「おっと。三匹目、ゲーッツ」 すい、と振り上げた総悟の手の先で、水飛沫がきらりと跳ねた。 3対0で俺の勝ちでェ。 掬ったばかりの真っ赤な金魚を半目で眺めながらの、どーでもよさそうな声の勝利宣言。 例年通りに総悟の圧勝で「毎年恒例・縁日で金魚掬い対決」は幕を閉じた。 「いやー、そっちの彼女さー、すげー下手だねー。ここまで下手だとこっちもびっくりするわー」 どう、もう一回やっとく? と、金魚が泳ぐ水色の水槽を挟んだ向こうから、タバコをふかした テキ屋のお兄ちゃんが三枚目のモナカの皮を差し出してくる。 アルミの洗濯バサミを縁に挟んである、いちごミルクみたいなピンク色のやつ。 隣にしゃがんでいる総悟は、手にした透明のカップを持ち上げてつまらなさそうに眺めている。 たっぷり水を張ったカップの中では、三匹の金魚が 尾をひらめかせながらくるくる回ってる。 真っ赤で細い子と、白黒ぶちの尻尾がリボンみたいに広がる子と、赤と金色混じりの子。 真っ赤な金魚は、赤いミニ浴衣で綿飴かじってた神楽に。 白黒の子は、渋い紺地に白い帯の浴衣で先生に迫ってた猿飛さんに。 金色は明るいオレンジ色の花柄だった妙ちゃんの姿に、それぞれなんとなくかぶって見える。 さっき集合場所で顔を合わせたクラスの女の子たち。 セーラー服とはまた見違えた女の子っぽさを発揮していた三人は、 男子のそわそわした注目を集めまくってた。普通にいつもの格好だったあたしと違って。 「あたしも浴衣着てくればよかったぁ」 「?何の話でェ。つーかとぼけんな、」 「・・・・・・・・・・・・。」 「負けたやつが勝ったやつに「負けましたすいませんでした許してください」だろ。オラ、言ってみろィ」 いや。絶対いや。だってもう言い飽きたもん。 あたしは十年連続で言ってるんだからね、あんたに向かって「負けました」って! 打ち上げが始まった花火を見上げるふりで後ろを向いて、頬をぷーっと膨れさせた。 屋台の軒先に挟まれた細い夜空に、どぉん、バチバチバチッ、と 打ち上げ花火が弾け散る。 身体を痺れさせるくらい大きな音が鳴り響く。 少し離れた河川敷の方向には、ぱあっと暗い空を照らして、 太陽よりも大きな光の花が咲いた。 その眩しい花を見上げたふりで、ぶーっとむくれる。 なにあの余裕しゃくしゃくの薄ら笑い。 「ま、こんなもんどーでもいいけど」って鼻で笑ってるかんじ。 どーせこの体温低そうな笑顔の下では、「バッカでェ」って お腹抱えて面白がってるんだ。 同じマンションの隣同士で育って17年と半年。 もしこの子が幼馴染みじゃなかったら、ここまで仲良くなれなかったタイプだ。うん、間違いなく。 次々に打ち上がる花火の音に紛れて、あれっ、と 不思議そうなつぶやきが聞こえた。 何か思いついたような顔をして、総悟がきょろきょろ周りを振り返る。 「・・・何でェ。誰もいねー。近藤さんも土方のヤローもどこ行ったんでェ」 「近藤くんなら妙ちゃんにくっついて花火会場に行っちゃったよ。土方くんたちは知らないけど」 土方くんと山崎くんなら、さっきあんたの真後ろに立って 「総悟、先行くぞ」って言ってたけどね。 あれは金魚掬いに夢中で聞いてなかったんだろーな。 小さい頃から変わんないな、この子のこーいうところ。 そう思いながら水がゆるゆると回る水槽と睨めっこを始める。さあ、どの子に狙いをつけようかな。 「まだ粘んのかよ。いーかげんに諦めたらどーでィ」 「だって今年こそ赤いのほしいんだもん。尻尾がひらひらしたのがいいなー、 ・・・・あ、あれあれ。