pm 00:04  「嘘なんです、坂田さん」

違うんです。嘘なんです。
あなたのことなんて何ひとつ知らない。そんなふりをしていただけ。
あなたがあたしに気付く前から、あたしはあなたを知ってました。 いつも見ていました。あの店の隅っこの壁際の席から。隣にいる友達に頷いたり、笑いかけたりするふりをして、 あたしは彼女の向こうにいる、あなたのふわふわした後ろ頭ばかり見ていました。 友達の話を聞くふりをして、あなたの声を聞いていました。

坂田さんの名前だって、ほんとはだいぶ前から知ってました。他にもいろいろ知ってます。
決まって座る指定席は、あの狭いお店の壁際、右から三番目。
いつも一緒に来る気の良さそうなおじさんの名前は「長谷川さん」。
水曜日にはちょっと早めに帰る。その理由は「毎朝欠かさず見ているお天気お姉さんが、水曜日だけは 夜のニュースにも出てる」から。 いつも甘そうなお酒ばかり飲んでいる。というか、スイーツ好きの女の子でもあまり頼まなさそうな、 甘ったるいお酒しか頼まない。 お店のマスターが気まぐれで出してくれるフレンチトーストに目がなくて、連れのおじさんの分まで奪って食べている。 急に声を潜めている時は、実は女の子向けとはいえない話で盛り上がっている時で、常連のおじさん達とゲラゲラ笑ってることも。 お店を一人で切り盛りして忙しいマスターに代って、店の電話番を買って出ることも。 「んだよ面倒くせーなァ」なんて文句を言いながら、酔い潰れた連れのおじさんに肩を貸して帰ることも。 お酒が入りすぎたときには目線がフラフラ揺れて顔がにやにや緩んで、首まで真っ赤になることも。
知ってるんです。あなたが何て呼ばれてるのかも。何のお仕事をしてる人なのかも。 お家には、何処からか預かってる「神楽ちゃん」という女の子が待っていることも。大きな犬が一匹待っていることも知ってます。

いつ食べられるのかわからない、マスターの機嫌次第な裏メニュー。中がふんわりで、表面が狐色で、カリカリに焼けた甘めのフレンチトースト。 あれを食べているあなたの姿を見るのが好きでした。お皿に残った苺ジャムまで舐めちゃいそうな勢いで、 すごく美味しそうに食べる。子供みたいに夢中なあの食べっぷりを、お酒が入って暖まった頭でぼんやり眺めたり。 カウンターに乗り出し気味に頬杖を突いてるあなたの後ろ姿をじいっと見つめたり。 たまに見える、くつろいで楽しそうな横顔を、ぼうっと横目に見ているのが好きでした。 連れのおじさんやマスターと話すあなたの声を聞いているのが、心地良くって好きでした。 ――それがあたしの、あのお店に通う目的でした。 それだけでどきどきしました。授業中の教室で、初恋のひとを目で追っているような気分になれたんです。
だから、昨日あなたがあたしに、何の気無しに声を掛けてきた時。あの時は心臓が止まるかと思いました。 ありったけの勇気を振り絞って笑いかけたんです。一秒でも長く、こっちを見ていてほしくて。ほんの少しでも長く話していたくて。 一晩だけでもいいから、一緒にいてほしくて。ただそれだけだったんです。






 pm 00:05  「・・・坂田さん?」

ぺた。ぺた。うつむいて歩く廊下に足音が響いた。
坂田さんの足音と同じ音。自分が歩く時にもこの音が鳴っていたなんて、今日まで知らなかった。

――うん。もういいよね。
「ずっと見てたんです」とまでは言えなかったけど。告白できずにふられちゃったようなものかもしれないけれど。
お酒の勢いのせいで、ちょっと間違った、思いもしない方向に進んじゃったから、 坂田さんには意外な心配までされちゃったし、色々と誤解もされたみたいだ。 だけど、それでもいい。ただ眺めているだけで、何も出来ずにいるよりはずっといい。
自分から精一杯、積極的に振る舞えた。一晩だけでも一緒にいられた。マスターにコツを教えてもらって 特訓したフレンチトーストを食べて貰えた。美味しいって喜んでもらえた。消極的なあたしにしては頑張った。 ううん。自分で自分に驚くくらい頑張った。泣くほど悲しがる理由なんてどこにもない。それでいいじゃない。そう思おう。


