翌日は、朝から何一つ思い通りにならなかった。 前々から張らせておいた攘夷浪士の溜まり場を様子見に出るはずが、玄関先で後ろから抱きつかれ、 「やーだー、もとーしろーといっしょにおでかけするのー!」とわんわん泣かれてやむをえず中止。 仕方ねえ。今日は一日部屋に籠って、溜まった書類整理に励むとするか。 そう決めて文机前に座ったとたんに「遊んでー!」とがばっと背後から飛びつかれ、そのはずみに机で額を強打。 膝の上までもぞもぞと這ってきて脚の間にちょこんと座り、捜査資料を指して「ねえねえ、もお絵かきしていい?」と訊かれる。 過去の犯罪資料を保管している倉庫に出向き、資料を探して戻ってみれば、落書きされた書類が部屋中に撒き散らされていた。 落ちつけ。こらえろ。姿かたちこそあいつだがあれぁ五歳のガキだ。頭に一発入れてやりたい気分を噛み殺しながら 書類を拾い集めにかかれば、俺の真似をしているのか、書類を集めながらちょこちょこと部屋の中を動き回っている。 そう、なぜかこいつはついてくるのだ。 どこへ行くにもちょこちょこと、俺の顔色を伺いながら後ろをついてきやがる。 こっちの都合などまるでおかまいなし、親を追いかける生まれたての雛のようにどこへでもだ。 朝の幹部会議に出るにも取調室に行くにも道場に行くにも一服するにも厠に行くにも、・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 ・・・駄目だ、何一つはかどらねえ。 近藤に頼んで急遽非番にしてもらい、頭痛をこらえながら部屋に戻ってみれば、 今度は事件現場からピンハネしておいたジャスタウェイを押入れの奥から引っ張り出していた。 ガキの玩具には相応しくない物騒な人形に菓子を押しつけ、「はーいくーちゃん、ごはんですよー! ままとごはん食べましょーねー」などと笑顔で喋りかけている。爆弾や地雷といった危険物がそこいら中に落ちている 紛争地帯でもお目にかかれない、危険極まりないままごとだ。見ているだけで溜め息が出て、 土方は開けた障子戸の隙間で肩を落とした。 「・・・ったく。呑気なもんだなてめーは」 「あっ、とーしろー。おかえりなさーい。ほーらくーちゃん、ぱぱですよー、ぱぱが帰ってきましたよー!」 「誰がパパだ。俺ぁもっと普通のガキが欲しいんであってだな、そんな物騒なガキは欲しかねえ」 「お早うございます副長。さんのお具合はいかがですか」 と、そこへ粉塵対策用の防護マスクを被った女中頭が現れた。 頭をすっぽりと覆うそのマスクは、災害現場に出動した隊士たちが使用する屯所の備品だが 白い割烹着を着けた初老の女性の頭部を覆うには、どうにも不似合いな代物だ。 朝にここの縁側を拭き掃除していた若い女中も、これと同じものを被っていた。が持ち込んだ ウイルスに感染しないようにと、ごつくて仰々しい粉塵対策用を間に合わせに使っているようだ。 「ああ、心配ねえ。もう熱も下がった。・・・済まねえな椿さん。こいつのせいであんたらにも面倒を掛けた」 「まあ、わたくしどものことならどうぞご心配なく。さんが早く快復されたのが何よりでございますよ。 それでは副長、早速ですが、これを」 お願いいたします、と女中頭は揃えた両手を土方に差し出す。 そこに載っているのは折り目正しく畳まれた女性の着物一式と、そして―― 「恐れ入りますが、副長からさんにこれを着せていただきたいのです。 今のさんは着物の着付けを御存知ないでしょうから、どなたかの手で着せて差し上げるのが一番かと」 着物の上にちょこんと添えられたそれ――ピンクのブラジャーとショーツに目を剥いて、土方はじりっと後ずさった。 「・・・、いや。おい。そいつは。まさかたぁ思うが、・・・・・・・・・全部か!?」 「ええ、全部、でございます。何を仰りたいのかは重々わかっておりますし、 殿方にこんなことをしていただくのはまことに忍びないのですが。女にはさんの病気が伝染るのでございましょう?」 小刻みな足取りで畳を擦って、女中頭が静々と彼の前へ進み出る。 