「――ふーん、神楽がねぇ。そりゃあやきもちっつーか、知らねー奴に割って入られたみてーで面白くなかったんじゃねーの」
あいつ、お前のこと姉ちゃんみてーに思ってっから。
ついでみたいにそう言うと、銀ちゃんは解けかけてた赤いマフラーの端っこを掴む。
ひら、って後ろへ流して巻き直した。
目許がうっすら赤いからそこそこ酔ってるみたいに見えるけど、これはあんまり酔ってないときの顔、かな。
酔ってるときでも表情はとぼけきったままなんだよね、銀ちゃんて。
泥酔して顔が真っ赤でふらふらよろよろ千鳥足になってるときは別として、このくらいのお酒の量だと素面のときと見た目はそんなに変わらない。
まぁ、普段はそんなこといちいち気にしたりしないんだけど――今日は銀ちゃんの反応が気になるから、つい顔色を窺いたくなっちゃう。
ほんの少しだけ歩調を緩めて、視線に気付かれないようにちょっと後ろから横顔を見上げる。
「うー、さっみー」なんてつぶやきながらぐるぐる巻きにしたマフラーを口許までもそもそずり上げて、眠そうな半目の視線は斜め上の夜空のほうへ。
何を見てるのかなぁ、って目で追ってみたら――
うんと遠くに見える、高層ビルとタワーマンションの隙間。
まぶしいくらいに輝いてるターミナルの、くらやみを突き抜けて宇宙まで届きそうな真っ白な光を見上げてた。
「・・・・・・銀ちゃんは?」
「んー?なに。なんか言った」
「・・・。ううん。べつに」
車道の向こうで赤い提灯を光らせてるおでん屋さんの屋台を眺めるふりで、こっちを見下ろした視線を避ける。
あたしの態度が不自然だったのか、しばらく銀ちゃんに見られてるような気配があった。
それでも車道のほうを向いたまま黙って歩いてるうちに、そんな気配も感じなくなったけど。
・・・銀ちゃん、何考えてるのかな。
メッセージのことあんなに怒ってたのに、今の話には何も感じなかったのかな。
思いきって切り出してみたのに、なんだか適当にスルーされちゃった気がする。
反応を気にしてちらちらとマフラーで包まれた顔を盗み見てると、くい、って右手を引っ張られて、
「あーあー何これ、氷みてぇ。外出るとすーぐ冷えちまうよなぁお前の手」
「・・・」
手袋を忘れてかじかんでた指先ごと、あったかい何かに包まれる。
見れば隣から伸びてきた腕が、しれっと手なんか繋いでた。
あたしの倍は分厚くて、ごつごつしてる硬い手のひら。
体温が高めで熱いくらいなその中にすっぽり収まってる自分の手を、きょとんと見つめる。
・・・うん、やっぱりおかしいよ。
やっぱり今日の銀ちゃんはちょっと変だ。
ここを歩くときに手を繋がれたのなんて初めてだ。
銀ちゃんて所構わずべたべた触ってくるわりにおかしなところで照れ屋だから、人目につきそうな場所じゃ手を繋いだりしないのに。
なんてことを不思議がりながら、歓楽街に遊びに来た人たちやこれからご出勤の夜のお仕事の人たちとちらほらとすれ違う暗い道に視線を落としてとぼとぼ歩く。
・・・お姉ちゃん、かぁ。
そうなのかなぁ。そうだったらすごく嬉しいんだけどな。
あたしだって神楽ちゃんのこと妹みたいに思ってるもん。
だけど妹みたいに思ってるから、さっきみたいな目で見られただけで心底ヘコんじゃうんだけど。
「・・・やだなぁ。これで嫌われちゃったらどうしよう」
「はは、そこまで心配してんの。んじゃあれだわ、そこのコンビニで肉まんでも買ってって機嫌取っとけば」
「・・・。許してくれるかなぁ肉まんで」
「充分だろ。どうせ明日にはけろっとしてるって、あいつ単純だから」
「そ、そっか、買ってくる!あ、そうだ酢昆布も!」
さっき通り過ぎたほうへ、くるっ。
あたふたと方向転換すれば、目に入るのは昼間も歩いた商店街だ。
閉店時間を迎えてシャッターを下ろしたお店が多い夜の景色は、あたしの部屋の近くの繁華街と違ってそこそこに暗くてひっそりしてる。
そんな中で一軒だけ、ひときわ明るい光を放つコンビニの建物はすぐ目の前だ。
さっそく走って行こうとしたんだけど、後ろから肩を掴まれて。
「そういやぁ俺も買うもんあったんだわ。肉まんもついでに買ってくっから待ってな」
あたしを引き止めた銀ちゃんは、コンビニのほうへ向かっていった。
すれ違うときに、ぽん、ぽんって、子供でも撫でるみたいな手つきを頭の上に落としていく。
触れられた感触が残った前髪はそこだけほんのりあったかい気がして、気恥ずかしさとこそばゆい嬉しさでほっぺたがぽうっと熱くなった。
開いた自動ドアから友達同士っぽい男の子の集団がわらわら出てきて、首元が赤いマフラーで隠れた猫背気味な背中が入れ替わりに吸い込まれていく。
自動ドアが閉まって見えなくなると、あたしはすぐにお魚屋さんのシャッター目指して歩いていって。
少し体重を掛けただけでガタガタ音が鳴る薄くて冷たい壁に、背中を預けるみたいにして寄り掛かった。
つめたくて澄みきった夜の空気の向こう。
ちいさな星があちこちで霞んだ光を灯してる空を見上げて、はーっ。
長い溜め息で目の前がほわほわ白く染まるのを眺める間に、尻込みしたくなってる自分をどうにか宥めて、決心をつけて。
着物の袂からゆっくりと、スマホを取り出す。
ぴ、って押して画面を開く。
よく使ってるあのアプリのアイコンを指先で弾けば、神楽ちゃんが一瞬で不機嫌になったあのメッセージが現れた。
「・・・・・・・・・・・・。どうしよう、返信・・・」
万事屋を出る前に二回、出てからは三回も繰り返して見てるアプリの画面を、へなぁっと眉を下げて見つめる。
昼間に現れたあの人から送られてきたメッセージ。
絵文字の無い丁寧で短めな文面は、ほとんどが今日のことへの謝罪。
返信しなかったことにも銀ちゃんのことにも一切触れてないのは、これを読んだあたしが気まずい思いをしないように気遣ってくれてるからじゃないかって気がした。
そう思ったら心苦しくて、すぐにでも返信して謝りたかったんだけど――実は、いまだに送り返せてない。
最後に添えられた一行があたしにとってはハードルが高すぎっていうか、相当な難問だったから。
『月曜に少し時間をもらえませんか』
「・・・ぁ。明日にしようかな。うん、そうそう、焦っちゃだめだよね、こういう時は落ち着いてじっくり考えてから・・・、」
