「・・・・・・・・・・・・おい、またそれか。だから何がしてぇんだお前は・・・」 ドアを開けて室内を目にした土方は、呆れと蔑みと諦めが入り混じった 何とも言えない表情でベッドを睨んだ。またこれか、と重厚な扉に凭れた彼は がくりとうなだれ肩を落とす。 ―― いや、これはねぇ。ねぇったらねぇ。ありえねぇだろ。 見た目や日頃の振舞いに多少ガキじみた部分が残っているとはいえ、 こいつも今や正真正銘、二十歳を越えた大人の女だ。 だってぇのに何だ、これのどこが大人の女の行動だ?いくら何でもこれはねぇだろう、これは。 そう思い何か言ってやろうと思いもしたが、呆れすぎたせいで 怒る気力まで失せたのか、説教どころか皮肉のひとつすら浮かんでこない有様だ。 とはいえ、ある程度の予測はしていた。三階にあるこの主寝室へ着くまでの 屋敷内の様子で嫌な予感はしていたため、前もってある程度の諦めはつけていたのだ―― ――その「嫌な予感」を最初に感じたのは、玄関ホールの惨状を目の当たりにした時だ。 木っ端微塵に割れた花瓶の残骸と、それを片付ける数人のメイドたち。 その背後には執事の爺さんや若い男の使用人達、普段は当主のボディーガード役も 兼任しているという大男の運転手まで集まっていた。彼等は人型の穴がでかでかと空いた 巨大な風景画を取り囲み、数人がかりで壁から外そうとしている最中だった。 廊下の途中では風景画同様の大穴が壁にどっかりと空いているのを発見したし、 妙ににやついた面で挨拶してくる井上と藤堂に出くわしたし、油絵具らしき塗料を 背中にべったり付けたメイド姿の男にも遭遇した。顔を合わせたその瞬間に 「違いますわざとじゃないんですっ、これは不幸な事故なんですぅぅぅ!」と 泣き叫びながら逃げる監察を怒鳴り散らしながら追いかけた彼は、 広い豪邸の端から端までを一気に縦断。 追い詰め捕らえた山崎に状況説明をさせつつ拳骨を数発落とし説教を食らわせ、 それからようやく三階の寝室へと赴いたのだが―― 重く分厚い扉を一息に開けたその瞬間、土方はどっと押し寄せてきた疲労感に眩暈を覚えることになった。 扉が開くとほぼ同時で、とんでもないものが目に飛び込んできたのだ。 それは混乱しきっているときのが必ずといっていいほど実行する、 救いようがないほど間抜けであられもないポーズだ。 本人にとっては身を隠しているつもりらしいのだが、実際の姿ときたら「身を隠した」と言うには程遠い。 隠せているのは深緑色のベッドカバーに突っ込んだ頭と肩がいいところ。他は微塵も隠せていない。 ・・・というか、一分たりとも理解出来ねぇ。 こんなあけっぴろげな格好でどこをどう隠し果せているつもりなのか、この馬鹿は。 そんなことを思って頭痛がしてくるくらい大々的に、大盤振る舞いで見せつけてくる女の姿が目前にあるのだ。 頭の痛さに額を抑えた彼の眼前でじたばたと振り上げられているのは、すんなりした曲線を描く艶めかしい素足。 うつ伏せで飛び込んだ寝具の中で「ぅわゎわわぅぁあああぁあ」とか「ふにゃぁぁあぅぎゃぁあああぁっ」などと くぐもった奇声を発している女がじたばたと足を暴れさせるたびに、 すっかり上気して桜色に染まった柔らかそうな太腿が際どいところまで丸見えになる。 男の目線で見てみれば隠す気など毛頭無さそうな大胆ポーズだし、 彼女のすべてを独占したい土方にしてみれば、お前は本当に隠す気があるのか、 まさか俺以外の奴にもこれを見せてやる気じゃねえだろな、ざっけんなんなもん誰が許すかこの野郎、と 彼にとっては手のひらサイズの小さな頭を鷲掴みしてぶんぶん振り回してやりたくなる光景だ。 つーか何なんだ、どーなってんだこいつの思考回路は。何をどうしてその格好だ!? 年中続く女日照りの灼熱地獄に日々喘いでいるうちの連中が目にしてみろ、即座に食われること請け合いじゃねぇか! …などと、身も蓋も無さすぎて言いたくても言えない文句を心中では怒鳴り倒しながら、 相変わらずなこの無防備さをどうしたものかと彼は本気で頭を抱えた。 「・・・屋敷内の器物損壊については目ぇ瞑ってやる。まずは起きろ、馬鹿女。 