「・・・ぅ・・・うそだろ、どうなってんだよ。飯作ってるぞちゃんが・・・!」 明るく広い厨房に立つ女の姿をドアの陰から覗き見ながら、男たちは戦慄に震え上がっていた。 屋敷のメイドや執事に混じり、いまいち不器用な手つきながらも懸命に握り飯を作り続ける一人の娘。 一見して何の変哲もなさそうなその姿を、まるで異形の化け物や恐怖映像でも見ているかのように 顔色を青くして眺める彼等は、娘のほっそりした手が新たな握り飯を作り出し、 大皿にちょこんと乗せるたびに揃ってごくりと固唾を飲む。 ――豪邸が建つ住宅街が宵闇に沈み、往来を行く人影も途絶えつつある午後11時。 同じ町内に所在する攘夷浪士のアジト突入まで、じきに二時間を切ろうかというところだ。 いよいよ差し迫った出撃に備え、隊士達それぞれが緊張感と闘志を高めつつあった邸内を 震撼させたその凶報は、真選組隊士以外が聞けば「一体それのどこが最悪だというのか」と 首を傾げる内容だった。 『が厨房で料理を作っている』 全ての隊士が驚愕したこの一報は臨時の詰所となった二階の広間を瞬時に駆け抜け、 今や一階の厨房前には黒い隊服姿の人だかりが出来ている。 彼等は各々にその表情を引きつらせており、ただの女の手料理に対して心の底から 恐怖を感じているようだ。ドアにしがみついて中を窺っている一人がぼそぼそと、 裏返った小声でつぶやき始める。 「・・・いやいやマズいってこれ、どーすんだよこれぇぇ! どう見てもあの握り飯、俺達の夜食用だよなぁ?」 「ああ、間違いなくな。見ろよあの数、ざっと数えて百数十はあるぞ」 「握り飯だけならまだいいが・・・お前らに残念なお知らせだ」 「あぁ?」 彼等が一斉に振り向くと、ドアの影でしゃがみ込んで頭を抱え、 がたがたと全身を震わせていた一人の隊士が、 「彼女の後ろで、メイドさんが盛り付けてる味噌汁だ。 うちの新入りの情報によると、あれもちゃんが作ったらしい」 声も身体も震えが止まらないその男が、生気が抜けきった青白い顔で告げてくる。 それを耳にした全員が、言葉を失くして黙り込む。コンロ上に並ぶ寸胴鍋のひとつから 味噌汁を盛り付けるメイドの姿にかぁっと目を剥き、全身から冷や汗を流し始めた。 やがて夏に入隊したばかりの新入りが、懐から大事そうに取り出した一枚 ――緑豊かな田園風景を背にした家族写真に顔を埋めて啜り泣き始める。 その隣では「ぅおぉぉおおー!」と野太い雄叫びを上げた奴が がくりと膝を突き四つん這いになり、ばしばしと床を殴りながら、 「味噌汁!?チョコだけでも猛威を奮ったさんの手料理が、まさかの味噌汁セットだと!? 〜〜〜ぉっっ、終わった!この作戦終わった!つーか俺らが終わった! 浪士のアジトに赴く前に全滅すること必至じゃねーか!」 「おしまいだ、もうお終いだ!江戸で一旗揚げてくるって誓ったのに こんなところで先立つ不孝を許してくれ父ちゃん母ちゃんじいちゃんポチ・・・!」 「――はぁ?ちょ、待てって、何だよお前ら、まさか本当にあれ食ってから出撃する気か? いやいや落ち着けって正気に戻れよ、2時間後に作戦開始だぞ?そんな時にあんなゲテモノ料理食おうってぇの?」 浪士どもを討ち取る前に、俺らがさんの手料理に討ち取られてどーすんだよ。 厨房を覗き見する集団を少し離れたところから眺めていた隊士が、呆れきったように口を挟む。 しかし周囲は彼の主張に納得するどころか、揃って非難の視線を浴びせた。 異論を唱えた男の前を塞ぐようにして全員がわらわらと寄っていき、 「っだよそれじゃあお前は言えんの、あの子の前で断れんの? うちのアイドルがわざわざ俺らのために飯作ってくれてんだよ? 「それ食ったら俺たち腹壊すから食えません」なんてことが言えんのかてめーは?あぁ!?」 「はぁ?言えるに決まってんだろぉ。 俺ぁおめーらと違って彼女いるしおめーらほど女の料理に飢えてな・・・ おぉ?ちょ、っっまっちょっいや待てってどどどーしたんだよお前ら!?」 空気も読まずにへらへらとリア充アピールしてしまったその男が、 自分に集中した仲間の視線と、その視線に込められた「死ね」と言わんばかりな 殺気の集中砲火に絶句してたじろぐ。 あっという間に壁際に追い込まれた彼が徐々に顔色を青ざめさせていく中、 一人が重苦しい溜め息を長々と吐いた。 寄り掛かった壁をどかっと一発殴りつけながら、 「無理、それ無理!言えるわけねーだろぉ、料理の苦手なちゃんが あんなに頑張ってんのによー!」 「そうだ!我らFC会員に彼女の手料理を拒むなどという選択肢はない! 例えあの握り飯が想像を絶するゲテモノ味だろうと、さんの手料理で死ねるなら本望だ!」 「うーんそうはいってもなぁ、出撃まで時間ねーし・・・とりあえず胃薬くれーは飲んどくかぁ?」 「馬鹿かお前、ちゃんの手料理の威力を舐めんなよあれを胃薬程度で防げるわけねぇだろ!」 「医者だ医者、松本先生連れてこい!」 「・・・・・・とまぁこんな調子で、さんの料理を怖れるあまりに皆の士気が絶賛急下降中でして」 ああでもないこうでもないと隊士達が喚き始めると、切羽詰まっている彼等とはまるで正反対の、 危機感など一切感じていなさそうなのんびりした口調が背後から響く。 ――まさか、この声は。 特徴的なその声に、厨房前に溜まった奴等はぎくっとしつつも振り向こうとしたのだが、 ごんっっ、ごっ、ごっ、ごっっ、ごごごごごごごごごごごごごっっっっ。 実際彼等は、ただ振り向くことすら叶わなかった。振り向きざまに 真上から一発ずつ食らわされた鉄拳によって、全員もれなく床に這いつくばるしかなかったからだ。 重い拳の衝撃で頭をがんがんと鳴り響かせながらそれでも隊士達が身体を起こせば、 目前には二人の隊長を左右に従え、仁王立ちで自分たちを見据える鬼の姿が。 「次に騒いだ奴ぁもう一発殴る」とでも思っているのか、握り拳を構えたままで 眉間も険しく睨みを効かせる副長に「ひいぃぃぃっ!」と全員が呻き声を漏らして竦み上がる。 そんな自分の部下たちに「悪いね、ちょっとそこを通して貰えるかい」と穏やかに声を掛けた六番隊隊長は、 全身から怒気を発散させている土方の横にいるにも関わらず、穏やかな笑顔で説明を続けた。 「怖れるあまりに厠の個室に籠城する者まで出ましてねぇ。いやはや、本当に困ったもんです。 どうしましょうか副長」 「どうするもこうするもあるかよ。つーか何をそこまでブルってやがんだ、こいつらは」 廊下に正座しひれ伏さんばかりな隊士達を冷えきった目つきで一瞥すると、土方は足を振り上げる。 入口前を塞ぐ彼等を「邪魔だ、どけ」と、容赦なくどかどかと蹴り倒す。 すると床に倒れた奴等の一人――ちょっとしたリア充自慢で怒りを買った例の隊士が、 運悪く土方の真ん前に転がってしまった。「んがっっっ」「ぐっふおぉおおっっ」 などと痛みにもがいて暴れる男を情け容赦なく足蹴にしながら、土方は凄みを効かせてそいつに尋ねた。 「おいもう一遍言ってみろ。誰が作った何がゲテモノだと?あぁ?」 「っっっぃいいいい言ってませんんんんん! そんなっっさんの料理がゲテモノだなんて俺はただそのんっっぐごぼぐふぉおおっ」 「フン、精々が下手な手料理食わされるってだけだぞ。何もそこまで騒ぐこたぁねえだろうが」 「いやいや普通は騒ぎますって。そりゃあ副長は内臓までバケモノ並みに頑丈だから、 ちゃんの料理食っても大したダメージ受けねーだろうけど、俺らはそうはいきませんよ」 がつがつと足蹴にされ続ける隊士を見るに見兼ねた藤堂が、苦笑いで割って入る。 倒れた男の首根を掴んで土方の進路上から避難させてやってから、 厨房の奥――でこぼことして形の悪い握り飯に、やけに真剣な顔で 海苔を巻きつけている女のほうを眺めて、 「源さんの隊にもうちの隊にも、実際にあの食中毒事件で地獄を見た奴は大勢いますからねぇ。 ちゃんの前じゃ誰も口にしねぇが、あの事件がトラウマになった奴も多いんすよ」 「そうか、ならいい機会だ。てめえらがブルってやがるそのトラウマとやら、今日で一気に払拭してやる」 ふ、と失笑めいた笑みを漏らした土方が、足早に厨房へ乗り込んでいく。 見慣れた隊服に着替えた男の背中を追いかけながら、井上と藤堂は互いに目を見合わせた。 ――藤堂が口にした「集団食中毒事件」。 それは屈強な猛者揃いの機動警察真選組をあわや壊滅かというところまで 追い込んだ、創設以来類を見ない珍事件である。別名「バレンタインチョコ事件」とも 呼ばれるその騒動が勃発したのは、彼女が入隊した翌年の二月だ。 仲間の隊士達への感謝の気持ちを籠めた、手作りのバレンタインチョコ。 真選組初の女性隊士であり、その頃すでに屯所のアイドル的存在だった 彼女の手作り菓子とあって、数日前から試作品作りが行われていた屯所の厨房には 味見役を買って出る隊士たちが殺到した。 やや不格好ではあるものの手作りらしい可愛さ溢れる彼女のチョコを、 彼等は喜んで試食した。一見して普通な見た目に反して、その味は この世のものとは思えない不味さだったが、それでも彼等は日々量産されたチョコを幸せそうに食べまくった。 例えそれが義理チョコの試作品と判っていても、普通のチョコを食べた時には 感じるはずもない味や食感しか感じられなくとも、彼等にとってはどれも些末な問題だった。 何しろ彼等の半分は(土方沖田の報復を怖れて)局内で極秘裏に結成された 「ファンクラブ」の会員だったし、残りのもう半分はといえば 生まれてこのかた母親や家族以外の女性にさっぱり縁がなく、 女子の手作り菓子なんて素晴らしいものにも縁がなかった、不運な男が殆どだったからだ。 チョコを食べた初日は元気そのものだった彼等に、異変が現れたのはその三日後だ。 味見役を務めた男たちは次々と不調を訴え次々と倒れ、屯所内は原因不明の食中毒で 床に臥す野郎共で溢れ返り、おかげで一週間に渡り深刻な人員不足に陥ってしまった 真選組局内は、重篤な機能不全に追いやられた―― そんな事件の詳細は現在も先輩から後輩へと語り継がれているし、事件直後に土方が 監修し直した「真選組入隊者研修マニュアル・改訂第三版」にも 『たとえ何があろうとの手料理を口にするべからず』という、 採用されたばかりの新人にとっては何のことやら理解不能だろう厳重注意項目が 書き加えられたくらいなのだが―― 一体何が始まるのかと怪訝そうにしている二人の隊長が見守る中、 土方は迷うことなく厨房内を直進、白い大理石が敷き詰められた 大きなキッチンカウンター前で立ち止まった。 