すーーーーっ。はーーーーーっ。すーーーーーーーっ。はーーーーーーっ。 紅玉や琥珀めいた石に縁取られた楕円形の姿見を見つめれば、耳まで赤らめた女の顔が 引きつり気味な表情で見返してくる。やけに長い深呼吸をたっぷりと繰り返したは、 胸下に巻いた帯の両端をぐぐっと強く握りしめる。背中に作った結び目を、さらにきつく締め上げた。 「・・・言える言える絶対言えるあたしは言える、きっと言えるし失敗なんてするはずないしっ。 えぇとだってほらあのあれっ「はやれば何でも出来る子だよ」ってお駒さんもよく言ってたし!」 育ててくれた老婆の口癖まで引き合いに出した長い独り言をぶつぶつと唱え、 「おぉぉおお落ち着いてぇぇぇぉぉおお落ち着こうよあたしっっ」 ぺちっぺちぺちっ、ぱちぱちっ、ぱちんっっ。 うろたえる自分になんとか気合いを入れ直そうと、両頬を勢いよく引っ叩く。 心の中ではもう一人の自分が「どうしようどうしようどうしようぅぅぅ!」と 頭を抱えて大絶叫、倒れた地べたでごろごろと高速回転しながらのパニック状態に 陥っていたりするのだが、内なる自分の大暴走もどうにか自分で宥めつつ、 一人籠った試着室の中でぎゅっと目を閉じ集中する。 ――そう、大丈夫。冷静に、落ち着いてやればきっと出来る。 幸いにあのひとは今、近くに居ない。だから今のうちにうんと練習して、しっかり慣れておくべきだ。 そう、慣れてしまえば大丈夫なはず。慣れてしまえばどうってことないはず。 ただ、名前を――そう、名前を呼ぶだけなんだから―― 「・・・・・・と。ととと。とととととととぅっっ。・・・・・・とぅ、 し・・・・・・〜〜〜〜〜っ」 そこまではどうにか口にしたものの、後はまったく声にならない。 もう一度最初から、と思い直して唇を開けば、「と」の一音を発しただけで 心臓がばくばくと暴れ出し、かーっ、と全身が火照ってしまう。 肌という肌を真っ赤に染め上げた女と鏡越しに見つめ合い、ぅうぅぅ〜〜〜、とは悔しげに呻いた。 ――なぜ。どうして言えないんだろう。 (十四郎さん。) 土方さんの名前を、たった数文字を声に変えるだけ。 たったそれだけの練習なのだから、たいして難しいことじゃない。 なのに、なぜか彼女の声帯は「たったそれだけの簡単な練習」を全面的に拒否しているのだ。 焦ったは喉を押さえ、けほけほとしきりに咳払いする。 それからもう一度深呼吸してみたり、「あー!あー!あ〜〜〜〜!」と やや声を上擦らせながらも発声練習をしてみたり、緊張でガチガチに強張った全身を解すための ストレッチ運動に励んでみたりと、スムーズに声を出すための準備を思いつく限りに試していく。 やがて覚悟を決めて鏡と向き合い、真剣そのものな表情で大きく口を開いてみたが―― 「〜〜〜〜っっっっむむっ無理無理無理いぃぃっっ名前で呼ぶとかやっぱりむりぃぃぃぃ!!!」 開いた傍から涙目になり、へなへなと床に崩れ落ちる。 さらにはべしばしと鏡面が割れそうな勢いで叩きまくり、もしこの場に土方が居合わせたなら 「うるせぇ黙れ」と彼女の頭に拳骨を食らわせただろうに違いない、甲高い奇声も張り上げたのだった。 「むりむりむりむりぜったい無理ぃぃっ、土方さんの苗字で名乗るだけで7回も舌噛んだのにぃぃ! すっっごく痛くて死ぬかと思ったのにぃぃぃ! なのに今度は呼び方変えろなんてなんなのあのひとっ、鬼?鬼なの!!?」 「・・・いやまぁ鬼には違いないんだけどさ。とにかく落ち着こう、落ち着こうよさん」 カーテン越しに呼びかけてきたのは、困っているような調子の声だ。 「帯は?結べた?」と尋ねられ、はっとしたは手元を見下ろす。 ぎりぎりと引き絞った桃色の帯地は結び目にすっかり皺が寄り、梅花が描かれた両端を だらりと床へ垂れ下がらせていた。