不意を突かれて驚くと、声が出なくなる。 横っ面をいきなりぶん殴られたような衝撃でそれを実感したのは、 ステージクリアでセーブしたゲームをベッドの枕元に放り出して、なんとなく窓の外を見下ろした時だ。 半分開けた部屋の窓から、自分と同じ学校の制服を着た奴等が見えた。 二人が立っているのは、このマンションをぐるりと囲む塀の向こう。 蔦模様で編まれた鉄製の黒い塀。その隙間から見えたのはだった。 隣に住んでいる同い年の幼馴染み。通う学校は小学生の頃からずっと同じで、今年も同じクラス。 もう一人も同じクラスの男で、一か月前から幼馴染みと付き合っている。夏休みが終わった今月には、 その事実はクラスの中でも公認になった。昼休みには毎日のように同じ机で弁当を食べているし、 放課後には並んで正門を出ていく姿を見たこともある。今日のHR後も、二人で話しながら教室を出て行くのを見たばかりだ。 「―――・・・・・・・・」 「―――・・・・・・、・・・・・・・・・・・・・・・」 二人は何かを言い合っていた。 聞き慣れたの声の響きがうわずっている。三階にあるこの部屋に居ても耳につくくらいに。 白いセーラー服の背中を抱き寄せた腕は、真っ黒に日焼けしている。同い年の自分の腕よりも太くて大人びていて、 シャツの背中も夏休み前より大きく見えた。もう片腕も幼馴染みの肩を抱いていて、手は後ろ頭を抑えつけている。 の横顔がびっくりしているのは、遠目からでもはっきりわかった。 近付いてくるあいつを拒もうと、胸元を押し返そうとしている手。 硬く竦んだ細い肩。瞬きも忘れて見開かれた目。左右に泳いだその瞳が斜め上に俺を見つけて、何か信じられないものを 見つけてしまった人間のそれになった。凍りついた横顔がしだいに、今にも泣き出しそうな歪んだ表情に変わっていく。 移ろっていく表情をカーテンの影から見つめている間に、奴の顔がの顔を隠して、ぴったりと重なった。 ごとっ。 何かが鈍く鳴った。たぶん何かが床に落ちた音だ。だけど、何か落ちてもどうでもよかった。 いちいち見る気もしない。なのに顔を逸らして、床に転がった黒いゲーム機に目を落とした。 もう一度窓の外に目を戻す。あいつとの姿はまだ重なっていた。 いつのまにか掴んでいたカーテンの端を、窓に思いきり叩きつけた。ざあっ、とカーテンが躍りながらレールを流れる。 起こしていた身体を放り投げるように倒して、丸めた背中を窓に向けた。ベッドのスプリングがぎしぎしと揺れて 身体を上下させていた。 夕焼け色の陽射しを遮られて薄暗くなった部屋の中に、カーテンの裾を弱く煽って、生温い風が入ってくる。 鼻先をくすぐる匂いが流れ込んでくる。カレーの匂い。の家からだ。 目を閉じる。すぐに目を開けて、横に投げてあったマンガを拾い上げる。 グラビアページをパラパラと飛ばして、毎週読んでいる連載のページを開いて、1ページしか読まずに顔に伏せた。 暗くなった視界の隙間から、床に転がったゲーム機をちらっと見る。 やめた。どうせ今やったって手につかない。このまま眠ってしまいたいけれど不貞寝もできそうにない。 泣きそうなの顔と、あいつの真っ黒な腕。 目を閉じていても、目を開けていても同じだ。重なったあいつらの身体が目の前にちらついて、癪に障ってしょうがない。 キスシーンを珍しがっていたのは、小学生の頃までだ。 肩を抱いて近寄っていく男と、目を閉じて男の顔を仰ぎ、無言で受け入れる女。 学校から帰った時間にやっているドラマや映画に出てくるのは、たいていがそんな感じのシーンだった。 なぜかどれも似たり寄ったりな薄暗い場所で抱き合っていて、どいつの後ろにも似たような、 聞いていると眠たくなる退屈な音楽が流れている。