キッチン前で足を止めた。小窓しかない狭い部屋の中をぼんやり見渡す。
換気扇の回る音。コンロの上に置いたままのフライパン。出しっ放しなバターの箱。 クマの形のメープルシロップのガラス瓶。フレンチトーストの甘くて香ばしい匂いが、照明を消した 暗いキッチンからも強く漂ってくる。あのひとに食べて貰える保証なんてどこにもなかったのに、あたしはこれを一体何度作ったんだろう。 もう忘れてしまった。覚えていない。そう、でも――忘れてしまうくらい何度も練習したってことは覚えてる。

恋をするってすごい。
好きなひとがいる。ただそれだけで「どうしたのあたし、別人みたい」って思うくらいに変われるし、周りだってまるで違って見える。 あの店であのひとを見つけてからの毎日もそうだった。まるで魔法にかけられたみたいだった。 退屈気味だった毎日は変わった。話したことはないけれど、あたしにも気になるひとがいる。好きなひとがいる。 そう思うだけで、仕事に通う以外にあまり変化のなかった毎日がきらきらと輝き出して、張りが出来た。 どきどきしたり不安だったりで心臓が落ちつかないことも多かったけれど、 そんな苦しさは忘れちゃえるくらい夢中になれた。楽しすぎて時間があっというまに過ぎていくくらいに。
そうだよ。あのひとを好きになってよかった。坂田さんのおかげで、フレンチトースト作りの腕だって上がったんだし。 せっかく上達したんだもん。この特技はぜひ次に生かさなきゃ。次の恋をしたときにも、好きなひとに喜んでもらえるように。 運よく甘いものが好きなひとに会えるといいな。「美味しい」って喜んでもらえるといいな。
そう。きっと言ってもらえる。坂田さんだって保証してくれたんだから。 さっき言ってくれたみたいに。子供みたいに手放しで「旨めー」って言ってくれる誰かが、いつか見つかる。

――ああ。でも。本当にそんな人が見つかるのかな。
あのひとよりも好きになれるひとが、本当に何処かにいるのかな。

明日のことなんてわからないけれど、少なくとも今のあたしは、そんなひとを見つけられる気が全然しない。 だって、昨日と今日だけで、あのひとのことをもっと好きになっちゃったから。 ただ眺めているだけで話も出来なかった昨日までよりも、ずっと好きで。ずっと一緒にいたくなってしまったから。



「・・・いただきます」

お皿に載っていたフォークを手に取る。メープルシロップの蜜色がバターに蕩けているお皿の前で手を合わせた。
さあ、時間がない。急がないと。坂田さんがコンビニから戻ってくる前にこれを食べて、キッチンに行って、お皿を洗おう。 それからボウルに卵を割って、お砂糖をたっぷり入れて、隠し味の生クリームに、はちみつも。
ああ。だけどその前に、――最初に顔を洗わなくちゃ。目も冷やしておこう。
あのひとが戻ってくる前に全部終わらせよう。坂田さんが戻ってきたときに、何もなかったような顔が出来るように。

すっかり冷めたフレンチトーストには、涙がたっぷり染み込んでいる。流れた涙を拭うこともしなかったから、ほっぺたも首もしっとり冷たい。 一番大きい一切れを、フォークでさくっと刺す。口に運んでゆっくり、ぎゅうっと噛み締めると、かなり甘めなはずのそれは ほんのりしょっぱくなっていた。無理矢理口に押し込んで、次の一切れを――


ピンポーン。

玄関から届いたのはチャイムの音だ。驚いて時計を見る。点けていることすら忘れていたテレビ画面の時計は、 坂田さんが出ていってからまだ五分も経っていない。
うそ。どうしてこんなに早いの。コンビニまで行ったはずなのに。
焦りながら鏡の前に行って涙を拭いて、目の赤みを気にしながら廊下を進む。ピンポーン。急かすようにもう一度チャイムが鳴った。
ドアの向こうには、たしかに誰かの気配がある。坂田さんだろうか。違うひとかも。だけど、他に誰かが尋ねてくる予定はない。

