「――なんて嬉しい偶然かしら、こんなところで土方さんに会えるなんて!今日はお休みなんですか?」 「あ、あぁ、それはともかくだ、悪いが少し離れ」 「ここには何のお買い物で?何を選びにいらしたの?」 「ぃ、いや待て、待ってくれ、ちったぁ話を聞い」 「男の方が身に着けるものなら……そうね、腕時計かしら?それともアクセサリー? このブランドって男性用アクセサリーも有名ですものね!よかったら私、選んでさしあげましょうか」 「・・・・・・」 ・・・・・・ついてねぇ。何なんだ。 よりによってこんなところで、この面倒な女と出くわすとは。 こちらへ駆け寄ってきたかと思いきや、まるでそうするのが当然であるかのように 土方に抱きついてきた女は、彼の言い分に僅かばかりでも耳を貸す気はないらしい。 顔を合わせた瞬間から一方的な質問責めで彼の主張を封じ込み、黒い羽織の左袖に ぴったりと絡みついてしまった強引な美女。とある店で顔見知りになったその女を うんざりしきった目つきで見下ろし、土方は心中で悪態を吐く。 ――ああ畜生、ついてねぇ。どーなってんだ。思えば今朝目が醒めた瞬間から、 俺は調子が悪かった。そのせいかどうかは知らねぇが、朝から妙な災難ばかり降りかかってきやがる。 寝惚けて風呂に引きずり込んだ女には顎下を容赦なく殴られたし、 こんなところで偶然会った水商売の女には、何があっても離すものか、 とでも決め込んでいそうな意気込みでひしっと腕に縋られている始末だ。 (ひょっとして今日の俺には、水難と女難の相でも出てやがるのか・・・?) 占術だの験担ぎだのの類は基本的に信用しない土方だが、そんなくだらない疑いまで 頭の片隅へ浮上してくるのだから、我ながら馬鹿らしくて嫌になる。 しかも最悪なことに、すぐ後ろの呉服屋では、本命の女が――が着物を試着中だ。 肩越しにそろりと背後を振り向いた彼は、白く輝くショーウインドウを睨みつける。 硝子越しに店内の様子を凝視する険しい目許には、過激派攘夷浪士も怖れを抱く 「鬼の副長」の肩書きには相応しくもない焦りと狼狽、そして一粒の冷汗が滲んでいた。 ・・・・・・いや。待て。ちょっと待て。何を焦ってんだ、おかしいだろ。 つーか違げーだろ。どうして俺が狼狽えなきゃならねぇんだ? そもそも俺はこの女に対して、迷惑だと感じる以外に何の感情も抱いてねぇ。 手を出した覚えは勿論ねぇし、これから出そうなどという気も一切無ぇ。正真正銘、誓って潔白だ。 だというのにこの気分は一体・・・何だ?何だってぇんだ?じわりじわりとこめかみに 汗が浮いてくるこの気まずさは。まるで、本妻との買い物中に 浮気相手に出くわした下種野郎にでもなった気分だ・・・! 「・・・それでね、私、見た目よりそそっかしいねってよく言われるんですけど、 本当にそうなの。お店でこのチェーンを引っ掛けて壊しちゃって」 宝飾品店を訪れた訳を甘えた口調で説明しながら、女は指先を衿元にしのばせる。 宝石のようにきらきらと光るピンクの爪先が勿体ぶった仕草で摘まみ出したのは、 金のチェーンに雫型の青い石が幾つも連なるネックレスだ。 「それを見た馴染みのお客様が「君にはもっと豪華なほうが似合うよ」って、 チェーンのお直しと宝石の追加を頼んでくださって・・・あら、いやだわごめんなさい、 私ったら自分の話ばかりしちゃって。土方さんもこのお店にはよく来られるんですか?」 「あ、ああ、それよりあれだ、ここで立ち話も何だし――他に場を移さねぇか」 「ふふ、土方さんたら、さっきからずっと周りを気にしてらっしゃるのね。 私とここにいると何かまずいことでも?」 「・・・いや、そういう訳じゃねぇんだが」 媚びた笑顔で尋ねられ、土方は彼女の首元あたりへと視線を逸らす。 髪を緩く結い上げた襟足から立ち昇ってくるのは、甘ったるさが鼻につく個性的な香りだ。 気付かれない程度に眉間を寄せた彼は、ちらりと呉服屋の入口付近を確かめる。 不幸中の幸いとでもいうべきか、の姿は見当たらない。だが―― やばい。まずい。不味すぎる。 こんな主張の激しい移り香を付けたまま、あいつの元へ戻ってみろ。 