am 09:57 「おはようございます坂田さん」
変なかんじだなあと思う。
いつも自分の温度に保たれてるベッドの中が、違う熱さになっているのは。
変な眺めだなあと思う。
飽きるくらいに見慣れた自分のベッドの中で、ぜんぜん見慣れないひとが――しかも男のひとが眠っているのを見るのは。
相当眠りが深いみたいだ。あたしが毛布の中でもぞもぞ動いても、肩に回っていた腕を解いても、起きる気配はどこにもない。
ふわふわの白い癖っ毛からは嗅ぎ慣れた匂いがする。うちと同じシャンプーの匂いだ。
その匂いに気がついたら、目を覚ました瞬間からざわざわしっ放しで落ちつかなかった気分が
すこしだけ和らいだ。犬や猫が匂いを嗅いで居場所や仲間を認める、あれにちょっと似てるのかも。
そんなことを考えていたら、閉じた瞼がぴくりと動いた。眉間がきゅーっと狭くなる。
「・・・・、いってぇえ・・・」
半開きだった口から、ぼそっ、と声が飛び出した。
首の下に敷いていた腕がずるずると、枕の上を動き出す。錆色がかった白い髪を手が鷲掴みにした。ぼりぼりと掻いている。
「んだよ。ってーよ。痺れたじゃねーかよぉぉ・・・」なんて、口の奥でだるそうにモゴモゴつぶやいた。
「・・・・神楽ぁあ。なに、なんなのお前ぇ。つーかよォ、いくら寒みーからってお前ぇ、人の布団に入んなってえぇぇ・・・」
語尾はあやふやで怪しいけれど、寝言にしてははっきりしすぎな口調だ。やばい。このひと、目が覚める。どうしよう。
男のひとを部屋に泊めたのなんて初めてだから、どんな顔をしていればいいのかわからない。
こういうときに言っても変じゃない、気の利いた言葉なんてわからない。すこし慌てて身じろぎして身体を離したら、今度は脚が動いた。
どん、と足裏があたしの脛を蹴飛ばす。
〜〜っ!!ちょっ、力強すぎっっ。骨にびーん、って響いた・・・!
「んだよもぉぉ、なにこの脚ぃ。朝っぱらからどこ行ってきたのお前ぇ。ひゃっけーんだよひっつけんなよォ」
「・・・・・・・・・。ごめんなさい」
痺れと痛みを噛みしめながら謝ると、閉じていた目がぱちっ、と大袈裟なくらいまん丸に開く。
毛布が跳ね上がる。がばあっ、とあわてふためいて毛布ごと跳ね起きたトランクス一枚のその人は、下着すらつけていないあたしに
声も出ないほど仰天してざざあっと後ずさって、ベッドの端から転がり落ちた。
「おはようございます」
ばつが悪いなあと思いながら声を掛けた。奪られた毛布の端を引き寄せて身体を隠す。
「・・・はよーっす」
答えたひとは脱ぎ散らかしたあたしの晴れ着の上に尻餅をついた格好で、鼻と口を抑えてる。顔一杯に広げられた、頑丈そうな大きな手。指がとても長いんだなあと改めて思う。
頬が少し赤い。すごく気恥ずかしそうだ。でも、目がしっかりと裸のあたしを注視してる。
am 10:10 「どんな女だと思ったんですか、とても心外です坂田さん」
顔を洗って部屋に戻ってきたそのひとと正座で向き合う。自己紹介も兼ねた挨拶が始まった。
これは坂田さんから言い出したこと。言い出したときはなんだかちょっと強張った顔をしていた。
こうなっちゃったことに引け目を感じてるんだろうか。あたしにはよくわからないけれど、その表情を見る限り、
お酒の勢いで知らない女の子の部屋に泊っちゃった男のひとの立場って、なにか女の子側には計りしれない複雑さがあるみたいだ。
「どーも。坂田です。自営業っつーか、この近くで商売してんだけど。まああれだわその。・・・よろしく」
「あ、はい。・・・あの。あたし。です」
「・・・。そぉ。さん、ね」
「はい、です。仕事は事務職っていうか、いわゆるOLです。よろしく、・・・おねがい、します・・・?」
かなり微妙だ。「よろしく」でいいんだろうか、この場合。
