光り輝いていた室内装飾も贅を尽くした調度品も、今はすべてが暗闇に包まれ 眠りについたかのように息をひそめている。 夜明け前の静寂に沈む邸内の最上階。 月光に照らされる長い廊下は左右にずらりと扉が並んでいるが、今宵はどの部屋にも人気は無い。 ほのかなランプの灯が燈り、唯一人の気配を漂わせているのは 土方が目指す最奥の部屋だけだった。 重厚な造りの扉を押し開け室内へと入り、奥の寝台へと向かう。 しかしどこからか流れてくるか細い声が耳に入り、足を止める。 闇を見渡した彼は、窓際に配置されたソファのほうへと進路を変えた。 男一人が寝そべってもゆったりとくつろげそうな長椅子の上で、女は眠りについていた。 手前へ置かれたテーブルには、見慣れた淡い色の携帯電話。ほっそりしたグラスに活けられた薔薇が一輪。 たっぷりと水を張った硝子の器とテーブルの縁を飾る彫金が月明りを浴び、儚く弱々しく輝いている。 元来がさみしがりな性分で、一人でいるのも苦手な女だ。 俺が出動した後もうまく寝付けず、寝台から這い出してここで時間を潰していたのかもしれない。 それとも、窓の外に広がる夜の庭園でも眺めていたのか。背後のカーテンは大きく開かれていた。 ひっく、ひっく、と嗚咽を漏らし、枕代わりにしたクッションに縋って泣きじゃくるは 夢境を漂っているらしい。眠りの底に沈んだ意識と過去の記憶が混じり合う まぼろしの波間に揺蕩いながら、震える唇を小さく動かす。そこから流れ出るうわごとは、 どれも子供に戻ったような舌足らずさだ。 夢に囚われる苦しさに唇を噛みしめた女の顔に、涙の粒がほろほろと伝う。 しきりに零れるしずくのせいで閉じた瞼は薄赤く染まり、 頬や耳許、首筋までがぐっしょりと濡れて痛々しかった。 「・・・・・・って・・・待っ・・・・・・いかな・・・で・・・」 「――。おい」 「・・・・・・やだ・・・ぃやぁ・・・・・・って、いっしょに、かえって、くれるって・・・ ・・・と、おうち、に、かぇる・・・て・・・ゃくそく・・・た、のに・・・・・・・・っ」 「・・・・・・」 駄々を捏ねるようにかぶりを振る女の前で跪き、弱々しい嗚咽を繰り返す寝顔を覗き込む。 仕方なしに再び呼びかけてみても、目覚めそうな気配は欠片もない。 ――これも「兆候」とやらの一つなのか。 じきに起こり得る変調の一例としてあらかじめ聞かされてはいたが、 が夢にうなされる頻度はここ2、3ヶ月で急激に上がった。 昼間は明るく騒がしいこいつが、夢の中では人知れず涙に暮れている。 こんな姿を知る者は、眠る彼女を幾度となく目にしてきた土方だけ。 他に可能性がありそうなのは――の昔馴染みで彼女の兄代わりを自任している、 神出鬼没な元御庭番衆くらいか。その他の者が知ることはなく、 本人も知りえないもう一人の彼女は、が深い眠りに落ちた真夜中や、 朝の光が街を染め上げる間際の黎明にだけ現れる。 嗚咽に震える唇が漏らすうわごとの仔細もその時によって違っていれば、 夢の中の彼女が何時頃の記憶に囚われているのかもさまざまだ。 時には無邪気に家族を慕う幼い子供の頃であったり。 時には家族がばらばらになっていく寂しさを覚えはじめた、少女の頃であったり。 一途な思いと剣の腕を利用され、日々積もっていく罪の重さに 押し潰されかけていた頃であったり―― 時間を超えて彼の前に現れる、いたいけな子供や少女の泣き顔。 嫌になるほど目にしてきたそれはとっくに見慣れていいはずだったが、 何度目にしても彼を歯痒くさせ、何度目にしても遣る方無さが胸に広がる。 「・・・ゃあ・・・っ・・・ど・・・して・・・ぇ・・・・ゃめ、て、にぃ・・・さぁ・・・・・・・・・っ」 喉まで流れた涙に噎せて息苦しそうに喘ぎながらも、震える手は暗闇へ伸びていく。 ――まるで、そこに居る誰かに必死で追い縋ろうとするかのように。 これまで幾度となく思い知らされてきた屈辱感と、圧し掛かってくる無力感。 その両方に襲われて、土方は爪が手のひらに食い込むほどにきつく拳を握り締めた。 暗闇と溶け合う漆黒の髪に隠れた目許が、徐々に険しさを増していく。 ( やめて。 にいさん。 ) ――これも嫌になるほど聞き慣れた文句。 何度も耳にしたうわごとではあったが、何度聞いても慣れはしないし、いい気もしない。 いや。正直なところをぶちまけるなら――何度聞いても腹が立ってしょうがねぇ。 こいつが夢の中で呼ぶ名はいつも同じ。たった一人だけだ。飽きるほどに聞いたこの泣き声を 耳にするたび、こっちは手前の浅慮を悔いて、腸が煮えくり返る思いをさせられてきてんだ―― 身の内を焼き尽くしそうな怒りの火種をひとまず腹の底まで飲み下し、彼はに手を伸ばす。 眠る女を寝台へ移そうと身体の下へ腕を差し入れかけたが、ふと気が付いてその手を止めた。 見下ろした掌の一面に散る、禍々しい赤。 深い闇に覆われた中でもはっきり見て取れるほど多量にこびりついた血飛沫は 彼のものではなかったし、誰かの返り血を浴びてしまったわけでもなかった。 おそらくは作戦終了後、撤収の指揮をしていた際に現場のどこかで触れたのだろう。 窓辺から降り注ぐ青白い光が、躊躇いに表情を曇らせた男の手元を照らし出す。 血に汚れたその掌は、再び固く握り締められた。 を心身共に弱らせ、除隊するまでに追い込んだ例の「発作」は、ここしばらくはなりを潜めている。 ましてや今は熟睡中だ。俺が触れたところで、再発することも無いだろう―― そう思い直し、もう一度手を伸ばそうとする。ところがいざに向き合い 触れようとすれば、嫌な記憶は彼を嘲笑うかのような鮮明さで甦ってきた。 ――俺が無様にもしくじったあの日。 あれから間を置かずに起こり始めた、原因不明の呼吸困難。 