なんてぶつぶつ唸ってからはっとして、頭を抱えたい気分になった。
だめだ、明日じゃ遅すぎる。既読スルーだと思われちゃうよどうしよう。
視線をメッセージの上下に往復させればさせるほど、水色のふわふわストールを被せたあたしの肩はどんどんどんどん竦んでいく。
これを見つめてるあたしの顔って、きっとものすごーく情けなくて困ってるかんじになってるんだろうな。
鏡で見たら相当笑える顔かも、なんてことを思うけど、ちっとも面白くないし笑えない。
・・・どうしよう。
こういう時ってどう返信したらいいんだろう。ああ困る、困るよ困る、考えようとするだけで頭の中が真っ白になっちゃう。
しかも、困ってるのは返信の内容だけじゃない。
そもそも月曜日はどんな顔で挨拶したらいいんだろう。
次に会ったときはどう接したらいいの。こんなこと生まれて初めてだもん、ぜんぜん、ちっとも、何の見当もつかないよ。
「・・・。またそれ見てんの」
はーーーっ、って肩を落として長い溜め息をついてたら、そこへ呆れたような声が響いて。
呆れたような目つきをした銀ちゃんが、こっちへゆっくり寄ってくる。
右手にはがさがさ音が鳴るコンビニの袋がぶら下がってて、ん、って空いてる左手を差し出された。
スマホを仕舞って手を繋ぐと、何も言わずに手を引っ張られて。
いつも通りのかったるそうな歩調で、黒のブーツが先へ踏み出す。あたしの家へ繋がる大通りを目指して歩き出した。
「まだ返信してねーんだろ。いーの、放っといて」
「・・・うん。・・・よくない。よくない、よね」
「んー。まぁ俺ん家に戻ってからだと神楽がまた拗ねそーだしよー、今のうちに送っとけば」
「うん。そうだね。そうなんだけどね。・・・ぁ。あのね。それがね。えぇと・・・・・・」
横を歩く銀ちゃんに勘付かれないように、うんと小さく息を呑む。
・・・どうしよう。
またあの人からメッセージが送られてきたことは話したけど、メッセージの内容までは話してない。
やっぱり話しておいたほうがいいのかな。こういうことをないしょにしておくのってなんだか良くない気がするし。
それに――こんなこと初めてでいまいち実感が湧かないから、誰かに尋ねて本当にそうなのか確認したかったこともあるし。
思いきってきゅっと、繋がれたほうの手に力を籠める。
それからまた言おうか言うまいか迷っちゃったけど、あたしは引きつり気味な顔で隣を歩く銀ちゃんを見上げた。
「ぎ。銀ちゃん」
「んー」
「・・・・・・あのね。あの。・・・さっき来たメッセージにね。書いてあったの。月曜に時間もらえませんか、って」
「・・・へー。あっそ」
「あのさ。・・・・・・それってさ。ゃ。やっぱり。あれなのかな。こ、こくはく、とか」
「んー。まぁそーなんじゃねーの」
「・・・あたしの態度ってどう見えたのかな。だめだった?ぉ、思わせぶりだったかな。誤解させちゃうかんじだったかな」
「んー。まぁそーなんじゃねーの」
「銀ちゃん適当に答えてるでしょ・・・」
シャッターが半分下りた閉店作業中のお花屋さんを眺めてる横顔を、ちょっぴり恨めしい気分で睨みつける。
でも、睨んでたのはほんの一瞬だけ。それ以上に怒る気力が湧いてこない。
真っ赤なマフラーに半分埋もれた眠そうな酔っ払いの表情は、どうでもよさそうで面倒そうで。
だけど、どっちの質問も否定しなかった。
返ってきたのはどっちもいい加減そうでやんわりした、だけど答えに詰まってるような雰囲気が少しも感じられない肯定だ。
「・・・・・・そっか。・・・あたし、ひどいことしてたんだね」
ずっと気にしてたことをぽつりと口に出してみれば、胸の奥が苦しくなる。
どんよりした気分を溜め息で吐き出してみようとしたけど、余計に胸が詰まるだけ。気分の重さはちっとも変わらない。
・・・そっか。実は「いっそ全部あたしの勘違いだったらいいのに」なんて、虫のいいことも思ってたんだけどな。
同じ男の人の目から見てもそう思うなら、虫のいいあたしの期待はきっととんでもなく的外れなんだろう。
「・・・・・・はぁぁ。どうしよぅ・・・」
「ー、溜め息つきすぎ」
「ね、どうしたらいいのかな。月曜日にどんな顔して会ったらいーの」
「・・・。別にいーんじゃねーの適当で。普通にしてりゃいーんじゃねーの」
「その普通をどうやったらいいかわかんないんだってば」
「ふーん。まあ、そらぁそーだわな」
「・・・」
大きな手の中ですっぽり包まれてる指に、力を籠めて握り返す。
・・・銀ちゃんのばか。
普段はうるさいくらい喋り倒してるくせに、こんな時に限って口数少ないとかどーいうこと。
あたしの会社での人間関係なんてどうでもいいって思うのは、まぁ判らないでもないよ。
でも、それにしたって冷たくない。もうすこし親身になって考えてくれたっていいのに。
なんて思ったらむっとしちゃってすっかり意地になっちゃって、もっと、ぎゅうううっと、いっそ銀ちゃんの手を絞る勢いで思いきり力を籠めてみる。
だけど、もちろん通じるわけがない。返ってきたのは「痛てぇって」って、痛みを訴えてるわりにはすっとぼけてて淡々とした声だけ。
・・・・・・ばか。銀ちゃんのばか。酔っ払い。ド変態。甲斐性なし。何か言ってよ。ばかばかばか。
あたしがこんなにもやもやしてるのに、銀ちゃんたらずっと知らんぷりしてるよね。
このもやもやの半分は昼間の事件のせいだけど、残りもう半分は誰のせいだと思ってるの。
心の中でぶつぶつ文句を唱えながら、半歩前で赤いマフラーを靡かせてる広い背中を睨みつける。
だけど振り向きもしない背中をじとーっと睨んでるうちに、なんだか急に虚しくなって。
ふぅ、って肩を落としてうつむけば、くい、って急に右のほうへ手を引っ張られた。
前を進む背中が進路を変える。古くてちいさな家がごちゃごちゃ立ち並んでる、暗い小路に向かっていく。
「ねえ、道間違ってない。うちに行くんじゃなかったの」
「いーんだよ。こっち通ったほうが近道だから」
「ふーん・・・?」
そうなんだ。初めて通るよ、こんな道。
手を引かれるまま入り込んだのは、塀に囲まれた家と家との隙間を走る、二人並ぶのがやっとくらいの細い道。