迷ったあげくに間の抜けた疑問形になってしまった。カーペットに手をついてぺこり。すると目の前の人も軽く頭を下げてくれた。
頭を上げて最初に目に飛び込んできたのは、着ているTシャツにどーんと大きく書かれた「京都」の字。
お湯を沸かしているキッチンのほうを伺うふりをして顔を逸らす。危ない、もう少しで面と向かって吹き出すところだった。
昨日着ていた黒い服はまだ湿っていたから、このひとが着ているのはあたしに借りた服だ。この前弟が泊っていったときに
忘れていった、衿口が伸びきった使い古しのTシャツ。友達からの京都土産で貰ったらしい。お土産としては
ウケを狙いすぎてハズした部類に入るデザイン、かな。そのお友達にしてみれば、これも弟への友愛表現のひとつというか、
仲のいい友達に向けたお茶目な悪戯だったんだろうけれど、その愛情が通用するのはあくまで弟だけ。
今これを着ている坂田さんにとっては、かなり微妙な代物だろう。もしかしたら、あたしのちょっとした嫌がらせだと
誤解しているかもしれない。差し出したときは一瞬固まっていたから。けれど一人暮らしの女の子の部屋に、男物なんてそう沢山はない。
弟以外に男の人の出入りがないうちに於いては、これが唯一の男性サイズの服なのだ。
困惑気味にたじたじとTシャツを見つめる坂田さんに、あたしは気付かなかったふりでにこっと笑って、「どうぞ」と渡した。
半ば押しつけに近かったかもしれない。
あたしはこのひとが洗面所に籠ってた間に、部屋着にしている着物を羽織った。ベッドから落ちた直後の
坂田さんに「いやあの頼むから何か着てくんね?」と背中を向けてガシガシ頭を掻きながら頼まれたからだ。
「あっそ。OLさんなんだ」
「はい。丸の内にある会社で」
「へー。どのへん?」
「○☆ビルです」
「え、○☆に入ってんの。すげーじゃん。大手にお勤めなんだ」
「いえ、そんなんじゃないんです。従業員四人の小さな会社なんですけど、社長が派手好きっていうか、見栄っ張りだから」
「ふーん。そーかァ。・・・・・いや。あのさ。」
「はい」
「こーいうことになっといて訊くのもアレだけど」
「はい?」
意を決したように口を引き結んだ、やけに真面目な顔の坂田さんが、Tシャツのお腹のところを前に引っ張る。
「京都」の大文字が、ばーん、と目に飛び込んでくる。唐突だったからこらえようにも間に合わなくて、思わずぷっと吹き出してしまった。
「この趣味を疑うすんげーTシャツ、もしかして彼氏のお泊り用ですか」
「違います」
そんなひといませんから。
「え。マジで」
「はい。マジです」
「え。んじゃアレですか。彼氏じゃねーけど俺みてーに泊ってく野郎が他にいるってことですか」
「違います」
弟の忘れ物です。そんなひといませんから。弟とお父さんと引っ越した時の業者さん以外では、この部屋に入った男のひとはあなただけですから。
そう言おうとしたのに、頬をピクピク引きつらせて迫ってくる坂田さんに遮られた。
「え。んじゃーまさかアレ?マジで、やっべぇえよ、アレなの!?ねーちゃんの一人暮らしだと思ってたら
隣の部屋から人相の悪りー筋モン野郎が出てきて「てんめー人の女に何しとんじゃワレ」とか因縁つけられて、
連れていかれたお風呂がコンクリ風呂でした的な!??」
「・・・違います。弟の忘れ物です」
それからがちょっとした騒ぎだった。正直大変だった。あたしを見る目がドン引きになって顔が血の気を失くしている坂田さんの、脳内に悶々とうずまく
「Vシネ的展開」。そしてあたしにかけられた心外な「筋モンの女」疑惑。この二つを綺麗に払拭して貰うまで、
それはもう結構な時間と労力がかかった。
滅多に見ないアルバムをクローゼットの奥から引っ張り出して弟の写真を見せたり、携帯に残ってた今年のお正月の
家族写真を見せたり、弟からのメールを見せたり。見た目にはあまり細かいことにこだわらなさそうなタイプに見えるのに、坂田さんは
