※3Z一巻の文化祭設定がざっくり壊れています ↓
お姉ちゃんがとつぜん家に彼氏を連れてきたのは、あたしの10歳の誕生日。
その人は挨拶もしない変な人。お姉ちゃんが話しかけてもどうでもよさそうに頷くだけ。なのに、
手作りケーキを焼いて来てくれたミツバちゃんのことはやたらにじろじろ眺めてにやにやしてる。10歳になりたてのあたしから見ても、ちょっと失礼な人だった。
リビングで彼氏と向かい合ったパパはものすごい顔で睨んでいた。
ママがとりなそうとしてもパパの不機嫌はおさまらない。部屋の空気はどんどん張りつめていく。
みんなが空気の悪さに困り果てて、それでもみんなであたしの誕生日パーティをどうにか明るくしようと奮闘した。
ママは参加しているコーラス団のユニークな指揮者の先生の話を。おじさんとおばさんは町内会の面白い笑い話を。
お姉ちゃんはクラスの友達の話を。笑顔が引きつり気味なミツバちゃんは、最近飼い始めた子猫の仕草がとても可愛らしいという話をしていた。
そこで、がちゃぁん、と、耳に刺さる音がしてお皿が割れた。
落としたのはあたし。とげとげしい雰囲気に緊張して手を滑らせてしまったからだ。
リビングへ運ぼうとしていたミツバちゃんお手製ケーキとお皿は床で粉々。その日買ってもらったばかりの真新しいスカートは生クリームで真っ白。
ついさっきまでは美味しそうなケーキだった残骸を見下ろして言葉も出なくて、ただただ呆然とするばかりだった。
「危ない、お皿にさわっちゃだめよ」とママたちが飛んできて、それを見ていた彼氏は何がおかしかったのか、ゲラゲラと感じ悪く笑った。
いつもはあたしを何もできないちび子だとばかにしていたお姉ちゃんまで(え、それはないでしょ)って顔色を変えた。
そのときには、パパはもう彼氏の前で仁王立ちになっていた。
肩が強張った後ろ姿を、あたしは涙目で見上げた。ずっと楽しみにしていたお誕生日。それがこんな日になるなんて思わなかった。
しかも泣きたくなることに、あたしは自分のお誕生日を自分の失敗で台無しにしてしまったようなものだった。
きっとパパはあの人を追い出そうとする。
もしかしたら怒鳴るかもしれない。ケンカになったらどうしよう。あたしは唇を震わせて泣き出した。
パパに向かって駆け出そうとした。生クリームのぬるっとした感触が足の裏で滑った。
そこで鳴ったのは、大きな、すごく大きな音。
あたしが鳴らした音よりも倍は大きい、硬い何かを思いきりぶつけたような音だった。
Boyfriend
「。最近、俺のこと避けてるよな」
後ろから声を掛けられて、驚いて手が滑った。拭いていたお皿が床に落ちて割れて弾けた。
振り向くと彼がいて、硬い顔をしてあたしを見てた。一緒に食器を拭いていたみんなは揃って準備の手を止めた。
黙って立っている彼の様子に不思議そうにしている。
結構大きな音がしたのに、振り向く人はあまりいない。
文化祭準備の最終日であわただしい教室には、みんなの元気な声と足音が縦横無尽に飛び交っている。
いつもの教室とは違って物音もうるさい。食材や調理用道具や食器を運びこむ音。椅子や机を動かす音。
厨房用に教壇の前を仕切っている暗幕の向こうからは、前日ぎりぎりで出来あがった衣装の試着をしている
ウエイトレス役の子たちの笑い声が響いている。入口では大道具係の男子たちが、ガンガンと看板を打ち付けていた。
「ちょ、ー?あんた大丈夫?怪我してないよねー?」
「うん、大丈夫!ごめんね、すぐ片付けるから」
裏方チームリーダーの阿音ちゃんが、食材の詰まったダンボールを運ぶ足を止めてこっちを心配してる。
手を振って「大丈夫」のポーズをしてからあたしはしゃがんで、足元の欠片を拾い始めた。手では拾えない細かい欠片を残して、
壁際にすこしずつ寄せていく。
