかったのに。








――痛い。

ぼんやりした痛覚で起こされた。
つうっと肌を引っ掻いたかすかな痛み。固い感触があたしを目覚めさせた。
爪の先だ。前髪を掻き分けて入ってきた指が、触れるか触れないかくらいの近さでおでこをかすめている。 手が降りてくる。息を押し殺しているような静かさで当てられた手のひらは、ほんのり湿って冷たかった。



「・・・・・・総悟、」

呼ぶと手つきが固くなった。ほんの一瞬だけためらったような間を置いて離れていった。
まぶたの腫れぼったさを気にしながら目を開けると、最初に総悟が目に入った。 枕元にパイプ椅子を置いて座っている。口を食い縛っている横顔には、目の下のところに紫色のあざが出来ていた。 視線を避けているみたい。ベッドの頭側にある壁を睨みつけていた。上半身を起こしてみたら、身体に薄手の毛布が 掛けられていた。眠っている間に先生が掛けてくれたのかな。周りをぐるりと見回してみる。 目を開ける前からなんだか静かだなぁと思っていたけれど、総悟のほかには――誰もいない。先生もいない。
あたしと目が合うと、総悟は後ろに首を回す。背後のベッドに通学カバンが二つあった。総悟のと、あたしのカバンだ。

「カバン持ってきた」
「・・・うん」
「起きたら帰っていいって、保険医のねーさんが言ってたぜ」
「・・・・・・・・、先生になんて話したの?叱られた?」

べつに。
総悟は西日で赤くなった壁を醒めた目で眺めながら、半笑いでつぶやいた。

「俺とあいつにいちご牛乳買わせたらすぐいなくなった。ガキの色恋沙汰なんか興味ねーからてめーら二人で話つけろ、だとよ」
「・・・・・・・どんなこと、話したの」

顔色を伺いながら小声で訊くと、総悟はすぐに椅子から腰を上げた。

「じゃーな。志村姉と柳生が、心配だから家までついてくってよ。六時すぎには片付け終わってここ来んじゃねーの」

そう言って目も合わせずに帰ろうとする。離れてしまわないうちにあたしは腕を伸ばした。シャツの端を掴んで引き止める。

「ぁんでェ。放せよ」
「お誕生日」
「は?」
「小四のとき。・・・10歳の誕生日にさ。総悟が怪我したでしょ。 うちでお誕生日パーティーして、総悟がお姉ちゃんの彼氏の頭でお皿割っちゃって」

それは泣いているあたしに大人たち全員が注目していたときに起きた、予想外な事件だった。 いつのまにかお姉ちゃんの彼氏の前に立っていた総悟が、けろっとした顔で彼氏の頭にお皿をがつんと振り下ろしたのだ。 彼氏の頭はサラダと砕けたお皿の欠片まみれ。失礼な娘のボーイフレンドに喝を入れるつもりが、小学生の男の子に出し抜かれて しまったパパは呆然。総悟のいたずらにいつも手を焼いていたおじさんは頭を抱えて、おばさんは「あぁっ」と思わず呻いて、 レタスやトマトやドレッシングを頭に被った彼氏と、殺気立った彼氏に睨まれてもけろっとしている総悟に挟まれたお姉ちゃんは真っ青。 当然彼氏は怒り出して、――そして、信じられないことをした。
小学生の総悟をいきなり殴りつけたのだ。
高校生の腕力だ。殴られた総悟の小さな身体は、人形みたいに横に吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。そんなことまでしたのにそれでも 気が済まなかったのか、彼氏はソファから猛然と立ち上がろうとした。
ところが次に吹き飛ばされたのは総悟じゃなくて、彼氏のほうだった。 お腹にびしっと打ち込まれた一撃は、普通の高校生男子程度の威力じゃなかった。鍛錬された本格的な正拳突き。
「彼氏より強い女なんて男にもてない」なんて理由で隠していたから彼氏は知らなかったみたいだけれど、 うちのお姉ちゃん、実は空手の有段者だ。しかも、妹のあたしよりもお隣の総悟のほうを気に入って、本当の弟みたいに可愛がっている人だった。 弟分に乱暴を働いた彼氏には即座に見切りをつけて、ものの一分もかからない間に家から追放してしまった。


