ご主人さまと受難の日々 *3 お出かけには傘をどうぞ、ご主人さま
「・・・・・だって。見ちゃったんだもん。土方さんのポケットの中の、・・・あれ」 ここ一週間に及ぶ奇行と不機嫌の原因を、が涙声で白状した数分後。 土方と彼女は、アパートの居間で向かい合って座っていた。 居慣れた部屋のはずなのに、土方はなぜか居心地が悪そうに黙っている。 自分から「ここに座れ」と言いつけて彼女を座らせたくせに、うろうろと視線を彷徨わせてばかりだ。 指先でトントンと、胡坐を組んだ膝のあたりを叩き続けていたり。煙草のフィルター側にうっかり火を点けようとしたり。 並大抵のことでは平静さを崩そうとしない彼らしくもない、浮ついた仕草や行動が続いていた。 そんな彼の真正面に座るは、着物をきちんと着付け直している。 膝に置いた手でミニ丈着物の裾を弄りながら、口を尖らせてうつむいていた。 なぜこんなことになっているのか。なぜここに座らされているのか。 おそらく自分が口にした「ポケットの中のあれ」が原因なのだろうが、座らされた理由はにもさっぱりわからない。 ひとつだけわかっているのは、彼女の言葉を聞いた瞬間の土方が 今まで見たこともないほどに驚き、うろたえていた、ということくらいだ。 顔を強張らせて突然起き上がり、十秒たっぷり絶句して。それからはっとして我に返り、そそくさと彼女に背を向けた。 自分で脱がせたくせに、彼女の着物を「何やってんだ、さっさと着ろ」と焦った声で押しつけると、 後は石のように固まって、黙り込んで。それからは一切、何を訊いても上の空だ。 試しに彼の耳元で「土方のバーカ、ハーゲ、へんたーい」とコソコソと口走ってみたのだが、 返ってくるのはいつもの拳骨どころか、すべて「ああ」だの「おお」だのの気の抜けた生返事だけだった。 しびれを切らしたが着物の裾を揉みくちゃにしながら膨れていると、土方はついに行動に出た。 無言で隊服のポケットから、何かを探り出す。さながら決闘状でも叩きつけるような勢いで乱暴に突き出した。 目の前に差し出されたそれこそが、にとっては不機嫌の元。土方にとってはすべての理不尽の元凶。 ここ数カ月にわたって延々と持ち歩いていた、水色の布で覆われた小さな箱だ。 あまりに長い間懐に入れっぱなしにしていたために、ベルベットの布地は変色し始め、 円みをおびた四つ角は、今や擦りきれつつあるのだが、蓋の中央には 百人中九十人はその名を知っているはずの、超有名ジュエリーブランドのロゴが入っている。 「お前が見たのは、これか」 訊かれたは、ぎゅっと唇を噛みしめたまま動かない。 責めるような目で彼を見つめてから、開けられた箱の中をじっと見た。 そこに入っているのは、よくあるタイプの指輪である。 一粒だけ嵌め込まれた小さなピンクの石が透けて光る、シンプルな銀色のリングだ。 その指輪を睨みつけているうちに、の目がじわじわと潤み出す。突然箱を掴むと、彼に向って投げつけた。 「土方のバカああああ!ハゲっ!変態いぃ!さいっっってーー!!!」 ふええええええん、と大きな声で泣きじゃくって、床に突っ伏してしまった。 「バカバカバカあぁ、最低っ!ひどいよぉ、ひどいですよ!!よくそんなものをあたしの前に出せますね!? もう二度と見たくなかったのにぃ!どーしてここで出すんですかあ? 帰ってください!帰ってよ!!それ持って他のひとのとこに行ったらいいでしょ!? 合い鍵も返してよ!もう二度とうちには入れませんから。次はぜったいに家宅侵入と猥褻行為で訴えてやるんだから!! キャバクラでもハーレムでも女だらけの水泳大会でも、どこでも行っちゃえ、バカあああ!!」 床に伏せたまま、がマシンガン乱射のごとき罵倒を浴びせかける。 