症状が出始めた最初のうちは、それが心因性のものであることにまで考えが至らなかったし、 その発動条件がまさか自分だなどとは夢にも思いはしなかった。 今になって思い起こせば、何ともお目出度い話だ。 日に日に憔悴していくこいつが何に苦しめられているのかすら、あの頃の俺は知らずにいた―― 「・・・・・・・・・ぃ・・・さ・・・・・・って、まって・・・っ」 「――・・・っ、」 耳に飛び込んできた女の声で我に返り、苦々しい気分で立ち上がる。 これだから金持ちのやることは、と最初に目にした時には呆れたほどに凝った造りの 天蓋付きの寝台へと向かった。 暗い中でも淡い光沢を放つベッドカバーを、手荒い仕草で引き剥がす。 ぶわりと宙に舞ったそれを肩に担ぐと、再びソファまで引き返した。 野に咲く花のような香りを漂わせている大布は、数メートル四方はあるだろうか。 女一人を包むには充分すぎるサイズだ。それでも直に触れてしまわないよう 注意しながら頭部まで覆い、指の先までぐったりと脱力しきっている頼りない肢体を抱え上げた。 濃緑色の繭の中から顔だけを覗かせているようにも見える女は、絶えずぐすぐすと啜り泣いている。 そんなに深く伏せた視線を注ぎながら、土方は眠りにつく子供に物語でも聞かせてやるような声音で語りかけた。 「・・・安心しろ。もうじきだ。 じきにあの家に帰してやる。夢ん中でも恋しがってた襤褸道場にな」 傍目には独り言にしか思えないだろうその言葉は、ある日のが土方に強請ったことへの 返答でもあり、彼が己に課し続けてきた誓約でもあった。一歩ずつ踏み締めるような足取りで 広い窓辺を横切りながら、ひっく、ひっくと嗚咽を震わせる女の顔をじっと見つめる。 はしきりに何かをつぶやき、止まらない涙が伝う目許を悲しそうに曇らせていた。 「。お前もあれを覚えてんだろ。 あの約束は違えねぇ。お前が失くしちまったもんは必ず取り戻してやる」 ぽつ、ぽつ、と窓を叩き始めた大きな雨粒と、広大な庭園の彼方から迫りつつある分厚い暗雲。 遠雷の音も響き始めた外の景色を見遣りながら、眠る彼女に話しかける。 しかしそうしてに語り掛けながらも、語り掛けようとしている相手が 本当のところは誰なのかは、土方にも判然としなかった。 記憶の水底に意識を沈め、誰の手も届かない無窮の中で一人泣き続けている女。 の姿をしている彼女が、果たして自分の知る女なのかどうかすら彼には知りようがないのだ。 これは俺の知る現在のか。それとも俺の前に一度だけ姿を現し、 家族の元に帰りたいと泣いて強請った寂しがりやのませガキか。 義父とは絶縁寸前だった義兄を追いかけ、無謀にも廓街にまで通い詰めていた向こう見ずな少女か。 離れていく家族をどうにか繋ぎ留めたい一心で、堕ちれば二度と戻れない奈落に我が身を投じた愚かな娘か。 それとも――これは、あいつなのか。 とうに失ったはずの家族への思いと、その思いの深さを軽視していた馬鹿な男。 両者の間で板挟みにされ次第に心を蝕まれ、ついには俺の前からも消えていった―― 「・・・おい。そこにいるのか。なら全部聞こえてんだろ。 じきに俺ぁ約束を果たす。だからお前もいつまでもんなとこに閉じ籠ってねぇで、さっさとここへ戻って来い」 屋敷を乱れ打つ雨音で満たされていく室内に、淡々として素っ気ない、 けれど内心に燻る苛烈さが滲んだ男の声がひそやかに響く。 辿り着いた寝台の前で女の身体を肩へ担ぎ直した土方は、片手で毛布を剥ぎ取った。 純白のシーツに眠るを横たわらせると、マットの端に腰を下ろす。 たった二人の重みでは軋むことすらなさそうな、とびきり上質な寝台だ。 上から覆い被さる格好で女の表情を覗き込めば、疲れた身体は まるで早くここで眠ってしまえと誘われているかのように自然と沈み込もうとする。 ゆらゆらと上下するスプリングの心地よい弾力に迎え入れられながら、土方はさらに姿勢を低めた。 潤んだ瞼をきつく瞑った女の顔の横に手を突き、花のような匂いを立ち昇らせる耳元に近づいていく。 布の中からさらさらと滑り出てきた長い髪からも、淡い色をしたなめらかな肌からも――彼女の身体の すべてから漂う甘い香りを感じると、涙に濡れたやわらかな頬を手の内に納め、そのまま引き寄せてしまいたい衝動にかられた。 けれどそんな気分はこらえ、ほんの一瞬、触れるだけの口づけを耳たぶに落とす。 肌を掠めた吐息の熱がくすぐったかったのだろう。 ん…、と溜め息のような声を零したの肩が、濃緑色の繭の中でぎゅっと竦められたのが見えた。 「――判ったか。判ったなら、もう泣くんじゃねぇ」 その声が届いたかどうかを確かめる術はなかったが、溢れ続けていた女の涙がすうっと流れを途絶えさせる。 ぐずる子供のような声を漏らしたが、ベッドカバーの中で何度か身じろぐ。 かと思えば寝返りを打って横を向き、土方の胸元へ濡れた頬を摺り寄せてきた。 夢にうなされ汗ばんだのか、涙に濡れた小さな顔は額に湿った前髪を貼りつかせている。 まだ痛々しいその顔を眺めて苦笑に目許を細めた土方が、柔らかくなめらかな髪の流れを 指先でそっと避けていく。分厚い布ごと彼女を掻き抱き、宥めるような口づけを額に落とした。 すると、意識が無いはずの女はその温もりに安堵したらしい。 幸せそうに表情を緩めてくたりと彼に頭を預け、どんな悪夢も手を伸ばせないような深い眠りに落ちていく。 窓の外では地を揺るがすほどの雷鳴が轟き、暗雲を切り裂く閃光の白に庭中が染め上げられていた。 「――えっ。もうみんな屯所に帰っちゃったの?」 朝食を貰いに行く前に二階の隊士詰所に寄ってみたら、昨日までは人で溢れ返ってた大広間は すっかり空っぽになっていた。王様とかお姫さまが使うような天蓋付きの豪華なベッドで あたしが呑気に眠ってる間に、ほとんどの人が屯所へ戻ってしまったみたい。 