とりわけ不思議に思ったのは、女の表情だ。 どうしてだろう。みんな同じような、どこか苦しげな表情をしている。あれをされる女はそんなに苦しいんだろうか。 ぽかんと口を開けてテレビの画面を見つめていると、一緒にテレビを見ていた母親は、必ずといっていいほど そそくさと立ち上がってキッチンに消えてしまう。それで気づいた。そうか。これは大人の、子供には見られたくない秘密なんだ。 そう気づいてしまうと、今度は速足にリビングを出て行く母親の背中が滑稽に見えてくる。 へえ。面白れー。 俺がどんなに強烈な悪戯をしても眉ひとつ動かさない、澄ました母親の顔色が、テレビの中でいちゃついてる あいつらの行動ひとつであんなに揺らぐ。以来、そういうシーンになるたびにわざとボリュームを上げる悪戯を繰り返した。 そして――そんな悪戯にも飽き始めたころに、もうひとつの面白いことに気付いた。 自分の隣にいる幼馴染みだ。ソファの上で膝を抱えて、出されたおやつをちょっとずつ口に運びながらテレビを見ている。 びっくりした顔で頬を染めていたり、おでこが膝につくほどうつむいて、 抱えた脚の爪先を弄ってもじもじしていたり。あれを目にした時に初めて思った。 ああ。そういえば、こいつもテレビの中で目を閉じているあれと同じなんだ。こいつも女なんだ。 そう意識した瞬間から、いつも見ていたの顔が、初めて見る顔に見えた。桃色の小さな唇を初めて「可愛い」と思った。 動くとふわっと靡く髪や、ショートパンツから飛び出しているか細い脚や、真っ白な膝小僧がやけに気になるようになった。 どうしてだろう。と同じような服を着て、同じような身体つきをしたクラスの女子たちのことは、何も気にならないのに。 どうしてだけなんだろう。どうしてにだけ目がいって、笑顔や泣き顔を見るたびに心臓の奥がぼうっと熱を持つんだろう。 どうしたら治るのかわからない、その不確かな症状が妙だと思った。を見る目が一変してしまったのはそれからだ。 ――だけど、俺が小3で気づいたことにがやっと気づいたのは、それから十年も後になった。 つい一か月前の夏祭りの夜。それまではずっと、あいつが自分から気づくのを待っていた。 早く気づけ、とイラつく日もあった。逆に、このまま気づかれなくてもいいような気がする日も気もあった。 ただその程度の、曖昧で不確かで、その時の気分で右往左往させられる感情。陽炎みたいにゆらゆらと形を変える感情。 生まれた時から一緒にいた幼馴染みへの、性別なんて飛び越えた愛着なのかもしれない。・・・いや。ただの執着かもしれねーや。 そう結論づけて、表に出さないようにした。それを放り出してやめたのは、の目がこっちを向くのを待っていられなくなったからだ。 だから無理に手を引いて、小さい頃に二人で遊んでいた神社に連れて行った。 あれからだ。あれからの俺を見る目も変わった。真っ暗な境内で俺を見つめた、あの時の怯えた目のままだ。 こん。 こん、こん。 ドアが三回ノックされた。 一拍目と二拍目に少し間を空けてドアを叩く。ちょっと変わった癖だ。変拍子で刻まれた合図の後で、 ドアの外の気配は一旦、ぴたりと静まった。それから、がちゃ、と短くノブが回る。 聞き慣れたノックに返事はしなかった。も何も言わずに部屋に入ってきて、背中を押しつけてドアを閉めた。 カバンは持っていなかったけれど、制服のままだ。頬に流れる髪で影が落ちるくらいにうつむいた顔は、目元が赤く潤んでいる。 「見てた?」 「見えちまったんでィ。見たくもねーのに」 「・・・・・・・・・・どう思った?」 「何が」 空々しく訊き返した。は黙って俺を睨んだけれど、すぐに目を伏せた。 向こうから目を逸らしたのをいいことに、身体を起こしてじっとを観察する。 