「・・・坂田さん?」

小声で呼びかけながらチェーンキーを外して、回したくないドアノブをのろのろと回す。泣いたばかりだからまだ目が熱い。 声も涙声でくぐもっている。
・・・もっと遠くのコンビニを教えるんだった。






 pm 00:06  「今、何て言いました?坂田さん」

「他の部屋に洗濯物は干していないようだし、たぶん君のものだと思うんだ。かなり風が強かったからねえ、昨日から。 あれのおかげで僕の部屋のベランダまでで飛んできたようなんだけど――」

『いいことと悪いことは、おおむね同時にやってくるものだ。』
そんな言葉があったような気がする。何かで読んだ気がする。たしかそれは、誰か偉いひとの格言、・・・だっだような気がする。 舐め回すような露骨な目であたしを眺めながら、腕を組んで立っている男の人――同じアパートに住んでいる この人を見ていたら、そんな言葉を思い出した。 ・・・つまりあたしは、そんなどうでもいいことを頭の奥から引っ張り出してしまうくらい上の空だったんだろう。 少なくとも、目の前のこの状況をすっかり持て余していたのは事実かも。

真下の部屋に住んでいるこの人の名前をあたしは知らない。入口前の集合ポストには名前が出ていなかったし、知る必要もなかった。 それでも顔だけはかろうじて知っている。これまでに何度か顔を合わせてるからだ。顔を合わせるといつもこんな目をしてあたしを見る。 皮肉っぽい薄笑いを向けてくるのがなんだか気味が悪いというか、寒々しい印象だ。 「要注意」なひとなのかも。そう思っていたけれど、その嫌な読みは当たりだったみたいだ。

「たしか水色だったかな。ああ、白で刺繍が入ってたねえ。 たぶんそうだと思うんだけど。いや、若い女の子の下着をじろじろ見るのも悪いと思ってさあ」
「・・・。私のかもしれません。昨日干しましたから」
「そう。じゃあさっそく取りに来てほしいんだけど。僕の部屋のベランダまで」
「え。お部屋まで、ですか?・・・・いえ、それは」
「ええっ。勘弁してよ。触れないよ女の子の下着なんて。ほら僕も独身だし、こういうことには世間の目も厳しいからさあ」

判ってないのかな。それとも判ってないふりをしてるのかな。どっちなんだろう。
そんな理由で女の子に「部屋に来てよ」と誘ったりしたら、世間の目は一層厳しくなるはずだけど。
・・・でも、たしかにこの人が言うとおりで、うちのベランダには今も洗濯物が干してある。その中にはこのひとが言った、 水色に白の刺繍入りも混ざっていた。友達のお式に出掛ける前に取り込むのを忘れたから、昨日から干しっ放しのまま。 けれどそれが、本当にこのひとの部屋に落ちたのかどうか。怪しい。なんだか嘘っぽい。

「わかりました。お部屋の前まではご一緒します。でも、お部屋に入るのはちょっと。 外で待ってますから、持ってきていただけませんか」
「それは困るなぁ。いいじゃない、君が部屋に入って持っていってよ。それならすぐに済むんだし」
「いえ、でも」
あたしだって困ります。
そう断っても効き目は無さそう。空気を読む気なんて更々無さそうな態度だ。 ずっとこっちに向けられている薄ら笑いが、ますます信用ならなく思えてくる。 困惑して一歩下がったら、そのひとは少し前のめり気味にあたしの顔を覗き込む。 細めた目には、馬鹿にしたような嘲り笑いが浮かんでいた。 腰に当てていた片手が、ぬうっとこっちへ伸びてきて――

「あれ、君、もしかして警戒してる?参ったなあ。そういうのってさあ、自意識過剰っていうんだよ」
「!」

声が出なかった。驚きすぎて身体も動かない。何考えてるのこの人。 急に人の腕を引っ掴んで、無理矢理引っ張って行こうとしてる。
――信じられない。何が世間の目?
ぞわあぁーっ、っと、腕が一気に肌を粟立たせて拒否した。 びっくりして固まっていると、キモい下の住人が目を光らせて、にいーっと口端を伸ばして笑う。怖い・・・!!