しかもその端を、繊細なレースをあしらった 新品の足袋で踏みつけてしまっている。 「・・・・・・」 「まだ結べてないんでしょ」 「・・・・・・ぅ。うん・・・」 「出ておいでよ、俺が結ぶから。いや、あのさ、 実はここに立ってると注目の的っていうか・・・周りの視線が痛くてさ」 「・・・・・・うん。そ。そうする。ごめんね山崎くん・・・」 しどろもどろに謝ってから、はしょんぼりとうなだれた。 「土方さんを名前で呼ぶ練習」に失敗した回数は、すでに3回を超えている。 試着室前で付き添ってくれている山崎には、その都度恥ずかしい思いをさせてしまっているのだ。 申し訳ない気分で一杯になりながらカーテンを引き、帯を引き摺って試着室を出る。 手前にちょこんと揃えられていた新品の草履にのろのろと足を潜らせていると、 メイドに化けきった監察は彼女の背後へと回っていき、締めすぎた帯を緩めてくれた。 次にショーウインドウに並ぶマネキンをざっと眺めて、 「ええと形は・・・あれでいいかな。最近流行ってるよね、あの結び方」 中央に立つマネキンの凝った帯の結び方を見本にして、てきぱきと手を動かし始める。 それは華やかで洒落た造りだが、美しく仕上げるのが難しいと評判の飾り帯だ。 しかし手先が器用な山崎にとっては、造作もない作業の部類に入るらしい。 帯を細長く折り畳んで幾重にも襞を作っていく手つきに、は目を丸くして感心する。 義父仕込みの剣技以外はことごとく不器用な彼女にとっては、逆立ちしても真似の出来ない芸当に思えた。 「すごいね山崎くん、こんな難しいのどこで覚えたの」と褒め称えれば、メイドはくすりと背後で笑って、 「覚えておけば女装の任務で役立つからね。はいはい、こっち向いてー」 「・・・そういえば、店員さんは?」 「カウンターの中だよ。さんが着てきた着物を包んでくれるってさ。はい、次は後ろ向いてー」 指示に従ってくるくると回れば、背中でざわざわと衣擦れが鳴り、 江戸で流行中の帯の形が素早く整えられていく。 「前のほう押さえといてくれる」と頼まれ、ずり落ちかけた帯揚げを引き上げようとしていると、 「――なにもそこまで難しいことじゃないと思うけどなぁ」 「えー、そうかなぁ。あたしはこの結び方、すっごく難しいと思うけど」 「いや帯の結い方じゃなくてさ、あれだよ、あれ。 副長が言ってた、呼び方を夫婦っぽく変えろ、ってやつ」 「〜〜〜・・・っ!」 笑い混じりに指摘されれば、土方にそう注文された時の恥ずかしさが一瞬にして蘇る。 しゅーーっ、っと湯気が吹き上がりそうなほどに赤面したは、いたたまれなさそうに身を縮ませた。 「ああ、これも前に回してくれるかな」 しゅるり、と帯地の中を潜らせて通した、水色の帯締めを差し出される。 その両端を受け取って、脇の下から前へと手繰り寄せていると、 「子供の頃にさ、寺子屋の男友達を名前で呼んだりしなかった」 「ぅ、うん。呼んでたけど・・・?」 「でしょ。それと同じでいいんだよ。 あーだこーだ考えずにさ、肩の力抜いてふつうに呼んでみれば」 「ふつうに・・・」 ぽかんと目を見開きながら鸚鵡返しにつぶやけば、「うんうん、ふつうにね」と 手を動かしながら山崎が頷く。胸の前で押さえた帯の上辺に視線を落とし、 は困りきった表情で考え込んだ。 言われてみれば、たしかにそうだ。 寺子屋の同級生たちとは、男女の隔てなく名前で呼び合っていた覚えがある。 それに――総悟だってそうだ。弟のように思っている年下の男の子を、 親しみを込めて名前で呼ぶ。その呼び方に抵抗を感じたことなどないし、 別段意識することなく自然に呼んできた気がする。 だったら彼等を呼ぶのと同じ感覚で、もっと気楽に土方を呼んでみればいい。 山崎はそう言いたいのだろうし、出来るものならそうしたいのだが―― ふぅ、と小さく溜め息を漏らすと、は苦笑いを浮かべてメイドのほうへ振り向いた。 