「・・・。お前、さっきの、」 庭で見掛けた野良じゃねえか。 やや呆気にとられた土方がそう口にするよりも早く、ひらりと小さな身を翻した仔猫が 雨の路上へと飛び出していく。数歩駆けたところで動きを止めると、首をくねらせたしなやかな動きで振り返った。 店の軒下に留まっている土方と目を合わせた仔猫は、何をしている、さっさと来い、とでも言いたげな様子で じっと彼を見つめてくる。立ち止まった猫を仕方なく避けて歩く人の流れなどものともせずに、彼が雨中に 踏み出す瞬間を待っているようだ。 数秒そこでじっとしていた仔猫は、何かに呼ばれたかのようにすっと方向を変え、 店と店の間を通る細い小路へと素早く入っていった。気紛れな猫の行動に期待したわけでもなかったが、 そこに思わぬ何かが隠れていそうな気がして足を惹かれた。土方は店の軒下から通りへと踏み出す。 ばしゃばしゃと水溜まりを蹴って走り、小路へと折れる。すると―― 「――えっ。・・・うそ。土方さん・・・・・・・・?」 目の前に現れた薄暗がりの向こうから、声がした。 そこは表通りを濡らす大雨すら入り込んで来ないほどに細い道だった。隣り合った建物の廂と廂が あと2、3センチで重なりそうなほどに道幅が狭い。人が二人すれ違うのがやっとだろう、昼間でも光が差し込むことが なさそうな小路。その奥から、不思議そうな女の声が響いてくる。暗がりに目が慣れ始めると、探していた女の姿を 行き止まりになったその小路の奥に見つけた。 は店の通用口らしき扉の傍に置かれた、掃除道具でも入れていそうな木箱の上に腰掛けていた。 彼に気付くと腰を浮かせ、大きな瞳を何度も繰り返し瞬かせる。突然現れた土方を、驚きのまなざしで見つめていた。 「えーっ、どーして?何で?どーしてこんなところにいるんですかぁ」 心外な発言に目を見張らされたが、土方はすぐに呆れきって物も言えないといった顔になった。 雫が毛先からぼたぼたと垂れてくるずぶ濡れの頭をわしわしと歯痒そうに掻き、地を這うような低い溜め息を 吐きながらうなだれる。 ・・・何だこの間が抜けた敗北感は。まったく、何が「どうしてこんなところにいるんですか」だ。 それはお前の台詞じゃねえ、こんなところにいる奴をわざわざ探しに来てやった俺の台詞だろうが・・・! 「てめえこそ何やってんだ。こんな何もねぇとこで道草食ってやがったのか」 「違いますよぉ、帰りたくても帰れなかったんですよー。今帰ったら濡れちゃうから、これが」 頭上に細く拓けた灰色の雨空を見上げ、はけろりと言ってのけた。 腕に抱えた茶色い紙の買い物袋を差し出して、彼にその中身を見せてくる。暗くてはっきりとは見えなかったが、 彼の部屋に転がっていたものと同じ白っぽい毛糸の玉数個が、袋の中から顔を出した。 土方は眉を顰め、無言で毛糸玉を眺める。それから半目でじとーっと、恨めしげにを睨みつけて、 「・・・お前、こいつを買いに出たのか」 「はい。でもここの商店街には置いてなくて、隣町のお店まで行ってきたんですよー。そしたら思ったより 早く降ってきちゃって。最初は表通りで雨が止むの待ってたんですけど、だんだん足が痺れてきたから」 ここで雨宿りさせてもらってたんです。そう言いながら、は自分の身体を見下ろした。 雨のせいですっかり濡れた薄桃色の生地からは、すらりとした太腿が伸びている。 片方は白い包帯で覆われており、そこを軽く撫でた彼女は痛そうに眉を寄せた。 「あーぁ、行きはさくさく歩けてすっごく調子よかったんだけどなぁ・・・、隣町はさすがに遠かったみたいで」 「みたいで、じゃねえ」 はぁ、と呆れきった土方は肩を落として溜め息を吐いた。 「ちったぁ頭を使え、頭を。