「――その人がキレて、総悟が殴られてお姉ちゃんがキレて、 ・・・みんなで車飛ばして病院行って、すっごい大騒ぎになったよね。覚えてる?」

夜間診療のある病院に駆け込んで診てもらったら、壁にぶつけた腕にはひびが入っていて、 それからしばらく総悟の腕は包帯で吊られていた。学校には通っていたけど、体育や体を使う行事はぜんぶ見学。 腕が使えなくて持てない荷物を総悟に代って運んであげるのが、その頃のあたしの日課になっていた。

「・・・、覚えてねーや、んな古りー話」
「あたしは覚えてるよ。だってすごく悔しかったんだもん」

ふっ、と口から苦笑いがこぼれた。――総悟の怪我が治って包帯を外せるようになるまでの一カ月。あたしは登下校の時間がいやでたまらなかった。
隣にいる幼馴染みの包帯が巻かれた腕は痛々しくて、目にするたびに重苦しい気分にさせられた。 その気持ちはそれまでに経験したことのないもやもやとした苦々しさだったから、あたしはちょっとだけ総悟を恨んだ。

――あのとき、おじさんもおばさんもミツバちゃんも、沖田家のみんなは口を揃えてあたしに言い聞かせた。
「あれは総悟が勝手にしたことだから、ちゃんは気にしないで」
病院へ行く途中の車内。腕の痛みをこらえてびっしりと汗を掻いた顔をしかめながら、小学生だった総悟はあたしに言った。
お前帰れよ。お前が泣くとムカつく」
・・・その言葉を聞いて、ぼろぼろと流れ続けていた涙が止まった。

それまであたしは、総悟がいきなりお皿をぶつけたのは、いつもの気まぐれか悪戯なんだと思っていた。 でも違った。総悟はお姉ちゃんの彼氏があたしを笑ったことが許せなかったんだ。あの人はゲラゲラと感じ悪く笑って、 自分の失敗にショックを受けてたあたしをもっと泣かせるようなことをしたから。 だから総悟は黙っていられなくて、しなくていい怪我まですることになった。
それが判ってしまったら、気にしないでいるなんて無理だった。
総悟ってば、どうしてあんなことしたんだろう。こんなふうに毎日見せつけられるくらいなら、あたしが怪我したほうが気持ちが楽だったのに。 そんなことまで思ってたんだよ。
一度も口にしなかったことを正直に話したら、総悟は明るい色の目をわずかに見開いて、意外そうな顔をした。

「・・・・・・。大きくなって見た目は変わったのに。そういう勝手なとこはちっとも変わんないね、総悟って」

八年も黙っていたあたしのちいさな秘密。言い終えたらなんだか胸のつかえが下りた気がした。 立ち上がったまま動かない総悟をじとっと見上げる。どんな返事が来るのかなって待っていたのに、くるりと背中を向けられた。
ねえ、と後ろから呼びかける。握っていたシャツの端をくいっと引いた。


「あの時もそう。さっきもそうだよ。どうして出てきたの。あたし、総悟に庇われなくても自分でどうにかするつもりだったんだよ」

――うそ。そんなの嘘だ。
さっきのあたし、どうにも出来てなかった。ぜんぜんだめだった。謝りたいことも、誤解を解きたいと気にしていたことも、たくさんあった。 なのに真剣な彼を前にしたら、言いたいことなんて消し飛んでしまった。総悟が来てくれなかったら、あたしはただ泣きじゃくっているだけだったかもしれない。 そしてあたしのそういう態度は、彼をもっと追い詰めることにしかならなかったんじゃないかと思う。でも、・・・だけど、

「なのにあんたが勝手に割って入って。勝手に怪我して。全部自分が仕組んでました、みたいなこと言って、 勝手に悪者になっちゃうから、」

――嘘つきはあたしだけじゃない。総悟だって嘘ばっかりだ。今もまだ嘘をつこうとしてる。頑なに目を合わせようとしない態度でわかる。

「ばっかじゃねーの。まさか俺がマジでお前に手ぇ出したとでも思ってんの。はっ、すっげえ自信過剰。からかってたに決まってんだろ」
「嘘だよ。嘘じゃん・・・!」

総悟は答えなかった。くすくす笑う細い背中が揺れている。シャツの裾をきつく握って、あたしは唇を噛みしめた。

ぜんぶ嘘。嘘ばっかりだ。
他の誰が判らなくても、あたしには判る。 総悟は騙せたつもりでも、声のトーンや表情の微妙な違いだけで判っちゃうんだよ。いっしょに育ってきた幼馴染みだから。