言葉もない土方にの着替え一式を持たせると、同じような動作で静々と廊下に下がった。 防護マスクの下の顔は覗き窓部分しか見えないが、皺をたたえた柔らかな目元には 年を重ねてきた女独特の喰えない含み笑いが浮かんでいた。うっ、とたじろいだ土方はさらに後ずさった。 おっとりとした物腰のこの女中頭を常から苦手としている土方だが、特に苦手なのはこういう時の笑顔だ。 自分のような若僧では計り知れない何かを――、そう、役者の違いとでもいうか、太刀打ちできなさを感じさせるのだ。 二人の会話を不思議そうに聞いていたが、ちょこちょこと後ろから寄ってくる。 土方の腕にぴたっと縋りつき、彼が手にしたものを熱心に眺め、素っ頓狂な感嘆の声を上げた。 「ぶらじゃー!うわぁー、おっきぃい!」 「ええ、それはさんのものですよ。副長が手ずから着けてくださるそうです」 「おいィィィ!」 着けてやるたぁ一言も言ってねえ! とこめかみに青筋を浮かせて喚きかけた目の前に何かが飛び込んできた。物珍しげにブラを見つめるの顔だ。 姿は大人でも中身はあどけない五歳の女は、すぐさまブラを手に取った。 ぱあっ、と笑顔を輝かせ、広げたブラジャーを頭に被り、くるっと土方に振り向くと、 「ぶらじゃーするー!ねえねえ、とーしろーもする?」 「人を変態みてーに言うな!誰が着けるかァァ!!いやお前っまずそれをやめろ、女がはしたねー真似すんじゃねえ!」 頭上に二つの山を作ったそれはまるで猫耳だ。ブラに喜ぶ無邪気な仕草が可愛くもあって、迂闊にも一瞬どきりとしたが、 いかんせんこれを俺以外の男に見れらる訳にはいかない。ちょこんと乗った即席猫耳を土方が焦った手つきで奪い取ると、 微笑ましげに二人を眺めていた女中頭は、ほほほ、と控え目な笑い声を漏らした。 「そうですよさん、それは女性が着けるもの。ブラジャーは男性には用のない下着です。 副長もこれをお外しになることにかけては手慣れていらっしゃっても、さすがに自らお着けになったことは・・・」 「あるわけねーだろォォ!」 つーかあんたっ、ガキの前で何を口走ってんだ! ブラを握り潰さんばかりな鷲掴みにした土方は、その手で障子戸の端をすぱぁんと殴って女中頭に迫る。 ところが穏やかな微笑みをたたえた初老の婦人はといえば、鬼の副長の剣幕など意に介してもいなかった。 「ほほほ、失礼いたしました。ということは副長も、女性にブラを着けられるのは初めてでいらっしゃるのですね。 ですがどうぞご安心を。僭越ながらわたくしが、正しいブラの着け方をご教授いたします」 「はぁ!?いや待てっっ、俺は着けてやるたぁ一言も!」 「まあ、・・・そうですか」 覗き窓の奥で眉を曇らせた女中頭が、残念そうな顔つきになる。 ゆっくりと腰を折り、防護マスクに覆われた頭を深々と下げ、ひそめた声でこう告げた。 「重ね重ね失礼いたしました、副長がそこまでお嫌でしたとは、・・・ それでは仕方がございませんね。さんの着付けは沖田さんにお願いして参りますが、お許しいただけますか?」 「・・・・・・!!」 総悟にだと!!?んなもん断じて許すか!!!!! ブンブンとかぶりを振って土方が全力で否定、「それ見たことか」と言わんばかりな微笑を向けた女中頭が 擦り足で部屋に進み入る。すいーっと滑らかに障子戸を閉めた。

おおかみさんとちいさなこいびと *3

ここは「しんせんぐみ」というところらしい。 とーしろーや他のおじちゃん達の話を耳に挟んでいるうちに、はなんとなくそう思った。 「しんせんぐみ」はには覚えきれないくらいたくさんのお部屋がある、とっても広いおうちだ。 たくさんのひとが住んでいる。みんなおじちゃんばかりだ。なぜなのかわからないけれど、みんなお揃いの黒いお洋服を着ている。 どうしてみんなお揃いなのか、それが気になって仕方ないだけれど、わからないことは他にもたくさんあった。 ここがどこなのか、お家からどのくらい離れているのかが判らない。どうして自分がここにいるのかもよくわからない。 目が覚めたら知らないお部屋にいて、とうさまもおにいちゃんもいなかった。