「・・・やっぱり無理かも。 相手が土方さんだとね、なんだか変に緊張しちゃって。うまく呼べそうになくて・・・」 「上手く、ねぇ。いいんじゃないの、上手く呼べなくても」 「え・・・」 「下手でもいいと思うけど。ぎこちなさがいかにも新婚夫婦っぽく見えそうだし」 「そ。そうなの?」 「うん、そうそう、そういうもんだよ。旦那の名前を呼び慣れてないほうが 初々しさが出るっていうか・・・ああ、帯揚げは自分で結んでくれる」 難しそうだったあの飾り帯は、もう結い終えてしまったらしい。 帯の上からぽん、と軽く背中を叩かれた。「えーと、髪飾りもあったよね」とつぶやいたメイドは 試着室へと振り返った。が帯揚げを結び終え、帯締めを結わえる間にも、 山崎は店員が持ってきた髪飾りの箱を開けたり、先程まで巻いていた帯揚げを畳んでくれたりと、 まるで本職のメイドが女主人に仕えるように甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。 おかげで支度は順調に進み、後は髪飾りを付けてしまえば完成だ。 「ねぇ、さん」 「うん?」 梅花や雪の結晶をモチーフにした初春らしい意匠の髪留めを、耳の上に挿し込んだ時だ。 背後で帯を畳んでいたメイドに、何気ない口ぶりで話しかけられた。 「さんはさ、副長に初めて名前呼ばれたとき、どうだった?嬉しくなかった?」 「・・・っ」 その瞬間の光景が鮮明に頭に浮かび上がり、髪を整えていた手が止まる。 思い出したのは、まだ真選組隊士だったころの出来事。 ある日の朝、屯所の食堂で目にした土方の姿だ。 ――あの朝、一度は食堂を去ったはずの上司はいつのまにか目の前に立っていた。 咥え煙草の唇から初めて紡ぎ出された、自分の名前。 それまで常に「」とを呼んでいた男は、まるで昔からそう呼んできたかのような 淡々とした声音を紫煙混じりに発していた。あのときの土方の声や表情、 普段の彼とはどこか違う雰囲気を漂わせていた佇まいは、今でもはっきりと覚えている。 というかあの日起きたことはどれも印象深すぎて、どれも一生忘れられそうにないのだが―― 「・・・うん。嬉しかった。 びっくりしたけど嬉しかったよ、すっごく」 その時感じた嬉しさを心の中で噛みしめたは、はにかみ混じりのやわらかな笑みに ふわりと口許をほころばせる。 拒まれても遠ざけられても思い続けてきた男から、唐突に「」と呼びかけられたあの日。 それだけでも息が止まりそうなほど驚いたのに、その直後、朝食時の混み合った食堂内という 状況を全く気にした様子のない不遜な上司は、『お前、俺の女になるか』と尋ねてきた。 普段通りの平然とした無表情で、けれど、滅多にと視線を合わせようとしない土方が、 珍しいほどまっすぐに目を見据えながら。あの時、は生まれて初めて知ったのだ。 ――何度も冷たく突き放されて、そのたびに泣いて、苦しくて。 それでもこのひとの傍にいたい。それ以上のことなど望まない。 そう覚悟してしまえるほどに好きになってしまった男の唇から、ふとこぼれ出てきた自分の名前。 それは他の誰に呼ばれた時とも違う特別な響きを持っていて、呼ばれるだけで 胸を甘く締めつけられてしまうような、特別な嬉しさを運んでくるのだと―― 「男だって同じだよ。特別だと思ってる子に呼ばれたらそれだけで嬉しいし、 その子が上手く呼べてるかどうかなんてどうでもよかったりするんだよ」 「っっ。と、とくべつな、って・・・」 「だからさ、下手でもいいから呼んであげたら。 さんに呼ばれたら、それだけで副長は喜ぶと思うよ」 「・・・・・・〜〜〜〜っっっ。そぅ、かなぁ・・・っっ」 紅潮した頬を手で覆い、恥ずかしそうにがうつむく。 