意外に疑り深いというか、想像力が逞しいらしい。あたしがこれだけ頑張っても姿勢は恐縮しきった正座のままだったし、
引きつった顔には冷汗まで浮かべていた。
違う、違うんです、違います。
それでもあたしは全否定を繰り返した。同じ説明を何度も、辛抱強く繰り返した。信用してもらうまでもう本当に、溜め息つきたくなるくらい大変だった。
そして、ここまで骨を折ってでもこのひとに信用されたがってる自分って、何なんだろうと思った。なんだかちょっと不思議だった。
am 11:15 「それは違います坂田さん」
「さんさあ。結構通ってね?あの店」
「・・・?ええ、はい」
「あーやっぱり。だよなぁ」
キッチンでお茶を淹れてたら、坂田さんはいつの間にか後ろに立っていた。
ぺた、ぺた、と床板を裸足の足裏で鳴らしながら、のそのそっと近付いてくるひとの背丈は思ったよりも高い。
流しの前で並んで立つと、あたしの目線は坂田さんの首の付け根くらいの高さだった。
もっと下に目線を落とすと、例の「京都」の文字が目に飛び込んでくる。途端に可笑しさがぶり返してくすくすと笑うと、
坂田さんは笑いの意味に気付いたのか、照れ臭そうに目を逸らした。Tシャツの裾から手を突っ込んで、ポリポリお腹を掻いていた。
いつもの倍の量のお湯が入った急須から、マグカップにこぽこぽと熱い緑茶を注ぐ。注ぎながらちょっとだけ、はっとした。
選択を誤ったかも。ついいつもの習慣でお茶を淹れたけど、――こういう時には緑茶みたいなまったりした飲み物じゃなくて、
いかにも「毎朝飲んでます」という顔をしてさらりと格好良くコーヒーを出すのが、いわゆる「お約束」じゃないだろうか。
「昨日もよー、このめかし込んだねーちゃん、どっかで見たよなーと思ったんだわ」
「そうなんですか。あたしも坂田さんのこと、何度か見掛けてますよ」
いつもサングラスのおじさんと一緒ですよね。
そう言ったらちょっと眉を寄せた苦笑いに変わって、
表情がすこしだけ砕けた雰囲気になった。
「カウンターだけの狭めー店だもんなぁ。まあ、狭めーからこそ顔馴染みが出来やすいっつーか」
「そうですね。あたしもあそこでお馴染みになった人って結構いるから」
「あーやっぱり?俺もだわ。・・・あれっ、でもよー。いつも一人で通ってたっけ?え、いたよねもう一人。
いつも一緒に来てんじゃん、ほらあの、声のでけー子」
「はい。いつもは二人なんですけどね」
「だよなぁ。ああ、おめかししてるしたまには一人で飲んでみっか、みたいな?」
「いいえ。昨日はその子の結婚式の帰りで。二次会帰りに、初めてあそこに一人で寄ったんです」
「へえ、結婚したんだあの子。・・・そっか。まーなァ。あんたたち、かなり仲良さそうだったもんなぁ。そらぁあんだけ飲みたくもなるわな」
「えぇ、・・・・・そんなに飲んでましたか、あたし」
「あ、やっぱそのへん覚えてねんだ。いや、まーねぇ。飲んでたねぇ、かなり」
店のトイレで吐いちまうくれーだしぃ。
声を落としてそう言うと、流しの端に手を掛けた坂田さんは横目でこっちを見る。口端がにやりと笑う。
可笑しそうで意味深な目線で眺められて、思わず顔が赤くなった。
・・・ええと。その節は親切に介抱していただいて。ごめんなさい。すっかりご迷惑をおかけしました。
「そっか。昨日は淋しかったんだなぁ、あんた」
「・・・え、・・・・・」
ぽん。続いて二回、ぽんぽん。坂田さんの手があたしの頭を軽く叩いた。
最初に手が乗ったときにはちょっと驚いた。
けれど少しも嫌な気にはならなかった。すごく自然に置かれた手だった。頭を覆った感触が優しい。こっちを見下ろす坂田さんの細めた目も穏やかだった。
なんだか心地良かったし、ずっとこのままでもいいなと思ったくらいだ。