それもどうしてなのかよくわからない。 どうして?と訊くと、みんなが困った顔をして笑う。しどろもどろになる。 だからもう訊かないことにした。みんなに困った顔をされると、も困ってしまう。 なんだかいけないことをしたような気持ちになってしまうから。 わからないことは一杯だけれど、はここが好きだ。 ここではみんながにやさしくしてくれる。そうごやさがるが遊んでくれる。二人ともまるでおにいちゃんみたいだ。 昨日の朝は三人で一緒にアニメを見た。アニメは「DVD」という薄くてピカピカした丸い板があると見れるんだって そうごが言った。そのDVDはとーしろーのお部屋の押入れの一番奥からそうごが出してきたもので、 それを勝手に見るとトッシーというひとが化けて出るからやめましょうよー、とさがるがとっても慌てていた。 アニメはトモエちゃんというかわいい女の子が出てくるお話で、はとっても楽しくなった。 見終わったDVDを押入れに戻すと、そうごは可笑しそうに「とーしろーにはないしょにしろよ」と人差し指を口に当てて言った。 言われたことの意味は判ったから、もちろんは頷いた。 「ないしょ」がどういうことなのかは知っている。他の誰かに言っちゃだめ、ということだ。 言うとみんながびっくりしたり、困ったりするいけないことだからだ。どうしてなのかは知らないけれど、 きっととーしろーはこれを誰かに見られると、すごくびっくりするんだろう。だから言っちゃいけない。だからないしょだ。 なのにそうごは「本当かねェ。内緒の意味が判ってんのかィ」と信用できなさそうなことを言って笑った。 そうごはちょっと失礼だ。は口を尖らせて怒った。「ないしょ」がどういうことなのか、はちゃんと知っている。 は何もわからない赤ちゃんじゃない。この前のお誕生日でもう五歳になった。もう立派なれでぃーだ。 だから大きな女の人たちがそうしているように、上手に「ないしょ」が出来るのだ。 そうごやさがるは別だけれど、他のみんなはお顔がとってもこわい。お稽古の時のとうさまよりもだ。 大きな傷がある人もいれば、片方のお目々が潰れているひともいる。こわいのはお顔だけじゃない。 ものすごく身体が大きい人もいれば、小指の先がない人もいるし(ケジメをつけた証だよとそのおじちゃんは言っていた)、 お顔や手が毛むくじゃらでくまみたいな人だっている。中にはごりらそっくりなおじちゃんもいる。 『おじちゃん、ごりらなのにどうして喋れるの。どうして四本足で歩かないの。どうしてお山に帰らないの?』 とーしろーの影からそう言ったら、ごりらが顔を覆ってうぉおおおおと泣き出した。雄叫びみたいだ。 見ていたらなんだかかわいそうになったので、は泣いているごりらの頭を撫でてあげた。よしよし、もう泣かないの。 みんなお顔はこわいけれど、とっても親切な人ばかりだ。とうさまの道場に通ってくるおじちゃんたちみたいだ。 がとーしろーのお部屋の場所がわからなくなって困っていると、近くにいたひとが「こっちだよ」と教えてくれる。 不思議に思ったことを訊くと、どの人もこわいお顔をくしゃっと崩して、大きな声で楽しそうに笑う。 ここでは誰もを一人にしない。必ず誰かが一緒にいてくれる。 みんながを気遣ってくれる。お家を恋しがって泣かないように。がさみしくないように。 一緒に遊んでいるうちにそれがわかってきたから「おうちに帰りたい」とは言わないことにした。 それに、ここにはとーしろーがいる。なぜなのかはわからないけれど、はとーしろーが一番好きだ。 とーしろーは煙草ばかり吸っていて、近くに寄るとけむたい匂いがする。ばーか、とか、うるせぇ、とか、 クソガキ、とか、とうさまが聞いたら「口の聞き方がなっとらん」と木刀を叩きつけて叱りそうな、悪い言葉をたくさん使う。 とーしろーだけがにあまり優しくない。すぐに怒る。それでも一緒にいると嬉しくなる。 一緒にいるとすごく安心する。昨日はお熱が出て心細かったけれど、くーちゃんがいなくてもよく眠れたのはとーしろーのおかげだ。 はちゃんと知っている。 