危ないから早く片付けちゃおう。そう思ったのも本当だけれど、一番は彼の顔を見るのが怖いから。
あたしは彼の目を見て話せない。あれからずっと――キスされてからずっとだ。
あの時の彼が強引だったから。誰か知らない、別の人みたいだったから。だから怖かった。今でもちょっとだけ怖い。
だけど、たったそれだけのことが、彼氏に何の理由も説明しないまま、こんな態度を取り続けていい理由にはならない。
あたしの態度は彼を傷つけてるかもしれない。そう思うのに、教室で向き合ってお弁当を食べるのが辛くなった。
声を掛けられる前に屋上へ逃げるようになった。
一緒の下校も理由をつけて断った。毎晩交換していたメールも、あれから一度も返してない。
「・・・・・、驚かせてごめん」
上から抑えた声が降ってきた。あたしは黙ってうなずいた。
「あのさ。明日なんだけど、」
「うん。その話、後でいいかな。ちりとり取ってくるよ」
目も見ないで断って、彼の前から逃げ出した。
だって、いま口を開いたら、何かすごくひどいことを言ってしまいそうだ。
こんなところで言わなくてもいいのに。こんなところで言い出されたって自業自得だ。
彼を責めたい気持ちと、自分を苛めたくなる気持ち。あたしの中に同時に浮かんだ二つの気持ち。どっちも同じくらいの大きさだ。
どっちも胸にざくりと刺さってる。
彼を振り切るために急いで走る。
・・・あたしって最低だ。
さっきの「明日なんだけど」のあとに続く言葉が何なのか、判ってるくせに。
掃除用具入れを目指しながら教室を見渡した。明日に迫った文化祭本番のために、みんながそれぞれの役目に精を出してる。
どの顔も表情がすごく生き生きしていて楽しそう。机を四つずつ合わせて白いテーブルクロスを掛けた即席のテーブルが並んだ教室は、
いつも見ている自分たちのクラスとは違って見える。クラスの顔触れは同じなのに、
どこか他の学校の知らない教室に紛れこんでしまったような気分になった。
見慣れない景色に見慣れたみんながいる。響き合う楽しそうな笑い声の渦がそこにある。
あたしもその中に混ざって笑っていたいのに、・・・混ざれない。
お祭り気分に入り込めない。この景色にうまく溶け込めない。同じ教室にいるのにひとりで取り残されているみたい。見つめていると頭の芯がぼうっとする。
「ちゃん、こっちよ」
よく通る声に呼ばれて足を止めた。行こうとした逆の方向からだ。
メイド服姿の妙ちゃんがいた。片手ずつにちりとりとほうきを持っている。
「ちゃんたら、素手で拾ってたでしょう。危ないわよ」
「・・・どこから見てたの妙ちゃん」
「暗幕の影から」
ヘッドドレスを着けた頭を傾げて、涼しげな目元をにっこり細めた。妙ちゃんの衣装、すごくよく似合ってる。
膝下丈の黒ワンピもフリル控え目なエプロンも、清楚でおしとやかな妙ちゃんのイメージにぴったりだ。
こんなに本格的な雰囲気漂うメイドさんはどこのメイドカフェにもいないんじゃないかな。
そんなことを思っちゃう完璧なメイドさん姿。
それにひきかえ、あたしときたら――いつもの制服。セーラー服の上には子供っぽいうさぎキャラが笑っているエプロン。
エプロンを持ち上げてうさぎの無邪気な笑顔を見下ろして、それから妙ちゃんを見る。はぁ、と感嘆の溜め息をついた。
「いいなぁ妙ちゃんは、そういうの似合って。すごーく可愛いよ。本物のメイドさんみたい」
ふふ、と妙ちゃんはまんざらでもなさそうに微笑んだ。
容姿をどんなに褒められても一切否定しないあたりが妙ちゃんらしさだ。
「いいなぁ。あたしも妙ちゃんみたいになりたい・・・」
「あら。どうして?」
「いつも堂々としてていいなぁって。・・・しっかりしてるし気が利くし、何でもお見通しっていうか。
きっと妙ちゃんみたいな人のことを「千里眼」っていうんだよ」
「やーね、そんなことないわよ」
普通よ、普通。
