「御馳走さん。親父、勘定ここに置くぞ」 「へいっ、まいどー!」 ちょっと遅めの昼飯を終え、土方は店主の親父の気のいい声を背に浴びながら行きつけの飯屋を後にした。 暖簾をくぐって街へ出れば、かすかに埃臭い春の風が髪を撫でる。川沿いに並ぶ柳も細く新芽が吹き、 枝から頭をもたげた萌黄色は陽光を浴びて目にまぶしかった。数日続いた雨のせいで咲き渋っていた花も これで一斉に綻ぶだろう。そぞろ歩くには恰好の緩んだ陽気だ。 もっとも今は見廻り中で、言うほど緩んだ気分にはなれないが。 朝の騒ぎからそろそろ半日が過ぎようとしていた。 のこととなると小煩く絡んでくる沖田の目を気にしたために、電話連絡こそ入れていない。 だが、ずっと気にしてはいたのだ。姿かたちはでも、あれぁ中身が五つのガキだ。 熱が上がればたちまちに愚図り出すだろう。今朝みてえにびいびい泣いて、 ガキの扱いには不慣れなうちの連中をげっそりするほど手こずらせているんじゃねえのか。 そう思って何度か携帯を確かめたが、今のところ屯所からは何の連絡も入っていない。 ・・・てぇこたぁ、あいつぁまだ元気でいるってことか。 いや。それともうちの連中が案外と子守り上手で、熱の出たあいつをすでに寝かしつけたってぇ線もある。 近藤さんはあれでどうして、子供の扱いに長けていることだし。 「・・・一服したら戻るとするか」 咥えた煙草をだるそうな顔つきで揺らしながら、手にした携帯を眺めてぼそりとつぶやく。 すると、彼の行動を見越していたかのように携帯が鳴った。 『トシぃぃぃ!?今どこっっ、助けてえええぇぇ!ってちょっ、ってっ、だめだってっ、 女の子がそんなとこ引っ張っちゃいけませんんん!それがもげたら勲は勲はお婿に行けなくなぉうぐぉああああああ』 悲痛な絶叫を聞き届けた土方は通話を切り、がっくりと肩を落とし。踵を返して屯所に突進したのだった。
おおかみさんとちいさなこいびと *2
「やだやだやだぁっっ。かえるのぉ!、おうちに帰るのぉっ・・・!」 失敗した。一時でも目を離すんじゃなかった。 屯所の庭まで駆けつけた土方は足元にぽろりと煙草を落とし、目元を覆ってうなだれた。 目の前には心配そうな近藤や山崎を初めとした隊士たちの人だかり。奴らは全員で一本の庭木の根元を囲み、 はらはらと頭上を見上げている。見慣れた女が銀杏の幹にしがみついてびいびいと泣いているのだ。 昇ったのはこの庭でも飛び抜けて背丈の高い木、しかも頂上近くだ。もしも足を滑らせ落ちたら、捻挫どころでは済まないだろう。 興奮しきっているからなのか、それとも薄着で寒いからなのか、ひっく、ひっくと嗚咽を噛みしめている顔はやけに赤い。 何も履かずに飛び出したらしく足は裸足。着物は太腿まで捲れ上がって素肌が剥き出し。 幹の細くなる天辺まで昇りつめたは足を枝の又に掛け、上手い具合に身体のバランスを保って立っている。 身体能力の高さは局内でも抜きん出ていたが、これは呆れた器用さだ。あれで尻尾でも生えていれば猿そのものじゃねーか。 檻から逃げたペットに手を焼く飼い主の気分で土方は眉をしかめる。呆れきった目つきで銀杏の木を見上げた。 「ったく、何なんだあいつぁ。朝っぱらにガキになったかと思やぁ昼には猿かよ・・・」 「いやー、参った参った。昼前までは機嫌よく遊んでたんだがなぁ・・・」 ははは、と顔を引きつらせて隣に並んだ近藤が笑う。 顔やシャツの袖を捲くった腕にはいくつも引っかき傷の線が出来ていた。 「飯時にな、家にはいつ帰れるのかと聞かれてな。 総悟がまだ判らねえって答えたら、驚いて泣いちまって。