「あれっ。あの車って・・・」 百貨店での買物を終えて車でお屋敷に戻ったら、門扉の傍には大型車が二台も停まってた。 曇りひとつなく磨かれた車窓越しに見えるのは、銀色の側面に赤と白でロゴを描いた百貨店のトレーラー。 それから、セレブなお金持ちの間で流行ってるケータリングサービスの配送車。 どっちにも見覚えがあるのは、昨日の掃討作戦のために借りていたものと同じだからだ。 ひとしきりトレーラーを眺めると、あたしは車内へ振り向いた。隣に座るひとの羽織の袂をちょっとだけ引いて、 「ねぇ土方さん。どうしたんですかぁ、あれ」 「何だ」 「あれですよー、あのトレーラー。 どうして戻ってきたのかなぁ、もう機材も武器も運び終わったのに」 「さぁな。屋敷に入ってみりゃあ判るんじゃねぇか」 振り向くこともなく答えた咥え煙草の唇から、ふわりと紫煙が躍り出る。 百貨店で吸えなかったぶんを取り戻したいのか、広くて座り心地がいいシートに 腰を下ろしたとたんに火を点けて早くも二本目を味わってる最中の土方さんは、 トレーラーの存在にはまるで興味がないみたい。 黒髪の影から覗く切れ長な目がじっと視線を注いでるのは、この車が向かってる先。 ワインカラーの薔薇で飾られた流線型のスロープの向こうにある、大きくて立派な玄関だ。 数時間ぶりに戻ったお屋敷の様子に以前と変化がないかどうかを、 ほんの小さな異変も見逃すまいと徹底的に吟味してるような目つき。 いかにも土方さんらしいその表情は、あたしも含めた屯所の誰もが見慣れたいつもの顔なんだけど―― 「・・・・・・?」 黙って車窓を見つめるひとの横顔に、あたしは小さく首を傾げた。ちょっと違和感を感じたからだ。 だって今の反応って、なんだか土方さんらしくない。 どんな時でも用心深くてとにかく目敏い鬼の副長が、あんなに目立つ大きな車にちっとも警戒を示さない、なんて。 「――おかえりなさいませ、土方さま。皆さまお待ちかねでございます」 吹き抜けの天井で薔薇のかたちの大きなシャンデリアが輝く 広々とした玄関ホールで出迎えてくれたのは、目尻が下がりきった笑顔が見るからに優しそうな執事さんだ。 土方さんから百貨店の紙袋(中身のほとんどは、呉服店で買ってもらった アクセサリーや小物だ)を預かったスーツ姿のおじいさんは、すぐさま土方さんに近寄ると 何かを小声で耳打ちしていた。他にも「それと、ついさっきお電話が」って 電話の内容を伝えたり、聞かれたことに答えたり。 あたしたちが居なかった間のお屋敷の様子まで、まるでこのお屋敷の 本当のご主人を相手にするようにあれこれと細やかに報告してる。 報告にその都度頷いてみせる土方さんに並ぶと、執事さんは深紅の絨毯で覆われた長い廊下を歩き出した。 その後ろにあたしと山崎くんが続いたんだけど、 (――・・・・・・あれっ。皆さま?) たしか今、「皆さま」って言ってたよね。皆さまお待ちかねです、って。 聞いたばかりの執事さんの言葉に引っ掛かりをおぼえて、 六番隊の井上さんに似た糸目顔のおじいさんをきょとんと見つめる。 今日このお屋敷に泊まるのは、土方さんと山崎くん、それからあたしだけのはず。 土方さんを訪ねてお客さまが来る・・・、なんて話も聞いてないし。 「予定よりも早めのお越しでしたので、先にお通ししております」 振り向いてそう告げながら、執事さんは最も近い部屋のドアを指してみせた。 きのう見学させてもらった、あのお部屋だ。 美術館みたいに格調高くて、体育館くらい広いダンスホール。 お屋敷の最初の持ち主が娘さんの社交界デビューのために用意した、って執事さんが教えてくれた―― 「・・・?あのー、土方さんにお客さまが来てるんですかぁ?じゃああたし、先に部屋に戻ってますね」 「いや。お前も来い」 「えー。いいんですかぁ、同席しても」 土方さんが屯所を離れてここに滞在中だって知ってるのは、屯所の人たちと警察庁のごく一部の人。 その中でここまで足を運ぶ可能性があるのは、 なにか急を要する件で副長の指示を仰ぎに来た、屯所の誰かだと思うんだけど。 なのに・・・いいのかなぁ。そんな守秘義務が発生しそうな場に、とっくに辞めたあたしが居ても。 不思議に思ってまじまじと前を行くひとの背中を見つめていたら、土方さんは振り返った。 様子を窺うような目つきであたしを眺めると、ふ、と口許が緩んで短い失笑を漏らす。 車内からずっと咥えっ放しにしてる煙草の先がわずかに揺れて、 「いいも何も、お前が来ねぇと始まらねぇだろうが」 「は?」 始まらない?始まらないって、何が? ぽかんと丸く見開いた目に、疑問を浮かべて見つめ返す。 すると、土方さんはこっちへ手を伸ばしてきた。 あたしの右手を迷うことなく掴み取ったその手が、ぐ、と握りしめてきて、 「おら、ついて来い奥方殿」 「・・・〜〜っ!?っなっっ、ぇっ、えぇぇええええ!?」 その手にぐいぐい引っ張られてぐんぐん前進させられながら、頬を赤らめたあたしは目を剥いて叫んだ。 素っ頓狂な声まで上げて驚いたのは、また「奥方殿」なんて 仰々しくて聞き慣れない呼び方をされたから…なんていう理由だけじゃない。 あたしの手を取ったひとが、何を思ったのかしっかりと手を繋ぎ直したからだ。 骨太で硬い男のひとの指の感触が、指の隙間を埋め尽くしてる。 そう、つまりは「恋人繋ぎ」だ。・・・す、すぐそこで執事さんが見てるのに・・・! 土方さんとあたしの、ちょうど中間地点――男の人の指に搦め取られた自分の手を、信じられない気分で見つめる。 見つめるうちに猛烈な恥ずかしさが湧いて頭の中まで沸騰してきたから、数秒くらいであたふたと顔を逸らしてしまったけど。 「〜〜なっ、っななななっ、なっ、なんなんですかぁぁ・・・? 百貨店でもそうだったけど・・・ちょっと、ぁの、なんか、へ、変っていうか・・・っ」 「あぁ?何がだ」 「だ、だからぁ・・・っ。ぃ、いつもと、違うじゃないですかぁ。 いつもは・・・・・・ひ、人前で、こういぅ、こと・・・しなぃ、のにぃ」 「だから何がだ、はっきり言え」 「〜〜〜っ、だからぁっ、っこ、ここだと、人目がっ、しっっ、執事さん、がっ、 ちょ、ひっ、土方さぁん、早いぃ、早すぎっ。もう少しゆっくり歩いてくださいよぉっ」 よろよろした格好悪い足取りで必死に絨毯を踏みながら、あわてて土方さんに訴える。 ああもう、すっごく歩きにくい。執事さんに見られてると思うと動きがぎこちなくなっちゃうし、 手を引くひとの早い歩調と慣れない裾の長さのおかげもあって、やたらと足がもつれてしまう。 すると、動揺気味なあたしとは真逆に動揺なんて1ミリたりとも感じてなさそうなひとが広い廊下をひととおり見渡す。 じきに振り向いた仏頂面が「他に誰もいねぇじゃねぇか」とつぶやいて、 「人前ったって爺さんだけだぞ。