最後のキスはチョコレートフレーバーだった。
それは空港行きのバスに乗る彼女を送っていく途中で、たしかバス停に着く手前で。 季節は真冬だ。バレンタインデーの翌日か、翌々日だったと思う。 俺とあの子は通っていた高校の正門を出て、同じように門を擦り抜けた同じ制服姿の奴らに混ざって白っぽい冬空の下を並んで歩いた。


うつむいた狭い視界の左端で、あの子のまっすぐな髪とマフラーが冷たい風に靡いていた。 一巻きしたら頬が隠れるような、もこもこした長いマフラーだ。何色だったかはもう忘れた。 「食べる?」と彼女がカバンから出したミントチョコを貰い、いつもの下校時間と同じように だらだらした足取りでバス停を目指した。自分でも不思議になるくらいに、俺達は普段と何も変わらない態度と歩調でそこを歩いた。 腹減った、とか、お前鼻水出てる、とか、あんたも出てるし、とか、坂田ネクタイ曲がってるよ、なんてことを話しながら。 どれも別に今話さなくたっていいようなことばかりだ。けれど、毎日当たり前のように交わしていたこんな遣り取りも たまらなく大事なもののように思えて、一言ずつを噛みしめながら話した覚えがある。

忘れたかったんだろう。俺も彼女も、せいぜいこの道を歩いている間だけでも、すぐ目の前に迫った現実を忘れたふりをしていたかった。 今日で転校してしまう彼女とこの道を歩くのは、もうこれが最後なんだという現実を。 転校の理由は親の転勤で、その赴任先は海外だった。今こうして大人の観点で見ればどこにでも転がっていそうな話だが、 高校生の俺達がそれを「よくある話」で済ませられるはずもない。 首都名と地図上の位置くらいしか知らないその国は、当時の俺には宇宙の如き遠さだった。



バス停まであと少し、というところで立ち止まり、俺は彼女の腕を引いた。 ひどくのろのろと、何か覚悟を決めているかのような間を空けてから振り向いたあの子の顔が今でも忘れられない。
唇を噛んだ小さな顔は今にも泣き出しそうだった。その表情を無視して迫って、唇を塞いだ。 する前にはちょっと触れるだけで終わらせるつもりが、触れてしまえば我慢がきかない。 けれどあの子はそれ以上を許さなかった。胸を押されて拒まれ、キスは半端に中断された。 ばつの悪さに戸惑いながら目を開けると、彼女はじっと、黙って俺を見上げていた。

本当にこれで最後なの?もう会えないの?どうして何も言ってくれないの?
滲んだ涙に目を赤くした表情はそう言いたそうに見えた。 最後にこんなことしないで。そう言いたそうにも見えた。 あの日の俺はもっとしたかったわけだから、不満さがもろに面に出ていたのかもしれない。 もっと彼女を感じたかった。彼女の感触を少しでも身体に残しておきたかった。 二日前に俺のベッドの中で貪ったような、長い長いキスまではいかないまでも。
そこへちょうどバスが来て、彼女は俺をあわてて振り払って。 バス停に並んでいた数人の列を押し込んだ満員のバスは、最後に駆け込んだ彼女も浚っていってしまった。



遠くなるバスを目で追いながら唇を擦る。
残っていたのはミントの冷たさだけ。彼女の柔らかさも温かさも何もなかった。チョコのねっとりした甘さまでもが、ミントのすうすうした残り香に乗っ取られて消えていた。
目まで染みてくるようなひりっときつい冷却感が、あれが彼女に触れられる最後の瞬間だったんだと俺に教えていた。 かなり強制的に、ひしひしと、押しつけがましく。
泣きたくもないのに涙が止まらなくなるほどに。






フラグメンタルプール  *3  My Sugar View




学校の図書室を昼寝か暇潰しに使う一辺倒だった俺とは違って、彼女は図書室の学年最多利用者だった。 あそこに通う奴らは、校舎の外れという静かな環境を自習室代りに使う奴が殆どだったが、あの子は違った。 彼女は本を読むためだけに通っていた。読んでいるのは女子高生は見向きもしない小難しい翻訳本ばかりだ。 一番多く手にしていたのは哲学書。ドイツ語なんぞに興味を持っていたのは、おそらくそのあたりの影響なんだろう。 あの場所でいつのまにか彼女が目につくようになってから、俺が図書室に通う理由は昼寝でも暇潰しでもなくなった。 いつも同じ席に座っている、白い頬に長い睫毛の影を落とした女の子。息を詰めているような表情で、 開いたページに綴られた興味深い世界を真摯に追い続けるあの子の姿だ。

