「・・・・・・・・・・・さん・・・」
――放心しきった表情であたしを呼んだその顔は、これまで一度も見たことがない、その人らしくない表情で。
それからあたしは何をしていてもその表情が頭から離れなくて、これまで一度も味わったことのないおかしな気分で休日の午後を過ごすことになった――
「はーい栗ごはん炊けたよー、食べる人は言ってねー」
「私大盛り!じゃなくて山盛りがいいネ!」
「さん、僕にもください」
「あーすんません、俺ももらっていーっスか」
重たい炊飯器を腕に抱えて銀ちゃんの部屋に入ったら、部屋中に立ち込めたまっしろな湯気がふわりと目の前を霞ませた。
天井までふわふわ充満してる湯気の向こうに見えたのは、お箸を持った手を勢いよく上げて全身で栗ごはんちょうだいアピールする神楽ちゃんに、大きな鶏肉のかたまりに齧りつこうとしてる新八くん、ころんと丸い鶏のつみれを熱そうに頬張ってるタカチンくん。
そんな三人の斜向かいからは、『こっちにも一杯もらえますか、大盛りで』って書かれたプラカードで着ぐるみの人が主張してる。
朝は爆睡中の銀ちゃんと工事現場の赤いコーンに占領されてた和室は、今は冬場だけ登場する古いこたつに占領されてる状態だ。
あたしがまだ子供の頃に家で使われてたようなレトロな家電が家中のあちこちで活躍してる万事屋だけど、このこたつも相当古そうなんだよね。
貰いものか何かかなぁ、なんてことを思いながら、湯気で満たされたあったかい部屋の中へ入っていった。
みんなが囲んでる天板の上には、お登勢さんから借りてきた大人数用の土鍋。それから、お酒にもご飯にも合いそうなおかずが数品。
くつくつくつくつ、ことことことこと。聞いてるだけで気分がほっこりしちゃうやわらかい音を響かせてるお鍋を主役に見立てて、今日は鶏の水炊きパーティーだ。
とはいえ依頼が来ない日が数日続いただけで一日三食TKG生活に突入しちゃう万事屋のパーティーだから、並んでるのはどれも今日買った特売品で作った節約メニューばかりなんだけど。
台所から運んできた炊飯ジャーを畳に下ろして、うさぎさん模様のお茶碗を手に待ち構えてた神楽ちゃんの前で、ぱかっ。
白い蓋を押して開ければ、甘い香りの熱気をふりまく炊き立てあつあつ栗ごはんの登場だ。
「きゃほーい!」って、お米大好きな神楽ちゃんが喜びのあまりバンザイして叫ぶ。
今にもよだれを垂らしそうなうっとりした顔で溜め息をついて、
「ふぉぉぉ・・・!ちょーいい匂いネ、私この匂いおかずにして白米10杯はイケるアル」
「いや匂いで10杯って。おかずも食べてよ神楽ちゃん…」
苦笑いしながらしゃもじを持って、ほっくり炊けた黄色い栗とふっくらつやつやなごはんの粒を切るみたいにして混ぜていく。
軽く混ぜ終わったところで、ぽん、って肩に手を置かれて。見れば真後ろに座ってた銀ちゃんが、のしっ。
エプロンの肩ひもを掛けたあたしの肩に、遠慮なく顎を乗せてきた。ふ、ってからかうみたいにほっぺたに吹き掛けられた吐息は、ごはんを食べ始めた頃と違ってお酒の匂いが強くなってる。
あれっ、って視線を送った後ろの畳には、空になったビールの缶が幾つもごろごろ散らかってた。
「なーなー着物にエプロンもいーけどよーいつになったら見せてくれんの、ちゃんの裸エプロン〜〜」
完全にたちの悪いセクハラおやじと化した銀ちゃんが、新八くんがぶほっと噎せてげほげほ咳込んじゃうようなことをへらへら笑って言い出して。
かと思えば、着物の脇からするーっと手を潜り込ませてくる。
お酒が回るとさらに手癖が悪くなる彼氏はあっという間に胸まで指先を到達させて、衿の合わせ目からそろーっと、大胆に襦袢の中まで忍び込もうとしてた。
ぺちんっ。
しゃもじの先で引っ叩いたら、「いっって!」って大げさで甲高い悲鳴が後ろから上がる。
いてててて!って叩かれた指をぶんぶん振り回してる銀ちゃんはいかにも痛そうに顔なんか顰めちゃってるけど、どうせ痛いふりに決まってる。
ゴキブリ並みの生命力とバケモノ並みの頑丈さが取り柄の銀ちゃんだもん。しゃもじで一発叩かれた程度じゃ痛くも痒くもなさそうだ。
「おいおいひどくねやべーよこれ絶対折れたよ銀さんの指、今夜が裸エプロン姿見せてくんねーと治りそうにねーよ」
「誰が見せるかそんなもの。それよりも、ねぇ、なんか今日飲むペース早くない。さっきも冷蔵庫からビール持ってったでしょ」
「んなことねーって、まだ2本しか開けてねーって」
「よく言うよどこが2本なの。そこにごろごろ転がってるあれは何」
「俺じゃねーって、着ぐるみ被ったあやしいおっさんが飲んだんだって。それよかー、俺にも飯盛っといてー」
なんて甘えたかんじで頼んできた銀ちゃんが、ぐりぐりぐりぐり、むっとして膨らんだあたしのほっぺたに顔を摺り寄せてくる。
無遠慮に擦りつけられた肌はあたしよりもうんと熱くて、当然だけど男くさい。そして、それ以上にお酒くさい。
――ていうか何なの。おかしくない。銀ちゃんてばちょっと変じゃない?