ただでさえ思い込みが激しいのことだ、俺にあらぬ疑いを掛けてくるに違いない。 大体、付き合う以前からしてそうだったのだ。あれは俺の周囲に漂う女の気配をひどく気にする。 只の上司と部下だった頃も、とっつぁんの夜遊びに付き合った次の日は大抵様子がおかしかったし、 今でもとっつぁんに繁華街中を引き回された後でぐったり疲れて屯所へ帰れば、 布団に籠って膨れている女の目許が兎のように赤くなっている。夜の街で知り合った女と 挨拶程度に会話しただけで、浮気だ何だと拗ねられて喧嘩になったこともある。 そんな風にちょっとした事でも過敏に反応するあれが、もしここで罷り間違って店から出てこようもんなら―― 冗談じゃねぇ、と声を低めてぼやいた彼は、延々と喋りかけてくる隣の女に溜め息を吐く。 ・・・あぁ畜生。間が悪いにも程がある。 折角がその気になりかけている今この時に、なぜこの女と、ありもしない浮気疑惑など掛けられなければならないのか。 (出来るもんなら今すぐにでも、この女の腕を振り払いてぇ・・・!) つーっ、と額に一筋流れる冷たい汗を感じながら、土方は顔を引きつらせる。 しかし彼には、黙って堪える以外に選択肢がなかった。 堪えてやるほどの恩義も無い傍迷惑な女だが、このホステス嬢とはあまり波風を立てたくないのだ。 なぜならこれは、警察庁長官である松平が贔屓にしている店の女。 酒も肴も席料も桁違いに値が張る、あの高級会員制クラブのホステスだ。 ここで俺があまり無下に扱っては、あの店でのとっつぁんの評判にも関わってくる。 に誤解されるのも不味いが、それも不味い。破壊神、などと呼ばれる物騒な上司に 機嫌を損ねられては面倒だ。何より今は、とっつぁんの不興を無駄に買っていられるような局面じゃねぇ―― 「ねぇ土方さん、次はいつうちの店に来てくださるの? 最近ちっともお顔を見せてくれないから、すごくさみしかったんですよ。 ところで今日はお一人で?ご一緒してもいいかしら」 「いや。悪いが上の階に用が」 「あら偶然ね、私も上の階でお茶したいなぁって思ってたところなんです」 「・・・・・・」 「お酒も飲める雰囲気のいいお店があるんですよ。ねぇ、どうかしら。 今日はこのまま私とデートしてくださらない」 女は意味ありげな笑みを口許に浮かべ、抱きついた男の腕に胸を摺り寄せてくる。 自分がこうして誘ってやっているのだ、男の側に断る理由などあるはずもない。 そう信じて疑いもしていないような態度は彼女の香水同様に鼻につくものだったが、 土方にしてみれば女の傲慢さや鼻持ちならなさに目を向けているどころではなかった。 こうしている間にもが店から出てくるのではないかと思えば、 隣の女よりも呉服店のほうが気になってしまってしょうがない。 ――さぁ、どうする。あくまでこれは予想だが、俺がこの女に「離れてくれ」と 頼んだところで無駄だろう。俺の意向など完全無視で、自分本位に話を進めるに違いない。 であればここは女の誘いに乗ってやるふりをして、他の階に場を移すのが最優先だ。 羽織に移ったしつこい匂いにも、今は目を瞑っておくか。・・・後であいつにゴネられそうだが。 「生憎とあまり時間がねぇんだ。まぁ、一杯程度なら付き合ってもいいが」 「そうなの、残念だわ。でもいいわ、一杯だけでも。 その間はわたしが土方さんを独り占めできるんですものね」 次は必ずデートしてくださいね、と鼻にかかった甘え声で囁いた女が、 きつめな香りと豊かな胸をぴたりと密着させてくる。 この香りに気付いた時のの反応を予想してすっかり苦々しい顔になった土方が、 それとなく彼女から離れようとしていると―― 「・・・・・・ぁっ、ぁあああのっ。ぉおおぉお話し中に、ごめんなさ、っっ。 〜〜〜〜とっっっ。っっっとととととっ、っとととぅ、しろ、っっ、さんっっっ!」 「――っっ!!?」 唐突に背後から浴びせられた、女の声。 それは上擦っていて噛みまくりだったが、土方にとっては 他の誰かのものとは聞き間違うはずのない声で―― ぎょっとした彼は、思わず肩を震わせて絶句する。と同時で、 額や背筋にぶわぁっと冷汗が噴き出す気味の悪い感覚に見舞われた。 