どこに問題がある」 「〜〜〜そ、そう、だけどっ」 「あのー二人とも俺のこと忘れてません?忘れてますよねぇ絶対に」 「存在感が空気以下の奴ぁ頭数に入れてねぇ」 間髪入れずに断言すると、土方さんは最後尾からついてくる山崎くんをじろりと睨んだ。 その目つきがあからさまに不愉快そうっていうか、「てめえはまた余計な口挟みやがって」とか思ってそうだ。 何かと怒りっぽい上司のこういう態度に慣れてるからか、睨まれた側の山崎くんは 「あーはいはいそうですよねー、空気以下の奴が邪魔しちまってすんませんでしたー」って やけに目尻を緩ませながらにやにやにやにや笑ってるんだけど。 にやにや笑いが止まらないメイドさんに「ちっ」と舌打ちしたひとが、ふと何かに気付いたような視線をあたしの足元に注ぐ。 かと思ったら、握られたままになってる右手を、ぐい、と引かれた。 あ、と思わず声が漏れた時には土方さんの真横まで引っ張られていて、 「お前、さっきからやたらとふらついてねぇか。慣れねぇもん着て足元が覚束ねぇんだろ」 「っっ!?」 びっくりして顔を上げた時にはもう、長い指を広げた手に肩口を包み込まれてる。 手慣れた仕草で抱き寄せられてしまえば、あっという間に黒い羽織の腕の中だ。 いっそう濃くなった煙草の香りが、硬い腕の感触や少し高めな体温が、抱かれた背中や肩から伝わってくる。 土方さんに全身を包み込まれていくみたいなその感覚に戸惑ってたら、「」と耳の傍で声が響いて、 「転ばねぇように掴まってろ」 「〜〜〜・・・っ。ぅ、うん・・・っ」 あたしの右手を誘導して自分の羽織を握らせようとする男の人の手を、耳まで赤らめてぼうっと見つめた。 肩に置かれた手の感触や重みも、なんだかすごく意識してしまう。 普段と変わらず力強いけれどいつになく柔らかいその触れ方には、 このひとと二人きりでいる時にだけ感じる、くすぐったいくらいに甘やかな感触が混ざってるからだ。 そう気付いたら頬はますます熱くなって、煙草を燻らせる横顔が目に入るたびに心臓の音が不規則に跳ねた。 ・・・うん、おかしい。おかしいよね?やっぱりおかしい気がするんだけど。 それともこれって、あたしの気のせい? 土方さんの言動にいつもと違うことが多いから、ほとんどゼロって言っていいこの距離感を変に意識しちゃってるのかなぁ。 ・・・・・・うーん、でも。だけど。 今朝のお風呂で寝惚けてた件といい、百貨店でのあれといい。やっぱり今日の土方さんて―― 「・・・ゃ、やっぱり、ぁのっ、ぇえと・・・・・・へ、変じゃ、なぃ、ですかぁ・・・?」 「またそれか。今度は何だ」 「なっ、なにって・・・だから、あの、ぃ、いろいろ、と・・・?」 「その「いろいろ」ってのは何を指してんだ」 「・・・・・・〜〜〜っっ」 またもや言葉に詰まったあたしはだんだん拗ねたくなってきて、赤らめた頬を膨らませた。 言葉に詰まってしまうのも曖昧な尋ね方になってしまうのも、どっちも土方さんのせいなのに。 ・・・今日のこのひとのちっともこのひとらしくない言動が、あたしをいちいち動揺させてるからなのに。 「・・・だ、だからぁ、変だったじゃないですかぁ、今朝のあれ・・・とか。 それから、えっと・・・・・・たとえば、さっき買ってくれた、これとかぁ・・・」 ちら、と自分の首から下を見下ろす。 ――そう、たとえばこれ。 百貨店で買ってくれた、大人っぽくて綺麗な白地の着物。 珍しく寝惚けたひとからお風呂に引っ張り込まれてずぶ濡れになる、っていう 突発的な事故で買ってもらったお高い着物は、実のところは突発的な事故を理由にした買い物でも何でもなかった。 どうしてなのかわからないけど、前々から購入する計画を立てていたみたいだ。 しかも土方さんときたら、その計画をなぜかあたしには内緒にしてたり、 同じく内緒で小菊姐さんに着物の見立てをお願いしてたりと、どういうわけかやたらと秘密主義で―― 「・・・ぁ、あとはね、ほら、今の・・・これ、とか、 ひ、百貨店で、土方さんが言ってた、ぁ、あれも。どうしてここでも、続けるのかなぁ、って・・・」 たどたどしく言葉を閊えさせながら、今度は自分の肩に視線を落とす。 そこからさらに後ろのほう――背中を覆った黒い羽織の腕を見遣って、 また肩へ戻って…と、あからさまに落ち着きのない視線を何度も何度も往復させた。 ――そう、これも気になるところだ。 人目をまったく憚ることなく肩に置かれた大きな手と、いつにないこの密着感。 いくら新婚さん演技のためとはいえ、ここまで距離を詰めて過ごす必要ってあるのかなぁ。 それに、今のあたしたちの会話を聞いてるのは山崎くんと執事さんだけ。 他には誰もいないのに、土方さんはどうしてここでも「奥方殿」なんて仰々しい呼び方を続けるんだろう。 「・・・・・・っっ。 そっ、それからぁ、ぁ、あの、だからっ、っぁああ、あ、あのっ・・・・・・〜〜〜っっ」 それから、これ。これが最も気になってること・・・、なんだけど。 うぅぅ〜、って拗ねた子供みたいに唸って唇を噛んで、半ば強引に立ち止まる。 あたしに合わせて足を止めてくれたひとの濡羽色の羽織をぱっと離すと、顔を覆ってうなだれた。 そう、これ。 これが――あたしにとってはこれこそが、他のどれよりも気になる最大の謎だ。 だけどこれが困ったことに、他のどれよりも尋ねづらい。しかも相当に恥ずかしい。 こうやってちょっと考えただけで頭に血の気が押し寄せてくるくらいには恥ずかしいし、 そのおかげで尋常じゃない赤さに染まっていく馬鹿正直な自分の顔を見られちゃうのも恥ずかしいし・・・! 「・・・おい、何やってんだ奥方殿。いつまで亭主を待たせる気だ、足から根でも生えたか」 「生えてませんっ、そんなの生えるわけないじゃないですかぁっ。 っこ、これはあれですよあれっ、わけわかんない土方さんへの身体を張った抗議っていうかせめてもの抵抗っていうかぁぁっ」 「その抗議とやらは客が帰ったら聞いてやる、とにかく動け」 うんざりしたような口調で促したひとが、人の頭をまるでゴムボールでも持つみたいにがしっと鷲掴みしてくる。 さらには「奥方殿」を相手にしているとは思えないくらいの容赦のない馬鹿力を発揮されて、 強制的に顔を思いきり上向かされたら、「奥方殿」なんて呼ばれ方には これっぽっちも相応しくない膨れっ面はあっさりと土方さんの目前に晒されてしまった。 顔を覆った指の隙間からおそるおそる見上げてみれば、口端に吸いかけの煙草を挿した顔に見下ろされてる。 見るからに呆れきってるその表情は、片眉だけを皮肉っぽく吊り上げてた。 「いつにも増してすげぇ面だな。釜ん中で塩茹でされた蛸かお前は」 「〜〜ゎ、悪かったですねぇタコみたいな見苦しい顔でっっ。 