お酒飲み始めてからというもの、やたらとべたべた触ってくるよね。普段に輪を掛けて接触過剰だよね。
おかげであたしはお酒なんて一滴も飲んでないのに、お鍋とこたつのぽかぽか効果も相まってすっかり頭がのぼせ気味になってるんだけど。
今だって背中にべったり密着されてるしお腹にも腕を巻き付けられてるから、無駄にどきどきさせられてるんだけど・・・!
もう、って拗ねたいような気分で真横の顔をじとりと睨む。お釜から湯気を昇らせる炊き立てごはんを銀ちゃんが目で指して、
「栗の皮剥き俺がやったんだから好きなだけ食っていーよなぁ、とりあえず大盛りな大盛り、栗10個入れといて」
「銀ちゃん欲張りすぎ。そんなに入れたらお茶碗の中栗だらけじゃん」
「うむ。というか栗しか入らんだろう」
熱燗を注いだ杯を口許にゆっくり運びながら、銀ちゃんの隣に並んだ桂さんが呆れ混じりな口調を挟む。
掛け軸が下がった床の間のほうを見つめてた目が、ふと何か思い出したみたいに瞬いて。
「そういえばお前、昔から栗に目がなかったな。芋や栗好きと言えばおなごと相場が決まっているものだが」
「あー?いやぁ俺だけじゃねーだろ、女は芋栗かぼちゃに目がねーってよく言うけど男だってそーだろ」
ふふん、って銀ちゃんが鼻で笑う。
杯のお酒をこくりと飲み干した桂さんのほうを流し見ると、何かいたずらでも思いついたみたい。目許を性格悪そうににんまり細めて、
「おめーだって違う栗なら目の色変えんだろぉ、例えばあれだろ幾松の栗とかよー剥いてみたくてたまんねーんじゃねーの」
「ぶっっっふぉおおおおおおっっっっ」
「はーいご飯盛るよー、大盛りがいい人は言ってねー」
わざと大きめな声で口を挟んで、ぐりぐり、ぐりぐり。
最低な下ネタを自慢げに披露した酔っ払いのにやけ面を、お仕置き代わりに肘で小突く。
それでも銀ちゃんはにやにやしっ放しで、この程度のお仕置きじゃちっとも懲りてくれなさそうだ。
幾松さんの名前が出た瞬間にお酒をぶはーっと吐き出してこたつ布団に突っ伏してげほげほしてる女装美人と『しっかりしてください桂さん』って背中を撫でてあげてる着ぐるみの人を同情の目で眺めながら、あたしは神楽ちゃんのお茶碗にご飯をもこもこ積み上げていった。
「新八ー、何アルか幾松姐の栗って」
「っっぶっほおおぉっっっ」
「??お前今日はやたらと咳込むアルな。おい、代わりに答えろヨタカチンコ」
「いやそりゃあ食い物の栗の話じゃなくて・・・っって、言わせんじゃねーよクソガキがぁぁ!」
不思議そうな神楽ちゃんと赤面して咳込む新八くんと気まずそうに怒鳴ったタカチンくんの声が響く中、用意しておいたお茶碗でみんなにごはんを配っていって。最後に自分用のごはんを盛りつけた。
「恋人同士のお付き合い」を始めてから買い揃えた、新しい朱色のお茶碗。
銀ちゃんたちのお茶碗よりも小ぶりなそれを手に持って、空いたスペースに腰を下ろす。
着物の膝をもぞもぞもぞもぞ、こたつの奥へ奥へと進めてたら、
「…ちょ、あのー。ちゃん?もしかして怒ってる?あれっおっかしーなぁ気のせいかなぁ銀さんの飯に栗一個も入ってねーんだけどー」
栗抜きご飯のお茶碗を手にした銀ちゃんの恨めしそうな声が隣からぶつぶつ聞こえたけど、もちろん無視するにきまってる。
さっき取り分けておいた水炊きの小皿にお箸を伸ばすうちに、もう下半身があったまってきた。
台所に行っただけで冷えちゃってた脚が、ほわぁっと暖気に包まれ始める。
ポン酢を入れた取り皿に分けておいた鶏肉はもう冷めかけてたけど、噛めば口中に溢れる肉汁と生姜の香りと、野菜の甘みが広がっていく。
うん、おいしい。ぷりぷりな皮の弾力もいいかんじだよ。
さすがにお店の味には及ばないけど、まあまあ上手く作れたんじゃないかな。そう自画自賛したくなるくらいの味だ。
・・・・・・うん、美味しく作れた。作れたと思う。うん。たぶん。
口の中でほぐれていくお肉をゆっくり噛みしめながら瞼を伏せて、鶏肉としいたけと白菜がポン酢色の海でぷかぷかしてる手元の取り皿に視線を落とす。
こんなふうに銀ちゃんたちとわいわいがやがや食べるごはんが、あたしはすごく大好きで。
中でもお鍋はいつも楽しくて、毎回美味しく食べてきたんだけど。
今日のこれだって美味しいはずなんだけど、お腹だってそれなりに空いてるはずなんだけど、
――なぜか箸が進まない。一口食べるたびに箸が止まっちゃう。
ほんわりあったかい和室の中は食欲をそそるおいしい匂いでいっぱいなのに・・・なのに、食べる気が起こらない。
かといって、お酒を飲もうかなって気分でもない。昼間にあんなことがあってからずっと胸になにかがつかえてるような気分で、お腹の奥もずっともやもやしたままだ。
(・・・もしかしたらあたし、何もわかってなかったのかな。)
間違ってると思ってた銀ちゃんや桂さんの言い分のほうが正しくて、あたしのほうが間違ってたのかもしれない。