口許に手を当てた妙ちゃんはくすくすとおかしそうに笑ったけれど、・・・そうかなぁ。さっきのあれを見ていたなら彼のことも気になったはずだ。
なのに妙ちゃんは、彼のことにはひとことも触れようとしない。こうしてさりげなく声を掛けて気遣ってくれるのに、
あたしが気まずくなりそうなことについては黙っていてくれる。
こんな時の妙ちゃんて大人だなぁって思う。同い年なのにうんとお姉さんみたいだ。
一緒に片付けてあげる。そう言った妙ちゃんが、黒いフリルの裾をひらひら揺らしながらあたしを先導していく。
その先に彼の姿はもう無くて、安心した胸の中でほぅっと溜め息がこぼれた。
「ごめんね。せっかくみんなが集めてくれたお皿、使う前から無駄にしちゃった」
「たくさんあるんだから一枚くらい平気よ。それに本番は明日だもの」
お客さんの目の前で割っちゃうよりはいいわ。
溜め息をついた妙ちゃんは頬に手を当てて、困ったような目つきを神楽に向けた。
お団子頭にピンクのメイド服を着た一際目立つウエイトレスは、さっきから暗幕の前でコーヒーを運ぶ練習をしている。
「なんで清純派の私がナンパ目当ての男どもに色気を振り撒いてサービスしなきゃいけないアルかー!」なんてことを叫んでコーヒーをこぼしたり、
トレイを教壇にぶつけて床に落としたり、力を入れ過ぎてカップを割ったりしている。
いつも元気が有り余っていてあらゆるものを壊すのが得意な神楽だから、ウエイトレスに決まった時はクラス中からブーイングが起きた。
非難の嵐を一人で押し切って「つるペタロリータ属性にはそれなりの需要があるの、絶対にメンバーに入れるべきよ!」
とLHRで力説したのは、先生のために売上で貢献したい猿飛さん。
眼鏡の奥の瞳を輝かせてみんなを説得してしまったけど、肝心の先生は窓の桟に天パの頭を乗せて気持ちよさそうに昼寝していた。
欠片の散った場所まで戻ると、はい、とちりとりを渡された。妙ちゃんが箒で掃く係、あたしがちりとりで受け取る係の分担制だ。
割れたお皿はかなり派手に散ったように見えたけど、どこまで広がったんだろう。
あたしが床を端から眺めて欠片を探しているうちに、妙ちゃんは陶器の細かな屑を手早く集めてしまった。
「大きいのはもう寄せてあるんだけど、小さいのは、・・・どこまで散ったのかなぁ」
「でもめずらしいわね。ちゃんがこういう失敗するなんて」
「うん。お皿割ったのなんて久しぶりだよ。音が大きくてびっくりしちゃった」
「そうね。でも、あれはね。仕方ないわよ」
眉をひそめてくすくす笑った妙ちゃんが、床からあたしに目を移した。箒を動かしていた手を止める。
見るからに優秀そうなメイドさんの目尻がゆっくり下がって、優しいお姉さんの顔つきになった。
やっぱり。妙ちゃん、心配して来てくれたんだ。
「うん。そうだね。仕方ないよね。・・・ありがと、妙ちゃん」
「ううん。怪我しなくてよかったわ」
何気ない口調で答えた妙ちゃんは、くるりと辺りを見回した。
「これでほとんど拾えたんじゃない。あとは用務員さんに掃除機借りたほうがよさそうね」
「うん、これ捨てるついでに行ってくるね」
「あ、そうだ。ねえお願い、先生を見掛けたら連れてきてくれない?」
ガスボンベの設置確認してもらいたいのに、ふらっといなくなっちゃったの。
苦笑気味な妙ちゃんは壁際まで動くと、そこに溜まっていた埃を掃きながら言った。
「・・・職員室か準備室だね。さすがに先生もガスボンベの前じゃ吸えないもんね」
「ええ、たぶんね」
小声の会話をこくこくと頷きながら交わした。
生徒に率先して安全指導をするはずの担任が、煙草吸いたさにふらーっと消える。
他のクラスではありえないことだけれど、うちのクラスではよくあることだ。
「俺は生粋の放任主義だからうるせーことは言わねーよ。メイド喫茶でも模擬店でもケンカでもナンパでもストーキングでも好きにしろよ。
