あれは去年の春だった。 そこは街が夕暮れから闇夜へと滑り落ちていく蒼茫の只中だった。 乾いた宵の風に煽られ散った桜の花弁が、まるで雪のように舞っていた。謹慎中の寝不足が祟ったあいつは、 毛布を被って俺の隣に横たわっていた。何を端にしてそんな話題に辿りついたのか。一年半もの時間が過ぎた 今となっては、その切欠など覚えてはいない。だが、あの時のの表情ならば今も鮮やかに思い出せる。 『土方さんは、自分が今までに何人殺したのかなあって・・・考えること、ないですか』 無い、と躊躇なく即答した俺が可笑しかったらしい。 は何か面白いものでも眺めるような顔になり、大きな瞳を輝かせていた。 『やっぱり。じゃあ、そんなこと考えて眠れなくなったりしないですね』 そう言って笑ったあいつが、あれからも眠れない夜をもてあましていたのか。 奮った剣で人を殺めるたびに、血に濡れた自分の手を見つめて一人憂えていたのか。 俺は知らない。一度も尋ねたことはない。 どんな現場だろうと怯むことなく、髪を靡かせ先陣を駆けていくあの姿に、そんな迷いや惑いは感じたことも無かったが。 (。お前、未だにあれを数えてるのか。) そう口走ったのは夢の中だったのか。 それとも、目覚める間際に口を突くうわごとのように、無意識に声にして発して尋ねていたのか。 どちらなのかは知れないが、目を覚ますと、傍に座ったはこちらに背を向け泣いていた。 声を殺した苦しげな啜り泣きと、くぐもった嗚咽が部屋に広がる。短い着物の膝元からころりとこぼれた毛糸玉は、 淡い水色の線を引きながら畳をつうっと転がっていった。 おい。どうした。 身体を起こして声を掛け、震える細い肩を引いた。見れば、胸の前で握り締めた女の両手の中に紙がある。 ―― 一体、どうしてこれに気付いたのか。 は俺が上着に隠し持っていた例の紙片を手にしており、ぽろぽろと大粒の涙をこぼす 睫毛を濡らした大きな目は、そこに記された短い文面を食い入るように見つめていた。 『・・・教えて。土方さん。今日は何人死んだの。あたしのせいで、何人が死んだの・・・?』 咄嗟のことで答えられない。俺が口籠る間にはゆらりと立ち上がり、足をふらつかせながらも 部屋から出て行こうとしている。頼りない足取りで数歩歩いてから、振り乱した髪に隠れていた横顔が 思い出したようにこちらを振り向く。紅い唇がゆっくりと動き、俺に何かを伝えようとしていた。 だがその声が聞こえない。かすかな声の響きすら、俺の耳には拾えなかった。薄暗く曇った障子戸の 向こうでは、地を殴るような雨音がざあざあと鳴り出している。か細い女の声など掻き消されてしまう、激しい音が。 待て。。行くな。 呼びかけながら立ち上がり、畳を蹴る勢いで後を追った。頭の内で誰かが叫んでいた。 ここであれを見失えば終わりだ、引き留めろ、と。ところが、畳の上だったはずのそこは いつのまにか暗い鉛色に光る濡れた地面に変わっていた。地中からは低く歪んだ残響のような音が響いてくる。 不気味なその音は次第に頭の中に直接に響いてくるようになり、やがて俺に語りかけているらしい誰かの声へと 変わっていった。得体の知れなさに寒気がしたが、構わずにぱしゃぱしゃと水飛沫を上げて地面を駆ける。 なのにどうしても追いつけない。いくらがむしゃらに全力で駆けても、あいつとの距離は縮まらなかった。 がすっと障子戸を引くと、そこには異様な景色が広がっていた。 開けた障子戸の向こうは真夜中のような暗さで、耳を打つ大粒の雨が降っており、 重い湿気に煙る鬱蒼とした暗闇が横たわっている。そこにあって然るべき廊下も、庭も、 何故なのか消えてなくなっている。まるで暗闇に呑まれ食い潰されてしまったかのように、忽然とだ。 だというのに、は何の不思議も感じていないようなぼんやりした表情で、頭上の遠くを見上げていた。 淡く色づいた裸足の爪先が、ぱしゃ、と水音を鳴らしながら暗い雨中へ踏み出していく。 大粒の雨に打たれる黒い水面に、ほっそりとした女の足が沈んでいく。土砂降りの雨が降りしきる、 漆黒の中に沈んでいく。