そんな彼女を微笑ましげに眺めた山崎は、「そうだよ、自信持ちなよ」と励ますように言葉を掛けた。 「つっても副長のことだから、喜んでたって顔には出さなそうだよなぁ・・・、 ってやばいやばい、また余計なこと言っちまった。今の話、副長には黙っといてくれる」 じゃないと俺、また殴られそうだからさ。 さっき土方に殴られた部分にまだ痛みでも残っているのか、 山崎が顔を顰めながら後頭部のあたりを撫でさする。 うん、とぎこちなく頷いたは、試着室のほうへと振り返る。 顔を隠した両手の影からこわごわと視線を上げていくと、 豪華で大人びた衣装に包まれた鏡の中の自分を見つめ直した。 ――土方さんの、特別な子。 山崎くんはそう言ってくれたけれど・・・いいのかな、あたしで。 そう言ってもらえるのに相応しい存在に、あたしはなれているんだろうか。 そんな考えを浮かべれば、あまり自信は持てなかった。 顔を隠した手を下ろすと、はどこか苦しげな表情で薬指のリングをじっと見つめる。 むしろ、自信を持ってはいけないような気がしてしまうのだ。たとえ土方が認めてくれて、 他の誰が認めてくれたとしても―― 「――さん、どう、支度終わった?そろそろ副長に電話しようか」 帯や帯揚げを畳み終えた山崎が、の背後から呼びかける。 しかしその直後、あれっ、と目を丸くした。 華奢な肩越しに見えた、試着室の鏡。左右が反転したそこには 店の入口付近が映っており、その端を男女の二人連れが横切っていった気がしたが―― くるりと振り返った監察は、疑問を浮かべた目を凝らす。 華やかなショーウインドウに挟まれた入口の向こう側を、首を伸ばして覗き込んだ。 「・・・見間違いかなぁ。いやでもあれは、副長と・・・」 「え?土方さんがどうかしたの」 「っ、ぃっいやいや何でも、何でもないよ!ってあーごめん、着信だ。 ちょっと外してもいいかな。ああ、この帯頼むね」 「うん、ありがとう。いってらっしゃい」 に帯を手渡してしまうと、山崎は携帯で受け答えするふりをしながら試着室前を離れた。 普段であればこんな場合は、もっと慎重に判断してから行動に移る。 だが今日は、普段とは少々状況が異なっていた。豪邸の主が 高級車とセットで貸し出してくれた運転手の大男は要人警護のプロだそうで、 今もこのフロアのどこかから店の出入口周辺を監視している。 だったら俺がほんの一分程度、さんから離れても然して問題はないはずだ。 ショーウィンドウの間を急いで抜けると、山崎はまず左手を見渡す。 次に右を向いた途端、「げっ」と呻き声を上げた。 きょろきょろと素早く周囲を確認、店と店の間の隙間のような細い通路にあたふたと飛び込み、 「・・・うわぁ、あれってひょっとして・・・、どうしてこんなところで会っちまうかなぁ・・・」 がいる呉服店の右隣の店の、ショーウィンドウの前。 そこで立ち止まった男の整った容貌を壁の影から確かめ直し、 落ち着きなくあたふたと身じろぎしつつも、監察は改めてその場を注視した。 大粒の貴石が嵌め込まれた指輪やネックレス、時計などが 硝子越しにずらりと陳列されている、宇宙規模で有名な宝飾品ブランド店だ。 店内が高額商品だらけなためか二人のガードマンが配置されているドアの前には、 10分ほど前に「一服してくる」と言い残し、屋上へ向かったはずの土方の姿が。 一刻も早くニコチンを摂取したくてたまらなさそうだった彼の上司は、 なぜか屋上行きを中止したらしい。そしてどういったなりゆきの結果か、 山崎にも見覚えがある女を連れて戻ってきていた。 見た目は二十代半ばほど、勝気そうな顔立ちの色っぽい美人―― (・・・弱ったなぁ、どうすりゃいいんだよ。あの子は多分、俺の記憶違いでなければ――) 土方にしなだれかかるようにして腕を組み、やや大きめな話し声と 自信に満ちた笑顔を振りまいている女の子。 