そこにずらりと並べられた味噌汁入りの椀のひとつを掴み取り、 「藤堂」と呼びかけながら振り返る。八番隊隊長へと椀を突き出し、 「とりあえずお前から食ってみせろ」 「はぁ、そーっすか。そんじゃお先にいただきま・・・・・・っって、はいぃ!?」 の奇行には動じなかった藤堂も、これにはさすがにぎょっとした。 素っ頓狂な奇声を上げた長身の男が、焦りと冷や汗を満面に浮かべてじりじりと後退し始める。 そんな彼と並んでいた井上も、滅多に開かない糸目を見開きすっかり呆気にとられた様子だ。 副長ときたらどうしちまったのか。なぜこれを食えなどと言い出すのか、信じられない。 そんな困惑を露わにした二人は引きつり気味な顔を見合わせ、それからもう一度、 「おら、早く食え」などと促してくる気の短い上司の普段と変わらない仏頂面をおそるおそる窺った。 「ふ・・・副長?その、それは、なんというか・・・冗談ですよねぇ?まさか本気で仰ってるんじゃ」 「あぁ?源さんどうした、あんた顔色悪くねぇか」 「ええ、情けない話ですが正直血の気が引いてます。 それより副長、思い出してくださいよ。何か重要なことをお忘れじゃないですか」 『たとえ何があろうとの手料理を口にするべからず』 そんな厳重注意項目を研修マニュアルに書き加えたのは、誰あろう目の前の土方だ。 だというのにその本人自らが禁を破るようなことを言い出したのだから、藤堂と井上のみならず、 背後の隊士達も血の気を失くして騒ぎ出す。するとその声に気付いたメイドたちと、 彼女たちが作った夜食を受け取り配膳の準備をしていた老年の執事もきょとんとした顔で振り返った。 「――あれっ、土方さん。どうしたんですかぁ」 土方の姿が目に入ったが、ぱぁっと表情を綻ばせる。 屈託のない笑顔を向けられた男が彼女の表情に目を釘付けにさせられ、 思わず手の中の椀を落としそうになったところへ、は作りかけの握り飯を 手の中でころころと転がしながら彼の元へと近寄ってきた。 生き生きとした輝きを放つ吊り上がり気味な目が、嬉しそうに細められる。 借り物のブランド着物から見覚えのある普段着に着替えた彼女は、 着物の上にメイドたちと同じ純白のエプロンを着けていた。 「10時から打ち合わせでしたよね、お疲れさまですー。もう終わったんですかぁ?」 「・・・っ。お。おう」 ごく、と土方が喉を鳴らして息を飲む。 ・・・何だこれは。どういうこった。困ったことに、から目を逸らせねぇ。 これを身に着けて俺を出迎えたこいつの姿は、どう見てもアレだ。 いや、どこからどう見ようと俺が長年望んでいた、喉から手が出るほど 欲しかったアレにしか見えねぇんだが―― 呆然と立ち尽くした土方の表情を窺うようにはちょこんと首を傾げ、上目遣いに覗き込んでくる。 思わぬところで彼の顔を見れたことを無邪気に喜び、はしゃいでいるらしいその姿は、 に惚れぬいてしまった男の目には、その可愛らしさをどう表現してもし足りないほどに可愛く映った。 「土方さん、お腹空いてませんかぁ。 豚汁ありますけどどうですか?それともお茶のほうがいいですか」 「・・・・・・。いや。ぁ。あれだ。・・・ど、どうした、その格好」 どことなく落ち着きの無い態度で視線を右往左往させ始めた土方が、 ちらりとエプロンを流し見る。視線の方向に気付いたも、 あぁ、と身に着けたそれを見下ろした。 「これですかぁ?いいでしょこれ、可愛いですよねぇこれ」 くるりとその場で彼女が回れば、フリルで飾られた純白の裾がふわりと高く舞い上がって、 「執事さんにお願いして、メイドさん用を一着お借りしたんですよー。 こういうの着るとそれだけで若奥さまらしく見えるし、着てるだけで奥さま気分になれるかなって思って」 「・・・――っ」 軽やかに躍る細い肢体と、少女のような屈託のない笑顔。 その両方に見惚れかけた自分にはっとして、土方は慌て気味に顔を逸らした。 ――あどけなさが残る可愛らしい表情で彼の答えを待っている、初々しい若奥様風な姿の。 握り飯を作る手つきの拙さまで可愛らしく見えるその女が、エプロンのリボンをひらひらと靡かせ、 もこもことしたうさぎ型スリッパをぱたぱたと鳴らしながら嬉しそうに自分の元へ向かってきたのだ。 そんな彼女の姿にも、土方の妻らしく見せるために工夫を凝らそうとする健気さにも、 まるで新婚生活における鉄板場面「帰宅した夫を「おかえりなさい」と出迎える新妻」の 疑似体験でもしているような甘ったるいシチュエーションにも、すっかり心臓を鷲掴みされてしまっていた。 いやだが、しかし――待て、落ち着け、ちょっと待て、と彼は自らを引き止める。 そんな内心をここで迂闊に晒してしまえばどうなるか。 俺の背後には二人の隊長が構えている。しかもどちらも勘が良く、 人の思惑を見抜くことにかけては総悟に引けをとらない二人が。 ――そうだ、ここで下手な態度を晒すわけにいくか。とにかくから目を逸らせ。 漆黒の前髪の下で苦々しく眉間を寄せた土方は、自分に対して そんな命令を発し続ける。