「あら、今、十四郎さん、って・・・土方さんのお知り合い?」 「〜〜〜っっ、っっあ、あぁ!?」 不思議そうに見上げてくるホステスの視線を素早く避け、だらだらと全身に汗を流しつつ口籠る。 (しまった、だ。あいつ、いつの間に店から出てきやがった!? つーか後ろに居たってこたぁ・・・まさか、聞かれちまったのか?この女との会話を!?) 心中で呻いた土方の脳裏に、「絶体絶命」の四文字が浮かぶ。 何の対策も纏まらないままごくりと固唾を呑んだ彼は、 目許や口許の不自然な痙攣を止める余裕すらない状態で振り向く。 するとそこには予想どおりにが立っていたのだが、 「っっっ!!!?〜〜〜ぉっっ・・・お前・・・っ!?」 「ひぃぃっっ!!」 振り向いて視線を合わせた瞬間、再び彼は絶句した。 土方とほぼ同時で振り返ったホステスも悲鳴を上げ、飛び退くようにして彼の腕から離れていったが、 そちらを気にするどころではない。目の前に居るのは確かにだ。 ところが普段の彼女ではなく、まるで般若のような形相の女。 口端は笑みの形に吊り上がっているが終始わなわなと震えているし、 真っ赤に染まった目許や頬もガチガチに強張って痙攣し続けている。 それも、土方以上の激しい痙攣っぷりで。さらに見る側の 恐怖と戦慄を煽るのは、ただでさえ人並み外れた大きさの目玉が 今にもぽろりとこぼれ落ちそうなほどにひん剥かれている点だろうか。 そんな現在のの怖ろしさが一体どれほどかというと、フロア中央の 休憩用スペースのソファでくつろいでいた老人が、を目にした瞬間にびくぅぅっと 大きく震え上がり、「ひいぃぃぃ!鬼じゃあああ!鬼が出おったぁぁぁ!!」と 絶叫して逃げ出したり、通りすがった買い物客たちがわざわざ足を止めてざわつくほどだ。 (・・・・・・駄目だ。終わった。完全に詰んだ・・・!!) ごくり、と再び喉を鳴らした土方の背筋には、今やだだーっ、と滝のような勢いの冷や汗が。 間違いねぇ、こいつ完全にぶちキレてやがる。笑いながら怒っているような表情に、 邪悪そうな狂気が滲み出た目。かああぁっと全開した白目の血走り具合まで、あの時と寸分変わらない。 そう、俺がこいつに指輪を贈ろうとして謂れのない浮気疑惑を掛けられちまった時の、こいつの顔と・・・!! 女の表情の凄まじさに思わず気圧され、じりっと一歩後ずさる。すると、 「――副長、副長っ」 後ろから肩を叩かれた。ぎぎ、ぎぎぎ、とガチガチに強張った首を ロボットのようなぎこちなさで回して振り向けば、そこにはメイドに扮した監察が。 「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ、安心してください」 「あぁ!?てっっっめぇ何見て物言ってやがんだ、安心だと?あれのどこに安心しろってぇんだ!?」 こそこそと耳打ちしてきた山崎に血相を変えて土方が怒鳴れば、 女装姿の監察は「しーっ、聞こえますって」とあわてて彼を引っ張った。 そのまま土方を数歩下がらせてとホステス嬢から距離を取ると、 「まぁ安心するには程遠い見た目ですけどね、大丈夫ですよ。 あんなおそろしい顔になってますけど、さんは別に怒ってるわけじゃないですから」 「んなわけねーだろどう見ても激怒してんだろ紛うことなき般若降臨だろ、 しかもあいつ、んなとこにわざわざ首突っ込んできやがっ――、」 はっとした表情になった土方が、メイドを見つめて黙り込む。 しかし三秒後にはかああぁっ、と瞳孔全開で目を剥いて、メイドの手から女物の帯揚げを素早く強奪。 女装姿の監察の首に帯揚げが超高速で巻きつけられ、あれっ、と山崎が目をぱちくりさせながら 顔を上げた時には、眼光鋭く彼を見据えつつ帯揚げの両端を握りしめた鬼の姿が目前に。 「ちっ」と凄まじい怒気を放ちながら舌打ちした彼の上司は、 薄い布地が千切れんばかりの馬鹿力で一気に帯揚げを引き絞って、 「〜〜〜っっぅぐううううっっままま待っちょっ副長っっ っっままっマジでくるしししんぐぐくくっ首折れるぅぅしししぬしぬしぬううぅぅぅぅっっ」 「おいィィ山崎ぃぃぃ正直に吐きやがれ!あれぁまさかてめえの入れ知恵か!?」 「えぇぇ!!?