間違いない。あれは、松平のとっつぁんが贔屓にしている高級クラブの新入りホステス嬢だ―― 「・・・だよなぁ、どう見てもぱぴよんのあの子だよ。 やれやれ、厄介なのに捕まったなぁ副長も・・・って、あからさまに嫌そうな顔してんなぁ・・・」 笑顔で話しかけている女に対して、話しかけられている土方の態度は よそよそしくて無愛想。目の前の美人よりも周囲の状況が気になるようで 視線を常に右往左往させてばかりいるし、たまに女に向ける表情は明らかに迷惑そうだ。 だというのにホステス嬢にはまったく怯んだ様子もなく、何やら一方的に喋り続けている。 土方のほうも時折相槌程度の反応を見せてはいるが、 あくまで渋々で、仕方なく相手をしている、といったような雰囲気だった。 (どーしてこんなところで会っちまうかなぁ、今日はさんがいるっていうのに・・・) が居る呉服店は、まさに目と鼻の先。距離にしてほんの十数歩程度だ。 もしもここで何かの間違いが起きて、彼女が店から出てきたら―― やばい。やばいぞ。やばいって。いや、やばいのは俺じゃなくて副長だけど。 俺が気を揉んだって仕方ないんだけど。べったりと腕にしがみついた あの子の姿を見ちまったら、何かと思い詰めやすい性格のさんはどう思うだろう。 ・・・そりゃあもう、考えるまでもないよな。 誤解するに決まってるよ。副長とその浮気相手。そう勘違いするに違いない。 壁に貼りつき息を殺して身を潜めているメイドの額に、たらーっ、っと嫌な汗が伝っていく。 すると背後からひそひそと、小さく抑えた女の声に問いかけられた。 「・・・ぱぴよん?ぱぴよんって、松平さまがよく行ってるお店だよね」 「あーうん、そうそう、そこだよ。さんも一度だけ入ったよね、 とっつぁん行きつけの会員制クラ・・・・・・っっっって、さんんんん!!?」 しまった!やられた!つーかいつの間に後ろを取られてたんだよ、気付けよ俺!! 驚愕した山崎が血相を変えて振り返れば、そこには彼の背後から首を伸ばし、 土方達の姿を覗き込もうとしている女が。 メイドらしく薄化粧を施した顔を青ざめさせた監察は、呆然とに目を見張る。 ごっっ。 握っていた携帯は手から離れ、鈍い音を上げて床に叩きつけられた。 「あれっどーしたの、顔色悪いよ? それに携帯も、大丈夫?割れてない?なんかすっごい音したよね」 「〜〜っっちょっ、なっっっ、何やってんのいつから居たの!?」 「え。いつからって、今来たところだけど」 着物の袂を丁寧に押さえてゆっくり携帯を拾い上げると、は山崎をきょとんと見上げた。 「ここに入っていくのが見えたから、どうしたのかなって思って。気付かなかった?」 首を傾げて尋ねる彼女に、山崎はぶんぶんとかぶりを振る。 背後を取られたと気付くどころか、人の気配すら感じなかったのだ。 拾ってもらった携帯は「ど、どうも…」とたじろぎつつも受け取ったが、 そうしている間に「これじゃあ監察失格だ」とひどく情けない気分が湧いてきた。 ・・・まったく、我ながら間抜けな失態だよ。 ああやっちまった、油断した、うっかりと忘れちまってた。 普段はおっとりのんびりしてるから普通の女の子にしか見えないけど、 本気を出した時のさんは沖田隊長レベルの身体能力を発揮するってことを・・・!! 「それより・・・あの人、あのお店の・・・?山崎くんも知り合いなの」 「えぇ!?っぃいいいやっ知り合いってほどじゃないんだけどっ、 最近ぱぴよんに行くとあの子が必ず副長にベタベタしてくるから顔を覚えてたってだけ、で・・・・・・〜〜〜っ!」 しまった、またやっちまった!何をポロっと口走ってんだよ俺!! 咄嗟に口を押えたものの、山崎が額に脂汗を浮かせて絶句した時には すでに取り繕いようなどなさそうだった。 