残っているのは相変わらずメイドさん姿な山崎くんと、屯所との連絡用に 持ち込まれた大きな通信機材を梱包してる六番隊の数人だけだ。 「うん、昨日は予想外に早く片付いたからね。ほとんどの奴は日の出前に撤収したよ」 こいつを外のトレーラーに積んだら、残留組も戻るってさ。 山崎くんはそう言いながら、機械に疎いあたしには名前も用途もわからないような最新鋭機器を指してみせた。 突入先が住宅街にあることを考慮して深夜に行われた掃討作戦は、無事に成功したそうだ。 隠れ家として使われていた屋敷では、指名手配中の浪士数名を含む25人をすみやかに捕縛。 突入時に抵抗した浪士の何人かが病院送りになったけど、幸い隊士には一人も怪我人が出なかった。 何でも山崎くんが言うには、このお屋敷を拠点に使わせてもらったことで かなり楽に作戦が遂行できたそうで―― 「――まぁここの立地が良かったってのもあるけどね。何が一番助かるって、 やっぱりここのオーナーが作った地下通路が」 「地下通路?えーっ初耳だよー、そんなものまであるんだぁこのお屋敷」 「〜〜〜っっ!ちちっ違っ違うよ今のは言い間違ったっていうかぁぁっっ、 いやだからあれだよあれっ、ただの地下施設だよ地下施設!!」 途端におたおたと慌て始めた山崎くんが、ぐるぐる巻き取った通信用の太いケーブル線を ぶんぶん振り回しながら否定する。こめかみからも額からも変な汗がだらだら流れて 止まらない姿は、どう見ても怪しさ満点だ。だけどそんな姿は見なかったことにして、 あたしは「うんうん、地下施設ね、地下施設」ってへらへら笑って相槌を打った。 だって、山崎くんがこんなに焦ってるんだもん。豪邸の地下に広がる謎空間が どんなものなのかは不明だけど、一般人にその存在がバレただけで 山崎くんが土方さんに半殺しにされかねない極秘事項だってことは明らかだ。 それに近藤さんからも、事前に言い渡されてるもんね。今回の作戦内容を あまり詮索しないでくれ、って。あの言葉にはたぶん、滞在先になるこのお屋敷に 必要以上の関心を持たないでくれ、って意味合いも含まれてたんだろうし。 「それでその地下通・・・じゃなくて、地下施設がどうしたの」 「〜〜っそっっ、そうそう地下施設だね地下施設!そこを借りられたおかげで 各隊の連携が上手くいって、撤収もかなり早く済んだからさぁっっ」 なんて説明した声も無理して笑ってるかんじの顔もひくひく引きつってる山崎くんは、 まだまだ気が動転してるみたいだ。10メートル以上ありそうな太い回線ケーブルの束を 次から次へと何本も、段ボール箱が壊れそうな勢いでぎゅーぎゅー押し込めまくってた。 冷蔵庫くらいのサイズの重そうな機械を数人がかりで持ち上げた六番隊の隊士さんたちが、 「もーちょい右だ、右」「壁にぶつけるなよ」なんて声を掛け合いながら 広間を出ていく。残留組の人たちを入口まで見送ってから広間のほうへ振り返れば、 昨日の今頃の時間は朝食を食べる人たちの声が賑やかに響いてた空間には、 いくつか積み上げられた段ボール箱と、山崎くん一人だけ。昨日までの賑やかさが嘘だったみたいにしんとしてる。 「・・・そっかぁ、もう作戦終了なんだね。ちょっとさみしいかも」 「え?」 「あたしね、ここでみんなと一緒に過ごせて、久しぶりに任務のお手伝いも出来て・・・ お仕事だってこと忘れちゃうくらい楽しかったんだ。また真選組に戻れた気分になってたから」 そう言って、なんとなく黙り込んで――しゅんとして下を向いちゃってる自分に気付いて、 あわてて顔を上げて笑顔を作る。不自然にならないように頑張ってみても、 何でも表情に出しちゃう癖を未だに直せていないあたしは、沈んだ気分を ほとんど隠せてない、情けない表情しか作れなかったみたいだ。「ああ、うん」って相槌を打ってくれた 山崎くんの顔も、気まずそうにぎこちなく笑ってるから。 ――土方さんから作戦日時の繰り上げを教えられたときも、こんな気分だった。 あの時もあたしはさみしくて、なんだかひどく不安定な気分になって。 それでも情けない顔であのひとに縋りついてしまってる自分に、しっかり言い聞かせたつもりだった。 真選組の任務に予定変更があるのは当然のこと。楽しい時間はもう終わりなんだ、って。 なのに――まだどこかで期待してたんだ。 もう少しみんなと一緒にいられるんじゃないかって。 今日も明日もずっと土方さんの傍にいられて、隊士だった頃みたいな楽しい時間が続くんじゃないかって―― 「・・・でも、そーだよね。あたしは半分旅行気分で楽しんでたけど、 みんなは任務で来てるんだもん。一日でも早く終わるほうがいいに決まってるよね」 「うーん・・・それは勿論、そうなんだけどさ。でもさ、俺達だって楽しかったよ。 さんが屯所に戻ってきてくれたみたいで、嬉しかったよ」 握り飯も味噌汁も、うまかったし。 そう言ってちょっとこっちを見上げると照れ気味に笑った山崎くんは、 ケーブルを目一杯に詰め込んだ箱の蓋を閉じ始めた。そんな姿を見ていると、 なんだか懐かしさが湧いてくる。山崎くんがこんなふうに 照れ笑いして目を逸らすのは、決まって落ち込んだあたしを慰めようとしてくれる時だ。 「ありがとう、お世辞でも嬉しいよ。おかげでかなり回復したよ」 「いやいや別にお世辞じゃないし。ていうか俺達だけじゃないよ、副長だって楽しそうだったよ」 「えっ」 「まぁあの人のことだから、口が裂けたってそんなこと言わないだろーけどね」 「ひ、土方さんが?ほんと?ほんとに???」 ガムテープを貼ってる最中の段ボール箱に思わずばっと飛びついて、どきどきしながら尋ねてみる。 うん、て頷いた山崎くんは、そんなあたしの反応が可笑しかったみたい。 