「しかし運が良かったね、落ちたのが僕の部屋で。 実はさ、前々から心配だったんだよね君のこと。女性の一人暮らしなのに結構無用心なようだから」
「ちょっ、・・・!わ、わかりましたから放して、手っ、放してくださいっ!大声出しますよ!?」
「大声って・・・心外だなあ。わざわざ教えに来てやったのに、その態度はないんじゃないの」
「私のほうが心外ですっ!やだっ、やめてって言ってるじゃないですか、ちょっと!!」

階段へ連れていこうとするその人との引っ張り合いになった。 全身を縮み上がらせて、やめてください、と嫌がりながら必死に腕を振り解こうとした。 だけどさすがに男の人の腕力には敵うはずもなくて、ずっ、ずっ、と少しずつ通路を引きずられる。この非常識な 人の身体越しに見える階段が、少しずつ近くなってくる。

「は、放して!やめて、ってば、ひっ、・・・ひとを、呼び、・・・っっ」

抵抗しながら口走ったけれど、誰も呼ぶあてはない。このアパートに知り合いは少ないし、 呼べばすぐに来てくれるほど親しいひとなんて皆無だ。
自分でどうにかするしかないんだ。身を守らなくちゃ。自分で。あたし一人で。
そう思ったらいっそう絶望的な気分になって身体が竦む。さっき玄関前で見た背中が――坂田さんの屈めた広い背中が目の前をよぎった。
叫ぼうとして思いきり息を吸い込んだけれど、喉が震えて声が思ったように出ない。 きゅっと唇を噛み締めたら、手や脚まで小刻みに震えてきた。 瞼が熱くなって、涙腺が自分の意思とは無関係にじわあっと緩んでくるのがわかる。 昨日の夜から緊張しっ放しだった頭の中は疲れきっていて、たぶんこのひとのせいでその疲れが限界に達しちゃったんだろう。 おかげでどこかの箍が外れかかってるのかもしれない。
ああ、いやだ。もうやだ。いっそここで泣きじゃくりたい。失恋したあげくにこんなひとに絡まれて、 ――踏んだり蹴ったりな情けなさだ――



ちゃん!」

名前を呼ばれてはっとして、声がした方へ涙目を向けた。この通路よりも下。階段のほうだ。 そこから誰かが駆け上がってくる音がする。数秒で通路へ現れたひとはコンビニの袋を持っていた。 まっすぐにこっちへ向かってくる。ドカドカと、通路を大股に進んでくる荒い足音が、 ちょっと古めなこの建物全体を揺らしていた。

「どーした、何で揉めてんの。え、つーかあんた誰。この子に何の用」

嫌がってんだろ。放せよ。
突然現れた坂田さんの勢いと、呼びかけてくる声の強い語気に気圧されたのか、あたしを掴んでいた手はびくっとして離れた。 放された腕を見下ろして呆然としていると、今度はその手首を違う手に握られた。 さっきとは違う手。指の長い大きな手に引っ張られる。怪しい下の住人から引き離して、 部屋のドアの前まで連れていってくれた。

「・・・さかた、さ・・・っ」
「何、どーした。ゆっくりでいーから、言ってみな」

ぽん、と促すように肩に手を置かれた。普段とあまり変わりのない、平然とした表情で見下ろされた。ところがすぐには説明できなかった。 喋ろうにも唇は震えるし、声もなかなか出てくれない。気づいたら脚まで震えていた。改めて湧いてきた怖さで何かに縋りたくなって、 きゅうっ、と白い袖の端を掴む。

「・・・し。下の部屋の、人っ」
「下ぁ?・・・下って、ここの?」
「そう。ベ、ベランダ、に、うちの、洗濯物が落ちてるから、・・・部屋まで取りに来い、って」

それを聞いた坂田さんは微かに眉を顰めた。 ああ、とそれだけでピンときたようなつぶやきを漏らして、真下の人に振り向く。肩に置かれた手に力が籠もって、 背中を抱かれて引き寄せられた。長い指が、大丈夫、と言い聞かせようとしているような力強さで肩を覆った。 あたしたちの様子を伺って目線を泳がせている人に、坂田さんが声を掛けた。

