「食い足りねー」って騒ぐ銀ちゃんにお昼ごはん用のおむすびをあげたらおかずもつまみ食いされちゃって、ぎゅうぎゅうに詰めたはずのお弁当は半分空になってしまった。
おむすびを追加できればいいんだけど、今朝炊いたばかりの炊飯器の中身は見事に空っぽ。
足りないぶんは公園近くのお店で買うことにして、半分空のお重を持ってあたしたちは万事屋を出た。
定春に乗った神楽ちゃんを先頭に、セール中で混み合ってる商店街を眺めながらのんびり進む。
銀ちゃんがよく行くお団子屋さんの角を曲がって、寺子屋通いの子供たちが遊び場にしてる細い小路も通り抜けて。
春には毎年お花見で賑わう川沿いの並木道に出れば、赤や黄色の並木の向こうに抜けるような青空が広がる晴れやかな景色が。
川岸が近いせいか空気はちょっぴり冷たいけれど、降り注ぐ陽射しはぽかぽかぬくぬく。
歩いてるだけでほっぺたが自然と温もってくるような、やわらかいあったかさが気持ちいい。
朝のニュースで結野アナが『今日はお天気の崩れもなく、行楽にぴったりな小春日和になるでしょう』って言ってたけど、まさにそんなかんじのお出かけしたくなるお天気だ。
だけどこんなに気持ちいいお天気が、壮絶酒風呂体験が祟って二日酔い状態のおっさんにとっては真夏のギラギラ猛暑レベルでキツいみたいで――
「・・・うあぁ〜〜〜、あっち〜〜・・・。何が小春日和だよぉ、残暑の間違いだろぉこれぇぇ」
隣を歩く銀ちゃんは、この道に差し掛かってからというもの文句たらたら。
手で陽射しを遮ってるのにそれでもまぶしそうに目を細めた顔には汗がじわじわ浮いていて、しかも、いつもの銀ちゃんのやる気の無さに拍車をかけただるそうな表情。
右手に提げたお弁当の包みを危なっかしくぶらぶらさせながら歩く姿は、今にも足がもつれてすっ転びそうだ。
「〜〜、なぁなぁ〜、ちょっと休もうぜ〜」
甘えたかんじの猫撫で声が、耳にぴとってくっついてくる。
耳の中までふわっと入り込んできた吐息の感触にどきっとする間もなく、うわ、って叫んだあたしの足は途端によろよろたたらを踏んだ。
ああ危なかった、メッセージ作成中だったスマホまで地面に落ちちゃうところだったよ。
肩をぐいっと抱き寄せた銀ちゃんが、ずしっ、って後ろから遠慮なく圧し掛かってきたせいだ。
「〜〜ちょっ、やめてよ重いっ」
「いつまでそれ弄ってんの。またSMなんとかってやつ?」
「勝手にいかがわしいかんじにするな。SMじゃないから、SNSだから」
「そーそー、それな。そのSMなんとかの返信ってやつ?」
誰とやってんの、友達?って欠伸を噛みしめながら尋ねてきた寝惚け顔が、何気なく手元を覗き込もうとする。
開きっぱなしのアプリの画面を見られないようにスマホをめいっぱい遠ざけてから、ほっぺたがぴとっとくっつくくらいに顔を寄せてきた彼氏をあたしはじとーっと睨みつけた。
それから間髪入れずに、スマホを持ってるほうとは反対の手で、
むぎゅうぅぅぅっっっ。
肩からそろーっと伸びてきてあたしの胸をお触りする寸前だったでっかい手を、全力で、皮膚が千切れそうになるくらい抓ってあげたら、
「っってええぇぇぇ!」
「銀ちゃん、それで注意逸らしたつもり。言っとくけどそれバレバレだからね、次やったらお弁当の卵焼き没収するからね」
「ちぇっ、っだよぉケチぃ。銀さん疲れてんだよ可愛い彼女に癒されてーんだよ、いーじゃんちょっとくれー触らせてくれたってよー。
ちょっとくれー胸揉ませてくれたってよー」
「昼間から往来で胸揉ませろとか言うな変態」
醒めきった声で言い返しながら、べしっ。
今痛い目に遭ったばかりなのに今度は着物の衿の中まで指を滑り込ませようとしてた懲りない手を、すかさず叩いて弾き落とす。
ちぇっ、て口を尖らせた銀ちゃんが、赤くなった手の甲にふーふー息を吹きかける。恨めしそうに顰めた半目でこっちを覗き込んできて、
「なー、どーしても行くの。やめよーぜー暑いし、公園着く前に身体溶けちまうって」
「溶けるわけないでしょ、そこまで暑くないし。ぽかぽかして気持ちいいお天気じゃん」
「そらぁが冷え性だからだろぉ。お前、風呂上り以外はいつ触っても冷え冷えじゃん。
どーせ今も冷え冷えなんだろぉ、太腿とかケツとか。あっためてやろーか公園裏のラブホで」
「こんな爽やかな空の下でケツとかラブホとか言うな。もう銀ちゃんにはお弁当あげない」
「えぇえええええぇぇぇぇ」
「ねーねー、銀ちゃーん」
子供以上に食い意地が張ってるいい年こいたおっさんが情けない悲鳴を上げたところへ、並木道の先から声を掛けられた。
紫色の大きめな番傘を差した女の子の姿はいつの間にか遠くなっていて、大きなペットの背中から軽く腰を浮かせてこっちを見てる。
鮮やかな紅葉が風に揺れる並木道のうんと遠くを指して、
「あっちまで走っていいアルか、定春さいきん運動不足ネ」
「いーけど気ぃつけろよ。向こうにババアが歩いてんだろ、うっかり激突すんじゃねーぞ」
「わかってるネ!よーし定春、あそこまでかけっこするアル!」
100メートルくらい先にある並木道の終着点を神楽ちゃんがゴールに指定すると、巨大なわんこが弾んだ声で「わんっ」って鳴く。
スマホで確認してみたら、時間はお昼も間近な11時50分。
午後からは愛犬を連れたおばさまやお年寄りが大集合して見渡す限りのわんわん天国と化してるこの道も、この時間帯なら空いてるみたい。
神楽ちゃんが着てるチャイナ服みたいなきれいな赤に染まった並木の下には、白い煙と香ばしい匂いを昇らせながらゆっくり進む焼き芋屋さんのトラック。
それから、赤ちゃんみたいによちよち歩く小型犬とまったりお散歩中のおばあさんだけ。
普段のお散歩では周りを気にして思いきり走れない定春も、これならのびのび走れそう。
「いくヨー定春!よーい、ドン!」
ぴょん、と身軽に飛び降りた神楽ちゃんが掛け声と同時で走り出せば、大きなペットの真っ白な前足も、どうっっ、と豪快な足音を唸らせて地面を蹴って。
どどどどどっ、どどどどどど!
