ご主人さまと受難の日々 *4 お探し物は見つかりましたか、ご主人さま
「土方さん。ねえ、もうやめてよ。風邪ひいちゃうよ」 がアパートの庭に降りてから、すでに三十分が過ぎていた。 それでも植え込みの中を掻き分けながら、土方はずぶ濡れで指輪を探し続けている。 そんな彼を見兼ねて眉を曇らせ、傘を彼の頭上に挿し掛けるの肩も、雨に打たれて冷えきっていた。 「指輪なら明日あたしが探すから。今日は、もう、・・・・・・ ねえ。無理だよ。こんなに暗くなっちゃったら、どこに落ちてたって見えないよ」 萎れきった声で「やめて」と繰り返すと、彼の隣にしゃがみ込む。どうにかして止めたくて、隊服の腕にしがみついた。 すると土方が振り向いた。濡れた前髪から覗いた目は、うつむく彼女を苛立たしげに眺めていた。 「いつまで居る気だ。中に入ってろ」 「・・・・・、でも。・・・だって。・・・あたしのせいだもん、・・・」 「・・・お前には関係ねえし、こんなもんもいらねえよ」 冷たく言われ、挿しかけた傘を拒まれ、背を向けられる。は悲しげに瞳を潤ませた。 それでも彼の腕にしがみついたまま動こうとしない。 仕方なく土方は、挿し掛けられた傘を肘で押し返そうとした。ところが加減がうまくつかず、つい腕に力が籠もってしまった。 「――!きゃっっ」 肘鉄をもろに受けてしまい、はぐらりと姿勢を崩した。短く叫び声を上げ、 背後の水溜りに仰向けに倒れる。ぱしゃっ、と高い水音が跳ね上がる。濁った色の水飛沫も、辺り一面に跳ね上がる。 その水音が止んでしまえば、周囲は再び静まり返った。 頭から泥水を浴びて無言でいる二人の間にも。アパートの狭い庭にも。 ただしとしとと、弱く柔らかな雨音だけが降り注ぐ。 身体を固まらせている二人の口からは、何の言葉も出なかった。 泥水を頭から被って尻餅をついたも、同じく泥水の飛沫を被った土方も、呆然と目を見合わせる。 倒れた拍子に飛んだ水玉模様の傘が、今や全身ずぶ濡れとなった二人から離れ、門前までコロコロと回りながら 暗い雨中を転がっていった。 「・・・・・お。おい」 気まずさに表情を硬くしながら土方は声を掛けた。そんなつもりはなかったのだ。 勢い余って転ばせてしまっただけのことで、突き飛ばすつもりなど毛頭なかった。 だが、はそうは思っていないだろう。うなだれて黙りこくった彼女は、水溜りの中で身じろぎもしない。 「・・・。どうした。・・・・・・お前、どこか怪我でも」 抱き起そうと伸ばした隊服の腕は、泥を染み込ませて地色が変わってしまった着物の袖でさっと遮られた。 が水溜まりから威勢良く飛び起き、きっ、と負けん気たっぷりに彼を見返してくる。 頬や口許がぷうっと膨らんで、眉も吊り上がり気味。一見その表情は、ひどく怒っているようにしか見えなかった。 なのに見開かれた大きな目には、今にもぽろっと落ちそうな透明な雫が一杯に溜まっているのだ。 思わずたじろぎ、土方は言いかけた言葉をごくりと飲み込んだ。 「お願い。お願いだから、今日はもう帰って。あたしが明日、もう一度探すから」 泣き出したいのを必死にこらえているのか、噛みしめられた唇は小刻みに震えていた。 地面についた淡い色の両手が、暗闇に落ちてその色すらはっきりしない手元の土をぎゅっと握りしめる。 泥だらけの細い指に、ぽつり、ぽつりと雫が落ちた。の頬から伝った、透明で小さな雫が。 「も・・・もっ、もし、探しても、っ、・・・・・・っ、みつからなかったら、・・・っ。 ・・・・ちゃんと、弁償、する、からぁ、っっ。・・・全額返すまで、時間がかかるかもしれないけど、 でも、・・・・・・っ、か、必ず返すから。・・・だから・・・・っっ」 ひっく、ひっく、と嗚咽と涙を言葉の合間に挟みながら、は頭をぺこっと下げた。 うつむいた顔が、子供のようにぐしゃぐしゃに表情を崩している。 「ごめ・・・なさい。