ところが視線は彼の命令などお構いなしで、 ほんの少し気を抜いただけで目の前の女のほうへと流れていきたがるのだ。 「・・・?土方さぁん?どうしたんですかぁ、どーして天井なんか睨みつけてるんですかぁ。 あ、もしかしてすっごく目が疲れてるとか?そんなに大変だったんですか打ち合わせ」 「あぁ!?うっせえなちょっと黙ってろお前が話しかけてくると気が散・・・、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〜〜〜っっ!」 心配そうな女の声についつい条件反射で振り返ってしまい、そのままから視線を逸らせなくなる。 それから数秒経ってからようやく自分の失敗を悟った彼は、遣り場のない怒りに わなわなと肩を震わせ、ぐぐぐぐぐ、と切羽詰まっているのが丸判りな凄まじい形相で低く唸った。 ――しまった、不意を突かれちまった。 動揺が滲んだぎこちない態度を部下たちの前で晒す自分を殴ってでも止めてやりたいが、 困ったことにかぁっと見開いた彼の視線は、純白のエプロン姿も可憐な 新妻風の女から一向に離れたがらない。そして至極残念なことに、 土方が向けてくる視線の意味をまったく見当外れな方向に曲解してしまうのが得意なは、 この解りやすすぎる反応の意味がさっぱり解っていないらしい。 自分を見つめて固まった男に不思議そうに首を傾げて、 「でも珍しいですねぇ、土方さんがわざわざお台所に来るなんて。 あ、もしかしてあれですかぁ。晩御飯のマヨネーズが食べ足りなかったから盗み食いしに来たとか」 「・・・盗み食いって何だコラ、人聞きの悪りぃこと言ってんじゃねえ。 つーかお前こそどうした。こんな時間から飯作りか」 「はい。執事さんに頼んで、みんなのお夜食作らせてもらってたの」 土方さんも、出撃前に腹ごしらえしていってくださいね。 そう言って笑うを見つめ、土方はむっとしたような顔つきになる。 薄く頼りない手のひらに乗った握り飯を長い指の先で軽く弾いて、 「・・・っとに、人の話なんざ訊きゃしねぇな。今夜は先に寝てろっつっただろうが」 潜め気味にした声で咎めれば、はなぜかぽうっと頬を赤らめた。 「・・・ごめんなさい。でも、えっと・・・」 肩を竦めてうつむきながらつぶやくと、土方の機嫌を窺うような上目遣いの視線を向ける。 手の中の握り飯が潰れそうなくらいにきゅっと握りしめ、もじもじと恥ずかしそうに身じろぎしながら、 「・・・・・・想像してみたっていうか、考えてみたんです。 土方さんの奥さまになる人は、こういう時にはどんなことして土方さんの手助けするのかなぁって」 「――・・・は?」 「今のあたしじゃ任務のお手伝いは出来ないし、刀持っても全然役に立てないから、 他に何か・・・ぁ、あの、だから・・・・・・ぉ。奥さまらしいことって、いうか・・・、 土方さんの役に立てそうなこと、ないかなぁって、思って・・・」 「・・・・・・」 「で、でもっ、ごめんなさい、許可も貰ってないのに勝手なことして。 あのっ、片付けが終わったらすぐに部屋に戻るから。・・・だから、ぁの、土方さん、 ぃ、いやじゃなかったら・・お夜食、みんなで食べてもらえませんか。・・・・・・だめ?」 「・・・・・・」 眉をへなりと八の字に下げた申し訳なさそうな表情で許しを請う女を、呆れたような目で土方は睨む。 やがて短く溜め息をつき、眉を顰めた目許を覆って天を仰いだ。 ――畜生。やってられるか。またこれだ。 普段は生意気な減らず口が絶えず、思い込みの激しい言動で人を呆れさせてばかりのこいつは、 時折こんないじらしい本音を漏らしては俺を絶句させやがる。 その健気さが愛おしくて全身の血が沸き返るような気分にさせられるたびに、 彼の胸中ではあまり味わったことのない熱い感情が暴れ出してしまうから厄介だった。 熱くてどこかむず痒いその奔流は、常に冷静沈着であることを求められる男の 頭の中まで支配して、未だ味わい慣れていない厄介な感情に困惑する彼に命じてくるのだ。 これに触れたい。抱きしめたい。今すぐこれに手を伸ばせ、と。 「・・・・・・ったく。何だってぇんだてめえは」 「ぇ、ぁ、あのぅ・・・・・・ひ。土方さん・・・?」 不承不承に負けを認めた土方が、恥ずかしそうに頬を赤らめた女の頭を大きな手のひらで包み込む。 出来ることなら今ここで、人目を憚ることもなくを抱きしめてしまいたい。 甘い香りを漂わせる髪や赤らめた目許に口づけて、なかなか口に出せずにいる本音を やわらかな耳元に注ぎ込んで教えてやりたい。 (お前が俺の役に立とうが立つまいが、そんなこたぁどっちだろうが構わねぇ。 どっちだろうと俺はもう、二度とお前を手放さねぇ――) 唇を噛んで返事を待っている女を前にしていれば、そんなことを告げたい衝動にもかられたが、 「・・・・・・ちっ」 ――いや、無理だ。ここでは無理だ。 歯痒さを噛み殺しながら苦々しい顔つきで舌打ちすると、 鬼の副長らしくもない焦りと動揺が入り混じった目つきを後ろへ流す。 それとなく窺ったのは、すぐ背後の奴等の気配だ。 ・・・馬鹿か俺ぁ。いや馬鹿だ、こんな衆人目視の中で何をやらかす気になってんだ。 