どう泣き止ませようかと困ってたらあれだ」 泣いて昼飯も食べなかったは、どうしても家に帰るといってきかなかった。 引き止める沖田の腕を噛んで食堂を飛び出し、止めようとした山崎の頭上高くまでジャンプして顔に膝蹴りを決め、 廊下に立ち塞がって最後の砦となった近藤の顔をがりっと引っ掻き、手足もさんざん引っ掻き、 しまいに急所をわしっと掴み、そこに子供ならではの容赦のない捻りを加えた、・・・それがさっきの電話の瞬間らしい。 「い。いやそのあれだ。・・・いろいろとすまなかったな、近藤さん」 瀕死の衝撃を遠い目で語る近藤から気まずそうに目を逸らし、土方はぼそりと謝った。 いっそあれが猿ならよかった。急所を抑える知恵がねえだけ、猿のほうが幾分マシというものだ。 「だがなぁ」と銀杏を見上げ、近藤は何かを考え込む。顎髭のあたりを撫でながら小声で言った。 「考えてみりゃーよー、今のにとって俺らは見も知らねぇ大人なんだよなぁ。 小さな子供が知らねえ奴等に囲まれてんだ。ずっと緊張しどおしで、不安で仕方なかったんだろうよ」 「局長、今は説明よりも説得が先ですよ。早くさんを止めないと」 あの天辺は幹が細いから危ないですよ。 蹴られて鼻血が出たらしく、鼻に脱脂綿を詰めた山崎が、おーい、と声を張り上げ呼びかける。 「ちゃーんっ、そんなに昇ったら危ないよ、降りておいでよー!」 「そうだぞ、降りなさい、怪我するぞー!」 「やだああぁ!とうさまがおむかえにくるまで降りないのぉっ」 「おい。我儘も大概にしろクソガキ」 それまで黙って業を煮やしていた土方が進み出て、銀杏の根元をドン、と蹴る。 怯えて表情がすうっと引いたは、ゆらゆらと揺れる幹にしがみつく。こわごわと下を見下ろした。 「ゴネてねえで降りてこい。俺ら大人は忙しいんだ、いつまでもガキの我儘に構っていられるか。 お前が自分で降りねーんならなぁ、この木揺すってでも落としてやる。最悪根元からぶった斬るぞ」 「!副長っっ、やめてくださいぃ!さんが落ちたらどーするんですかぁああ」 青ざめた山崎ががばっと土方に飛びつき、羽交い締めにして木から離した。 それでも蹴りを繰り出そうとする土方に、他の隊士もあわてて群がる。 真下で騒いでいる大人たちを涙目で悲しそうに見下ろし、は耳に刺さる高い声で叫んだ。 「やだぁっっ。降りないもんっ。とーしろーなんかきらいだもんっっ、とーしろーのばかぁ、いじめっこぉぉ!」 「大丈夫だよちゃんっ、このこわーいおじちゃんは俺が抑えておふぐごおぉっっ」 泡を噴いて山崎が倒れる。「おいィィィ誰がおじちゃんだコルァァァアアア」と 眉間も険しく土方が唸り、山崎の脇腹にきつい肘鉄をドスッと喰らわせたのだ。 賑やかだった屯所の庭はさらに賑やかになった。・・・というよりは、騒ぎが増したというべきか。 山崎の二の舞を畏れつつも土方を止めようとする隊士たち。そんな彼等に剣幕を撒き散らし暴れる土方。 キレた副長と彼に手を焼く奴らをよそに、木の幹にしがみつくが落ちやしないかと、はらはらと見守る近藤。 しかしには地上で騒ぐ男どもの声が聞こえていないようだ。ひしっと幹にしがみつき、木肌に顔を埋めて泣きじゃくり出した。 「おうちがいいの。おうちにかえるのっ。道場のおけいこはいたいからいやだけど、とうさまこわいけど、 でも、・・・でもっ、おうちがいい。おうちにかえりたいのぉ!」 うっく、うっく、と間に頼りない嗚咽を挟んで、は唇をぎゅっと噛む。 ぽろぽろと頬に流れる涙を、幼さの感じられるたどたどしい仕草でごしごしと拭った。 「とうさまとごはん食べるの。