その雲を見たのは、学校からの帰り道。
駅の改札を出ると、雨が上がったばかりの空には大きな雲が広がってた。
後ろに隠れてる太陽の光が、さざ波模様の雲の隙間から漏れている。
雨雲の名残りみたいな厚くて青味のある雲は、ところどころが濃い灰色。夕陽が漏れている隙間はまぶしいオレンジ色。
こうして見ると、後光を背負った天使の翼とか、すごく大きな白い鳥の羽根みたい。
空いちめんに広がった羽根があたしたちの街を覆ってるみたいだ。
あ。なんかこれ、この大きさ。あれに出てきそう。この前、銀ちゃんの部屋で見たエヴァンゲリオン。
「ねー。十四郎」
「あー?」
「あれ。あれあれ。あの雲。羽根みたいじゃない?」
空高く指を指してそう言うと、振り返った十四郎はしかめっ面で目を細める。
あちー、と首筋の汗を手の甲で拭いながら真上を見上げた。
あたしの指が差した先にじいっと目を凝らすと、ああ、と何か思い出したような声でつぶやいて。
それから――
フラグメンタルプール *1 フリューゲル
「」
「なに」
「寄るのか」
立ち止まった十四郎が顎を向けた先には、いつも寄ってるコンビニがあった。
うーん、とあたしは空を斜めに見上げて、ちょっとだけ考える。
お菓子は昨日買ったし、ジャンプやサンデーの発売日でもない。
ほんとはアイスが食べたいけど、おこづかい日はまだだし、お財布には五百円しか残ってない。大きく、ぶんぶん、とかぶりを振った。
「ううん。まっすぐ帰る」
十四郎はあたしと視線を合わせた。切れ上がった目は細められていて、キツネとかオオカミとか、そんな動物によく似ていると思う。
こういう時の十四郎は頷きもしない。「ああ」も「そーか」も何もない。一瞬だけ目を合わせる、それが十四郎の「了解」の合図だ。
ずれかけたカバンを掛け直して、何も言わずに歩き出した。
歩幅がさっきまでよりも少し大きくなってる。あたしは急いで、とことこっ、と小走りに駆け寄った。
通学路や学校でこの背中を追いかけるたびに、なんだか不思議な気分になる。
小さかった頃は同じだったはずの歩幅と足の長さは、いつのまにか大きな差がひらいていた。
同じだったはずの目線の高さは、いつのまにか十四郎の肩の高さになった。
こういう差を見せつけられるたびに、なんだか女の子に生まれてちょっぴり損した気がする。
昔は――あたしたちの背が同じ高さだった頃は、同じ速さで歩けることを不思議に思ったりしなかったのに。
「ねー」
「ああ」
「さっき何て言ったの」
「さっき?」
「そう。さっき」
「いつの話だよ、さっきって」
「だからさっき。ついさっきだよ。ほら、改札の前で、羽根みたいって言ったじゃん」
「ああ」
「あの時さ、何か言ったでしょ」
「んだよ。聞いてねーのかよ」
「聞いてたよー。でも聞こえなかったの」
だってあの時、何も聞こえなかったじゃん。
駅を通過した快速電車の音に消されて、十四郎の声どころか、あの毎日鼓膜にビリビリうるさく響く
パチンコ屋のBGMだって聞こえなかったんだから。
「聞いとけよ」
あたしたちが歩いてる歩道の、反対側。バス停の前に出来たS字の列を眺めながら、十四郎が素っ気なく文句をつける。
あたしはその小さい頃からちっとも変わらない、愛想なしな横顔を見上げながら、黙って隣を歩いた。
こうやってあたしが口答えしないで大人しく待っていれば、十四郎は大抵のことは無視したりしない。結構きちんと答えてくれる。
ああ、でも、いつも一言多いっていうか、答えてくれる前に必ず「面倒くせえな」って顔で文句言われるのはちょっとイヤかな。
まあ、文句なんて言われ慣れてるからいちいち気にしないけど。
十四郎は口数が多くない。学校ではカッコつけてるし、思ってることも表情に出ないし、
口調がきつくてこわいから、クラス換えのたびに女の子たちにビビられる。
ほんとに損な性格だ。だって十四郎のあれは、女の子を寄せ付けたくないからやってるんじゃなくて、ただかっこつけるのが
癖になってるからだ。見てるとたまに、何やってんのぉもう、きーっ、て思う。ああまたそんな言い方して、ほら誤解されてるじゃん!って歯痒くなる。
生まれた時からの付き合いのあたしには、学校にいる時の十四郎が、わざわざ自分から自分のいいところを全部目隠してるようにしか見えない。