動けなくなったんならせめて携帯で誰か呼び出しゃいいじゃねえか」 「携帯持ってないんです。部屋に置き忘れちゃって」 「もういい判った。・・・ちっ。ったく、どーせそんなこったろうとは思ったがな」 「ちょ、なんですかぁその舌打ち、かんじ悪ーい。どうせって何、どーいう意味」 「うるせぇ馬鹿。言葉の綾ってやつだ気にすんな馬鹿」 「気にしますよ。そんなムッとした顔で言われたら誰だって気にしますよっ」 あと、語尾にいちいち馬鹿ってつけるのやめてくださいっっ。 がぷうっと頬を膨らませて言い返してくる。 しかし途中で何か思い直したのか、急に土方に尊敬のまなざしを向けてきた。 「でも土方さん、すごーい。どうしてあたしがここに居るって判ったんですかぁ」 「お前を見つけたのは俺じゃねぇ。・・・道案内が居てな」 軽く身を屈めると、土方は足元に居た猫の首を乱暴に摘み上げる。 ズカズカとそのまま奥へ進み、全身がずぶ濡れになった白と黒の小さな塊を、こいつだ、とに突き出した。 は呆けた顔になり、摘み上げられたことがいたく不服そうな仏頂面の猫と、その猫よりもさらに 不服そうな仏頂面の男をしばらく眺める。やがてぱあっと表情を輝かせ、泥だらけの仔猫にひしっと抱きついた。 全力で抱き締められて苦しがる猫は、みーっ、みーっ、と迷惑そうな抗議の声を上げていたが。 「本当に!?すごーいぃ、この子が呼んできてくれたなんて・・・!」 余程に感激したらしい。はうるうると瞳を潤ませてはしゃいでいた。 ありがとね、明日はおやつ一杯あげるからね。可愛くてたまらないといった様子で 猫の顔にすりすりと頬を寄せるのだが、仔猫はつんと顎先を上げ、彼女の腕の中を擦り抜けてしまった。 ひらりと飛び降りた細い路地を、尻尾を振りつつ気取った足取りで去って行く。まるで、これまでにから 貰った餌の恩義はこれですべて返済したと言わんばかりに。 「あーあぁ、行っちゃった・・・」 「行っちゃった、じゃねーよ。・・・たく、こんな時だってのに、・・・・・・」 (こんな時だってのにどうしてそう呑気なんだ、お前は。) そう言いかけてから不味さに気付き、土方は気難しげな表情で口を閉ざした。 はまだ、自分を取り巻く状況の変化を知らない。こんな言い方をしてしまえば 「今はお前が呑気でいられる平時ではない」のだと、不用意に勘付かせてしまうことになりかねなかった。 「・・・。まぁいい。けどな、猫の散歩じゃねえんだ。これからは、急に出掛ける時は書き置きくれー残していけ」 「・・・・・・・・・?あのー。土方さぁん」 「何だ」 「さっきも聞きましたけど・・・、ここまで何しに来たんですか?」 煙草買いに来たの?でも、いつものコンビニもたばこ屋さんも、商店街のもっと手前ですよ。 きょとんと目を丸くしたに、実に興味深そうに言われる。それを聞いた土方はこめかみに びしりと青筋を浮かべ、ぎりぎりと歯噛みしてから、 「おい。逆に訊きてぇんだが」 「はい?」 「この豪雨の中をわざわざ、ずぶ濡れになってまでてめえの目の前に現れた奴がいたとしてだな。それを見たお前は、 この悪天候なんざものともせずに、煙草を買うためだけにわざわざ出てきた酔狂な野郎だと思うのか」 「思いますよ?普通の人ならなさそうだけど、ニコチン切らして禁断症状が出てる時の土方さんならありえるもん」 「・・・・・・・・・・・・・」 当然じゃないですかぁ、と晴れ晴れした笑顔の女にきっぱり即答されてしまう。 土方はがくりと肩を落として眉間を押さえ、疲れきった様子でうなだれた。 あんまりな答えだ。話を続ける気力が湧いて来ない。 つーか、常々不満に思ってきたことだが、・・・・・こいつの俺に対する認識の酷さは何なんだ・・・!? 