言うことは悪いことばかりだし怒ったお顔はちょっとこわいけれど、とーしろーは本当はとってものことが好きなのだ。 今日は一所懸命に着物を着せてくれた。昨日は手を繋いで一緒に眠った。抱っこしてくれた。お庭でちゅーもした。 本当はとーしろーとちゅーしたんだよってみんなに言いたい。だけどこれは、ないしょにしておかなくちゃ いけないことのはずだ。「みんなに言うもん」とが騒いだらとーしろーは顔色を変えて焦っていたから、きっとそう。 「とーしろー、どこに行ったのかなぁ・・・」 部屋の隅の机に向かって、お絵かきをしながらはつぶやく。 紙から顔を上げて、夕暮れ時のお庭を見つめて、箪笥の上の目覚まし時計に目を向ける。 はもう赤ちゃんじゃないから時計だってちゃんと読める。今は五時、もうすぐご飯の時間だ。 時計を見たら急にお腹が空いてきた。お腹の中の空っぽさがなぜだかさみしくて、なんとなく心細さを引き立てられた。 開けっ放しの部屋には光が差し込んで、縁側の床板や部屋の畳には温かそうな夕焼けの色が落ちている。 その色を眺めながら不思議になった。夕焼けを見ると「おうちに帰らなくちゃ」と思うのは、どうしてなんだろう。 お日さまがあの色になると胸の奥がきゅーっとなる。 とうさまが、おにいちゃんが恋しくなる。お家が恋しくなる。お駒さんの作ったおいしいご飯を食べたくなる。 だからどんなに夢中で遊んでいても、迎えに来てくれたおにいちゃんと手を繋いで歌を唄いながらお家に帰るのだ。 おうちにかえりたい。どうしてなのかはわからないけれど、今もそう思った。だけど今日はおうちには帰れない。帰れないんだ。 必ずお家に帰してくれるって、とーしろーは約束してくれた。だからちゃんと我慢する。 お鼻の奥がつーんとして、涙が出そうなくらいにかなしくなっても。 さっきまでは楽しく遊んでいたのだけれど、は今、ちょっぴりしゅんとしていた。とーしろーがどこにもいないからだ。 『俺たちはこれから仕事だから行くけど、ちゃん、一人でも大丈夫?』 さがるに心配そうに訊かれたけれど、大丈夫だよ、一人でお留守番できるもん、と頑張って答えた。 他のみんなもお仕事に行ってしまって、は「しんせんぐみ」に来て初めて一人になった。 『すぐに戻る』と言っていたけれど、とーしろーがどこに行ったのかはわからない。 みんなとお庭でバドミントンをして戻ってきたら、もうお部屋に居るんだと思っていたのに。 お部屋でたくさんの紙とにらめっこしながら、がお部屋に帰るのを待っているんだと思っていたのに。 どうしてなんだろう。今もそうだし、昨日のお昼もそうだった。 泣きたい時にとーしろーがいないと途端にさみしくなる。 一人でいると、とうさまやおにいちゃんの顔ばかり浮かんできてすごくかなしくなる。 とーしろーが一緒なら、こんなにかなしくならないのに。 「・・・平気だもん。とーしろー、お仕事いそがしいんだもん。、お仕事の邪魔しないんだよ。一人で遊べるんだから」 お絵かきしていた筆をぎゅっと握り締めながら独り言を言った。 そうだ、は赤ちゃんじゃない。トモエちゃんと同じ立派なれでぃーだ。 だから大丈夫。さみしくても頑張れるし、お留守番だって上手に出来る。 とーしろーだってきっともうじき帰ってくるよ。もうすぐだよ。 涙でかすんだ両目をごしごし擦ると、はお絵かきした紙に盛大に息を吹きかけて、ふーふーして乾かす。 ちょうど乾かし終ったところへ、廊下から誰かの足音が近づいてきた。ぶっきらぼうな声に、、と呼ばれた。 帰ってきた。とーしろーだ! 「とーしろー!」 筆をぽいっと放ってあわてて紙を仕舞って、はぱたぱたと廊下に駆け出す。 嬉しくってぴょんっと跳ねてとーしろーの首に飛びついたら、頭をぽかりと叩かれた。 叩かれたところはじんじんしたけど、それでもはとっても嬉しい。 ぴったりくっついたとーしろーを見上げて「お留守番できたよ、いい子にしてたよ!」と笑うと、 黙ってを見下ろしたお顔はなんだかむずかしくなった。 とーしろー、何を考えてるのかな。 