並木道を揺らして地響きも上げて、全力疾走で神楽ちゃんの後を追う。
もしかしたら人間の言葉をぜんぶ理解してるんじゃないの、って思っちゃうくらいおりこうな万事屋のペットは、今日のお散歩コースがお気に入りの公園だって気付いてるのかも。
隣を走る神楽ちゃんが「銀ちゃーん、ー、先に行ってるヨー!」って笑顔で手を振ってきた瞬間に一緒にこっちへ振り向いた顔は、心なしか嬉しそう。
まっしろでふわふわな長いしっぽも、パタパタ大きく振りっ放しだ。
並んで走ってる大好きな飼い主と、早く公園で遊びたいのかな。
たまにぴょんぴょん跳ねては神楽ちゃんにじゃれながら、赤や黄色のかけらがぱらぱら降ってくる川べりを一直線に駆けていった。
「楽しそうだね定春。見てると一緒に走りたくなるよね」
「そーかぁ?俺はいーわ、あいつら元気すぎてついてけねーわ」
「・・・」
トラックもおばあさんも追い越してどんどん遠くなっていく姿を見送ってから、ぐたーっと肩に凭れかかったままの彼氏の顔を盗み見る。
風にふわふわ煽られてる白っぽい髪に半分隠れた銀ちゃんの目は、今起きたばかりですってかんじの寝惚け眼。
神楽ちゃんたちのことなんて別にどうでもよさそうで、川向こうの道沿いをびっしりと、渋くて味のある店ばかり連なってる古い飲み屋街のほうなんか眺めてた。
だけどその顔つきは「まぁこういうのも悪くねーか」って思ってそうっていうか、なんだか満足そうっていうか。
さっきまでは暑いだの公園行きたくないだのって不満たらたらだった二日酔いのおっさんとは、なんとなく雰囲気が違う気がするよ。
「・・・。銀ちゃんてさ」
「んー?」
「定春みたい」
「はぁ?」
ペットは飼い主に似るってよく言うけど、万事屋のペットと飼い主も共通点は多いかも。
たとえば――なんだか白っぽい見た目とか。
猫背気味にのそのそ歩いてる背中とか。
大きな図体してるくせにけっこう甘えたがりなところとか。
表情だけじゃいまいち何考えてるかわかんないところとか。うん、こうして見ると結構似てる。
心なしか嬉しそうだった今の銀ちゃんの表情も、お散歩を喜ぶわんこの表情とちょっとカブって見えてくるよ。
そう思ったらおかしくてくすくす笑っちゃって、「へ?定春ぅ?」って目を丸くした顔と目が合ったら、もっとおかしくなってきた。
あたしは神楽ちゃんたちが楽しそうにしてるところを見るのが大好きなんだけど、銀ちゃんはどうなのかな。
くだらないことやどうでもいいことはよく喋るのに自分が思ってることはなかなか口にしない銀ちゃんだから、尋ねても適当にはぐらかされそうだけど。
「へ?なんで?銀さんお前の中で犬と同じなの?つーか何で笑ってんの」
「別にー、銀ちゃんの顔がおかしかっただけだよ。それよりもほら、早く行こ。もうすぐお昼だよ、座れるとこ無くなっちゃう」
「あー、だよなぁー」
あたしたちが向かってるのはかぶき町で一番広い公園だ。
休日になるといつも朝から賑わってるから、早めに行って場所を取っておくのが街の人たちの間では常識になってる。
あたしの肩に顎を乗せてぐたーっと圧し掛かってる顔が、だるそうで気が抜けた溜め息をついて、
「あそこ土日はカップルと家族連ればっかだもんなぁ。場所取りすんのめんどくせー」
「いいじゃん、たまには行ってみようよ。それにさ、懐かしくない?公園の奥のあのベンチ」
そう言ったら銀ちゃんは軽く目を見開いて、それから、ああ、ってようやく思い出したみたいにつぶやいた。
後ろからべったりくっついてた身体が、のそのそっと背中を起こして離れていく。
なんだかむず痒そうに眉を寄せて、陽射しを浴びてうっすら光る白い癖っ毛の天辺をぼりぼりぼりぼり掻きながら、
「あー、そーだっけ。そーいやぁこんな季節だっけ、あれ」
「そうだよ、あそこならそんなに暑くないでしょ。ほら早く行こ、来ないと唐揚げぜんぶ神楽ちゃんにあげちゃうよ」
お弁当の風呂敷包みを銀ちゃんから取り上げて、胸の前で抱きしめながらわざと意地悪く笑ってみせる。
そんな態度が思った以上に効果覿面だったみたいで、あんなに眠そうでかったるそうでやる気のかけらも感じられなかった半目が、かぁっ、と思いっきり全開に。
「えっ、ちょ、やめてそれ。急ぐ急ぐ、全力で急ぐから唐揚げはやめて!」
そこからの銀ちゃんときたら、まるで人が変わったみたいな素早さで。
あたしの腕の中に収まってたお弁当はあっというまに強奪されて、かと思えばスマホを持ってたほうの手をむぎゅっとスマホごと引っ掴まれて、ぐいぐい、ぐいっ。
大好きな唐揚げ欲しさに焦り始めた食いしん坊が、まるで競歩のレースみたいなペースであたしを引っ張って歩き出す。
おかげで並木道の終着点にある公園の正門は、あっという間に目の前に。
広い敷地をぐるりと囲む高い塀の上からちらちら頭を覗かせてる木が、どれも夕陽みたいな鮮やかな色に色づいてるからすっごく綺麗だ。
「わー、ちょうど見頃だねー。お天気いいからきれいだねー」
「んー、だなー。つーかこの時季の葉っぱってよー、どれもうまそうな色してんだよなぁ。じーっと見てっと栗とか芋とか食いたくなるわ」
「私はりんごやみかんに見えるネ。柿とか梨も捨てがたいけどナ」
「二人とも、たまには食い気から離れようよ…」
正門前で立ち止まって、今にもよだれを垂らしそうな顔していちょうや桜の大木を見上げる二人に苦笑する。
先月までは涼しげな緑色一色だった園内の木立も、ここ一週間くらいですっかりあったかそうな秋の色に衣替えしたみたい。
定春お気に入りの散歩コースになってるこの公園は、何かと騒々しくてごちゃごちゃしてるこの街では貴重な、町民たちの憩いの場。
もしくは緑のオアシス、ってかんじかな。
春にお花見するのもここだし、夏は朝早くから子供やお年寄りがラジオ体操をやってるのもここ。
駅からもわりと近いから近隣にはオフィスビルもちらほら建ってて、そこでお勤めしてる人たちにとってもちょうどいい休憩場所みたいだ。
三人と一匹で赤いレンガ造りの正門を潜ってみれば、門の近くに並ぶベンチは休日出勤中の人たちに早くも陣取られてた。
お弁当やコンビニ袋を手にしたスーツ姿の男の人たちや、お揃いの制服を着た女の子のグループがあたしたちの前後を歩いてる。