いやその前にあれだ、とにかくその脚を止めろ今すぐ止めろ、 じゃねぇと布団で簀巻きに縛って奥のデケぇ湯舟に放り込むぞコルぁああああ」 痛む頭を抑えながらも眉を吊り上げ指したのは、部屋の隅の扉と繋がる主寝室専用バスルームだ。 屋敷の女主人の趣向と思われる華やかだが子供っぽい内装をは一目見るなり気に入ったようで、 昨夜は調子外れな歌を何曲も歌いながらご機嫌で長風呂に浸かっていた。 しかしいくら気に入りの場所だろうと、簀巻きで浴槽に沈められるのは御免だったらしい。 暴れまくっていた女の足がぴたりと動きを静止して、 「・・・こ・・・こっ、こここここここれ・・・っ」 「あぁ?」 「〜〜〜これ、これですぅぅ、これ・・・っ」 ふらふらと力なく振ってみせたのは、薬指の小さな指輪が光を放つ左手だ。 「それがどうした」と返してみればはしばらく黙り込み、やがてもぞもぞとカバーを揺らし、 艶やかな深緑色の寝具の中から這い出てくる。うつむきながらあたふたと 着物の乱れを直し始めた女の元へと歩み寄りながら、土方は密かな苦笑に表情を緩めた。 温室から屋敷内までの全力疾走が祟ったのか、それとも、俺に指輪を嵌められたことを余程に意識しているのか。 の頬は真っ赤な林檎のように熟れているし、 髪の隙間からうっすらと覗く首筋まで朱に染まりきっている始末だった。 「・・・・・・土方さん、言ってたじゃないですかぁ。 この指輪は、ぉ、おしばい、の、小道具だって・・・」 目許や頬まで乱れかかった髪をぎこちない手つきで整えながら、はもごもごと尋ねてきた。 いかにも自信が無さそうな女の顔が長い睫毛を瞬かせ、上目遣いに土方を見上げる。 ああ、と彼が頷けば、へなりと眉を八の字に下げて、 「小道具なのに、わざわざ買ってきたんですかぁ?ど・・・どーして・・・? あたしの着物みたいに、どこかから借りてきた、とかじゃ、なくて・・・?」 「着物ならまだしも、女向けの宝飾品なんざ借りる充てがねぇからな。 それにこういったもんは、傷の一つも付けちまえば即弁償だ。 なら下手に高級品を借り受けるより、それなりな見栄えの安物を買うほうが手っ取り早ぇえ」 淡々とした口調で言い聞かせながら、土方は彼女の手を取った。 ほっそりした指を飾る銀のリングに指先で触れて、 「しかもこいつにはサイズがあって、お前の指に合わせなきゃならねぇ。 ったく・・・首にぶらさがってるそいつをやった時ぁ、散々だったからな」 どこぞの馬鹿が浮気だ何だと勘違いしやがったおかげで、あの時は酷でぇ目に遭わされた。 皮肉っぽく付け足した男の呆れ混じりだが可笑しそうな視線が、着物の衿元に注がれる。 僅かに口許を綻ばせて自分を見つめるその表情にもどきりとさせられ、 いたたまれなさに視線をうろうろと彷徨わせたは、首から下げたアクセサリーを着物の上から握りしめた。 ほんの少し身じろぎするだけで素肌を掠めてさらりと揺れる、小さな星のチャームが可愛いネックレス。 それから、そのチェーンに通して肌身離さず持ち歩いてる、彼女の宝物でもある小さな指輪。 その問題の指輪を貰ったときにいかに自分が土方を困らせたかを思い出したら、 返す言葉もなくなってしまう。困った彼女は身体を縮め、膝の上に視線を落として、 「・・・・・・え、えぇっと・・・、 あの・・・・・・他にも、聞きたいこと、が、あって・・・」 「何だ」 「は、はぃっ、その、えっと、ええと」 落ち着きなく身じろぎしながら、は必死に言葉を探した。 未だ混乱が続いている頭の中では、土方に尋ねたいことが幾つもぐるぐると渦巻いている。 その数があまりに多すぎて、どう優先順位を付けたらいいのかがまず判らない。 着物の下に潜めたネックレスをもじもじと弄り回しながら、は困りきった表情で考え続ける。 そうしているうちにどうにか考えも纏まり、どちらかといえば気が短い性分の土方の視線に込められた 「さっさと言え」的な圧力にたじろぎつつも、おそるおそる切り出してみた。 「・・・・・・ど・・・どういぅ・・・こと・・・?」 「あぁ?」 「っっ、だって、こっ、こここここ、これって、けっ。けけけけけっけっこっっゆびにゃっっっ」 「落ち着け。舌ぁ噛むぞ」 「〜〜〜じ、じゃなくてけけけけつけけけけっっ、こっっっゆっ、〜〜っっっこけっこぉぉぉ!」 「てめえは明け方の鶏か。