捨てたりして、・・・・・めんなさ、いぃ。」 泣いて謝る泥水まみれの女を前にして、土方には掛ける言葉が見当たらなかった。 は水溜りに座り込んだままだ。時折汚れた手の甲で涙の溢れた目元を擦りながら、小さな声ですすり泣いている。 仕方なく彼も同じ水溜りに腰を下ろした。胡坐を組んで、早速上着の裏に手を入れる。 まったくの無意識。知らず知らずに懐の煙草に手が伸びるのは、身に染みついたヘビースモーカーの習性だ。 出てきた箱から一本を出し、湿りかけた先に苦労しながら火を灯す。 一息に、深く吸い込んだ紫煙は、たちまちに喉の奥へと流れて落ちていった。 腹に溜まっていく煙とその香りに身体の底から満たされたのを感じた途端、はぁ、と、自然に疲れた溜め息が口を吐いた。 つくづく散々な一日だ。 つい数時間前、なぜ俺が、と舌打ち混じりにこのアパートに向かっていた、あの時には 予想だに出来なかった。それこそ俺は、今、いったい何でこんな馬鹿げた目に遭っているのか。 数時間前までは、ただ、ぱったり来なくなった女の様子を見にに来ただけの話だったはずだ。 それがやっとこいつの顔を拝んだかと思えば、わけのわからねえ癇癪を起され、例の指輪は投げ捨てられ。 あげくの果てに、怒って指輪を投げ捨てた女は、いったい何がどうしてそこまで悲しいのか、 目の前で涙に暮れている。 ・・・どうなってんだ。わけがわからねえ。 しかもこいつ共々、安アパートの門前で揃って濡れ鼠ときた。 出来の悪りぃ茶番だな。 そう思いながら、ふてくされた気分を煙草で紛らわしている、泥まみれの自分の姿を思い浮かべる。 見れたもんじゃねえな、と間抜けな可笑しさに失笑しかける一方、わけのわからないこの状況を 嘆きたくもなった。いや、本音で言えるもんなら言ってやりたい。 泣きてぇのはこっちも同じだ。それどころか、てめえよかこっちが泣きてえくれえだ、と。 もちろん、それを女の前で口にするなど、自分の矜持が許さないのは判っているが。 ・・・と、煙草をふかしながら浮かない顔で途方に暮れて、数分が経った。 彼としては、まさか夜中までこのままでいる気はない。が、目の前で泣き続けているが どういうつもりでいるのかまではわからない。はぁ、と気落ちした溜め息をまた漏らし、土方は遠慮がちに手を伸ばした。 「・・・もういい。泣くな」 うなだれて泣いている女の頭に触れてみる。ぽたぽたと雫を伝わせている、長い髪を梳きながら撫でてみる。 は拒みこそしないが何も言わない。もう一度撫でると、こくん、と、大きく頷いた。 どうも声が涙で詰まって何も言えないらしい。 「とにかく立て。煙草が湿気っちまう前に、てめえん家に・・・・・おい。聞いてんのか?」 呼びかけた彼の口許は、ふっ、と薄い笑いに緩んだ。 ひっく、ひっく、とか弱く続いている嗚咽を聞いているうちに、なんだかいじらしくなってきたのだ。 同時に、何度眺めたか知れない彼女の涙に、まったく苛立ちを覚えない自分を妙にも感じていた。 惚れた女の涙は特別なのか。それとも単に、これも惚れた欲目のひとつなのか。 泣いていればどうしてもその頼りない姿が可愛く思えて、放ってはおけなくなってしまう。 「どうせまだその辺に転がってんだろ。朝になったらまた探せばいい。お前がそこまで気に病むこたあねえよ」 宥めるようにそう言った。宥めついでに、ぽん、とうなだれた頭に手を置く。 やっと顔を上げたの兎のような目の赤さを笑いながら、無造作さな手つきで 濡れた髪をくしゃくしゃと掻き回すと、は小さく頷いて唇を噛み締める。泣くまいと耐えているような顔で応えてきた。 きっと俺のこの手の甘さが、こいつの子供じみた我儘や、例のわけのわからなさが治らねえ要因に違いねえ。 ――全身ずぶ濡れになりながら、まさに文字通り「身に染みて」そう実感していても こうしてに目の前で泣かれてしまえば、つい甘さが出てしまう。