しかし惜しい。これは惜しい。 以前のような恋人としての関係に戻ることにすら躊躇い気味で、ましてや結婚など 頭の片隅にもなさそうだったこいつが、俺の嫁になったつもりで物を考え行動している。 それが本人にしてみれば単に「新妻役」を演じるための行動だとしても、俺の求婚を悉くスルーし続け 人をやきもきさせ続けてきたが、これまでに無いレベルで結婚生活を意識しているのだ。 そこを考えるとやはり惜しい。というか悔しい。なぜよりによってこんな、 周囲360度から好奇の目が突き刺さってくるような場で言い出しやがったのかこの鈍感女は。 がこんな騒々しい場所で言い出したのでなければ、俺にだってもっとやりようがあった。 こいつをどうにか言いくるめて押しの一手で活路を開き、一気に積年の最終目標 「プロポーズ承諾」まで漕ぎ着ける道も見えただろうもんをあぁ畜生・・・!! そんなやりきれなさと後悔と腹立ちで一杯になってこめかみ辺りをひくひくと震わせ、 本格的に不機嫌顔になってきた土方は、無意識にわしっとの頭を掴み直す。 無意識に怒りが籠った馬鹿力な指は、片手に握った頭の鉢部分をゆっくりじわじわと締めつけ始めた。 「〜〜っっちょ、ちょっとぉ、痛いぃ、痛いですっ土方さん。頭が地味に痛いですってばぁ」 「ったくどうなってやがんだこの軽りぃ頭ん中は、綿か霞でも詰まってんのか、あぁ!? ちったぁタイミングってもんを見計らえってんだコルぁあああ。 庭でも寝所でも夕暮れ前に幾らでもあっただろうが、その手のあれを言い出し放題な瞬間が!」 「はぁ?何それ、おまわりさんが一般市民に逆ギレですかぁ?ていうか今の土方さんの顔って 絶対おまわりさんには見えませんよっ、どこ歩いても100%辻斬りだって通報される顔ですよっっ」 「うっせえ黙れ鈍感女、人の面のこたぁ放っとけって言ってんだろ。 ・・・フン、それよりあれだ、作っちまったもんはしょうがねぇ。藤堂、手の空いた奴集めて皿を二階へ運ばせろ」 「えぇえええぇ!?」 あっさりと出た土方の許可に驚愕した藤堂が、甲高く叫んでうろたえる。 現場責任者でもある土方から許しが出たことでほっとしたのか、「いいんですかぁ!」と 嬉しそうな声を上げたは、手の中の握り飯をさらにぎゅうっと握りしめていた。 「ちょっっ、っっや、えぇえ!?いやいやいや待ってくださいよっっ 本気で言ってんすか副長!?」 「あぁ?何だその面、まだブルってやがんのか」 「よかったぁー!おむすびも豚汁もたくさん作っちゃったし 執事さんたちにもいっぱい手伝ってもらったから、無駄になったらどうしようって心配してたんですよー」 「いや、いやいやいやいや!!ちゃんには悪りーけど俺らも我が身が心配で! ・・・ってあれっ、聞いてます?聞いてんすか副長!!?」 慌てる藤堂を半ば無視して女のほうへ振り向けば、「もうすぐ作り終わるから、 あたしも二階に運びますね」とが笑いかけてくる。 そんな女の手の中にある不格好な塊にふと目を留めた彼は、 「おい、それ寄越せ。うちの連中に食わす前に毒見してやる」 「はいっ。あ、でも、これ潰れちゃってるし。 ちょっと待ってもらえますかぁ、他のを用意しますから」 「こいつでいい。多少潰れようが味は同じだ」 「――っっっんぎゃあぁあああ!」 厨房に居る全員の鼓膜を突き破りそうな、女の悲鳴が鳴り渡る。 ほとんど超音波に近いその絶叫が広い豪邸の一階すべてにこだまして、 厨房を覗き込んでいた隊士達どころか、近くの部屋に詰めていた他の奴等まで 「何だ何だ、何事だ」とわらわらと厨房へ寄ってきた。 そこで彼等が目にしたものはといえば――握り飯ごとの手を奪った厳格な鬼の副長が 崩れきった米粒の塊と一緒に女の指まで口に含み、赤面した彼女と見つめ合っている―― という、屯所でも滅多にお目に掛かれないレアな光景だ。 「っっっ、っゃ、ちちちちょっひひひじっ・・・〜〜〜っっ!!!」 全身を真っ赤に染めて震え上がっているの薬指を、ざらついた感触がゆっくりと這う。 指先にくっついた米粒ごと、指の腹から銀のリングが光る付け根に向かって舐め上げられる。 まるで彼女の指まで味わおうとしているような動きで肌に絡みつく熱い舌に、 ちゅ、と甘い音を鳴らして吸いつかれた。否応なしにぞくりとさせられ 背筋を跳ね上がらせたは、咄嗟に隊服に縋りついてこみ上げてきた声を噛みしめたが、 「っっ〜〜〜・・・・・・・っ!」 どうにか声をこらえきっても、背筋を駆け抜けていく震えまではこらえきれない。 ぎゅっときつく目を瞑り、煙草の匂いが染みついた男の胸にひしっと抱きつくこと十数秒―― 胸元の女を見下ろして口端をふてぶてしい笑みに歪めた土方は、咥えていた彼女の指を ようやく口内から解放した。 「おい、どうした。 昼間はくっつきすぎだ何だと嫌がった奴が、随分と大胆じゃねぇか」 「〜〜〜っ!」 くく、と押し殺した笑い声と共に低めた声で囁かれ、は飛び上がらんばかりに全身を竦めた。 思い出したのだ、ここが一体どこなのかを。そして、それなりな人数に周囲を取り巻かれていることを。 