あの姿をもっと近くで見たい。あの唇からどんな声が流れ出てくるのかを知りたい。
声を掛ける理由はそれだけでよかった。 好きになる理由なら、実際に声を掛けて話すようになった途端に数え切れないほど見つかった。 しかも俺達には似通ったところがあった。たまに友達から離れて一人になりたがるところだとか、 クラスで毎日つるんで騒いでいる奴らにもあまり言いたくないさみしさを、身の内に飼っているあたりだとか。そんな部分も呼び合って、 あの子と俺は急速に惹かれ合った。
一緒に居た一年の間、大袈裟に言えば俺は彼女しか見ていなかった。彼女もそうだったはずだ。 ある意味俺達がお互いに夢中になっていった速さは、傷を抱えた似た者同士がお互いの傷を舐め合う行為に溺れていく速さに 比例していたのかもしれない。 とはいえそんな引いた視点で自分を眺める余裕があの頃の俺にあるわけもなく、たとえその不出来で青臭いからくりの仕組みに 薄々気づいていたとしても、あの日の俺は全身でその醒めた解釈を拒んだことだろう。 むしゃくしゃするほどの悲しさとさみしさと自己嫌悪に打ちひしがれて、とぼとぼと家路を辿っていた。

そんなところへは来た。ひどく唐突に現れた。
「銀ちゃーん」と手をぶんぶん振って笑っている、俺の腰にも届かないちびの姿を見つけて、俺はまず、自分の目を疑った。 都内にある親戚の家――俺の住む実家がある街からは数十キロ離れた街にいるはずのちびっ子が、赤のランドセルを背負った姿で、 駅からの通り道にある公園からひょっこり顔を出したのだ。しかもその周囲にこいつの保護者の姿はない。これで誰が驚かずにいられるか。


「ぎーんちゃーーーんんん!おかえりなさぁああい!」
「・・・・・ちょっ。何やってんの、んなとこで何やってんのお前ぇ。お帰りじゃねーよ」

・・・まさか一人で来たのかよ。
呆然としながら公園の中を再確認する限り、あいつの母親はどこにもいない。いつもと二人で俺に飛びついてくるもう一人のチビもだ。 公園には他に数人の小学生とその保護者らしい姿があったが、知った顔は一人だけ。 しかも、腕がもげそうな勢いで手を振っているあのちびは、まだ使い始めて一年経っていない艶々したランドセルを背負っている。 図工の時間に作ったらしい不格好な箱みたいな物体がそこからはみ出して見えるし、手にはピアニカを入れた赤い袋がぶら下がっていた。
お前、明らかに学校帰りじゃねーか。
頭を抱えたくなってきた俺の元までてこてこと歩いてきて(それは本当にそんな効果音がしそうな、よちよちと頼りない足取りだった) ひよこみたいな色のふわふわしたワンピースを着た小学一年生は口を開いた。満面の笑みで顔をくしゃくしゃにしてこう言った。

ねえ、チョコレートもってきたんだよ!銀ちゃん、ほしい?」

目の前のちびは一旦ランドセルを下ろし、えらく不格好な工作だと思っていた例の箱を出す。自信満々で俺に見せた。 角がへこんだ薄い箱にはびっしりとチロルチョコが詰まっていて、目を見張るほど面食らわされたのはそれが二度目だった。 突然出てきたチョコと、もう終わっていたバレンタインデーを頭の中で結びつけるまで数秒のタイムラグがあったが、 その二つがかちっと連結してしまえば他の疑問も自然に解けるというものだ。こんな遠くまでこのちびがどうやって来たのかは知らないが、 とりあえずこいつがここに来た目的ははっきりした。驚かされる単純さだが、子供の行動に無駄はあっても矛盾はあまりない。 それは数年前までの自分を想像すれば察しはついた。