買い物中も、お料理してた間も、それ以外のふとした瞬間にも――昼間から何度も思い浮かべて、だけど答えが出なかったことが、頭の中をまたぐるぐると回り出す。
こうしてぼんやり考え込むたびに浮かんでくるのは、ドラッグストアに現れた人が最後に見せた表情だ。
・・・ああ、思い出したらまたもやもやが広がっていく。
喉に何か苦いものがずっと痞えてるような、胸の中を大きな何かに塞がれてるような変な気分だ。
お料理してた間やみんなと話してるときは、このもやもやもおかしな気分も少し忘れていられたんだけど――
『・・・ご。ごめん、驚かせてしまって。
もしかしたら、その、迷惑になるかとは、思っていたんだ、いたんだ、けど・・・・・・その人は・・・・・・』
混み合うドラッグストアの狭い通路に戸惑いを隠せていない表情で現れたのは、思ってたとおりにあの人で。
(その人は)
そう言われたのが銀ちゃんだってことは、考えるまでもなかった。
しどろもどろな口調を絞り出すようにして話し続けるその人の目は、しきりに銀ちゃんのほうも窺っていたから。
だけどあたしも突然現れたその人に驚かされたばかりで、頭の中はまっしろで。
買い物客がしきりに行き交う混雑したお店の中なのに、まるでここだけ時間が止まってるみたいにあっけにとられて立ち尽くした。
空気まで凍りついたような沈黙がたっぷり30秒くらい続いた後で、最初に口を開いたのはその人でもなければあたしでもなかった。銀ちゃんだ。
驚きのあまりぎゅっとしがみついてすっかり強張ってたあたしの腕を自分のお腹から外しながら、進んでその人に名乗ってくれた。
しかも――ほんの一瞬だけど、頭まで下げて。
『あーどーも、坂田です。がいつもお世話になってます』
当り障りがなさすぎて気味が悪いくらいだった初対面の挨拶は、いつでもどこでもふてぶてしくて図々しいのがデフォルトな銀ちゃんにしては口調も態度も穏当で。
しかも万事屋のお仕事でたまに見せてる営業用の作り笑顔まで浮かべてるから、愛想がよすぎてかえって胡散臭いくらいで。
あたしはまるで狐につままれたような気分にさせられて、がっしりした肩の影から見える横顔をぽかんと見つめてしまってた。
『――・・・ぁ、ああ、いや、どうも、初めまして――』
銀ちゃんの態度が友好的だったおかげなのか、あたしたちの関係については言葉にするまでもなく理解してもらえたみたい。
その人はまだ少し動揺が残った表情で、けれどきちんと名乗ってくれて。
銀ちゃんの後ろの新八くんとタカチンくんに気付いても、嘘の住所を教えた二人を責めることもなく「さっきはどうも」って笑いかけてた。
最後に道案内してきた桂さんに短くお礼を言ってから、すぐにお店を出ていった。
見送るために外へ出たところで、手に提げていた紙袋を――メッセージで「出張のお土産」って言ってたお菓子の箱を、袋ごとあたしに差し出して。
『――その、さん。今まで言えなかったけど、僕は・・・・・・』
そう言いかけた人の手が、お土産の袋を受け取りかけたあたしの右手に重なって。
重ねられた手から感じる男の人の力強さと、緊張で張り詰めたぎこちない表情。
その両方にびっくりして息を詰めて固まってたら、やがてその人は顔を上げて、まっすぐに目を見つめてきた。
真剣だったその態度をどう受け止めていいかわからなかったあたしは、きっと困りきっているのが丸判りな顔をしてたんだろう。
緊張が滲んだ目の前の表情は、まるであたしの心の中を写し取ったみたいに曇っていった。
『・・・・・・いや。僕の思い違いで迷惑を掛けたね、すまなかった。それじゃあまた月曜に』
重ねていた手をすぐさま引いたその人は、痛々しい笑顔でそう言った。
謝られたのはそれが二度目だった。一度目も二度目も、あたしは黙ったままだった。
驚きで固まった頭の中にはこんな時に言うべき言葉なんて見つからなくて、唯一伝えられたことといえば、渡されたお土産のお礼くらいで。
受け取った袋を気まずい気分で抱きしめながらまごついてる間に、あの人は銀ちゃんに会釈していた。
お店の入口横に座って買い物が終わるのを待ってた定春の前を通り過ぎると、どこかで聞いたようなBGMが流れる商店街の雑踏に紛れて見えなくなった。
見えなくなる寸前にほんの一瞬振り向いた顔も、やっぱりこれまで見たことのない表情だった。
いつも明るくて自信に満ちてる、そんな人の印象からは程遠い顔だ。
何かに傷ついて途方に暮れている人の顔。大事な何かをなくしてしまって落胆してる人の顔。
人がどういう時にそういう表情になるのかは、あたしもちょっとだけ知っている。
銀ちゃんと出会うすこし前――前に好きだった人にフラれて落ち込んでいたばかりの頃は、毎朝、目が覚めて鏡を見るたびにそんな顔した女の子と目が合っていたから。
そう感じて、ようやくあたしは考えた。あの人をあんな顔にさせたのは誰なのか、ってことを。
『・・・そういえば、前にランチに誘われて・・・そのときに話したかも。
どんなところに住んでるの、みたいな話』
その人を見送った後。ドラッグストアの中に戻ってからだ。