「そんなに驚くことかなぁ」ってくすくす笑いながら段ボール箱を抱え上げると、 「だからさ、またこんな捜査協力があったら引き受けてやってよ。 そのほうが副長も喜ぶし鬼の機嫌も良くなって、俺たちも万々歳ってやつだからさ」 「うんっ、ありがとう!あたし次も頑張るね!次の役が近藤さんの奥さま役でも全力で頑張るからっっ」 「いや、それはないから。そんなおそろしいことになったら副長と沖田さんが黙ってないからね」 「そーだ、次に頼まれた時のために今から局長夫人役の演技の練習しなくちゃ!」 「いやいやいや、そんな練習しなくていいから。局長の嫁なら大江戸動物園から メスゴリラでも借りれば充分だから・・・って、ちょっとさん、俺の話聞いてる? なにその「あたしやる気満々ですっ」てかんじの目キラキラさせた顔」 「じゃああたし部屋に戻って練習してくるね!あ、そーだ、荷物もまとめなくちゃ。 ついでに土方さんの荷物もまとめてくるよ」 早口で付け足しながらくるっと回れ右して、あたしは入口のほうへ走ろうとした。すると、 「へ?荷物?」 後ろから不思議そうな声が上がる。 「いやいや待ってよ、荷物まとめるって」って、山崎くんが箱を持ったままあたふたと追いかけてきて、 「さん、どーいうこと。今から帰り支度なんて気が早すぎだよ」 「え、だって、もう作戦終了でしょ?だったらいつまでもここでお世話になるわけにいかないし」 「は?・・・ちょっと待って、話が噛み合ってない気がするんだけど。 もしかして、副長から今後の予定とか聞いてないの」 「うん、まだ何も。土方さんね、さっき起きたところなの」 あたしが起きたときも隊服姿のままで、しかも手に煙草の箱とミネラルウォーターの瓶を握った状態で、 さらにはなぜかベッドじゃなくてソファで眠ってた土方さんは、いくら声を掛けても 肩を叩いてみてもなかなか目を覚まさなかった。 目を覚ましてからも欠伸を噛み殺してる様子がすごく眠そうだったし、 日課の早朝稽古もすっ飛ばして大々的な寝坊をした自分をちょっと不甲斐なく思ったみたい。 眠ってる間に握り潰してしまったせいでぐにゃりと折れてしまった煙草を眺めて 不満そうに口許を引き結んでたひとは、自分の失敗を悔しがって不貞腐れてる子供みたいだった。 「睡眠時間も短かかったみたいだし、よく眠れなかったんじゃないかな。 何か尋ねても「ああ」とか「おう」しか返ってこなかったし、そのうちにバスルームにふらふら入って行っちゃって」 「そっか。じゃあさん、まだなんにも知らないんだ」 「え?」 ・・・まだなんにも知らない? それって、あたしが眠ってる間に何かがあったってことだろうか。 不思議に思って尋ね返そうとしたその瞬間、がらりと勢いよく襖戸が開いた。 「山崎さん、この段ボールで最後っすか」 額の汗を拭いながらばたばたと広間へ入ってきたのは、通信機器の運び出しで 何度も一階と二階を往復してた六番隊の新人さんだ。 「あー、ちょっと待った。もう一回チェックするから」 山崎くんはそう言いながら、高く積み上げた段ボール箱の山のほうへ戻っていく。 山のいちばん上にぽいっと投げ出されてる書類の束を取り上げて、新人さんに指示を出しながら ぱらぱらと書類を捲り始めた。 厚さが数センチくらいはありそうなあの束は、たぶんこの手の機械の管理責任者でもある 井上さんが置いていったものじゃないかな。内容はさっき運ばれていった精密機器の説明書とか、 機械に異常があったときの対処マニュアルとか、付属品とか消耗品なんかの数量チェック表とか、その他いろいろ。 重たい機械を運び出す搬出作業ではあまり役に立てないあたしも、こういった撤収作業の 数量チェックや点検に回されることが多かった。だからあの分厚い束の内容も、 しょっちゅうやってた撤収作業の要領も、まだ頭の中に残ってる。 もしお手伝いをさせてもらえるなら、今でもそこそこ役に立てる自信はあるんだけど―― 「・・・・・・――」 開きかけた唇をあわてて噤んで、あたしはそろりと後ずさった。 気まずい気分でうつむいて、借り物の豪華な振袖の袖端をきゅっと握り締める。 ・・・ああ、もう、ばかみたい。 うっかり出過ぎたことを言い出しちゃうところだった。 今回は特別に任務に協力しているけれど、あたしが協力していいのは頼まれたことだけ。 本来はここにいることも許されない部外者なんだし、頼まれてもいないことにまで首を突っ込んじゃいけないのに―― 何か話し込んでいる山崎くんと新人さんを、二人から少し離れた広間の隅から黙って見つめる。 臨時の隊士詰所になってたこの部屋は、数十畳もある大きな和室だ。 こうして距離が空いてしまえば、声は聞こえても会話の内容までは解らない。 忙しそうな二人を眺めるうちになんとなくその場に居づらくなって、あたしはそろそろと後ずさりを始めた。 だけど数歩くらい下がったところで、さん、って呼びかけられて。 振り向けば新人さんに書類の束を預けた山崎くんが、急ぎ足でこっちへ寄ってくるところだった。 「――ちょっと待って、えーと、昨日の作戦終了後に決まったんだけどさ・・・・・・」 「・・・それでねー、下で山崎くんに教えてもらいましたぁ! 土方さんも山崎くんも、臨時でお休みもらえたんですよねぇ?しかも連休で」 ――子供ならかけっこしたくなること間違いなしな長い廊下を 朝食を乗せたワゴンを押して戻ったら、土方さんはまだバスルームの中だった。 窓の外でしとしと降り続いてる冷たそうな秋雨と似た水音が、広い部屋のすみにある 水色のドアからほんのかすかに漏れている。野いちごの実や蔓の金細工で 縁取られた綺麗な扉を、こん、こん、こんっ。 リズミカルに数回ノックしてから、さっきからにやけっ放しな顔をさらに緩めて あたしはもう一度話しかけた。 