お駒さんとおかいものにいくの。おにいちゃんとあそぶの。 おひざに乗って、絵本よんでもらって、いっしょにお昼寝して、お風呂に入って、・・・・・・・っ、 どうしてぇ?どうしておうちに帰れないの・・・?どうしてみんないないの。どうして、ひとりぼっちなのぉ・・・?」 どうして、を夢中で繰り返した舌足らずな子供の叫びは、最後は涙声に変わって消えた。 大きな目はこっちを見下ろしている。涙に濡れた瞳は焦点が揺れて定まっていなかった。 「かえりたいぃ。かえりたいよう。とうさまぁあ。おにいちゃぁん。おうちにかえるぅ。かえりたいのぉっっ・・・」 「、・・・・・・・」 何か言いかけた近藤が拳を握り締め、辛そうに眉を寄せる。地べたに転がり痛そうに腹を押さえていた山崎が表情を曇らせる。 土方も、隊士たちを振り切ろうとしていた動きを止めて頭上を仰いだ。戸惑いに息を詰めたような表情でを見つめる。 彼等には泣きじゃくるの言葉が、そこに集った他の奴らとは違う意味を持って胸に迫っていた。 突然家族と会えなくなってしまった幼い少女の、甘えたい盛りの子供が放つには当然だろう悲嘆。 それが、彼等三人にはただそれだけのこととは取れなかった。 泣きはらして赤みを帯びた目。あの目は確かに土方たちを見下ろしている。 だというのに、あの潤んだ瞳に映っているのは、眼下に見えている彼等ではないのだろう。 あの瞳が探し求めているのは、幼い子供に戻ったが切望してやまないもの。 引き取られ、育てられた温かな家。そこで彼女を待っていてくれる家族。 ――溢れる涙を拭いながら、なおも泣きじゃくる彼女が呼び続けている二人の姿だ。 気付けば全員が黙っていた。見ているだけで痛々しい。悲鳴のような叫びが耳に染みる。 の頬を伝った涙が、ぽつり、ぽつりとこぼれて落ちる。透明な雫は土方の足元にも加速をつけて落下してきた。 真昼の天気雨にも似た、晴れ渡った青空から気紛れに降ってくる水の粒。庭土を覆った柔らかな新緑にぴしゃりと落ちて、 朝露のような輝きを灯す。 土方はうつむいてそれを眺めた。 抱え込んだ複雑さを噛みしめている表情には、薄い影が落ちていた。 判っている。姿は同じでもこれは五歳のガキだ。俺の知ってるあいつじゃねえ。 は言わない。俺の前では決して、こんな泣きごとをあいつは言わない。・・・だが。それは、 「――へーえ、に兄貴がいたとはねぇ。初耳だぜ」 振り向くと、長い梯子を抱えた沖田が立っていた。 沖田は泣きじゃくるを顎で指す。責めるような目つきが土方を射抜いた。 「あんたらはとっくに知ってたってぇ顔ですねぇ。近藤さん、土方さん」 地面に尻餅をついていた山崎を見下ろし、おめーもな、と沖田は付け足す。 うっ、とびくついて顔を強張らせた山崎を皮肉気な目つきで眺めると、次は土方を冷えた目で睨む。 つけ入る隙を与えない無表情で彼を無視した土方の肩に、梯子をぐいっと押しつけた。 「冗談ですよ。そのくれーは俺も知ってました。その兄貴の話があんたらの間では禁句になってて、 俺らの耳には入れたくねえらしいってこともね」 「おい、総悟、」 「何なんです。何なんでェあんたらは。の兄貴のこたぁ、そんなに俺に聞かせたくねえ話なんですか」 近藤が止めに入ったが、その手を払って沖田は言い放った。 土方に詰め寄った表情は冷たさを保っている。しかし腹の底で抑えた低い声音が、煮え滾った内心を物語っていた。 「俺だってちったあ成長してんだ、前より少しは物が判るようになったつもりですぜ。 それでもあんたらは、まだ俺を萱の外に置いておくつもりですかィ。 