今隅っこにいる、あの小さい子。あの子がいい」 「」 「んー。なに」 「お前、彼氏は」 「さあ?知らない。他のクラスの友達も来るって言ってたから、そっちに合流したんじゃない」 「そっけねーヤツ。ほんとに付き合ってんのかよ」 「ほんとだよ?まだ一週間だから、彼氏っていってもデートもしたことないけど」 「・・・ほんとはあいつと二人がよかったとか思ってんだろ」 「えーっ。そんなこと思ってないよー、全っ然。お祭りは大勢で行くほうが楽しいもん。 逆によかったよ、クラスみんなで一緒に行こうって誘ってくれて」 もしも今日、ここで二人きりだったら。 ――彼にはすごく悪いけど、これほど楽しくなかったと思う。 よかった、総悟が一緒のクラスで。 もしここであたしが、ガムの型抜きがしたいとか、射的やりたいとか、金魚掬いがしたい、とか。 そういう子供っぽくて男の子みたいなことを言ったら、きっと彼は目を丸くするだろう。 で、もしもそういう彼に合わせて、やりたいこと全部我慢して、女の子っぽくクレープなんか齧りながら 花火を眺めてお祭りが終わったら――今度はあたしが消化不良でジリジリしてたはず。 「今年のお祭りつまんなかったぁっ」なんて不満一杯で総悟に愚痴りながら、 ぷりぷりして家に帰ることになったはずだもん。 「それにさー」 「んー」 「・・・なんか。困るもん。こういうイベント利用されて二人きりになって、急にべたべたされたら、・・・」 付き合い始めて一週間だし、あたしにはあの子の彼女だっていう自覚が まだあんまり無い。だけど彼には、あたしよりもずっと、そういう自覚があるみたい。 特別に何か言われたわけじゃないから、本当のところは知らないけど。実は色々考えてるみたいだ。 だから、さっきも何か言いたそうにして近付いてくる彼に困って、 気付かないふりして総悟のほうに逃げたんだけど。 だって困る。もしも今日ここで、「二人でどっか静かなところに行こう」とか言われても、 あたしはまだそういう気分になってないし。 告ってきたのは向こうのほうで、あたしはそれまで、彼のことをただのクラスメイトとしか思ってなかった。 だけど性格のいい子なのは知っていたし、友達に「どうしよう」って相談したら、 相談した子たちが全員で勧めてくれて。じゃあ付き合ってみるね、ってことになったのが、ほんの一週間前のこと。 お互いのこともあんまり知らない、なりたてほやほやの彼氏彼女だ。 彼は部活が忙しいから一緒に帰ったこともない。毎日昼休みに喋って、毎晩一回ずつメールするだけ。 だからまだ、友達に「ー、彼氏が呼んでる」って言われてもぴんとこない。 「え、誰の?」って真顔で返しちゃうくらいだ。 「あのさ。総悟。・・・今から話すこと、誰にも言わないでね」 「・・・。たこ焼き」 「?」 「そこにあんだろ、たこ焼き屋。口止め料でさァ。が奢ったら黙っててやらァ」 「うん」 いいよ、後でね、と頷いて笑うと、総悟はなんだか変な顔をした。 何か思いもよらなかったような、おかしなことを言われて面食らったような顔だ。 どうしたんだろ。珍しい。あたし、何か総悟が気まずくなるようなこと言ったかな。 「・・・?え、なに、どうしたの?」 「・・・・・・・・・・・。」 別に。 小さくつぶやいた総悟の大きな目は、なんとなく怒っているみたいにきつく光ってる。 あたしが戸惑って見つめ返すと、三軒先のたこ焼き屋のほうに、ふいっと顔を逸らした。 怒ったときに見せる顔だ。 栗色の前髪の下でびっしり生えた長い睫毛を深く伏せて、気配だけで頑なにあたしを拒む、 冷たくて綺麗な横顔。