赤くなっているのは目だけじゃなかった。髪に隠れた頬も火照っている。俺の視線を感じているせいか、 ドアに押しつけた背中が居辛そうに捩じれる。紺のニーソックスの爪先を擦り合わせながら、ふてくされた声で言った。 「ママが。今日の夕飯カレーだから、食べにおいでって。ミツバちゃんのぶんもあるからって言ってた」 「何カレー」 「ビーフカレー」 「やった。行く」 「総悟が好きだから牛肉にしたんだよ。うちのママ、総悟には甘いんだもん。あたしは豚カレーが、い、・・・」 声がふつりと途切れて、代りに、かちゃっ、とドアノブが鳴った。 背中で腕を組んだの肩が強張っている。俺が急にベッドから跳ね起きて、伸びをしたからだ。 脅えられた理由は判ってる。気づかないふりで、何でェ、とちろりと見上げて問い詰めると、口調がしどろもどろに速くなった。 「ねっ、ねえ、先週の古文の課題、もう出来た?ほら、あたしさ、 訳すの苦手だから一日十行しか進まなくって、まだ半分も出来てないんだ。・・・ど。どーしよーかなあ」 「バーカ。あんなもん真面目にやってどーすんでェ。どーせ採点は銀八だし、真面目にやったって意味ねーや。 他の奴のノートから適当に写せばいーんでェ。ああ、志村姉と土方さんはもう出来てるらしーぜ」 「そ、そっか。じゃあ明日、妙ちゃんに聞いてみようかな。どーやって訳したのか教えてもら、・・・」 ベッドを降りてドアまで歩いた。 前に立ち塞がった俺の足をたじろいだ目で見つめて、の声はぴたりと止まった。 「」 浅く漏れる息を注意深く抑え込みながら、声をひそめて呼んでみた。俺の足を見つめたまま、の表情が歪んでいく。 強く押しつけた背中や髪がドアに擦れて、ざわ、と落ちつかない響きで耳を掠める。 可笑しくもないのに、俺は首を傾げてふっと笑ってみせた。頬に流れて顔を隠しているの髪に、指先で触れる。 ちょん、と何度か髪をつついてからかっても、はうなだれて口も聞かない。 「。どう思った?」 柔らかい流れに手を入れて掻き上げて、赤みの引かない顔を下から覗き込む。 伸ばした手の先を潜らせて、ほんのり熱い髪の奥まで差し伸べる。赤くなった頬とふっくらして冷たい耳が手の中に収まった。 耳たぶを親指で撫でてみる。それでもは意地を張って、何かこらえているような表情で黙ったままだ。 伏せた目が今にも泣きそうだ。そういう顔も、相手があいつなら効くだろう。ごめん、と飛び上がってを離すだろうけど、 そんな顔を見せられたら俺は嬉しくなるだけだ。クスクス笑いながら、少しだけ指先に力を籠める。 柔らかい耳たぶに爪を立てて抓った。肩をぎゅっと竦めて身体を捩って、いや、と拒んだは俺の腕を掴んだ。 「・・・・・・総、・・・悟。・・・・・・・ゃ。いた、ぃ」 「どう思った?」 「・・・・・・・・やだ。ぃた、・・・い、」 「どう思った?俺に見られて」 感じた? 口の中でつぶやきながら顔を寄せる。 仰け反って避けようとするの頭を後ろから抑え込んだ。ドン、との肘がぶつかってドアが揺れる。 ドアと背中の間に腕を差し入れて腰を抱いた。スカートのプリーツをぐしゃっと掴んで、足元を掬うように引き寄せる。 さっき、あいつがしていたのと同じように。 目元を涙で滲ませたは、もう俺から視線を逸らさなかった。悔しそうに、噛みしめるような声で言った。 「・・・・なんで。見てたんでしょ。なのにどうして、すぐに、こういうこと。出来るの」 聞かれたことには答えなかった。だって俺に答えなかったんだから、どっちもどっちだ。 返事の代りに顔を近づけて、前髪が乱れてひらいているおでこに唇で触れた。 目を閉じようとしないを無視して、何度もそこに唇を落とした。きつく睨んでくる目の上にも。 