どうなんです土方さん。どうせあんたが糸引いて、近藤さんを口止めしてんだろ」 「総悟。そうじゃねえぞ、トシはなぁ、」 「近藤さんは黙っててくだせェ。土方さん、あんたぁいつもそうだ。肝心なときは決まって俺を遠ざけやがる」 ・・・姉上のときとちっとも変わりゃしねえ。 噛みしめるように小声でつぶやき、押しつけた梯子から手を離す。 苛立った目つきで土方を見据えると、沖田はくるりと背を向ける。母屋のほうへ歩き出した。 「・・・近藤さん、」 何も言わずに目で訴えると、近藤はそれだけで察したらしい。 お互いに顔を見合わせて戸惑っていた奴らに「ここはトシに任せるとするか」と大らかな笑顔を浮かべ、 沖田の後を追っていく。全員が自然とその背中を追った。去り際に少し振り向いた山崎だけが、 他とは違った複雑そうな表情をしていた。 「・・・おい。、」 真上に向けて呼びかけたが返事は返ってこない。 押しつけられた梯子をがたがたと幹に立て掛け、土方は再び声を張り上げた。 「いいか。お前の親父と兄貴はな、大事な用で家を空けてんだ。今はどうしてもお前を迎えに来れねえ」 は黙って彼を見下ろしていた。言われたことを頭の中で反芻していそうな表情だ。 頬や目元がぎこちなく強張り始めて、銀杏の幹に掴まっていた手がだらりと下がる。 唇がわずかに開いて、力のない声音で尋ねてきた。 「とうさま、きてくれないの?」 「ああ。そうだ」 「だいじなごよう。なの・・・?」 「ああ」 「おむかえにきて、くれないの?、おうちにかえれないの・・・・・・?」 「・・・・・・」 「どうしてぇ?はいっしょじゃないの?、とうさまに、おいていかれたの・・・?」 呆然とつぶやいた女の顔が、ぐらりと大きく傾いた。土方が頭上に目を見張る。 の足元で乾いた音が鳴り、ざざあっ、と銀杏の新緑がざわめき、折れた枝と女の背中が降ってくる。 どう返事をするべきかを考えていた矢庭に、が足を掛けていた枝が根元から折れたのだ。 落ちる、と覚悟する間もなくの身体は銀杏の枝葉の間をすり抜け、一直線に地面をめがけて―― 「――っっ!」 「・・・・・・ってえなぁ、っの野郎、・・・・・だから降りろっつっただろうが!」 やっとの思いで声を絞り出し、土方は抱きとめた女を叱り飛ばした。 落下地点に腕を伸ばして飛び込み、を受け止め地面に転がった格好だ。 口を抑えているは声も出ないらしい。青ざめた顔を凍りつかせている。 あと一瞬遅れていたら危なかった。冷や汗ものだ。まだ心臓がバクバクと鳴ってやがる。 ほんの瞬き程度の時間差で、伸ばした腕がどうにか間に合ってくれた。 「おい。何を黙ってんだ。やけに大人しいじゃねーかコラ。 何とか言え、とりあえず謝れ。ったく、これだからガキは、・・・」 口調を強めて言いかけたが、の様子に気付いてやめた。 何か言いたげに目を細めて黙った彼は、を抱きかかえたまま起き上がる。 隊服の背中がやけに冷たい。庭の地面が昨日までにたっぷりと蓄えた雨水を、滑り込んだ背中が吸ったらしい。 足元には折れた銀杏の枝が落ちていた。落下した時に巻き添えにした萌黄色の葉が、周囲にぱらぱらと散っている。 地面に触れていた鼻先には、真新しい緑の匂いを感じた。腕の中では細い身体が小刻みに肩を揺らしていた。 唇が震えている顔を、彼の喉元にぎゅっと押しつけてくる。 泣いている。は声を出さずに啜り泣いていた。涙声を我慢して歪めた顔を、ぽろぽろと透明な水滴が伝い落ちる。 「とうさまぁあ、・・・っ。やだぁ。帰るぅ。とうさまあぁ。おにいちゃあん、・・・」 すぐに我慢できなくなったらしい。