いやいやいやっっ違いますってぇぇ、言い出したのはさんで、 俺はちょっと助言しただけですってぇぇぇっちょっくくくぐるしししぬうぅんぐっんごご、――っっ!」 呻くようにして答えれば、「あぁ?助言だぁ?」と凄んだ土方が帯揚げからぱっと手を離す。 喉に食い込みぎりぎりと締めつけていた布は瞬時に緩み、極度の酸素不足で窒息寸前、 顔が青紫色にまで変色していた山崎は、どどっ、とその場に尻餅をついた。 「おいコラ今何つった。助言だと?ほら見ろやっぱりてめえの入れ知恵じゃねぇか!」 「〜〜っごほっ、っぉ、俺じゃありませんって、っっふ、副長が、あの子に、困らされてる、 って話をしたら・・・げほっ、ごほっっ、さんから、ぃ、言い出したんです、よっ。 ふ、副長が、困ってるなら、助けたい、けどっ、どうやって助けたら、いいのか、わからな・・・ごほっ、 っど、どうしたら、いぃか、教えて、くれ、って、っ」 「・・・!」 喉を押さえてゲホゲホと咳込む監察に目を見張り、思わず土方は振り返る。 意外そうにを見つめる上司の反応が面白くて、山崎は息苦しさに喘ぎながらもこっそりと笑った。 「そ、それならちょうど、奥さま役を、つっ、務めてるところだし・・・っ、 いっそ、ぁ、あの子の前でも、演じてみたらどうだろう、って話に、げほっ、なったん、ですよっ。 さんが奥さまらしく、挨拶、したら、少しはあの子を、牽制できそうじゃ、ないですかぁ」 「はぁ?挨拶だぁ?いや違げーだろ。 あれのどこが旦那の知人に挨拶しに来た嫁の面構えだ?どっから見ても 怒り狂った鬼嫁だろーが、旦那と女を呪い殺す気満々だろーがぁぁぁ!!」 「んごっっっっ!!」 百貨店の高級ブランドフロアにはまったく相応しくもない、鈍い打突音が鳴り響く。 ぎりぎりと歯噛みしながら振り向いた土方が、メイドの頭に全力で拳を振り下ろしたのだ。 しかも一発殴っただけでは気が済まなかったらしい土方は「てっめえええぇぇぇぇ、 余計な真似しやがって・・・!」といまいましげな舌打ち付きで唸りつつ、 メイド用ワンピースの胸倉を鷲掴みした。山崎の頭上のヘッドドレスが外れんばかりの勢いで、前後左右に揺さぶりまくる。 ところがぶんぶんと振り回されまくっている当人は、殴られた痛みに涙ぐみながらも 「いやいやだからぁっ、違いますって!」と否定して、 「見た目はたしかに鬼嫁ですけどっ、さんには怒る気も呪う気もないんですよっ。 顔がああなっちまってるのは偶然そうなっただけっていうか、いわゆる緊張の裏返しってやつで――」 「っっっひっ、〜〜〜ひひひ土方さんっ!?」 思わせぶりな微笑も強気な口調もどこかへ消え失せたホステス嬢が、 悲鳴じみた声で土方を呼ぶ。突如出現した般若の怖ろしさに 度肝を抜かれて硬直していた彼女は、今になってやっと我に返ったらしい。 必死に助けを乞う人間のような切羽詰まった形相で振り返り、あたふたと彼に飛びつきながら、 「〜〜こっ、こちらの方は?もっ、もしかしてお身内の方? ずいぶんと怖ろし……はっっ、迫力のあるお顔立ちねっ、ひょっとして、いっっ、妹さん!?」 「〜〜〜ぃ、いや、こいつはその」 どう答えるべきか迷った土方が、視線を泳がせ口籠る。 すると、甲高くて震えまくりな女の声が彼の代わりにホステスに答えた。 「っっつっ、つつつつつまっ、ですっっ。つっっつつつつつつっ妻のっっ、ですっっっ」 「えっ、つ、妻?まぁっ奥さまでしたのっ、 し、失礼いたしましたわたくし土方さんに御贔屓頂いている銀座の店の――」 怯えきった作り笑いに口元を引きつらせているホステスが、 ブランドものらしき箔押しのクラッチバッグから何やら取り出そうとする。 おそらくは、店で使っている名刺を自己紹介代わりに渡すつもりなのだろう。 紫色の小さなケースを探り出すと、店で客の相手をしている時とは 別人のようなぎくしゃくした手つきで蓋を開けて、 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぇ?・・・は?」 しかし濃いピンクの紙片を摘んだ途端に、ホステス嬢の輝く爪先は動きをぴたりと止めてしまった。 おそるおそる顔を上げた彼女は、まじまじとに目を見張る。 