「なあ。あんたのせいでこの子、この通り怯えちまってっからよ。いーよな?俺が代りでも」
「・・・・・・・、っ」

あのお店でもあたしの部屋でも聞いたことがない、誰か別のひとのような声。 口調はいつもと変わらないのに、ちょっとびっくりするくらいに凄みのある声だ。驚いて坂田さんを見上げた。眠たげでだるそうな表情に変わりはなかった。
真下の人が引きつり気味に顔を強張らせる。うつむいて頷くと、踵を返して階段へと向かった。 あたしは坂田さんにコンビニの袋を持たされ、「部屋、入ってな」とドアのほうへ押された。
通路から階段へ。一階に降りた二つの足音が、足早に通路を進む音がする。 真下の部屋のドアの向こうにその音が消えてしまうまで、ドアに背中を預けて呆然としていた。
通路から音が消えてしばらく経ってから、やっと思い出した。さっきの坂田さんの一言を。


( ちゃん! )


「・・・・・・・・・・。え?」
思い出した。あたし、今、他にもっと驚くべきことがあった。





 am 12:18  「だからどうしてそうなるんですか坂田さん」

坂田さんが戻ってきた。ひどくぎこちない顔で、いたたまれなくて堪らなさそうな雰囲気を全身から発しながら。 あの思い出すのも気持ちが悪い人と何か話していたのか、下へ降りてからもう数分経っている。それは別にいいんだけれど、 「すみません、ありがとうございました」と頭を下げても、玄関の床を見つめたままで目を合わせてくれない。しかもひたすらに無言。 何を訊いても無言だった。無言のまま、背後に隠していたものを、グーの握り拳ごとあたしに突き出す。 そこにしっかりと掴まれているのはあの人が言った通りの水色のブラ。昨日ベランダに干しておいた、あたしのものだ。
あのひとの言い分もすべてが嘘じゃなかったみたいだ。もっとも、ベランダに偶然落ちてたとかいう話は、 どこまでが本当なのか知れたものじゃないけれど。そして、これがあの人にどう扱われていたのかについては、想像したくもないけれど。

「・・・下着なら下着って、前もって言ってくれる。なんかもうたまんねーカンジだったんだけど。 ヤローの汚ねーオタ部屋で男二人でコレ挟んでさあああぁ。俺も高圧的に出てた手前、すっっげーやりづれー空気になっちまったんだけど!?」
「そ。そうですよね、・・・ごめんなさい。でも、説明する前に坂田さんが下に行っちゃったから」
「や、・・・まあ、そうだけどっ。とにかくあれだわ目に悪いからねこれ、早くしまってくんね、これ」

受け取ったブラを持ってあたしはキッチンへ向かった。生ゴミ用のゴミ箱まで直行してフタを開けて、その中へぽいっと放る。 それを見ていた坂田さんが、げっ、と呻いた。

「え、ちょ、マジで。捨てんの、捨てちゃうのそれ」
「はい。だって気持ち悪いじゃないですか。よく知らない男の人に触られた下着なんて、もう着ける気がしませんから」
「・・・・・・・・そーなの?捨てちゃうの?・・・・・・・ははっ。なに、そこまで嫌なんだ。・・・知らねー野郎に触られんのって」
「はい。だから捨てます。洗ってもいい気がしないっていうか、気持ち悪いですから」
「そ。そそそ、・・・そうなんだ、ゴミ箱直行なんだ。・・・お。・・・俺が。触ったから」
「・・・、は?」
「いやあのさ。ちゃんてさあ。意外にヒドくね? 優しそーな、おとなしそうな?女の子らしい顔してんのにさあ、ちょっとそれは、・・・ヒドくね? いやいや男ってーのはね、その、君が思ってるよりもずっと繊細な打たれ弱い生き物だからね? 目の前でやられっとマジヘコむんですけど。ショックなんですけど」
「え、あの、ショックって・・・坂田さん?」
「・・・んだよもォォ。そこまでされるほどキモがられてんだ、俺っっ」