今のところ、この馬鹿げた甘やかし癖が 治る見込みはなさそうだ。 「どうしてここまで泣かれるのかもよくわからねえが。とにかく、あれだ。 ・・・・・・・・もういい。いいから泣き止め」 「・・・・っ。うん、・・・・・・」 「明日探して見つからねえようなら、あれのこたぁ忘れろ。最初から無かったことにすりゃあいい」 「えっ、・・・・・なかったって。そんな、・・・駄目だよ!」 「駄目も何もあるか。俺がいいって言ってんだ、別に構わねえだろ。・・・それに」 言いかけて土方は視線を落とした。口許の煙草を恨めしげに眺め、ちっ、と軽く舌打ちする。 急に強まってきた雨脚のおかげで、ついに火が消えてしまった。 はあぁ、と、心底残念そうに、溜め息混じりな最後の煙を漏らす。 「見つかったって肝心のお前が貰いたがらねえんだからな。探す意味がねえ」 「・・・・・・・・・・?」 「まあ、どうしてもってえんならこっちも止めねえが。 どうせあれァ、お前のもんになるはずだったんだ。・・・もし見つかっても、質に入れるなり売り飛ばすなり、好きに処分しろ」 それを聞いたは大きな目を見張り、きょとんと彼を見つめた。 やがて驚きに言葉を詰まらせ、パクパクと口を空回りさせ始める。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・土方、さん?・・・あのぉ。ひとつ、聞いてもいいですか」 「ん?何だ」 「・・・・・・何のこと?どうしてあの指輪が、あたしのもの、・・・なの?」 「・・・・・・・・はぁ?」 聞き返した土方は、怪訝そうに眉をひそめた。 「何で?どういうこと?あたしが貰いたがらないって、なんのこと?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 「どうして?土方さんが他の人に贈ろうとしてる指輪を、どーしてあたしが貰うことになるの? てゆうかっ、貰う貰わない以前に、あんなサイズの指輪、あたしの指じゃ入んないし!」 「・・・・・・・・・・・・・・・・待て。おい」 「意味がわかんないよ。何で?だってあれは、他の人に、・・・本命の人にあげる指輪なんでしょ?」 何のこった。他に本命だと? わけもわからず土方は目を剥く。問い質したい。しかし出来ない。言葉を挟む隙がないのだ。 涙目で彼をきつく睨みつけ、隊服の襟首を掴んでぐいぐいと引っ張る、一変したの剣幕にも唖然としてしまう。 「どういうこと?あんな子供サイズの、おもちゃみたいに小さい指輪をどーしてあたしに」 「まっ、・・・待て、落ちつけ、つーか聞け!」 「!!ああっ!もしかして、・・・そっっ、そーいうことですか!!?」 「はァ?そーいうことだぁ?つーかどーいうこった?あれァお前用に作らせたんだぞ。小せえだと?んなはずがあるか!」 「うわああっ、・・・・・土方さんて、・・・・・・最っっっ低!!!」 「・・・はぁ?」 「つまりこーいうこと?こーいうことだよね!?本命の女の人があれを受け取ってくれなくて、それで、仕方なくあたしに?」 「はァァァああ!!?」 「あいつが駄目ならまぁ仕方ねーやこいつで我慢しとくか、みたいな!!?・・・そっっ、そーいうことなんですかああぁ!!?」 「おいィィィィ!!!!!」 と、思わず怒声を飛ばしはしたが、即座に彼は我に返った。 の両肩を抑えて向き合い、眉を顰めて彼女を睨みつける。モヤモヤと溜まる一方な疑問と鬱憤を 喉の奥までぐっと飲み干し、かろうじて怒鳴り出すのをこらえた。 ・・・いや、まずは落ち着け。どうせ俺が落ち着かねえことには話が進みやしねえんだ。とにかくここは仕切り直しだ。 「いいかこの馬鹿女。初めっから判るよーに説明しろ、つーかいい加減にしろ!何がどうなって他の女が出てくんだ? どう考えたっておかしいだろーが!!お前用に誂えたもんを、何で他の女に渡さなきゃなんねえんだ!」 