「え、お前学校から直で来たの。お前一人でか?お前んとこの母ちゃんは?知ってんの?」
「しらないよーママなんか。ママね、けちんぼなの。土曜日が来たら銀ちゃんちに連れていってあげるからまちなさいって言うの。 だから一人で来た!」
「来た!じゃねーよ。お前、ここまでどーやって来たの」

腰を屈めてに目線を合わせた。 叱るかわりに人差し指でおでこを弾いたが、ちびっ子はおでこを抑えてふにゃふにゃと笑うばかりだ。 やけに嬉しそうだった。

「電車ー。のりかたはちほちゃんがおしえてくれたー。きっぷのおかねもかしてくれたんだよー」
「いや誰。誰だよちほちゃん」
のうしろの席のおともだちだよー。銀ちゃんのおうちは××っていう駅から行くんだよって言ったらね、 その駅はちほちゃんの駅のつぎのつぎのつぎの駅だからわかるよー、って。だからちほちゃんと一緒に来た!」

・・・つまりこいつは。越境入学しているとおぼしきクラスの友達をナビ替わりに、駅名と覚束ない土地勘だけを頼みにして ここまでてこてことやって来たってことか。幸運なことに変な奴に目をつけられることもなく、 事故に遭うこともなく、のほほんとした面でのうのうと。

「?お顔が青いよ銀ちゃん。どうしたの、おなかいたい?」
「いや。まあたしかに痛てーけど。腹っつーか、・・・・・・・・全部が?」

俺の制服のブレザーの裾を引っ張り、無邪気に足にまとわりついてくるを眺め下ろして、それまでに経験がないくらいの、 盛大な溜め息が出たのを覚えている。 よくもまあここまで無事で。
チョコを渡しに行こう。でも土曜日までなんて待てない。そうだ、今日がいい。学校が終わったらすぐに行こう。
たったそれだけの理由と箱一杯のチョコをランドセルに詰めて、このちびはここまで来たってのか。

「だめだろお前。こんなとこまで親にも言わねーで勝手に来たらだめだって。 それからな、ママなんか、とか言うな。ひっでーこと言ってんじゃねーよ。ママは今頃半狂乱でお前を探してんだよ?」
「?はんきょうらんってー?ママに会ったの?どこで会ったのー、銀ちゃん」
「いや、会ってねーけどわかる。会わなくたってわかんの、お前のママが今どーしてるかがな」

こいつの母親のことは、俺もこの当時からよく知っていた。昔も今も一風変わってあっけらかんとした人ではあるが、 自分のガキが忽然と消えて血相を変えないような親ではない。
やべーなこれは。すぐに連絡しねーと。
当時高校生にも普及していた携帯を、俺はまだ持っていなかった。チョコの箱をランドセルに押し込んで、 丸っこい目をぽかんと見開いたの手を引いて歩き出す。 ふにふにと柔らかいちびっ子の手は爪先が寒さで赤くなっていて、凍ったような冷たさだった。

そういえばあの子の手に、今日の俺は一度も触れなかった。 ・・・最後だったのに。


「銀ちゃーん。おなかすいたー」
「・・・ああ。うん。後でな」

返事はまるっきり上の空だ。俺の頭の中はあの子を連れていった満員のバスを追って飛んでいた。 の冷たい手から浮かんだ不意の連想。胸の底にずーんと沈んでいく後悔の塊。 目の前に浮かんでは消えるフラッシュバックは、嫌になるほど彼女のことばかりだった。
図書室で本を読んでいる姿。顔一杯をほころばせて笑ったときの表情。最後のキスの前に見た表情。 バスに走っていくあの子の後ろ姿。顔は見えなかったが、泣いているのはしきりに顔を拭っていた仕草でわかった。だが。



・・・・・・・だから?だから何だ。

だからといってさっきの俺に、――今の俺に、何がどう出来るというのか。何も出来やしねーだろ。
俺だってガキだ。こいつを家に帰してやれる程度の知恵がついてきただけのガキ。まだ何の力もない。
あの子を引き止められるわけがない。どれだけ遠くに離れていても大丈夫だ、なんて言ってやれる自信もない。 それどころか、泣き止ませてやれる自信すらねーのに。