びっくりすることが次々に起きて目の前の状況に全然ついていけなくなってた頭の中は、その時になってようやく整理され始めたみたいだ。
ストーカーと思われてた人が正真正銘の同僚だってことをみんなに説明してるうちに、あたしはすごく唐突にこの騒ぎの原因を思い出した。
そう――事の発端は、メッセージでも話題に上げられてた食事会。違う部署の人たちも集まって大勢でランチしたときだ。
隣合わせの席だったあの人とあれこれ話題を変えながら話す中で、住んでる町の話になって。
向かいに座った同期の子が「そういえば近所に変な名前のマンションが出来て」「が住んでるところも変わった名前だよね」なんて話を振ってきたから、その流れでマンションの名前を口にした気がする。
はっきり憶えてないから自信はないけど、
・・・・・・うん、たぶん口にした。あの時に言っちゃったんだ。
そのせいで新八くんたちを心配させて、桂さんまで騒がせて、銀ちゃんとは喧嘩になっちゃって。それに、あの人にも――
あやふやな記憶を頭の中で再生させるうちに後悔が幾つも湧いてきて、あたしの口はどんどん重くなる一方で。
それでも食事会でそんな会話があったことを説明して謝ったら、銀ちゃんと桂さんたち、タカチンくんは納得してくれたみたいだった。
だけど新八くんには『いいんですか、あの人また来たりしませんか』って不安そうに尋ねられたし、神楽ちゃんに至っては銀ちゃんの背中をぼこぼこ殴って『何であいつ帰したアルか!』ってすっかり憤慨しちゃってて。
『銀ちゃんがやらないなら私があの男シメてくるネ!』ってお店を飛び出そうとしたから、桂さんと着ぐるみの人が二人がかりで引き止めてくれたくらいだ。
そんな中で誰より平然としていて、神楽ちゃんがいくら怒っても見向きもしなかったのは銀ちゃんだ。
スマホアプリに送られてきたメッセージを何通か見ただけで、あんなに不機嫌になってたくらいだもん。
また怒ったり拗ねたりするんじゃ、って内心身構えてたあたしの予想をあっさり覆してみせた銀ちゃんは、それからもびっくりするくらいいつもと態度が同じだった。
ドラッグストアを出て商店街を歩いてたときも、半期に一度の大セールで店中ごった返してレジ前に長蛇の列が出来てた大江戸マートでも、あの人のことには触れなかった。
普段通りなあの態度に、正直あたしはほっとした。
だけどほっとするのと同じくらい、拍子抜けした気分にもさせられた。
メッセージを見たときは煩いくらい言いたい放題言ってすごく気にくわなさそうだったくせに、あの人と実際に会ってからは平然としすぎてて逆にぶきみだ。
銀ちゃんたら、どうして何も尋ねてこないんだろう。どうして何もなかったような顔してるんだろう。
――うん、わかんない。なんだかよくわからない。
銀ちゃんはどう思ったんだろう、あの人のことを。
次に寄った大江戸マートで、新聞のチラシで前もってチェックしてた「本日の特売品」の白菜やネギやしいたけなんかをぽいぽいカゴに放りながら、あたしは何度もちらちらと、カートを押して隣を歩く銀ちゃんの横顔を窺ってた。
後ろめたいような気分で見上げた表情は、まるで何事もなかったみたいにいつもと同じですっとぼけてた。
『なーなー晩メシ水炊きにするんだろ、つみれも入れよーぜ』なんて特売の鶏ひき肉のパックをカゴに放り込んだときもそう。
お豆腐コーナーの前で会った定食屋のおばさんと立ち話したときもそう。
どこも変わったところなんてない。気抜けした口調もだるそうな雰囲気も何もかも、いつもどおりの銀ちゃんだ。
なのに、そんな銀ちゃんの傍にいるほどなぜかあたしは落ち着かなくなった。
銀ちゃんに対して気まずさを感じるようなことなんて一つもしてないはずなのに、何かいけない隠し事でもしてたような気分になって、目が合うとつい顔を逸らしちゃったり、何か話しかけられるたびにぎくしゃくした態度になっちゃったり。
そのうちに胸の奥がちくちくしてきて、あたし一人がこんな気まずさを抱えてるのがばかみたいに思えてきて。
だからつい自棄になっちゃって、後ろを歩く新八くんや神楽ちゃんに聞かれないように小声でぽそぽそ打ち明けてしまった。
・・・別に、銀ちゃんが何か尋ねてきたわけでもないのに。
ごく最近まで、あの人に苦手意識を持ってたこと。
苦手だと思うようになったきっかけが、まだ入社したてで男性恐怖症に困ってた頃に「君って男嫌いなんだって?」って話しかけられたせいなこと。
それ以来あの人に対するわだかまりみたいなものが出来ちゃって、話しかけられそうな雰囲気を感じるたびに逃げていたこと。
そのうちに向こうもあたしの苦手意識を察してくれたのか、ここしばらくは通勤電車でたまに挨拶するだけの疎遠な間柄に落ち着いてたこと。
つまり今日会ったあの人が、今日も行ったあの公園のベンチで銀ちゃんに相談した「悩みの種」のひとつだったこと――
――改めて思い返してみると、どれも銀ちゃんには話してなかったことばかりだ。