のろのろと顔を上げていくとおそるおそる厨房を見回し、炊事の手を止めこちらに視線を集中させている 豪邸の使用人たちや、土方と自分をにやにやと見守る二人の隊長、その背後の隊士達と目を合わせた。 あうあうあうぅぅぅ、と言葉にならない震え声を漏らした彼女は、すっかり涙目になった顔をぶんぶんと 狂ったように振りまくる。あわてふためく自分とは真逆に、この程度では生来の無表情さを 崩すこともない男の顔を――頬張った握り飯をあまり美味くもなさそうに噛みしめている土方を恨めしげに睨むと、 べしっ、ぱしっ、ぺちっっ、ぺしぺしっ。 死にたくなるほど恥ずかしい思いをさせられたせいですっかり力が抜けてしまった手で 黒い隊服の肩や首元あたりを滅茶苦茶に引っ叩きながら、 「っっっにゃにゃっっっにゃにするんれすかあぁぁ!ひひひひひぎっ、ひひひみっっ、っっっ〜〜〜〜!!」 「落ち着け、また舌ぁ噛むぞ。 ・・・ん、こないだ食ったやつに比べりゃあだいぶましだな」 「――えぇ!ほ、ほんとに!?」 信じられない、とでも言いたげに目を丸くしたが、崩れかかった握り飯を 彼女の手からひょいと奪い取った男に迫る。恥ずかしい思いをさせられた悔しさを 思いきりぶつけるつもりだったというのに、残念ながらそんな悔しさはきれいさっぱり 頭の中から消え去っていた。根が素直で単純なところがある彼女は、 滅多に出ない土方からの誉め言葉にめっぽう弱い。「だいぶまし」などという 誉め言葉のうちに入るかも怪しいような発言一つで、簡単に気分が舞い上がってしまったのだ。 期待にどきどきと胸を高鳴らせながら黒い上着に縋りつき、 「ぉ、おいしい?おいしいですかぁ、ほんとに?この前よりもおいしくなってる?」 「誰が旨いっつった。つーか何度言ったら判んだ、握り飯は握り潰すほど握るもんじゃねぇ。 おら見ろここ、米粒が潰れて餅になってんじゃねぇか」 「そっっ、それは土方さんのせいじゃないですかぁっ。土方さんがへんなことするから力が入って!」 「んだとコラ、人のせいにしてんじゃねぇ。だいたいお前が・・・」 土方とが周囲の人目も忘れてぎゃあぎゃあと言い合う中、 土方の背後に控えた井上と藤堂は、にやにやと生温い笑みで二人を眺めていた。 厨房で働くメイドたちや彼等の後ろに溜まっている隊士の殆どは呆気にとられた様子だが、 こんな土方たちのいちゃつきっぷりも彼等にしてみれば見慣れたものだ。 それに――二人が自然とじゃれあっているこの姿は、 一度は真選組から離れかけたが彼等の元へ戻りつつあることを実感させてくれる、 微笑ましくも感慨深い光景だった。しかしそんな風に感じつつも、 笑みを浮かべた二人の表情は次第に曇りを帯びていく。 彼女が傍に居る時に限ってはどことなく雰囲気が和らぐ土方と、 あたふたと慌てふためきつつも、頬を染めた嬉しそうな顔で土方を見つめる。 元は仲間であり、いつか屯所へ戻ってくるとひそかに信じ続けていた娘の今の姿は、 市中のどこでも見かけるような、ありふれた幸せに満たされて生きる普通の娘そのものだ。 そんな彼女を見つめていれば、困ったことに、昼間の山崎の泣きそうな顔や 彼が漏らした懸念や弱音も自然と脳裏に浮かんでしまう―― 「〜〜あ、あのっ、井上さんっ。藤堂さんも、お疲れさまですっ」 計らずも同じ光景を思い返していた二人が、彼等に呼びかけた女の声で我に返る。 見れば首を竦め気味にして恥ずかしそうに笑うが、 頬を引っ張る土方の手をあたふたと振り払いながら慌て気味に頭を下げていた。 大きなキッチンカウンターに整然と並ぶ、具がたっぷりと入った味噌汁の椀。 その一つと箸一膳を手に取った彼女は、隊長達の元へぱたぱたと向かってきて、 「お夜食に豚汁作ってみたんです。 お口に合わないかもしれないですけど、良かったらお二人もいかがですかぁ」 「おお、これは美味しそうですねぇ。ではありがたく頂きましょうか藤堂さん」 「へ?あぁはいそーっすね、そんじゃお先に・・・・・・って、俺ぇぇぇ!?」 甲高い悲鳴を上げたのは、が差し出した豚汁をにこやかに受け取った井上――ではなくて、 呑気そうに見えて実はなかなかの策士な六番隊隊長からその椀を押しつけられた藤堂だ。 白い湯気を昇らせる漆器をおそるおそる見つめた彼は、はぁー、と残念そうに肩を落として嘆息する。 に聞こえないように声を潜め、ぼそぼそと辛そうに愚痴り始めた。 「・・・あーあー、ここに永倉がいたらなぁ。んな時に限ってなんでいねーんだよ、あいつ。 いたら適当に騙して毒見役押しつけたのによー・・・」 底抜けに鈍感で人が良い悪友の不在をかなり身勝手に嘆いた男が、 ごくりと大きく息を飲む。戦々恐々といった表情で口に含んだ一口めを、 ごく、と慎重に喉へ流し込んだ。 すると「おぉ!?」と驚きに目を見開いて椀の中を眺め、二口めも慌ててずずっと啜って、 「――おぉぉ!?不味くねぇ、普通に食える!」 「大丈夫でしたか?よかったぁ」 「不味くねぇ」だとか「普通に食える」などという失礼な感想を特に気にした風もなく、 は心底ほっとしたように胸の前で両手を握りしめる。 「井上さんにもお持ちしますねー」と言い置くとぱたぱたと厨房へ戻っていき、 すぐに豚汁と箸を手にして戻ってきた。 