「・・・・・。、」

頭を締めつけるやるせなさを打ち消したい。ただその一心で、俺は重たい口を開いた。

「つめてーなぁお前の手」
「うん、すごーくさむかったぁー。銀ちゃん、ね、ココアのみたい」
「あー。ココアは後で。とにかくうちに帰んねーと」
「おうちに行くの?銀ちゃんのおうち?」
「そーだよ。すぐにお前んち電話しねーと」

えーっ、ココアはぁ!とは口を尖らせた。やだやだ、と身体を左右に振ってみせた。 ランドセルが中の荷物をかちゃかちゃ鳴らしながら揺れて、ひよこ色のスカートもふわふわと躍っていた。 あの頃のは我儘の少ない奴だったが、その時は違っていた。ココアを後回しにされたのがひどく納得いかない様子だった。 慣れない電車に乗って公園で寒い思いをして俺を待っていたんだから、少し甘えたかったのかもしれない。

「だめだって。今頃な、の母ちゃんは死にそーなくれー心配してんぞ。今頃お前の通学路とかグルグル探し回ってるからね。 あーあぁ、どーすんの。母ちゃんわんわん泣いてるかもしんねーぞ。ー、どこー、どこに行っちゃったのー、って」
「えーーーー!!」
「えーじゃねーよ。絶対泣いてるって」

心底不思議そうにしているを軽く睨んで肩を落とす。 まあ、小学生には理解の及ばねー感情かもしれねーけどな。親の気持ちも少しは酌んでやれよ。 お前の母ちゃんが今、どんな不安さに胸をざわつかせているのか、他人の俺にだって手に取るように判るってのに。

「いーかぁ、お前の母ちゃんはなー、お前がいきなりいなくなるとすげ辛れー思いするんだよ」

そこまで言いかけて急に、喉がぐっと詰まった。 自然に立ち止まった。足がなぜか棒のように固まってしまっていた。

・・・・・・・・・なんだこれ。
なぜ自分が立ち止まったのか、その理由すらもわからずに俺は立ち尽くした。
つられても立ち止まった。不思議そうな目で見上げてくるの無垢な視線は、うつむいた俺の顔に釘付けになっていた。



「・・・悲しいんだよ。・・・身体半分引きちぎられたみてーで。苦しくって苦しくって、・・・・・・」


ってそれ。・・・・・・・・・・まんま俺だろ。今の俺。


「もうこのまま二度と会えなくなるんじゃねーかって、・・・泣きたくなってるに決まってんだよ」


・・・それも俺だろ。
お前のママは、とかろうじて付け足す。後は声にならなかった。


「銀ちゃーん」
「・・・・・んだよ。・・・・・・・・・ココアか?それは後だって、・・・言っただろ」
「銀ちゃんなきむしー。」
「・・・うっせぇ。・・・・・・・」


の手を握る手に震えが走る。きつく歯を食い縛ったが無駄だった。涙は単調な放物線を描いて際限なく落ちて、ぽつぽつと黒いアスファルトを濡らした。
俺が涙腺が決壊するほど泣くのは、後にも先にもこの時限りになるんだろう。
微かにそんな予感が浮かんできたのを覚えている。そしてその予感は、――確信とも言うんだろうが――今のところ外れていない。



そうか。そういうことか。
俺はあの子に半分を持っていかれたのか。

あのバスに乗っていったのは彼女。だけど彼女だけじゃない。
遠目にもすごい混み具合だったあのバスは、―― 乗客でひしめいていたあのバスは。みたいなちび一人すら挟めそうもない薄い隙間に、あの子とどうしても離れたくない俺の思いまで詰め込んでいってしまったのか。 その代わりにと、俺の足元にぴったりくっついて影みたいについて回るあの子の思いを、あの混んだ車内から吐き出して置いていった。
だからこそ俺は今、こんなにずっしりと身体が重たい。もう一歩だって動けそうにねーんだ。


「そーかぁ。・・・そーいうことかよ、・・・」

それはそうだ。そんなんじゃ泣きたくもなるだろう。動けなくもなるだろう。身体が重くて、胸が痛んで、苦しくて張り裂けそうで。 今すぐあの子に会いたくて、抱きしめたくて、なのに出来ない。もう出来ないんだ。それが悲しくて、悲しくて、何もかもが我慢できなくて。
涙くらいは出るだろう。こんなに痛いんだから。なにしろ自分を半分持って行かれたんだ。