ていうか…別に内緒にするつもりは無かったけれど、かといって話すつもりなんて微塵もなかったこと、かな。
会社の人に対するほんのちょっとした苦手意識なんて、銀ちゃんに限らず友達や家族にだってわざわざ相談するようなことじゃないって思ってたし。
あたしが話し終えるまで、銀ちゃんは一度も口を挟まなかった。
口から生まれた男なんて言われてる銀ちゃんにしては、珍しく聞き役に徹してた。
ただ、最後の話――銀ちゃんに出会ったばかりの頃の悩みの種のひとつが実はあの人だった、って口にしたときだけ、何か思い出したみたいにぱちりと瞬きしていたけど。
『・・・あー、はいはい、あれな。そーいやぁ聞いたなそんな話』
少し間を置いてから返ってきた口調はたいして興味がなさそうで、何を考えてるのか掴めないとぼけた表情もそのままだった。
普段と変わらない眠たそうな目が、激安タイムセール中で飛ぶように売れていく卵のワゴンを眺めてた――
「・・・・・・・・・からよー、後で行こうぜ。・・・ちょ、ー。聞いてんの、おーい」
「〜〜っっひぁあぁ!」
ふうっ。
不意打ちで耳に吹きかけられたのは、熱い吐息とお酒の匂いだ。
背筋を跳ね上がらせて驚いた拍子にお肉が落ちて、目の前でポン酢がぱしゃっと跳ねる。
昼間のことでもやもやしてた頭の中は一気に現実に引き戻されたけど、熱い吐息に撫でられた肌がまだぞくぞくしてくすぐったい。
あわてて横を向いてみれば、甘ったるそうないちご味のチューハイの缶を口許まで持ち上げた銀ちゃんが癖だらけな前髪の影からこっちを見てた。
ゆっくり身体を屈めながら無遠慮に迫ってきた不審そうな顔に、完全に視界を塞がれる。
疑わしげな目つきで間近からじとーっと眺められたら、なぜかすごーく気まずくなった。銀ちゃんから反射的に目を逸らして、あたふたしながら後ずさって、
「っっな、なにっ!?〜〜く、栗ごはんならまだおかわり出来るけどっ」
「飯の話じゃねーって、酒の話な。冷蔵庫の酒全部飲んじまったからあとで買いに行こうって言ってんの。
何っつったっけお前んちの近所の、24時間営業の店」
に、24時間営業のお店?それって――うちと西郷さんのお店の中間にある酒屋さんのことかな。
お酒もジュースもびっくりするくらい激安で、年中金欠な万事屋にとっては大助かりなお店なんだけど、
――いや、いやいやいや、それよりも。
いま銀ちゃん何て言った?冷蔵庫のお酒ぜんぶ飲んじゃった、とか言ってなかった?
お料理始めたころにはたしかビールやら何やらの缶が数本は入ってたはずだけど、あれを全部?
「・・・呆れた、銀ちゃんまだ飲む気?
昨日も西郷さんのとこでぐでんぐでんになったんでしょ、いいかげんにしなよ」
「いーじゃん明日も依頼入ってねーし。お前も行くだろ、飯食ったら一回家に戻るっつってたじゃん。
毎週見てる深夜アニメの予約忘れたー、ってさっき米研ぎながら嘆いてたじゃん」
「えー、いーよ別に一緒に来なくても。あたし一人で行くから」
「っだよつれねーなぁ一人でイくなよ、イくときは二人一緒だから俺がいいって言うまで我慢しろよっていつも寝床で手取り足取り教えてんだろぉ」
「「ぶっっっはゎあああああああっっっ」」
お箸を持ったあたしの右手を、ぎゅっ。
言ってることは最低なのにやけにきりっと引き締めた真剣な表情で迫ってくる銀ちゃんの向こうで、二重の呻き声が上がる。かと思えば、お酒とポン酢の水飛沫がぶわっと噴水みたいに天井まで飛び散って、
『桂さんんんんんんんん!!』
「しっっ、新ちゃんんんん!?」
上げたプラカードをばばっと放った着ぐるみの人が、げほげほ噎せちゃって止まらない桂さんの背中をグローブみたいなでっかい両手で撫で始める。
そしてこたつを挟んだ向こうでは、お肉でも喉に詰まらせたのか喉を押さえて顔面蒼白な新八くんが「うぐぐぐぐぐもぶふぉおおっっ〜〜〜!?」って苦しそうな絶叫を上げ続けてる。
〜〜ああっ!桂さんが、桂さんがまた大変なことに!きれいな長髪を獅子舞みたいにぶわわぁっと振り乱してごふぉっっげふぉぉっっごほげほごふぉぉっっ、思いっきり咳込み始めちゃったよ!
「大丈夫ですか桂さんっ、新八くんもっ。〜〜〜あぁもうっ、銀ちゃんが変なこと言うから!」
「いーじゃんイこうぜデートしよーぜ大人のデート、昼間はコブ付きで何もイイこと出来なかったしよー今度こそ行こうぜ公園裏の」
「ラブホなら一人で行けば!先週銀ちゃんが見てたえっちなビデオのお姉さんと一緒に行ったつもりで思う存分一人でイイことしてくれば!?」
「ばーかちげーよ俺はお前とイきてーんだよ、なんだよ彼氏にAV女優との妄想プレイ勧めてくるってよー」
ちぇっ、って舌打ちした銀ちゃんが、缶のチューハイを美味しくなさそうな顔してごくんと飲む。
ちょっと、何その餌食べてるハムスターみたいに膨れたつまんなそうな顔は。銀ちゃん、あの地獄絵図が見えないの。
タカチンくんに背中ばしばし叩かれながら白目剥いて悶絶してるあなたの弟分が今にも死んじゃいそうなのは誰のせいかわかってんの!?