かと思えば土方以上に大量の汗をだらだらと顔中に流し始め、はらり、と床に名刺を落として、 「つっ・・・・・・妻?妻って、ぉっっ、奥さま!?あなたが!?土方さんの!!?」 「はっっ、はいいいぃぃぃっっ。ぃいぃぃい一応っ、これでもっ、 っひっひひひじひじひじかたのかかかかっかにゃかにゃ家内っ、ですっっ。 っっとととぅとととぅしろぅっ、さ、んがっっ、ぃっっ、いぃいいつもっお世話にっ、なななっておりまひゅっっ」 呂律は全く回らないながらもどうにか妻だと名乗りきると、 がばっ。 顔中を引きつらせて不気味に笑う般若顔の女が、長い髪をぶわぁっと振り乱す勢いで頭を下げる。 その迫力ある姿は連獅子を演じる歌舞伎役者や獅子舞などとも似通っていたが、 見る者に圧倒的な恐怖を与える、という点においては、子供心に一生もののトラウマを残すとの 説も囁かれる某地域の伝統行事「なまはげ」に匹敵するものが。 案の定、ホステス嬢は声も出ないようだ。土方が彼女の顔色を窺っても それとなく女二人から離れてみても、彼女のひん剥いた目は常にに釘付け状態。 噛みまくりながらもあれこれと話しかけてくる鬼嫁の前で、かちんと固まりきっている。 ズレたヘッドドレスを直していた山崎は、そんな女二人を眺めながら満足そうにこくこくと頷いていた。 「いやーよかったよかった、噛みまくってたけど教えたとおりの台詞は言えたしとりあえず挨拶成功ですね」 「いやおかしいだろ。あれのどのへんが挨拶成功だ?台詞以前に面が挨拶してるようには見えねぇだろうが」 「はははすいません、あれは俺のせいです」 監察は困ったような顔で笑い、さらに声を潜めて耳打ちしてきた。 「ほら、あの子のことだから、普通に挨拶したらさんを舐めてかかりそうじゃないですか。 だからここで正妻らしさを見せつけるべきっていうか、挨拶するならなるべく 毅然とした態度でいったほうがいい、何ならいっそ無表情で、ってアドバイスしたんですよ。 けどさん、意識的に無表情を作るのは苦手らしくて。いやぁ大変でしたよ、 何度練習しても般若が出現しちまうんだもんなぁ」 「・・・フン、やっぱりお前の入れ知恵じゃねぇか」 んなこったろうと思ったぜ、と土方は心中で溜め息を吐く。 もしも「無表情で」という指示がなければ、はいつもの愛想の良さを あの女にも振り撒いていただろう。しかし山崎の助言によって いつもの愛想を封じるしかなくなり、仕方なく演技に徹することにした。 日頃からふにゃふにゃと緩みっぱなしな表情筋を張りつめさせておくだけでも あれには相当な難題だろうに、女の前に居る限りは一瞬たりとも気を抜けない。 そんな緊張感のおかげもあって顔に過剰な力が入り、誕生したのがあの鬼嫁だった、といったわけらしい。 だが―― (ここまでやっても、の勝ち目は万に一つってぇところか) 目の前の女二人を見比べながら、土方は胸の内でひそかに勝敗を読んだ。 顔に全神経を集中させているおかげで、にとってのもうひとつの難題 「旦那を名前で呼ぶ」というミッションのほうまでは集中力が行き届かず、 緊張感溢れる女の声は震えまくりの噛みまくり。とてもじゃないが、 日頃から夫を呼び慣れている妻の声には聞こえなかった。 しかも、相手が悪すぎる。今回の対戦相手は、押しが強くて目敏そうな水商売の女。 これではバレるのも時間の問題だろう。そもそもあいつは馬鹿がつくほどの 正直者で、演技で人を騙す、なんて役目にはつくづく向かねぇ性分だ―― やれやれ、と肩を竦めた土方が羽織の内で腕を組んで、 「成功っつーには程遠くねぇか。つーか、見た目でどんだけ取り繕おうが 無駄ってもんだろ。あれぁ男の下心も見抜けねぇガキだぞ、 そのガキがどうやって百戦錬磨の玄人女と張り合おうってぇんだ」 くく、と僅かに緩めた唇から皮肉っぽい呆れ笑いがこぼれ落ち、羽織の肩が微かに揺れる。 呑気そうな見た目に反して抜け目のない監察は、 そんな上司を斜め後ろから物珍しげにしげしげと眺めた。 「へぇ、知りませんでしたよ。副長も嬉しい時は人並みに顔に出るんですね」 「あぁ?馬鹿言え、誰が嬉しがってるってぇんだ」 「あれっ、違うんですか。