「あれっ。どうしたんですかぁ、今日は怒らないんですかぁ? いつもの土方さんならここで必ず「人を中毒患者呼ばわりすんじゃねえ」って、拳骨でドカっと」 「うっせえ放っとけ。今ぁ怒る気力が失せてんだ、どこぞの馬鹿のせいでな」 「・・・・・・・・・・やっぱり変。おかしいですよぉ今日の土方さん」 少し心配そうな表情で土方を覗き込むと、はふっと目を細める。 ひょこっと立ち上がり、彼の目の前まで近寄ってくると、濡れたような輝きを放つ大きな瞳で、 じいっと、瞬きもせずに見つめられて。 「よくわかんないけど・・・何かあったんですよね?今日の現場で」 遠慮がちに尋ねてくる声音には、何か動かしがたい確信を得ているような色があった。 それまでは明らかにむっとしていた土方の顔から、すっと表情が消える。ほんのわずかな沈黙を置いてから、 「無ぇよ、別に」と短く返した。表情の微妙な変化から何かを悟られることのないよう、 濡れた髪を掻き上げる仕草で顔を隠す。はそんな彼の様子を黙って見上げていたのだが、あ、と 何かに気付いたようにつぶやく。雨に濡れたせいでやや色を変えた薄桃色の着物の袂を、ごそごそと探り始めた。 「・・・・・・。あのね、土方さん」 「あぁ?」 「あたしね、こういう時はね、土方さんが何も答えてくれなくても気にしないですよ?」 そんなことを話しながら、は振袖の袂から目当ての物を探り出した。 すっと上がった華奢な手は、雫が幾筋も伝う土方のこめかみあたりにそっとハンカチを当ててくる。 軽く撫でるようにしてそこを拭き取ると、女の手はぽつぽつと雫を垂らし続けていた前髪へと伸びていった。 「いいの。あたしには話せない任務のことなら、答えてくれなくていいんです。土方さんがあたしに 言い訳なんてする必要ないですから。答えられないことだったら、普通に無視してくれればいいですから」 ねっ、と首を傾げて長い髪を揺らし、満面の笑みを浮かべて彼を見上げる。 濡れた髪で隠れた切れ長の目は、路地の暗がりへと視線を逸らしている。決して彼女と視線を合わせようとしない。 けれどにとっては、そんな土方の態度が嬉しかった。この取りつくしまのない無愛想さも、このひとがあたしに 気を許してくれている証拠みたいなものだ。こいつなら多少冷たく当たっても平気だ。そう思ってたかを括って、 安心しきってくれているからこそのぶっきらぼうさ。そう思えば、鬼なんて怖れられているこの厳しいひとに 甘えられているみたいで、なんだかすごく嬉しくなる。胸の奥がくすぐったくなる。 頬をうっすらと染めて微笑んだ彼女は、土方の目元や耳のあたりへ垂れ落ちてくる透明な雫をせっせと拭き取り続けた。 黙りこくった土方は、そんな彼女にされるままになっていたのだが。ややあってから、フン、とあまり面白くも なさそうに笑い飛ばして。 「・・・・・・・。つくづく妙な奴だな。てめえは」 「え?」 「男が見え見えな態度でいたら、女は普通嫌がるもんだ。却って追及してくるもんだろ」 「追及なんてしませんよー。あたし、自分の立場と力量だけはそれなりに弁えてるつもりですから」 「・・・」 「ほら、役目上は副長附きってことになってるけど、あたしって他の人と比べたらまだまだ半人前じゃないですか。 だからね、土方さんが話してくれないことがたくさんあっても、それは当たり前だって思ってるんです」 だから大丈夫です。安心して無視してください。 などと妙な断りを入れると、は何か思い出したような顔をした。 「それでね。あのね。・・・悩んでる土方さんにあたしがしてあげられることって、これくらいかなぁって」 そう言って、もう一度振袖の袂を探り始める。