ほんとは人に対してすごく真面目で、誰かが困ってると放っとけなくて面倒みちゃうようなやつで、見た目によらず世話好きっていうか、
いわゆる「兄貴」な性格なのに。
「フリューゲル。」
「え?」
「翼。ドイツ語で、翼」
「・・・ドイツ語?」
「ああ。つば・・・」
言いかけた十四郎は、急に眉を顰めて黙りこくった。
あたしが思いきり眉を寄せて、不気味そうにしげしげと見つめてることに気付いたからだ。
「ぁんだその目。バカにしてんのか、てめ」
「え。違うって。十四郎が似合わないこと言うから感心したんだよ。
十四郎のカチコチでつまんない頭の中に、そーいう・・・ほら、文学的っていうか、女の子受けしそーな知識があるとおもわなかったんだもん」
「おい。俺は今褒められたのか。それともコケにされたのか」
「だって不思議じゃん。なんであんたがドイツ語なんて知ってるの」
「別に俺だってわざわざ調べたわけじゃねーよ。ガキの頃にそう聞かされたのを、なんとなく思い出しただけだ。
・・・ああ。あれも雨上がりだったな。あいつが空見て、・・・」
足を止めて、なぜかこっちをちらりと見下ろした。なんだろう。ほんの一瞬だったけど、妙に気になる視線だった。
「あいつって?」
「・・・・・・。銀八」
「銀ちゃんが?」
・・・ふーん。銀ちゃんてドイツ語詳しいのかな、そんな話聞いたことないけど。大学の時に単位とってたのかな。
「あれだ。あいつの実家の近くにあった自然公園。覚えてるか」
「うん」
「十年くれー前だな。ガキの頃、あそこでよくセミ捕りしてたんだよ。急に通り雨降ってきた日があって、
その後にこんな天気になってよ。そん時、あいつが空指して言ったんだ。フリューゲル、って」
「・・・・・・・・・・・・・・。ずるい」
「はあ?」
「何それ。ずるいよ。十四郎ばっかりずるい。ずるいずるい、ずるい」
あたしが口を尖らせると、十四郎は面白くなさそうに眉を吊り上げた。口を引き結んで睨んでくる。
心の底から心外だ、ってその顔にははっきり書いてあった。
「十四郎ばっかりずるい。あたしは銀ちゃんとあの公園に行ったことなんてないもん。そんなの教えてもらわなかったもん!」
「お前だって行っただろ。遊園地だの買い物だの、あいつのバイト代でさんざん奢らせてたじゃねーか」
「・・・いっつもそーだよね、銀ちゃんてさ。夏休みになるとセミ捕りとか釣りだとか海の家だとか、あんたばっかり誘ってさっ」
「そりゃーいとこだからだろ。・・・俺もあの頃はまだ、あのヤローに懐いてたしな」
十四郎が、ふっ、と人相悪く嘲笑う。なんとなく荒んだ、意地の悪そうな目つきになって、今登っている坂道の天辺にあるマンションの屋上あたりを見上げてた。
あたしといっしょになって「銀ちゃん、銀ちゃん」ってヒヨコみたいにくっついて歩いた、
まだ十四郎が素直で可愛かった頃の思い出は、今のちっとも可愛くない十四郎にとっては、何より消しちゃいたい「黒歴史」でしかないらしい。
「あたしだっていとこみたいなものじゃない!」
「違げーだろ。俺とあいつが従兄弟。お前は俺らのはとこのいとこだろーが。つまり殆ど他人じゃねーか」
「いーよそんなのどっちだって。いとこもはとこもそんなに変わんないじゃん!」
「よかねーよ。縁戚関係くれーはっきり覚えとけ」
「・・・十四郎ってさ。あと三十年くらいしたら絶対いやみな説教ジジイになってるよね」
「はぁ?」
「あんたみたいなのがさー、ああいう人になるんだよ。ほら、いるじゃん、庭の柿盗った子供追っかけてガミガミ叱るおじさん」
「いるじゃんて、どこにいんだよ。見たことねーよ、んなおっさん。つーかそんなおっさん、サザエさん以外で見れねーよ」
「そう、だからそれ。十四郎みたいな口やかましいヤツが、サザエさんに出てくる柿のおじさんになるんだよ」
「そーいうお前はあれだろ。毎日ババア友達集めて、縁側で茶ばっか飲んでるババアになんだろ。
庭の柿盗られても呆けたツラでへらへら笑ってやがる、のんべんだらりとしたババアに」
「・・・?なに、のんべんだらりって」
「何でも人に聞くな。そのくれー自分で調べろ。帰ったら辞書でも引いとけ」
ふーん。「のんべんだらり」って、辞書に載ってるような言葉なんだ。