「はあああぁぁ!!?見え透いた嘘つかないでよっっっ。あんな小さい指輪のどこがあたし用!!? 入るわけないじゃんっっ、あんなお子様サイズ!!死ぬ気でダイエットしたって入んないっつーのぉぉ!!!」 「ぁんだそりゃ。馬鹿も休み休み言え。あれがお前に合わねえわけねーだろうが!! 俺ぁなあ、てめえの指輪でしっかり確かめてから買いに行ってんだ!しかも何だと、・・・・・・本命の女だァ?」 いい加減にしろ。本命ならいるじゃねえか目の前に。 なぜわからねえのかこの鈍感バカは。 てめえ以外にありえねーだろ!つーか何だ本命ってのは、一体それァどこのどいつだ!? 「はっ、冗談じゃねえ!出来るもんなら俺にも拝ませてみやがれその本命とやらををを!!!」 こめかみにビシッと青筋を浮かせ、いかにも非情そうなドス暗い笑みに口の端を吊り上げ、 土方は泥まみれの指での頬をわしっと掴む。 虚しい。虚しすぎる。ここまで報われない自分がいっそ哀れだ。 もうどうにでもなりやがれ、と、溜まりに溜まった怒りをぶつけるかのように、ぎゅううっっ、と力一杯に振り絞った。 「いだっ、いだだだだだっっ、いだいいい!!!ぁによぉっっ土方の乱暴者ぉぉ!バカハゲボケヘンタイぃぃぃ!!!」 「んだとコルァ。俺のどこがボケだ!ボケはてめえだろーがボケは!!つーか俺ぁ一切どっこもハゲてねえ!!!」 「違いますうう!!今からハゲになるんですうう!!! これ以上色男の副長さまに騙される被害者女性が増えないよーに、あたしが今ここでハゲにしてやるんですうううう!!!!」 頬の痛みに手足をバタつかせてのたうち回りながら、涙目のが憎たらしげに叫ぶ。 負けずに土方の髪をがしっと掴み、彼の毛根が悲鳴を上げそうなほどにグイグイと引っ張った。 二股をかけられた憐れな女が、涙に暮れて男の不実を嘆く姿・・・にはどう見ても見えない。 言ってることもやってることもどっちもどっち、大人気がないどころではなかった。小学校の休み時間にも劣る 低レベルの争いである。今やTVのコント以外ではお目にかかれない、絶滅しかけた往年の決め台詞 「お前の母ちゃんでーべそー!!!」がどちらかの口から飛び出すのも、もはや時間の問題か。 「・・・?ちょっとお。一体何やってんのよあんたたち」 とそこへ、掴み合った二人が喚いているアパートの門をくぐって、一人の女が現れた。 雨にぬれた鮮やかな紫紺の番傘をひょいと上げて顔を出し、呆れた目をして小首を傾げているのは 屯所からも程近い花街にある置屋で看板を上げているの友人、芸妓の小菊である。 「こっ、小菊姐さん・・・!」 「ずいぶん楽しそうねえ。何の修羅場?それとも童心に還って泥遊び? いいわねぇ、あたしも混ぜてもらおうかしら」 黒地の着物に銀糸の刺繍を散らした華やかな帯をあしらった、普段着姿も艶やかな彼女は、 舌打ちして背を向けた土方に視線を移す。その不機嫌そうな背中にもまったく臆することなく近寄って、 頭から泥を被ったその姿をじっくりと眺めた。にんまりと意地の悪そうな微笑を浮かべ、ぽん、と軽く彼の背を叩く。 「どうなさったんです副長さん。ずいぶんと珍しいお姿だこと。 水も滴るいい男、と言いたいところだけど・・・ここまで泥に浸かっちゃうと、折角のいい男も台無しねえ」 ぷっ、と吹き出した口許に手を当てて、小菊がくすくすと笑い出す。 からかわれた土方は内心ムッとしていたが、表情には出さずに皮肉で応えた。 「あんたこそどうした、えらく暇そうじゃねえか。芸妓は座敷で商売に励んでる時間だろ。それとも不景気で干されたか」 「あーらとんでもない。あたし最近、色々と運が良いのよ。新規のお客様からもお呼びがかかったり、 人数合わせで仕方なく出た合コンで、・・・・・・・・あ、そうそう、ねえ、運がいいって言えばさあ。見てよォこれ」 自慢げに言いながら着物の袂に手を差し入れた小菊が、二人の前に開いた手のひらを差し伸べる。 