えらく上機嫌に見えますけどねぇ。 で、どうします。助け舟出してあげなくていいんですか」 「いや、折角あれがやる気出してんだ。嫁の初仕事を旦那が邪魔するわけにもいかねぇだろ」 「はは、やっぱり喜んでるじゃないですか」 「うっせぇぞコラ。喜んでねぇって言ってんだろ」 「いっっってぇぇ!〜〜っっちょっ、図星だからって殴るのやめてくださいよっっ」 斜め後ろへ突き出した拳でメイドの顔面に一発食らわせ、涙目で鼻を押さえる山崎と 小声でこそこそ言い合っているうちに、ホステスがくるりと彼等へ振り向く。 振り向いた女の顔に、土方も山崎も目を見張った。 まだ幾分か青ざめて見える女は、かろうじて笑顔だ。だがその笑顔が尋常ではないというか、 顔中の筋肉がひくひくと大暴れで痙攣しているかのような異様な表情で―― 「〜〜っっっもうっ土方さんたら人が悪いわ、いつのまにご結婚なさったの!? ぉおおおぉ奥さまがいらっしゃるなんて私っ、しっっ、知らなくて!」 「そうだわ下の階に用があるんだった、それじゃあまたお店で!」などと 震える早口で並べ立てた女は、今にもすっ転びそうな覚束ない足取りで走り出す。 彼女が目指した方向ではちょうどエレベーターの扉が開いたところで、 ホステス嬢は「10階へ参ります」と笑顔で案内する乗務員を押しのけるようにして あたふたと中へ飛び込んでいった。 「フン、口ほどにもねぇな」と、土方が鼻先で笑い飛ばす。 夜の街では名の知れた一流店の女王を目指すなどと嘯いた奴が、たかだか素人娘一人を前に白旗上げて敵前逃亡か。 職場の同僚たちを敵に回しても平然としていられる程度には図太いはずのあの女も、 怒り心頭に達していそうな般若顔の正妻とタイマン勝負を張る度胸はないと見えた。 まぁ実際のところ、あの女が怖れた「鬼嫁」にそんなつもりは欠片も無ぇんだが―― 緊張でガチガチになったの顔は、夫と腕を組む女に嫉妬した新妻が 激怒を隠して笑っているように見えなくもねぇか。 底意地の悪そうな笑みを浮かべてエレベーターが閉まる様子を見届けると、土方はに歩み寄る。 横から様子を窺ってみれば、エレベーター方向を見つめる顔は普段の彼女に戻っていた。 とはいえ、完全にいつもと同じというわけでもない。細い眉はやや曇り気味で、 どことなく心許なさそうな表情をしているあたりも気に掛かる。 怪訝に思った土方が、「おい、どうした」と小さな頭をぽんと叩く。 すると、きゅ、と羽織の肘のところを細い指先に掴まれた。 自分の頭に手を置いた男を不安そうな上目遣いで見上げたは、か細い声で問いかけてきた。 「・・・土方さん。ひょっとしてあたし、何かやっちゃった・・・?」 「あぁ?」 「どうしよう。何か気を悪くするようなこと言っちゃったのかな。丁寧に挨拶したつもりだったんだけど・・・」 「・・・・・・」 「それにあの人、なんだか気分悪そうで。顔色もすっごく悪かったし。あたしのせいだったらどうしよう」 「・・・・・・」 ああ、あれぁ間違いなくお前のせいだ。 …などとは言えず、土方は微妙な顔つきで黙り込む。やや間を置いてから 「さぁな。体調でも崩してたんじゃねぇか」と、どうでもよさそうに答えるに留めた。 土方の妻を演じきろうと必死だったは、どうやらその必死さのせいもあって、 自分が鬼嫁化していたことにも、そのおかげでしつこいホステスを 撃退できたことにも、全く気づいていないらしい。 気遣わしげにエレベーターを見つめる横顔は、さっき初めて 会ったばかりの女を心から心配しているようにしか見えなかった。 「――そうだ、こいつも包んでもらわないと。副長、俺、先に店に戻ってます」 自分の首にぶら下がったままの帯揚げに気付いた山崎が、呉服店へと踵を返す。 そんなメイドの背中を目で追ううちに、土方もふと思い出した。 に買った着物の支払いは最初の試着中に済ませてある。だが、 追加した髪飾りや帯の代金は未払いだ。屋上で一服してから払うつもりでいたからだ。 (このまま店に戻っちまえば――・・・ 一服するような時間は無ぇな。) フロア中央に飾られた大時計を仰ぎ見てから、羽織の袂から出した小箱をひどく残念そうに眺める。 