ただしなー、停学沙汰起こしても俺には絶対に迷惑かけんじゃねーぞ、いーなお前ら、わかったなー」なんて寝惚け眼で言っちゃう先生は、
時々「ったくよー、やりてー放題だなてめーらはぁ」なんて呆れた顔で言う。
あたしたちの目には先生のほうが、よっぽど自由そうでやりたい放題に見えるのに。
「うん、わかった。よれよれネクタイ引っ張ってでも連れてくるよ」
掃き集められた欠片の前にしゃがんで、ちりとりを出す。妙ちゃんの箒がさっと一掃きして、大きめな欠片が片付いた。
あとは細かい屑を入れてしまえばいいだけだ。ちりとりを据えて待っていると、目の前にあった箒の先がすっと引いていった。
床を滑っていく箒の先を目で追う。それを持っている人の足元に目がいって、えっ、とつぶやく。
妙ちゃんの靴じゃない。ストラップつきの黒いヒールが、いつのまにかかかとを履き潰した学校指定の室内履きに変わってる。
「なにやってんだよ。だっせー」
「・・・・・・・、」
見上げた先にあった顔に驚いて、足から力が抜けた。とすん、と尻餅をついてしまった。
メイド服姿の妙ちゃんの替わりに総悟がいた。Tシャツに学校指定の白の半袖シャツをだらっと羽織っていて、土方くんあたりが見たら
「風紀委員が校則乱してどーすんだ」と怒りそうな恰好だ。
箒の柄の先に置いた両腕で身体を支えながらこっちを見下ろしていた。
・・・見られてる。淡い色の大きな瞳が、じっと観察するような目つきを向けている。
「っ、・・・!え、・・・、な、なんで、・・・・た、妙ちゃんは、」
「志村姉なら俺に箒持たせて逃げたぜ」
「逃げたって、えっ、だって、ついさっきまで、・・・・っ」
あわてて立ち上がったら、完璧なメイドさんを見つけた。妙ちゃんは暗幕のほうに向かっていて、
壁や窓を覆う暗幕の束を丈夫そうな腕一杯に抱えた近藤くんを、荷物持ちとして後ろに従えている、・・・のかなと思ったら違った。
妙ちゃんは途中でくるんと振り返り、でれーっと緩みきった顔でついてきた近藤くんを暗幕ごと蹴り倒していた。
「」
後ろから呼ばれて、思わず肩が揺れた。
特別大きいわけでもないその声が、身体中に響き渡ってる。
とくんと心臓が揺れる。とく、とく、とく、と弾み出す。
「・・・、なに」
「お前、あいつに何て言われたんでェ」
大きく鳴り始めた胸の中を落ち着かせようとして、あたしはふうっと息を吸い込んでから答えた。
「別に。なんでもないよ。ちょっと声掛けられただけ。」
振り向くのがこわい。ちりとりを握る手に力が入りすぎて、腕が震えちゃいそうだ。
「あいつ、すげー面して出てったぜ。声掛けられただけで皿落とすほどビビられるとは思ってなかったらしいや」
「これは。・・・違うってば。後ろに立ってるって知らなかったから、びっくりしただけだもん」
「なぁ。なんか訊かれてただろ。何話してたんだよ」
「・・・・・・違うよ。なんにもなかったよ。何も言われてないよ」
「嘘だ。お前絶対何か言われただろ」
「言われてないってば。やめてよもう。総悟しつこい」
どうしてここで言うの。・・・みんなに聞かれちゃうじゃん。
声をうんと落としてつぶやいたら、後ろからの気配がぐんと近くなった。
隣に立った総悟は大きな目を見開いて、じっとこっちを見ていた。あたしのどんなにささいな変化も見逃さない。そういう目をしている。
開け放した窓からのぬるい風に、大道具班の男子たちのおかしそうな笑い声が乗って流れてくる。
笑う、っていうよりは爆笑。すごく大きな声だった。それがどうしてかあたしの耳には遠くかすんだ音に聞こえた。
すこし苛立ったような顔をした総悟の、強い視線から目が離せない。吸い込まれてしまった視線の先で、栗色の髪がさわさわと靡いていた。
「そんだけキョドった目ぇしてんだ。誰だって判らァ」