だけどあたしがタコになってるのは土方さんのせいですからっっ、土方さんがそうやってあれこれ言うからぁぁぁ!」 「喚くな、落ち着け。客に会う前に少しはその茹で蛸面冷ましとけ」 なんて素っ気なく言いつけたひとの手が、あたしの頭の天辺から滑り降りていく。 口調とは裏腹に丁寧な手つきが、鷲掴みされて乱れた髪を梳き始めた。 頭全体を撫でるようにして梳き終えてしまうと、その手はもっと下へと降りて 赤らめた顔を隠そうとしていたあたしの両手を引っ張り下ろす。 さらには「ほら行くぞ、掴んどけ」って、さっきと同じように右手を羽織まで誘導された。 仕方なく黒い生地をちょこんと摘めば、ふ、と吐息のような微かな声が耳元を掠めていく。 穏やかで満足そうな笑い声だ。 めったに聞けないその響きに心臓をとくんと弾ませてたら、抱かれた肩を前へ押される。 ゆっくり踏み出したひとに合わせて、あたしもぎこちなく踏み出した。 ――さりげなく肩を支えてくれる手に、普段このひとが歩くペースよりもうんと小さく抑えられた歩幅。 屯所のみんなが見たら驚いて目を見張りそうな鬼の副長らしくない挙動は、どれも土方さんがあたしを気遣ってくれているから。 あたしを大切に扱ってくれているからだ。 こうして寄り添っているとより一層それを感じてしまうから、どれもものすごくくすぐったいし気恥ずかしい。 (〜〜〜でっっ、でもっ、きっとこれも演技だから!任務のためのお芝居だから・・・!) さっきからずっと自分にそう言い聞かせてるのに、抱かれた左肩のすぐ近くにある心臓はとくとく弾んで鳴り止まない。 そわそわしちゃって落ち着かない。ああ、どうしよう。 もしもこの先、このお屋敷を出るまでこんなことが続いたら。 もしそうなったら、あたしはとんでもない勘違いをしちゃいそうだ。それも、ものすごく自惚れた勘違いを。 (・・・土方さんてば、何を考えてるんだろう。) うんと熱を帯びたせいで朱に染まった瞼をおずおずと上げて、視線を右へ向けてみる。 隣のひとはいつの間にか、庭に面した窓のほうへ顔を逸らしてた。 お庭というよりは公園のような広大な景色を眺めながら何かを考えてる表情が、紫煙をゆらりと昇らせてる。 そんな様子も気になってしょうがなくて、横からそわそわと落ち着かない気分で窓に映る表情を窺った。 ・・・まぁ、いくら窺ったところで、目に入ってくるのは見慣れたいつもの無表情なんだけど。 そのうちに土方さんも、窓越しに自分を覗き込んでるまぬけな茹で蛸に気付いたんだろう。 隅々まで綺麗に整えられた深緑色の景色と重なって曖昧に映し出される顔が、ふぅ、と醒めきった溜め息をついて、 「・・・ったく、次から次と手ぇ焼かせやがって。 茹で蛸面の女房連れて客の前に出なきゃならねぇ旦那の身にもなれってぇんだ」 「〜〜〜〜っっっ。そっ、それですっ、それですよぉそれぇぇぇ、 やめてくださいよぉ、そ、その、あの・・・ぃ、言い方っていうか、呼び方っていうか・・・っ。 とっ、とにかくっ、茹で蛸面だって気付いてるならそーいうのやめてくださいよぉっ」 右手に掴んでいた羽織をぎゅぎゅうっと引っ張りながら、茹で蛸そのものの真っ赤な膨れっ面で抗議する。 すると、くく、と喉の奥で噛み殺したような笑い声が上がって、土方さんが歩みを止めた。 あたしの肩を抱く腕が小さな揺れを刻み始めたと思ったら、真一文字に引き結ばれていた口許が可笑しそうに綻んでいく。 ゆるやかな弧を描いた唇から煙草を外して指へ挟んだひとが、ゆっくりとあたしへ視線を流す。 前髪の影が色濃く落ちた伏せ気味な双眸も、よく見ればほんの微かに悪戯っぽい笑みを浮かべてた。 どうやら一人であたふたしてる茹で蛸女のまぬけな姿は、日頃はあまり笑わないこのひとをかなり愉しませてるみたいだ。 「ああ、それだ、それ」 笑い混じりにそう言いながら、指に挟んだ煙草の先であたしを指して、 「そういうの、ってのは何の事だ、何がそんなに気に食わねぇんだ奥方殿。 もっと具体的に言ってみろ」 「だっっっ、だからあぁぁ!それですよぉそれっ、それが変なのっ、気になるのっっ。 何なんですかぁっ、そのとってつけたよーな呼び方っっ。 ぉ、ぉお、ぉくがっ・・・とかぁ、ににににょぅっ、ぼ、っっっ・・・とかぁぁあぁ!」 「どこがおかしい。俺達ぁ夫婦を演じてんだ、この呼び方で合ってんだろ」 「それだけじゃなくてっ、な、なんかいろいろっ、ししっしたでしょっ、したし言ったじゃないれすかぁっ、 なんか、すっごく、はっ、はずかしいことっ・・・ひひゃっ、か、てっ、でも、ここれもっっ」 (言った!言ったよね!?言ってたよね!? 土方さんの苗字で名乗れとかそう言うお前も土方だろとか夫婦なんだから名前で呼べとか、 他にも思い出すだけで悶絶しちゃうよーなことをなんやかんやとあれこれと!!) ・・・なんていう本音を口に出したら今度こそ舌を噛みそうな気がしたから、精一杯に目で訴える。 なのに土方さんときたら、眉一つ動かそうとしない。 それどころか、真っ赤になって憤慨するあたしにしれっとした態度で言ってのけた。 「馬鹿言え、俺が百貨店で何したってぇんだ。 試着中に叫びまくって店中の衆目集めやがった馬鹿奥方と違って、恥晒すようなこたぁしてねぇぞ」 「したあぁっ、しましたよぉっ、今もしてるじゃないれすかぁぁっ、 なんなんれすかぁもぉぉっ、っひひひ土方しゃんはもーすこしひひっ人目を気にしゅるべきれしゅよぉぉぉっ」 「しゃんって何だ、しゃんって。つーか噛みまくりで聞き取れねぇ、もっとはっきり言いやがれ」 (つってもまぁ、ここで言えるもんなら、だがな。) そんなことでも考えてそうな優越感を表情に滲ませて笑うひとが、肩を抱く手にわざと力を籠めてくる。 こんな表情を浮かべてるんだから、本当はあたしに答えさせるまでもなく全てがお見通しなんだろう。 真っ赤に染まりきった頬をまさにタコのようにまるまると膨らませながら、うぅぅ〜〜、と子供みたいに唸って拗ねる。 皺が寄るくらいにぎゅーぎゅーと力一杯に、掴まされた羽織の布地を引っ張ってみせた。 ああ悔しい。だけど、ここで諦めるわけにもいかない。 これまでは屯所一頭のキレる副長さまとこの手の言い合いになったが最後、 屯所一のおバカさんだった元部下に勝ち目なんてほとんどなかった。 勝率で言えば100戦中1勝99敗といったところ。ようするに、ほぼ完全にあたしの負けだ。 でも、それでも、今回ばかりは――どんなに勝ち目がなくたって、そう簡単に引き下がってもいられない。 なにしろ命が懸かってるんだから、あたしの命が・・・! (このどきどきしすぎて心臓に悪い「奥さま扱い」を何とかしてもらわないと、 早ければ今夜、遅くても明日には心臓が破裂しちゃう!) そんな「元屯所一のおバカさん」ならではのおバカな危機感に襲われながら、きっ、と土方さんを睨みつける。 