あからさまにうろたえ出して流しの縁をわしっと掴み、がっくりうなだれた坂田さんの顔色がめっきり悪い。 思わず目を見張ってしまった。
いえ。違います、違いますけど。気持ち悪いのはあなたじゃなくて。

「いえ、そうじゃなくて。坂田さん?」
「んだよォォォ。ちょっと触ったくれーで捨てちゃうくれーキモかったのォォォ!?そこまで嫌がられてたの俺っっっ」
「・・・違います。あたしが気持ち悪いのは坂田さんじゃなくてあのひとで――、って聞いてますか坂田さん。坂田さん?」

白っぽい癖っ毛の頭を抱えて、涙目で嘆く坂田さん。あたしはその横顔をじいっと見上げて、軽い溜め息をついた。 そこからがまた大変だった。 想像力が変な方向に逞しい坂田さんの捩じれた誤解を解いてあげるまで、それはまた大層な、結構な時間と労力がかかった。 なのに、面倒くさいとか疲れたとかの不服を一切感じていないあたしがそこにはいた。逆に、なんだかこのひとの面倒くささが ちょっと可愛い、・・・なんて思って嬉しくなって、楽しんでいる節すらあるのだ。それが自分でも可笑しかった。

違うんです、と何度も根気よく繰り返し続けて十分。二十分。
それでも坂田さんはなかなか信じようとしなかった。この調子で落ち込む坂田さんを宥め続けていたら、日が暮れてしまいそうだ。 これはこうするより仕方ないよね。あたしは最後の手段に出ることにした。 何も言わずに背中まで腕を回す。 腕を回した身体の硬さがわかるくらいにぴったりと抱きついたら、坂田さんは息を呑んで固まってしまった。

「なぁ。・・・これさァ」
「・・・・・。はい?」
「いーの?・・・俺から、ぎゅーとかしても」
「・・・そんなこと。言わせないでください」

触れていいのかどうかにまだためらいを覚えているかのように、がっしりした腕がぎこちない動きで背中に回ってくる。 抱きついたままでじっとしていると、ようやく誤解を解いてくれた。 囲った腕が、しっかりとあたしを閉じ込めた。





 am 12:57  「嘘なんです、さん」

「・・・・・さっきも散々呼んじまったしさ。もうバレてんだろーから、白状すっけど」

と、小声で切り出した言い辛そうな前置きから始まった坂田さんの話は、思ったよりも長かった。 そしてその長い話の内容は、――思わず聞き入ってしまうほど意外だった。

「なんか。アレだわ。朝にほら、自己紹介とかかこつけて、あんたにも名乗らせたけどさ。 ・・・前から知ってたし。名前とか年とか」

仕事は何してるとか。
会社が丸の内にあるとか、そこの社長がどーとか。
酒はビールが一番好きだとか、あんまり強い酒は苦手だとか。
飯は和食が好きだとか。食べ歩きが好きで、料理すんのも好きらしいとか。 あそこのマスターの料理はいつも残さず食べてんなーとか。 帰りには必ず「ごちそうさまでした」っつって、ちょっと頭下げて目細めてにっこりすんだよなーとか。 一緒に来る友達とは長い付き合いで、何でも報告し合うくらいに仲がよくて、 結婚が決まったその友達の彼氏を交えて遊んだりしてるとか。
結構近所に住んでるらしいとか。仕事でちょっと失敗して落ち込んだとか。昨日は休みで何してたとか。・・・・・・・下の住人が気味悪いとか。
思いきり顔を逸らして歯切れ悪く話していた坂田さんは、途中で口を止めた。目を丸くして言葉もないあたしに気付いたからだ。 真正面から向き合ってベッド前に座るあたしたちの距離は、今朝のそれよりもうんと近くなっていた。 坂田さんは表情だけは空々しいくらい平然と居直っているけれど、さっきから脚を組みかえたり床に伸ばしてみたり、 頬をポリポリ掻いたりベッドの毛布を弄ったり。 距離が近いだけにばつが悪いのか、仕草にはさっぱり落ち着きがない。寄りかかったベッドに頬杖を着いていた腕が、後ろ頭をがしがし掻いた。