「土方さーん、聞こえてますかぁ。 それでー、二人とも休養を兼ねて明日までここに泊まるんですよねぇ? だからあたしも予定通りに一緒にいていいんですよねぇ、えへへ〜〜」 えへへ、ふふふ、うふふふふ〜〜。 もし土方さんに見られたら「何だその崩れきった面は」って眉をひそめて呆れられそうなくらい 目尻を緩めて、厨房から借りてきた特大マヨネーズ(2リットルサイズ)を抱きしめたあたしは ふにゃふにゃとへらへらと笑い続けた。その場でぴょんぴょん跳ねたりくるくる回ったり 好きな曲を歌いながら頭を振ったりマヨを振ったり、以前小菊姐さんとカラオケに行った時には 「やばい!やばいわ、あんたリズム感が死滅してる!」ってお腹を抱えて 大笑いされたくらいに下手なダンスを披露しながら、ふにゃふにゃへらへら笑い続けた。 自分でもさすがに浮かれすぎじゃないかって思うけど、止められないんだから仕方ない。 もしここに何かの手違いでお屋敷の執事さんやメイドさんが来ちゃったら、 きっとそれ以降、誰もあたしと目を合わせてくれなくなるはず。そんな確信を抱いちゃう くらいの不審者に成り下がってる自覚はあるけど、それでもやっぱり止められないんだから仕方ない。 ああどうしよう、今あたし、きっとすごい顔になってる。だけど嬉しすぎて 笑いが止まらないし、声を出さないようにしても顔は自然と笑っちゃうし身体も勝手に動いちゃうし、 こんな時の笑いの止め方なんてわからない。でもいいよね、今日くらいは浮かれてもいいよね。 ああ嬉しい。すっごく嬉しい。 土方さんは今日も明日も非番。今日も明日もお仕事が無いなら、ずっと一緒にいられるかもしれないんだ。 そう思うと身体がふわふわ浮き上がりそうな弾んだ気分になってきて、あたしは左手を 目の前まで上げる。薬指で輝いてるのは、土方さんに嵌めてもらってから ずっと着けっ放しにしてる銀のリングだ。もしかしたらこれって、 着けた人の元に幸運を運んでくれるリングなのかも。そんなことを言えば土方さんに 鼻先で笑い飛ばされそうだけど、これを着けて任務のお手伝いをしていたおかげで、 思いもしなかったとびきりのご褒美が舞い込んできたんだもんね。 そんなことを考えながら薬指を見つめたら、緩みきった目許はさらに緩んでいった。 ――土方さんが連休なんて、ほんとに何か月ぶりだろう。 元々が自分からはあまり休もうとしないひとだけど、今年に入ってからというもの、 鬼の副長の仕事中毒ぶりは文字通り鬼気迫っていた。 連休を取ろうなんて考えは、たぶん今の土方さんの頭にはこれっぽっちもないんだろうな。 傍目にもそう感じるくらいに時間を惜しんで没頭してて、 おかげであたしが土方さんと一緒にいられる時間はこのところ減る一方だった。 だから、内心ではさみしく感じてたんだよね。そんなこと言って土方さんの 邪魔をするのは嫌だったから、平気なふりをしてたけど―― 「・・・・・・って、あのー、土方さぁん?聞いてるー?聞いてますかぁ? ちょ、無視?無視ですかぁ?おーい土方ー、返事しろ土方ー」 いくら呼びかけても返事がないから、こん、こん、こんっ。 もう一回ドアを叩いてから、耳をぴったりくっつけてみる。 中からはシャワーの雨音しか聞こえない。ドア一枚隔てた浴室はうちのアパートの ユニットバスが20台は余裕で並べられそうな広さだから、ノックの音も聞こえづらいのかも。 そう気付いて、すーっと大きく息を吸い込む。ちょっと強めにノックしてから、思いきり声を張り上げた。 「土方さぁああん、聞こえますー?さすがに聞こえてますよねー?」 「・・・・・・」 「ぇえー。また無視ー?」 いくらシャワー中だからって「ああ」とか「いや」とか「うるせぇ」くらいは 普通に言えそうなものなのに、返ってくるのは細やかなシャワーの水音だけだ。 えーっ。なにそれ。土方さんの無愛想さにはこっちもとっくに慣れてるけど、 せめて返事くらいはしてほしいよ。ていうか、無愛想にもほどがあると思うんですけど。 朝からお疲れだった副長さまを労うためにごはんを運んできてあげた子をここまで完全に無視するだなんて、 無愛想を通り越して礼儀知らずっていうんじゃないの。 …なんてことを「これ以上無視するとさすがに本気で怒りますよ」ってかんじの口調で ぶちぶちと(とはいえ実際は言うほど怒ってないことがバレバレな緩みきった顔で)訴えたんだけど、 「・・・・・・・・・ってあれっ、また無視?無視ですかぁ? 何ですかぁそれ最低ですよー横暴ですよー朝ごはんマヨ抜きにされたいんですかぁ。 いいんですかぁこれ以上無視すると副長さまのためにわざわざ持ってきたこの特大マヨネーズ 窓から放り投げちゃいますよー。昨日行った温室まで大遠投しますよー」 すっかり意地になったあたしは、総重量2キロ、持ってるだけでちょっとした 筋トレになりそうな特大サイズのマヨネーズを「えいっ」と両手で頭の上まで振り上げる。 ふざけて窓のほうへ投げるポーズまで取ってみたけど、それでもドアの隙間から漏れてくるのは水音だけ。 あれっ、て目をぱちくりさせて、陸上選手が槍とか砲丸を投擲するみたいな姿勢のまま首だけ横へ動かした。 水色のドアへ振り向いてみたけど、バスルームからはやっぱり何の反応も返ってこない。 ・・・・・・あれっ。おかしい。 土方さんが本格的におかしい。一体どうしちゃったんだろう。 食卓にマヨネーズがないだけで機嫌を損ねる重度のマヨラー土方さんが、 大事なマヨを人質にとられても全く反応しないなんて。 「・・・?あのー、どうしたんですかぁ。今日はちょっと変じゃないですかぁ」 ていうか、ちょっとどころじゃなく変だ。完全に変だ。 毎日目覚ましをセットすることもなく明け方の早い時間に目を覚まして 稽古に行っちゃう土方さんが、こんな遅い時間まで寝坊したってだけでも大異変なのに。 