ふふっ、と笑って表情を柔らかくほころばせ、 小さないたずらを心から楽しもうとしている少女のような、無邪気で茶目っ気のある表情になっていった。 どうぞ、と彼女が両手で何かを差し出してくる。揃えた手のひらに載せられたものを、土方は軽い驚きを浮かべて見つめた。 封を切る前の煙草の箱だ。数滴の雨粒が滴ってはいるが、彼が日々愛用している、気に入りの銘柄のそれだった。 「どうですかぁ、たまにはあたしも役に立つでしょ、偉いでしょ?」 そう言って笑う自慢げなを眺め、黙って箱を見つめたのちに、土方はふっと表情を和らげる。 やや細められた目元には、何か懐かしいものを目にして戸惑っているような、ぎこちない苦笑が混ざっていた。 「・・・・・・・どーせそんなこったろうとは思ったが。またこれか」 「えぇ?何ですかぁ、またって」 「・・・似たようなあれが前にもあっただろーが。酷でぇ土砂降りになった祭りの夜に、お前が、・・・・・」 思い出し笑いを浮かべながら話していたが、なぜか途中で気恥かしさが湧いてきた。 いや、と一言、低く漏らすと、土方は自ら話を切り替える。 「ああ。・・・そーいやぁ切らしてたな」 「でしょ?土方さんが起きたらすぐに吸えるよーにと思って、先回りして買いに行ったんですよー! ねぇねぇどーですかぁ、たまにはあたしも気が効くでしょ?ちょっと誉めてみたくなるでしょ?」 「はっ、ぁに言ってんだ。俺の専属パシリならこの程度の気遣いは当然の義務ってもんだろ」 万年金欠のてめえに施されるのも、何か納得いかねぇが。 醒めた笑いを含んだ声でそう前置きすると、に向けて手を伸ばす。 差し出された華奢な手の中から、ぱっ、と煙草の箱を取り上げて。 「まぁ仕方ねえ。貰っとくか」 「・・・ってそれだけぇ?ぇえーーっ、ちょ、ひどくないですかぁそれっ。一言のお礼も無しですかぁ!?」 「あぁ?今さら何の文句だコラ。都合が悪りぃ時は黙りこくってろって言ったのはお前じゃねえか」 からかうような口調で返して、にやりと意地悪く笑ってみせた。女の手からもぎ取った煙草は、 頭の上まで高々と上げる。ずるーいぃ、と叫んだは頬をぷうっと膨れさせて悔しがっており、 頭にきたせいで足の痛みまで忘れているのか、ぴょんぴょんと飛び跳ねては煙草の箱を奪おうとするのだ。 「ちーがーうぅぅ!こういう時は別ですっっ。せめて「御苦労さん」とか「悪いな」とかぁ!」 「ざっけんな。それを言うなら俺ぁこの土砂降りの中を、どこ行ったんだか判らねぇ奴を心配して来てやったんだぞ。 だってぇのに礼を言うどころか気付きもしねぇ女に、誰が礼なんざ言うかってんだ」 「いーですよっならあたしだって言いませんよっっっ。ていうかっ、土方さんに迎えに来てくれだなんて頼んで ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、って、・・・ぇ、し、しん、ぱぃ、って・・・・・・・・ぇえ・・・・・・・・・・?」 ぶんぶんと拳を振り回すほどの剣幕で喋り続けていただったが、次第に彼の言葉の意味を理解し始めた らしい。上げた腕がへなへなと下がっていき、甲高かった声は勢いを失くしていき、しまいにはぴたりと口籠る。 予想もしなかった理由に混乱しているのか、それとも、これまで滅多に聞かされた事がない「心配して」と言う言葉に 余程にどきりとさせられたのか。急にしゅんとして頬を赤く染め、うつむいてもじもじと手芸店の紙袋を弄り出す。 困りきった顔で口をぱくぱくと開け閉めしながら、え、ぅ、あ、だ、や、うぅぅ、と短くて素っ頓狂な声を漏らし始めた。 そんな彼女を薄笑いで眺めつつ、土方は手早く煙草の封を切っていく。咥えた最初の一本に、あっという間に 火を点す。