存在を知ってるのはご近所の人と野良猫だけじゃないかってくらいの、進めば進むほど先細っていきそうな小路だ。
時間が遅めだからなのか、それとも元々が「知る人ぞ知る」道だからなのか、どっちなんだろう。
大きな蛇が通った跡みたいに右へ左へうねりながら続くそこは、歩いても歩いても誰にも出会わないし、物音や人の声も遠い。
どうやらさっきの商店街の裏手側っていうか、裏口側に当たる道みたい。
進むほどに灯りが減っていって人の声や物音も途絶えて、じきに銀ちゃんとあたしの足音と、道のあちこちに吹き溜まった枯葉が鳴らすかさかさした音だけが響くようになった。
知らなかった、かぶき町にもこんな静かな通りがあったんだ。
黙って進む銀ちゃんに手を引かれて、しんと息をひそめた裏通りの景色をあちこち眺め回す。
この街の住人になって数年のあたしでも、一度も通ったことがない道だ。
まぁ、このあたりの道を知り尽くしてる銀ちゃんが一緒のときは別だけど――これからも、ここを通る機会は少なそうだよ。
江戸でも1、2を争う治安の悪さだって評判のかぶき町では、女の子が夜中に出歩くときは暗い小路に入っちゃいけない、っていうのが鉄則だから。
前を歩く黒いブーツを見つめながら、両側から建物の影が覆い被さってくるまっくらな道をとぼとぼ歩いてついていく。
昼間にお出かけした時よりもゆっくりめに進む銀ちゃんは、うんと遠くにかすかな明かりがぽつんと灯ってるだけのくらやみの先ばかり見据えてる。
うじうじしっ放しなあたしの相手をするのが面倒なのかも。やっぱり一度も振り向いてくれなかった。
「・・・ねぇ」
「ん」
「どういう返信したらいいと思う」
「・・・・・・。しらねーって。つーかよー、おかしくね。それ俺に聞いちまうの」
「だって。・・・ほんとにどうしたらいいかわかんないんだもん。
あたし、こういうこと初めてだし」
「・・・・・・」
しどろもどろに答えたら、なぜか銀ちゃんの足がほんの一瞬止まりかけて。
ふわふわ跳ねた天パ頭も一瞬振り向きかけたけど、また何事もなかったみたいに前を向いて歩き出す。
深くうつむいたあたしの顔を、耳が痛くなるくらい冷たい夜風がひゅううっっと撫でて舞い上がる。
銀ちゃんが毎年使い倒してる古いマフラーの端も、ひらっと空へ踊ってた。
街のほとんどを歓楽街ばかりが占めていて季節感はいまいち薄いかぶき町だけど、日に日に秋の気配が深まってくれば夜はそれなりに寒くなる。
昼間はほんわりあったかかった外の空気は、夜の10時を過ぎた今は肌を刺すような冷たさで。
なのに、深くうつむいたほっぺたが勝手にぽーっと熱くなる。
・・・・・・そうだよ。こんな時にどうしたらいいかなんて、あたしに判るわけがない。
こういう経験って生まれて初めてなんだもん。初めてだから慣れてないし、慣れてないから悩んじゃうんだよ。
誰かを好きになったことはあっても、誰かに好きになってもらったことはない。
男の人から告白されるどころか軽いかんじのナンパすらされないまま過ごしてきて、「モテない自分」が当たり前だったんだよ。
銀ちゃんとお付き合い出来るようになったのだって、銀ちゃんがあたしを好きになってくれたからじゃなかった。
あたしが銀ちゃんを好きになって、あたしのほうから告白したからだもん。
それまでの銀ちゃんにとって、あたしはただの近所に住んでる友達で。
神楽ちゃんと似たような子供扱いをされてばかりで、たぶん妹みたいに思われてるんだろうって、そういう態度を見てるだけで判った。
自分に女の子としての魅力がなくて異性から意識されないタイプなんだってことは、銀ちゃんに限らず他の人の態度からも感じてきたことだったから。
だから、ぜんぜん気付かなかった。考えてみたこともなかった。
こんなあたしが男の人に好かれてるなんて。家族や友達に向けるような気持ちとは違う特別な好意を、いつのまにか向けられてたなんて。
「――で、どーすんの返信」
「わかんない。どうしよう。・・・ね、どうしたらいいと思う」
「・・・・・・。んじゃ貸してみな、携帯」
「え」
「月曜だっけ。それ、俺が断ってやるわ」
「えっ」
えっ。断る? 断ってやるって――
銀ちゃんがぼそりと口にしたのは思いもしなかった言葉で、驚いたあたしの足はぴたりと止まった。
あたしが動かなくなると、銀ちゃんの足もぴたりと止まる。こっちへ大きな影を落とす身体がゆらりと揺れて、やけにゆっくりと振り返った。
ようやく振り向いてくれたからあたしはなんだかほっとして、斜め前で立ち止まった顔と目を合わせる。
だけど見上げてすぐに、ほっとして緩んだはずの表情はかちんと凍りついてしまった。
「・・・・・・どっ、どーしたの」
「あー?どうって、何が」
「な、何が、って・・・」
――何が?
何がって――なんだろう。何が、なんだろう。わからない。
わからないけど、何かが違う。何かがいつもと違ってる。いつもの銀ちゃんとは違ってる。
どこがどう違うのかなんてわからない。でも――少なくともあたしが見上げてるその顔は、いつも目にしてる銀ちゃんの表情じゃなかった。
かすかに流れる宵の風でざわざわ揺れてる天辺の毛先。無造作にぐるぐる巻かれたマフラーに、広くて分厚い肩。
緩くうねった道のうんと先――どこか遠くの灯りを背負った輪郭は、まっくらな景色の中でそこだけぼうっと白かった。
影に染まってよく見えない顔は、マフラーに埋もれかけた唇の端を少し吊り上げてる。こっちを見つめて笑ってる。
なのにあたしを見つめて細められた目は、よく見ればちっとも笑ってなくて。
昼間にドラッグストアであの人に見せた胡散臭い営業用の笑顔とどことなく似てるのに、だけど、どこかが違ってて――
「ほら、出せよ携帯」
「えっ、だ、だって、それは、だから、あの・・・・・・〜〜だっ、だめだよ、だって」
「だって、何」
「・・・えっ。だ。だって・・・」
困ってもごもご口籠りながら、見慣れない表情に目を見張る。
ストールを巻いた肩のあたりから小路を吹き抜けていく夜風みたいな冷たい何かが忍び込んできて、胸の奥までざわざわさせた。
足許ではざあぁぁっと、舞い上がった枯葉が掠れた音を立てている。
「ほら、出せよ」