「ってよー、アレだよ?盗み聞きとかじゃねーよ。ストーカーでもねーからな? あの子だよ?酒入ると声が尋常じゃねーデカさだからね、あんたの友達」
「・・・・・・。それは、そうかもしれないですけど。聞いてないふりして全部聞いてたんですか・・・」
「いや、いやいやいやいや!違げーって、店は狭めーし席は隣だし、全部耳に飛び込んでくんだって、全部」

聞く気ねーのに聞こえんだって。
ふてくされたようにそう言って、また頬杖をついて顔を逸らした。 消えている真っ黒なテレビ画面のほうへそっぽを向いた顔の、口先がちょっと尖ってるのが子供っぽい。

「そーゆーの聞いてっと、勝手に親しみ覚えるもんじゃん?口聞いたことなくても、あの店でしか接点なくてもよー。 ・・・まあでも。その。」

閉じかかっていた目が少し開いて、何か言いたげにあたしを眺める。何ですか、と無言で見つめ返したら、 坂田さんの表情が気不味そうに変わっていく。ぱたり、とベッドを覆った毛布にうつ伏せてしまった。

「あんた可愛いし。いい子そーだし。俺なんか相手にしてくんねーだろーけど、 昨日は珍しく一人だったからよ。ダメモトでちょっかいかけてみっか、とか」

・・・・・・・・・。可愛いだって。いい子そうだって。・・・ほんとかなぁ。
聞いているうちにじわじわと顔が赤くなった。何も言えなくなった。だけど素直に喜べないこともあった。

「・・・・・・相手にって。そんなこと、ないのに」
「あるって。あんだよそんなことが。けどよー。一晩で仲良くなれるほど上手くはいかねーまでも、 ボロ負けの玉砕はねーんじゃねーかって、・・・勝算?みてーなもんはあったからね」

勝算?
つぶやいて訊き返すと、ん、と短い返事が。ベッドに伏せてる頭がこくんと頷いて、錆色がかった白い癖っ毛の先がゆらっと動いた。

「前から気になってたんだよ。ちゃんがさ。なーんか、・・・よくこっち見てる気がしてたからよー。 最初はどーせ俺が自惚れてんだと思ってたけどよー。 なんか感じるっつーか、そーゆーのって気になんじゃん。どんだけ酒入っててもさあぁあああ」

矢継ぎ早にまくしたてるくぐもった声は、完全に自棄になっている。 坂田さんには悪いけれど、あたしは本音を晒した坂田さんの動揺ぶりのおかげで却って楽しい気分になった。 可笑しくってつい顔が笑ってしまいそうになる。
そうなんだ。そんなに、ですか。そんなに本音を知られたくなかったんですね、あたしに。

「だからですか。昨日あたしが一人で来たから、試したんですか。・・・頑張っていいひと探しなさい、みたいな、いかにもな話までして」
「や、だからそれはあァァ」

仕方ねーじゃんっ。がばっと起き上がってあたしを睨む顔は眉が八の字に下がっていて、迫力に欠ける情けなさだ。 ああもぉ、と唸って前髪に手を突っ込んでボリボリ掻いて、弱った声を上げた。

「俺みてーなダメなおっさんにはァ、女の子の考えるこたぁよくわかんねーもんなの。そーゆーの見抜く自信がねんだよ。 それにこーいうこたぁほらあれだよ、駆け引きっつーか、するもんじゃん?カマかけてみねーとわかんねーからぁっ」

そうですか。それでまんまとカマをかけられたんですね、あたしは。
そうですか。そういうことなんですね。 あたしの本心を知りたい坂田さんの嘘にころっと騙されて、あたしは一人でめそめそ泣いちゃったんですね。

「それで試したんですか。あたしを」
「いや、いやいやいや違うって。試してねーって。なにその悲しそーな小鹿みてーな目。やめてくれるそれ。 俺っ、なんかすっげー悪りーことしたみてーじゃん!?いやこれはあれだわフツーにやるだろ気になる子がいたら!男が使う常套手段つーか」
「そうなんだ。常套手段なんだ。やっぱりカマかけるための嘘だったんですね。・・・・・ひどいです。嘘つき」
「や、嘘つきって。そっちがひどくねそれ。なんかさりげにグサッときたわそれ。違げーだろ、これはぁ」