ようやくありついた煙の美味さに表情を緩めた。濡れた上着を脱ぐと、それをの頭上でばっと翻して 彼女に被せる。ばさり、と頭から圧し掛かってきた布は分厚く、雨水を吸ってひどく重たい。 足を怪我したは上着の重みを受け止めきれなかったらしく、っ、と声を詰まらせてふらふらとよろけた。 すかさず腕を伸ばした土方は彼女を背中から支えたのだが、 「本当・・・?」 「あぁ?」 頭を覆った男物の上着をもぞもぞと首元まで下げると、顔の上半分をおずおずと出す。 は信じられない、といった表情で目を潤ませていた。 「・・・・・・・・・・・・本当に?心配して、来てくれたの・・・?」 「・・・、」 おそるおそる振り向いて自分を見上げてきた女に、蚊が鳴くような自信無さげな声で尋ねられる。 期待と恥じらいを秘めた上目遣いで男の態度を伺おうとしているは、 何か言いたげにふわりと唇を開いて彼を見つめていた。そんなを目にしてしまえば、 抱いた肩をそのままぐいと引き寄せて、その唇を奪ってしまいたくもなるのだが、 ――だが。それも、普段の彼であれば、の話だ。 肩越しに振り返ったと見つめ合う土方の目に、暗みを帯びた沈んだ気配が滲み出る。 しかし一瞬後には表情を変え、振り向いた女の顎先を指先でくいと持ち上げた。 「――だったら、どうなんだ?」 「〜〜〜〜っ!!」 顔と顔が重なりそうな近さまで迫り、涼しげな表情で不敵に笑う。つい数秒前まで浮かべていた重い憂いの 片鱗は、彼女の本音を見透かそうとしているようなその目つきからはすっかり払拭されていた。 何か魂胆を持っていそうな読めない笑みで土方に迫られ、目を剥いたは絶句した。 うぁうぅぅ、と妙な泣き声を発しながら恥ずかしそうに肩を竦め、紙袋をぎゅっと抱きしめる。あわてて彼に背を向けた。 うつむいた横顔から覗く頬が、見る間にかぁーっと色づいていく。垂らした髪の隙間からうっすらと見える 耳やうなじまで赤らんでいって。 「っっ、な、ど、どどどっどうしたんですかぁああ・・・!や、やっぱり変っ。今日の土方さん、変っっっっ」 「馬鹿言え、普段が我慢してやってんだ。ガキくせーてめえのレベルに仕方なく合わせてやってんじゃねえか。 ・・・お、ちょうど雨足が収まってきたな。おら、行くぞ」 「え、――ぅあ、ちょっっっ・・・!?」 「足場は悪りぃしそこそこに距離はあるが。走って行きゃあどーにかなんだろ」 話しながら肩を抱き、細い腰へと腕を回し。あわあわと口籠っているを、 片腕で軽々と持ち上げる。抱えた身体を肩上まで乱暴に担ぎ上げると、細い二の腕があわててひしっと シャツの衿や肩にしがみついてくる。ずり落ちかけていた上着を彼女の頭まで引っ張り上げ、 濡れないように被せてやっているうちに、普段通りに無造作な彼の仕草にほっとしたらしい。 は少しずつもたれかかってくる。濡れて冷えきった土方の頭にぎゅっと腕を絡め、そっと頬を寄せてきた。 「・・・・・・・っ。土方さぁん・・・」 「何だ」 「心配させるつもりじゃなかったの。ごめんなさい・・・」 耳の上あたりに押しつけられた柔らかな感触が弱々しく動いて、温かな吐息混じりに囁かれる。 女の熱に髪や肌をくすぐられるこそばゆさに苦笑しながら、ああ、とだけ答えた。 安心しきってしなだれかかってくる細い身体の柔らかさや温かさを感じながら、薄い背中をしっかりと抱えた。 光の射さない裏路地を抜ける。抜けた途端に、頭上から大粒の冷たい雨がざあっと襲いかかってきた。 時間はそろそろ夕飯時に差し掛かるといったところか。表通りを急ぐ人々の足取りはどれも一様に早く、 商店街は夕暮れの気忙しい喧騒と、止む気配もなく降り続ける強い雨に包まれていた。 