は眉を曇らせてうつむいているし、手にしていた帯揚げは胸の前で握り締められている。 ところが唐突に顔を上げると、「そっ、そっかぁ、そうなんだぁ、あはははは!」と空々しいまでに明るく笑い始めて、 「そっかぁ、そうなんだぁ・・・あんな綺麗な人が、土方さんに・・・・・・、 そ、そういえば土方さん、あたしがあのお店に行ったときもホステスさんに囲まれてたもんねー。 一人でハーレム作っちゃってたよねー、今でもあんなかんじなのかなぁ、あは、あはは・・・」 「〜〜〜っっ違う違うっ、違うからねさんっ。 あの子と副長はたまたま、偶然会っただけだと思うよ!さんが気にするようなことは何もないからね!?」 「え!?ゃ、やだなぁ何も気にしてないよ! 土方さんがモテモテなのはいつものことだしっ、む、むしろもう見慣れちゃったっていうか見飽きてるっていうかっっ」 などと即座に否定してきたが、が激しく動揺しているのは山崎の目にも明らかだった。 帯揚げを握りしめた両手は絶えず布地を弄っているし、かろうじて笑っているように見える 頬や口許は、絶えずぴくぴくと引き攣りっぱなし。土方とホステスの動向が気になって仕方が ないらしく、数秒に一度の割合で通路から顔を出して宝飾店前を覗き込む姿は挙動不審者そのものだ。 ・・・いや、ぶっちゃけて言えば、某キャバ嬢をストーキング中の近藤の姿に瓜二つだから困ったものだ。 (もし百貨店の警備員に見られたら絶対に怪しまれそうなんだけど・・・!) もし実際に警備員が通りかかったら同様に怪しまれるはずの山崎が、 そんな心配におろおろとうろたえ始める。 するとは、ふいに何かに気付いたかのような表情になった。 何を思ったかじりじりと通路の奥まで後退すると、 「・・・ごめん。違うの。今の、うそ」 「へ?」 「・・・・・・ほんとはね、気にしてるの。土方さんが女の人に 囲まれてるところなんて、数えきれないくらい見てきたのに・・・何回見ても気になるの。すっごく・・・」 申し訳なさそうな目つきを監察に向け、しどろもどろに打ち明ける。 ――なんだか急に気恥ずかしくなったのだ。ちっとも平気じゃないくせに 平気だなんて言い張ってしまった自分が。土方さんとあの女の人がどんな仲なのかが 本当は気になってしょうがないくせに、妙に強がって平気なふりをしたがる自分が。 そういうあたしの素直じゃない態度を、山崎くんはどう感じただろう。 感情がやたらと顔に出てしまうあたしが平気なふりをしてみせても、それがただの 強がりだってことは周りの人にバレてしまうはず。だったらいくら強がったところで、 却って周りに気を遣わせたり、心配させてしまうんじゃないだろうか。 ほんの少し前のあたしが――土方さんがしてくれたことを素直に喜んだり、 不安やさみしさを素直に伝えられなくなっていた時のあたしが、あのひとを却って心配させていたのと同じように。 (・・・そっか。これって、あたしの悪い癖なのかも。 不安になっても強がってばかりで、本音や弱音を隠そうとして。 そんなことばかりしてたら、余計に皆は気を遣うよね。余計に心配させちゃうよね・・・) しゅんとしたは唇を噛み、通路の床へと視線を伏せて考え込む。 胸の前で握りしめた帯揚げをしきりに指先で弄りながら、 「・・・この際だから思いきって訊くけど。ずっと気になってたんだけど・・・」 「う、うん?」 「土方さんね、ときどき香水の匂いさせて帰ってくるの」 「〜〜〜っ!」 「そういう日は隊服の内ポケットが綺麗な名刺で一杯で、たまにぱぴよんのホステスさんの名刺も混ざってるの。 あ、あれってやっぱり、松平さまの行きつけのお店に一緒に行ってるんだよね・・・? 