やっぱりお昼は混むんだなぁ、って周りをきょろきょろ見渡してたら、
「神楽ぁ、これ持ってけ」
定春に跨って前を進んでく神楽ちゃんに、銀ちゃんがお弁当の包みを突き出して、
「そこらで適当に飯買ってくっから、お前ら先行って場所取りしとけば。
あーそれとそこの大喰らい娘、くれぐれも俺の唐揚げに手ぇ出すんじゃねーぞ」
やけに真剣な顔して言い聞かせる銀ちゃんを、神楽ちゃんがフフンって鼻で嘲笑う。
受け取ったお弁当を両腕でしっかり抱きしめて、
「何が俺の唐揚げアルか、そんなもんここに入ってないネ。ここにあるのはぜーんぶ私の唐揚げヨ、独り占めネ」
「違いますーの手料理はぜーんぶ銀さんのもんですー、いーな絶対食うんじゃねーぞ」
「違いますーの手料理はぜーんぶ神楽さまのものですー、銀ちゃんはそのへんの草でもかじってたらいーネ」
「はいはい、たかが唐揚げでケンカしないの。ああ銀ちゃん、あそこで待ってるからね」
「おう、あそこな」
すぐに踵を返した銀ちゃんが、寝癖がついたままの頭の横で「りょーかい」ってかんじにひらひら手を振る。
駅へ繋がる高架下沿いの道には昔ながらの小さなお店がひしめいてるから、そっちへ行くつもりなのかも。
白い着物の懐に両腕を突っ込んで袖をひらひらさせてる後ろ姿は、制服姿のOLさんたちを右へ左へ避けながらどんどん遠ざかっていく。
…あ、そうだ。ご飯は銀ちゃんに任せちゃったから、あたしは飲み物でも買おうかな。
今歩いてる遊歩道の、すこし先――お母さんと子供たちがお弁当を広げてる芝生のほうに振り向けば、その奥に建つコンビニをうんと小さくしたような売店と、飲み物やアイスなんかの自販機コーナーが目に入る。
さっそくお財布を出そうとして着物の袂を探ってたら、
「くーん」
耳の傍で鳴き声が響いて、日向の匂いがするあったかさにほっぺたをふんわり包まれる。
あれっ、て目を丸くして振り向けば、大きなわんこのつぶらな瞳がじぃーっとこっちを見つめてた。
いつのまに横に並んだんだろ。定春はちょこんと頭を傾げてこっちを覗き込んでいて、くーん、って鼻を鳴らしながら顔をすりすり押しつけてくる。
そんな定春の上から、お弁当の包みを抱えた神楽ちゃんが大きな目をまじまじと見開いて乗り出してきて、
「ー。どこアルか、あそこって」
「あぁ、そういえば神楽ちゃんとは行ったことないよね。
毎年お花見してる広場の隅っこにね、あんまり目立たないけどベンチがあるんだ」
「ふーん・・・?」
そんなベンチ見たことないネ、って神楽ちゃんが首を傾げる。
そっか、神楽ちゃんも知らないんだ。確かにあそこは雑木林の木陰になってるし、ペットの散歩に来る人たちの目には留まらないかも。
でも雑木林のおかげで陽射しがほとんど当たらないから、おひさまの光に弱い神楽ちゃんもゆっくりランチ出来るんじゃないかな。
「しらなかったアル、と銀ちゃんそんなとこでデートしてたアルか」
「ううん。デートじゃないけど、なんていうか…ちょっとした思い出の場所、かなぁ」
「思い出?銀ちゃんとの思い出アルか、それっていつの話アルか」
「いつって、えーと…神楽ちゃんたちが万事屋に来る前の話だよ。あたしがかぶき町に引っ越してきた年だから」
その頃のことを思い返しながら答えたら、神楽ちゃんがぱぁっと表情を輝かせる。
「それって銀ちゃんとが知り合ったころの話アルか!?」
「えっ、うん、そうだけど。知り合ったころっていうか、そこが銀ちゃんと初めて会った場所で」
「マジアルか!!」
最後まで言い終わらないうちに、目をまんまるに見開いた女の子の顔がほんの数センチ前までずいっと迫ってきて。
尋常じゃないその勢いに気圧されてぽかんとしてたら、今日の空みたいな澄んだ色の瞳が嬉しそうに輝く。
ぎゅっと握り締めた拳で小さくガッツポーズまで作って、
「それそれ、それヨ!私それが聞きたかったネ!」
「え?そーなの?」
「そーヨ!聞かせてヨ、銀ちゃん変なとこで秘密主義だからそーいう話は教えてくれないネ。いつも話逸らしてしらばっくれるネ!」
定春の背中から今にも落っこちそうなくらい身を乗り出した女の子の目は、この手の話が気になるお年頃の女の子らしくきらきらきらきら輝いてた。
うーん、どうしようかなぁ。ここであたしが話を逸らしたら、神楽ちゃんがっかりしちゃうんだろうな。
とはいえ別にこの話って、隠しておかなきゃいけない話でもないんだよね。
特に変わったところもない、よくある普通の思い出話だもん。
まぁ、今朝のあの騒ぎみたいに「未成年の方にはお見せできません」的ないかがわしさはどこにもないし、話しちゃってもいいんだけど・・・。
なんて思ってほっぺたをぽりぽり掻きながら、いつになくわくわくした表情であたしの反応を待ってる女の子と飼い犬をちらりと見上げる。
こんなふうに面と向かって、しかも期待に満ちた顔で尋ねられると、なんだか気恥ずかしいような、照れくさいような気分になるのはどうしてなんだろ。
もしかして、こういう話を神楽ちゃんにおねだりされたときの銀ちゃんもこんな気分だったのかな。
「・・・勝手に話したら銀ちゃん拗ねたりしないかなぁ」
「銀ちゃん来る前に話してくれればだいじょぶヨ、私も定春も口は固いネ!」
きっぱり言い切った神楽ちゃんが、「まかせてヨ!」ってチャイナ服の胸元をぽんと叩く。
人間の言葉をかなり理解できてるらしいおりこうなペットも、「もちろんだよ、まかせてよ!」って言いたげな顔で何度もこくこく頷いてる。
どっちの顔も揃って自信満々なところが可愛くて、こんな子たちを前にしたらとても駄目だなんて言えそうにないよ。
「じゃあ銀ちゃんにはないしょね。話す前にそこで飲み物買っちゃおうか」
「ウン!私オレンジジュースがいいネ!」
芝生の向こうのお店を指せば、屈託のない笑顔でおねだりされる。
うちはお兄ちゃんばかりで弟も妹もいないんだけど、もし妹がいたらこんなかんじで無邪気に甘えてくれたりするのかな。
そう思って嬉しくなって、まるで神楽ちゃんのほんとのお姉さんになれたような気分を味わってたら、ひらりと地面に飛び降りた女の子が自然にあたしの手を取った。
きゅ、って握り締めてきた手のひらは、さっき繋いだ銀ちゃんの手よりもうんとやわらかくてあったかい。