落ちていく。消えていく。 開けた障子戸の向こう側の深い闇に。果てしなく広がる一面の暗黒に呑まれて、あいつの姿が―― やめろ、行くな。・・・! 声を振り絞って叫び、あれの後ろ姿に腕を伸ばす。その瞬間、地面が突然ぐにゃりと軟化したような、 妙な感覚が足元を掬った。ブーツの底がぐらりと傾く。足を取られて転びそうになった身体は、 ぐぶぐぶと地中へ呑み込まれた。成す術もなく引きずり込まれたそこは地中ではなく、 なぜか、身体が凍るほどに冷えた水の中で。水底へ向かって渦を巻く暗い水流の向こうには、 俺と同じようにここへ引きずり込まれた女の姿がうっすらと見えた。 夢中でそちらへ泳ごうとしたが、渦に巻かれるようにして身体が水底へと吸い込まれていく。 かすかに視認出来ていたの姿は、強風に煽られてきりもみしながら宙を舞う花弁のように、 頼りなく遠ざかって小さくなる。、と叫んで泡を吐き、水を飲んで息苦しさにもがき、 狂ったように水を掻く以外には何も出来ない。頭の中では、どこかで聞いた覚えがある男の声がぼそりと鳴った。 と同時に、これはさっきも頭に鳴り響いていた薄気味の悪い残響と同質の音だと、不意に気付く。 『――知ってるも何も。・・・あの女のこたぁ、忘れようがねえ――』 頭に直接流しこまれたようにくっきりと響いたそれは、知った声だった。 忘れようにも忘れられない声だった。 忽然と姿を消した男の声。病室での短い尋問で、一度耳にしただけの声だ。 『――あれァなあ。死神だ――』 蔑むようにそう言い、嘲笑った男の声が暗い水流に浸透して広がっていく。水を伝う残響は低くうねって 歪んでいき、俺を引きこもうとしている暗黒の水底を目指してゆっくりと共に落ちていく。 やめろ。てめえにあいつの何が判る。 手足どころか頭蓋の中まで痺れるような冷水の中を必死にもがきながら、喉が嗄れるほどの大声で怒鳴って。 ・・・とそこで、背筋に電流のような何かが走った。びくっ、と身体が大きく震えて―― 「――・・・・・・・・っ!」 暗い水中から光輝く水面を目指して遡る気泡のように、意識は急浮上していった。一瞬にして目が醒める。 がばっ、と跳ねるようにして起き上がった土方は、かっと見開いた目で周囲をぐるりと見渡した。 目覚めたそこは水中ではなく、明りが消えた仄暗い部屋の中だ。部屋の一面を占める障子戸の向こうからは、 耳をさざめかせるような柔らかい雨音がしとしとと緩やかに流れてくる。呆然と障子戸を見つめるうちに、 はぁ、はぁ、と荒い呼吸を繰り返している自分に気付く。やや遅れて、全身を気味の悪い冷汗が覆っていることにも―― 「・・・・・、、」 土方は呆然とつぶやいた。 荒れた息を整え、額を流れ落ちる大粒の雫をシャツの袖で拭いながら再度辺りを見回したが、 の姿はどこにも無い。 この部屋で仮眠に入った折には、寝そべった彼の隣に腰を下ろしていたはずだ。 白っぽい毛糸玉と編みかけの小さな何かを、膝上に乗せて座っていた。慣れた手つきで銀色の針を操り、 調子外れの下手な鼻唄を楽しそうに歌っていたが―― 部屋の隅にちょこんとまとめられた毛糸玉と編み針。それらを土方は晴れない表情でじっと見据える。 間もなく畳に腕を突いて立ち上がり、寝る前に脱いだ隊服の上着を引っ掴む。がらりと大きく戸を開け、 庭に降り注ぐ小雨で湿り始めた廊下へと速足に駆け出て行った。 ――の自室。休憩中の女中たちが溜まった控室。食堂。道場。沖田の部屋。猫を餌付けしていた庭先。 立ち寄りそうな場所へはすべて足を向けてみた。それでも彼女の姿は一向に見当たらない。携帯で 連絡を取ろうと二度ほど掛けてみたが、電話はさっぱり繋がらない。 現場から戻り始めた隊士たちを掻き分けて玄関を抜け、正門へと向かう。門前に立つ見張り番たちに尋ねると、 「さんなら外出しましたよ」 「・・・、一人でか」 「はい」 「何時頃だ」 「そうですねぇ〜・・・、なぁ、あれから三十分は経ってるよなぁ?」 「ああ、降り出す前だったからな」 見張り番の隊士二人が、顔を見合わせ頷き合う。