俺とあの子は引き千切られたんだ。お互いの思いを。お互いの中に残しておくための半分を。





いつのまにかしゃがみ込んでいた。
しゃがみ込んで身体を丸めて目元を抑えて、カバンを地べたに落として頭を掻き毟って。声こそ出さなかったが泣いていた。ほぼ号泣だ。
しばらくそうしているうちに、手の中を風が通った。ふっと何かが抜けていった。 見下ろすと握っていた手の中が空っぽで、そこに収まっていた柔らかさが消えていた。 の手がない。俺から離れている。 俺がしゃがんでやっと目線が同じ高さになるちびは、てこてこと一人で足を進めていた。

「・・・・・・っ。んだよ。・・・先に行くつもりか?お前、俺んちがどこかわかるのかー・・・?」

掠れ声で呼びかけてもは答えなかった。
俺にチョコ渡しにきたくせに案外薄情だな、こいつ。
一人でここまで来るような大胆な真似はしても、こういうところは所詮ガキってことか。 そう思ったが、の行動は俺の予想とは違っていた。すぐにくるりと向きを変えたのだ。 ちっこい白のスニーカーの先が、俺のローファーの先にくっつく近さで目の前に立った。

「バレンタインのチョコはね、一番すきなひとにあげるんだって。だから来たよ。、銀ちゃんがいちばんすきだもん!」

泣き虫でもすきだもん!
そう言って自慢げに胸を張って笑うから、さすがに俺も泣く気が失せた。
あの頃の俺は高校生としてはまあまあそこそこな経験値を持っていたが、ここまで脈絡のない告白を受けるのは初めてだった。 そしていまだにあのインパクトに敵う女は俺の前に現れていない。というかあれは、ほかに類を見ない驚きだった。

・・・なんだそりゃ。脈絡とか場の空気とか言い出していいタイミングとか、全部スルーかよ。好きな奴が泣いてんのに、 お前ときたらなんてツラして笑ってんだよ。何がそうまで嬉しいんだか、よりによって笑顔満開じゃねーか。
すげえなお前。さすがガキだな。ガキってすげえ。
頬に伝った涙を拭くのも忘れて忘れてを見つめ、あの時の俺はただあっけにとられていた。さぞかし情けないツラをしていたに違いない。

「・・・・・・・んだよこれ。・・・たまんねーなぁぁ。何しに来たんだよお前ぇ。・・・あの子の手先か?俺を泣かせに来たのかぁ?」
「あの子って誰ぇ?てさき、ってなに?ねえねえ銀ちゃん、チョコは?お腹すいたよ、食べようよチョコー!」

鼻水を啜り、涙で湿った顔をごしごしと袖で拭う。「わー、ふわふわだぁあ!銀ちゃんのかみ、わたあめみたーい」 と喜びながら人の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回すちびの顔を見もせずに、ぼそぼそと俺は答えた。

「・・・・・。いーわ。今な。銀ちゃんな。なんにも食いたくねーんだわ。だから、ごめんな」
「・・・・・・・・・・。銀ちゃん、いらないの?のチョコ、いらない?」

返ってきたのはひどく気落ちした、今までの元気さが全部どこかへ吹っ飛んでしまったような声だ。
あ。やっちまった。何やってんだ俺は、こんなガキに。
空気のまずさにはっとして顔を上げると、はしゅんとした様子でうなだれていた。小さな握り拳がワンピースのポケットを掴んで、指に血の気が通わなくなって 真っ白になるくらい固く握り締めている。あどけない子供の目が、目尻に浮かんだ涙をじわあっと膨らませていく。
やばい、泣かれる。粒になったそれが破裂する寸前に、俺は慌てての頭に手を伸ばした。 「嘘、今の嘘、嘘だから、な?」と笑ってごまかしながら前髪を撫でた。