こうなったらその場凌ぎでも何でもいい。とにかく何か、もっともらしい理由をつけてこのひとを説得しないと。 なんて思って勢いよく口を開いた、その時だ。 肩を抱いていた手が背中へと滑って、ぽん、とあたしを身体ごと押し出す。 えっ、と目を丸くした時には、裾の長さに邪魔されてうまく捌けない足元が、ぐらり、と右のほうへつんのめって―― ぼふっ。 「・・・・・・へ?」 気の抜けた声を漏らしながら、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。 空気を孕んだ軽い音が間近で響いた瞬間には、 倒れるはずだったあたしの身体は広い胸元に受け止められてた。 びっくりして最大限に見開いた視界を埋めつくすのは、濡羽色の衿から伸びる太くてがっしりした男の人の喉元。 なぜか右の頬だけが左頬よりもうんと熱く感じるのは、分厚い胸に右頬を摺り寄せてしまってるせいだ。 真っ黒な着物の生地に半分埋もれた鼻先に、急に濃くなった煙草の香りと男の人の肌の匂いが流れ込んでくる。 背中に触れていたはずの手は、いつのまにかあたしの腰――帯の下あたりまで移っていて、指を広げてぐっと押さえ込んでる。 その手にさらに身体を押し出されたら、頭から足許まで、身体の右側すべてが土方さんとぴったり密着して――・・・・・・、 「〜〜っっひぁあああああああ!」 そんな自分の体勢をうっかり認識してしまったら、そこからはもう平常心を保つどころじゃなくなった。 お屋敷の廊下を突き抜けるような叫び声を上げたのと同時で、大きく跳ねた心臓がばくばくばくばく暴れ出す。 わなわなと震えが走り始めた全身は、かぁーーーっ、とみるみるうちに燃え上がってしまう。 あわてて土方さんを押しのけたあたしはどうにかしてこのひとから離れようと、爪先立ちで必死に仰け反って抵抗した。 ああ、でも、だけど――抵抗しても意味なさそう、どう考えても相手が悪すぎる。 さっきからずっと全力出して必死に精一杯仰け反ってるのに、 馬鹿力な土方さんときたらあたしの全力の抵抗を腰に当てた片手一本で封じ込めてるんだから・・・! それでも往生際悪く壁みたいな硬さの胸を両手でぐいぐい押して暴れてたら、 わけのわからない行動に出た「わけのわからない旦那さま」が怪訝そうに細めた目つきで見下ろしてくる。 顔を寄せられてますます錯乱して涙まで出てきた可哀そうな茹で蛸女に、無遠慮な視線をじっくりと注いで、 「――っとにてめえって奴は、わからねぇ女だな」 「っっっ、はぁあ!?ゎ、わかんないのは土方さんじゃないですかぁっ、 〜〜ちちちょっゃだやめっはは放してっっ腰押さえるのやめてぇっっ、って、ひぁぁ! ちちちょっっ、どっ、どーして力籠めるんですかぁ!?放してって言ってるのにいぃぃぃっっ」 「ああ、放してやる。お前が大人しく白状したらな」 じたばたと身体を捩りながら泣きわめいたら、 土方さんは不満そうに口端をひん曲げつつも、即答で請け合ってくれた。 ・・・ほ、ほんとに?ほんとに放してもらえるの? あたしの腰を抑えてる指からは「けっ、誰がそう簡単に放してやるか」 なんてことくらいは思ってそうな圧迫感を感じるし、たった一回の瞬きも挟むことなくこっちを凝視してる目もこわいんだけど!? ていうかヤバい、普段から開き気味な瞳孔がさらにかぁっと見開かれた、この表情はヤバい。 これって屯所の取調室や拷問部屋でよく見た顔、 ・・・・・・そう、鬼の副長本気の取り調べモードが発動したときの顔だ・・・! 「要するにこれか、お前が言いたがってんのは。 人目がねぇ場所ならまだしも、人前でこういう真似はこっ恥ずかしいからよしてくれ、と」 「〜〜〜っ、そっっ、そーですよぉその通りですっっ、 ていうかそこまでわかってるくせにどーしてこーいうことするんですかぁぁぁぁっ」 「あぁ?何言ってんだ。わからねぇから試したんじゃねぇか」 「はぁ!?」 「人目がどうこう言うんなら、さっきのあれぁ何だったんだ」 「ぁ、あれ!?えっ、さ、さっきのって、何ですかあれって、何のことですかっ、 っていうかそんなことどーでもいいからとにかく離れて早く離れてええぇぇぇ!」 「覚えてねぇとは言わせねぇぞ。百貨店で、お前がホステスを追っ払った後のあれだ」 「〜〜〜〜〜〜〜っっっ」 突き付けられた指摘にぎくっとして、羽織の胸元をめちゃくちゃに押しまくってた手が止まる。 そんな――そんなの、覚えていないわけがない。 たった一時間前の出来事だし、今思い返すと顔から火が出そうになる大胆なこともしてしまった。 だから忘れようにも忘れられないっていうか、むしろ記憶が鮮明すぎて困ってしまうくらいだ。 鈍感だとか察しが悪いとか散々に扱き下ろされてきた元雑用係だって、 さすがにここまで言われてしまえば、土方さんが言いたがってることにも察しがついたし。 でも、だけど・・・ああ、どうしよう。どう答えたらいいんだろう。 すっかり追い詰められてしまったあたしがうつむいておろおろしていると、唐突に視界が暗くなる。 へ、と間抜けに呻いて顔を上げたら、まぶしいくらいに明るい廊下の照明を黒い羽織姿が遮っていた。 こっちを凝視してる切れ長な双眸が、すっ、と疑わしげに細められて、 「おいコラいつまで黙ってんだ。まさかお前、このまましらばっくれる気じゃねぇだろうな」 「っち、違いますよぉっ。 だ、だからぁ・・・あ、あれは、だから、えぇと、ぁ、あれですよぉ、ひ、土方さんが・・・っ」 そう言いかけたけれど、続く言葉が出てこない。 仕方なく口をつぐんだあたしを前に、なぜか土方さんは急に目の色を変えた。 かと思ったら、上半身を屈めてじりじりと顔を寄せてくる。 問答無用で迫ってくる姿に目を剥いたあたしは、力の限りに「待ってえぇぇぇ!!」と叫んで押し返した。 (あまりにびっくりしすぎたせいで呂律が回らなくて、実際はやたらと甲高い奇声にしか聞こえなかったけど。) あたしを間近からじっくりと眺め倒したひとが、フン、と面白くなさそうに鼻先で笑って、 「・・・昨日も聞いた話だが、念のためもう一遍確かめさせろ。俺と夫婦扱いされんのがそんなに嫌か」 「っ!?っち、ちがっ、違いますっ。いやとかじゃ、っそ、そういうことじゃ」 「そうか。なら何だってぇんだ?何が気に食わねぇんだ、言ってみろ」 「へ・・・?」 「その呆けた面見る限り、どうせ自覚は無ぇんだろうがな。お前、夫婦扱いされるたびにいちいち歯向かってくるだろうが」 「・・・・・・っ。そ、そんなこと」 「無ぇ、とは言わせねぇぞ」 そう言いながら、土方さんが手を差し伸べてくる。 分厚くて熱い手のひらに頬をやわらかく包まれて、竦み上がったあたしはあわてて唇を覆った。 