繋いでるほうと逆の腕があたしに向けて伸ばされる。目の前で大きな手のひらを開かれて、ほら、ってもう一度催促された。
「ー、なんで驚いてんの。もしかしてお前会うつもりだった、あいつと」
「だ、だって。会社の人だもん。これ以上気まずくなったら困るし、会わないわけにいかな」
「へー、会うんだ。あの男と二人で?」
「・・・」
普段通りにだるそうで緊張感のない声と、違和感だらけの見慣れない表情。
細め気味にした瞳は見慣れない鋭さで、ふわふわ揺れる癖っ毛の影から瞬きもしないでこっちを見てる。
その目に射竦められたあたしは、なぜかそんな銀ちゃんが怖いような気がして。
ほとんど無意識で足を後ろへ退こうとしたら、運が悪いことに草履の先が地面の窪みに引っかかってしまって、
「〜〜っぅ、わ・・・!」
がくん、と膝が横へ倒れて転びそうになったのと、繋いだ手にぐいっと前へ引っ張られたのはほぼ同時だった。
バランスを崩して前のめりになった身体が、目の前の胸にぼふっと音を上げて飛び込む。
しっかり抱き留めてもらったおかげで地面に倒れずに済んだけど、そんなことに安心する間もなかった。
何がなんだかわからないうちに、銀ちゃんがあたしのほっぺたを掴む。ぐいっ、って顔を思いきり上向かされて、えっ、って目を見張ったら、
――あっけにとられて見上げた視界一杯に、見慣れてるはずの銀ちゃんの顔。
なのにその顔は、やっぱりあたしが知ってる表情じゃなかった。首許のマフラーを緩めながら迫ってくる。
誰か知らない男の人みたいな、乾ききった表情で笑ってて――
「マジで会う気かよ。はは、なにそれ」
「――っっ!」
ばさっっ、って足許で何かが落ちたような音が響く。
かさついたその音は、銀ちゃんが持ってたコンビニ袋の音によく似てた。
うんと仰け反ってほとんど真上を向かされた顔が、大きな手のひらで挟みつけられる。
乾いた笑い声を短く漏らした銀ちゃんは、逃げようとしたあたしの顔を顎下に伸ばした指で抑えつけながら唇を押しつけてきた。
んんっ、って呻いた瞬間に、甘ったるいけどきついお酒の香りが鼻を衝く。
身体ごと後ろへどんどん押されて、よろよろよろよろ、何度も躓きそうになりながら後ずさって――
どんっっ、って最後に、背中が硬い何かにぶち当たって。思いきりぶつかったから結構痛くて、あたしは塞がれた口の中で悲鳴を上げた。
・・・・・・・・・・・・・・・え。 待って。 なにこれ。 何で――
人が変わったみたいなのは表情だけじゃない。
いつになく乱暴でがむしゃらな銀ちゃんの勢いに混乱しちゃって、しばらくは何が起こっているのかも理解できなかった。
だけど――冷えきった視線を逸らそうとしない銀ちゃんに目を剥いて呆然としてるうちに、唇の端にぐっと指先を引っ掛けられて。
その指が無理やりに唇の間に隙間を作って、熱くてぬるりと濡れたものが拒む間もなく中へ滑り込んでくる。
「〜〜っっ、んふぅっ、っっふ、んん・・・!」
顔を挟んだ手のひらがぐっと力を籠めてきて、ほっぺたが潰れそうなくらい抑えつけられる。
草履からかかとが浮き上がるくらいに頭をうんと仰け反らされて、引き攣ってる喉がすごく苦しい。
くちゅくちゅ、くちゅっ、じゅる、ちゅる。
舌を捩じるようにして絡みつかれて吸いつかれて、強く引っ張られながら唾液を吸われる。
強引に引っ張られた舌は付け根から銀ちゃんに揉みくちゃにされて、口の中を埋めた高い熱のせいで頭の中まで火照り出す。
身体中に響き渡ってる粘着質でいやらしい水音で、頭の芯まで一杯だ。周りの音なんて何も聞こえない。
そうだ、周り。この周りは――
ここが外だってことを思い出してはっとして、あたしをどこかの壁みたいなところへ縫い止めてる分厚い胸を何度も叩いた。
んんんぅ、んん〜〜っ、って舌を奪われて喋れない口の奥で必死で呻く。
やめて、って言いたがってるのは絶対判ってるはず。なのに銀ちゃんは放してくれない。
顔の角度を変えながら何度も何度も、めまいがしそうな濃いお酒の味と火照りきったやわらかさを奥までぐちゅぐちゅって捻じ込まれる。
「〜〜んふ、っゃ、っっ・・・ぎ、ちゃぁ・・・んぅ、も、っや・・・・・・!」
やめて、って発しかけた声ごと、うねるように絡みついてくる舌の動きで捩じ伏せられる。
人が変わったみたいな醒めた表情が、銀ちゃんの身体をどうにか引き剥がそうともがくあたしを見つめてる。
見つめながら分厚い身体をぎゅうぎゅう押しつけて、腰を抱いた腕にも力を籠める。
深く入り込んだ口の中でも暴れ回って、めちゃくちゃに弄られて熱くなった口内をもっとぐちゃぐちゃにしようとする。
どうしてこんなことされてるのかもわからなければ、どうしたらやめてもらえるのかもわからない。
からかうように舌先をやんわり甘噛みされただけで、怯えきって竦んだ肩がびくんと跳ねた。
どうして。何で。 怖い。 怖い。 銀ちゃんがこわい。
覆い被さってきた顔から目を逸らせない。どうして。銀ちゃん、どうして。こんなところで、誰が来るかもわからないのに。
もし誰かに見られたらと思うとはらはらしちゃって、背中をつうっと冷や汗が伝う。
ああ、今すぐ突き飛ばして逃げちゃいたい。――なのに、身体は思うように動かない。
そんな自分が情けなくて恥ずかしくって、目の奥がかぁっと熱くなる。
「――っっや、ゃらぁ、ぎっっ、っは、っあ、ふ・・・ぅ、うぅ・・・・・・っ」
くちゅくちゅ、くちゅって音が響いて感じやすいところをざらついた感触で探られるほどに、強制的に爪先立ちにさせられてる足の震えが激しくなる。
白い着物にしがみついた腕からも、少しずつ力が抜けていく。
ああもう泣きたい、どうしたらいいの。恥ずかしすぎて死んじゃいたいくらいだ。
銀ちゃんにキスされたり触れられたりしただけでそうなるように教え込まれた身体は、いくら怖いと思っていても怖さを無視して蕩け出してしまう。
感じやすいところに狙いをつけた舌先の動きに飲み込まれて、怖いはずのキスに溺れ出す。
これじゃあどうやっても逃げられる気がしないし、知らない男の人みたいなあの顔を見つめていれば逃がしてもらえる気もしない。
つうっと背筋を伝った汗のしずくが帯の下を擦り抜けて、大きな手に撫で回されてる腰の丸みまで濡らしていく。