彼等が指した雨中へと駆け出そうとしたが、 土方はふと思い留まり、足を止めた。 上着の内側――懐に入れたままの、皺だらけの紙片の存在を思い出す。 が向かったという駅前方面への道を眺めつつ、例の手紙を仕舞った あたりを指で探って確かめる。怒りに任せてぐしゃぐしゃに丸めた紙の感触が、かさりと爪先を掠めた。 「・・・近藤さんはもう戻ったか」 「はい、ついさっき。蜷川は現場がごたついてるとかで、戻られたのは局長だけですが」 「そうか。・・・・・・・・・、」 屯所前の通りは降りしきる雨に濡れ、鈍い鉛色に光っている。晴天の日にははっきりと見える 近所の景色はどこも煙がかったように霞んでおり、見上げた頭上は光が消えかけてひどく暗い。 西の空を振り返って見れば、空は見渡す限りどこまでも分厚い青灰色に覆われていた。 晴れ間は当分拝めそうもない雲の濃さだ。この様子では、冬の訪れを告げるような 冷えきった雨はおそらく夜半まで降り続くことだろう。頭上を見上げながらこの先の 天気を読むうちに、頭の中は自然と彼らしい冷静さに立ち返っていった。 夢見が悪かったせいですっかりのぼせていた思考が、ここへ来てようやく冷えてきたのだ。 強張っていた肩から自然と力が抜けていく。ついさっきまでは顔色を変えて屯所中を走り回っていた 自分の焦りようを思い出し、同時に、こめかみから幾筋も流れている汗に気付く。何か苦笑したくなるような、 拍子抜けした気分になった。 「・・・。ざまぁねぇな」 はっ、と笑い飛ばした土方はややうつむき、前髪のあたりを掻き乱した。微かな笑い声をこぼした口端が 吊り上がり、歪んだ自嘲の笑みが滲む。そんな彼を前にした見張り番たちは、不思議そうにその姿を眺めていた。 普段はあまり感情を表にしたがらない副長の珍しい表情。心情の一端を露わにした、珍しい独り言だ。 ・・・・・そうだ。いつまで寝惚けてやがる。俺がこの程度でとち狂ってどうする。 もうあいつの行方をいちいち目くじら立てて見張るこたぁねぇ。の身辺に対する警戒を解いた今、 必要以上にあれの行動を見張る意味もない。追い掛けたところで時間の無駄だ。 だってえのに何だ、このざまは。夢見の悪さに振り回されて女の後追おうなんざ、噴飯物もいいところじゃねぇか。 ――目を醒ませ。 てめえには他にやることがあるだろう。ただでさえ少ない猶予を無駄にする気か。 「副長?何か急ぎの用でしたら、さんを探しに行くよう手配しますが」 「いや、いい。近藤さんが戻ったとなればそっちが先だ」 感情の揺れを制しながら淡々と答え、門前から踵を返す。土方は歩調を速め、 隊士たちで混み合う玄関口へと向かった。途中で頭を濡らす雨音の微妙な変化を感じとり、鋭い眼差しは 青灰色の曇天を振り仰いだ。ぱしゃ、ぴしゃ、と顔を叩く雨の雫は先程よりも粒が大きく、 雨足も勢いを増している。空の暗さは相変わらずで、雲が引く見込みはなさそうだ。 髪や肌に纏わりついてくるうっとおしい湿気は、どこかで鳴り渡った遠雷の轟きを微かに耳へ伝えてくるが。 「・・・心配なんざしてやるか。馬鹿らしい」 口端をひん曲げた不貞腐れ気味な表情で雨空を見上げ、独り言を漏らす。 眠りに落ちる間際に眺めた鼻唄を歌う女の嬉しげな横顔が、仰いだ空にふわりと浮かんで見えていた。 ・・・人の気も知らねぇで、急にいなくなりやがってあの野郎。せめて行き先くらいは書き残していけってんだ。 ぼんやりと思い浮かべた女の姿に、腹の中で小言をぶつける。だが、どうせこれは、 俺が寝ている間に退屈したあれが屯所を抜け出し、暇潰しがてらに街をふらつき回っている、ただそれだけのことなのだ。 今頃は行きつけの店で甘味の上手さに相好を崩しながら、呑気に雨宿りしているに決まっている。 となれば今は、持ち帰った紙片の筆跡照合が優先だ。あいつが居なければ近藤さんとの打ち合わせも進めやすい訳だし、 それが終り次第、何事も無かったような面をして自室に戻ればいい。それでいい。俺はいつも通りに、 何食わぬ顔で机に向かっていりゃあいい。