泣きじゃくりながら土方の首にしがみついてきた。 軽い溜め息を吐き、泣きじゃくる女の髪に指先で触れる。 もたれてきた頭を抱き寄せ、何も言わずに撫で続けた。他に宥める方法はない。悲しさを和らげてやる方法も。 馬鹿な奴だ。は未だに、俺にいらねえ遠慮をしてやがる。 普段もこうやって泣きゃあいいんだ。俺に取り縋って甘えりゃあいいんだ。 それが出来れば少しは気も晴れるだろうに。 ――普段のこいつにはたったそれだけが出来ねえ。泣きごとを上手く吐き出せねえ。 いつも必死だからだ。閉じ込めたもんを誰にも明かすまいと、精一杯に意地を張って。 内心では泣きそうになっている時でも、大丈夫、平気なんだと自分に言い聞かせて。 顔や態度から滲み出ている淋しさを、上手く隠しおおせたつもりでいる。傍で見ているこっちのもどかしさも知らねえで。 こいつは言わねえ。俺に限らず、誰にもだ。 家に帰れない淋しさを。 会いたくても親に会えない悲しさを。 ――たとえ俺が「辛くねえのか」と訊いてみたところで、こいつは笑ってごまかすだろう。 『そんなことないですよー』 いつも通りの間延びした口調でそう言って、見ているこっちが歯痒くなる、あの淋しげな顔で笑うだろう。 ただでさえ人懐こくて甘えたがりなこいつだ。親元へ戻れないことをさみしく思わない筈がない。 それはただ、口に出して言おうとしねえだけの話だ。全てを打ち明けて頼ろうとはしねえだけだ。 誰にも見せないの本音を、ガキに戻ったが代弁している。 帰りたい、帰りたいと、悲鳴のような声で叫ぶ。溢れ出した感情を涙に変えて流し続ける。 「・・・、約束だ」 ずっと言えずにいた言葉を、彼は初めて声に変えた。 啜り泣いていたの耳は、唐突な呼びかけを捉えたらしい。 もたれかかっていた土方の肩から顔を上げ、赤らんだ子供の瞳はようやく彼を見つめる。 何のためらいも恥じらいもなく、まっすぐに。 俺の知るはこんな顔をしない。普段のこいつとは表情が違う。だが。 これはだ。これもだ。 こいつの中でずっとうずくまって、一人きりで泣いていたガキだ。さみしがりで人懐っこい、ガキのまんまのこいつの姿だ。 「いつか必ずお前をあの家に帰してやる。俺が必ず頑固親父の許に帰してやる。だからそれまで待ってろ」 濡れた頬を手のひらで覆って、親指の先で涙の跡を拭っていく。 ごしごしと強めに擦ると、あどけない表情で彼を見上げていた少女はぎゅっと肩を竦め、痛そうに目を瞑った。 「それまでここがお前の家だ。俺やあいつらがお前の家族だ。同じ家で寝起きして、一緒に飯食って過ごせばいい。 ここにはお前の親父の代りが務まるような師範はいねえが、俺が稽古をつけてやる。いいか。お前がここでいい子にしてりゃあ、」 土方は浮かない顔になり、しばらくむすっと黙り込み。 渋々だが言ってやる、とようやく決心をつけた。を見据え、また口を開く。 「・・・たまには遊んでやってもいい」 そう告げると、悲しそうに引き結ばれていたの唇がかすかに緩んだ。 木から墜落して以来青ざめたままだった頬に、ゆっくりと血の気が戻っていく。 小さく首を傾げて、何か言いたげに土方を見つめてくる。土方は眉をひそめた。 ただの勘だが、なんとなく嫌な予感がする。いったい何を考えているのか、落ち込んでいたの気配が 途端にそわそわし始めているのだ。 「どうだ。我慢出来るか。いい子でいられるか」 「いつかって、いつ?」 「・・・まだ何時たぁ言えねえが。そう遠くねえうちだ」 「やくそく?」 「ああ。約束だ」 約束する。涙目で俺を眺めるお前にも、今はお前の中に隠れているあいつにも。