本気で怒ったときの総悟は、いつもこんな顔をしてる。 怒るとなぜか黙っちゃうのも、小さいころからの癖で変わらない。 だからこういうとき、普段よりうんと和らげた声を掛けて機嫌を取るのは、いつもあたしの役目だ。 「ねー。総悟。もしかして怒ってる?」 「別に。話さねーんなら先に行くぜ」 「・・・。あのね。みんながね。「あの子なら大丈夫だよ」って勧めてくれたの。 それでね、みんながそう言うならいいかな、って。流されてなんとなく、 いいよって言っちゃったけど。あたしね。やっぱりわかんないんだ。 男の子と付き合うのって、どこが楽しいのかなぁ」 彼は本当にみんなが言うとおりの子だった。 そう目立つほうじゃないけど、率直ではっきりした性格で、思いやりもあるから友達も多い。 部活も毎日頑張ってて、話し方が大人びていて、あたしよりずっとしっかりしてるんだなあって思う。 みんなが声を揃えて褒めてたとおりの子だ。 裏表もないみたいだし、すごくいい人だなって思う。だけど、そういう彼のことが好きかって言われると ――わからない。 彼と一緒にいるときのあたしは、彼と話せて楽しいって思うよりも「なんだかこの子といるの面倒だな」って 思う気持ちのほうが先に立っちゃう。だけど彼の気持ちや好意はすごく伝わってくるから、その気持ちを 「やっぱりいらない」って冷たく突き返していいのかなって思っちゃって、どうしていいのか迷っちゃって。 気づくとすっかり彼のペースに押されていて、あたしは思ったことをあんまり彼に言えなくなった。 色々と話しかけてくれる彼に合わせて頷いて、うん、そーだね、って相槌を打って、後はただ笑ってるだけ。 ここ一週間ずっとそんなかんじ。毎日同じことの繰り返しで、そういうのが最近は息苦しくなってる。 すっごく窮屈な気分になってる。 彼が隣にいると、手足がきゅーっと縮まったみたいな気分になる。 ちっとも自分らしく出来ないのがいや。 なんだか今のあたしって、牧羊犬に追い込まれて牧場の柵に閉じ込められた羊みたい。 そう言ったら、「わかってないねー。その息苦しさとか窮屈さがいいんじゃん」って 男の子と付き合い慣れている友達に笑われた。他のみんなも「しょーがないなー」って顔して笑ってた。 変なの。 みんなはあの、もやもやした息苦しさのどこかいいんだろう。 あれの何が楽しいんだろう。わからない。 「・・・どうしてみんな、そんなに彼氏に夢中になれるのかなぁ」 あたしね。 彼氏といるより、総悟と金魚掬ってるほうが気楽でたのしい。 まん丸だった輪郭が半月くらいまで溶けかかってるモナカの皮を眺めながら、素直な本音のつもりでぽつりと言った。 それを聞いた総悟は、なぜかこっちに振り向いた。 さっきよりももっと怒ったような顔をして、あたしを真正面からじーっと睨んで。 睨みながらポケットから小銭を探り出すと、ちゃりん、と水槽の枠に投げて。 「兄さん、もう一回」 「はいよ、毎度ー」 「え。まだやるの」 「が粘ったって金の無駄でィ。おめーに捕まるマヌケなサカナなんているわけねーや」 あれがいーんだろ。 指差したのは、さっきあたしが目で追っていた赤い金魚。 細長い水槽のちょうど真ん中あたりで、赤くて透明な尻尾を左右にひらめかせながら 水を切るようにして泳いでいる、動きの速い金魚だ。 お兄さんから受け取った白いモナカの皮をちらっと横目に見ると、 総悟はなぜかまたあたしを睨んだ。 「ほら、持てよ」 めんどくさそうにそう言って、モナカの皮を突き出してきた。 