どこへ行ったか知らねえが、黙っていたってはじきに戻ってくる。 ここへ戻ろうとするあいつを阻むのは、たかだか雨だ。 あいつから義兄を奪い、帰る家を奪い。人並みの娘らしい生き方まで奪った、箍の外れた狂人じゃねえ。 どうせそのうちに屯所の廊下を軽い足取りで駆けてくる。こっちの憂慮なんざ吹き飛ばしちまうような、 何の屈託も無い面で戸を開けて。俺を呼んで、ガキみてぇに嬉しそうに、笑って―― これからの予定を頭の中で組み立てつつ、土方は脇目もふらずに玄関を目指した。 歩きながら、黒の上着の内側を手で探る。懐へ忍ばせているものへと、自分でも意識しないうちに手が伸びていた。 目覚めた時に渇いた身体が水を欲する感覚と同じように、思考の切り替えが終わった途端、 醒め始めた脳内が煙草の香りを欲しているらしい。 「・・・・・・・っ」 現場から帰舎した隊士たちで賑わう玄関口を目前にして、なぜか彼の足は止まった。 唐突に気付いた事実に戸惑い、土方はきつく眉を寄せる。表情の薄い顔つきがさっと曇った。 手を入れて中を探っていた懐の内側で感じた違和感。紙のような軽い何かがぐしゃりと潰れる、乾いた音。 それらに彼は唇を噛み、何かちょっとした後悔でもしているような、どこかやりきれないような表情になる。 やがて土方は門前へと向きを変え、大きく踏み出して。 「――あれっ、副長。どうしたんです、まだ何か、・・・」 普段の速足をさらに速めて近づいてくる彼の足音に気付き、見張り番たちが振り返る。 隊士二人に挟まれた門前を無言で通り抜ける。霧のように立ち込めた雨煙を切って、通りへと駆け出ていって―― 「副長!どこへ行かれるんですか、外出でしたら車を・・・!」 副長、と困惑しきった声が繰り返し彼を追い掛けてきたが、振り返ることなく路上を駆けた。 屯所を出て早々に、濡れた髪が目元に貼りついてくる。ただでさえ見通しが悪い視界を遮ぎられ、 どうにもうっとおしかったが、雨雲に閉ざされた灰色の頭上を睨むようにして先を急いだ。 勘だけを頼りに選んだのは、駅前へと続く人通りの多い商店街だった。 雨のせいで視界がぼやけているとはいえ、うるさいほどの色の多さだ。 通行人たちが挿している色とりどりの雨傘が群れた夕暮れ前の街を、土方は 人混みを避ける煩わしさに舌打ちしながら抜けていく。 雨の街は煙るような大雨と傘の波に溢れかえっていて、先を急ぎたい彼の足取りを邪魔してくる。 それでも行き交う人の波間を縫い、濡れて暗く色を変えた路上をぱしゃぱしゃと蹴って駆けていった。 屯所から一番近いコンビニへ辿りつき、自動ドアから飛び込んで眼光鋭く店内を見渡す。 客や店員たちの驚きに満ちた視線を感じたが、探し求めている姿がそこには無いと確かめるが早いが、 濡れた隊服の裾を翻す勢いで踵を返す。次は数件先にある、馴染みの煙草屋へと向かった。 ところどころに落書きされた古いシャッターは締め切られており、「定休日」の小さな札がぶら下がっている。 濡れた札を目にした途端に、スピードを落とした車数台が抜けていく路上を横切る。通りの向かいへと走った。 あんみつや汁粉が食べたいとねだられ、たまに立ち寄る甘味屋の前。散歩に出たあいつが必ず足を止める、 女子供向けの小間物屋の前。が居なければ足を止めるどころか目もくれなかっただろう場所へも 何件か向かってみた。それでも探し求める女の姿は見当たらない。と同じような背格好の娘を見つけるたびに そちらへ足が動いたが、近寄ってみればどれも違った。彼女とは似ても似つかぬ別人ばかりだ。 ――いや、待て。 こうして街中をうろつく間に、あいつと行き違った可能性もある。ここはまず、屯所に連絡をつけて―― 頭の片隅に残してある冷静さは順当な提案を持ちかけてきたが、なぜかそれに従い足を止める気にはなれない。 今はほんの一瞬足を止める気にすらなれなかった。当の土方本人ですら「どうしてここまで」と疑いたくなる、 自分でも到底理解し得ない短絡さだが。 「あの子かい?いいや、来てないねぇ」 「昨日は寄ってくれたんすけどねー。