まるで今日の陽だまりみたい。
こうしてるだけで手のひらがふんわり温まってきて、そのうちに胸の中までぽかぽかにあっためてくれそうだ。
行こう、って小さな手を引いて、隣で待ってる大きなペットにも笑いかける。
鮮やかな赤や黄色の落葉が交ぜ織りの絨毯みたいに敷き詰められた秋の遊歩道を、二人と一匹でぱたぱた駆けていった。
――あれは就職が決まって家を出て、通勤が便利だから、って理由だけで選んだマンションで一人暮らしを始めた年。
駅からの帰り道で見つけたそのベンチは、秋でも冬でも葉っぱがわさわさ元気に生い繁ってる常緑樹の木陰に隠れてて、誰かが座ってるところを一度も見たことがなくて。
もし目に留めた人がいたとしても、あんな薄暗くてどんよりした雰囲気のところでくつろいでみようって人は少ないだろうな。
そんなことを思ってしまうような、奥まって目立たなくて鬱蒼とした場所にぽつんとあった。
仕事帰りやお休みの日にそこへ通うようになったのは、かぶき町に引っ越して少し経った頃。
三人座るのがやっとな大きさの西洋風な椅子はかなり古くて、だけど真っ白なペンキで丁寧に塗り直されてた。
一度試しに座ってみたら緑の匂いに包まれて意外と気持ちよく過ごせたその場所に、あたしは不思議と安心感を覚えた。
気が向くといつも公園へ寄り道して、いつもあのベンチで時間を潰した。
最初はただベンチに腰を下ろして、どこの公園にもあるようなふつうの景色をぼうっと眺めるだけだった。
青々と広がるさくらの木立と、その下を走り回る子供たち。
広場の端に点々と置かれたベンチでデートを楽しむカップルに、ゆったりお散歩するペットや飼い主。
どんな町のどんな公園にもいるような人たちを遠目にぼーっと眺めていると、なぜかほっとして気持ちが和んで。
あそこに行くとマンションに帰ってからも和んだ気分が続いてることに気付いてからは、ちょっと疲れたなぁって感じた時はあのベンチに足が向かうようになった。
その頃は意識してなかったけど――めったに人が近寄ってこない場所、ってところが、前に好きだった人のおかげで男の人を怖がってたあたしには安心出来たんだと思う。
公園での散歩を楽しむ人たちからはある程度距離を置けて、だけど引っ越したマンションよりも人の気配を身近に感じられるから、帰って誰もいない部屋にいるよりもさみしくない。
自分で思ってる以上に臆病になってたあの頃、外で過ごす開放感を人目につかずに味わえるあの場所は、誰にも気兼ねせずにのんびり過ごせる自分専用のお庭みたいなものだった。
そのうちに一面緑色だった広場が黄金色に変わって、蒸し暑かったかぶき町の空気もだんだん肌寒くなり始めて。
それでもあたしは飽きることもなくあのベンチを指定席にしてた。
仕事でミスして落ち込んだ日の夜は、なかなか会えなくなった地元の友達と長電話して愚痴ってみたり。
駅前のおしゃれなお店でテイクアウト出来るおいしいコーヒーを買った日には、眺めのいいカフェのテラス席に座ってる気分に浸ってみたり。
そうして週に何度かはあそこへ行くのが習慣になっていたけど、この街の他の場所には、相変わらず自分の居場所をひとつも見つけられずにいた。
かぶき町に越してきて半年経ってたのに、顔を合わせれば挨拶するような人を殆ど作れてなかったせいもあったと思う。
だけど覚えなくちゃいけないことが山積みな社会人一年生の毎日は余裕がなくて、忙しくて。
実家にいた時とは真逆の希薄なご近所付き合いをさみしく感じてはいたけれど、マンションと会社の往復だけで時間はどんどん過ぎていく。
(仕事以外は何もないこんな生活、あたしはいつまで続けるのかなぁ。)
そう思うことはあっても、新しい知り合いや友達を作るような気力はちっとも湧いてこなくって。
その頃のあたしは早く仕事を覚えようと一所懸命に過ごす一方で、この街に帰ればひとりぼっちの味気ない時間を過ごしてた。
『――なぁ、悪りーけどちょっとだけそこ貸してくれる』
それは気持ちのいい秋晴れの、公園のどこを歩いていても楽しそうにはしゃいで駆け回ってる子供たちとすれ違うような土曜日の午後で。
あのベンチに座ってたあたしに初めて声を掛けてきたのは、全身グレーの作業服を着た庭師さんっぽい人だった。
どうして「庭師さんっぽい」なんて思ったかっていうと、その人の頭に「××造園」ってプリントされた白いタオルが巻かれてて、がっしりした肩には大きくて重そうな脚立、手には大きな植木鋏を持ってたから。
脚立をがちゃがちゃ鳴らしながら慣れたかんじで大股に歩いてくるから、あたしはその後しばらくの間、その人がいわゆる造園業の人なんだと思い込んでた。
『あーいいって、逃げなくていーって。ちょっとだけ、5分くれー待っててくれたらいーから。
あんたの上まで伸びてる枝、適当に切っちまうだけだから』
遠慮なくすたすた寄ってきてさっさと脚立を立ててしまった庭師さんは、あまり細かいことを気にしなさそうな、大雑把そうな性格の人に見えた。
知らない男の人に声を掛けられただけであたしが怖くて竦み上がったことには、ちっとも気付いていないみたいだったし。
だけどお仕事の邪魔にならないようにそこから立ち去ろうとしたら、後ろから声を掛けて引き止めてくれた。
おそるおそる振り返ってみれば、庭師さんがこっちを見てた。
早くも脚立の天辺に座り込んでたその人は、だるそうな口調と同じく顔つきまでだるそうな、うちのお兄ちゃんたちと同じくらいの年の人で。
眠そうな半目は何を考えてるのか読めなくて、ちょっと得体がしれなくて。
軽い男性恐怖症に陥ってたあたしは、そんな人と目を合わせてるだけでますます身体が竦んでしまった。
その頃のあたしにとって、そのくらいの年の男の人はみんなあたしをフッたあの人と同じに見えていたから。
『い、いえ、だいじょうぶ、です、向こうの広場に行ってみます』
『あーだめだめ、あっちはどこも空いてねーよ。土日はカップルだらけだからよー』
『おいおい何やってんだぁ新入り、仕事中にナンパかぁ?』
そこへ『バイト代出してやんねーぞ』なんて笑いながら雑木林をガサガサ割って出てきたのは、庭師のお兄さんと同じグレーの作業着を着たおじさんたち。