「嘘だって。欲しい。欲しいって。腹減ってっから今すぐ食うわ、ちょーだい」

すると目を潤ませたちびっ子は、泣きそうだった表情をころりと笑顔に変えた。ほんの一瞬でだ。女優も顔真似芸人もびっくりの早業だ。
女って怖えー。こんなガキでもこれだ。女ってマジでこーいうとこ怖えーよな。 そういやあの子にもこんな態度されたことがあったよな。他の女なら引きまくるのに、あの子のあれは何故だかすげえ可愛かった。 そんなことを思い返し、湿った気分が増してきた鼻先を、つんつん、と何かがつついた。視線を上げると、そこにふっくりした子供の指があった。 俺の目を覗き込んでは言った。大人ぶったませた態度で、偉そうに。

「えーっ。だめだなー銀ちゃんはぁ。そういうこというおとこのこはもてないんだよー!」

バレンタインデーはむーどをたいせつにしないとだめなんだよ。
すっごく食べたくてもすぐに開けたらだめなの。
おとこのこはおんなのこにありがとーって言って、ちゅーしないといけないんだよ。
なっちゃんとちほちゃんがゆうくんにそう言ってたもん。たしかそんなことを言っていたは急いでチョコの箱を出し、俺に向けた。 ひよこ色ワンピースの裾をふわふわ踊らせたちびは、今にもぴょんぴょん飛び跳ねそうなくらい嬉しそうにしていた。 そして俺がチョコを食べると、お礼も言わなければちゅーもしてくれない、だから銀ちゃんはにしかもてないんだよと拗ねて怒った。

今となってはどの姿も懐かしい。
あれ以来会うことがなかったあの子も。ひよこ色ワンピのちびっこいも。
ランドセルを背負った小学生に手を引かれ、怒られながら家に帰った制服姿の俺も。
しかし妙なもんだ。思えばあの頃のは今よりも確実にませていた。 今、俺の目の前にいる女の子――あの頃の俺が最後に見たあの子と、ちょうど同じ年になったよりも。







――そう、つまり俺が何を言いたかったのかってーと、だな。(・・・どんだけ長げーフリだ)
そんなことを突然思い出したのは、目の前に並んだこいつを見たせいだ。
教師と生徒が一人ずつしかいない国語科準備室。時は2月14日のバレンタインデー、授業もHRも終わった放課後だ。 薄紫に暮れた空が窓に映る西日が差し込む部屋で、俺はデジャブを見せられていた。


菓子折の空き箱再利用らしい薄い箱一杯に、ずらりと並んだチロルチョコ。 箱が手作りではない以外にあの日のあれと大差はない。そしてこれを俺に「食べて」と向けているのも、あの日と同じ女の子だ。

俺の前にいる女子高生――
高校生になったは、 いまだに見た目は中学生めいたか細さではあるが、高校二年、当年とって17歳。 関係としては遠い親戚でもあり、生徒と教師でもあり、一部の奴ら以外には伏せているがお隣さんでもある。 好きな女の子を引きとめられない無力感でヘコんでいた高校生の俺は十年を経て高校教師となり、 ひよこ色ワンピースのちびっ子小学生は、十年を経てセーラー服姿の映える女子高生になった。 男目線からするとスカートの短さが気になるが、本人は自分の脚に興味を覚える男がいるとは露にも思っていない。 自覚がないんだ。あいつの視線にも、俺の視線にも。今も横目にこの子の素足を眺める俺の様子なんてそっちのけで、 机の脇に置かれた紙袋の中を興味津々に物色している。袋の中身は今日貰ったチョコだ。具体的に誰からとは言えないが、この学校にも意外と物好きは多い。

「銀ちゃんこんなに貰ったんだー」
「まあ、そこそこな。なに、これさ、クラスの奴にも配ったの」
「うん。その箱と同じやつでね、全員に配ったら完売しちゃった。あとは晋助とかー、 ・・・ねー、ここでお茶していってもいい?今日のHRすっごく長くてさー、お腹すいちゃったよ」
「んー。他の先生が来るまでな」

わーい、とはスカートの裾を翻しながら走って行って、勝手知ったる部屋の隅のお茶セットから湯呑を二つ出す。 俺の分まで淹れてくれるらしい。ココアが呑みたいと駄々をこねたあのひよこワンピのちびっ子が、 今は俺にお茶を淹れてくれるまでに成長した。ああしてお茶を淹れる時のふとした仕草だって、見違えるくらい女の子っぽくなったしな。 たまに何気なく目を合わせたときの俺に気を許しきった表情の可愛さは、殺人的だと思うほどだ。 申し分なく順調な成長ぶりだ。おっさんくさい感慨深さに浸りながらふと視線を下ろすと、 チョコの箱の左隅に2センチ四方程度の隙間を見つけた。およそチロルチョコ一個分のスペースだ。・・・誰かが一個食ったのか、俺より先に。