濡れたままの熱い目元にも。流れた涙のせいでしょっぱくなった頬にも。最後に、きつく閉じられた桃色の唇の重ね目にも。 今までよりもそっと、ゆっくり触れると、の肩から強張りが急に、すとん、と抜け落ちた。 竦んだように震えた喉から、くぐもった声が漏れた。 「・・・・もう、無理」 細い腕が俺の肩に乗った。後ろに回った手がシャツの襟首を掴んで、が首筋に抱きついてきた。 強く押しつけられたのは、俺たちがまだ自分が何なのかも判らないくらいガキだった頃から変わらない、何度も見てきた顔。 が泣きたいのを我慢出来なくなったときの、ぐちゃぐちゃな涙顔だ。 こっちに構わず押してきた体重が腰に乗って、ぐらっと足がもつれる。 ガタイのいいあいつとは違う。俺の身体じゃどうしようもなかった。を抱いたまま、どん、と床に膝をつく。 なんだ。俺、一人支えきれねーのか。こんな女気のない、中学生みたいに細くって薄い身体なのに。 肩に埋まったの頭が震えている。横目に見ていると、なんだか自分が情けなくなってくる。 口が勝手に動いて、ちっ、とイラついた舌打ちをついた。 「あたしが、・・・ね。彼女になっても彼女じゃないみたいなんだって。酷いって。付き合う前よりよそよそしいんだって。 じゃあ、もうやめようって、言ったけど、・・・だけど、・・・・・・・そう言ってから、何言っても聞いてくれないの。 家の前まで来たら、急に抑えられて。もう喋んなって、怖い声で言われて、それで、・・・」 は俺から顔を離して、ゆっくりと頭をもたげてこっちを見上げた。 まだ何か言いたげな赤い目が、縋るように俺を見つめている。自分には出せない酷な答えを、俺の口から欲しがってる。 ずりーなぁ、女は。 瞬きひとつしないうちに頭の中に弾きだされたのは、まず率直な感想だった。 そう思ったけれど、思っただけだ。それをバカ正直に顔に出したつもりはなかった。 だけど、にはなんとなく伝わったらしい。濡れた目が悲しそうに曇った。 手に負えないくらい高々と泣き出しそうな気配が、泣き崩れた表情の周りに霧のように漂い始める。 「あたし、どうしたらいいの?」 「知らねー。そーいうこたぁあいつに言えよ。俺に泣きつかれたってどーしよーもねーや」 俺はわざと冷たく振り払うような言い方をした。 腰を抱いている手でスカートを握って、もう片手でを肩から押して倒した。 崩れた格好で腰をついて、ドアと俺に挟まれたは動けなくなる。 開いた脚を上から跨いで、首筋を抑えて。涙をこらえて唇を震えさせている顔を、指で押し上げてこっちに向けた。 顔を重ねて、唇を合わせる。合わせた唇を軽く押すと、思ったよりも簡単に、柔らかい感触は俺を許した。 口の中に入り込んで、舌を絡めて深く重ねる。 しっとり汗ばんだの首筋が冷たい。俺の手でも片手で潰せるくらいの細さしかない、の細くて白い喉。 うっすらと滲んだ汗が手に吸いつく。手のひらや指の腹を濡らしていく。 その手触りの、寒気がするような気味の悪さにぞくっとした。一方ではその手触りを感じられる愉快さに浸った。 あいつはの肌がこんな感触で湿ることを知らない。俺しか知らないんだ。優越感に酔わされて、何度もそこを手のひらで撫でた。 首筋から下へ続いているなだらかな膨らみにも、つい手が惹かれる。いつのまにかセーラー服の衿を指先が這い降りていった。 が拒まないことは知っていたから、熱い口の中も好き勝手に探った。 湿ってざらりとした感触は、俺が動くたびに戸惑って震える。滑らかな口内や唇の感触はとろりと甘い。 一度唇を離して、また重ねて。何度か繰り返しながら慣れさせていくと、ぶるっ、と強い震えがの背中を走った。 だだをこねるように身体を捩じって、背中を揺すって俺から離れようとした。 