耳元に掛けられた指先にそっと肌をなぞられたせいで甘いくすぐったさと気持ち良さが湧いて、変な声が出そうになったから。 「しらを切る気なら言わせてもらうが、あの時のあれぁ何だったんだ。 歯向かってきやがった今とは逆で、近寄ろうが何しようが逆らう素振りも見せなかったな」 「〜〜ぅう、っっだ、だからぁ・・・あの、ち、ちがうの、あれは・・・っ」 めずらしいくらいまっすぐに視線をぶつけてくるひとと見つめ合いながら、落ち着かない気分で唇を噛む。 百貨店でのあれと、今のこれ。 どっちも人前であられもなく寄り添ってる状況は同じなのに、あたしの態度が全く違うのが納得いかない。 土方さんが言ってるのは、そういうことだ。 ・・・うん。そうだよね。それってもっともな言い分だと思う。 土方さんにしてみれば、どういう事だ、って文句のひとつもぶつけたくなるはず。それは解る。解るんだけど―― 「むしろこっちの目には、お前のほうもまんざらでもなさそうに見えたくれぇだ。違うか、奥方殿」 「〜〜っだ、だから・・・ちが、違うじゃないですかぁ、あれとこれじゃ、ぜ、ぜんぜん」 「どう違うってぇんだ」 あれもこれも、やってるこたぁ大差ねぇだろ。 独り言のようにそう付け足したひとの指先が、ゆっくりとやわらかく頬を撫でる。 何度も何度も、ゆっくりと、黙って頬に指を滑らせていく手の動き。 それは、あたしの答えを辛抱強く待ってくれているときの土方さんがよく見せる仕草だ。 ・・・普段は誰かに待たされるのも、時間を無駄に浪費するのも嫌うようなひとなのに。 そう思ったら、なんだか申し訳なくなってくる。実際に今だって、お客様を待たせてる最中だ。 なのにそのことには触れずに、あたしの言葉を待ってくれてる。 貴重な時間を費やしてでも、知ろうとしてくれてるんだ。あたしの気持ちを―― (お前が何にためらって逃げ腰になってんのか、洗いざらい打ち明けてみろ。) たぶん土方さんは、あたしにそう言い聞かせる代わりにこうして触れてくれてるんだろう。 皮膚が硬くなった指の腹を肌にそうっと滑らせるだけの、甘い感触が心地いい。 なんだかすごく安心してしまって、赤面したせいで熱を持ってる瞼がとろりと自然に落ちてくる。 (・・・このまま凭れかかって、しばらく甘えていられたらいいのに。) そんな、自分で自分にびっくりしてしまうような、大胆すぎる考えまで浮かべてしまうんだからどうしようもない。 ――土方さんに撫でられると、いつもこうだ。 撫でられるだけでしあわせだし、他のどんな時よりも嬉しくなってしまう。心地よさに身体も気持ちも溶けちゃいそうだ。 「・・・・・・・・・ぁ、あのね・・・あの・・・っ」 身体中の勇気を振り絞ってようやく出した声は緊張で掠れていたし、思った以上に小さかった。 それでも土方さんの耳には届いたみたいだ。 ああ、といつもと変わらない素っ気ない響きの相槌が返ってきたから、ほっとしたあたしの目尻には涙が浮かんだ。 口許を覆っていた手を下ろして、視界に入っていた黒い羽織の衿元にぎこちない仕草で縋りつく。 こくり、とちいさく息を呑んでから、抱きついたひとの顔をまっすぐに見上げた。 話を聞いて、と伝えるつもりで羽織の生地をきゅっと握って、 「ぁ、あれはぁ・・・あの時は・・・・・・っ。 っぁ、あぁああたしの、ほぅ、からっ・・・・・・だっっ。抱きつぃ、ちゃった・・・けどっ」 「ああ」 「ぁ、あ、あれはぁ、ひ、っひひひひみっ、ひみっ、からっっ、さん、がぁっ」 「ひみからって何だ、噛み噛みじゃねぇか。いやまぁそれはいい、俺がどうした」 「・・・・・・ほ・・・ほめてくれたじゃ、ないれすかぁ。・・・じ。上出来だ、って」 「・・・・・・・・・・・・あぁ?」 眉尻をびしりと跳ね上げて目を見張ったひとの顔が、怪訝そうに呻いたままで固まる。 土方さんにしてはめずらしい反応っていうか、滅多に見ない反応だ。 思いもしなかった不意打ちを喰らってぽかんとしてる、そんな表情。ということは・・・、 あたしが勇気を振り絞って口にした答えは、このひとが予想だにしなかった答えだった、ってことなんだろう。 「ぇ、えぇと・・・・・・あのときほめてくれた、でしょ。よくやった、お前にしちゃあ上出来だ、って。 あんなこと、言われたの、ひっ、ひさしぶりだったから・・・すっごく、ぅ、嬉しく・・・て。 やっと、やっと土方さんの役に立てたって・・・思ったの。除隊して以来だって、飛び跳ねたいくらい嬉しくて・・・」 消え入りそうなくらい小さな声でどうにか言葉を繋ぎながら、その時の気持ちを思い返す。 ――そう、あれは小菊姐さんが贔屓にしてる高級呉服店で着物を試着してから。 ホステスさんがエレベーターに乗って、山崎くんがお店に戻って、土方さんと二人になってからだ。 それまでは奥さま役を演じきることだけで頭が一杯だったあたしは、 「十四郎さん」て呼ばなきゃいけないプレッシャーと、全身をカチコチにする緊張感からやっと解放されたばかりで。 解放されてほっとした気分になる一方で、ものすごく泣きたくなっていた。 自分なりに精一杯頑張ってはみたものの、あの時のあたしのお芝居ときたら目も当てられない酷さだった。 どのくらい酷かったかっていうと、あれでどうしてホステスさんが 納得してくれたのかと不思議に思うくらい。つまり、正真正銘の大根芝居だ。 そんな結果をいやっていうほど自覚していて、自分のダメさと役に立たなさにすっかりヘコみきっていて。 だからものすごく嬉しかったんだ、土方さんが久しぶりに言ってくれた「上出来だ」が。 それではしゃいでしまったっていうか、落ち込んでいたはずの気分がすっかり舞い上がっちゃって―― 「・・・だからね、つい、あの、だ・・・抱きついちゃったの。 なっ、なんていうか、うれしすぎて、じっとして、られなかったって、いうかぁ・・・っ。 あそこが百貨店だってことも、人に見られてるのも忘れちゃってて・・・・・・っ」 途中からごにょごにょと語尾が萎んでいって、しまいには蚊が鳴いたような声になって途切れる。 見つめ合ってる土方さんの顔は、なぜかかちんと固まったままだ。 かっ、と鋭い眼光を発しながら瞳孔を開ききった目は、あたしに視線を据えたまま。 さっきは「あぁ?」と呻いていた口許も、呻き声を上げた形のままで固まりきってる。何か言ってくれそうな気配もない。 こうなるとどんな顔で目を合わせていたらいいのかもわからなくて、あたしはあわててうつむいた。 買ってもらったばかりの綺麗な帯揚げをもじもじと指で弄りながら、どうしよう、と心の中でつぶやく。 話そうと思ってる内容の中で、ここから先が一番打ち明けづらいところだ。 こんなことを真正面から、しかもこんなふうに身体を預けきった状態で話すなんて恥ずかしい。