土方さん、そういう場所好きじゃなさそうなのに・・・」 「〜〜〜そっ、それはぁ・・・・・・〜〜っ」 にじっと見つめられた山崎はあわてふためき、ふらふらと視線を泳がせる。 副長からの極秘の指示で動くことが多く、土方がには隠しているような 内情も熟知している山崎だ。土方が松平のキャバクラ遊びに しょっちゅう付き合わされていることは、当然ながら知っていた。 ――そう、さんが指摘したとおりだ。副長は賑やかな宴席が基本的に苦手らしいし、 いわゆる「キャバクラ」などと称されるような、着飾った女性が酌をしてくれる店も好まない。 そんな副長が、なぜ松平のとっつぁんの誘いには嫌々ながらも応じているのか。 理由は、そうするだけの価値があるから。とっつぁんの口が多少は軽くなる どんちゃん騒ぎの宴席が、さんとその家族に関する貴重な情報収集の場だからだ。 ・・・などという裏事情も勿論知っているのだが、それをの前で口に出せるわけもない。 出せば鬼に殺されかねないのだ。まぁ、ここで俺が何かヘマをしでかして さんの「副長浮気疑惑」をうっかり膨らませちまった場合だって 鬼に殺されかねないのは同じなんだけど・・・!! どちらにしろ危うそうな自分の未来を想像して泣きたい気分になってきた監察は、慎重に話を切り出した。 「そ、それはほら立場上っていうか、とっつぁんがやたらと誘ってくるから 仕方なく付き合ってるんだよ、仕方なく。副長に限って浮気の心配なんてないからね、 俺らのバカ騒ぎや局長の裸踊り見ながら黙って飲んでるだけだからね?」 「そ、そうなんだ・・・うん、そうなのかなって思ってたんだけど・・・でも、そういうのずっと気になってて、 だからつい疑っちゃって・・・。ごめんね山崎くん、気にすることないって教えてくれたのに・・・」 ごめんなさい、とへなりと眉を下げた女に済まなさそうにぺこりと頭も下げられてしまい、 気まずさが倍増した監察はより一層慌てふためいた。 「いやいやいやいや!そんなの別に謝ることじゃないって!」と両手を携帯ごと振り回しながら全否定して、 「あんなとこ見たら誰だって気にするし浮気じゃないかって疑うでしょ、気にして当然だよ!?」 「そ。そぅ、かなぁ・・・」 「そうそう、そうだよそーいうもんだよ!」 必死な形相でこくこくと頷きながら、語気を強めて山崎は言い切る。 それでもの表情は晴れない。土方に寄り添う女性の存在に嫉妬を覚え、 そんな自分を恥じているのか。それとも、傍から見れば相思相愛以外の 何物でもない土方との関係に、いまいち自信を持てていないからなのか。もしくは他に理由があるのか―― 女心に疎い山崎にはさっぱり見当がつかなかったが、はいまだに複雑そうな表情で、 帯揚げを弄る細い指は落ち着きなく動きっぱなしだ。 そんな彼女にどう言葉を掛ければいいものかと、山崎は困り果てた様子で頭を掻いた。 (・・・弱ったなぁ。 こんなこの子を眺めてると、いつも放っとけなくなっちまうんだよなぁ。 そういやぁ・・・昔の俺もこんなさんを見ていられなくて、何度も余計なお節介を焼いたっけ。) どこまで話していいものかと肩を竦めて考え込んだ監察は、やがて言い辛そうに切り出した。 「・・・や、俺が弁解するのも何だけどさ。本当に気にすることないからね。 あの子誰にでもああだから、店でも誰彼構わずベタベタしてるから」 しどろもどろに説明すれば、の指が動きを止めた。 深く伏せられていた女の睫毛がゆっくりと上がっていき、躊躇いに揺れるまなざしが山崎を捉える。 何か問いたげに彼を見つめて、やがておずおずと口を開いた。 「そう、なの?誰にでも・・・?」 「うん。どうもあの子、ぱぴよんのNo.1の座狙ってるらしくてね。 向上心が強いのはいいけどやり方がなりふり構わずで、 他の子のお客をあからさまな色仕掛けで横取りしてるんだってさ」 まぁ、あのわざとらしい色仕掛けにコロリとやられちまう客も客だけど。 