「やめてよ。やだよこんなの。勝手なことしないでよ。 どうして総悟が一人で悪者になっちゃうの?・・・彼を騙してたのはあたしだよ。あたしが悪いのに!」

庇われたくなんかなかったよ。なのに総悟はあたしと彼の間に入って、彼の怒りが向く矛先を全部自分へ変えようとした。 彼を騙したのはあたし。総悟じゃない。裏切らせるようなことをしたのは総悟かもしれないけど、総悟を拒めなくて 結果的に彼を裏切ったのはあたしだ。なのに総悟は彼をけしかけることで、そこを勝手にすり替えた。 あたしの罪まで勝手に一人で被ろうとしてる。
これじゃぜんぶ総悟のせいになっちゃう。
違うのに。ほんとに自分勝手なのはあたし。誰よりも、いちばんあたしが自分勝手だ。
あたしは総悟に振り回されて困ってた。困らされているだけのような気になってた。 彼からは逃げてばかりで、自分の殻に閉じこもって、何も悪くない彼を困らせてた。 いろんなことを総悟のせいにした。無意識にそうしていた。自分のずるさを見ないようにしたかったから。 総悟は気付いてたはずだ。それでも黙っていてくれた。悪いのはあたし。自分勝手に彼を無視し続けて、 自分のずるさや酷さを総悟に押しつけて、見ないようにしていたあたしのほうだ。



「・・・文化祭が終わったら言うから」

西日でオレンジ色に染まった保健室に、うわずったあたしの声だけがぽつりと響いた。

廊下には校内放送の声が淡々と流れてる。
『・・・繰り返します。もうすぐ下校時間です。下校時間の延長申請をしていないクラスの委員は、至急生徒会室まで・・・・・・・・・・』
窓際にある時計は六時を指している。さっきカバンの中で携帯が鳴っていた。設定された音色は妙ちゃんからのメールの着信音だ。 喋っているうちに速くなっていた心臓の動きが少しずつ落ち着いてくる。すっと息を吸い込んで、ゆっくり吐いて。 さっきまではあんなにだるかった身体がいつのまにか軽くなっていることに、今頃になってやっと気付いた。

「みんなに言う。全部あたしが悪かったんだって話すから」

彼にもちゃんと謝る。だからもう、総悟は何もしないで。

声を落として話しかけてみたけれど、総悟は答えてくれなかった。
しんとした保健室を重苦しさが埋め尽くしている。部屋の重力があたしにだけ集中しているみたいに空気が重たい。 握っていたシャツを力無く放すと、すうっと深く息を吸う気配がした。


「・・・何が悪りーんだよ。あのくれーのこたーしてやって当然だろ」

耳を澄ましていないと聞き取れないくらいに低めた声で総悟は返してきた。
当然って。あたしは眉をひそめて白いシャツの背中を睨んだ。

「当然じゃないよ。みんなの前であんなことになったんだよ。・・・あたしは自業自得だからいいけど、でも、彼は」
「あいつは俺の前でお前を泣かせた。お前に触った。だからクラスの奴らが見てる前でひと泡吹かせてやったんでェ。 それ以外に理由なんかいらねーや」

制服のズボンのポケットに引っかかっていた左手が拳になる。ぎゅっ、と固く握りしめられた。
振り向いた総悟がこっちを見る。感情を全部手放したような暗い目。どこにも感情のかけらが混ざっていない無表情な顔が、 じっとあたしを見据えていた。

――あれは。
何度も見てきた表情。あたしに手を伸ばしてくる前に、総悟が決まって見せる顔――


あ。
口の中でつぶやいた。ぞくりと背中を這い上がったこわさに肩が竦んだ。
ベッドの端まで下がろうとしたあたしを硬い感触が掴む。総悟の手が引き止める。 やだ、と背中や肩をよじって手を外そうとしたら、その手はあたしの骨が砕けそうなくらい強い力を籠めてきた。