どの人も声が大きくて威勢がよさそうな庭師さんたちは、がやがやと賑やかに寄ってきて。
突然声を掛けてきたお兄さんにすっかりあたしが怯えてることに、たぶん気付いてくれたんだろう。
『悪いねぇびっくりさせて、後で叱っておくから許してやってよ』なんて脚立から降りたお兄さんの頭を掴んで無理やり下げさせる人もいれば、『兄ちゃんまたフラれたのかぁ、ほんっとモテねーんだなぁあんた』なんてお兄さんの肩をバシバシ叩きながら笑って冷やかす人もいた。
けれど冷やかされたお兄さんのほうはといえば、特に気にした様子もなくて。
それどころか『うっせーよジジイ』って、頭を押さえつけてきたおじさんの頭をべしっと叩き返して、
『何が「悪いねぇ」だ、てめーらこそ俺をダシにして若けー女と話してーんだろーが』
聞いてるこっちが固まるような悪態を、お兄さんがけろりと言い切る。
そんな態度にあたしはびっくりさせられたんだけど、びっくりさせられることはそれだけじゃ終わらなかった。
その後もお兄さんときたらあたしが目を点にしてしまうような言動を次々と、しかもだるそうでやる気のない顔つきのまま、やりたい放題にやってのけていた。
剪定した葉っぱや枝がたっぷり入ったゴミ袋を頭髪薄めなおじさんの頭にぼふっと乗っけて『若い子とお近づきになりてーんだろ、これでも被って少し盛っとけよハゲ』なんて言ってみたり、「モテない」ってからかってきたおじさんをヘッドロックしたり、『ほらほら散れ散れ色ボケジジイが、俺のぶんまできびきび働けっつーの』って、集まってきたおじさんたちをまるで犬か何かみたいに追い払ってみたり。
なのに、それでもおじさんたちはお兄さんを囲んでげらげらと楽しそうに笑うだけ。
お兄さんの態度の大きさに気を悪くするどころか、とことん口が悪くて失礼な新人さんを面白がってるみたいだった。
(同じ職場の先輩と後輩でも、この人たちはお互いに言いたいことを言い合える関係なんだ。)
男性恐怖症のおかげもあって職場の先輩にも馴染めていなかったその頃のあたしは、そんなことを思って羨ましくなった。
そしてそんなことを考えながらお兄さんたちを眺めてるうちに、「若い男の人」に対する怖さを忘れかけてたんだろう。
『すぐ終わるから待ってなよ』っておじさんたちにも勧められて、あたしは剪定作業が終わるのをその場で待つことにした。
全員が初対面のおじさんたちはお父さんとそう変わらない年の人たちで、どの人も気さくで安心できた。
自然とお喋りしながら待っていたら、同じ作業着を着た白髪のおじいさんが軽トラックで現れて。
運転席からひょこっと顔を出したそのおじいさんは、おじさんたちの休憩時間に合わせて来たんだって言っていた。
大きな保温ポットを車から持ち出して、『お嬢さんにもご馳走するよ』ってあたしにまでお茶を振舞ってくれた。
手渡してもらった小さな白い紙カップは、渡された傍から手のひらをじんわりあっためてくれた。
爽やかに晴れ上がったその日の陽だまりみたいな温度だと思った。
ほわほわ湯気を昇らせるお茶は、家で飲んでいたものとよく似た渋味がやわらかい煎茶で。
さくらの広場へ移っていく庭師さんたちを見送った後でふうふうと息を吹きかけながら飲んだその味は、あたしがこの街に来て初めて誰かにご馳走になった思い出の味になった。
『――あれっ、こないだの子じゃん。あんたさー、そんな日陰でじっとしてて寒くねーの』
それから半月くらい経った日曜日の夕方、また同じお兄さんに声を掛けられた。
二度目に声を掛けられたときも、お兄さんは前と同じグレーの作業着姿。
だけど頭にタオルは巻かれてなくて、限りなく真っ白に近い薄灰色、っていう珍しい色のふわふわした癖っ毛が夕日を浴びてオレンジ色に光ってた。
手に持ってるのも植木鋏じゃなくて、ジブリ映画の魔女っ子ちゃんが乗ってそうな長い竹箒。
あたしがぎこちない顔で『こんにちは』って挨拶しながらこっそり後ずさろうとしてる間に、お兄さんはあたしを頭のてっぺんから爪先まで遠慮なく確認してるみたいだった。
膝に置いた食べかけの鯛焼きの袋や、ベンチの両脇に置いたドラッグストアの袋までしげしげと眺めて、
『で、今日は何、買い物帰り?』
『そうです。ええと…お兄さんはお仕事ですね』
『まーな。ジジイどもだけじゃ手が足りねーってんで、掃除に駆り出されてよー』
そう言われてお兄さんが指したほうを見れば、赤や黄色の落葉が絨毯みたいに敷き詰められたさくらの広場には、箒を手にしたおじさんたちがぞろぞろ集まってきていた。
落葉を掃きながらゆっくり向かってくる中には、おーい、ってこっちへ手を振ってくる人が。
一度会っただけのあたしを覚えてくれてたみたいだ。
『お嬢ちゃんまたナンパされてんのかー』なんて、笑いながら声を掛けてくる人もいた。
だけどその頃のあたしはそんな軽口にどう返したらいいかわからなくて、ただもじもじしながら『こんにちは』って頭を下げたのを覚えてる。
『兄ちゃんまたサボりかぁ?若けーもんがだらしねぇなぁ、もうバテたのかよ』
『っせーよ少しは休ませろよ、手間かかる場所ばっか押しつけやがって人使い荒れーんだよクソジジイ』
お兄さんの悪態は相も変わらず堂々としてて失礼で、そんな場に居合わせるのは二回目だっだけど、あたしはやっぱり目を点にしてしまった。
あー疲れたぁ、めんどくせー、なんて白っぽい前髪の下で眉を顰めながら、お兄さんがブツブツ文句を言う。
だけど口では『めんどくせー』なんて言ってるくせに、そうやって文句をつけてる間も箒を握った両腕をせっせと動かし続けてた。
地面に散った赤や茶色の葉っぱを力強く掃いては一点に掻き集めていく動きは、なかなか早くて手際も良くて。
そんなちぐはぐさが不思議だったせいもあって、あたしは自分がその人に怯えてたことも忘れて作業着の背中に見入っていた。
するとそのうちに、なぜかその背中がこっちを向いて。
くるりと振り返っただるそうな顔が、まっすぐに立てた箒の柄の先に顎を乗せる。
眠そうな半目であたしをじとーっと眺めてから、ちょっと何かにためらったみたいに間を置いて。
『なぁ、大丈夫。もうじき日ぃ暮れるし、そろそろ危ねーんじゃねーの』