ちょっとうらめしそうで、煙草が刺さったお口が横にぎゅーっと引っ張られてて。 怒ってるみたいで、でも、をじいっと見つめている細めた目はなんだか困ってるみたいにも見える。 不思議に思って顔を近づけたら、土産だ、と柔らかい何かを鼻に押しつけられた。目の前が急に真っ暗だ。 「お前、こいつが恋しかったんじゃねえのか」 「あー!くーちゃん・・・!」 とーしろーがむぎゅっと押しつけてきたものを眺めて、はびっくりして目を丸くした。 「どーしたのくーちゃん、一人でここまで来たの?すごぉい!」 「んなわけあるか。お前ん家から持ってきたに決まってんだろ」 「ぇええー。なんでー?とーしろー、のおうちに行ったの?」 くーちゃんを両腕でぎゅうぎゅう抱きしめて、ぴょんぴょん跳ねた。顔を埋めるだけで嬉しくって自然に笑顔になる。 明るい栗色でおおきくってフカフカなくまのぬいぐるみのくーちゃん。とっても大事なおともだちだ。 だけどちょっと変だ。栗色の毛並は少し色が褪せている気がするし、首に巻いた紅いリボンも端が茶色っぽく日焼けしている。 そういえばくーちゃんのからだも一回り小さくなってる。でもいい。そんなことは気にしない。 こうやって抱っこしておでこをくっつけて、黒いガラス玉のつぶらな目を見ればわかる。この子はのくーちゃんだ。 「・・・?ねえとーしろー。のおうち、誰もいないんでしょ。どーやって入ったの?」 「俺じゃねえ。こいつを持ち出したのは、…まあ、俺の知り合いだ」 「ぇええー。とーしろーの知り合いの人、どろぼうなの?」 「泥棒ってこたぁねえが、まあ似たようなもんだ。忍びの奴等の遣り口ぁ、泥棒稼業と大差ねぇからな」 しのび?とは首を傾げる。「しのび」はの知らない言葉だ。 「これ以上奴に借りは作りたかねえんだがな。仕方ねえ。俺と面合わせるよりは、親父さんも気楽だろうよ」 ・・・とーしろー、そのどろぼうさんがきらいなのかな。 見上げたお顔はきゅっと眉をしかめて、嫌なことを思い出したような顔してる。 とーしろーはにもわかるように説明してくれたのかもしれない。でも、はそれを聞いたらもっとわからなくなった。 くーちゃんととーしろーを、代わる代わるにじーっと見つめる。そのうちに、もっと不思議なことに気がついた。 「・・・とーしろー。どーして?」 「あぁ?」 「どーしてとーしろー、くーちゃんのこと知ってるの」 くーちゃんはのおともだちだ。が赤ちゃんだったころから一緒に寝ていたくまのぬいぐるみ。 今だって毎晩一緒のおふとんに寝ている。だけどそんなこと、とーしろーには話していない。 「こいつのこたぁしこたま聞かされたからな」 澄ました顔でくーちゃんを見ながらそう言って、とーしろーは、はーっ、と足元に白い煙を吐いた。 はぱちぱちと大きく瞬きした。不思議すぎてきょとんとしてしまう。 だってはくーちゃんのことなんて、一度もとーしろーに言ってない。 「今朝も爆弾相手に話しかけてただろうが。お前、この手のもん見るたびに懐かしがってんだろ。 デカくて茶色いクマのぬいぐるみが家にあるだの、ガキの頃から一緒に寝てただの、そいつの名前がどうしただのと」 「言ってないぃ。そんなこと言ってないよ。誰に聞いたの?」 「誰も何も。お前だ、お前」 ・・・、言ってないのに。 変なの。とーしろーはたまにのわからない、とっても変なことを言う。 昨日からずっと不思議だった。とーしろーはのことをとってもよく知っている。 昨日初めて会ったばかりなのに、どうしてこんなに知ってるんだろう。 くーちゃんのことだって、どうして知っていたんだろう。やっぱりおかしい。にはわからないことだらけだ。でもいい。 まだ夕ご飯までは時間があるし、今日のはとってもいい子だった。だからとーしろーは のおねがいを聞いてくれるはずだ。 「ねえねえ。、とーしろーがいない間もいい子にしてたよ」 「だから何だ。褒めて頭でも撫でろってぇのか」 馬鹿にした顔をしたとーしろーに頭を掴まれて、は髪をぐちゃぐちゃにされた。 ひどいよ、と髪を押さえて頬を膨らませたら、とーしろーは笑った。もっとぐちゃぐちゃにされた。 