言いづらい。 ああ熱い、全身が熱い。身体中の血が沸騰しそう。ぎゅっと握り締めた帯揚げの内側では、心臓がばくばく暴れてる。 ――ああ、でも。だけど。言わなくちゃ。 これって、どんなに恥ずかしくても言わなきゃいけないこと。 あたしからこのひとに、真正面から向き合って伝えなくちゃいけないことだ。 帯揚げを握りしめた自分の指を見つめながら、暴れる心臓を宥めるためにそっと深呼吸する。 言おう。今言わなくちゃ。恥ずかしくても、上手く言えなくても、伝えよう。 だって――そう心に決めたのは。 (もっと素直に、もっと正直に、自分の気持ちを伝えられるようになりたい。 こんなあたしでも見放すことなく傍にいてくれたひとの気持ちに、素直に応えられる自分になりたい。) そういう自分になるんだって決めたのは、他でもないあたし自身なんだから―― 「・・・・・・だから、だからね、ぁの・・・い、いやとかじゃ、ないの。 あのときも、今も、同じなのっ、土方さんに、な、撫でてもらうと、ぃつも、すっごく、ぅ、ぅれ、うれしい、のっっ。 でっでも、テンション上がりきってたあの時ならともかく、今みたいな時は、ちょっと、あの、 ま、ままま、周りに知ってる人がいると、ゃっ、やっぱりっ、は、はは恥ずかし・・・っ、からっ。 だっ、だから、ぁの、いくらお芝居でも、か、加減をって、いうかっ、も、もうちょっと、考えてほし、くて・・・〜〜〜っ」 たまに舌を噛みそうになりつつも言いたいことを言い切って、しゅわーっ、と湯気が出そうなほど熱くなった顔を上げてみる。 すると一度も口を挟むことなく話を聞いてくれたひとの顔は、すっかり拍子抜けしたような表情に変わっていた。 驚いてるのか、それとも呆れてるのか――どっちなのかはわからないけど、まじまじと見張った目があたしを眺めてる。 やがてその目許がぐっと顰められたと思えば、土方さんは深々とうなだれた。 頭痛でもしてきたのか額を抑えて、溜め息混じりに肩を落とすと、 「・・・はっ、何だそりゃあ。これだからてめぇって奴は・・・」 どことなく腹立たしげな口調で、独り言のようにつぶやいた。 額に当てた手の影になっているせいで、その目許はよく見えない。 けれど、フン、と悔し紛れのような笑い声を漏らした唇の端が、 少しずつ、少しずつ、可笑しそうに吊り上がっていくのがあたしにも見えた。 「それだけかよ。ったく・・・」 「〜〜〜っ。そ、そーですよっ、それだけですっっ」 「あの程度で舞い上がるたぁ、つくづく安い奴だな」 「そ、そうですよっ、どーせ安い奴ですよっ。 だって。だって・・・あたし、隊士辞めてから、ぜんぜん、ちっとも、土方さんの役に立てなかったじゃないですかぁ。 やっと役に立てたんだって、嬉しくて。周りのことなんて目に入らなくて。だ、だから・・・っ」 「・・・・・・。」 「は、はぃ・・・?」 真剣な目つきであたしを見据えた土方さんの腕に、ぐ、と力が籠められる。 どうしたんだろう、土方さん。あたし、何を言われるんだろう。 そう感じて、自然と息を詰めて身構えてしまう。でも、そこからさらに数秒の沈黙が続いた。 ここで言うべきことはすでに決まっている。けれど、出来る限り慎重に言葉を選びたい。 黙ってあたしを見下ろすひとの口端を引き結んだ表情には、そんなことに躊躇していそうな雰囲気があった。 「・・・前にも言っただろうが。お前が俺に負い目なんざ感じる必要はねぇ」 「・・・・・・ぅ。うん。そう言ってくれたのはね、覚えてるの。覚えてるけど、でも・・・」 「今回の芝居はなぁ、嘘が苦手なお前に無理を押してやらせてんだ。 言ってみりゃあ、近藤さんと俺が無理に押しつけた役目だ。 押しつけられた役目の出来を、うまく演れねぇだの役に立ってねぇだのと気にするこたぁねぇ。 ・・・それに、これはお前にしか出来ねぇ役目だ。胸張って堂々とここに居ろ」 そんなことを言い聞かせながら、土方さんはあたしの頭を抱き寄せた。 こめかみのあたりに触れてきた親指の先が、目尻に溜まった涙の粒をそっと拭いとっていく。 そこから自然と髪の生え際に潜っていった硬い感触は 乱れた流れを梳いて流しながら、労わるようにゆっくりと頭を撫でた。 腰を抱いていたもう片方の腕も、肩から背中までの間を往復しながら撫でてくれる。 その手つきには、やっぱりさっきと同じように、二人きりになった時にしか 感じない甘さがたっぷり含まれていて、ただでさえ茹で上がってる顔にますます熱が集まっていく。 じわじわとこみ上げてきたくすぐったさと気恥ずかしさは頭の芯まで火照らせていて、 返事をしなくちゃ、とか、土方さんから離れなくちゃ、とか思ってるのに少しも実行できないから困ってしまう。 だけど撫でてくれる手の感触があまりにも心地いいし、大切そうに触れてくれる手つきも嬉しい。 嗅ぎ慣れた苦い香りや高めな体温に包まれているのも嬉しくて、もっとこのひとに近づきたくて、 あたしは羽織に埋もれていた頬を自分から土方さんに摺り寄せてしまった。 髪や着物越しに感じる指の、高めな熱が気持ちいい。 出来るものならしばらくの間、こうして撫でていてほしい。 ・・・・・・ううん。本音を言ってしまえば、ずっとこうしていたいくらいだ。 ――ああ、もう、どうしたらいいんだろう。 拒むことも離れることも出来なくなってしまったあたしは、濡羽色の羽織に埋もれた顔を擦りつけるようにかぶりを振った。 眠くなってぐずりはじめた子供みたいな様子が、見ていて可笑しかったのかもしれない。 くすり、と吐息めいた軽い失笑が頭の上から降ってくる。後ろ頭を覆った手のひらが、ぽん、と優しく触れてきた。 「・・・おい。返事はどうした、奥方殿。黙ってねぇで何とか言え」 いつになく機嫌の良さそうな、穏やかな響きの声音に促される。 だけど、返す言葉なんてひとつも浮かんでこなかった。 普段とは違う土方さんの態度を困ると思ってるくせに、その「甘すぎる態度」に 思いきり甘えてしまっている自分が恥ずかしすぎる。返す言葉なんてとても見つけられそうにない。 ・・・うん、やっぱりそうだよ。間違いないよ。 やっぱり今日の土方さんは間違いなく変だ。いや、昨日もちょっと変だったけど。 いやいや、それを言うならずっと前から変なひとだったけど。 見た目や言動は冷静そのものだから常識人っぽく見えるけど、その実情はといえば 刀振り回してる時が一番愉しそうで三度の飯より喧嘩好きなとびきりあぶない人なんだけど。 そういう「実は普段から変な人」が、普段は決してやらないようなおかしなことばかりしてくるんだもん。 しかもやたらと甘ったるい方向の「おかしなこと」ばかりするんだから、やられるこっちはたまらないよ。 (・・・あぁどうしよう、どうしようどうしようどうしよう。 