土方とは彼女の手のひらを見下ろし、二人揃って目を釘付けにさせられた。 そこに――小菊の手に載っていたのは、ピンクに透ける石が嵌められた銀色のリング。 いくら探しても見つからなかったあの指輪が、雨露を滴らせて光っていたのである。 「可愛いでしょ?そこで拾っちゃったのよ。ほんっと、珍しい落し物もあるもんよねえ〜〜!」 泥まみれな土方とのいきさつなど露知らず、珍しい落し物を拾って上機嫌な小菊を前に、 二人は驚きに目を見開き、互いに顔を見合わせたのだった。 「――まぁ、要はねえ。これがケンカの原因だったってわけよ」 しみじみとした口調で言いながら、小菊は飲んでいた紅茶のカップをソーサーに戻した。 窓辺を彩るのは白いレースのカフェカーテン。 テディベアだのうさぎだののぬいぐるみが各所で色どりを添えている、可愛らしくもメルヘン趣味な内装。 ここは屯所からも程近い例のコスプレカフェ。がバイトしているあの店である。 今日も笑顔を絶やすことなく「ご主人さま」をもてなしている店員の女性たちは、全員が色とりどりのミニスカメイド服に 身を包み、片手にはトレイ、もう片手には先に星形のライトがついたピンクのスティックを持っている。 ・・・どうやら今日は、一部マニアの間で大人気の美少女メイド変身アニメのコスプレで制服が統一されているようだ。 平日の昼間だというのにそこそこの繁盛ぶりを見せる店内は、今日もほぼ男性客ばかりで占められている。 唯一の女性客―――店の一角で席に着いている小菊は、顔の前で右手をぱっと広げた。 右手薬指に嵌めたものを、前に座る男に掲げて見せる。 「へーえ。こんなデケぇ石初めて見たぜ。すげぇ指輪じゃねーですかィ」 いかにも感心したようすで大きな目を丸くした沖田は、とぼけた表情で指輪をしげしげと見つめる。 昼前からこの店に入り浸っているのだが、どうやら非番ではなさそうだ。 上着は脱ぎ、首元に巻くスカーフも席の横に放り出してはいるが、一応お馴染みの黒い隊服姿ではある。 テーブル上にはすでに食べ終わって空になった皿やらグラスやらが、おびただしい数で積み上げられていた。 目の前には食べかけのオムライスの皿。さっきが書いた「サボってないで仕事しろ!」のケチャップ文字は 半熟の卵焼きの上にまだ残っている。口許では、咥えたフォークの柄がふらふらと、遊ぶように揺れていた。 「さすがは引く手数多の売れっ子芸者さんだ。で、そいつはどこの御曹司に貢がせたんです」 「やーねぇ貢がせただなんて。違うわよォ、そんな色っぽい話じゃないのよ」 「てえこたァ自腹でお買い上げですかィ。ますますすげーや。花街の稼ぎ頭は持ってるもんも他の女とは違わァ」 「お世辞はいいわよ隊長さん。それにね、これはあたしの稼ぎで買ったんじゃないの。 うちの置屋のお母さんから誕生日祝いに貰ったもんなのよ」 テーブルにその手を下ろし、小菊はあらためて指輪を眺める。 数か月前にサイズ直しを終えて手許に戻ってきたそれには、多面体にカットされた大きな緑色の石が燦然と輝いている。 「派手な石でしょ?お母さんがまだお座敷に上がってた頃に、どこぞのお大尽さまから頂戴したんですって。 でも派手すぎて今じゃ使う機会もないからってんで、あたしがお古をありがたく戴いたんだけどさあ。 お母さんの指のサイズじゃ小さすぎて入らないのよ。だから馴染みの宝飾店でお直ししてもらうつもりで――」 そう、確かあの夜は休日で、小菊はと飲みに出掛けていた。 そこで話のタネになったのがこの派手な指輪だ。小菊はサイズ直しに出す前だったこの指輪をその夜も持ち歩いていて、 これを譲って貰うに至った成り行きを、酒の肴代りに話したりもした。 そのうちに、酒に弱いはいつものように顔を真っ赤にして酔い潰れてしまい、とは真逆に酒豪な小菊は いつものように拾ったタクシーに同乗して、彼女をアパートまで送り届けた。