それでもいじましく葛藤するヘビースモーカーはあれこれと思索を巡らせてみたが、 どう考えても屋上まで行く時間の余裕は捻り出せそうにない。 屋敷に戻らなければいけない時刻まで、あと小一時間といったところだ。 「・・・ちっ、とことんついてねぇな今日は。おい、店に戻るぞ」 不服そうに眉を顰めて口端を下げ、げんなりした顔で溜め息をついた土方が、 隣で立ち尽くす女の華奢な肩をぽんと叩く。一度取り出した煙草の箱は、 名残惜しさを噛みしめつつも羽織の袂へ差し入れた。 するとが振り返り、ちら、と一瞬だけ土方を見上げる。 口許に手を当てて何か考え込むような仕草を見せてから、 やがてほのかに頬を染め、彼の機嫌を窺うような目つきを向けて、 「ぇっと、あ。あの・・・どうでしたか? ・・・・・・あたし、ぉ、奥さまっぽかった・・・?」 「・・・・・・」 返答に詰まった土方が、無言ですーっと視線を逸らす。 ・・・無理だ。口が裂けても言えやしねぇ。 新妻役を演じるだけで精一杯だっただろうこいつに、誰が正直に言えたものか。 言えるわけがねぇだろう、「奥さまっぽいというよりは般若っぽかった」などと。 「・・・・・・そ、そっか。そうですよねぇ。やっぱり、そう上手くは、いかないですよねぇ・・・」 不自然に黙りこくった男の態度から、何かを感じ取ったらしい。 はしゅんとした表情でうつむき、華やかな着物を纏った肩を 申し訳なさそうに竦めていた。「ごめんなさい」と消え入りそうな声を漏らすと、 「・・・でも、あの、あたし、もっと頑張るから。 次はもう少し奥さまらしくやれるように、頑張るから。 すこしは土方さんの、役に立てると、思うから・・・ぁ、あの、えぇと、だから・・・っ」 口許から降りていった華奢な手が、帯の上辺を弄り始める。 彼女が不安になったり心細かったりする時に頻繁に見られるその仕草を ちらりと横目に盗み見て、土方はふっと双眸を細めた。 「――いや。よくやった。お前にしちゃぁ上出来だ」 「・・・っ!」 隣の女にしか聞こえない程度の声でつぶやいてから、小さな頭に手を伸ばす。 触れればさらさらと指の間を擦り抜けて流れ落ちる、なめらかで手触りのいい髪。 いつ触れても心地よく感じるその髪を指先でゆっくりと梳きながら、の様子を眺め遣る。 すると、萎れきっていたはずの女の表情は見違えるように変わっていった。 固かった蕾が陽光を浴びて花開いていくかのように徐々に綻び、 心底嬉しそうに土方を見つめながら、子供のように無邪気な笑顔をぱぁっと咲かせる。 そんな彼女を見つめながら厳しい目許を和らげて、土方は困ったような苦笑いを浮かべた。 胸の奥が苦しくなるような熱い思いが湧いてきて、ああ、またこれだ、と彼は心中でひそかにつぶやく。 ――こいつは気付いているだろうか。いや、どうせ気付いちゃいねぇんだろう。 こうして俺の前で屈託なく顔をほころばせる自分が、他のどんな時にも 比べられないほど嬉しそうな顔をしていることを。それから――そんなこいつを、俺がどんな思いで眺めてきたのかも―― 「ほ。ほんと?ほんとに・・・?」 「ああ。次も頼む、奥方殿」 「・・・・・・っ」 軽く曲げられた硬い指の節が、紅潮したの頬をくすぐるようにして撫でていく。 こちらを見つめて薄く微笑む男の表情に、いつになく優しく触れてくれた熱い指の感触に、 とくん、とくん、と彼女の心臓は高鳴り始めた。 ――土方の口から久しぶりに出た「上出来だ」の一言。 暫くぶりに耳にしたそれは、にとっては魔法の言葉だ。 副長附きの隊士として土方に付き従っていた頃にも、ごく稀に、 ほんの気紛れのようなタイミングで貰うことがあった、にとっての最高のご褒美。 いつ聞けるかもわからないこの言葉を、また聞きたい。たったそれだけのために 頑張れていた頃の嬉しさが、とくとくと弾む胸の奥から全身へと溢れ返って広がっていく。 ――そう、ずっと前からそうだった。出会った頃からそうだった。 滅多に人を褒めないこのひとが笑いながら言ってくれる、「上出来だ」の響き。 それを耳にする瞬間は、初めて名前を呼ばれたあの瞬間に引けを取らないくらいに嬉しかった。 