・・・彼のせいじゃない。総悟が急に来たからだよ。
総悟は首を傾げ気味にして覗き込んできた。だけどあたしは見られたくない。離れようとして一歩下がったら、なぜか身体がふらっと揺らいだ。
傍にあった作業用のテーブルに手をついて、なんとなくちりとりを背中に隠す。
喉を狭くする息苦しさを、ごくりと息を呑んでごまかした。
「じゃあ何で落としたんでェ、その皿」
「これは。・・・違うってば、・・・・・・・」
「。お前、」
手が伸びてきた。目の前を暗くした手が、おでこにかかっていた髪をふわりと掴む。爪の先が眉間にかつんと当たった。
咄嗟だったから避けられなかった。目も閉じられない。総悟の手はあたしの前髪をそのまま上に持ち上げて、開いた額に、指が――
「さわんないで!」
考えるより先に手が動いて、自分でもびっくりするようなうわずった声が飛び出た。
数秒遅れてはっとする。自分が何をしたのかにやっと気付いた。
あたし、総悟の手を叩いちゃった。
しかもかなり強く、ぴしゃっと撥ねつけた気がする。
頭の芯がかあっと熱くなってくる。呆然としながら腕を下ろした。じんわりと熱い手のひらを見つめる。それから総悟を。
・・・総悟、表情が固まってる。あたしが叩いた手も肩の高さで止まったままだ。
「そ。そう、・・・・・っ」
総悟、ごめん。そう言おうとしたのに――
・・・まただ。また声が出ない。
うつむいて喉を抑える。固くなった肩がぎゅうっと縮んでいく。
すこし離れた場所で作業している裏方班のみんなの気配が、ざわざわと落ち着かなくなってきた。
食材入りのダンボールを持った九ちゃんがとことこと近寄ってくる。怪訝そうに眉をひそめていた。
「?・・・どうしたんだ。沖田くんも、何かあったのか」
「これ、捨ててくる・・・!」
ちりとりを持ってあたしは走った。
っ、と驚いたような九ちゃんの声が追ってくる。
ごめんね、と心の中で謝りながら入り口へ駆けた。
床に紙を広げてメニューを書いてる美術班の子たちの視線が痛かったけど、まっすぐに教室を突っ切った。
総悟のばか。
どうしてこんなところで声掛けてくるの。みんなが変に思うじゃん。
今日は文化祭前日。クラス中が最後の準備を楽しんでる。本番はもちろん明日だけど、今日はクラスのみんなだけで集まってわいわい出来る最後の日。
みんなで少しずつ進めてきた準備がやっと形になる日。高校生として過ごせる最後の文化祭だもん、誰にとっても大事な日だ。
総悟はそんなふうに思わないのかもしれないけれど、・・・あたしはいや。
そういう日の楽しさや盛り上がりを、あたしのどうしようもない悩みで邪魔するのはいや。
明日を楽しみにしている友達に心配かけたくない。
だからせめて明日までは、いつも通りのあたしでいたかった。
優しい妙ちゃんの顔を曇らせたくない。真面目な九ちゃんを困らせたくない。何があっても明日までは顔に出さないようにって、
・・・・・・・それだけ考えて頑張ってきたのに。
手を払ったあたしに驚いていた総悟。あの目を思い出したら、それだけで泣きたくなった。
「メイドカフェすまいる」のピンクの看板が横にはみ出た戸口を抜ける。廊下に出た。
そこで前を塞がれた。入れ違いに入ろうとしていた人と、ぶつかりそうになった。
「ごめ、・・・」
言いかけて前を見上げて、息を呑んだ。 彼だ。
「、」
重苦しい声で呼ばれて、思わず顔を逸らしてしまった。
「さっきの続き、話したいんだけど」
そう言われたら、身体が急に硬くなってくる。足まで棒みたいに固まってしまう。
急には動けそうにない。
困る。どうしよう。
まだ気持ちがうまく整理出来てないのに。どんな顔をして話したらいいんだろう。
「さっきはごめん」
「ううん。・・・あたしも、ごめんね」
動かしたいのに動いてくれない口から、途切れた言葉を絞り出す。