『え?』
危ないって、何が危ないんだろう。
判らなくてきょとんとしてしまったけれど、そんなあたしの反応をお兄さんは予想してたみたいで。
んー、ってほんのちょっとだけ眉をひそめて、箒の天辺に顎を乗せた顔を軽く傾げて、
『あんた最近越してきた子?・・・だよなぁ、見ねぇ顔だもんな』
『は、はい・・・?』
『ここ昼間はガキどもが走り回ってっけど、夜は痴漢だの盗撮野郎だの露出狂のおっさんだの、タチの悪りー変態が大集合すっからよー。
見なかった、入口んとこの掲示板。「夜間の不審者にご注意を」って張り紙してあっただろ』
『えっ』
『あー、見てねーんだ。やっぱりな』
ぽかんと口を開けたびっくり顔のままで、はい、とあたしは頷いた。
この公園の正門前に掲示板があるのは知っていた。だけど、いつも前を素通りするだけ。
その前で立ち止まって眺めたことは一度もない。あの公園は痴漢が出るから気を付けなよ、って注意してくれるような知り合いも、残念ながらその頃のあたしにはいなかったし。
だから仕事帰りのどっぷり日が暮れた時間でも、平気で公園に通ってた。
さいわい男の人の目を惹くタイプじゃないから、変な人に目を付けられることはなかったみたいだけど――これまで何事もなかったのは、たまたま運が良かっただけかもしれない。
それまでの自分の行動を思い返せば首筋がひやりと冷たくなって、黙ってこっちを見てたお兄さんがぼそりと低くつぶやいた。
『だと思ったわ。知ってたらこんだけしょっちゅう来ねーしな』
『え?』
しょっちゅう、なんて言われたのが不思議で思わず見つめ返したら、なぜかお兄さんの顔つきが微妙なかんじに変わっていって。
『ん?あーいやいやいや、つーかあれな、あれ』なんてきまり悪そうにぼそぼそ言って、髪が跳ねまくってる後ろ頭をがしがし引っ掻き回しながら、
『まぁあれだわ、悪りーこたぁ言わねーから早く帰んな。
こんな人が寄り付かねーとこに一人でいたんじゃ、真っ先に痴漢に狙われんじゃねーの』
『・・・』
『早く帰んな』
そう言われて「はい」って返事するつもりが、なんとなく言葉に詰まってしまって。
ようやく『はい、そうします』って口に出来たのは、かなり経ってからだった。
おかげでお兄さんの表情はもっと微妙になってしまって、だけど何も言えなくて。
その上いまいちここから立ち上がる気にもなれなくて、あたしは膝に乗せた鯛焼きの袋を握り締めたまま、肩を落として黙りこくってしまった。
公園へ着いた時はまだはほかほかで甘い香りを昇らせてた鯛焼きだけど、その時手の中にあった温度は座ってるベンチとそう変わらないくらいまで冷えていて。
それだけの時間が過ぎているのに、あたしは鯛焼きのしっぽのところをほんの一口かじっただけ。
買ったときはすごく美味しそうに見えたのにちっとも食べる気になれなくて、鯛焼きを袋に戻してからは、茜色から薄紫へ色を変えていく夕焼け空をただぼんやり眺めてた。
早く帰ろう。帰らなきゃ。
何度もそう思った。だけど身体が動かなかった。
いろんなことが積み重なって週末から落ち込んでいたせいで、その日はなんとなくマンションに戻りたくなかったから。
落ち込みの原因は、どれもそれほど悲観的になるようなことじゃない。
先週仕事で小さなミスを立て続けに起こしたとか、他の部署の男の人から「君って男嫌いなんだって?」って皮肉っぽいかんじで絡まれたこととか。
久しぶりに地元の友達と会うはずが予定変更になって、楽しいはずの休日がいつものさみしい休日になってしまったこととか。
仕方なく一人で買い物に出てみたけれど、何軒か店に入ったものの結局何も買えなかった、とか。
買い物帰りにお母さんからメールが届いて、それを見たら無性に家に帰りたくなった、とか――
『――あ。それあそこの店のだろ、ガード下の』
『っ!?』
急に耳に飛び込んできた声に驚いて顔を上げれば、お兄さんが目の前でしゃがみ込んでいた。
黙って考え込んでいた間はお兄さんの存在を忘れかけてたから、あたしはものすごくびっくりした。
ひっ、って思わず引きつった声を漏らしてしまったし、全身が強張るし声は出ないし、心臓はどくどく暴れるしで身体はいうことを聞いてくれない。
とはいっても、原因は目の前の人じゃない。
どれもただの条件反射。男の人が傍に寄ってくるだけで出てしまう、その頃のあたしを悩ませていた後遺症だ。
(ああ、まただ。またやっちゃった。)
その時あたしはまた悪い癖を出してしまったことを後悔して、だけど身体が竦みきっていて、どうしていいのかわからなくて泣きたい気分になっていた。
これまで同じ反応をされた人は、みんな過剰な反応に驚いたり、困惑したり、気を悪くしたり。
そしてどの人も、その後は決まってあたしを遠ざけるようになった。
だからこう思った。この人もこれまでの人たちと同じように、あたしから離れていくんだろう、って。だけど――
『うめーだろ、あそこの餡子。あれ自家製で、針金みてーな細っせーババアが朝早くから大鍋で練ってんだわ』
身体中を硬くしたあたしの膝元に――驚いたせいでぎゅうっと握り潰してしまった鯛焼きに、長くて節の太い指が伸びてきて。
つんつん、って袋の端をつつかれて、あたしはぽかんとしてしまった。
お兄さんは平然としていた。
半分瞼が下りた眠そうな目はずっとあたしを見てたはずなのに、まったく動じたふうもなくて。
それどころか、あたしのそんな大げさすぎる反応にさっぱり気付いてないような顔をしていて。
そんな表情がいくら見つめてもちっとも崩れないから、あたしはもう一度驚かされてしまった。
(この人、気付いてないのかな。それとも、気付かないふりをしてくれてる?・・・それとも、気にしてない、のかな。)
いくら考えても、いくらお兄さんを見つめても、そこはやっぱりわからなかった。
『春は団子も売っててよー、それもうめーんだよなぁ。あそこの餡子なら鍋一杯食えるわ俺』
『・・・・・・そ、そうなんですか。えっと、でもこれ、クリーム味で』
『あー、クリームな。それもうめーんだよなぁぁ。あーあー、話したらますます腹減ってきたぁ』
『・・・』
どうにか返事はできたけど、厄介な「条件反射」のせいであたしの声は震えてた。