ところが、普段であればここで必ず「てっっっめえなんつった今、もう一遍言ってみろコルァ!!」と 身を乗り出して逆ギレするはずの男は、なぜかびくりともせずに固まっている。指一本、いや、睫毛一本動かさなかった。 途端に暗くなったその表情から見て、驚いている、というよりは、かなり深く落胆しているのだろう。 自分を建て直せないほどのショックに見舞われているのは、誰の目にも明らかだ。 まったく彼らしくもない、バカ正直すぎる落胆っぷりだった。 箱から飛び出したリングをぎこちない手つきで拾うと、土方は口を開きかける。 するとはきっ、と涙目で彼を睨みつけ、彼からリングを奪い、カーテンの開いた窓辺へと走った。 がらっと素早く窓を開けると、止める間もなく外へ投げ捨ててしまった。 土方は唖然と、窓辺で彼に背を向けたままのをしばらく眺めていた。 それから、長く果てのない夢から急に醒めたかのように、ふてくされたような顔に表情を変える。 重苦しい溜息をつくと、空になった水色の箱を手にして立ち上がり。何も言わずに部屋を出て行った。 「ひじかたのバカあああ。うわきものォォ。女ったらしいいぃぃ・・・・! なによぉっ。もう、あんなひといらなあいっ。男なんて・・・!もうぜえったあい誰も信じないんだからぁっ」 土方が去り、一人になったは、しばらく寝室でベッドに籠って泣きじゃくっていた。 彼が持ち歩いていたあのリングが、誰に贈られるものなのか。それは彼女にも解らない。 けれど、あれが自分に贈られるものではないということだけは確かで。それを思うと悲しくて、涙が止まらないのだ。 があの箱を目にしたのは、十日ほど前のこと。屯所の彼の部屋で、部屋の主が留守にしていたときだ。 畳の上で脱いだままになっていた黒の上着から、水色の小箱がこぼれ落ちていた。 それを目にした瞬間は、もちろん、も期待に胸を膨らませた。 このブランドが彼女のお気に入りなのは、たまに買い物に付き合わされる土方も知っているはず。 見てはいけないと思いながらも、心臓の高鳴りに導かれてつい手が伸び、勝手に箱を開けてしまった。 出てきたのは予想通りに女性用のアクセサリーで、しかもこのブランドの定番ラインのひとつ。 婚約用や結婚指輪用として人気の高い、シンプルなデザインのリングだった。 思いがけず目にしてしまったけれど。自惚れでなければ、これは自分に買ってくれたものではないのか。 リングの輝きに誘われるように箱からそれを取り出して、どきどきしながら薬指に嵌めてみる。 ところが、だ。予想ではシンデレラのガラスの靴のようにぴったり嵌まるはずのそれは なんと第一関節の手前であえなくがっちり止まってしまった。よく見ると、サイズがかなり小さく出来ている。 入らない、と判った瞬間、思考停止に陥り、頭からプスプスと煙が吹き出しそうなくらい愕然としたものの、 それでも諦めきれなかった彼女は色々と試してみた。 というよりは、湧き上がってきた不信感を認めたくなくて、思いつく限りを試して足掻いてみたのだ。 このリングが自分でなく、土方が他の女のために買ったものだなんて。ショックすぎてとても認められない。 無理に薬指に押し込もうとしたり、他の指に嵌めようとしてみたり。 果ては半泣きになって「そっか、これって手じゃなくて足用なんだ、トゥーリング!?」と、 飛躍しすぎた仮説のもとに、メラメラと湧き上がる嫉妬心や重苦しい不信感を無理矢理抑え込もうとしてみたり。 あらゆることを試し、どれだけ足掻いてみてもすべては無駄で。結局リングはどの指にも収まってくれなかった。 そこから導き出される結論はただひとつ。