その冷たい感触だけでぞくっとしちゃって、あたしはいくら引っ張ってもびくともしない腕の中でぶるりと身体を震わせた。
「っっは、ふ・・・・・・っ、んく、っっぅ、ふぅ・・・んっ」
「・・・なぁ知ってる。
すぐ先な、右に曲がった辺りは意外と住人多いんだぜ。
たぶん聞かれちまってるよなぁ、お前の喘ぎ声」
「〜〜ゃ、ゃあ、もっ、めぇ、っん、っっく、んん・・・っ」
必死で踏ん張ってる両脚が、膝をがくがく震わせてる。
じゅる、ってわざと大きな音を上げて舌を吸われて、敏感な上顎の裏を尖らせた先でなぞられて。
ふあぁ、って上擦った恥ずかしい声が、銀ちゃんに濡らされた唇から飛び出た。
びくびく震えるあたしの舌の裏まで掻い潜ってきた舌先が、器用な動きで触れてくる。
触れられ慣れてないそこをゆっくり這い回っては、尖らせた先で刺激する。
大きく開かされた口の中のうんと奥まで埋め尽くしたやわらかいものは、ちろちろ、ちろって敏感な付け根をくすぐるみたいに尖らせた舌先で舐め始めた。
何度も何度もそこばかり刺激されたら何も考えられなくなって、背筋が勝手に仰け反って。
あっっ、て悲鳴を上げたのと同時で、頭の中を突き抜ける痺れみたいな感覚に全身が呑まれる。かくん、って両膝が一気に脱力した。
「・・・は・・ぅ・・・・・・ひ・・・ぁ、あ、ぁ・・・っ」
大きくこじ開けられた唇の端からとろりとろりと溢れた唾液が、喉を伝って着物の中まで濡らしていく。
ぞくぞく、ぞく。声を我慢できないくらいにせつなくて甘い震えが、身動きできないように抑えつけられた腰を疼かせながら這い上がる。
両脚の震えが止まらない。今にも座り込んじゃいそう。
なのに、それでも銀ちゃんは放してくれない。
口の中を占領した熱がいつのまにか上顎の粘膜をぬるぬると撫で始めて、声を上げて震えてしまう敏感な部分をしつこく弄るからもう泣いちゃいそうだ。
膝が砕けて今にも座り込みそうになってた身体が、ぐい、って腰から持ち上げられる。
身体が宙に浮くのと同時で、左足から草履の感触が消えていた。
脱げちゃったんだ、ってぼんやり思うだけで、あたしは薄い水の膜を張ったみたいに霞んだ視界を埋めた顔をぼぅっと見つめた。
銀ちゃんにぐったり凭れて荒い呼吸で身体を揺らしてる間に、口の中でぬるぬると動いていたものが動きを止める。
ゆっくり舌が引き抜かれて、唇がわずかに離される。
かすかに息遣いを乱してる唇からは透明な糸が伝っていて、なんとなく目で追っていたそれがふつりと途切れて。
はぁ、って投げやりなかんじで息を吐くと、銀ちゃんは軽く目許を顰めて口を開いた。
「ー。これ以上意地張ったらどうなるか、判んだろ。・・・ほら、早く出せって」
「・・・・・・ふぇ・・・ぇ・・・?」
「・・・」
苛立ちが滲み出た声に何か尋ねられたけど――ちっとも聞き取れなかった。
胸の中では酸素不足で悲鳴を上げてる心臓が煩いし、はぁはぁ喘ぐ自分の呼吸も煩く鳴り響いてる。
しかもついさっき全身が痺れ上がったばかりで、頭の中はまだ真っ白だ。
じきに耳の傍で歯痒そうな溜め息が響いて、ようやく自由になった唇は噛みつくような勢いでまた塞がれた。
手加減なく引きずり出された舌を強引に絡めとられたと思えば、あたしが何も考えられなくなるような激しくて手荒な口づけが再開される。
銀ちゃんが肘と手首の間あたりにあたしのお尻を乗せる。
骨太で頑丈な腕ひとつで身体ごと抱え上げられて、前後にぐらついてた背中は後ろの壁に押しつけられた。
衿元に巻いたストールを掴まれて、それをぐいっと払われて。
ぱさり、と足許で音が鳴る。突然冷気に晒された肩を、思わずぎゅっと竦めた時だ。
衿の合わせ目を乱暴な手つきで掴まれて、
「――っ!」
驚いて引き攣れた喉の奥で、ひゅっ、と息を呑む音が鳴る。
ぐっ、と深めに指を掛けられたかと思えば、鎖骨の端に硬い爪が当たって。
ぐ、ぐ、ぐっ、って力を籠められて、寒い屋外でも高い体温を放つ指が襦袢の内側に沈んでいく。
布地と肌の隙間に無理やり割り込もうとしてる――
「・・・・・・っ!っゃ、ゃだ、まって、まっ・・・!」
あわてて衿元に伸ばした手は、ろくに力を籠めていないような軽い手つきで払われてしまった。
その気になれば片腕であたしを抑え込めるくらいに馬鹿力な銀ちゃんだ。
着物と襦袢の両方をあっという間に鷲掴みにされて、素肌が覗いた胸元からは寒気がぞわりと這い上がる。
どきん、どきん、って不安と怖さで心臓が跳ねる。
胸の谷間に指を沈ませて衿元をがっちり掴んでる手を、やだ、やだ、って口の中で叫びながら叩く。
いくら叩いても引っ張っても、銀ちゃんの指に籠められた力は緩まない。
口の中を乱暴に荒らす激しい口づけもやめてくれない。
まるでおかしくなったみたいにあたしの内側を貪ってるくせに目つきが醒めきってる銀ちゃんの顔が、頭を後ろの壁へ押しつけようとしてる。
舌先でどこかを弄られるたびに身体の芯が溶け出して、その感覚と息もつかせてもらえない苦しさのせいで全身の震えが止まらない。
はぁはぁ、はぁって息を乱しながら、それでも必死に衿を掴んだ手を叩く。
そんなあたしの様子を、銀ちゃんはじっと眺めてた。
伏せた睫毛の影になった瞳の奥にほんの少しだけ何かの感情の色を浮かべて、つまらなさそうに眺めてる。
「・・・っ、はぁ、はぁっ、ゃあ、な、なんで・・・ど・・・し、ふぁ、っぅ、ふ・・・っ」
――なんで。 銀ちゃん。 なんで、どうして。
銀ちゃんが何を考えてるのかも、どうしてこうなったのかもわかんない。
たったひとつだけ判ってるのは、銀ちゃんが変だってことだけで。
何を言っても許してくれなさそうな据わった目つき。
、って呼んでキスしてくれたり、大切そうに抱きしめて撫でてくれるときとはぜんぜん違う。
ちっとも楽しそうじゃない。むしろ苦々しそうな雰囲気だ。
あたしの仕草や表情のひとつひとつを疑って細かく確認してるようなその目つきの奥に、銀ちゃんが隠してる感情や熱っぽい何かが燻ってる。
わかんない。わかんないよ。銀ちゃん、何考えてるの。何で。どうして。 何で――
「・・・んちゃ、っ、んふぅ・・・・・・んっ。・・・ぉ。ぉこっ、て・・・・・・のぉ・・・?」
「――・・・」
(銀ちゃん、怒ってたの?)