強張った顔をおずおずと上げたら、待ち構えていた彼が口を切った。
「今のってさ。何に対しての「ごめん」なの」
「え?」
意味がわからなくて訊き返すと、彼はすごく困った顔になった。何か考え込む様子で口を引き結んでから、ドアが開いた教室に顔を向けた。
「・・・・・今。沖田と何か言い合ってただろ。そこから見てた」
ひそめた声でそう言って、あたしの反応を伺うみたいに目をじっと凝らす。
何も言えないあたしをしばらく見つめて、ちりとりの上のお皿の欠片を歯痒そうな目で見た。
「前から気になってたんだ。沖田ってさ。・・・とあいつって、どうなってんの」
問い詰めるような口調だった。
下げられた手がどちらも、ぎゅっと固まって拳になっていた。
あの手を見たら、彼が平静さを頑張って保とうとしているのがわかる。彼の真剣さがわかる。
自分が苦しくてもあたしに当たったりしない、彼のやさしさがわかる。胸が痛いくらいに、すごくわかる。
なのにあたしは喋る人形が自動的に口からこぼすような、決まりきった言葉しか言えなかった。
「・・・幼馴染みだよ」
「それは知ってる。家が隣で、学校もずっと同じだったんだろ。そのくらい知ってるって」
はは、と彼は笑った。ぜんぜん楽しくなさそうな、力のない声だった。
怒りとか不満を抑え込んで無理に笑っているような、苦しそうに引きつった笑い方で。
「でもさ、・・・・・間違ってたらごめん。俺の目から見ると、お前らってそれだけだとは思えないから」
そうつぶやいてから、彼の表情が変わった。
口ぶりは不自然なくらい冷静だ。なのに、声が昂っている。こっちを見る厳しい目があたしを咎めてる。
「どうなの、。にとって、あいつってほんとにただの幼馴染み?それだけ?」
「・・・、うん」
「・・・・・・・・。じゃあ、俺は」
「え・・・?」
「俺ってまだお前の彼氏なの」
苦しさを吐き出すように。
自分の苦しさをあたしにも塗り付けようとしているような暗い声で、そう言った。
あたしはしばらく間を置いて、あちこちに視線を向けながら散々迷って、ためらって。最後にようやく諦めて、こくんと頷いた。
苦しい。息が出来ない。胸が苦しい。ただ頷いただけなのに、喉を塞ぐ重い塊をむりやり呑み込まされたみたいに辛かった。
「じゃあ明日の文化祭、一緒に回れるよな。いいよな?」
息が苦しくなった。彼が近寄ってくる。気配が怖い。
マンションの前で急に態度が変わった、あの時と同じだ。
彼が放っているびりびりした空気におびえて、あたしはふらりと一歩下がった。
あたしが離れたら彼はあからさまにいらっとした顔になって、もっと寄ってきた。
断る間もなく腕が伸びてくる。手がちりとりごと思いきり掴まれた。手首がぎゅうっと締めつけられる。
身体じゅうが強張ってその感触を拒否している。でも、いやだとは言えなかった。
唇が動かない。声が出ない。背中が冷たい汗でじっとりと濡れてくる。怖い。怖い。怖い、でも。
「・・・・・・っ、」
固まった喉から絞り出そうとしても、声はやっぱり出なかった。泣かないように唇を噛みしめる。
せめて教室から離れたところだったらよかったのに。
ドアの前だなんて、場所が悪すぎだ。ここで泣いたらきっと誰かが気付いちゃう。様子を見に教室から出てくるかもしれない。
いやだ。そんなの最悪。ここから走って逃げちゃいたい。
友達に心配をかけるのはいや。いやだ。最後の文化祭なのに。
結局、うつむいてかぶりを振るだけになった。髪が顔にかかるくらい振り乱した。
ああ。ばかだ。あたし、すごくばかだった。
今になってやっとわかった。あたしはどうしようもないことをした。
いくら謝っても取り返しのつかない、すごくずるいことをしたんだ。
これはいつもの彼じゃない。あたしの知ってる彼はこんな子じゃない。