なんて思って非難を籠めた目で睨んでたら、銀ちゃんがこっちへちろりと視線を送ってきた。
ものすごくやらしいことを考えてるときの細めた目つきが、目尻をふにゃあっと緩ませる。
いつのまにか背中まで回されてた腕があたしの肩を引き寄せて、
「あれっまさかあれ、ひょっとしてあれなの。
彼氏にAVで自家発電推奨して余計にムラムラさせたうえに限界まで焦らしまくるドS女王様のお預け調教プレイ的なやつなの、うわー何それえげつねー」
「は?なにそれ、ばっかじゃないの」
「何だよそーいうこと?俺がAV見てもエロ本読んでもこいつぜんぜん怒んねーなーって思ってたけどー、お前そーいう趣味だったの」
胸元に倒れ込んだあたしを緩みきった顔で眺めてる酔っ払いを、呆れきった目つきでじとーっと眺める。
なにそれ、そーいう趣味ってどういう趣味。
いや、別にわざわざ教えてくれなくていーけど。
どう見てもいかがわしいことしか頭になさそうな顔した天パのおっさんのあたしをドS女王様に見立てたAV的お預け調教プレイ妄想の中身なんてこれっぽっちも知りたくないけど。
ごく、ごく、ごく。銀ちゃんが喉を鳴らして美味しそうに、チューハイの残りを一気に煽る。
甘そうなお酒のピンク色が残った唇の端を吊り上げて、
「え、それともあれなの。ドSと見せかけてドMなの。
焦らされた反動でケダモノ化した彼氏にめちゃくちゃされるのがいいんですー、みてーな?」
「はぁ?」
「はいはいあれな、男を虐げるドS彼女と見せかけて実は逆上した男にひどいことされて喜ぶドMっ娘でした的なやつな。
っだよぉそれ初耳なんだけど。ダメだろぉそーいう大事なこたぁ最初に教えてくんねーと」
「嬉しそうな顔するなド変態。食事中にキモい妄想するなド変態っっ」
「おいタカチンコ、えーぶいでじかはつでんって何アルか」
「あぁ?そりゃあアダルトび・・・〜〜っっって言わせんなって言ってんだろーがクソガキぃぃ!」
「〜〜ごほ、げほっっっっ、ほっ、本気で死ぬかと思った・・・!ちょっ、いいかげんにしてください銀さんっ食事中のセクハラと下ネタは禁止って何度言えばわかるんですか!?」
生死の境目から脱したばかりでぜーはー言ってる新八くんの悲愴な訴えはしれっと無視して、銀ちゃんがのそっと立ち上がる。
あたしは思わず「ちょっと、どこに逃げる気っ」って着物の袖を掴んで引き止めちゃったんだけど、それがまた失敗だった。
へ、って気抜けした顔で振り向いた銀ちゃんがすごく意外そうに目を丸くしたと思ったら、
「どこって厠だけど。んだよ、厠も一緒にイってくれんの」
「〜〜〜っ!」
可笑しそうにくつくつ笑われちゃって、ただでさえ熱い顔がさらにかーっと火照っちゃって。
頭から湯気が噴き出しそうな恥ずかしさをこらえながら、着物の袖をぱっと放した。
ふんふんふふ〜〜ん、って調子に乗った酔っ払いのいかにも機嫌良さそうな鼻歌が遠くなっていくのを感じながら(ムカつく・・・!!)、お鍋の中でくつくつ煮えてるつみれにお箸を伸ばして、ぐさっっ。
恥ずかしさを紛らわしたいの半分、八つ当たり半分でお行儀悪く突き刺した。
赤面してるあたしの顔よりもさらに熱々なお鍋の具に小さく齧りついて、むぐむぐむぐむぐ、はふはふはふ。
頭の中で「銀ちゃんのばかっばかばかばかっっ」を連呼しながら膨れっ面で噛みしめてたら、
「・・・まったく。呆れるほど変わらんな、あいつは」
疲れきった声と溜め息が、横から届く。
盛大にリバースしちゃったお酒を女物のハンカチでごしごしと、麗しい女装姿とは真逆の男らしい手つきであちこち拭きまくってる桂さんが、
「あの酒癖の悪さは昔からだ、酔えば酔うほど品がなくなる。いや、品がないのは普段からか」
長年の腐れ縁だ、奴の悪癖など俺はとっくに諦めているが。
そんなふうに悟りきってそうな顔つきで桂さんがつぶやく。
長い睫毛と薄紫のアイカラーで彩られた切れ長な目がすっと視線を投げかけてきて、
「何というか・・・今日は大変だったな、殿も」
「え?あはは・・・そうですね、銀ちゃん酔うとわけわかんないことするから」
「ああ、いや。銀時の話ではない。昼間に俺が連れてきた同僚殿のほうだ」
そう言いながらハンカチを袂に戻すと、眉間をひそめながら口を開いた。
「しかし、あの同僚殿には気の毒なことをした」
「え」