「先週もお休み無かったから、疲れが溜まってるんじゃないですかぁ。 山崎くんもね、どこか具合でも悪いんじゃないかって心配して ・・・・・・ん?あれっ。そーいえば、山崎くんも変ですよねぇ。どーして今日もメイド服着てるんだろ・・・?」 2キロの重さを頭上で支える、ていう重量挙げっぽいポーズのせいで二の腕をぷるぷる震わせながら、 湧き上がった疑問に首を傾げる。 そうだ、さっきは気付かなかったけど――せっかくの貴重なお休みなのに、 どうして山崎くんはメイド服なんて着てるんだろう。 潜入捜査目的でお世話になってるお屋敷の中とはいえ、 お休みの日なんだから普段着でいいはず・・・、じゃないのかな。 「・・・?何かメイド服じゃないといけない理由でもあるのかなぁ。 ねぇ土方さん、知ってますかぁ?・・・・・・って、聞いてますかぁ土方さーん」 「・・・・・・」 「・・・・・・・・・あれっ。・・・土方さん?・・・ねぇ、ひ、土方さぁん・・・?」 「・・・・・・」 「・・・・・・・・・まさか本気で聞こえてないとか、そういうあれじゃないですよねぇ。 あたしがぎゃーぎゃーうるさいから、相手するのが面倒だから無視してるんですよねぇ・・・?」 なんて問いかけてる間にも大きくなっていく一方の違和感に、胸がざわざわ騒ぎ出す。 へなへなと力が抜けていった手でマヨネーズをワゴンに戻しながら、あたしはごくりと息を詰めた。 ベッドの脇のテーブルに置かれた時計にあわてて振り向けば、針は8時10分を指している。 ・・・・・・どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。おかしい。 絶対に変だ。ていうか異常だ、ありえない。土方さんがバスルームに入ってから、 もう40分以上経ってる。単に長風呂が好きじゃないのか、それとも一年中多忙なせいで お風呂も手早く済ませるのが癖になってるのか、理由はわからないけれど、 土方さんの入浴時間はとにかく短い。なのに――そんなひとが、40分もシャワーを浴びてるなんて。 「ひ、土方さぁん?ねぇっ、ふざけてないで返事してくださいよー」 「・・・・・・」 「もしかして・・・ほんとに具合悪いんですかぁ?〜〜っ、っそ、そんなことないですよねぇ 土方さんに限ってそんな、具合悪くなって意識なくして溺れてたり、なんて・・・」 「・・・・・・」 「〜〜ぅ、うそ、やだ、土方さんっっ、聞こえますか土方さん!ドア開けますよ、いいですよね!?」 不安と焦りで半泣きになりながらドアを開けて、湯気をぶわりと溢れさせた中へ飛び込む。 足が床に触れると同時で、ぱしゃっ、て跳ねた温かい感触で足裏が滑った。 勢いよく突入したせいで転びそうになって思わず床に手を突いたら、 脱衣所の床が目に入る。奥の浴室部分よりも数センチは床が高いはずのここまで、お湯の波は押し寄せてきていた。 崩れた姿勢を立て直しながら、あわてて顔を上げる。手前の脱衣所や洗面台とは ガラスで仕切られている浴室部分と、その半分ほどを占める大きなバスタブ。 そこが目に入った瞬間、あたしは心臓が止まりそうになった。ぱしゃぱしゃと高く お湯を跳ね上げながら、奥の浴室へと駆け込んでいく。 ――バスルーム中を熱気と湿度で真っ白に霞ませてるシャワーのお湯。 出しっ放しになってるその飛沫が、浴槽の縁にぐったりもたれて 目を閉じてるひとの頭や肩に、ざあざあと絶え間なく降り注いでる―― 「土方さん!大丈夫ですか土方さんっっ」 バスタブに体当たりする勢いで飛び込んで、雫が伝う逞しい肩に抱きついた。 手も足も震えが止まらなくて思い通りにならない身体に「動け」って必死に命令しながら、 しがみついた肩を全力で揺さぶる。 「ひ・・・土方さぁんっ、やだぁ、へ、返事してぇ、土方さんっっ!!」 上擦った声で泣き叫んでたら、きつく閉じていた瞼がびくりと動いた。 それと同時で、掴んでいた肩もびくりと揺れる。 あっ、と息を飲んだあたしは、湯気が昇る浴槽にぐったりと身を沈めたひとの顔に目を見張った。 まだ意識があるのかも。そう思ってもう一度揺さぶったら、 お湯に浸かった太い喉が息を飲むような動きを見せた。んん…、って、籠った音の唸り声が響く。 濡れた髪の先から透明な雫が滴ってる眉間が、ぎゅーっ、と不快そうに狭められていく。 よかった、意識があるんだ。土方さんっ、って涙声で呼びかけながらまた揺さぶれば、 ゆっくり開いた唇が深く長く息を吸い込む。「あぁ・・・?」ってとびきり不機嫌そうな、 地の底を這うような低い呻き声を漏らして、 「・・・・・・おい、ちったぁ静かに出来ねぇのか。なんだ。朝っぱらから何の騒ぎだぁ・・・?」 しがみついていたあたしの手をぐっと握って肩から外すと、土方さんは、はーっ、と 疲れきったような溜め息を吐いた。あたしの手首をがっちり掴んだ長い指には、 いつもと変わらない力強さが籠められてる。ぽたぽたと雫を滴らせる前髪が、気怠そうな仕草で掻き上げられる。 そんな姿を確認したら、緊張感が一気にぷちんと切れたみたいだ。 あたしの膝は急に力を失くしたみたいにかくんと折れて、へなぁっとその場に崩れ落ちた。 浴槽の縁からざぁざぁと溢れていく熱い波の中に、ぺたん、と正座で座り込んで。 「・・・・・・っっっひ、ひじかた、さ・・・・・・し。しんでない・・・?ぃきて、る・・・?」 「はぁ?」 大きな手の影で薄く開けられた目が、呆然とつぶやいたあたしを睨む。 かと思えば呆れたような目つきになって、窓のほうへ視線を逸らして溜め息を吐いた。 嘆かわしげに漏らされた二度目の溜め息は、一度目のそれよりも長かった。 「けっ、何が「しんでない?」だ。