かさかさした感触をほっぺたにきゅっと押しつけられる。 え、とあたしは目を丸くして訊き返した。 「俺が教えてお前が掬うんでィ」 「えー。うそだぁ。何か意地悪してやろーとか思ってるんでしょ」 「・・・・・・」 「だってー。毎年一緒にやってるのに、今まで一回も教えてくれたことないじゃん」 「今まではな。・・・。けど、」 大学入ったら、俺。家、出るし。 何の違和感もなさそうに、すらりと出てきた言葉に驚いて。 あたしは押しつけられたモナカの皮を、ぽとり、と膝に落とした。総悟の横顔に呆然と目を見張る。 隣の屋台の看板の赤い光を反射させて、ゆらゆらと波打つ金魚の水槽。 揺れる水面をじっと見下ろしている幼馴染みの、どこにも迷いのない表情に。 ――だって。そんなの聞いてない。毎日顔合わせてるのに、ひとことも。 「・・・え。じゃあ。春から。一人暮らし、するの」 「あァ。お前と祭りでバカやんのもこれが最後だろ。だから最後に手の内明かしてやらァ」 「・・・・・・・・・・。」 「ほら。持てって」 「・・・・うん。」 「・・・はっ。すっげー。ウケる、お前」 「・・・。やめなよ、人の顔見てそーいう笑いかたすんの。なんか傷つくよ。てゆうか何がおかしいの」 「ここまでしょげたのツラぁ見るの、久々だぜ」 「・・・・・・。だって。」 だって。何も言ってくれなかった。 そんなこと考えてるなんて、ひとことだって教えてくれなかったじゃん。 去年の進路指導のときも。志望校調査のプリント提出したときも。 先月、総悟の部屋でテスト勉強しながら「ねー、志望校どーするの」って 聞いたときも。そんなこと言ってなかったじゃん。 ねえ。いつから考えてたの。どうして何も言ってくれなかったの。 「・・・。ねえ」 「んー」 「・・・・・・・・・・・・ううん。いい。なんでもない」 聞きたかったけど聞けなかった。 ――ねえ。あたしには相談しなくても、他の子には話してるんじゃないの。 高校に入ってからずっとツルんでる近藤くんや土方くんには、とっくに話してるんじゃないの――なんて。 そんなこと言えない。言いたくない。 まるであたしが、総悟の友達にやきもち妬いてるみたいじゃない。 「はこいつのコツがさっぱりわかってねーんでェ。あれじゃいつまでたっても俺には勝てねーぜ」 「・・・。総悟が上手すぎるんだよ。あたしなんて、いつも手近づけただけで逃げられるんだよ。 追いかけても全然間に合わなくて、気づくと狙ってた金魚はいなくなってるし、アミは破れてるし、・・・」 「持てって」 あたしの方に総悟の手が伸びてきた。 太腿に落ちたままだったアミを手を取ると、目の前にひょいとそれを上げてみせる。 「おらおら」とアミで頬をつついてからかってくる幼馴染みを、あたしは黙って睨みつけた。 それでも総悟がやめてくれないから、頑なにその手からぷいっと目を逸らす。 揃えた膝小僧の下で腕を組んで、そんなものいらない、って態度で拒んでみせた。 こんな膨れた子供みたいな態度でいたら、総悟が何も話してくれたかったことに拗ねているのはバレバレだ。 ああ。やだな。 この一週間、毎日思ってきたことが、こんなときにあたしの胸をちくちくと、嘲笑いながらつついてくる。 大人びていてしっかりしている彼や、彼と話すのがしんどくなってたあたしを笑ったクラスのみんな。 ――同じ年のみんなに比べたら、あたしってまだ、全然子供なんだ―― それをこんなところで――楽しいはずのお祭りで、こんなに、自分がいやになるくらい 実感するなんて思わなかった。 