舌の動きが途切れた瞬間を狙って訊けば、深く絡みついてる舌が息を詰めたのが伝わってきた。
口の奥まで占領して好き勝手に荒らし回ってた熱が、なぜかゆっくり退いていく。
顔を離した銀ちゃんはなぜかものすごく疲れることでもあったみたいにげんなりした表情になってて、呆れきったような溜め息をこぼす。
かと思ったらじとりとこっちを睨んで、息もつかずに喋り始めて、
「いや怒るだろ普通は、腸煮えくり返るだろ普通はよーてめーの女がしらねーうちに他の男と携帯でなんやかんや遣り取りしてて、しかもそいつに口説かれてんだぜ。
しかもだよ参るよなぁ、あんだけしつこく告られてんのに当人ときたら口説かれてる自覚すらねーし」
「だ、だって!――っっ、っっう、ぅ、ふぅ・・・んっ」
一方的に喋り続ける銀ちゃんの舌の周りが早すぎて、口を挟むような隙なんてなくて、それでもようやく銀ちゃんの口が止まった時には「これで反論のきっかけを掴める」と思ったのに――斜めに傾けながら覆い被さってきた顔が、あたしの視界を暗く閉ざす。
奥まで侵入してきた熱い舌に、呼吸ごと自由を奪われる。
ひどい。これじゃあ何も言い訳できない。…ううん、銀ちゃんには、あたしに言い訳をさせるつもりなんて最初からこれっぽっちも無かったのかも。
そう思ったらかなしくて、どうしようもなく泣きたくなった。
んんんっ、って呻いて腰を捩ったら、暴れるな、って言わんばかりにきつく押さえつけられて息もつけない。
氷みたいに冷たい壁にぎゅうぎゅう押しつけられっ放しな背中が、銀ちゃんが腕に力を籠めるたびにみしみし軋んで悲鳴を上げる。
あと数分も経ったら背中の骨がぐしゃりと潰れちゃいそうだ。
んんんっ、んん〜〜っ、って呻いて抵抗して暴れるほどに、苦しかった呼吸はさらに上がる。
意地になって開けたままにしていた目の奥から、じわあっと熱が溢れ出す。
ひっく、ぅっく、ひっく。どうしても我慢できなくなった気持ちと喉の奥でこらえてた嗚咽が、堰を切ったみたいにこみ上げてくる。
ばか。銀ちゃんのばか。
どうして言わせてくれないの。
銀ちゃんはあたしに言いたいことがきっと山ほどあるんだろうけど、あたしだって銀ちゃんに言いたいことがあるのに。
尋ねたいことがたくさんあるのに。言い訳だってしたいのに、何も聞いてもらえそうにないことがはがゆい。
わかってるくせに無視する銀ちゃんが悲しい。
つんと鼻の奥が痛む。
溢れた嗚咽と唾液ごと舌をきつく吸われながらぐすぐす啜り泣いてたら、銀ちゃんはやっと動きを止めた。
奥から深く絡め取られて苦しいくらいだった舌が、口の中を埋めた熱いものと蕩けそうな甘い痺れからようやく解放される。
唇が素っ気なく離れていったら、抱き上げられてた身体も下ろされて。
とっくに力が入らなくなってた下半身が、へなへなと情けなく崩れていく。
肩を大きく上下させて乱れた呼吸を繰り返しながら、白い着物の胸をぐいっと押した。
せめてもの抵抗だったのに、押された胸はびくともしない。瞼を軽く伏せた醒めきった目つきが、こっちをつまらなさそうに見下ろしてる。
「・・・・・・っはぁ、はぁ、っ、は、ぁっ、は・・・・・・っ」
背中に当たる冷たい何かをずるずる擦って、あたしは後ろの壁よりもさらに冷たくて湿った地面にへたり込んだ。
「・・・だいたいは、男の下心に疎すぎるんだって」
内側で沸騰してる何かを押し殺してるような声が上からぼそぼそ降ってきて、
「お前よく彼氏いない歴が年齢だとかナンパされたことねーとか言ってっけど、違うからね。それお前の思い込みだから」
「・・・ふぇ・・・・・・な・・・っ・・・?」
「何が口説かれてねーだよ、俺のしらねーうちに口説かれまくってたじゃねーかよ。
どーせ他のナンパ野郎もあの調子でばんばんスルーしてきたんだろ、例の思い込みで」
「・・・っ、っそ、そんなわけ、ない、でしょっ、ナンパなんかされたら、気付くに、決まって・・・!」
「いや気付かねーだろ」
「き、気付くよさすがに!」
そんなことないよナンパは気付くよ、いくら何でもそれは気付くよ!
緩んだ着物を直そうとしてあたふたと衿を引っ張りながら、それでもきっぱり断言した。
なのに、あたしを見下ろしてる銀ちゃんの目がすっと細められていく。
普段はだらしなく離れっ放しな眉の間がぎゅーっと狭まる。
いっそう疑わしげになったあの表情は、どう見ても「お前の言い分なんてまったく信用できません」って思ってそうな、不信感たっぷりなうえに不満たらたらな顔つきだ。
ちっ、って舌打ちした銀ちゃんは、がしがしとわしわしと後ろ頭を引っ掻き回し始めた。
呆れと諦めが混ざったような長くて重たい溜息をついたかと思えば、あたしの目の前にしゃがみ込んで。
「いーや、気付かねーだろ。ぜってー気付かねーって。そうに決まってるわ。・・・・・・俺のときだって気付いてなかったし」
「は?」
――俺のとき?
俺のとき?何のこと、俺のときって――
あたしの目を覗き込んでる顔をぽかんと見つめ返したら、
「・・・ちぇっ。やっぱ気付いてねぇし」
「な、なにが?なんのこ・・・――っっ!ぃっ、いたぁ、っ」
口端を歪めて笑ってるのにどことなく腹立たしげな顔が迫ってきて、指が食い込むくらいの強さで二の腕を鷲掴みされる。
そのままぐいと引き寄せてあたしを荷物みたいに肩へ担ぎ上げた銀ちゃんは、小路の先へ踏み出した。
もしかしたらマンションへ向かってくれるのかも――今にも地面へ落ちちゃいそうな不安定な体勢にはらはらしながら、あたしは僅かな望みに縋ろうとした。
だけどそんな期待も、銀ちゃんの足が向いた先に気付いた時点で消えてしまった。
何歩か歩いたその先には、建物の壁際でエアコンの室外機を囲んでる鉄製の棚があって。
銀ちゃんの腰の高さくらいのその棚の上に下ろされた瞬間、さっき緩められた着物の衿に手が伸びてきて――
「――っや・・・っっ!!」
衿元をぐしゃりと鷲掴みにした手に、ぐいっと襦袢ごとずり下ろされる。
驚く間もなく帯の上あたりも乱暴に引っ張られたら、とたんに着物は無残なくらいに着崩れた。
呆然と胸元を見下ろした時には肌がぞわりと粟立ち始めて、鎖骨や下着まで露わになってて。