さっきは夜までは何とかなると思ってたけど、この調子だと早くも夕方には心臓が爆発しちゃう・・・!) とくん、とくんっ、とくんとくんとくんっ、とくんっっ。 異常に早く、しかもやたらと勢いよく不規則に弾むようになってきた心臓の鼓動にかなり本気で慄きながら、 あたしは真っ赤な顔を左右に振ってはこのおかしな状況からの逃げ道を必死に探す。 けれどそんなことをしてるうちに、ふとあることを思い出した。 思い出したのは、さっき聞いたばかりの土方さんの発言だ。 ぱち、と大きな瞬きを打ってから、「あれっ・・・?」と湧いた疑問に首を傾げて、 「・・・・・・あのー。土方さぁん」 「ああ」 「どーいう意味ですかぁ、今の」 「何だ、今の、ってのは」 「だからー、今言ったじゃないですかぁ。この役目が・・・土方さんの奥さまの役が、あたしにしか出来ないって」 恥ずかしさに気を取られてたから、気付くのが遅れちゃったけど――確かにそう言ってたよね。 『これはお前にしか出来ねぇ役目だ。胸張って堂々とここに居ろ』って。 ・・・どうして?それってどういうことだろう。 嘘をつくのもお芝居も下手なあたしのどこを、どうしてそんなに「奥さま役」として買ってくれるんだろう。 そこがすごく不思議に思えて、きょとんと見上げながら尋ねてみる。 すると土方さんは、至極当然のことのようにあたしの問いかけに頷いた。 「ああ、そうだ。お前以外には務まらねぇな」 「は・・・?」 「いや、他の女じゃ演れねぇ、ってこたぁねぇんだが・・・」 そこまで言いかけてから、言いづらそうに口籠る。 なぜかあたしを一瞬だけ見遣ると、何かにひどく困ってるみたいに顰めた目つきを窓のほうへすっと逸らした。 かと思ったら、煙草を指に挟んだほうの手ががしがしと、後ろ頭を掻き乱し始める。 きょとんと見上げた横顔は口端をきつく引き結んでいて、ちょっと怒ってるようにも見える。 なのに、どことなく気まずそうな表情にも見えた。 やや置いてから、土方さんの口がようやく開く。 流れ出てきた低い声はぼそぼそとくぐもっていて聞き取り辛いし、口調もなんだか歯切れが悪くてぎこちなかった。 「・・・そうなると俺の側に綻びが出る、っつうか。・・・まぁ、演技の質がだな。 その。何だ。ぁ。あれだあれ。・・・・・・演技の真実味ってもんが、お前以外が相手だと格段に落ちる」 「なんですかぁ、真実味って。ていうかあの、あたしじゃないと務まらないって、どーして・・・?」 「・・・・・・」 そう尋ねたら、土方さんは口許を固く引き結んで黙り込んでしまった。 どうやらあたしが向けた質問は、このひとにとって相当に都合が悪いものだったみたいだ。 黙りこくった土方さんに合わせてこっちも黙って待ってみたけれど、いつまで経っても返事が返ってこない。 気難しげに眉まで寄せて紫煙を濛々と昇らせ始めたひとの顔を、まさに煙に巻かれてるような気分でぽかんと見つめた。 ・・・うん、よく解らない。土方さんの演技の真実味がどうとか、 そこもよく解らないけど、それ以上に解らないのはその前に言われた言葉のほうだ。 『お前以外には務まらねぇな』 ・・・何で?どうして。あたし以外の人には務まらない、なんて、そんなはずないのに。 何事に対しても見る目が厳しいこのひとが、どうしてそんな甘い評価を下したんだろう。 こんなことを自分から言うのも情けないけど、とてもあたしに奥さま役が務められてるとは思えないよ。 昨日お屋敷の前でご近所の人に囲まれた時も、今日ホステスさんに会った時も、 自分でも呆れるような大根芝居しか出来なかったのに。 なのに、どうしてあたしなんだろう。どうして他の人じゃだめなんだろう・・・? いよいよ解らなくなってきて、そんなことを伝えてみる。 最初のうちは土方さんも、困惑気味な硬い表情のままで黙って話を聞いてくれていた。 だけどその表情に少しずつ、少しずつ、呆れと諦めの色が混ざってきて。 そのうちに何か救いようがないものを前にして困り果ててるような、複雑そうな雰囲気まで浮かんできて。 しまいにはきつく顰めた眉間を押さえながらうなだれて、はーーーーっ、とうんざりしたような溜め息までこぼして、 「お前なぁ・・・。俺にそれを、ここで言わせる気か」 「・・・・・・は?」 「・・・・・・。解った、もういい。もう解った」 どういう意味ですかぁ、と尋ねようとしたら、そんなあたしを遮るように 煙草を指に挟み取った土方さんの手が上がる。 肺に溜まった煙と空気をすべて吐き出すくらいの勢いで二度目の溜め息をついたひとは、 どことなく恨めしそうな目つきでじろりとこっちを睨み据えて、 「その呆けきった馬鹿面から見るに、てめえが置かれた状況ってもんを完全に忘れてんだろ」 「はぁ。状況、ですかぁ・・・?」 「お前あれか、百貨店の時みてぇにまた頭ん中が舞い上がっちまってんのか? ・・・ったく冗談じゃねぇぞ、こんなとこで誰が言うかよ。さすがにそこまでの醜態晒す気はねぇぞ」 「えー?何ですかぁ醜態って」 「じっくり説教しておきてぇところだが、時間もねぇしな。まずは後ろ向いてみろ、馬鹿奥方」 背中を押されてそう命令されたのと同時で、ぷっ、と小さな声が背後から届いた。 我慢できずに吹き出したような笑い声の出所は、意外とすぐ近くからで――・・・・・・、 ・・・・・・ん?・・・え?・・・あれっ。・・・・・・すぐ、近く・・・・・・・・・・・・? 「〜〜〜〜〜〜〜〜っっひぃやぁああああああああああぁあああああ!!!」 ようやく事態に気付いたあたしは、驚愕にかあぁっと目を剥いて叫んだ。 喉から突き抜けていったのは、叫んだ当人のあたしですら耳が痛くなってしまうくらい甲高い悲鳴だ。 「てっめぇまた超音波出しやがって、鼓膜が破れんだろーが!」と何度も叱られ続けてる傍迷惑な騒音を 面倒そうに耳を塞いで回避したひとを、口をぱくぱく動かしながら呆然と見上げてたら、 「〜〜〜〜ぷっっっ。っ、っくくくく、ぅぷっっ、んぐっ、んぷぷぷぷぷぷ!」 「ふ、ふふふ・・・っ、も、申し訳ございませんとんだ失礼を・・・っ」 最初こそ控えめだったものの徐々に大きくなっていった吹き出し笑いと、 とっても申し訳なさそうな、けれど可笑しくてたまらなさそうな謝罪の声が重なって響く。 その声が誰のものかといえば――振り返って確かめるまでもない。 もちろん山崎くんと執事さんに決まってる・・・! 真っ先にそう思ったし出来れば振り向きたくもなかったけれど、恥ずかしさと驚きで ガチガチに固まった身体をどうにか動かしてあたしは後ろを振り向いた。 そして、振り向くと同時で後悔した。 執事さんは数メートル離れた後方の壁に顔を伏せて必死に笑いをこらえてるし、 なぜかこっちへ携帯を向けてる山崎くんは、床に四つん這いの状態で全身を震わせてむせび泣いてる。 