逃げた口から、っく、と甲高い泣き声が流れ出る。だけど抵抗らしい抵抗はそれだけだ。 可笑しくなって笑い声が喉から漏れて、つい肩が揺れた。 そーじゃねーだろ、と言ってやりたくなる。俺の腕を掴んで暴れて、もっと全身で嫌がればいいんだ。 「やだ。・・・・・やめてよ。もう、こういう、・・・・・やめよ。いやだよ。総悟。もう、やだ」 「嫌なら逃げればいいんでェ。俺ァ一度も無理強いしてねーぜ。あいつと違って」 そう言って思いきり笑った。赤く火照ったの頬を、涙が一粒転がった。すごく綺麗だ。 ガラスの粒みたいな透明の珠も。俺しか知らない、こんなのさめざめと絶望しかけた表情も。 ちゅっ、と音をたてて喉に吸いつく。冷たい肌には薄赤い、血の気を透かした印が散った。 「嫌がれよ。あいつにしたみてーに、押し返して嫌がってみせろ」 「総悟。」 「出来ねぇんだろ。だよな。付き合ってるあいつは嫌でも、俺のこたぁ嫌じゃねーんだよな。 あーあー。酷でーよなぁは。あんないい奴裏切って」 「総悟、・・・・・・・・っ」 俺を呼んでが泣く。消えそうに細い泣き声を、ぎゅっと噛んでいた唇をこじ開けて途切れさせた。 これが何度目なのかは、もうわからない。 わからなくなるくらい繰り返した。わからなくなるくらい何度繰り返しても、は泣いた。 それでも俺はやめなかった。あの夜の神社から、回数なんて忘れるくらい何度も、バカみたいに夢中になって繰り返した。 この部屋のベッドの上でも。親が出て行って二人きりになった時のリビングでも。の部屋でも。 学校で渡り廊下の影に引き込んだ時もあった。誰もいない教室にも、嫌がる腕を引いて連れ込んだ。 なのに、これ以上のことは一度もしていない。なぜか出来なかった。 このまま抑えつけて流れに乗ってしまえば、いつだって俺はを自由に出来る。多分そうだ。多分は拒まない。 なのに出来ない。 「・・・・・・・・・・・・・くるしい・・・・・・・・・」 何が苦しいのか、何のせいで苦しいのか。誰に対して苦しいのか。 それともキスが苦しいのか。俺の唇と揉み合っている柔らかい唇は、それ以上言葉を漏らさなかった。 言葉の代りに漏れてきた、舌足らずなガキっぽい泣き声が耳に甘く貼りついてくる。 部屋の中はの泣き声以外何も聞こえなくなった。 泣いてばかりのは、どんなに泣いても一度も俺から逃げ出さなかった。 だから判った。あれは罪悪感の涙だ。あいつを裏切ってる自分が許せないから、どうしたらいいのかわからなくては泣く。 あいつに隠れて、俺とこんなことをしているから。 を裏切らないあいつよりも、あいつを裏切らせている「共犯者」が好きだから。 「総悟。くるしい、・・・・・・・・・・・・・」 俺だって苦しい。そう言い返してやりたくなった。 の所為で俺は十年も苦しかった。だって少しくらい、一人で苦しめばいい。 だから泣きごとは聞いてやらない。今はまだ笑い飛ばしてやる。が秘密に耐えられなくなる、ギリギリまで助けてやるもんか。 そう思う俺はよりうんと狡い。あいつを裏切るのが耐えられなくて泣くより、ずっと酷い。 誰かを騙すのは平気だ。自分を騙し続けるよりはるかに楽だからだ。騙される奴が悪いからだ。 そう割り切れるのは、あいつを傷つけるのが怖くて優柔不断になってるより、俺の欲しいものがはっきりしているから。 も平気であいつを騙せるくらいに狡くなればいいのに。もっと裏切ることに麻痺してしまえばいいのに。 俺のことしか考えられなくなればいいのに。俺といるためなら誰にでも、平気で嘘をつけるやつになればいいのに。 そうなれたらは、もっと楽になれる。あいつを騙していても平気で話しかけられる俺みたいに。 