霧のように立ちこめる重い湿気や耳を埋める大きな雨音は、薄い膜となって彼の感覚を閉ざそうとしてくる。 見慣れたはずの店々も、傘の群れで混雑した路上も、葉が落ちてみすぼらしくなった街路樹も、目に入る雨粒で曇った 彼の視界を通してみれば、煙る雨の向こうにぼんやりと浮かぶ蜃気楼のようだ。街のすべてが青みがかった鉛色に 塗り替えられている。あちこちの店先で灯り出した看板や電灯の光も、降りしきる雨のカーテンを透かして ぼんやりとくすんでいた。 おそらくは江戸中の何処にも、こんな光景が広がっているのだろう。何処もこんな分厚い灰色に 頭上を閉ざされているのだろう。一筋の光明すら届かない、鉛色の夕景。街中が降りしきる雨を染み込ませ、 足元からじわじわと嵩を増やし続ける冷水に溺れ、ゆっくりと沈んでいく――そんな錯覚を抱きそうになる光景。 生命の色を失くしかけた寒色の光景が、彼とを取り囲んで陰鬱に佇んでいた。 濡れそぼった景色の中を黙って進んでいくうちに、土方はやや苦しげな表情で眉を寄せる。 分厚い雲に光を奪われた色味の少ない夕暮れの雨中は、仮眠中の夢で見た、寒々しい水流が渦巻く光景を 彷彿とさせる色をしていた。 「・・・・・」 「はい?」 「――お前。今も・・・・・・・・・・・」 昼間の庭先でも口を突きかけた問いかけが、再びぽつりと腹の底から湧き上がってくる。 真冬の木枯らしのような冷えた強風にざわつき、波立ち始めた心の水面へと向かってくる。 ゆっくりと、焦らすような遅さで浮上して来る。 (お前は今も忘れられねぇのか。出来るものならあの義兄を救ってやりてぇ。今でもそう思ってるのか。) 鉛色の景色を見据えながらほんのわずかに唇を動かし、彼は絞り出すようにつぶやいた。 頭上の軒先から滴り落ち、被せられた隊服をぼたぼたと打った強い雨音に偶然重なったその声が、 の耳に届くことはなかったが。 「・・・?土方さん、今、何て言ったの?」 「・・・・・・・いや。しっかりつかまってろ。離すんじゃねえぞ」 は被せられた隊服の中でもぞもぞと動き、自分を抱き上げた男のほうへと顔を向ける。 感情の揺れをあまり表にしたがらない男の、一見冷たそうにも見える横顔を覗き込んだ。 うん、と小さく頷き返す。吊り上がり気味な大きな目を柔らかく細め、心から幸せそうにふわりと微笑む。 子供のような純粋さで彼に向けられたその笑みが、――全幅の信頼を籠めた一言が、今はちくりと胸を刺す。 そのかすかな痛みを振り払い、雨中に置き去りにしようとしているかのように、土方はを強く抱き直し、 急にその足を速めた。 あの春の日に眺めた心を騒がせる蒼茫が、夜へ沈みゆく夕暮れの街にも、水溜まりを蹴るようにして急ぐ 彼の足元へも迫っている。見つけ出した女を連れ戻るべき場所を、肌を叩く冷えきった雨粒を浴びながら目指す。 足元からどこまでも果てなく流れていきそうな、鉛色の水面を蹴って走り出した。
「ワンダーブルー」 title:alkalism http://girl.fem.jp/ism/ text by riliri Caramelization 2012/06/19/ ----------------------------------------------------------------------------------- No.5で「ヒロイン関連の怖い夢を見た副長が彼女の大切さを改めて実感する/せつなめな話」のリクエストを元に 書かせていただきました このみさま ありがとうございました!! 過去編で彼女時代 「曇天」と「手の中の…」の間の話 内容的にほぼ本編というか予想以上にがっつりな、 orz BGMは椿屋「アンブレラ」