「・・・・・っ、や!」

やだ、と言う前に総悟の手のひらが口を塞いで、ベッドにむりやり引きずり倒された。
上に跨った総悟の身体がお腹を潰す。その勢いで、ふぁ、といっぺんに身体中の空気を吐き出して苦しくなる。 マットに後ろ頭が強くぶつかって、抵抗した腕を抑えられて、痛い、と感じるよりも前に、まぶたに涙がぶわっと滲んでいた。
やだ。やめて。やだ。
塞がれた口でもごもごと言うと、くくっ、と総悟は笑った。 あたしを抑えつけている肩と、目元を隠した栗色の前髪が小刻みに揺れる。 総悟の顔はほんの少しだけ表情を取り戻した。じっとあたしを見下ろしながら、唇を歪めて冷たく笑ってる。 総悟。やだ。はなして。はなして。泣きそうで強張ってるあたしの声と、揺れるマットがぎしぎし軋む音が、頭の中で混ざり合って反響してる。
マットの揺れがおさまったころにあたしの口を解放して、総悟はからかうような口調で言った。

。お前、あれを俺がお前のためにやったとでも思ってんだろ」
「――、っ、やだぁ、・・・いた、っっ」
「ははっ、んなわけあるかっての。おひとよしのあいつじゃねーんだ、俺はそこまで優しかねーや」

言いながら総悟が迫ってくる。栗色の髪の毛があたしの眉間まで垂れてきて、息苦しいくらい詰め寄られた。 影が落ちて前が暗くなる。あたしの口を塞ごうと降りてきた唇に呑まれそうになる。身体を揺すって横に逃れて拒んだら、 いたっ、と声を上げてしまうくらいの痛みが肩に走った。

あたしは総悟を見上げて涙目を大きく見開いて、必死で大きくかぶりを振った。
違う。嘘だ。
じゃあ総悟は何のためにあんなことしたの。やろうと思えば反撃だって出来たくせに、どうして無抵抗で殴られたの。
目で訴えて逆らったら、抑えた手の力が強さを増す。総悟はあたしを身じろぎも出来なくしてしまった。 それでも黙って総悟を見上げて、何度もかぶりを振った。何度も、何度も。

「お前が一番知ってんだろ。俺はこういう奴だって」
「・・・っ、や、」
。俺、ずっと面白くねーんだ。むしゃくしゃしてしょーがねーんだ。 それもこれも全部お前のせいだ。お前があいつなんかと、・・・」

言いかけた言葉を止めると、総悟は深くうつむいた。
歪んだ笑いを浮かべていた唇がじわじわと噛みしめられていく。

「・・・、お前のせいだ」

肩を抑えた手が緩んでいく。ぽつりと絞り出された声は震えで張りつめていた。
うつむいた総悟の表情はすごく苦しそう。噛みしめた口許が震えてる。眉間を狭めた目元は今にも泣きだしそうだ。 見ていたらあたしの胸の奥まで苦しさがぎゅうっと詰め込まれた。

「俺はお前のせいでムカついてばっかだ。 お前があいつの前でめそめそ泣いてんのがムカつく。お前があいつに同情してるのがムカつく。 簡単につけ入らせるのが我慢できねぇ・・・!」

あたしをベッドに沈めていた腰が浮く。総悟の重みが一瞬離れた。 身体を覆っていた毛布が、ばっ、と大きく捲くられる。次の瞬間には目の前が真っ暗だった。

「――っっ!」

苦しい。息、出来ない。飛びついてきた総悟の腕が、頭の上まで被せられた毛布が、隙間なく身体を閉じ込める。 あたしは毛布の中で嫌がってもがいた。起き上がろうと頭を起こしたらベッドに押し返されて、後ろ頭が枕に強くぶつかる。 膝の間に挟まった総悟の脚があたしの太腿を強引に割った。 毛布もスカートもお腹まで捲くれ上がって防ぐものがない素足に、男の子の硬い脚が絡まってくる。 マットのスプリングがうるさい。ぎしぎしと大きく揺れている。 耳障りなその音と、耳元に押しつけられた総悟の荒くなった息遣いで頭の中を一杯にされる。 毛布越しに抱きしめられて息が詰まって、身体がかあっと熱くなってきた。
ひどい。いやだ。きっともうすぐ妙ちゃんが来る。こんなところ見られたくない――・・・!