あたしが見てきた彼は率直で、友達思いで。考え方が大人びていて、あたしよりもずっとしっかりしてて。
女の子にこんなことをするような、自分勝手な子供っぽい子じゃない。
そういう人が、こういうことをしてしまうくらいにおかしくさせたのはあたしだ。あたしが彼を困らせたから。
軽い気持ちで付き合ったから。自分の気持ちを彼にはっきり言えなくて、思わせぶりな態度を続けてきたから。
自分のことしか考えてなかったから。
どんなに彼があたしのことを考えてくれても、それをぜんぶ無視するような、ひどいことをずっと続けてきたから。
だから彼を、こんなに、
――クラスのみんなの前でこんな彼らしくないことをしちゃうくらい、追い詰めた。
追い詰めた。傷つけた。 ・・・あたしが彼を、傷つけたんだ。
「ごめ、・・・っ、なさ・・・・・、」
言おうとしたら唇がぶるっと震えた。頭の芯がかあっと火照ってきて、目の中が熱い何かで膨らんでくる。
喋ろうとしても言葉が出ない。代りに出てくるのは震えた泣き声。
あたしがぽろぽろと溢れさせているものを見つめて、彼は驚いて手を離した。じりじりと、戸惑いながら後ずさっていく。
それから何かに気付いて、あたしの背後に目を向けた。誰かが戸口から出てきて、近づいてくる気配がある。
あたしは振り向こうとした。視線を合わせかけた瞬間、肩を掴まれた。その手に身体を引き戻される。
隣のクラスでは大道具を運び出している。その向こうのクラスも、その向こうも――
普段の放課後よりもうんと賑やかな廊下は、活気も人通りもいつもとは違っていて、違うからどこかよそよそしい。
そんな中で、・・・あたしが一番見慣れている男の子の姿が、すぐ傍にあった。
泣いて熱くなった口の中で、ひっく、としゃくり上げながら名前をつぶやく。
腕から肩。肩から首筋。視線を上げていって顔を確かめる前に、もう誰なのかわかってた。涙でかすれた声が勝手に漏れた。
「総悟・・・・・。」
どうして出てきたんだろう。どうして。
総悟は口を閉ざしてあたしを見ようともしない。何もかもわけがわからないままだ。
「・・・・・・。なに。になんか用」
彼が怒りを籠めてあたしの肩を睨んでいた。
・・・あたしってやっぱりひどい。彼が見てるのに。目の前にいるのに。
手を置かれただけで誰なのかわかった。来たのが総悟だってわかって、身体の力が抜けちゃうくらいほっとしてる。
「お前こそ何してんだよ。無理強いしてんじゃねーよ」
半袖シャツを羽織った細い腕が、こっち、と言おうとしてるみたいにあたしの肩を手早く引いた。
腕の硬い重みが――男の子の骨の重みが乗ってくる。隣に立った総悟を見つめていたら、心臓が痛いくらいに縮んでいく。
また泣いてしまいそうになったから、唇を噛みしめてこらえた。
こんなときなのに。この腕があたしに触れると泣きたくなる。こんなときでも胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
「そう、・・・ちが、っ、ちが、ぅ、」
「、黙ってろ」
「でも、・・・」
総悟。ぽつりともう一度つぶやくと、一瞬だけこっちに視線を流してきた。すぐに視線を彼に戻す。
あたしは口を半開きにしたままで呆然と見上げた。あたしの肩に置かれた腕を。彼を見つめている総悟を。
目の前にあるのはいつも通りの総悟の横顔。さっき見た顔は教室に置き忘れてきてしまったような、平然とした顔をしてる。
とぼけきった目が何を考えているのか、あたしにはわからなかった。わからない。総悟がどうしてこんなことをしてるのかも。
濡れた頬がひんやりしている。汗を掻いたせいなのかな。なんだか全身が肌寒い。
頭の芯はぼうっとして熱いのに。貧血を起こしたみたいで気持ち悪い。腫れてきた目を腕でぐしぐしと擦って、鼻をぐすぐす言わせながら
下を見下ろす。白いシャツの端が手の中にあった。