お互いの顔がはっきり見えるような距離だ、声の震えにも気付かれたはずだ。
でも、それでもお兄さんのとぼけた表情は崩れなくて。
『腹減ってきたぁ』ってお腹のあたりを撫でながら溜め息をついた顔は、やっぱり眠そうでだるそうで。
戸惑ってるあたしの目を見ながらふっと目許を曇らせて、ちょっと困ったような顔で笑った。
『姉ちゃんさー、前もそんなしょぼくれた顔してここ座ってたよなぁ』
『し、しょぼくれ・・・?』
『はは、気付いてねーんだ。してたぜ、そんな顔。天気もいいのに下向いてよー、ぼーっと考え込んでただろ』
何か家に帰りたくねー理由でもあんの。
そう尋ねられたときはためらったけど、あたしはつい話してしまった。
立て続けに驚かされた直後で、すっかり拍子抜けしてた時だ。
そのおかげで、ずっと凝り固まってた肩の力がいい具合に抜けていたのかもしれない。
仕事をミスしたこと。遠回しな嫌味を言われたこと。就職して半年過ぎても職場にまだ馴染めていないこと。
今日の予定を友達にドタキャンされたこと。この街に誰も知り合いがいないこと。
このまま会社と家の往復だけの生活を続けていいのかって、たまに悩んだりしてること。
今思えば、一度会っただけの名前も何も知らない人に話すような内容じゃない。
しかもあれこれと脈絡もなく、頭に浮かんだそのままにあれもこれもと喋ってしまった。
その間お兄さんは暴走族とかチンピラの人みたいなポーズでしゃがみ込んで頬杖をついたまま、途中で口を挟むこともなくずっと話を聞いてくれていて。
ふーん、へー、なんてあまり気のない相槌を打ちながら、それでも最後まで聞いてくれて。
話が終われば何を思ったのかくるりと後ろへ振り向いて、枯葉をお掃除中のおじさんたちに向かって大きな声を張り上げた。
『おーいこっち来いジジイどもー、集合ー!』
えっ、とあたしはまた驚いた。
どうしておじさんたちを?ていうか何なの、集合って。
のそっと立ち上がった作業着の猫背気味な背中に目を見張ってたら、呼ばれたおじさんたちが続々とこっちへ振り向いて、
『何だぁ、どーした兄ちゃん』
『またナンパ失敗かー?』
『だからナンパじゃねーっての、いいから聞けよジジイども。この子が社会人一年目でよー、なんやかんや悩んでんだと』
『・・・え?お、お兄さ』
『てめーら無駄に年食ってんだから年の功とやらでアドバイスしてやれよ』
『えっ、〜〜ちょっ、そんな、いいです、いいですからっ』
あわてふためいて立ち上がってグレーの作業着に縋りついたせいで、鯛焼きが膝からぼとっと落ちた。
それを拾ったり『いいですそんな、お仕事中なのに!』ってお兄さんの服を焦りまくりながら引っ張ってるうちに、気のいいおじさんたちは『何だ、どーした』って箒を手にしたままぞろぞろこっちへ集まってきてしまって。
それで結局、集まった全員にあたしのお悩み相談に付き合ってもらうことになった。
しどろもどろに話してみればどの人も真面目に聞いてくれて、どの人も親身になって考えてくれて。
だけどああでもないこーでもないと熱心に意見し合った末におじさんたちが満場一致で出した答えは、わりと乱暴っていうか豪快っていうか、かなり大雑把で予想もしなかった答えだった。
『そういう時は酒でも飲んでくだらないことで笑って、ぐっすり眠るのが一番』
聞いたときは思わず固まってしまったけど、それからじわじわ可笑しさがこみ上げてきて。
我慢できなくてぷっと吹き出したあたしは、しまいにはお腹を抱えて笑ってしまって。
いつの間にかあたしの隣に座ってどこからか出したアポロチョコをむぐむぐ頬張ってたお兄さんが、『な?このジジイども見てると真剣に悩んでんのが馬鹿らしくなんだろ』なんて言うから、しばらく笑いが止まらなかった。
(・・・・・・あれっ。そういえば。
男の人なのに――あの人とあまり変わらない年の人なのに、あたし、ふつうに喋れてる。)
そう気付いたら嬉しくなって、なんだかすごくほっとして。
その帰り道、あたしは暗くなった街にぽつぽつ明りが灯り始めて一斉にきらきら光り出すかぶき町の景色を、初めて「綺麗だなぁ」って感じた。
昨日まではよそよそしく感じてたごちゃごちゃした街の夜景が、騒々しいけどあったかくてやさしい景色に見えてきた。
マンションに帰ってからは、おじさんたちの指導どおりにお酒を飲んだ。
急に決まった休日出勤でくたくたになってる友達から電話がきて、お互いに仕事の愚痴を言い合ったりしながら、くだらないことでたくさん笑った。
ぐっすり眠った翌日からもそれまでとあまり変わらない毎日が続いたけれど、それから少しずつ、少しずつ、いろんなことに気楽に向き合えるようになっていって。
あんなに困らされてた男性恐怖症がそれほど気にならなくなって、気付けば職場の先輩たちとも普通に話せる自分になっていて――
「――でね。それから半月もたたないうちに、またこのベンチで銀ちゃんに会ったんだよね」
かつお節の旨みがたっぷり染みたお醤油色のご飯をゆっくりむぐむぐ噛みしめながら、もごもごした声で話しかける。
「ウンウン、それでどーしたアルか」
話の続きを促してくる神楽ちゃんの声も、一口でぱくりと詰め込んだおむすびのせいでもごもごふごふごくぐもってた。
長い常緑樹の枝が伸び伸びと、まるで銀ちゃんの癖っ毛みたいに自由きままに張り出してる頭上では、目にやわらかい木漏れ陽がかすかにちらちら瞬いてる。
秋になっても葉っぱがわさわさ生い繁ってる木陰に置かれたそのベンチは、あの頃と同じでやっぱり人目につかないみたいだ。
相変わらず誰も座っていなかった思い出の場所に着いたあたしたちは、銀ちゃんを待たずにさっそくお弁当を広げてしまった。
あたしはおかかを混ぜご飯にしたおむすびを。定春は万事屋から持ってきたわんこ用のおやつを。
神楽ちゃんは右手に梅干しおむすびと昆布のおむすび、左手にはお箸に串刺ししたウインナーとプチトマトと卵焼きっていう食いしん坊さん向けの豪華な二刀流態勢だ。
すぐ後ろが常緑樹の木立になっていて、座ってるだけで自然と緑の匂いに包まれるから、かな。
それとも遠足で登山した後のお昼ご飯みたいな、外で景色を眺めながら食べるご飯特有の美味しさ効果?