二人に誓ったんだ、違えるものか。 そう決心して、真顔で頷いてやる。 すると、の表情が一気にほころんだ。 「いい子にしてたら、とーしろー、ちゅーしてくれる?」 「はぁ?」 「、とーしろーとちゅーするの。したいのー」 「・・・!なっ、てっめ、何言って、!」 勢い込んで言い返そうとしてはっとする。 言いかけた文句をぎこちない態度で腹の中まで引き戻しながら、土方は妙な気分にかられていた。 待て。俺は何を動揺してんだ。これぁであってじゃねえ。ませたガキの戯言じゃねえか、軽く受け流せばいいものを。 「・・・誰がするかよてめえみてーなガキに」 「したよー。したもんっ。朝ね、お目々あけたらとーしろーがね、にちゅーしてたもん!」 たばこのにおいがしたもん。したもんっ!と、ぷーっと頬を膨らませたが迫る。 愕然として土方は目を剥いた。 しまった。意識がなかったものとタカを括っていたが、・・・こいつ、覚えてやがったのか! しかし、しかしだ。どうしてここで「した」などと正直に白状出来たものか。 すっとぼけた視線を左右に泳がせ、きまり悪そうに土方は迫ってくるを避けた。 ところがは彼の態度にいっそう機嫌を損ねたらしく、彼の前髪をむぎゅっと掴んで真正面に向き直らせて、 「してくれないとみんなに言うもん!とーしろーがちゅーしたって、言うもん!!」 「おいィィ!こーいう時だきゃあ頭が回るなてめえはァァ!・・・いや判った、それだけは勘弁しろ!」 「みんなに言うもん!」 舌足らずな爆弾発言に顔を引きつらせ、あっさり押し切られた土方は、目を閉じて眉間を抑える。 苦渋に満ちた表情は、何か重大な覚悟を決めようとしているかのようでもあり、すべてに諦めをつけようと 四苦八苦しているようでもあった。嫌そうに目を開け、四方八方を落ち着かない様子で見回し、 好奇心に満ちた無垢な目をきらきらと輝かせているに手を伸ばす。 何も言わずに腕を掴んで引き寄せ、組んだ脚の上まで身体ごと引っ張り上げる。 背中に回した両腕で柔らかい身体を閉じ込めた。 深く息を吸い込んで目を閉じると、感じ慣れた満足感が全身に広がっていく。 こうしてしまえばいつものだ。 中身が女から幼い少女に変わってしまっていても、肌や髪から香る甘ったるい香りは変わらない。 胸に押しつけると弾む身体の柔らかさも、撫でた頬の滑らかな手触りも。当然だが少しも変わらない。 「・・・とーしろー。」 突然抱きしめられたことにびっくりしたらしい。 伏せた目で見下ろすと、目を丸くしたあどけない表情が彼をぽかんと見上げていた。 「ねー。どーしてぎゅーってするのー・・・?」 「俺がしてえからだ」 素っ気なく返すと、ふーん、とは不思議そうにつぶやいた。 土方の肩にこつんとおでこを当て、もたれた肩の居心地を集中して確かめているかのように黙ってしまう。 時折もぞもぞと肩を揺らして身じろぎをする。そのうちに、うつむいた顔がうっすらと色づきはじめた。 何だこいつ、照れてやがる。 途端にしおらしくなった様子が可笑しくて、からかい半分に土方は声を掛けた。 「何だ。嫌なのかお前」 「・・・・・・うーんとねぇ。あのね、えーとぉ、・・・・・・」 「はっきりしねえ奴だな。どっちだ。それともあれか、お前。そうやって焦らしてんのか」 「・・・?」 きょとんと彼を見つめるの表情は子供そのもの。ひどく無防備で隙だらけだ。 どうせ言われた意味すら判ってねえんだろう。なにしろ中身は五歳のガキだ。 いよいよ可笑しさが勝ってきて、土方は目を逸らしてうつむいた。 