その夜はそのままのアパートに 泊ることになったのだが、その時、何かのはずみで指輪を寝室に置き忘れてしまったのだ。 「それからなかなか会う機会がなくて、しばらく家で預かってもらってたんだけど。 その間に家に泊った副長さんがこの指輪を見て、のもんだと勘違いしたってわけよ」 「てえこたぁ、つまり、・・・・・・ 土方さんはあんたの指輪をのもんと勘違いして、その指輪での指のサイズを確かめたつもりになって、 に贈る指輪を買いに走ったてぇことですかィ」 「そうそう、そうなのよ。つまりはそーいうことなんだけどさ。・・・あの兄さんが、指輪を買って すぐにに渡してたんなら、ここまでややこしい話にはならなかったのよねえ」 「・・・?どうややこしいんでェ」 「笑っちゃうわよ。だって半年よ?半年!おたくの副長さんたら、あの指輪を半年近く持ち歩いてたんですって」 それを聞いた沖田の目は、驚きにぽかんと大きく見開かれる。 すぐに取り澄ました表情に戻りはしたが、それでもその目は、ほんのわずかに、不愉快そうに細められていた。 小菊は素知らぬふりで紅茶を一口飲み、話を続けた。 「すぐにに渡すつもりが、がいきなり家出したり、戻って来たら来たで他に揉め事が起こったりで、 渡す機会をすっかり逃しちゃったらしくてね。本人は「忙しくて渡し忘れてただけだ」なーんて言い訳してたけどさあ。 毎日持ち歩いてた人が言うことじゃないわよねえ。――まあ、はそんなの全然気にしてなさそうだったけど」 気にしていなかった、・・・というよりは、もしかしたら、には土方の言葉が聞こえてすらいなかったのかもしれない。 あの時のは、土方のしどろもどろな苦しい言い訳に耳を貸すどころではなく大泣きしていたのだ。 滅多に口を割りたがらない男の本音を知り、ずっと思い悩んでいた疑惑が一挙に晴れたことで、よほど安心したんだろう。 半年にも及ぶ意外と女々しい行状を白状させられ、恥ずかしさで逆ギレ寸前の土方が「いつまでも泣いてんじゃねえ」と 頭をペシペシ叩いても、そんな土方に笑いをこらえて肩を震わせながら小菊が宥めても、の涙は止まることを知らなかった。 大粒に変わってきた雨の中で、冷たい地べたにぺたんと座り込み、うずくまったままで泣き続けた。 結局、いつまで経っても泣きやまないに根負けした土方が彼女を担ぎ上げ、不満たっぷりな仏頂面でアパートへ運び、 三人はようやく雨を凌げる屋根の下に入ることが出来たのだ。 ちらりと正面に座る沖田に目を向ける。 興味なさそうにフォークの先でつつくだけだったオムライスを、ふてくされた表情でパクパクと頬張っていた。 小菊はテーブルに頬杖をつき、ふふっ、と笑って柳眉を下げた。 がこの子を可愛がるのも判る気がした。小生意気で何を考えているのかわからない、 爆弾並みに危ない弟でも、こうしているとどことなくあどけない。 「そりゃーそうよねえ、ほっとして泣きたくもなるわよォ。 彼氏の服から、自分にはちっとも合わない指輪が出てきたんだもの。どんな女だって真っ先に浮気を疑うわよ」 「フン。浮気疑惑が解けねえまんまでフラれちまえばよかったんでィ、あの野郎」 「そーねえ。もしも指輪が見つからなかったら、もっと話がこじれてたかもしれないわねー」 ほんと傑作よねぇ、と笑い上戸な小菊はこみ上げたおかしさに表情を緩め、手元のカップを見下ろす。 温かな湯気を昇らせている澄んだ蜜色の水面を眺め、ふふっ、と思い出し笑いに肩を揺らした。 に泣かれて弱っている土方の姿も、見ていて充分可笑しかった。けれど、それ以上に彼女の笑いのツボを 刺激しているのは、あの厳めしく構えている土方が、女に内緒で指輪を贈るために影で奮闘していたという事実である。 