いつもと同じ手順で普通に握ったおむすびが、いつもよりも五割増しで美味しく感じるよ。
ごはんの粒がつやつやしてる小ぶりなサイズのおむすびを、ぱくん。またひとくち頬張ってから、
「その日は作業着じゃなくていつものあの服で、このお兄さんてずいぶん風変りな恰好するんだなぁって
・・・あーそうそう、鯛焼き。二人であの鯛焼き食べたんだよね」
「それって駅行く途中の店の、銀ちゃんがたまに買ってくるあれアルか?ねーー、卵焼きもひとつ食べていいアルか」
「うん、好きなだけ食べてね。銀ちゃん何個もつまみ食いしてたし、ぜんぶ食べちゃってもいいよ」
「きゃほーい!」
嬉しそうにばんざいした神楽ちゃんの手が、ひゅんっ、と重箱にお箸を伸ばす。
表面がきれいな黄色になるようにゆっくり焼いたお砂糖多めの卵焼きは、残り3つ。
ちなみに万事屋では作るたびに争奪戦になってるにんにくと胡椒をきかせた唐揚げは、ここに座ってから2分くらいでほとんど神楽ちゃんの胃袋に収まってしまった。
残ってるのは、お重の真ん中にころんと転がったひとつだけ。
よかった、正解だったよ、先に銀ちゃんのぶんを分けておいたのは。
お重の蓋に取り分けたおむすびとおかずをちらりと眺めて、それから、色白なほっぺたを丸く膨らませて幸せそうに卵焼きを噛みしめる女の子を眺める。
夜兎の人たちってあたしたちとは比べ物にならないくらい食欲旺盛みたいで、神楽ちゃんのお食事ペースも、食卓に乗せたもの全部を数分でぺろりと完食しちゃう壮絶ハイペースだ。
そういえば、最初は「こんな小さい子のどこにあんな大量のご飯が入るの!?」って、見るたびに愕然としてたっけ。
今はもうこの冗談みたいな食事風景にも、育ち盛りの女の子と張り合っておかずを奪い合う銀ちゃんの大人げない姿にも慣れちゃったけど。
「それで?それでどーしたアルか」
「うん、それでね。その日もあの店の鯛焼き買って、このベンチに行く途中で偶然銀ちゃんに会って・・・」
その時買った鯛焼きはふたつ。
前にも買ったクリーム味と、お薦めされた餡子の鯛焼き。
悩みを聞いてもらったお礼のつもりで、好きだって言ってた餡子のほうをご馳走した。
「そしたら「マジで!いーの貰って!」って、別人みたいに目輝かせて喜んじゃって。
その頃もお仕事なくてかなりお腹空いてたみたいで、すっごい勢いでガツガツ食べるからびっくりしたよ。ていうか正直ちょっと引いたよ」
「私もドン引きヨ。今も昔もぐーたら貧乏生活してたアルなあの甲斐性なし」
「あはは、うん、そうみたい。それからもちょいちょい公園とか商店街で会ったけど、庭師さんじゃなくて何でも屋さんだって知ったのはけっこう後だったなぁ」
よく会う「庭師のお兄さん」が実は庭師さんじゃないって知ったのは、それからもうしばらく経ってからだ。
それを教えてくれるよりも先に、銀ちゃんはこの街のいろんなことを教えてくれて。
このベンチ以外に馴染みの場所がなくて疎外感を感じてたあたしに、いつでも好きな時に立ち寄れる馴染みの場所や、顔を合わせれば挨拶する馴染みの人を増やしてくれた。
そうこうしてるうちに一緒にごはんを食べたりお酒を飲みに行ったりするようになって、お登勢さんのお店にも連れていってもらうようになって。
まだ神楽ちゃんたちもいなくて今ほど賑やかじゃなかった万事屋にも、自然と遊びに行くようになって――。
だから、たぶん――いつから、なんて境目はなかったんだと思う。
そんな境目がわからないくらい自然に、ひとりぼっちだったはずのこの街で、あたしはいつの間にかひとりぼっちじゃなくなっていた。
思い出なんてひとつもなかった街に、どんどん楽しい思い出が増えていって。
仕事を終えてこの街に帰るのが楽しみになって。
(居場所が出来る、ってこういうことを言うのかなぁ。)
その頃のあたしは、毎日のようにそんなことを実感してた。
そしてその「居場所」を作るきっかけをくれたのも、この街での生活が楽しいって思わせてくれてるのも、困っていた男性恐怖症がいつのまにか治まってしまった理由も、ぜんぶ公園で知り合った「お兄さん」だって気付いて。
それから銀ちゃんに告白するまでずいぶん時間がかかったけど、その間も、この街での生活が楽しかったことに変わりはなくて。
だからあの頃の自分を思い返すたびに、ちょっと考え込んじゃうんだよね。
あの時この場所に、グレーの作業着姿の「だるそうで怖そうなお兄さん」が現れなかったら、あたしは今頃どうしてたのかなぁ、って。
そう思うと、こんなに広い公園のちっとも目立たない片隅で何度も同じ人に会ったことも、その人を好きになっちゃったことも、すごく不思議で幸運な巡り合わせみたいに感じたりして――
「・・・でもちょっと変ヨ。ほんとに偶然だったアルか、それ。なんだかあやしいって私の女の勘が言ってるネ」
「え。あやしいって?」
「だって――あ。来たアルヨ、あやしい甲斐性なしが」
なぜかすごく可笑しそうににやにや笑い始めた神楽ちゃんが、さくらの広場のほうを指す。
真っ赤に染まった鮮やかな木立と通り過ぎる人たちの間を縫いながら近づいてくる姿は、初めて会ったあの頃と同じ。
ふわふわした白い癖っ毛が光を浴びてきらきらしてて、わざわざ探さなくてもすぐに目に入っちゃうところも同じだ。
並木道を歩いてた時みたいにかったるそうに歩いてくる銀ちゃんの左手でぶらぶら揺れてるのは、コンビニの袋っぽい白い何か。
そっちは何なのかわからないけど、もう一方の右手に握られてるものには、あたしも神楽ちゃんも一目でぴんと来てしまった。
だって、二人ともすごく見覚えがある紙袋だ。
筋金入りの甘党さんが「あそこの餡子なら鍋一杯食える」なんてお墨付きを付けた、万事屋さんちでは定番の味。
お互いに顔を見合わせて「私クリームがいいネ!」「じゃあ餡子にしようかな」って、まるで女の子だけの秘密のないしょ話でもするみたいにくすくす笑いながら言い合う。
このベンチに二人並んで食べたあの味は、あたしがこの街に来てから初めて誰かと一緒に味わった思い出の味だ。
きっと袋を開けた瞬間に、あの日も感じた焼きたての甘くて香ばしい匂いを胸が一杯になるくらい届けてくれるはず。
そう思っただけで嬉しくなって、あの頃と同じ猫背な姿勢でのそのそ歩いてくる銀ちゃんに小さく手を振る。
目が合ったから笑いかけたら、遠目に眺めてる表情がほんの少しだけ、ぎこちないかんじに緩んだ気がした。
――わざわざガード下まで歩いていって、あの鯛焼きを買ってきてくれたんだもん。
もしかしたら銀ちゃんもあたしと同じで、あの頃のことを思い出してくれてたんじゃないかな。
「――んぁ?ちょっ、っだよそれぇぇ何も残ってねーじゃん!唐揚げは!?俺の唐揚げ!!」
「えー、だって銀ちゃん遅いから」
「そーヨ銀ちゃんが遅いからヨ。ほーらこれが最後の唐揚げアルヨ、ちんたら買い物してた自分を後悔するがいいネダメ天パ」
「あああああああああああああああああ!!!」
さくらの広場中に轟く大絶叫が鳴り響いて、銀ちゃんがベンチに向かって一直線、血相変えて爆走してくる。
口端を吊り上げてにやぁっと笑った悪魔みたいな顔の神楽ちゃんが、お重に素早く手を伸ばす。
ぱくんっ。わざと銀ちゃんが着く寸前まで待って、お重に残ってた最後の唐揚げをぽいっと口に放り込む。
「何で!?どーいうこと!?どーしてお前らそんなに銀さんに厳しーの!!?」
ベンチの真ん中に置かれた殆ど空っぽのお弁当箱は目に入っても、あたしの後ろに隠れてるお弁当の蓋は見えなかったみたい。
それから数分くらい、かな。
取り分けたお弁当の存在を協力して隠しながら、あたしたちはすっかり拗ねちゃった銀ちゃんをからかって楽しく遊んだ。
その間に何度か、袂に入れた携帯がぶるぶるぶるぶる震えてて。
着信があったことには気付いたけど、後で返信すればいいや、って表示を確かめもしなかった。
その着信をチェックしなかったせいであんなことになるなんて、その時は思いもしなかったから――