それでも笑いがこらえきれず、ほころんだ口端から困ったような苦笑が滲み出た。 するとは満面の笑みになって彼を指差し、 「あーっ。とーしろー、笑った。笑ったぁあ!」 「煩せぇ黙れ。こーいう時はな、女は黙って男に任せるもんだ」 「っ、・・・!」 両の手首を掴んで動きを封じて、すっと顔を近づける。唇と唇を軽く触れ合わせると、があっけにとられた顔になる。 構わずに深く重ねて、舌を潜らせる。笑みに緩んでいた幼い少女の唇は、突然押し入ってくる男の拒みかたなど知らなかった。 驚いて身体を固まらせたの表情を、土方は薄目を開けて確かめる。 最初はぱっちりと目を見開いていたが、次第に口内を蠢く感触に身体が火照り出したらしい。 目元や頬が薄桃色に染まる。ぴくんと背中を仰け反らたり、ふぁあ、とせつなげな吐息を漏らすようになった。 「っ、やぁ、・・・と、・・・しろ、・・・っ」 「何だ」 「くる、し、・・・・」 わずかに離した唇をもう一度塞ぐ。混ざり合った唾液と一緒に流れ込んでくる弱い声も呑み込んだ。 乱れた髪の貼りついた頬を撫でてやると、深く睫毛を伏せた目がとろりと潤んでいった。瞼がゆっくり閉じられていく。 舌を強引に絡めると、苦しそうに眉を寄せる。土方の袖に縋った華奢な手がびくんと震えた。 「ん、・・・・・く、ふぅ、っ・・・」 息苦しさに喘ぐ声は艶めいていたが、舌足らずな子供っぽさはそのままだ。 手加減なしに貪った口内から舌を抜いて、濡れた唇から離れると、熱を帯びた大きな目がぼうっと土方を見つめている。 一度唇を重ねただけで、すっかりそそる顔つきになった。 さっきまでの泣き顔にも似ているが、あれとは違う。あれぁもうガキの目じゃねえ。 男に身体を任せることを覚え始めた目だ。見ているこっちをぞくりとさせる、妖しい何かが潜んでいる。 「これでいいな」 「えーとねえ、・・・・・・もっとぉ」 「無理だ」 「ええー。やだぁあぁああ、もっとぉ」 「無茶言うな。これ以上はガキには早ぇえ、ここまでだ。・・・ったく、このませガキが、」 軽くおでこを弾いてやると、ははしゃいで喜んだ。 足をぱたぱたさせてにこにこと笑う姿は、何の穢れも知らない少女そのもの。 純真で曇りがなくて、感情を隠すことがない。太陽を見上げて天真爛漫に咲いた花のような可愛らしさだ。 見ているだけで惹き込まれる普段の笑顔は、これとはまた違っているが。いや、これはこれで―― なんてことを思いかけてぎくりとする。 ・・・・・おい待て。何だ今のは。 何を考えてんだ俺は。いつの間にかその気になりかけてんじゃねーか・・・! 「ったく、・・・何が「もっと」だ。歯止めが利かなくなったらどーしてくれんだ」 思いつめた顔での手をぺしっと払い、土方は気まずそうに溜め息をついた。 これ以上を続けてみろ、お前が良くても俺がまずい。普段のお前ならともかく、五歳のガキでは何をするにも気が引ける。 ――それともこのガキ、無邪気な面して俺を幼女趣味の危ねぇ野郎に仕立て上げる気か? なんとなく追い詰められた気分になり、土方は荒んだ顔をふいっと背けた。 懐から出した煙草を咥え、「冗談じゃねぇ」などとぶつぶつと嘆いていると、 「ねえねえとーしろー。はどめってなに?ませガキって?ねえ、なぁに?」 「お前はまだ知らねえでいい話だ。いちいち聞いてくんな、ませガキ」 土方は先に立ち上がり、信頼しきった目で彼を見上げるに手を差し伸べる。 「来い。部屋に戻るぞ」 「とーしろー、お部屋でとあそんでくれる?」 「・・・いい子にしてりゃあ遊んでやる」 「うん!、いい子になる・・・!」 