普段は背後に屈強そうな隊士を引き連れて市中を闊歩している、あの「怖い顔した副長さん」が、女の目を盗んでこっそりと サイズ確認のために指輪と睨めっこしていたり、いざ贈ろうと指輪は買ったものの、それを渡すタイミングを掴めずに 日々悶々と機を伺っていたかと思うと・・・その姿を想像しただけで可笑しくって可笑しくって、笑いがこらえきれなくなった。 「おかえりなさいませ、ご主人さま」 大きく扉が開き、入り口で控えていた数人のメイドが、お決まりの文句に声を揃える。 出迎えられた客が速足に踏み込み、入り口前で足を止めた。店に入るなり、鋭い目つきで店の中を見回しているのは 黒い隊服の腰ポケットに手を突っ込んだ咥え煙草の男。土方である。 どうやら沖田を探しに来たらしい。スプーンを口に咥え、とぼけた顔で店の奥に座っている沖田を見つけた彼は、 ぴくりと片眉を吊り上げ、やっぱりここに居やがった、とでも言いたげな表情で睨み据えた。 それからにこやかに手を振る小菊と目が合い、うんざりしたような顔つきで渋々の会釈を返し、店の中をさっと見渡す。 そこへ「土方さん」と声を掛け、が嬉しそうに急いで駆け寄ってきた。 少しはにかんでいるような、恥ずかしそうな表情で彼の前に立ったは、 ピンクのメイド服の襟元に仕舞われていたネックレスのチェーンを指で摘んだ。 細く編まれた金色の鎖の先に輝いているのは、小さな星のチャーム。そして今日は新たに、もうひとつの輝きが揺れていた。 サイズが小さすぎて彼女の指を通らなかった、あの銀のリングだ。 が土方を見上げて何かを告げる。土方のほうも苦笑気味に表情を崩して口を開き、彼女の胸元で揺れる指輪を指先で弾いた。 するとはもう一度リングを見下ろし、心から嬉しげに顔をほころばせて彼を見つめた。大きな瞳が輝いている。 それを遠目に眺めながら、小菊もにっこりと微笑んだ。 友達の幸せそうな様子を目にしたら、自分も嬉しさのおすそ分けを貰ったような気分になったのだ。 「あの指輪。野郎は何て言って渡したんです」 「何てって、・・・そーねえ、たいした意味はねえ、とか、誕生祝い代りだ、とかなんとか。 下向いてボソボソっと、渋々で白状ってかんじ?なーんか言いにくそうにしてたわねえ」 「それだけですかィ」 「ええ、それだけよ。が泣いて喜んでたから、何か言いたそうにはしてたけどね」 口が重くて用心深いあの兄さんのことだ。 興味津々の口が軽そうな女が横で見てたんじゃ、とても言う気になれなかったんだろう。 あたしが言えたことじゃないけれど、あの兄さんもまだまだ修行が足りないわね。 と、小菊は心の中で付け足した。 それにしたって、よくもまあ。あんなしれっとした顔で言うもんだわ。 どこが「たいした意味はねえ」んだか。わざわざの好きなあのブランドを選んでるあたりといい、 箱が擦りきれちゃうくらい長い間持ち歩いてたあたりといい、どう見たってあれが只の誕生日祝いとは思えない。 本気で買った類の指輪―――いよいよ腹を据えてプロポーズでもするつもりで買った、勝負指輪にしか見えやしないわよ。 「あーあァ。まどろっこしいわねえ・・・」 ちょっと呆れているような独り言を漏らしながら、小菊は遠い目で土方を眺める。 あの兄さんも兄さんだわ。いくらあたしの目が気になったからって、どうしてあそこで二の脚を踏むんだろう。 まさかこの期に及んで、に逃げられるとでも思ってんのかしら。それとも―― と、持ち前の観察力と女の勘で、あらゆる方向へと推測を広げかけたのだが。 そこで江戸の花街に生きる女の、商売上の鉄則が頭をよぎった。きまり悪そうに肩を竦め、紅茶に口をつける。 いけないいけない。 こっちも副長さんのことは言えないわ。あたしもまだまだ修行が足らないらしい。 粋を極める芸者稼業には、野暮こそ禁物だってえのに。 反省混じりに思い直して、沖田の様子をちろりと横目に確かめる。 すっかりとぼけた顔を気取ってはいる。だがなんとなく、口に運ばれるスプーンの動きが さっきよりも少し速まっているようにも見える。 