「・・・てことは、あいつにはもうやったんだ」
「あいつって?」

少し怪訝そうに訊き返して、は子供の頃から変わらない、あどけない表情で目を丸くした。ひとつもピンとこなかったって顔だ。
それもそうだ。は自分からのチョコをあいつが欲しがるとすら思っていない。

「あいつだってあいつ。うちの万年反抗期」
「・・・?十四郎のこと?まだあげてないよ?」
「十四郎より俺が先?」
「?うん。だって十四郎はまだ部活中だもん。銀ちゃんが先だけど。え。なんで?」
「だってひとつ足んねーじゃん、ここ」

ああ、それ?とつぶやいたはお茶を淹れる手を止め、廊下に面した戸口へと目を向けた。

「そこで坂本先生に会ったから。チョコ欲しいっていうからあげたんだよ」

さっきまでここでワハハハハと笑って茶を呑んでいたうっとおしい同僚教師の面が頭に浮かぶ。あの野郎、美味しい時に横入りしやがって。 今日からあいつをハゲタカと呼んでやろう。ハイエナでもいい。
まあいずれにせよ、坂本のバカがにバレンタインのチョコを恵まれるのも今年が最後、これっきりだ。 が高校を卒業するまでにはこのチョコを貰うのは俺だけになる予定だ。俺の計画ではそうなることになっている。 今が高二の冬だから、あと一年とちょっと。それまでに時間をかけて、そっち方面には一向に成長のないこの子のペースに合わせつつ、 しかし同時に急がなければならない。俺と同じ近さでの傍にいる奴が、俺の万全な計画を全力で阻止したがっているからだ。

そいつを蹴落とす方法はある。なにしろ相手は恋愛初心者の高校生だ。 あいつがレベル3なら俺はレベル89。別に思い上がってはいない。まったくの事実だ。 ところが俺はあいつを完膚なきまでに叩きのめそうとか、蹴落とそうだとかいう気が微塵も起きない。 理由はあれこれとあるんだが、その一つには、あれを見ていると色々と彷彿とさせられるからかもしれない。 もしや十年前の俺も傍目にはこんなだったんじゃねーか。そう思ってつい苦笑してしまうような、視野が狭くて直情的で、 だからこそがむしゃらに突っ走れるガキだからだ。まあ、あのがむしゃらさが何をしでかすかわからない怖さにも化けかねないんだから 要注意だが。


あの頃の俺が――十年前の高校生が、今のこんな俺を知ったらどうするもんだろう。
ショックで顔を硬くして「笑えねー」そう吐き捨てるだろうか。・・・・・いやそれ、あいつの反応と大差ねーな。 高校生男子の反応としてはしごく真っ当だが、面白味はない。いや。違うな。そう――多分こうだ。
十年前の俺ならこう言うはずだ。どうしてだ、と。「どうして他の女なんか好きになれんだよ」そう言うだろう。 あの子を忘れたのか。俺のよれたシャツの襟首でも掴んで壁に叩きつけて、唇を噛みしめてそう詰め寄るだろう。
もしそうして詰られたら、俺は言ってやりたい。
そうだ。あの子のことは忘れた。今の俺は、あの子の声がどんなだったかも思い出せねーよ。
だけど、それでも、俺の中のあの子が消えちまったわけじゃない。あの頃の全てを忘れたわけじゃない。俺は何も失くしちゃいねーんだ、と。