バカにされて怒ったふりの、悔しそうな顔も出来ない。 うるさいなーもう、早く教えなよ、と笑えもしない。 今にも眉がへなっと下がって泣きべそをかいてしまいそうな、情けなくて不安そうな顔しか出来なかった。 夏が過ぎて、秋が来て、冬を越えて――受験を終えた春になったら、総悟が隣の部屋から いなくなっちゃうかもしれない。 それだけでこんなに動揺して、毎年楽しみにしてたお祭りなんて、どうでもいいくらいにさみしくなってる。 「」 「・・・・・」 「負けっ放しでいーのかよ。一度くれー俺に勝ちてーんだろ」 「勝てないじゃん。来年のお祭りは、もう。・・・いないんでしょ。それって結局総悟の勝ち逃げじゃん。ずるいよ」 「ずるしてんのはそっちだろィ」 「なにそれ。あたし、ずるなんて」 「してんだろ。人の気も知らねーで、んな顔すんのがずりーんでェ」 フン、と呆れ声で笑い飛ばした総悟に手を掴まれた。 ぐいっ、と突然、今までにされたことのない強さで引かれる。 きつく握りしめられた指の先が、思わずびくっ、と動く。 あたしは息を詰まらせて総悟を見つめた。 「―――」 総悟は何も言わなかった。驚いて見つめるあたしの視線すら気にしていないような、 平然とした顔をして、こっちにじりっと詰め寄ってくる。 すぐ傍に並んだ総悟の腕が、とん、とあたしの肩先にぶつかる。 栗色のさらさらした前髪が、ゆらり、と動いて、頭を傾げた総悟はこっちを覗きこんだ。 前髪の向こうから現れた明るい色の瞳を、あたしはただ黙って見つめ返した。 それでも総悟は何も言わなかった。 ただ、ほんの少し身じろぎしただけで顔と顔がくっついてしまいそうな位置から、まっすぐな視線を注いでくる。 頭上の夜空に光を散らしている大きな花火も。 あたしたちを取り囲んでいるまぶしい夜店も、その明かりも。 目の前にいるテキ屋のお兄さんも、あたしたちの背後をぞろぞろと、賑やかに通り過ぎていく人達も。 あたし以外のものが何ひとつ、目に入っていないような表情をしていた。 いつも浮かべている薄笑いが消えた目で。何かを語りかけてくるような目つきで。ただ、あたしだけを。 「・・・総悟」 「何でェ」 「・・・・・・・・・・なんか。これ。・・・近、・・・くない?」 一言口にするごとに、ごくん、と息を呑みながら、 急に出なくなった声を絞り出して聞いてみた。 総悟は答えてくれなかった。 あたしの手を引っ張って水槽の縁に置いて、水槽の金魚を見回しながらくくっ、と楽しそうに笑っただけ。 「最初から手ェ近付けんな。影でバレんだろ。追い詰めよーとしてんのを気づかれねーように。そーっと。静かに」 よく見てろィ。 掴み直したあたしの手を、ゆっくりと、自分のほうへ導いた。 指と指の間に絡まってくる細長い指の、意外な硬さや力強さにどきっとして。 だけど、他の誰でもない総悟にそんなことを感じている自分にもっと驚いてしまって、 あわててモナカのアミに視線を落として、狙っていた真っ赤な金魚に集中しているふりをした。 ふわっと浮かせたアミの先は、さっきあたしが 「あれがいい」と言った金魚をしっかりと指している。 指したのは一度だけなのに。 たったあれだけで、似たような金魚の群れから一匹だけを見分けるなんて。 ・・・総悟の目って、良すぎて怖い。 「好きなように自由に泳がせながら。後ろから少しずつ距離を詰める。 途中で気づかれて逃げられねーよーに。 息継ぎしに水面に浮かんできたところを追い込むんでェ。」 