「自分の思いを伝えたい一心で行動していただけで、あの男、おそらく悪気はなかったと思う。
軽はずみに連れてきた俺も悪いのだから、できれば今日の事は大目に見てやってほしい」
「・・・・・・」
返す言葉を見つけられなくて黙って聞いているうちに、お箸を持つ手から自然と力が抜けていく。
味は美味しいはずなのにそんなに美味しく思えないつみれは、いつの間にか取り皿の中に逆戻りしていた。
――たぶん桂さんの言うとおりだ。あたしも、あの人には悪気なんて無かったんだと思う。
ごちゃごちゃした商店街に消えていった人が最後に見せた表情。
心の底から呆然としてる自分を少しも取り繕えていない顔。
あんな顔つきで帰っていくしかなかった人に、悪気があったなんて思えない。
それに――たぶん。元々あの人は、悪気や悪意で行動するような人じゃないはずだ。だって――
「・・・・・・あたしのほうこそ、ずっと大目に見てもらってたのかもしれないです」
「ん・・・?どうされた、急に暗い顔つきになって」
怪訝そうな声に問いかけられて、うつむいたまま苦笑した。
(大目に見てやってほしい。)
桂さんはたぶん、気を遣ってそう言ってくれたんだろうけど――大目に見てもらっているのはきっとあたしのほうだったんだろう。
あたしが長い間あの人を敬遠してたことには気付いてたはずなのに、そのことを気にしてるような態度や根に持ってるような様子を見せられたことは一度もない。
新八くんたちが嘘の住所を教えたことにも本当は気付いてたはずなのに、二人と顔を合わせた時は笑ってお礼を言っていた。
送られてきたメッセージを読んでなかったことだって、返信しなかったことだって、あの人は少しも責めなかった。
何か言いたげだったけど、何も言わずに帰っていった。
帰る間際にひとことくらい、皮肉や文句を口にするくらいのことはされてもおかしくなかったのに。
「でもあたし・・・そういうの、ちっとも気付いてなくて。ぜんぜん判ってなくて。
だから・・・あたしのほうなんです。いろいろ見逃してもらってたり、大目に見てもらったりしたのは」
「・・・・・・いや、すまん殿。俺は余計なことを言ったようだ」
今のは忘れてくれ。
気まずそうな桂さんが苦々しい口調で締めくくっても、返す言葉は出てこなくて。
結局「いえ、はい」なんて、どっちつかずで意味不明なことをつぶやいたきり黙ってしまった。
落ちたお肉をしばらく見つめて、それから顔を上げてみる。
湯気で曇った和室の景色は、いつもと変わらない万事屋の景色。
ドラッグストアを出たときのぎくしゃくした空気もどこかに消えて、みんなすっかりいつもの表情に戻ってる。
あの人が現れたとたんにころりと態度を変えちゃった銀ちゃんは言うまでもなく、新八くんも、タカチンくんも、スーパーに入ったときまではつまらなさそうに膨れてた神楽ちゃんだって、万事屋に着く頃にはすっかりいつもの表情に戻ってた。
お互いに言いたいことを言い合って、にぎやかで楽しくて気兼ねのいらない空気。
こたつを囲んで同じお鍋をつついてるみんなの和気あいあいとした雰囲気だって、すっかり普段の万事屋だ。
そう、みんなはいつもと同じ。いつまでも一人でもやもやしちゃって、暇さえあれば考え込んでるのはあたしだけ。
「合コン行くの絶対だめ」とか「ナンパ男についてったら許さねーから」とか日頃はやたらと口酸っぱく言ってくる過保護彼氏の銀ちゃんだって、あの人のことはちっとも気にしてなさそうなのに。
なんて思ったら、ただでさえ不安定な心の中がさらにもやもやしてくるから困る。あたしはあわてて口を開いた。
「で、でもよかったです、銀ちゃんもう怒ってないみたいだから」
「うん?何をだ」
「えっ。あ。あの。さっきのあれです。ええと、スマホの、メッセージのやりとりとか・・・」
気まずさに肩を竦めながら小さな声で答えたら、桂さんも察してくれたみたい。ああ、とつぶやくと杯に目を落として、
「怒っていない、か。だといいのだが」
「え」
「いや・・・すまない、また要らぬことを言ったな。
ただ、その・・・そなたの前ではどうか知らんが、俺が見てきたあいつは存外に臆病なところがあってな」
「え。・・・・・・臆病って。銀ちゃんが、ですか」
は?臆病?・・・銀ちゃんが?一体あのふてぶてしい銀ちゃんの、どのへんが?