「源さんも食ってみてくださいよ。ふつうに味噌味だぜ?どーいうことだよ」 まだ信じられない、といった顔でこっそり井上に耳打ちしてから、藤堂は三口目を大きく頬張る。 そんな隊長の言動に驚いた隊士達にざわざわとどよめきが走る中、 が厨房の奥へ戻っていくのを見送った井上が、どれどれ、と椀を口に運ぶ。 途端に「おお、これは!」と唸って、 「いやぁ意外ですねぇ、美味しい豚汁ですよ。 味付けは少々塩辛いかもしれませんが、出汁がしっかり効いてます」 具材もきちんと煮えてますし、変なものも入っていなさそうですしねぇ。 人参や豚肉を箸先で摘まんで検分しながら、いっそ感動すら覚えていそうな様子で何度も頷く。 「実はあれでも、料理は二年近く習ってんだ。上達は亀より遅いがな」 握り飯に齧りつきながら戻ってきた土方が説明を付け足せば、 へえ、と藤堂が感心したような顔で唸る。井上が味噌汁を見つめ直して、 「なるほど、そういうことでしたか。 さん、我々の知らないところでずっと努力をされていたんですね」 「だよなぁ。これも握り飯も、あのチョコ作った子の手料理とは思えねーし・・・。 ところでちゃんが料理習ってるって、どこぞの教室でも通ってたんすか」 「あれぁ菓子一つで屯所を壊滅させかけた女だぞ。受け入れる所があると思うか」 「ないでしょうねぇ、ははははは」 即座に断言した井上が笑うと、「だよなぁ」と横の藤堂も何か思い出したような苦笑いを浮かべる。 抜け目がないと評判な割には女に甘い一面があるこの隊長も、実は手作りの バレンタインチョコで被害に遭ったうちの一人だ。 「椿さんに面倒見てもらってんだ。 一汁三菜なんてもんには程遠いが、おかげさんで飯と味噌汁が炊ける程度にはなった」 屯所で働く女中たち総勢十数人を一手に束ね、隊士達の身の回りの世話を 一手に取り仕切る女中頭――隊士達からは「椿さん」と母のように慕われ、 同時に恐れられてもいる鬼瓦椿。かつての家事指南役を務め、その絶望的な不器用さに 一度は匙を投げた椿だったが、が除隊して屯所を出ると決まった時に最も心配し、 独り暮らしをするための準備をあれこれと整えてくれたのも彼女だった。 (ご飯も炊けない娘さんが独り暮らしなどしたら、たちまちに健康を損ねてしまいます。 せめてさんが簡単な家庭料理を習得するまで、こちらの厨房をお貸し頂けませんでしょうか。) 炊事下手な娘を案じた屯所の母が土方にそう申し出て以来、密かな料理の特訓は 不定期に行われ続けている。おかげでの料理の腕も、じわじわとではあるが鍛えられつつあった。 「習い始めはどうにも酷でぇもんだったが、ここ最近は問題ねぇ。 特にこれと飯だけは、それなりの出来になりやがった。意外なことにな」 「――わかってねーなぁ、土方さんは」 そこへ割って入ってきたのは、少年めいたか細さが残る皮肉気な声だ。 真選組局員なら誰もが聞き覚えがあるその声音に眉間をひそめた土方が、 肩越しに廊下の向こうを流し見ると―― 「別に意外ってこたぁねーでしょう。 うちの姫ィさんの料理の腕は志村の姐さんほど酷かねーし、味覚だってそう悪かねぇ」 そう言いながら隊士達の人垣を掻き分けてきたのは、思った通りに 隊長格用の隊服を細身な体躯に纏ったクソガキ。いくら土方が険のある目つきを向けようと 全く怯むこともなく、それどころか生意気さが滲み出た薄ら笑いで対抗してくる沖田だった。 意外に思った土方は、僅かにその目を光らせる。 元より気紛れな単独行動が多い奴ではあるが、なぜこんな時間に。 じきにここへ到着する予定の増援組に一番隊は加えていないし、 こいつには近藤さんが屯所待機を命じているはずだが―― 「何しに来やがった。一番隊は呼んでねえぞ」 「俺も呼ばれた覚えはありやせん。あんたじゃなくてに呼ばれたんでさぁ」 そう答えながら土方の横を擦り抜けた沖田が、すれ違いざまにほんの一瞬足を止める。 怪訝そうな土方に視線を向けた少年は、彼の隊服に白い紙袋を叩きつけてきた。 その袋には見覚えがある。誰が寄越したものなのかにもすぐに思い至った。 袋の口からはみ出した処方箋を無言で眺めた土方が、探るような眼差しを沖田へ向ける。 まだ幼い子供だった頃の面影を端々に残したその面立ちは、さっきと変わらず 笑っているようにも見えた。だが色素の薄い瞳を見開いた目には、 日頃は感情の底に沈めて見せることが無い怒りの色が珍しいほど鮮やかに燃え上がっている。 「・・・総悟、どこでこれを」 「どこも何も、あんたが頼んだもんでしょう。藪医者ジジイんとこの看護師が 夕刻に届けに来やしたぜ。 ・・・そうそう、ジジイからあんたに伝言でェ。 こいつは前のもんより効き目が強い、これまでみてぇな頻度で使うのはやめておけ、だとよ」 他の者の耳には届かないような低い声音で吐き捨てると、 沖田は何事もなかったかのように普段の澄まし顔を被り直す。 味噌汁の匂いと湯気が舞う広い厨房を見回し、握り飯作りを再開させた に向けて声を大きく張り上げた。 「姫ィさん、例のもん買ってきやしたぜー」 顔を上げた彼女に高めに掲げてみせたのは、小さなコンビニ袋だ。 そこから出てきた「例のもの」が何なのかといえば、がしきりに食べたがっていたあれ。 