もしそれが駄目なら――どうしてもそれが出来ないなら、俺がならこうする。 身勝手さを剥き出しにして俺を責めたらいい。どんなに小さなガキだって、どうしようもなく追い詰められたら誰でもやることだ。 あたしは悪くない。そう言えばいい。 悪いのは全部総悟だ。開き直って俺にぶつけて、泣きじゃくって苦しさごと吐き出してしまえばいい。 だけど――俺が好きなのは、そう出来ないだ。ガキの頃から変わらない。まっすぐに人の目を見つめて笑える自分に 何の疑いも持ったりしない女の子。自分の後ろ暗さを誰かのせいにすり替えるなんて思いつきもしない、 いじらしいくらい不器用な女の子。そんなが好きで、大嫌いだ。歯痒くて憎たらしい。 そうじゃない。違う。こんなに暗い、真夜中に道に迷って途方に暮れているような目をさせたかったんじゃない。 こんなに辛そうな、聞いてる俺の耳まで痛むような声で泣かせたかったんじゃない。 わかってる。には出来ない。こんなのはどうせ長続きしない。俺よりずっとは脆い。 あいつの前でも平気でいられる俺とは違う。を追い詰めて一人で悩ませて、それでも平気なふりをしていられる俺とは違う。 あいつの前で見せていた、今にも泣きだしてぐしゃっと潰れそうな弱った笑顔も、明日からはもう浮かべることすら出来ないだろう。 わかってる。が壊れる前にやめなきゃいけない。俺とのことをバラしてあいつを傷つけたら、はあいつより傷つくんだ。 俺のせいで迷い込んだ、クリア出来ない暗いステージ。が嫌がって俺を避けていたら、とっくにゲームオーバーだったはずだ。 こんなやり方を始めたのは俺なんだから、終わらせるのだって俺だ。ああ。だけど。 あいつを拒めなかったを苛めてやりたい。泣かせてやりたい。だからまだ言ってやらない。 が今より楽にあいつを騙せるようになれるはずの、俺にしか施せない呪文。罪悪感を麻痺させる特効薬。 「」 「・・・・・・・・・・・・・・」 「、・・・・・」 たすけて。 凍えたように震えている唇が近付いてきて、俺のシャツを肌に押しつけた。布一枚通して、直に語りかけてきた。 ――あいつじゃなくて、俺に言った。は俺に助けられたいんだ。 嬉しさで血が沸騰しそうになった。口が勝手に切り出していた。最後の切り札くらいに思っていた特効薬を。 「好きだ」 こみあげてきた色んな感情や、急にデカくなった心臓の響きがどくどくと脈を打って、喉に詰まって邪魔をする。 思ったより上手く声が出ねーもんだな。かっこ悪りぃ。 心の隅で、俺の中にいる誰かがそう言って、バカにして笑った。 うなだれた横顔に頭をこつんとぶつけると、は顔を上げて、呆然と俺を見つめた。 重たげな困惑と入り混じった、かすかな光のような何かが、見開いた目に浮かんで、消えて。また浮かんで、消える。 あれは多分、期待だ。浮かぶたびに少しずつ変化していくその色を何度か確かめてから、また背中を抱いて、また唇を塞いだ。 頑なに閉じた唇を食んで和らげながら、伏せていた瞼を少しだけ上げてみた。 薄く開いた目がぼうっと映したの顔は、今までに見たキスシーンのどんな女よりも苦しそうだ。 こんな顔をさせたかったんじゃないのに。 背中に回した腕が戸惑い始める。ずっとないがしろにしていた痛みが――罪悪感が、頭の中を突然走り出した。 まるで頭痛だ。 そう思った時に、遠くで鳴った雷みたいに、頭の端でぱしりと眩しさがひらめいた。 やっと判った。どんなに泣かれてもを抱きしめたくて、バカみたいに夢中になっていた理由が。 そうか。他に何も考えられないくらい麻痺してしまいたいのは、きっと俺のほうなんだ。

text by riliri Caramelization 2010/08/25/    *back*       *next*