とーしろーはとっても楽しそうな目をしていて、笑っている口はちょっと意地悪そう。 そのお顔を見ていたら、のほっぺたはかぁっと熱くなった。 胸の中のどこかあったかいところがとくとくと弾んだ。どうしてそうなったのかはわからないけれど。 見ているうちに身体がぽわぽわになった。すっごく気持ちいいぽわぽわだ。だけどは、ちょっと呆れてもいた。 ほんとにとーしろーはだめなおじちゃんだ。れでぃーの髪をこんなにぐちゃぐちゃにしちゃうなんて。いけないんだよ。 本当はのことがすきなくせに。すきな女の子にはもっとやさしくしないといけないんだよ。こんな意地悪したらいけないんだよ。 「違うよー。昨日言ったよ。とーしろー言ったよ、いい子にしてたらと遊んでくれるって!」 「はぁ?遊べだぁ?・・・ガキんなったらやりてぇ放題だな、てめーは」 来い、と言われて二人でお庭に降りて、「離れ」というところまでお散歩に行った。 本当は一緒にお外に行きたかったけれど、とーしろーはお外はだめだって言う。 どうしてって訊いたら「ぬいぐるみ抱えた女と外歩けってのか?お前、市中で俺を晒し者にする気か」って 片っぽだけ眉をつり上げて、すごく嫌そうな目で睨まれた。 ・・・やっぱりとーしろーの言うことはよくわからない。 はたまにくーちゃんと一緒にお出かけするけれど、会う人はみんな「可愛いくまさんだね」って誉めてくれるのに。 外には行けなかったけれど、お散歩はとても楽しかった。 「しんせんぐみ」はお庭だってすごく広い。 離れは結構遠くて、のおうちからいつも遊んでいる神社へ行く道と同じくらいの距離があった。 砂利道の両側に茂る緑の竹藪は、おともだちと遠足で行ったお山のようないいにおいがする。 お花だってたくさん咲いている。背が低くて、白くて小さなお花がついたはこべ。砂利道を縁取るように並ぶ檸檬色のたんぽぽ。 日陰に固まって咲いている青紫のすみれ。みつばちがふわふわと周りを踊る、淡いピンクのれんげそう。 ちょこんと首を垂らした水仙。細長い葉っぱの上では、七つ星の可愛いてんとう虫がよちよち歩いていた。 は気になるものを見つけるたびにそこでしゃがんで、お花を触ったり話しかけたり、甘い匂いを嗅いだりする。 満足するまでお花と遊んだら、立ち上がってとーしろーを追いかける。とーしろーはいつも少し離れたところで 立ち止まって、がしていることを眺めながら待っていてくれる。 「とーしろー。あのお花、何ていうお花か知ってる?」 「知らねぇ」 「あれは?」 「知らねぇって」 いろんなお花を指差してみたけれど、とーしろーはひとつも答えられない。 つまらなさそうにちらっと見るだけで、すぐにお花から目を逸らしちゃう。やっぱりだめなおじちゃんだ。 「とーしろー、おじちゃんなのに何にも知らないんだね」 「うっせえな、花の名前なんざ知るかよ。つーかてめえ今、さりげにおじちゃん呼ばわりしやがったな」 指に挟んだ煙草でを指して、とーしろーはぶつぶつと色んなことを言った。 元に戻ったら覚えてやがれとか、俺ぁまだ二十代だとか、老けて見えるのぁ俺のせいじゃねえ、てめーらのせいだ、とか。 なんのことかな。何を言われてるのか、にはよくわからない。 こっちを睨んでるとーしろーがとっても不満そうな顔をしてることだけはよくわかったけれど。 「いちいち覚える必要もねえんだよ、そんなもんは。こーやって歩くたんびに、お前が煩く教えてくるじゃねえか」 「・・・?、お花の名前なんて教えてないよ」 「ああ。今日はな」 ・・・昨日もお花の名前なんて教えてないよ。 走って行ってちょっと後ろに並んだら、シャツの袖端をちょこんと摘む。 手を繋いでもらうほうが好きだけれど、こうしたほうがとーしろーは落ち着くみたいだ。 無断で手を握ったらとーしろーの腕がぎくっとして固まったし、ふざけて腕にしがみついたら、 「むやみにくっつくんじゃねえ」ってすごくこわい顔で見下ろされた。だから袖の端をそっと掴むだけにする。 だってこうしていれば、白い袖を肘まで捲くったとーしろーの腕を好きなだけ見ていられるからすごく楽しい。 