今日は見てないっスよ」 「ちゃんかい?来てないよ。今日はこっちには寄らなかったんじゃないの。 うちの前を通るといつも声掛けてくれるからさぁ、あの子は」 「・・・そうか。邪魔したな」 「いやぁ、そんなことはいいんだけどさぁ。ってちょっと!傘!傘くらい持って行きなよ副長さん!」 ビニール傘を高々と振り上げた鯛焼き屋の女将に呼び止められたが、そのまま店を後にした。 誰にでも愛想が良くて人懐っこいには、馴染みの店もやたらと多い。見当をつけた数件の店に飛び込んだが、 の姿は見つからない。念のために尋ねてみても、誰も彼女を見ていないと言う。大通りから横道に逸れた 路地裏の店まで、心当たりがある店を片っ端から、虱潰しに当たっていく。十件も回った頃には、大雨を被った 全身がずぶ濡れになっていた。水が染みた隊服の上着はやたらに重く、頭は頭痛がしそうな冷たさだ。 ぐっしょりと濡れた頭を締めつけてくる冷たさは、さっき見た夢の中で味わった 暗い水中の温度を連想させる。全身が凍りつき、脳髄まで痺れさせるようなあの感覚が濡れた肌に甦ってくる。 不快に思いながらも走るうちに、なぜか理由のない焦りが募ってきた。胸をざわつかせるその焦燥も、 さっきの夢の中で嫌というほど打ちのめされたときの感覚によく似ている。 渦巻く濁流に吸い込まれていくを救えなかった。あの時に味わされた痛烈な歯痒さ。そして、 到底太刀打ちできない大きな力によって成す術もなくから引き離され、奪われてしまうことへの怖れと、絶望と―― 「・・・・・・・・・・・・どこへ行きやがった、あの馬鹿が・・・!」 土方は唸るような独り言を漏らした。まるでシャワーのように天から降り注ぐ雨水でずぶ濡れになった頭を 強く振り、雫を払う。 苛立ちと焦りの混ざった目つきで素早く左右を見渡すと、駅前へ続く大通りへと足を速めた。 そこを渡れば駅へ繋がる交差点前まで辿り着く。信号は赤に変わっており、壁のような傘の列に行く手を阻まれた。 土方は仕方なく一件の店の前で足を止めた。 頭上を屋根に覆われたそこは、地元の子供が小遣いを握って買い物に来るような、鄙びた玩具屋の前だ。 派手な色合いの人形や遊具が並ぶ硝子窓には、この大雨だというのに傘も挿していない、全身から雫を滴らせた なりふり構わぬ男の姿が映っていた。後方にふと視線を感じて、土方は怪訝そうに背後の気配を窺ったのだが、 ――買い物客で混み合う夕方の商店街に、真選組の隊服姿で混ざっているおかげもあるのだろう。 濡れ鼠と化した彼は周囲の人々から妙な注目を浴びており、彼が周囲に向けている視線以上に怪訝そうな、 まるで不審者でも眺めるような疑いの目つきを向けられていた。 ・・・どうにもこれは、滑稽なもんだ。 うんざりした目つきでガラスに映った背後を眺め、歯痒そうに舌打ちをして、 ぽたぽたと雫が垂れ落ちる前髪を荒い手つきで掻き上げる。…その時だった。 「・・・・・・・・・・・、?」 何かに足先を弄られているような感覚を、靴越しに感じた。 ほとんど重みを感じないほどの些細な感触。羽のような柔らかさが、彼のブーツをかりかりと引っ掻いている。 何だ、と立ち尽くしたまま頭を下げる。すると、白と黒の毛並みをぐっしょりと濡らした小さな生き物がそこにいた。 まるで何かを訴えるかのようにかりかりと黒の皮靴の先を引っ掻き、かと思えば、みー、と細い声で鳴いて 彼の目をまっすぐに見上げてくる。臆すことなくこちらを睨みつけてくる、負けん気が強そうな二つの青い光。 足元にうずくまったその汚れた仔猫の、どこかふてぶてしい目つきには見覚えがあった。
「ワンダーブルー *3」 title:alkalism http://girl.fem.jp/ism/ text by riliri Caramelization 2012/06/19/ ----------------------------------------------------------------------------------- next