「やだやだ、やだぁっ。総悟っ、やだ、ねえ、やめてっ」

ぽろぽろ溢れる涙が毛布をじっとり濡らす。唇もきつく抑え込まれている暗い中で、震えた泣き声を上げた。 総悟は答えてくれなかった。肩を抱きしめた力も緩まない。 どうしよう。聞いてくれない。閉じ込められた暗さが不安で、絶望的な気持ちになってくる。 他には何も出来なくて、すごく悲しくなってきて、あたしは身体を縮ませてすすり泣いた。
けれど・・・しばらく経っても、あたしがおびえていたようなことは何も起こらなかった。
総悟はびくりとも動かない。指先まで全部固まっているみたいだ。 荒くなったのを静めようとしているような、苦しそうな息遣いしか聞こえない。



「・・・・・・・・・・・・・・、そう、ご、・・・?」

・・・何もする気がないんだ。ただ抱きしめているだけ。
落ち着いてきたらようやくそれに気付いて、あたしは肩の力を抜きかけた。
その時に、総悟の顔が重なってきた。気配と息遣いの近さを感じて、とくん、と心臓が跳ね上がる。 息を詰めている身体が毛布越しにぐっと押してきた。重みを掛けられた腰が、ぎいっと軋んだマットに沈む。

「っ――・・・!」

柔らかくてあったかい毛布の感触が唇を覆った。そうっと塞いだ。
その向こうにある熱さがあたしの呼吸を奪って。上から圧し掛かって、ベッドに強く押しつけて。

何をされているのかも判らないでいるうちに、素早く身体を起こして離れていって。 ぐらぐらと激しくベッドが揺れて、暗い中で呆然としているあたしも揺られて、そして――



「・・・俺が見てる前で簡単に触らせてんじゃねーや、バーカ」


投げやりで怒りの滲んだ声を残して、総悟の気配は遠ざかっていった。
――数秒もしないうちにドアが開く音がして、ぴしゃりとぶつける音がした。





廊下を走って消えていく足音を、呆然としながら追っていた。

周りが急に無音になる。保健室に残されているのはあたしだけだ。 酸素不足でふらつく頭を毛布から出して、身体を起こした。 残った振動でまだ揺れ続けているベッドから、閉まった戸口をぼうっと見つめる。 熱いものが目尻にじわっと湧いてきて、濡れた頬を伝ってぽろっと落ちた。

ほっぺた、熱い。顔が真っ赤になっていそうな熱さ。
引いたはずの熱がぶり返して全身の感覚がおかしくなっているみたいな、ふわふわした落ち着かなさが胸の中を一杯にしている。

変なの。あたし変だ。総悟のがうつっちゃったんだ。

さっきみたいに悲しくはないのに。なのにどうして、こんなに――
泣きたくてたまらないんだろう。



「〜〜っ、・・・・・・・・」

涙で濡れた毛布に突っ伏して、膝をぎゅっと抱いて泣き声をこらえる。
もうすぐ妙ちゃんたちが来ちゃう。ぐすぐすと啜り泣きながら涙を止めようと思うのに、 どうしてもこらえきれない。ぜんぜん冷静になれない。どうしても総悟のことばかり考えてしまう。

いくら拭いても出てくる涙を、あたしは目元が痛くなるくらいに何度も拭っていた。

総悟。 総悟。 総悟。

胸の中で何回も同じ名前を呼び続ける。
呼べば呼ぶほど涙は溢れて、胸の中がきゅうっと狭くなっていくのがつらい。苦しい。


・・・このままじゃいやだ。追いかけよう。
そう決めて、あたしは靴を履こうとした。そこへ、――コン、コン、と長めに間隔を空けたノックの音が響いた。







「 *2 three sheep 」
*text riliri Caramelization  2011/07/17/


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