よく知ってるねそんな言葉。てゆうかあたし、その言葉初めて聞いたし。
ああ、そーだよね、十四郎ってさ、そういう古い、おじいちゃんとかおばあちゃんしか知らなさそうな言葉、すっごく詳しいよね。
そーだよね、喋り方までおじさんぽいもんね、
・・・なんてことは言わない。言ったらたぶん、頭にゲンコツ落ちてくるから。
「・・・・・ああ、」
「なによ」
「思い出した」
「何を」
「さっきのドイツ語」
十四郎はそう言って、はっ、となんだかつまらなさそうな顔で笑った。
空を見上げて、それからまたあたしを意味ありげな目でチラ見する。なんだろ。さっきと同じで、ほんの一瞬だった。
「あいつが高校の時。好きだった女に教えられたんだとよ」
・・・・・・・・うっ。
言い終えると、十四郎はこっちを斜め見して様子を伺ってきた。
あたしは十四郎のほうを向いていた顔を、ぎ、ぎ、ぎ、と硬い音がしそうなぎこちなさで逸らした。
坂沿いに続く高い塀を、何の興味もないのにじいっと見てみたり、暑くもないのにセーラー服の衿をパタパタさせて扇いだりした。
やられた。あたしはこういう動揺を隠すのが、どっちかっていうと苦手だ。
正直言うと、最近自分の中に生まれてる、銀ちゃんのことにだけ心臓がどきっと反応する、このよくわかんない気持ちに
も、まだぜんぜん慣れてない。
そして十四郎は男のくせに、他人の気配にはインケンなくらい敏感だ。
今のもきっとバレたんだろう。横を走り抜けていく小学生の自転車に注意するふりでちろっと盗み見たら、
いつもの顔とはなんとなく違ってた。なんとなく満足そうっていうか、「へっ、やってやったぜ」って顔してる。
肩に掛けてあったipodのヘッドフォンをカバンにしまってる様子も、ちょっと鼻唄でも歌い出しそうなかんじっていうか、
どことなく可笑しそうで得意げだ。
やられた。十四郎のやつ、銀ちゃんをダシにしてあたしをぎゃふんと言わせる気だな。いや、ぎゃふんとか絶対言わないけど。
「気になるか」
「・・・言わない。悔しいから」
「はっ。言ったよーなもんじゃねーか、それ」
軽く吹き出してうつむいた十四郎は、肩を揺らしながら声を出さずに笑ってる。
珍しい十四郎の笑い顔を、あたしはむっとしながら見上げて、あれっ、と目を丸くして首を傾げた。
さっきの得意そうな様子とはどこかが違う。あんまり楽しそうじゃないっていうか、気持ちの入ってない空っぽの笑いっていうか。
ちっとも可笑しそうじゃない笑いだ。むしろ、どっちかっていうと――
「ねえ。どうしたの。なんか・・・怒ってない?」
「怒ってねえ」
「怒ってるじゃん。声が怒ってるもん」
「怒ってねーよ。後悔してんだよ」
「後悔って。何を?」
「何をって」
かさっ。あたしの肩先が隣の腕に掠れた。十四郎が急に立ち止まったせいだ。
肩をがっくり落としてうなだれている十四郎は、髪を鷲掴みにするみたいに、がしがしっと後ろ頭を掻いている。
あたしはその反応が不思議になって、そーっと一歩、ゆっくり近寄って間を詰めてみた。
後ろから爪先を立て気味に覗きこむと、十四郎の横顔が見える。
面白くなくって拗ねたみたいに歪んでる口許と、なんとなく赤くなった頬が。
「お前が。・・・んなツラすっから」
「・・・・・・?え?・・・あたし?」
「お前が。あいつの話で、そんなツラすんの見せつけられたら。・・・・・・俺が悔しいじゃねーか」
傍の車道を流れていく車の音よりも、うんと小さい声。あたしの耳にしか入らなさそうな小声で、そう言った。
言い終ると、赤みが差していた十四郎の頬が、なぜかさっきよりもさらに赤くなった。
その顔があんまり珍しいから、もっと近付いて真下から覗きこんだら、十四郎は何かすごくびっくりした顔になる。
「なっっ、なな、おま、なっ、」と焦ってどもりながら一歩下がった。
急に額からつーっと流れてきた汗が気になるのか、腕で顔を隠すようにしてがしがしっと乱暴に拭き始める。
うわぁ、どーしたの。十四郎ったら首まで真っ赤になっちゃってるよ。そんなに暑いかなあ、今日。もう九月なのに。
首を傾げて考え込んでいると、十四郎がいたはずの左側を、スーツ姿のお兄さんが通り過ぎていった。
あれ。隣にいたはずなのにいなくなってる。顔を上げると――