色とりどりの金魚が群れる水底を端から端へ、くるくると泳ぎ回っていた素早い金魚は 水槽の隅へと向かっていく。そこで、ぴたり、と何かに気付いたように動きを止めた。 頭を水面へ向けて、ふわりと赤い身体をくねらせて、ひらりと透明な尻尾が水中で翻って。 「ほら見ろィ。浮かんでくるぜ。――今だ」 総悟の手にふっと力が籠もった。 丸いアミの先がふわりと水に沈んで、すーっ、と滑らかな動きで水流を切る。 ほんの一瞬でアミに囲われた赤い金魚は、次の瞬間にはもう、手許で浮いていた透明のカップに ちゃぷん、と流れ落ちていた。その手つきを横目に見たテキ屋のお兄さんは、へェ、と感心したような声を上げた。 「上手いもんだねー、兄ちゃん」 「どーも。あァ兄さん、こいつだけ持って帰るんで。入れてやって下せェ」 こいつに、といつもの何を考えてるのかわからない薄笑いを浮かべて、こっちを指差す。 同時にあたしの手も放した。放された途端に全身の力がすうっと抜けた。 放されてほっとしているはずなのに。どうしてだろう。なぜかさみしい気もした。 「」 「・・・・・・・。なに。」 「もう逃がしてやらねー」 え。 どきん、と胸が高く震えた。 上擦った小声で、たったひとことつぶやくだけで精いっぱいだった。 「あいつには絶対渡さねェ。お前を困らせんのも夢中にさせんのも、俺一人だけでいいんでェ」 どうして。 どうしてこんなに――すごく心細いんだろう。 ただしゃがんでいるだけなのに胸が詰まる。息が苦しい。 きらきらと光り瞬く水面を見つめて、瞳を光らせた総悟を。その横顔を見ているだけで息苦しくて、何も考えられなくて。 いつのまにかぎゅっと膝を抱えていた腕に、勝手に力が籠った。 「――まあ、そーいうことでェ。わかりやしたかィ、」 「・・・・・・・・」 「じゃ、行こーぜ」 言い聞かせるようにそう言うと、強張っているあたしの表情を抜け目のない目線で確かめて。 総悟は膝に手を突いて立ち上がる。金魚の入った透明な巾着袋を受け取ると、 ぼうっと見上げていたあたしの腕を掴んで、何も言わずに引っ張り上げて。 踵を返して歩き出した。 隣で引きずられるあたしのペースなんて考えてない速さで。 夜店に挟まれた道のずっと先を見つめて、まるで一人で歩いているみたいに。 「そ、・・・・総、・・・ねえっ。ど、」 「あ。そーだ」 急に足を止めたのは、三軒先で真っ赤な看板を光らせていたあのたこ焼き屋の前。 さっきは「奢れ」なんて言ってたくせに、総悟は自分のお金でたこ焼きを買った。 ・・・だめだ、全然聞いてない。 これって夢中になってるときの癖じゃない。 どうしていいのかわからなくって、あたしはきゅっと唇を噛んで、たこ焼き屋さんにお金を 渡している幼馴染みの、何を考えているのかちっともわからない澄ました横顔をじとっと睨んだ。 総悟のバカ。何考えてるの。 渡さないってなによ。そんなこと勝手に決めないでよ。 逃がさないって。―――なにそれ。意味がわかんないよ。 どうして総悟がそんなこと言うの。 そんなこと言わないでよ。だって。あたしは。 あたしは、もう―――、 どぉん。ばちばちばちっっ。 絶えず頭上に広がっている花火の大きな音が、地面から伝わって脚をびりびりと揺らす。 近くの河原で鳴っているはずのその爆音が、なぜかものすごく遠い音に聞こえた。 舟形の白い容器を受け取ると、総悟はまたあたしの手を取った。 今度は指を深く絡めて、手のひらをぴったり合わせる。 あたしが振り解こうとしても簡単には離れないくらいに、しっかりと繋ぎ直してから歩き出した。 