そう、某コンビニで今日まで限定発売中のスイーツ。「期間限定いちごミルクプリン」である。 「ええっ、ほんとに買って来てくれたの!」 「ああ。他でもねぇ姫ィさんの頼みだ、何を置いても買ってくるに決まってんだろ」 「嬉しい、それすっごく食べたかったの!ありがとう総悟っ、大好き!」 その場に居合わせた男達には特にどうということのないものに思える安っぽい甘味が、 甘いもの好きな彼女には我を忘れるほど嬉しい贈り物だったらしい。 初々しい若奥様風な出で立ちのは、さっき土方を迎えた時と何ら変わらない 満面の笑みでぱたぱたと駆け出てきた。まるで新婚家庭で夫の帰りを待ちわびていた新妻が 「あなたおかえりなさい!」と玄関口まで出迎えるような勢いと熱烈さで沖田に飛びつく。 しかも沖田を弟のように可愛がっている彼女は、無邪気にも男の首にやわらかい腕を絡ませ、 腕の数倍はやわらかい胸を惜しげもなく摺り寄せて抱きついたのだ。 「ああ、これはいけません。今夜は出入り前に血の雨が降りますねぇ」 のほほんと笑う井上が物騒な天気予報を口にして、藤堂はその予報に顔を引きつらせて笑い出す。 男心に疎いはまだ沖田にひしっと抱き縋っており、自分がいかに 危険な状況を生み出したかに未だ気付いていないらしい。 彼女は今、決してやってはいけないことをしでかしたというのに。 あろうことか、よりにもよって、彼女に懸想する地球上の男という男全てを 抹殺したがるくらいには嫉妬深くて独占欲が強い「元」恋人の前だというのに―― 「〜〜〜〜〜っっっ!!?」 案の定土方は血相を変えかぁっと目を剥き、腹の奥で燃え盛った怒りにわなわなと全身を震わせていた。 「避難です避難、避難してぇぇ! ああガスは止めて下さいね、みなさん直ちにここから逃げてくださぁぁい!」 最初から厨房で炊事に励んでいたのに誰にもその存在を気付かれない、という いっそ驚異的ともいえる影の薄さでメイド集団に紛れていた山崎が、騒ぎに驚く女性たちを促して てきぱきと迅速な避難誘導を始める。 そんな間にも、嫉妬に燃えて鬼の形相になった男は今にも飛びかからんばかりな剣幕で 沖田とに急速接近中だった。押しつけられた紙袋も投げ捨て刀の柄に手を伸ばし 瞳孔全開で睨みつけながら肉迫してきた土方に、に抱きつかれた格好の沖田が さながら性悪な猫のような表情で目を細める。フン、と鼻先で、馬鹿にしたようにせせら笑うと、 「聞きやしたかィ土方さん。この調子だとコンビニスイーツの一つも 買ってやらねぇ朴念仁はじきに捨てられるんじゃねーですかィ」 「〜〜〜〜っってっめぇえええ。お前あれか、昼間のメールは総悟が相手か!? ちっっっ、よりによってこんなクソガキに頼りやがって!」 「えーっ。だって土方さんが外に出ちゃだめって言うからー」 「そーですぜ、全部あんたが悪いんでェ死ね土方。それより姫ィさん、 俺ぁ腹減って死にそうなんでェ。こんなドケチ朴念仁のこたぁどーでもいいんで早く何か食わせてくだせェ」 「うん、じゃあ用意するからちょっと待っ・・・〜〜〜っっっ!!?」 そこですかさず行動に移った沖田に、が声にならない悲鳴を上げる。 真選組隊士達も豪邸の使用人も揃って目撃することになったのは、全員があっと息を飲む光景だ。 反応速度は沖田に負けず劣らず速い土方ですら、憎たらしい表情で笑う男の 早業を食い止められず、唖然と見つめるしかなかった。 ――握り飯を持ったの手を沖田が強引に口許へと引き寄せ、 先程の土方と同じように、女の指ごと不格好な握り飯に齧りついたのだ。 「んー、うめぇ。前に食ったときより上達してらぁ」 悪戯っ気たっぷりな笑みを見せた沖田が、ちゅ、と細い指先を軽く啄んでから手を放す。 その瞬間まで口をぱくぱくと震わせるだけだったは、耳まで赤く染めた顔を覆って おろおろと慌て始めた。残りの握り飯をもごもごと頬張る沖田はそんな彼女を面白そうに眺めていたが、 不埒な沖田の行動を黙って見過ごせるはずもない男がすぐ傍にいるのだから大変だ。 かぁっと目を剥いた土方が、全身からごうっと噴き出す勢いの激しい怒りに 肩をわなわなと震わせ、腰の刀を無言で鞘から引き抜いた。すると握り飯が山のように 載った大皿三つをひょいひょいと手際よく取り上げた藤堂が、素早く厨房から撤退していく。 それに続いて「この後すぐに出撃ですから、ほどほどにして下さいよ」と 沖田の肩を叩いた井上が笑いながら離れていくと、当の沖田は指に残った米粒を 舌先で舐め取り、ようやく危険を察知したのかこわごわと退散しかけていたに けろりとした表情で言い放った。 「けど具がツナマヨってのは趣味が悪りーや、タバスコかけた明太子にしてくだせェ」 「〜〜っっっ総悟ぉおおおぉおおおお!!上等だコルぁあああ今すぐ刀抜きやがれ!!!」
「 おおかみさんとおままごと *5 」 text by riliri Caramelization 2017/08/12/ ----------------------------------------------------------------------------------- next →