自分の知らない誰かに、土方がこの指輪を贈ろうとしている、という事実だけだ。 震える手で隊服に指輪を戻し、呆然自失のは泣きながら土方の部屋を飛び出した。 そこから事態は、コスプレカフェでのあの騒動へと繋がっていくのだが。 部屋を空けていた土方がそんな顛末に気づく余地は、当然ではあるがどこにもないのだった。 夕日も沈みかけて暗くなりかけた頃。窓の外から聞こえてくる、かすかな雨音には気がついた。 涙で濡れた枕を抱きしめながら、小さく柔らかな雨音の響きに耳を傾けているうちに、 居間の窓がまだ開けっ放しになっていることを思い出す。 よろよろとベッドから這い出して、居間の窓辺まで力無く歩いた。 窓枠に手を掛け、真下にあるアパートの小さな庭をなんとなく見下ろすと、 つつじや椿の低木が一列に並ぶ、緑の葉が雨に濡れて艶々とした植込みの暗がりの中に、誰かがいる。 ごそごそ、と怪しく動いている黒い人影があった。 あれは空き巣か、もしくは一人暮らしの女性を狙った下着泥棒か変質者か、と、最初は訝しく思ったのだが。 改めて見れば、目を凝らすまでもなかった。よく知っている男の姿だ。 「・・・土方さん」 ぽつり、とつぶやいた涙声が届いたのか、庭にしゃがみこんでいた男が動きを止める。気まずさ漂う表情で彼女を見上げた。 雨に濡れたためか、咥えた煙草は途中で火が消えて半端な長さだ。濡れた黒髪の先からはしずくが滴っている。 すぐに目を逸らして、雨や泥で汚れた顔を腕で拭う。植込みのつつじの葉と葉の間をガサガサと避け、奥を掻き分け始めた。 数時間前に出て行ったはずの土方が、アパートの植込みのあたりにうずくまっている。 小雨の降り注ぐ暮れかけた夕空の下、枝葉の間をガサガサと掻き分けては、その枝の奥や地面を探っていた。 夕陽が高層ビル街の向こうに落ち、暗さの増していく中。雨の煙る庭をぼんやりと見下ろしていたは、 赤く染まった目元をごしごしと擦る。窓を勢いよく閉め、カーテンを一杯に引いた。 それから間もなく。 は、植え込みの奥を探っている土方のすぐ後ろに立っていた。 挿してきた水玉模様の傘で、うずくまる彼の頭上に雨避けを作って立っている。 泣き腫らした目で濡れた隊服の背中を見下ろす視線は、沈んでしおれきったものだった。 それでもその場を動くこともなく、何かを話しかけることもなく。ただじっと佇んで、降り注ぐ雨を傘で遮っていた。 どれだけ怒っていても、悲しくても、こうして雨に濡れている姿を見れば 見ないふりで放ってはおけなかった。身体が勝手に動いて、傘を掴んで部屋を飛び出してしまう。 振り向きもしない背中なのに、傘を挿し掛けたくなる。 自分が悔し紛れに投げ捨てたリングを、文句ひとつ言わずに探している。両手を泥だらけにして、ずぶ濡れで探す姿に胸が痛む。 このひとが雨の中にいるのなら、隣で傘を挿してあげたい。 それがおそらく自分にとって一番素直な、他の何よりも大事な気持ちなのだ。 探しているあのリングが、誰の手に飾られるものなのか。それを思うと心は波立ってざわめく。 けれどそんな不信感や燻っている嫉妬心は、このひとを思う一途な気持ちとは関係がなかった。 しとしとと柔らかく降り続ける雨音に、耳を傾けながら。ずっと眠れなくて、不安に揺れる毎日が続いていたは、 久しぶりに落ち着いて澄んだ、けれどせつない気持ちで彼の背中を見つめていた。
「 ご主人さまと受難の日々 *3 」 text by riliri Caramelization 2009/09/03/ ----------------------------------------------------------------------------------- next