昨日の夜はそんなこと思わなかったのに。この手で触れられるだけで、かあっと火照って困っちゃったのに。
――淋しかった。
そうなのかな。このひとが言ったように、昨日のあたしは淋しかった。そうかもしれない。
あの子の花嫁姿を目の当たりにして、動揺してたのかも。大好きな友達がなんだか知らないひとみたいで、すごく遠く思えて。
華やかな場所と賑やかな空気にも人見知りしたっていうか、ちょっと気後れしていたのかもしれない。
二次会には知ってる人もあまりいなくて、周りのテンションの高さに一人置いてかれちゃったみたいになってたし。・・・そうなのかな。
「淋しいっていうか・・・複雑ですね。友達の幸せは自分のことみたいに嬉しいんだけど。・・・でも、もう今までみたいには遊べないなぁって。
・・・そうですね。やっぱり淋しいですよ。友達を旦那さんに奪われちゃったみたいで」
「そっかぁ。だよなぁ。そんで、ほぼ初対面みてーな俺なんかを部屋に入れちゃった、と」
「・・・ううん。それは。・・・違います」
違います。
顔を上げて、ちらりと目を見上げて繰り返した。
目を点にしている坂田さんを置いて、マグカップ二つを持ってキッチンを出る。ぺた、ぺた、ぺた。湿った足音が後ろからついてきた。
「お家に連絡しなくていいんですか」
「ああ。大丈夫じゃね、俺朝帰り多いし。ケータイ持ってねーし」
「そうなんですか。じゃあ使ってください、うちの電話。もうお昼だし、ご家族が心配するといけないから」
「いやいやいや、そこまではいーって、俺、もうそろそろ帰っから」
「え、でも。坂田さんの服、まだ乾いてないんですけど・・・」
「えっ。そーなの?昨日から干してんのに?」
「はい。ごめんなさい、あたしが汚しちゃったから」
そこで言葉を止めてくるりと振り向く。そうだろうなと思った通り、坂田さんは訝しげな顔をしていた。
すう、と気付かれない程度の静かさで息を吸い込む。とくん、と大きく胸が鳴った。
ああ、どうかあたしの不純な思惑が、表情に響きませんように。
「・・・あの。
もし良かったら、お詫びっていうか、お昼ごはん作りますから。食べていってください」
困ったような目であたしを眺めた坂田さんは「じゃあ借りるわ、電話」と言うと、横を通り過ぎて部屋に向かった。
あたしはぺたぺた足を鳴らして歩く姿を、立ち止まってじっと見ていた。
「――あぁ俺。・・・・・・はァ?・・・・いや違げーって。・・・・・・
うっせーよバーカ。違うってーの。ガキが生意気に深読みしてんじゃねーよ。
・・・ああ、昼過ぎには戻っから。で、神楽によー、――」
部屋から男のひとの声が流れてくる。弟以外の男のひとの声が。聴き慣れていないから、やっぱりなんだか変なかんじだ。
いつも冷え症な身体がじわじわとあったまってきていた。マグカップを持った手も、ほっぺたも。
ごめんなさい。いまのは嘘。嘘です。さっき触ったらもうすっかり乾いてた。
でも。言いにくいじゃないですか。もうすこしでいいから一緒にいたくなった、なんて。
am 11:27 「どきっとさせないでください坂田さん」
「なー。なんか冷てーもん貰ってもいい?」
「ああ、はい、」
お茶一杯じゃ足りなかったのか、テレビを見てたはずの坂田さんがマグカップ片手にキッチンへ入ってきた。
流しの前に立つとマグカップをささっと洗って、そこに水道水を注いでごくごく飲んだ。
坂田さんも夕べは長時間呑んでたみたいだから、喉が乾いてたのかもしれない。
卵とお砂糖をかき混ぜていたボウルを置いて、スリッパをぱたぱたさせて冷蔵庫に向かう。
どうぞ、と一人用の小さい冷蔵庫のドアを開けた。ひんやりと流れ出る冷気の前にしゃがんで、中を覗きこむ。
ぺた、ぺた、と坂田さんもあたしの後ろに寄ってきた。
「何がいいですか?水と100%オレンジと野菜ジュースと・・・、あと、炭酸系とか」