・・・・・えっ、早っっっ。もう十歩以上先まで歩いてるし。
「ねー」
目の前は坂になっている。両側に大きなマンションがずらっと並んだ急な坂。
その坂を下ってくる小学生の自転車を避けながら、あたしの目の高さよりずっと高いところを歩いている
十四郎に向かって声を張り上げた。
「・・・んだよ」
「十四郎。意味わかんない」
思ったまま正直に言うと、十四郎の足が止まった。
あたしはとことこっ、と小走りに駆け寄って、カバンの角をぐいっと引いた。
「ねえ。なんで」
「うっせえ。ついて来んな、バカ」
ぱしっ、とカバンで手を振り払われて、煮えくり返った声で投げつけられた。
呆れかえったあたしはぽかーんと口を丸く開けて、坂をどんどん昇って小さくなってく背中を見送った。
なにその無理難題。どーしろって言うの。あたしの家はあんたの家の隣なんですけど。
・・・しかもバカだって。久しぶりに言われたよ、バカなんて。
小さかったころはよく十四郎と取っ組み合いのケンカになって、憎ったらしい顔で「バーカバーカ」言われた。
ケンカの理由は大抵がつまんないことだった。あたしがあいつのおやつ盗ったとか、あいつがあたしにカエルをぶつけたとかだ。
だけど高校生になっても、まだあんな言い方されるとは思わなかった。
ああもう、さっきの「バカ」を思い返したら、なんかじわじわーっと悔しくなってきた。
なんだかじっとしていられない。イライラして情けなくて腹が立つ。
ここであいつの後をついて歩くのは絶対嫌だ。しばらくここに立ち止まって、カバンで電柱バコバコ殴って八つ当たりして、
十四郎がマンションの部屋に入っちゃうまでの時間潰しをしたいかんじだ。
「・・・・・ばっかじゃないの。何それっっ」
ついてくんなってどーいうこと。あたしは自分の家に帰ろうとしてるだけじゃん。人を金魚のフンとかストーカーみたいに言うな。
てゆうか、高校生にもなって女の子にあんな態度でバカとか言うなバカ。
十四郎っていつも冷静ぶってるけど、たまにすごーくわけがわからない。何考えてるのかわかんないっていうか、一方的っていうか。
何が気に食わないのか知らないけど、急に怒り出すんだよね。
しかも気に食わなかった理由は教えてくれないから、ムカつかれたこっちはどうしようもない。
・・・さっきの「のんべんだらり」は知らないけど、あたしもこれは知ってる。こういうのってさ、理不尽ていうんだよね。
あと、もうひとつ。これも知ってる。
あたしみたいなただの女子高生に、ノストラダムスみたいな地球サイズの大予言は無理。だけど、これだけは簡単に予言できる。
三十年後の十四郎は、絶対、柿を盗んだ子をムキになって追いかける、偏屈で気難しいおじさんになるんだ。
その10分後。
ほっぺた膨らませてぷりぷりしながら、あたしはマンションのエントランスに入った。
「おっせーよ」と、入ったとたんに声を掛けられた。エレベーターのドアの前で腕なんか組んじゃって、
あたし以上にむっとした顔で十四郎は立っていた。
「おい。うちでアイス食ってくか」
しょーがねーから食わせてやる、って顔でそう言われて、むかついたあたしは隣の階段のほうへ行こうとした。
だけどそこで背後からぼそっと、殺し文句を投げつけられた。
「ハーゲンダッツ」そのひとことでころっと誘惑に負けちゃって、「食べる!!」と目をきらめかせて即答、
そのまま十四郎を引きずってエレベーターに飛び込んで人の家のキッチンまで直行して、あたしはストロベリーとクッキー&クリームとラムレーズンのカップを
ひとつずつキレイに空にした。
ラムレーズンだけ味見した十四郎は、すごく嫌そうな顔であたしが出したスプーンを咥えていた。
「十四郎、おいしいね。ね?」と気を使って聞いてみても、「どーでもいい」とかなんとか、溜め息混じりのひねくれた返事しか返ってこない。
テーブルに突っ伏して真っ黒な頭を抱えてる。腕の隙間から見えた頬は、まだちょっとだけ赤かった。
「 フラグメンタルプール *1 フリューゲル 」 text by riliri Caramelization 2010/08/21/
かなり前から頭の中で遊んでた話。従兄弟とか同じマンションとか 設定は某マンガパロです
・・・何入ってるんだろipod。
*back* *next*