ここにもいるわね、修行が足らない男が。――と、内心可笑しくなりながら、ある男の顔を頭に浮かべる。 小菊にとっては十年来の腐れ縁の男だ。 には「恩人」と慕われているが、彼としてはその微妙な立ち位置はどうにもむず痒いはずだ。 さあ、指輪の話を聞きつけたなら、あいつはどう出るかしらねえ。 こちらも修行の足らなさそうな銀髪の男の、だるそうで気抜けした顔を思い出しながら、朗らかに声を掛けた。 「気になるわねえ?隊長さん」 「別に。」 素っ気なく答え、沖田は早くも完食したオムライスのスプーンをぽいっと皿に放る。 食べ終わるや否や、すぐに窓際に立てられたメニューを開いた。まだ何か食べるつもりでいるらしい。 「ところで隊長さん。さっきからすごい食欲ねえ」 「まあね。・・・・こいつはやけ食いみてえなもんです。どうも面白くねえもんで」 「こんなに食べまくって大丈夫?さっき「給料日前で金欠だ」って言ってたじゃないのよ」 まさかあたしに奢らせようってんじゃないでしょうね。 眉間を曇らせ、顔色を変えた小菊が尋ねると、沖田は目を走らせていたメニューから顔を上げる。 端正に整った少女のような顔に、にやり、とふてぶてしい笑いを浮かべた。 「そいつァ心配いりやせん。あそこにいいカモが来てますからねィ」 と言いながら斜め上を見上げ、目線で土方を指してみせた。 何も知らない土方は、まだ入り口前にいる。と立ち話を弾ませているようだ。 いつも通りに無表情な咥え煙草の男は、いつも通りに冷然とした態度ではあるのだが、たまにの言葉に 表情を緩めたり、和らいだ視線で彼女を見つめたりする瞬間には、いつになく機嫌の良さそうな気配が見え隠れしている。 ああ、そういうこと、と苦笑して、小菊は含みのある表情で沖田に目を細めてみせる。 も大変だ。末恐ろしい子に惚れられたもんだわ。 まあ確かに、コスプレカフェでの些細な無駄遣い程度、今のあの兄さんには痛くも痒くもないだろうけどね。 「ああ。そーだ、いいこと思いつきやしたぜ姐さん。 あんたも野郎のおかげで騒がせられたんだ。姐さんの勘定もまとめて面倒みさせてやるってえのはどうです」 頬杖をついた小菊の紅唇の端が、意味深に大きく吊り上がった。 「あら、いいわね。乗った」 沖田が手にしていたメニューを「どうぞ」と両手で差し出してくる。 彼にしては珍しく紳士的な、仕えている女王人を敬うような丁寧な仕草である。 裾に白いフリルを重ねたオレンジ色のメイド服の女性に声を掛けると、彼女はテーブル前に膝を折り、にこやかに応じてきた。 二人はメニューに目を走らせ、あれこれと、到底食べきれない量の注文を頼んだ。 どうもご馳走さま、副長さん。 久しぶりに見るの心からの笑顔も、これも、ちょっとした幸せのおすそ分けってやつよね。 「ご注文は以上でよろしいですか、ご主人さま」 笑顔を添えて尋ねてくるメイドの手許で重ねられた数枚の伝票を眺めてから、小菊は愛嬌たっぷりに「はい」と答えた。 それから、彼女と似たような表情でスプーンを咥え、プラプラと柄を揺らしている 沖田と顔を見合わせると、美しくも意地の悪そうな、悪魔の微笑を交わし合ったのであった。
「 ご主人さまと受難の日々 」 *end text by riliri Caramelization 2010/03/20/ ----------------------------------------------------------------------------------- 「触れる…」の最後に出てくる「小箱」のオチです や どのへんでオチてるんだかわかんないけど! まだ半分しかオチてません このネタが本当にオチるのは 指輪の本来の意味に主人公が気づいた時 ですか 副長が指輪を買うまでの前哨戦は 過去clap の11と12を どぞ。