ブラは着物と一緒に引っ張られたのか、淡いピンクのストラップが二の腕にくったりと引っ掛かってた。
「ほら、出せよ携帯。今出せばここでヤるのはやめにすっから」
「・・・っ」
「あのよー、別に脅しとかじゃねーからな。
悪りーけど俺昼間からずっとムカついてたし、なのにお前があいつと会うとか言うからもう収まりつかねーんだわ」
睨みつけながらそう言うと、銀ちゃんはふいと視線を逸らす。
あたしの耳許に唇を寄せて、もどかしそうな荒い息を吐く。衿を掴んだ大きな手が、ぐっと着物を握り締めて。
「だから大人しく言うこときいてくんね。・・・じゃねーと俺、何しちまうかわかんねーし」
「――・・・っ」
鼓膜を震わせた低い声に、肩を竦めて息を呑む。
不機嫌そうなくぐもった声。まるで脅しを掛けてるみたいな、凄みのある押し殺した声。
ちっとも銀ちゃんらしくない声。あたしの知らない声だった。
不機嫌そうで心底面白くなさそうで、銀ちゃんがお腹の奥で抑えつけてる爆発寸前まで膨れ上がった不満が、口調や声音からも滲み出してる。
あたしには一度も向けられたことがない、怖い声。一度も聞いたことのない声だった。
なのに――なのに。
「・・・、なぁ、言って。俺の言うとおりにするって」
次に耳の中に注がれたのは、熱に浮かされて漏らしたような、苦しそうでせつなそうな囁きで。
背中をぎゅっと抱きしめられて、胸と胸が密着する。ほどけて肩までずり落ちた銀ちゃんのマフラーが、顔をふわっと包み込む。
冷えたほっぺたを冷気から守ってくれる、使い込んでよれよれになった古いニット。肌触りのやわらかさにほっとする。あったかい。
めまいがしそうなお酒の匂いと、銀ちゃんの匂いがする。そう感じたら、寒さと不安で凍りつきそうだった胸がきゅうっとせつなく締めつけられた。
・・・・・・な。なにそれ。ずるいよ。ずるい。
銀ちゃんのばか。今頃すぎだよ。何なのそれ。
だって銀ちゃん、ぜんぜん興味なさそうだったくせに。昼間だってさっきだって、どうでもよさそうな顔してたのに。
あの人のことを気にしてるのは――面白くないって思ってたのは、神楽ちゃんだけなんだって思ってたのに――
「・・・・・・〜〜っ」
急に湧いてきたくすぐったい気恥ずかしさをこらえたくて、赤いマフラーに埋もれた唇をきゅっと噛みしめて目を瞑る。
とくん。とくん。とくん。
不安で一杯で凍りつきそうだった心臓が、高くてやわらかい音を刻み始める。
ああ、あたし、どきどきしてる。そう感じたらもっとどきどきしちゃって、どうしたらいいのかわからなくなって、おろおろしちゃって。
自分でも気づかないうちに伸びていった手が、まるで助けを求めるみたいに古びたマフラーに縋りついた。
ああ、どうしちゃったんだろう。
あたしの知らない銀ちゃんなのに、こわい、なんて思わなかった。
おかしくなってるのは銀ちゃんだけじゃない。あたしだって銀ちゃんと同じくらい、きっとどうにかしちゃってる。
銀ちゃんが言ってることもやってることも、かなり自分勝手だし理不尽だ。
ひどいと思うのに、あたし、変だ。変になった。一体どうしちゃったんだろう――
、って呼びかけた唇が、さっきまでの乱暴さが嘘だったみたいな、そっと触れるだけの甘い口づけをこめかみに落とす。
それだけで背筋がぞくぞくしちゃって声が出ないように息を詰めたら、とくんっ、と心臓がさっきよりも大きく音を弾ませて。とくん、とくんっ、とくん、とくんっ。
どんどん速くなっていって、勝手に響く鼓動の音が身体中を駆け巡り始めたら、胸の中をきゅうっと締めつけるようなせつないかんじまで広がっていって――
「・・・・・・っ。ぎ。銀、ちゃん」
「あー?」
「・・・・・・・・・・・・もしかして。やきもち。ゃ。やいてた、・・・・・・の?」
「――。やいてた、じゃねーよ」
まだ妬いてんだよ。
少し間を開けてから独り言みたいにつぶやいた声に、耳をふわりと撫でられる。
吐息で耳をくすぐられて、っっ、って息を詰めたのと同時でごつんとおでこをぶつけられて。
子供っぽく口端をひん曲げて不貞腐れてる表情に間近から睨みつけられたら、さっきよりも大きく心臓が高鳴る。
押し殺したような低い声からも、着物の衿を握り締めた手に籠められた力からも――銀ちゃんらしくない表情の裏側に隠してた、感情の熱が伝わってくる。
これまでも何度か目にしたことがある子供っぽい表情と見つめ合ううちに、身体が芯からぞくりとざわめく。
寒くて震えたんじゃない。
言いたくなさそうに漏らされた言葉が意外で、すごく驚いちゃって、でも嬉しくて、なのにまだ半信半疑っていうか、なんだか信じられなくて――
あたしは思わず、自分の着物の衿を掴んでる銀ちゃんの腕に縋りついた。
何度も何度もぱくぱくと、どきどきしすぎて頭に血が昇ってるせいで思ったように動かせない唇を震わせて、
「ほ、ほんと。ほんと、に?」
震える声で尋ねたら、銀ちゃんはすごく心外だったみたいだ。
へ、って目を丸くして、かと思えばがくりと肩を落として。
あたしの胸に突っ伏した顔が、はーっ、ってがっかりしたような溜め息をつく。
「んだよ、何だよその反応」って、眉を顰めた歯痒そうな表情でぐりぐりぐりぐり、おでこを強く押しつけてきて、
「はいはいそーだよ妬きましたよっっ妬くに決まってんだろコノヤロー!
昼間はが困りきって固まってたし後ろにヅラとガキどももいたしあそこでキレたらかっこ悪りーから黙ってたんだよかっこわりーから!」
「・・・・・・」
「ちょ、聞いてる?聞こえてる?いやおかしくね、何でびっくりしてんだよ。
っだよマジでねーわその反応、何で俺がブチ切れたと思ってたわけ」
「だって、だって・・・銀ちゃん、どうでもいいって顔してたし、ぜんぜん興味なさそうだったし」
「はぁ?どうでもいいわけねーだろぉ!?あんなもん全部ポーズだから、余裕あるふりぶっこいてただけだから精一杯のポーズだから!」
「そんなふうに見えなかったもんっ。
こ、これでも、けっこう気にしてたんだよあたし、銀ちゃん、あたしのこと好き好き言うけど、実はそんなに好きじゃないんじゃないかって・・・!