人が目ぇ覚まして早々に、縁起でもねぇ」 「っっ、だって、ほんとに死んでるみたいに見えたんだもん・・・! っっ、そーだ、こういう時はまず意識がしっかりしてるかどうかを確認するんですよね! 土方さんっ、聞こえる?聞こえてますかぁあたしの声っ聞こえてるなら返事してぇぇぇ!!」 「耳元で喚かれてんだぞ。聞こえるに決まってんだろうが・・・」 ったく、寝言も大概にしろってぇんだ。 きつく皺が寄った眉間を指先で揉み解してるひとが、掠れた声でうんざりしきったような口調を漏らす。 ・・・よかった、具合が悪いわけじゃないんだ。この憎たらしいくらいの皮肉っぽさも、 あたしのおバカな行動に心底呆れきってるこの態度も、間違いなくいつもの土方さんだ。 いつの間にか頬まで流れてた涙をあわてて拭いながら、「よかったぁ・・・」って 鼻が詰まった涙声で何度も何度も繰り返す。 本当によかった、何事もなくて。 具合が悪くて意識がなかったわけじゃなくて、寝不足が祟って眠り込んでただけみたいだ。 鬱陶しそうに濡髪を掻き上げる手の仕草も、こっちに据えられた切れ長な目の鋭さも、 いつもと変わらない土方さんだ。心底ほっとしたあたしは、心の中で胸を撫で下ろす。 お湯が滝のように溢れ続けてるバスタブの縁につかまって、とりあえずシャワーを 止めるために立ち上がろうとしたんだけど―― 「・・・・・・ん?・・・・・・あれっ。土方、さん・・・?」 シャワーを止めることも忘れて、相変わらず浴槽の縁に凭れかかったままのひとに しげしげとまじまじと目を見張る。立ち上がりかけた姿勢のせいで距離が縮んだ拍子に、 ほんのちょっとした違和感を見つけてしまったからだ。あれっ、って大きく首を傾げたあたしは、 土方さんにもっと迫ってぱちぱちと目を瞬かせる。そんなあたしが気になったのか、 土方さんもバスタブの縁から身を乗り出すようにして迫ってきた。無駄なく鍛えられた 上半身が身じろぎしたら、ぱしゃ、と大きな浴槽の中でお湯が跳ねる。その動きで 波をうねらせたお湯が、綺麗なカーブを描く白い縁からざあっと流れ出る。こぼれたそれは 心地いい温かさであたしの着物の裾を濡らしていった。 ・・・・・・・うん、変だ。 一見したところはいつもの土方さんなんだけど、やっぱりちょっとだけ変かもしれない。 こっちを覗き込んできたひとの顔は、よく見れば目の焦点が合っていない。 あたしにじっと注がれた怪訝そうな視線は、よく見ればわずかに揺らいでる。 それに、少しだけ目つきがぼんやりしてる。瞳も少しだけ潤んでる。まるでお酒に酔ってるときみたいに。 「うーん、でもお酒の匂いなんてしないし。やっぱりどこか調子悪いんじゃないですか。 頭痛かったり熱っぽかったりしませんかぁ」 「あぁ・・・・・・?っだ、お前・・・まだ泣いてんのか」 「え?あぁ、えっと、あの、まだっていうか・・・ちょっとだけですよ、ちょっとだけ」 軽く眉を潜めた顔に真正面から尋ねられて、なんだか気恥ずかしくなってしまう。 頬が勝手に熱くなっていくのを感じながら、あたしはもごもごと小声で答えた。 「ていうか、違いますよこれはぁ、泣いたとかじゃなくてっ。 土方さんに何かあったんじゃないかって、びっくりしたら・・・勝手に涙が、出てきただけで・・・っ」 さっき指で拭いたから、もう残ってないと思うんだけど――それでもまだ顔に 涙の跡が残ってるような気がする。何かと目敏い土方さんなら、 そのくらい簡単に見抜いてしまいそうだ。ばつが悪くてうつむいて、両手で掴んだバスタブの縁を 指先で弄りながら視線を逸らす。ところがそこで「おい」って愛想の無い声に呼びかけられて、 逸らしかけてたあたしの視線は、再びバスタブのほうへ戻ってしまった。 ――しかも、今までは意識して目を向けないようにしていた方向へ。 入浴中で何ひとつ身に着けてないひとが、深く身体を沈ませてるお湯の中へ―― 「〜〜〜〜っっ!」 波打つ水面越しに目に飛び込んできた光景が、心臓を思いきり跳ね上がらせた。 鍛え上げられた二の腕に、女のあたしとはまるで違う線を描く肩や鎖骨、逞しい胸筋。 水面の下でゆらゆら揺れ動くようにして見えている引き締まった腹筋に、それから―― 「っっぅぎゃああああああああ!!!」 「あぁ?どうし――ぷはっっっ!」 叫んだのと同時で動いた腕が、傍の壁から引っ掴んだ何かを思いきりぶんっと放り投げる。 ぼふっ、って空気を孕んだような音とともに土方さんの顔にぶち当たったそれは、 木苺と蔦がモチーフになってる可愛い陶製のバーに掛けられていた、ふわふわもこもこなバスタオルだ。 「・・・・・・・・・てっっめぇぇぇ・・・・・・・」 怒りなんてものは通り越していっそ怨念でも籠ってそうな低音で、 ぼそりと脅しをかけられる。だけど、それ以上は物を言う気すら失せてしまったみたいだ。 頭からバスタオルを被せられた格好のままで無言のプレッシャーを掛けてくる鬼の副長をよそに、 あたしはがばっとうずくまる。ざあざあとお湯を溢れさせてるバスタブの影で、ぶんぶん頭を振りまくった。 ・・・だって、だって、だってだってだって!しょうがないじゃん、しょうがないじゃない・・・! もちろん土方さんのこんな姿は、これまでも何度も目にしてる。してはいるんだけど―― 困ったことにこのひとは、真選組一のモテ男。黙って煙草を吸ってるだけでも絵になる容姿なうえに、 女の子をどきどきさせてしまう雰囲気や色気を常に無自覚で振り撒いてるような人だ。 そんな人のこういう姿はあたしには刺激が強すぎて、何度目にしても慣れる気がしない。 それにいつもは、灯りを消した部屋の中とか一緒に眠るお布団の中とか、 もっと薄暗い場所で見てるわけで。しかもその殆どが、土方さんにあれこれされて 何が何だかわからなくなってる時なわけで。