きょとんとした顔で見つめ返したら、桂さんが困ったように眉をひそめてかすかに微笑む。
綺麗な長い髪がさらりと肩のほうまで流れて、女物の羽織に描かれた大輪の牡丹の上を滑り落ちていった。
「その臆病さゆえか、大切に思う者への執着も強い。だから殿、こんな時は用心することだ」
「・・・?それって、銀ちゃんまだ怒ってるってことですか」
「さあ、そこは何とも言えんが。しかし俺が要らぬ忠告をしたくなるほどには、奴はそなたに惚れ込んでいるからな」
「っ!?なっ、っほ、ほれ・・・〜〜っっ!?」
「おお?どうされた。今にも目玉が飛び出そうになっているぞ殿」
これが驚くようなことか?とでも言いたそうに首を傾げた桂さんに、「まあ少し飲んで落ち着くといい」って、使われてない杯を差し出される。
動揺して顔が赤くなり始めたあたしがあたしが危なっかしい手つきでそれを受け取ると、人肌に温められた透明なお酒を注いでくれて。
「そうだな、例えば…」
そう言いながら、何か思い出しているような顔つきで自分の杯にも手酌で注ぐ。
とく、とく、とく。流れ込んだお酒で一杯に満たすと、まずは一口飲んでくれ、って杯を顔の高さまで持ち上げながら目で促してくる。
あたしが杯を口許に運べば、桂さんも杯を傾けて、
「現に俺は昨日も前回会った時も前々回もその前もさらにその前も・・・とにかくそなたと銀時が恋仲となって以来というもの、数えきれんほどあいつの惚気を聞かされているのだが」
「ぷっっはあぁぁっっっ」
喉に詰まったお酒の味に苦しみながら身体を丸めて、けほけほけほけほっっ。
さっきの桂さんとほぼ同じポーズでがばっとこたつ布団に突っ伏したところへ、
「まぁあいつが惚気出すのは大方酒が回っている時なのだが、昨日は何と言っておったか、うむ、確か・・・殿の作る飯が毎回美味いだの台所で楽しげに料理に励む姿が初々しいだの酔って呂律が回らないときの甘えたしぐさが可愛らしいだの先週はどこぞでデートして帰りにラブホテルへ連れ込もうとしたが金もないくせに無駄遣いするなと怒られその時の恥じらいつつも真剣に怒る姿がまるで夫をたしなめる新妻のようで結局辛抱できずに殿の部屋に泊まり毎晩むさ苦しい攘夷浪士どもとザコ寝している独り者の俺には想像もつかない天国のような一夜を過ごしたがどうだ羨ましいか羨ましいだろコノヤロー、だのとしきりに絡んできおって」
「っっけほっ、ち、ちょっっ桂さっやめっやめてくださっっけほっ、けほけほっっ」
し、ししししし・・・信じらんない。信じらんないよ銀ちゃんてば、何やってんの!?
あまりの恥ずかしさに頭が爆発しそーだよ、咳込みすぎて涙出てきたよ!
いくら桂さんが昔からのお友達とはいえデートがどうとかラブホがどうとかあたしの部屋にお泊りしたとか、なんでそんなことまで赤裸々にぶっちゃけてんの恥ずかしい!
「まだまだあるぞ、そう、他には・・・若い娘の好む流行りのアクセサリーを殿は数多く持っているがここ最近は銀時が誕生日に贈った安物ばかり身に着けていて「そんなにそれが気に入ったのか」とからかうと恥ずかしがって怒り出すところが愛らしいだの今週末は万事屋で鍋パーティーを開くと張り切るそなたが可愛くてたまらずいきなり抱きつき3カウントで押し倒したら10発ほど殴られ鼻血が出たが真っ赤になって怒っているときの殿の初心な様子がまた可愛いだのそのパーティーに俺を誘えと言われたからうちの嫁の天使の如きやさしさに免じて一応お前も誘ってやる感謝しやがれだのと、他にも聞いたこっちが頭痛と吐き気を覚えるような益体もない惚気を延々と」
「〜〜〜っっっけほっっ、けほけほ、けほっっっ」
けほけほけほけほ咳込む間に、ちらっと隣の反応を盗み見る。
ところがあたしをこんな苦しい状態に追い込んだ人は、まったく何の違和感も感じていなさそうな表情で重い溜め息をついていた。
たまに周囲を愕然とさせるくらい常軌を逸したマイペースぶりを発揮する桂さんだ。
止まらない咳と恥ずかしさにげほげほしながら悶絶してるあたしのことなんて、きっと目に入ってもいないんだ・・・!
「その時のあいつときたら目も当てられん面だった、まったく白夜叉ともあろう者がでれでれと腑抜けおって・・・ん?どうした殿。喉に肉でも詰まらせたか。
いかんぞ、肉はしっかり噛まねば」
「〜〜〜ぃ、いぇ、っっ、けほっ、〜〜つ、詰まらせたっていうか、詰まるよーなこと言われたっていぅか・・・!」
「ん・・・?すまん、よくわからんが俺はまた何か不味いことを口にしただろうか」
「ゃ、い、いぇっ、そうじゃ、なくて、そーいうあれじゃなくて、えっと、だから・・・っっ、〜〜何でもないです、何でもっっ」
「ー、携帯ここに落っこちてるけどいいアルか」
このままにしておくと銀ちゃんに踏まれてしまうヨ。
そう声を掛けてきて、お箸の先でこたつ布団の端っこを指したのは神楽ちゃんだ。
小さくてまっしろな女の子の手が、スマホを畳から拾い上げる。はい、ってこたつ越しにあたしのほうへ差し出してくれた時だ。
ぴろろん、って着信音が軽やかに鳴り響いた。
「あ、何か来たネ」
音を鳴らしたスマホ画面にぽんと表示が飛び出して、送信者の名前とメッセージが映る。
そこに目を落とした神楽ちゃんが「ん?」って首を傾げて画面を覗き込んだ。
覗き込んだときには笑っていた女の子の唇は、じわじわとつまらなさそうに尖っていって。
画面を嫌そうに睨みつけたかと思えば、やがて大きな青い瞳が怒ってるような目つきであたしをじとーっと見上げてきて。
「・・・またあのストーカーからネ。私こいつきらいヨ」
拗ねたような口調でそう言ってあたしにスマホを手渡すと、その場がしんと静まり返る。
ぷいっと顔を背けた神楽ちゃんが、今にもこぼれそうなくらい高々と積み上げた栗ごはんのお茶碗を引っ掴む。
何か面白くないことがあってやけ食いでもしてるみたいなものすごい勢いで、ご飯をぱくぱく食べ始めた。