じゃなくて、涙が出るほど笑ってる・・・! わなわなと唇を震わせながら、あたしは床に突っ伏したメイドさんにおそるおそる声を掛けた。 「〜〜〜ゃっ、やや、山崎くんっ・・・? ひ、ひひひひょっ、ひょっとしてっっ、ぜ、ぜんぶ聞いっっ・・・!?」 「ぅぷっ、んぷぷぷぷぷぷっ、ぃっ、いやぁごめんねさんっ邪魔しちゃって! 水を差さないよーに我慢したんだけどさあぁぁ、無理っ、無理だよこれは無理ぃぃっっっ」 「って、ていうか何っ、何で携帯出してるの!?」 「ああ、これ?これはほら、屯所に戻ったら局長達に見せようと思ってさぁっ。 いやぁそれにしてもとんでもないスクープ映像撮っちまったなぁっ、ふ、副長が、あんな・・・っ、 〜〜っぷ、ぷぷっ、んぐ、んぷぷぷぷっっ」 「おいそこの気色悪りぃメイド、いつまで笑ってやがんだ殺すぞコルぁぁぁ。 つーか水を差すと解ってんなら窒息してでも笑いを堪えやがれ」 ちっ、と土方さんの荒い舌打ちと、殺気立った唸り声が鳴り響く。 するとこちらも笑いすぎたのか、ハンカチで目頭を抑えていた執事さんが山崎くんのほうへ寄っていった。 執事さんはなぜかスーツのジャケットから携帯を取り出すと、 床をべしべし叩きつつ笑い転げてるメイドさんに対して深々と丁重に頭を下げて、 「畏れ入ります、山崎さま。よろしければその映像、この爺やにもお譲り頂けませんでしょうか。 当家の若奥さまにお見せしたいのです、きっとお喜びになられますので」 「おい待て爺さん、頼むからそれだけはやめてくれ」 げんなりしたような声と溜め息が、頭の上から落ちてくる。 猛烈な恥ずかしさで息が止まりそうで今にも頭が爆発寸前なあたしは、 こんなことになっても平然とした仏頂面を崩さないうえに、人の腰を抱えて離そうとしないひとを愕然と見上げた。 涼しい顔で人を死ぬほど恥ずかしい目に遭わせてくれたこのひとに何か文句を言いたいけど、 血が昇りきって熱湯みたいにぐつぐつ沸騰してる脳内で言いたいことを纏めるなんて至難の業だ。 ――うん、おかしい。やっぱりおかしい、間違いないよ。 今日の土方さんは間違いなく変だ。 元から素っ気ない性格なうえに、真選組副長っていう自分の立場を常に考えて振舞うひとが、 こっ、こんな・・・よりによって、ひ、人前でこんな・・・・・・!しかもここまで堂々と、部下の山崎くんもいる前で!!! 「〜〜〜ぉ、おぉお、おかしいですよねぇ・・・?やっぱり今日はおかしくないですかぁ、土方さんっっ」 「フン、またそれか。しつけぇぞだから何がだ」 「だからぁぁっ、おかしいんですよぉぉ土方さんがっっっ。 普段もちょいちょいおかしいけど今日は完っっ全におかしいですよねぇっ、いったいどうしちゃったんですかぁっっ」 「けっ、何が土方さんだ。てめえも土方だろうが」 「〜〜〜〜っっっ!!?」 全身を瞬時に真っ赤に染め上げながら、言葉にならない叫び声を上げる。 歯痒そうに舌打ちまでして言い放ったひとの咥え煙草の口許から、ゆらめく煙と一緒に流れ出てきた答え。 それが、百貨店で言われてめちゃくちゃに意識してしまったあれとほとんど同じせりふだったからだ。 〜〜〜ぉ、おかしい、こんなのおかしい!絶対におかしい、とてつもなくおかしい! どうかしてるよ今日の土方さんは! 寝惚けて人をバスタブに引っ張り込んだり、過剰にお嫁さん扱いしてみたりと、 今日のこのひとのやることって、どれもこれも、ちっっっともこのひとらしくないんだもの・・・! おまけにその「らしくない言動」ときたら、あたしの心臓に悪いことばかりをわざと厳選してやってるとしか思えないんだけど!? なんてことを言い返したくても、頭の中は火事みたいな熱さだ。 「真選組の頭脳」なんて呼ばれるひとを遣りこめられるような反論を、こんな、 今にもぷすぷす煙を噴き上げそうな状態の役立たずな頭から捻り出せるわけないし! うぅぅ〜〜〜、って呻きまくってじたばたと無意味に地団太を踏みながら悔しがっているうちに、 目尻にじわぁっと涙の粒が盛り上がってくる。 ついにブチっと理性の箍が千切れたあたしは、「〜〜んぅうぅぅにゃぁああぁあぁぁぁ!」って 舌足らずで間抜けな声を上げながら土方さんに飛びついた。黒い着物の胸元めがけて全力で拳を振り下ろそうとしたら、 ばぁああんっっっっ。 「――っ!」 「っっっ!?ぇ、な、なに!?」 土方さんの背後のドアが、やけに威勢のいい音を鳴らして開いた。 あたしたちが向かってた部屋。そう、あの豪華なダンスホールの大きな扉だ。 ぱんっ、ぱぱんっっ、ぱんぱんぱんぱんっ、ぱぁあああんっ。 フライパンの中で弾け飛ぶポップコーンみたいな破裂音が、扉の向こうから続けざまに飛び出してくる。 その音の大きさにびっくりして固まりきっていると、 一瞬後には色とりどりの紙吹雪と、蛍光色にきらきら輝く紙テープの雨まで降ってきた。 反射的に身構えたらしい土方さんにいつの間にか庇うようにして抱きしめられていたあたしは、 唐突に広がった鮮やかな光景を、真っ黒な羽織の肩の影からぽかんと見上げた。 いったい何人いるんだろう。ホールから続々と出てくる、黒い隊服姿の大集団。 その足元を縫ってぱたぱたと駆け出てくる、楽しそうな表情の子供たち。 全員が手に何か、小さなものをひとつずつ握ってる。 そんな子供たちを後ろから見守ってる、数人の女の人。お屋敷の使用人さんたち。 端のほうには、昨日会った庭師さんも。それから他にも、知ってる人や知らない人が―― 「ぅおーーいぃぃいくぞおめーら!せーのーーー!」 ひらひら降ってくる紙吹雪やテープを頭から被った土方さんとあたしがあっけにとられているうちに、 すごく大きくて陽気な声が集まった人たちに号令を掛ける。 その声の主が誰かというと――がっしりした肩の左右に小さな女の子を 一人ずつ担いで、困ったような苦笑いを浮かべてる近藤さん――の横で、満面の笑顔を咲かせてる人。 透明な液体入りのグラスを高々と上げた、二番隊の隊長さん。お祭り好きな真選組の宴会部長でもある永倉さんだ。 高々と上がってた永倉さんのグラスがさらに高々と、豪華な照明に照らされる廊下の天井めがけて振り上がる。 直後に響き渡ったのは、子供たちの手元で一斉に弾けたクラッカーの破裂音。そして、お屋敷中にどっと轟く野太い声の大合唱だった。 「副長ー!さんー!ご婚約おめでとうございまーーーーーす!!」

「 おおかみさんとおままごと *10 」 text by riliri Caramelization 2020/08/22/ -----------------------------------------------------------------------------------       next →