あの子がいなくなってから数カ月間、残された俺は何をしていたのか。
――実はろくに覚えていない。覚えはないが、 記憶の空白になったその間に、修復不可能かと思われた抜け殻同然の俺の身体は、時間をかけて少しずつ自分を取り戻したらしい。 ゆっくりと周りを見つめて、崩れた部分をどうにか固めて立て直して。その後にも他の誰かと出会って別れて、 マジでやばい、と鳥肌が立つくらいの未知の感覚を味わったり、その感覚に有頂天になった代償に見合うだけの 苦い思いを味わったりだのして。 そうしていくつかの季節の境目を通り過ぎていく間に、俺も少しだけ変わった。大人になった、などと口走るには気恥かしい程度の変化だが、 あの子しか見えていなかった頃の俺とは少しだけ違った、ふてぶてしさとしたたかさを着込んだ自分を作り上げてきた。 あれ以来会うことはなかったが、きっとあの子もそうだろう。見つけた誰かに半分を預けて、さみしさなんか捨てて 幸せになっていてほしい。俺が関わってきた他の奴らは相当に図太い奴らばかりなんでどこでどうなったって一向に構わないが、 あの子に関してだけはガラにもなく本気でそう思う。
あの子のさみしさを埋めてくれる半身が、あの子の傍にあればいい。 俺にとってのこの子が、常にそういう存在であったように。

ともあれ俺は忘れない。
今のあの子が俺を忘れていたとしても、俺だけはあの日のあの子を忘れない。ジジイになっても忘れない。 チョコを差し出して笑った小さなの姿も、手離したくなかったあの子の泣き顔も、 すべてが淡く霞んだ冬色の景色に飾られて俺の中にある。この先も褪せることはないだろう。失うこともないだろう。 仕舞い込んだ記憶の在りかを忘れてしまうことはあるかもしれないが、だからといって完全に消えたりはしない。 あの子が俺に残してくれた思いはとっくに俺の一部になった。あの頃のの笑顔もだ。失くしてしまうことはない。必ず俺の中の何処かにある。変わらずにあり続ける。ただそれだけだ。それでいいだけの話だ。


・・・やれやれだ。こーいうこたぁ時間かけて遠回りしねーと気がつかねーもんなのかね。
あの頃の俺にも、そういうもんらしいぜと教えてやれるならいいのによー。

ようやくそう思えるようになったふてぶてしい二十代の俺は、にやつきながらひとつめのチョコを口に放る。 二個目に手を伸ばしたところで、部屋の隅から声が掛かった。

「銀ちゃん、今日何時まで?一緒に帰っていい?」
「いーけど俺、これから学年会議なんだけど。一時間くれーかかるぞ」
「うん。いいよ待ってるから。今帰ると帰宅ラッシュで潰されちゃうもん。外寒いし、銀ちゃんの車で一緒に帰りたい」
「ん。じゃあここで待ってな、寒みーから」
「うんっ」

俺に笑顔を向けて嬉しそうに頷いた。
・・・一緒に帰りたい、か。可愛いことを言ってくれた礼に、どこか飯でも食いに連れていくか。
湯呑にたっぷり注いだお茶が零れないように集中しているためか、そそ、そそ、と危なっかしい足取りでが戻ってくる。 淹れてもらったお茶を受け取り、眼鏡の奥からを見上げた。

「毎年ありがとな」
「うん」

えへへ、と照れたような表情で笑うが、どーぞ、と妙にかしこまった仕草で箱を差し出してくる。 端にあった一つを摘みとる。ミントブルーの包装紙をカサカサと爪先で剥いて、開けた口にぽいっと放った。 冷えた甘味が舌に広がる。がりっと噛み砕きながら、隣に置いてあったパイプ椅子に座ったをじっと見つめた。

「ところでさ。今でもお礼のちゅーとかしたほうが、いいの」
「・・・は?」

あたしも食べよ、とチョコをつまんで口に入れかけたはぽかんとしていた。 その後で遠回しな質問を幾つか向けた結果、はあの時のことをすっかり忘れているらしいことが判ったが。 それはそれでいい気がした。覚えていられては都合の悪い泣きっ面も見せたことだしな。それに―― たとえこの子が忘れていても、俺がに初めてキスした男だという事実に変わりはない。
それが初キスとはいえほっぺたで、バレンタインの風習に妙な誤解を持った小学生にねだられた、お礼のキスであったとしてもな。





「 フラグメンタルプール *3  My Sugar View 」 text by riliri Caramelization 2011/02/11/
せんせの十年前。サブタイはチャットモンチー 高校生坂田の制服はブレザーをせつに希望します


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