試したんですよね。嘘ついたんですよね。
だって「カマかけてみねーとわかんねー」なんですから。

「ひどいです」
「・・・・・・・・・・・・。 はい。すんませんでした」

最終的には何か色々と諦めたらしい坂田さんが正座になって頭を下げて謝って、その話はそこで終わりになった。 笑顔を取り戻したあたしが納得していると感じたのか、テレビを点けて和らいできた部屋の雰囲気にほっとしたのか、途端に 脚を崩してベッドに頬杖をついた。ベッドの側面にだらっと身体を預けたそのポーズは、気の所為かなんとなくぐったりして見える。 ぎこちなく強張った顔は口だけが引きつり笑いを起こしている。目は天井のあたりを意味なく見つめていた。

「・・・ところでよー」
「はい?」
「さっき言ったあれ。店で視線感じてたってあれ。あれも俺の思い違いじゃなかったってことで、やっぱ、・・・いーんだ?」
「・・・・・・・・」

もう終わりじゃなかったんですか、この話。
言葉に詰まってじいっと見つめ返した。 蒸し返しますかそこを。それともこれってささやかな仕返し、なのかな。坂田さんの顔、にやついてるし。可笑しそうに見えるし。 どちらにしてもあまり訊かれたくない、痛いところを突かれてしまった。

「な。どっち」

まっすぐこっちを見つめて問い質してきた。すっと上がった手が、あたしの頬に添えられた。
「俺にも吐かせたんだからよォ。この際全部白状しとこーや、ちゃーん」
大きな手で頬をやんわりと撫でながら訊かれた。すごく大事そうな手つきで、優しく撫でてくれるのは嬉しい。 だけど困った。こんなふうにされると頭の芯がぼうっと熱くなるから困る。 くすぐったさに首を竦めると、坂田さんは頬杖もやめてこっちへ乗り出してきた。距離が詰まってお互いの膝がぴったりくっついた。 腰にもう片方の手が回ってきて、ちょっとだけ引き寄せられた。
何となく眠そうな、だるそうな表情は変わらないけれど、目が微かに笑ってる。自信ありげな、完全に確信を得ている目だ。

「それは、ええと。・・・すごく言い辛いんですけど、・・・・・・・・・・・。」
「え。・・・・・なにその沈黙。違ったの。マジで。てことはとんでもねー勘違い野郎だったの俺」
「・・・・・・・・・・」

わざと口籠って重たい空気を演出して、それから気まずそうな上目遣いで見上げてみた。 目の前にある顔が、えっ、と言った瞬間のような驚きの表情で固まった。

「え。そーなの。・・・んだよ、勝算ゼロだったの俺。完全なる勘違い野郎だったの俺。・・・え、マジで」

うろたえながらつぶやいた語尾は少しずつ小さくなって、へなへなと萎れていく。
・・・可笑しい。 坂田さんの口端が笑ったまんまで引きつってる。あたしの頬を撫でた手がへなへなと下がっていった。 そのうち身体まで脱力してへなへなと萎れていっちゃいそうだ。

「ごめんなさい。やっぱり言えません。」

吹き出しそうになるのを精一杯我慢しながら、申し訳なさそうで沈んだ表情と声音を作って訴えた。 察してください。そこは乙女心の裏事情というやつです。面と向かって告白するのは恥ずかしいですから。

「そこまで女の子に言わせないでください。・・・坂田、銀時さん」
「・・・・・・・・・。へ?」

何で知ってんの下の名前まで。まだ言ってないよね、俺。
目を見張った顔にはそう書いてある。さすがにこらえきれなくなって、ぷっと吹き出して笑ってしまった。


結局その日、坂田さんが家に帰ったのは夕方になった。

――どうして名前を知ってるかって?
さあ。どうなんでしょう。
でも、名前どころじゃなく知っているのは、坂田さんだけじゃないかもしれませんね――
そうはぐらかして笑うあたしの「乙女心にちなんだ裏事情」。
それらをすっかり白状させるまで、それはもう結構な時間とキスと労力を費やしてくれた。




L i a r × L i a r !

text by riliri Caramelization  2010/10/02/
for room No.101010 ×××