そんな皮肉をつぶやくと、山崎は以前に「ぱぴよん」で目にした ホステス嬢の様子をに語った。彼の記憶に残っていたのは、 他のホステスと客の間に強引に割って入っていった彼女の姿だ。 たしかあの時、店中のホステス達のほとんどが彼女を辛辣な目つきで睨んでいた。 なのにあの子ときたらそんな視線など感じてもいないような態度で、 べったりと客にしなだれかかるようにして笑顔で酒を勧めていた。 女王の座に就くためなら、誰をどんな手段で蹴落とそうが、誰を敵に回そうが構わない。 それが彼女の信条で、その信条に忠実に行動している、…といったところなのだろうが―― 「――そういうことばっかしてるせいか、店の子達とはかなり険悪らしいんだ。 特に茉莉花さんとは――ああ、茉莉花さんて覚えてる?あの店の一番人気のホステスさんなんだけど」 「・・・うん、街で何度か会ったことあるし。土方さん毎年チョコ貰ってるし・・・」 「あ、あぁ、そっそうだよねっ、そりゃあ覚えてるよね、はは、ははは・・・」 どことなく気まずそうに答えたに、山崎もぽりぽりと頭を掻きながら 気まずそうな誤魔化し笑いで言葉を濁す。 そう、茉莉花とチョコレートといえば――山崎にも、と共有している思い出があった。 あれはがまだ副長補佐を務めており、土方の恋人になったばかりの頃か。 バレンタインデー当日にたまたま茉莉花と鉢合わせた山崎は、 彼女が土方へと用意したチョコレートを預けられ、屯所へそれを持ち帰った。 もちろんを気遣って彼女が居ない時を見計らったのだが、 沖田の策略に嵌められた結果、茉莉花からのチョコをうっかりとの目の前で手渡してしまった。 その失敗を発端にして土方とが痴話喧嘩に突入、やっと思いを通じ合わせたばかりの 可愛い恋人に誤解され、土方はすっかり機嫌を損ねていた。そしてそんな上司から 半ば八つ当たり的に鉄拳制裁を喰らってしまった山崎は、殴られた勢いで頭が廊下の床板をぶち破る、 という通常ではありえないような激痛体験も喰らったのだった。 「そうなんだよねぇ、副長は茉莉花さんのお気に入りだからさぁ。 おかげであの子にマークされちまって、店に行くたびに猛アタックされてるんだよ」 女優のように美しく貴婦人のように淑やかで、話術も知性も色香も兼ね備えた ぱぴよん自慢のNo.1ホステス。松平を始めとする幕府高官の幾人かをパトロンに持ち、 山崎にとってはまさに手の届かない高嶺の花である茉莉花だが、 そんな高嶺の花に恋心を寄せられ、店に足を踏み入れるたびに特別待遇を受けているのが土方だ。 だからなんとかして茉莉花さん以上に副長と親しくなって、一方的にライバル視している店の女王の鼻を明かしてやりたい。 負けず嫌いで手段を選ばないあの子の目的は、まぁそんなところなんだろうけど―― 「しっかし懲りないよなぁ、あの子。副長が相手にしてないって判ってるだろうにさぁ・・・」 「・・・・・・」 「この前なんて同伴してくれだのデートしてくれだのあんまりしつこく誘うから、さすがに副長もげんなりしてて」 「――山崎くん」 「ん?」 呼ばれた山崎が振り返ってみれば、は言葉に詰まっているのか、 うつむいてぱくぱくと唇を動かすばかりだった。けれどそのうちに 帯揚げをぎゅっと握り締め、勢いよく顔を上げて、 「ちょっと力を貸してほしいっていうか・・・ぉ、教えてほしいことがあって・・・!」

「 おおかみさんとおままごと *8 」 text by riliri Caramelization 2018/09/02/ -----------------------------------------------------------------------------------        next →