いつのまにか総悟のシャツを引っ張って、不安さを紛らわすために掴んでたみたいだ。
後ろから視線を感じて、首だけで振り向くと、――いやな予感がした通り、開いた<ドアの影には十人くらいが集まっていた。
みんなすごく困った顔だ。中には九ちゃんや阿音ちゃんもいて、二人とも眉を寄せて「何て言っていいのかわからない」って表情をしている。
顔を戻したら、彼の刺すような視線と目が合う。あたしは見られることにこらえきれなくて、反射的に顔を背けてしまった。
「・・・ああ、やっぱりな。・・・・・・・そーいうことかよ」
苦しそうな顔で笑いながら、噛みしめるように彼は言った。
こらえていた怒りがはっきりと目に見えてきた彼とは正反対に、淡々と総悟が告げた。
「後で話つけてーんだけど。こいつ連れてったら戻ってくるから、顔貸せよ」
「ここでいいだろ」
「ここはねーだろ。あいつら見てるし」
「俺はここでいいぜ。クラスの奴に何聞かれても別に後ろめたくねーし。聞かれて困るのはお前らだろ」
総悟が軽く唇を噛む。こっちへ一歩迫った彼は、もうあたしを見ようとしなかった。
総悟だけしか見えていないような、平常心を失くしていそうな顔が少しこわい。嘲るような声で、はっ、と低く笑った。
「なにが幼馴染みだよ。結局こいつじゃねーか。・・・さぁ、最低だよな。お前さ、何で俺が告った時に断らなかったんだよ」
「ちが。違うよ・・・!」
「違わねーだろ!」
感情剥き出しな鋭い声で怒鳴られてしまった。びくん、と全身が大きく竦んで、シャツの端をぎゅうっと握り締めた。
だめだ。怖い。どうしよう。でも、だけど。あたしだ。ぜんぶあたしのせいだ。
目の奥がかあっと火照ってくる。止まりかけていた涙がまた、じわぁっと膨らんでいって――
そのとき。微かな音が耳に飛び込んできた。
あたしのすぐ横から。くすりと小さく笑う声がした。
腫れた目を見開いて、隣を見上げる。馬鹿にしたような顔つきで笑っている総悟は、すうっ、と深く息を吸って。
「あーあぁ。とうとうバレちまったぁ。予定じゃここからがもっと面白いはずだったのによー」
「・・・・・、なんだよ、面白いって」
「あれっ、まだわかんねーの。お前に決まってんだろ」
総悟の腕が肩から降りた。途端にとぼけていた態度が崩れて、目つきがきつくなった。可笑しそうだった口許がにやりと歪む。
シャツにしがみついているあたしの手が、ぱしっと乱暴に払われて。
総悟はこっちへ迫っていた彼に張り合うようにして前に出て、かんじの悪い笑い声をくすくすと漏らしながら続けた。
「悪りぃけど俺さー、前からお前が気に食わなかったんだ。でよー、モタクサやってるお前の裏欠いてやったらどーなるかって思ってねィ。
だから油断してるこいつに手ぇ出したんでェ。はずっと嫌がってたぜ。
こいつバカだからマジで悩んでたし。何にも知らねーお前を裏切ってる、とか言って」
目を細めた顔に嘲笑が浮かんで。肩を軽く竦めて、薄い唇の端をにっと歪めて笑った。
「まぁ、おかげで色々と笑わせてもらったけど」
「てっめぇ、・・・!」
かっとした彼が総悟に飛びついて、シャツの衿首を鷲掴みした。そのままぶん、と横に振り回した。
きゃああっっ、と教室から甲高い悲鳴が重なって上がる。九ちゃんが無言で廊下に飛び出してきて、近寄ろうとしたあたしを片腕で止めた。
こわい。目にしているだけで歯がかちかちと震える。脚が震える。彼よりもずっと細くて軽い総悟の身体が、頑丈な腕に引きずられている。
だんっ、と床に打ち付けて簡単に薙ぎ倒してしまった。
彼は倒れた総悟に襲いかかった。「おい、やめろ!」と前に出た九ちゃんが鋭く叫ぶ。
ちりとりを放り出してその横を擦り抜けて、――あたしは夢中だった。
自分がどんなに危なっかしいことをしているのかがわからないくらい夢中で、振り上がった彼の腕に飛びついた。