あちこちに切り傷の跡がある腕は、とうさまの腕よりも肘から先が長い。指だってとっても長い。 とーしろーの横顔を見るのもすごく好きだ。重たそうな睫毛が伏せられている目を見ていると、なぜだかはどきどきする。 しばらく歩いていったらとうとう竹藪が終わって、すぐに「離れ」に着いた。 奥にある「倉庫」からとーしろーがたくさん紙を持ってきて、同じ道を同じように歩いて帰る。 帰り道は、こっちをあんまり見てくれない横顔をちらちらと眺めながら歩いた。 一歩踏み出すたびに、じゃり、じゃり、と足元の小石が擦れて鳴る。二人分の足音しか聞こえない。 二人とも黙っているからすごく静かだ。 の目に映るものはみんな茜色だ。振り返って眺めた「離れ」の建物も、ずーっと向こうに見える、 とーしろーのお部屋がある建物も。上に広がる空も、夕陽に向かって飛んでいくカラスたちも。 全部が同じ光を浴びている。触ったらぽかぽかしそうなあったかい色だ。 さっきはあんなにさみしかったのに、今は茜色の空を見上げても、ちっともさみしくならなかった。 隣を歩いている大好きなひとが、しっかりと手を繋いでくれていたから。 とーしろーの手は大きくって固い。そしてすごくあったかい。 おにいちゃんと日向ぼっこするお家の縁側みたいな温度だ。 こうしていると日向ぼっこしている時みたいにほっこりした気持ちになって、なのにすこしそわそわする。 とーしろーに触ったり、触られたりするといつもそうだ。 くっついているところがぽわぽわであったかくなる。そわそわする。でも、そのそわそわは、嫌じゃない。 どうして嫌じゃないのかはわからないけれど。 どうしてここにいるのか。どうしてとうさまたちに会えないのか。どうしてひとりぼっちなのか。 は今でもよくわからない。 けれど――もう昨日みたいにわんわん泣きたくなったり、ここにいるのを我慢できないくらいさみしくはならない。 ここにはとーしろーがいるから大丈夫。 他のことはわからないことだらけだけれど、それだけはにもよくわかる。 とーしろーはだめなおじちゃんだけれど、のことをよく知っている。よりも知っているみたいな言い方をする。 どうしたらがさみしくなくなるのかを、どうしたら喜ぶのかを知っている。 きっととーしろーは、それだけのことをいっぱい考えてくれているんだ。あんまり笑わないあのお顔を見ていると そうなんだってなんとなくわかるから、はすごく嬉しかった。こうしてくーちゃんをぎゅって出来ることよりも、うんと嬉しい。 じゃり、じゃり。小石を鳴らして足音が響く。 茜色に照らされた散歩道を見下ろせば、細長く伸びたふたつの影が手を取り合って並んでいる。 繋いだ手にきゅっと力を籠めて、涼音はとーしろーを見上げた。 「とーしろー。ありがとー」 「あぁ?」 「ね、とうさまやおにいちゃんにも会いたかったけど、くーちゃんにもすごく会いたかったの。 連れてきてくれてありがとう。それでね、あのね、あとね、ええとね、ええと、・・・」 ええとね、ともう一度繰り返して、はうつむいて考えた。 違う。なんだか違う。 が言いたかったのは「ありがとう」だけじゃなかったみたいだ。 ありがとうだけじゃ言い切れない嬉しさ。嬉しくって、嬉しすぎて、とーしろーに怒られてもいいから 飛びつきたい、そんなことを思って胸の中がとくとく弾んじゃう嬉しさ。泣いてしまいそうになる嬉しさだ。 だけどその嬉しさは、どんなふうに言えばとーしろーに伝わるのかな。 にはまだよくわからない。みたいなすてきなれでぃーにだって、わからないことはたくさんあるのだ。 「どうしたらいいのかなぁ・・・」 「おい、全く話が読めねえんだが。何を急に途方に暮れてんだお前は」 「あー!」 「!てめっ、人の耳元で叫ぶんじゃねえ!ったく、これだからガキは・・・」 とーしろーの声はちょっと怒ってたけど、はわくわくしながらくーちゃんを抱きしめた。 そうだ、、すっごくいいことを思いついた。 「ありがとう」ってお口で言うよりも、もっといいことがある。