だから本当に、けっこう長い間一緒にいるにも関わらず、 あたしには「裸になった土方さん」に対する免疫ってものがまったく付いていない。 だってこんな真昼間に、こんなに明るい場所で、こんなにはっきり見ちゃう機会なんて滅多になかったんだもん・・・! 「・・・」 「っっっは、はいぃぃ!?」 部下として付き従ってた頃からの条件反射で振り向けば、タオルを引っ被ったままのひとが 冷ややかな無言で待ち構えてた。ああやばい、どうしよう。 きっと、絶対に怒られる。いや、怒られるどころじゃ済まないかも。いきなりガツンと殴られるかも・・・!! 全身が震えるほどおびえきってすっかり涙目になったあたしは、バスタブの縁から全速力で手を離した。 勢い余って腕が大振りになって、思いっきり万歳するような間抜けなポーズでかちんと固まる。 「っっぅあぅあぅあぅぅぅっっ」って意味不明に呻いてたら、頭を覆ったタオルの影で土方さんが溜め息をついた。 はーーーっ、ってやけに長々とした、呆れすぎて怒る気も失くした人が漏らしそうな溜め息だ。 かと思えばタオルをぽいっと投げ捨てて、嘆かわしげにこっちを睨んだしかめっ面と目が合って。 ・・・ああ、来る、いよいよ来る、これは絶対に拳骨が来る! しかも目の中で星が散るレベルの最っっ高に痛いやつが!! 危険を察してびくーっと竦み上がったら、土方さんはそんなあたしの予想に反した行動に出た。 「――・・・っ!」 現在急上昇中なあたしの体温よりも、もっと熱くて濡れた感触に ――煙草の薫りがしみついた手のひらに、頬をゆっくり包まれる。 それだけでもどきっとしてしまって悲鳴を上げそうになったのに、 ごつごつした指先は肌を滑ってこめかみのほうを撫で始めた。 ほんのわずかに皮膚を掠めるだけの手つきは酷くくすぐったくて、っっ、って背筋が跳ね上がる。 そんなあたしを弄ぶように熱い指先は髪を梳いて、耳の輪郭もなぞり始めて―― 「っゃ、ふぇ、くすぐった・・・っ。ぅう、ちょっっ、ひ、ひじ・・・〜〜っっ!?」 「ったく・・・まるで赤ん坊の子守りだな。やっと泣き止んだと思やぁまたこれかよ・・・」 「え?ぇえ??な、なんですかぁ、子守りって、〜〜っ、ひゃ、っっ!」 雫が伝う人差し指の先があたしの頬に軽く沈んで、力が籠ったその指で強引に顔の向きを戻される。 咄嗟に瞼をぎゅっと瞑ったから、あと少しで視界に飛び込んできそうだった土方さんの身体は ぎりぎりでシャットダウンできた。 ああ、でも――どうしたらいいの。 こうして目を瞑ってたって、それでも充分いたたまれないよ。 頬をゆっくり撫で始めた手のひらは普段よりも熱っぽくて、普段あたしに触れてくるときと違ってしっとり濡れてる。 噎せ返りそうなくらいの濃い蒸気や湯気の匂いが呼吸するたびに喉まで入り込んできて、 そのうちに頭の中まで湯気の熱で一杯にされそうだ。ぴちゃん、ぽちゃん、って 水面で雫が跳ねる音が耳に飛び込んでくるたびに、ここがバスルームだってことや、 男の人が入浴してる場所にうっかり自分から飛び込んでしまったことを後悔せずにいられない。 シャワーが出しっ放しな浴室の蒸気で湿りかけてきた着物の奥では、 心臓がばくばくばくばく、壊れそうなくらいに暴れてる。 天井まで満ちた熱気のせいで最初から息苦しいくらいだったのに、 ・・・どうしよう。これじゃあ入浴してないあたしのほうが先にのぼせ上がっちゃいそうだよ・・・! 「ひひひひじひじ土方さぁんっっ、ははは離れてくださぃぃっ着物が濡れちゃ」 「おら、こっち来い。いいかげんに泣き止め」 「っななな泣き止めって、なんなんですかぁさっきからっ。 ていうかさっきも言ったけどあたし別に泣いてな、――っっ!?」 そこでなぜか唐突に、ぐい、と手首を引っ張られて。 おそるおそる瞼を開けると、お湯の中から伸ばされた土方さんの手が、 有無を言わせない腕力であたしの腕を鷲掴みにしたところだった。 ぐっと筋肉を浮かせた馬鹿力な右腕はあっというまにあたしを身体ごと引き寄せて、 「え?」ってあっけにとられてるうちに腰に左腕を回されて、 「へ?っちょ、っっゃ、ぅわっっ、っぇええぇ!!?」 みるみるうちに足が浮いて浴槽の縁も無理やり乗り越えさせられて、 「えええっ!?」って目を剥いた時には、水滴を纏った分厚い肩にひしっとしがみつくしかなくなってた。 おろおろとあたふたと見下ろした先には、濡れて艶が増した真っ黒な髪とふわふわ立ち昇る白い湯気、 そしてちゃぷちゃぷ波打つ透明な水面が迫ってる。びくびくと強張り始めた顔中から、 さーーーっ、と血の気が引いていくのが自分でもわかった。 ・・・うそ。うそでしょ。お願い、誰か嘘だと言って。このままじゃ確実にずぶ濡れになっちゃう! 昨日に引き続き身に着けてる、栗子さんの高級ブランドお着物が!!! 一瞬でそんなことが頭をよぎって、何が何でも水没を避けたかったあたしは 土方さんの頭にむぎゅっと全力で抱きついた。だけどあたしの全力じゃ、 本気を出した男の人の力と地球の重力には逆らえるわけもなくて―― 「〜〜っやっっっちょっ待っなっっっ、んなななっ、なっっ!!?」 ぼっっちゃぁあああああぁああんっっっ。 二人が入浴してもまだまだ余裕がありそうな広いバスタブからは、 あたしの悲鳴と派手な水音と大波みたいな水飛沫が高々と上がった。
「 おおかみさんとおままごと *6 」 text by riliri Caramelization 2018/05/05/ ----------------------------------------------------------------------------------- 副長今年もおめでとうしろう!!(1年ぶり2回目) next →