やきもち妬いてくれるのって神楽ちゃんだけなのかなって、なんか、か、かなしくて、さみしくて、でも、そんなことでさみしいとか言えなくて!そ、それに・・・!」
呆れてるのか怒ってるのかよくわからない銀ちゃんの表情を呆然と見つめながら、しどろもどろにたどだどしく、だけど夢中で言葉を繋ぐ。
昼間から身体の中に居座ってたもやもやした気持ちが、まるで霧が晴れていくみたいに消えていく。
重苦しさから解放されたそこは、どこか奥のほうから湧いてきた甘い気持ちであっという間に満たされていった。
そっぽを向いてがしがしと歯痒くてたまらなさそうに、跳ねまくった白い髪をめちゃくちゃに引っ掻き回してた銀ちゃんが「あ〜〜、っだよもう」って唸る。
かと思えば肩を引っ掴まれて、噛みつくように口づけられて。
いつになく乱暴でがむしゃらで余裕が無さそうだったこの口づけの理由に、あたしはその時になってようやく気付いて。
なんだ、そうだったんだ、って思ったら腰から力が抜けそうなくらいほっとして、とくとく弾んでる心臓から冷えきった身体に血が巡っていって。
銀ちゃんの手の中に収められた顔は、たちまちにぽうっと火照り始めた。
・・・・・・なんだ。そうだったんだ。あたしだけじゃなかったんだ。
相手の態度を気にしてたのも、言えない気持ちを胸に抱えてもやもやもやもやしてたのも――
「・・・・・・っは、ぁ・・・っふ、っぅ、んん・・・っ!」
絡めた舌を強く引かれて、こらえきれなかった声が漏れ出す。
舌の付け根から唾液といっしょに溢れ出してくるような、息苦しいせつなさに涙がこぼれる。
抱かれた背中がびくびくと銀ちゃんの腕の中で震えたら、顎の裏側をなぞるようにして濡れた舌が這い出した。
はぁ、って自然と鼻に抜ける声が漏れて、しがみついた手からも力がじわじわ抜けていく。
だけど縋りついてる太い腕がスマホを仕舞ったあたしの袂まで伸びていくから、はっとしてその手に力を籠めた。
「っだ、だめ、スマホは、だめっ」
「・・・っだよそれ。お前さぁ、まだ意地張る気。いーのかよ、渡してくんねーと俺ほんとにヤるよ」
「それもだめっ。〜〜ぁ、あの、っだ、だから、〜〜だめっていうか・・・だめ、だけどっ・・・」
ぶんぶんかぶりを振りながら、スマホを入れたあたりを押さえようとする。
だけど銀ちゃんに手首をすかさず掴まれて、
「ふーん、どっちもだめなんだ。じゃあ仕方ねーよなぁ、何されても」
「・・・っ!」
どうやっても逆らえないような力の強さで握り締められた腕は、捻り上げるみたいにして頭の左右に縫い止められた。
それと同時で脚の間に膝をぐっと押し込まれたら、着物の裾が割り開かれて。
ゃあ、って小さく悲鳴を上げても銀ちゃんはやめてくれなくて、不安が身体中を駆け巡る。
夜の冷気にいきなり晒されて小刻みに震え始めた太腿が、銀ちゃんの目に晒される。
あわてて膝に力を籠めて足を閉じようとしたんだけど、それより早く銀ちゃんの腰が太腿の間に割り込んできた。
そのままぐっと後ろの壁に押しつけられたら、自然とお尻が前へずれる。
浮き上がった左の膝をぐいっと前に引っ張られたら、ずず、ってもう一度お尻がずれて。
片方だけを持ち上げられた脚はバランスを失くして大きく開いて、着物の裾がはらりと落ちたら太腿の付け根まで露わになった。
「〜〜ゃ、やめ――・・・っ!」
「あーあー、震えてんじゃん脚。どーした、怖ぇーの」
わかりきってるはずのことを意地の悪い笑みを浮かべて尋ねながら、銀ちゃんは太腿の内側のやわらかいところを硬い指先で撫で回した。
やだ、って精一杯に仰け反れば、うんと逸らした首筋に熱い唇が噛みついてくる。
ちゅ、ちぅ、って舌先で吸いつかれたところが、歯を立てられてきつめに噛まれる。
感じやすい首筋に痛みと紙一重な気持ちよさを残されたら、あん、って震えた声が出て。
足の爪先までぶるりと大きく震わせれば、冷たい壁に押しつけられてた手を解放されて。
だけどすぐに背中が反り返るくらいに強い力で抱きしめられて、舌先で首筋をなぞってた唇が下へゆっくり滑り始める。
熱い手のひらが肩を撫でて、背中を降りて、脇腹を這って、辿り着いた腰を抱え込む。
そうしてから銀ちゃんはぐっと身体を押しつけてきて、あたしを壁との間に閉じ籠めた。
やめて、って胸を叩いたら、吸いつかれたり舐められたりしてた鎖骨の下に痛みが走る。
いたい、って涙声を漏らして腰を捩れば、拘束された腕の中は息苦しいくらいに狭くなった。
「・・・〜〜っぁ、やっ・・・、ゃぁ、やめ」
「やめてほしい?なら俺に渡せよ、お前の携帯」
「〜〜〜ゃ、だぁ、だめ、っっ。ぁっ、は、ゃ、ぁあ・・・っ」
ぬるりと滑る熱い舌が、抑えつけた身体を嬲るように這う。
着物が肌蹴た太腿をゆっくり何度も撫で回されて、それから胸を鷲掴みされたら、銀ちゃんがあたしの身体中に覚え込ませた気持ちよさは、あたしの気持ちなんて置き去りにしてみるみるうちに引き出されていく。
自分勝手に這い回る唇の動きにも、圧し掛かってくる重い身体にも逆らえない。
我慢しても漏れてくる、鼻にかかった声が止められない。
胸元に唇を落としてる白っぽい頭に顔を埋めても、唇を押しつけてこらえても、癖っ毛に押しつけた唇を噛みしめても駄目で。
暗くて静かな小路には、落葉がさざめく乾いた音と泣き声混じりの甘えた嬌声が繰り返し響いた。
くすり、と吐息みたいな笑い声が、膨らみに齧りついてる唇から漏れる。
肌をふわりと撫でるだけの生温さのせいで、あたしの腰はびくんと跳ねた。
銀ちゃんの唇が触れてるところ――ストラップを下げられてずれたブラから覗いたそこは、一番感じてしまうところからほんの少しだけ逸れた場所。
唾液で濡らされたせいでどんどん熱を奪われていく肌を、夜の冷気を白く煙らせる生温い感触がもどかしくくすぐる。
目の前で晒されたあたしの胸がひどく震えてることに、銀ちゃんも気付いたんだろう。
ふ、って感じやすいところに吐息をそっと吹きかけられる。
ひぅ、って思わず声が漏れたのと同時で、膨らみから伝わったちいさな刺激は全身を甘く疼かせる。抱かれた腰がまた跳ねる。
かぁっと火照りきったほっぺたを、涙がぽろぽろ転がっていく。
ちゅ、くちゅ、って音を鳴らしながら吸いつかれてる膨らみを、冷たく濡らしながら落ちていく。
好きな人に抱きしめられて、敏感なところを吐息でくすぐられただけ。
たったそれだけでぞくぞくしてここがどこかも忘れちゃいそうになってる自分の身体が恨めしくて、恥ずかしくて――
「・・・ゃあ、やだぁ・・・・・・っぁ、おねが、銀ちゃあ、ふぇぇ、も、やぁっ・・・」
銀ちゃんが何かするたびに湧き上がる甘い震えと、身体の奥からこみ上げてくるはしたない声。
両方を必死でこらえながら、やだ、やだ、って啜り泣く。抱きついた頭を涙で濡らす。
なのに銀ちゃんはおかしそうに笑うから、くるしくて歯痒くてもっと涙がこぼれてしまった。