「え。いーの悪りーね。いちご牛乳なんかある?」
「え。それはさすがに・・・」
「・・・だよな。んじゃ、これ貰うわ」
とん。背中に固くて温かい感触がぶつかる。
「あ。悪い」
頭のすぐ後ろで何気なく謝った声が、吐息と一緒に耳を抜けていった。
左肩に手が置かれて重みを掛けられて、あたしはふっと息を呑んだ。急に身体が硬くなった。
後ろから伸びてきたもう片方の手が、すうっと、右の耳を掠めるくらいの近さで通り過ぎていく。
長い指が冷蔵庫の扉ポケットにあった大きい牛乳パックを引っ掛けて、ひょい、と持ち上げた。
「あんま残ってねーな。なーこれ、全部飲んじまっていーの?」
「・・・あっ。はい、・・・・・じゃなくて、あの。半分残して」
「んぁ。半分な」
がっしりした腕が耳の横を掠めて、牛乳パックを浚っていった。肩に置かれた手が離れていった。
掴まれていた重みがなくなったら、急にへなへなあっと肩から力が抜ける。身体中の力まで抜けそうだ。ぎゅうっと脚を抱いて身体を縮めた。
「?なに。どしたの。寒みーの」
「・・・・・。いえ。」
違います。
寒かったんじゃなくて。背筋がざわっとするくらいくすぐったかったんです。
坂田さんが耳元で喋るからです。・・・なんてことは言えないけど、
入ってきた吐息が耳奥まで届いて、まだ耳の中を痺れさせていた。
どきん、どきん、どきん。
心臓が急に煩くなった。顔も急に熱くなった気がする。さっきまでは「うわ、冷たい」と思っていた冷蔵庫からの冷気が妙に気持ちいい
から、たぶん本当に顔が火照ってるんだろう。
「なー、何作んの」と尋ねられたけれど、すぐには返事も出来なかった。
am 11:43 「なんだか可愛いです、坂田さん」
「・・・えっっ。ちょっ。すげーじゃん。マジで旨めーんだけど、これ」
顔を上げた坂田さんが、感心しすぎて呆れているような顔で言う。
じいっと食い入るように見つめているのは、フォークに刺さったフレンチトースト。
二人で囲んだテーブルの上には、湯気と香りを昇らせるお皿が二つ。お砂糖と卵の焦げた甘くて香ばしい匂いが、部屋中にふわふわ漂っている。
小さめに音量を落としたテレビからは沢山の人の笑い声。特に好きな番組でもないけれど、この時間になると習慣で見てしまう番組だ。
耳慣れた司会の人の声を聞き流しながら、なんだか不思議な気分になった。
いつもは一人で見ている日曜お昼の番組も、こうして誰かと一緒に見ると、なんとなく新鮮に思えてくる。
「そうですか?よかった。坂田さんて甘いもの好きなんですね」
「すげー好き。好きっつーか糖分命?むしろ糖分だけ摂って過ごしたいけどね。毎日のメシが砂糖の塊でも全然いーけどね俺は」
と、お医者さんが聞いたら呆れ返りそうなことを言いながら、ぱくっ、と次の一口を大きく頬張る。すぐにまた一口、放り込む。
見ていて気持ちいいくらいにパクパクと、夢中で次々と食べていく。
お茶をカップに注いだり、自分のぶんを口に入れたりしながら、斜め隣の様子を何度も、ちらちらと眺めた。嬉しくて頬が緩んだ。
実は色々と本を見て研究したり、上手な人に教わったりして、何度も練習した自信作だ。
あたしが一切れ目を食べ終わったときには、坂田さんのお皿の上にはメープルシロップしか残っていなかった。
さっき淹れなおしたお茶を飲みながら、なんとなく淋しそうに空のお皿を眺めているひとの表情が可笑しい。口を抑えてくすくす笑った。
「あの。もっと食べますか?」
「え!いーの、まだあんのコレ!」
はい、と頷くと坂田さんの様子が俄然元気になった。
・・・可笑しい、目が期待でキラキラしてる。
「すぐ出来ますよ。パンはまだ一杯あるし・・・・・、あ」
フォークを置いて立ち上がろうとして、ぴたりと止まった。そうだ、忘れてた。
「牛乳が」
「へ?」
「・・・さっき、使いきっちゃった」