とーしろーに喜んでもらえそうなことをしてあげたらいいんだ! 「とーしろー!」 「あぁ?」 呆れた顔でこっちを見下ろしたとーしろーの口が半分開いている。 そこへは飛びついた。黒いベストを掴んで背伸びして、煙草が刺さってないほうの口端に、ぴとっと唇をくっつける。 昨日とーしろーがしてくれたみたいに、ちゅっ、と音をさせてそこから離れた。 離れても煙草の匂いが唇にふんわり残っていて、その匂いを感じたら、ちゃんとちゅー出来たんだってことをもう一度実感出来た。 なんだか誇らしげな気持ちになる。 はすごく上手に出来た。は立派なれでぃーだから、ちゅーだってとっても上手に出来るのだ。 だけどとーしろーは何も言わない。喜んでくれるどころかさっきよりも呆れてるみたいだ。 でも、びっくりしているみたいにも見える。 いつもはなかなかを見てくれないお目々がはっきり開いて、だけを見つめてる。 顔を近づけて覗き込んでも何にも言わない。ぽかんとお口が空いていて、そこに刺さった煙草がだらっと下を向いている。 とーしろーが何も言おうとしないのを確かめて、は嬉しくなってくーちゃんと一緒にぴょんぴょん跳ねた。 駄目だって言われなかった。とーしろーは駄目なときははっきり駄目だって教えてくれる。だからこれは、駄目じゃない。 「あのね、ね、とーしろーのことだいすき。だーいすき。・・・とーしろーものこと、すき?」 ちょっぴり恥ずかしかったから、抱きしめたくーちゃんの影から小さい声で訊いてみた。 するととーしろーの表情はぴたっと固まった。 手を置いた首のあたりを掻きながら、顔が見えなくなるくらいそっぽを向いて。 が待ちくたびれるくらい長い間、ずーっと黙って考えてから、ぼそっと低い声で言った。 「・・・・・・・ああ。まぁな」 それを聞いたら胸の中のあったかい何かが、とくん、と大きく弾んだ。 やっぱり。やっぱりそうだ! くーちゃんをぎゅうっと抱きしめる。ぱたぱたと足を躍らせる。嬉しくってもうじっとしていられない。 フカフカした栗色のくまさんもにぎゅっと抱きついてきて「よかったねちゃん」って一緒に喜んでくれた。 「わぁーい!」 「騒ぐなガキ。いや、違う、これァあれだぞ、今日のところはそういうことにしといてやるってだけだからな!?」 本音と建前の使い分けがねえガキ相手に意地張ったって、こっちが馬鹿見るだけだからな。 真っ黒な頭をぼりぼり掻きながら、とーしろーはそんなことをブツブツ言っていた。 少しだけ見えた横顔は、またむずかしいお顔になっている。 近所の大きなお屋敷で飼っている犬みたいな、ちょっとこわい目。その目が、うろうろと落ち着かずに あちこちを見回している。どうしてなのかをちっとも見てくれない。 お口が何か言いたいことを我慢しているみたいに、ぎゅーっと左右に引き結ばれている。 ・・・とーしろー、怒ってるの?それともどこか痒いのかな。もしかして、虫歯なのかな。 そう思って心配したけれど、そうじゃなかったみたいだ。 次の瞬間にはは腕をぐいーっと引かれて、ぽいっと胸元に放り込むみたいにとーしろーの両腕に収められていた。 「・・・?とーしろー。ねー、どーしてぎゅーってするの・・・?」 訊いたら腕の中がもっと狭くなった。草履の踵が浮いちゃうくらいに背中をぎゅっと抱きしめられる。 ねえ、どーして? もう一度訊いてから、昨日同じことを訊いたときのとーしろーの返事を思い出して はなんとなく恥ずかしくなった。伸ばした腕で黒い服の背中をもじもじと弄りながら、足元の道を見下ろす。 あったかそうな茜色に照らされる砂利道には、ひとつに重なったふたりの影が細く長く背を伸ばしていた。

「 おおかみさんとちいさなこいびと *3 」 text by riliri Caramelization 2011/05/13/ → re; 2011/05/15 -----------------------------------------------------------------------------------       next