嬉しそうに握り返してきた細い手の感触を確かめ、彼は眉をひそめた。 握った手の熱の高さが、さっき触れた時よりも確かに上がっている。 急いで部屋に連れ帰ったが、そこでまた問題が起きた。が土方の手をどうしても離そうとしないのだ。 頭を撫でろとかさっきのように抱っこしてほしいとか煩く注文をつけてくる小娘に難儀した末、 不承不承に添い寝するしかなかった。結局土方もを掛布団ごと抱きかかえ、熱を出した子供の昼寝に 付き合わざるをえなくなったのだ。 それから数刻ほど後のこと。 夕暮れが茜色に街を輝かせ、やがて夜が訪れ。蒼い影に沈んだ江戸の夜空にちらちらと、星の光が瞬きはじめたころだ。 灯りも点けずに真っ暗な副長室の障子戸が、音を立てずに細く開いた。 そこから四つの目が中を覗き込む。 戸口に立ったのは近藤と沖田。どっぷり日が暮れても部屋から出て来ない二人の様子を見に来たのだ。 布団越しに寄り添った二人は、人目にも気付くことなく夢の中だ。 土方の胸に顔を埋めたの表情は見えないが、心地良さそうな寝息が漂ってきた。どうやら熱は下がったらしい。 「なんだ、トシまでぐっすり眠ってるじゃねえか。こりゃあ起こさねえほうがよさそうだな」 「けっ、呑気に昼寝しやがって。・・・一遍死ねばいーんでェ、あの野郎」 と、沖田は普段の自分の怠けぶりを思いっきり棚に上げた文句を吐き出し、面白くなさそうに舌打ちする。 隊服も脱がずに横たわった男の背中をきつく睨みつけた。 そんな沖田を頭一つ上から見下ろした近藤は、少し迷ってから切り出した。 「なぁ総悟」 「何です。さっさと飯食いに行きやしょーぜ。おかずが無くなっちまわァ」 「の兄貴の話だがな。黙ってた理由が、俺たちがお前を信用してねえからだとは取らねえでくれよ」 頬をぽりぽりと掻きながら話す近藤に、沖田はちらりと視線を向ける。 身内の前では呆れるほどに馬鹿正直なその顔は、心の底から申し訳なさそうだ。 ほんとに呆れたもんだぜこの人は。・・・とはいえ俺も人のこたぁ言えねえ。 この人のためなら命も張ろうってぇ気になっちまう俺の呆れた拘りは、この人がこういう人だからこそだ。 「お前にもそのうち話すつもりではいたんだ。けどよー」 「へいへい、わかってますよ。 どーせ俺ぁガキですからねィ。仲間扱いはしてもらえても、あんたらの信用に足る男じゃねーんでェ」 「いやいやいや、そうじゃねーって。拗ねるなよ総悟ぉ、俺達ぁなあ」 それまで冷めた顔で近藤を眺めていた沖田の目元が、ふっと緩む。 とぼけきった表情を珍しく崩して、おかしそうに微笑んだ。 「冗談ですよ。心配は無用ですぜ近藤さん。俺だってあの頃とは違う。 あんたの言いてぇこたぁ判ってるつもりだし、土方の野郎の腹ん中だって、少しは読めるようになってるんでェ」 別に拗ねちゃいねーや。 いつまでもガキ扱いされて、萱の外扱いに甘んじるつもりもねーんでね。 そんなことを思いながら、布団にくるまれた女を大事そうに抱えた背中を睨みつける。 「・・・今日のところは見逃してあげまさァ。けどねェ、余裕こいて寝てられんのも今のうちですぜ、土方さん」 未だ幼さの残るその顔にふてぶてしい笑みを浮かべ、沖田は音もなく障子戸を閉めた。
「 おおかみさんとちいさなこいびと *2 」 text by riliri Caramelization 2011/05/05/ ----------------------------------------------------------------------------------- 副長おめでとうおめでとうおめでとう !! next