半分飲んじゃったから、坂田さんが。
坂田さんもそこに気付いたらしい。眉が八の字になった表情は見るからにがっかりしているというか、気落ちしている。
頭がテーブルに着いちゃうくらいに深くうなだれて、頭をボリボリ掻いていた。しばらくしてからぼそっと口を開いた。
「スーパー。・・・や、このへんにはねーな。そーすっと、コンビニかぁ」
「え?」
「あのさ。ここから一番近けーコンビニってどこだっけ」
pm 00:02 「違うんです、坂田さん」
「わざわざ買いにいかなくても・・・」
なんだか申し訳ないです。遠慮して背中に声を掛けると、坂田さんの肩がすこし揺れた。「ははっ」と乾いた声で笑った。
玄関前でどかりと腰を下ろす。揃えておいた黒いブーツを手に取った。
「や、けどよー。こんだけ旨めーやつは、次はいつ食えるかわかんねーし」
いいえ。そんなことはないと思います。
・・・坂田さん次第で、好きなだけ食べられるんじゃないかと。
なんて言えない。はっきり口にする勇気は湧いてこない。頭の中を
引っ掻き回して、もっと当たり障りのない、さりげない言葉を探そうとした。
「また来たらいいじゃないですか」 「また作りますから食べに来てください」
・・・全然さりげなくない。思いきり引かれそう。それに、あまりストレートに誘ったら、坂田さんは迷惑するんじゃないだろうか。
さっきの言葉には、あたしとはこれきりだろうなって決め込んでいるような雰囲気があったし。
どうしよう。どう引き止めたらいいんだろう。
背中を見つめてじりじりしながら黙っていたら、靴に足を通した坂田さんは「なあ」とつぶやいた。
「あんたさ。こーいうこたぁこれっきりにしたほうがいいぜ」
「何を、・・・ですか」
「いや。だからよー。わかんねーかなぁ。・・・・・酔った勢いで男と、ってやつ」
ぱちん。靴の留め金を締める音が狭い玄関に響いた。
坂田さんは靴を履き終ったはずなのに立ち上がろうとしない。屈んで丸くなった背中は動こうとしなかった。
数秒黙ってから、固まっていた肩の力をふっと抜いたような、気だるそうな溜め息をついた。
「まあ、なぁ。んなこたぁ、弱ってる女の隙につけこんだ野郎が言っていいことじゃねーんだけどな。
さんさぁ、ちょっと頼りねーとこあっからさ。また同じこと繰り返すんじゃねーかって、心配になったっつーか」
「・・・わかってます。そんなこと。ただ、・・・違うんです。昨日は、あたし、」
「ん。そーだよな。ごめんな」
低めた声は笑い混じりだった。聞きわけのない子を慰めているような、少し困っているような響きがあった。
急にぱっと立ち上がってこっちへ振り向く。なんとなく眉が下がった、ちょっと情けなさそうに目を細めたその笑顔は、
やっぱりどこか困っているように見えた。
「あんな旨めーもん作れんだ。そういう女には、いくらでも寄ってくる男はいるからよ。旨めーもんバンバン作って
いい男たらしこんで、そいつに大事にしてもらえばいーんだよ。だからよー。もうやめとけよ、あーいう真似は」
んじゃ、と言われても、あたしは玄関の灰色のタイルから目線を動かさなかった。
顔を上げなかった。坂田さんの目を見れなかったから。
がちゃ。ドアノブを回す音がした。ドアが開いた。途端に侵入してくる外からの冷たい空気が息を詰まらせた。
心臓をきゅうっと縮ませた。胸が苦しくなるくらいに。
日向ぼっこにはちょうどよさそうな黄色がかった柔らかい光が、あたしの足元まで差し込んで玄関先を照らした。
ぱたん。静かに閉まって、通路を歩く重い足音が小さく、遠くなっていく。
ぴちゃっ。裸足の爪先に落ちた水の粒が弾け散った。
はい。もうしませんあんな真似。
もう懲りましたから。今の坂田さんの言葉で、充分に。
だって。違うんです。あたしがたらしこみたかったのは――あなたですから。