いつだってとびきり嬉しかった―― 「・・・はいっ、十四郎さん」 思いきって顔を上げると、ははにかみつつも精一杯の笑みを浮かべた。 何か言いたげな潤んだ瞳でじっと土方を見つめながら、黒い羽織の袖口をきゅっと握る。 幸せそうなとびきりの笑顔に、男の腕に縋って甘えているような愛らしい仕草。 そして、惚れた女のやわらかな唇から恥ずかしそうに紡がれた自分の名前―― のすべてにどきりとさせられた土方が、周囲の状況もすっかり忘れて女の笑顔に思わず見蕩れる。 頭に一気に血が昇っていくのが自分でも判り、っっ、と呼吸を詰まらせた。 これだからこいつは、と心中で悔しまぎれに呻いた彼は、ふい、とから顔を背ける。 が折に触れて見せる少女のようなこの笑顔には、昔からどうも弱いのだ。 「えっと、あのね。ぁ、あの・・・・・・ありがとう。あたし、次も頑張るから」 「――・・・・・・っ」 ちょこんと首を傾げたが、黙りこくっている男の横顔を見つめながら話しかける。 ――さっきから――ううん、昨日からずっと、醒めない夢でも見てるような気分だ。 豪華な屋敷に逗留するという珍しい体験に、屯所の皆に混じって過ごした楽しい時間。 甘い香りと噴水の水音が漂う温室と、咲き乱れる花々の美しさ。 そこで贈られたきれいな指輪に、可愛らしいピンクの薔薇。気後れするほど素敵な着物。 普段は仕事漬けなひとが貴重な時間を割いてくれて、一緒に過ごしてくれる幸せな休日。 滅多にもらえない「上出来だ」の誉め言葉と、滅多に見せてくれない笑顔―― 昨日と今日だけでも、これだけ沢山貰っている。なのに、 あたしには土方さんにあげられるものなんて何も無い。 だから、せめて気持ちだけは伝えたい。今まではあまり素直に伝えられなかった、この気持ちを。 何も言わずに支え続けてくれていたこの優しいひとに、今まで伝えられなかったぶんも籠めて―― 「・・・それから、あの。あのね。 今朝はバタバタしちゃったから、言いそびれてたんだけど。 一日中一緒にいられるお休みって、久しぶりだから・・・・・・うれしいの。すっごく、うれしい・・・」 そう言いながらふわりと頬を染めたは、少しずつ、少しずつ、遠慮がちに土方に寄り添ってくる。 こそばゆい照れ臭さときまりの悪さを噛みしめながら腕の中の女を見下ろし、 土方は不貞腐れたように口端を曲げて黙り込む。うつむき気味な女の顔が 羽織の胸元に触れそうなほどに距離を詰められると、嗅ぎ慣れた甘い香りもほんのりと淡く漂い始める。 その甘さに引き寄せられたかのように身体は勝手に動いていき、 気付いた時には土方の腕はやわらかな女の腰を抱き寄せていた。同じような 甘ったるい匂いであっても、あのホステスが纏っていた甘さには何の衝動も湧かなかった。 だというのに、この身体が放つ淡い甘さにはどうしてこうも惹きつけられてしまうのか―― (・・・・・・あぁ畜生、これだからこいつには勝てる気がしねぇんだ。) 恥じらいつつも額をこつんと摺り寄せてくる惚れた女の可愛らしさを、 土方は真上からむっとしているような顔つきで睨む。けれど暫し間を置いてから、 まるで何事も無かったかのようにいつもの無表情を装った。 「行くぞ」 ほっそりとした女の手を慣れた様子で掴み取り、いつもの早足で呉服屋に向かう。 大きく熱い掌で手をすっぽりと包み込まれ、は幸せな気分に 瞳を輝かせながら彼の隣を歩き出した。 「そういえば煙草は吸えたんですかぁ」などと尋ねつつ、弾む足取りで呉服店を目指す。 無愛想な男の隣で絶えず笑みを浮かべていた彼女は、「いや、吸えてねぇ」と ぶっきらぼうに答えた土方の口調が普段に比べてややぎこちないことには気が付かなかったし、 自分の手を引く男の耳元がやや赤らんでいることにも、まったく気付いていなかった。

「 おおかみさんとおままごと *9 」 text by riliri Caramelization 2018/09/10/ -----------------------------------------------------------------------------------        next →