総悟の勢いにすっかり呑まれてしまったあたしは、手を引かれるままに呆然と、まっすぐに歩いた。 しばらくそのまま、目の前を歩いてる幼馴染みのことだけで頭がパンクしそうなままで歩き続けて、 そのうちに、見下ろしている砂利道がなんだか薄暗くなってきたことにやっと気付いた。 驚いた脚が反射的にブレーキをかける。 こっちは違う。妙ちゃんたちが花火を見ている場所とは逆の方向だ。 「・・・・・・。ね、そっ。総悟っ」 「何でェ」 立ち止った砂利道は、夜店の並ぶ明るい通りからはもうすっかり外れている。 両側に並んでいるのはお店じゃなくて、遥か上から影を落とす高い銀杏の並木と、ぽつんと立ったオレンジ色の外灯。 一直線に並ぶ外灯はなんとなくほの暗い色で、次の外灯までの間隔がやたらに空いていた。 お祭りの賑やかな気配から遠ざかったここはひっそりしていて、数メートル先を歩いてる人の姿が見えないくらい暗い。 こっちに振り向いた総悟の顔にも、暗い影が落ちていた。 大きな瞳は伏せられて、長い睫毛の影に落ちていて。うっすらと笑っている口許だけがなぜかはっきり見えた。 見慣れてるはずのその表情になんとなく気圧されてうつむきながら、あたしは後ろを指差した。 「・・・・・・違うよ。こっちじゃないよ。あっちだよ、集合場所」 「こっちの神社のほうが穴場なんでェ」 「・・・、それは。・・・知ってるけど。でも。」 みんなで決めた集合場所からは半分しか見えない花火も、あの石段を上がった神社の境内からならきっとよく見えるはず。 ここはあたしたちの家の近所で、小さい頃はよくかくれんぼや鬼ごっこをして遊んだ。 だからよく知っている。 あそこが昼間でも人目につかない、近所の人しか知らない小さな神社で、夜は誰も寄りつかないことも。 「だから何でェ」 ひそめた声でそう言って、意地悪そうに口端を上げて笑った。 まっすぐにあたしを見つめた総悟は、金魚を水槽の隅に追い詰めていたときと同じ顔をしていた。 総悟がまた歩き出す。 あたしは結局何も言い返せなくて、そういう自分がなんだかわからなくて、 なぜか胸の中がかあっと火照って。 暗い石段へ向かって脚をふらつかせながら、強引に進んでいく手に引っ張られていく。 胸の中がざわざわしてる。繋いだ手がすごく熱い。 歩いてるだけなのに息苦しくなって、脚がもつれて。 だけど。どうしてなんだろう。 この心臓が勝手にとくとく弾む息苦しさを、ちっとも嫌だなんて思えない。 どぉん、ばちばちばちっっ。 頭上から圧し掛かってくるような重たい爆音が、あたしたちが背を向けている河川敷のほうから響いてくる。 きっと彼は今頃、みんなと並んで花火を見上げてる。 そう思うとすごく後ろめたくなって脚が竦む。 なのに目の前を歩く総悟の背中を見ていると、微熱が出たときみたいな、ぼうっとして蕩けた気分になる。 石段の手前で立ち止ると、総悟はあたしの手をくいっと引いた。 「足元。暗れーから気ィつけろ」 独り言のような愛想のなさでつぶやくと、顔を上げて真上を見据える。 階段の先にある真っ暗な境内には、古びた鳥居の赤だけがぼんやり浮かび上がっていた。 あたしは肩越しに後ろを振り返って、それから、先に登り始めた総悟の背中を見上げて。 不規則に乱れ始めた心臓の音で身体中をざわめかせながら、暗くて先の見えない階段に踏み出した。 ねえ、総悟。 総悟はあたしを、どこへ追い詰めようとしているの。
二人ぼっち時間 text by riliri Caramelization 2010/07/11/ *back* *next*