そうじゃねぇだろ、結婚指輪だろ」 ベッドの端に腰を下ろしながら醒めきった口調で訂正すれば、 っっっ、っと背筋を盛大に跳ね上がらせた女の顔がいよいよ真っ赤に沸騰する。 すっかりのぼせた頭の天辺からはしゅわーっと湯気が吹き上がって、 「ぅぎゃあぁあああぁぁ!!っそそそそんなっはっきり言わないでくださいよぉぉ!!」 「お前が言わせたんだろうが。つーかその面どうした、耳まで赤けぇぞ」 熱でもあるのか。 わざとからかっているような意地の悪い目つきで振り向いた男が、素知らぬふりで尋ねてくる。 それでも何も答えられず、ぱくぱくと唇を空回りさせて困りきっているをよそに、 土方は寝台に身を投げ出した。豪邸の主のために選り抜かれただろうマットの寝心地は、 彼がこれまで使った中では最上の部類だ。なめらかな肌触りのベッドカバーも、 沈んだ身体を心地よく包みこんでくれる。仰向けに見上げた蒼い天蓋には、星座とその神話にまつわる 神々の姿が美しく緻密に描かれていた。斜め上で微笑む女神の表情は さっき温室で会ったばかりの女を彷彿とさせるし、本来は天文学や宇宙航空学が 専門だと言っていたここの主がいかにも好みそうな図案だ。 そんなことを考えながら視線を僅かに横へ流せば、膝を崩して座っている女の後ろ姿が目に入った。 見慣れない薄紅の着物を纏ったその肩が、きゅっと小さく竦められている。 下手に抱きしめれば折れるのではと今でも錯覚しそうになるその身体つきが、より一層儚く頼りなげに見えた。 「・・・って。ゎ。わかんなくて・・・ こ。こんなの、どうしてって、考えちゃうじゃないですかぁ。ご褒美とか、言われても・・・」 「考え込んでどうすんだ。こんなもんたかが指輪じゃねぇか、気楽に受け取れ」 「無理ぃ、無理ですよぉそんなに気楽に受け取れませんよぉっっ。 だ、だって、き、気になるんだもん・・・ひ、土方さん、どういう、つもりなのかなぁって・・・。 け、け、けっこん、ゆびわ、が、ごほうびって・・・・・・ど、どういう意味、かなぁって・・・」 「別に深い意味なんざねぇよ」 わずかな感情の揺らぎも声音に乗せることがないよう、極めて素っ気なく土方は言い切る。 そんな短い返事だけでは、男の真意を測りかねたらしい。 ゆっくりと振り返ったはうつむきがちに土方を見つめてきたが、猫のそれに似た 吊り上がり気味な目は戸惑いと恥じらいで揺れていた。 寝台に落ちていた華奢な手を、指先で捉えて引き寄せる。 それだけでびくりと肩を震わせた女の腕を何も言わずに引っ張れば、 あ、と短い驚きの声を漏らした身体は彼の腕の中へと倒れ込んできた。 「〜〜〜・・・っ!」 「・・・ちっ、」 広々とした寝室中に衣擦れの音を響かせながら小さな頭を抱きしめて、細いくびれに回した腕に力を籠める。 半分無意識な舌打ちが飛び出たのは、思うような動作が出来なくて歯痒かったせいだ。 素材も仕立ても格別にいい幕府高官用の制服は昔から気に食わなかったが、 こうして自分で身に着けてみると気に食わなさが一層増していくばかりだった。 普段身に着けているそれよりも細身で気取ったデザインが、やたらに窮屈で動きづらい。 実際に今も、惚れた女の肌身のやわらかさをこのすかした服一枚に遠ざけられている気分だ。 (こいつに袖を通すのは、今後は必要最低限にするか。) 心中で二度目の舌打ちを鳴らしながら、瞼を伏し目気味に落とした土方は 視線を下へ伸ばしてみる。腕の中でかちんと固まっている女の反応を 確かめてみれば、彼の胸に伏せた顔は恥ずかしさに震える唇をぎゅうっと噛みしめ、 視線をうろうろ彷徨わせながら声も出せずに悶絶していた。 長い髪がはらはらと乱れ掛かった頬や首筋が、相変わらずに赤い。 もしここで寝台にこいつを組み敷き色づいたあの肌に口づけてやれば、 羞恥をこらえて悶絶しているあの顔はぼんっと蒸気を噴き上げるだろう。 ――出会った頃から現在まで続く、いつまで経っても初心な女の滑稽なくらいに判りやすい反応。 思えばこれに初めて触れて以来、そんなを一体何度見てきたことか。 恋仲になってからもちょっとした接触にさえなかなか慣れてくれず、 抱きしめるだけで赤面して悲鳴を上げ、自分を囲った男の腕から逃げ出そうと暴れていたような女だ。 おそらく今も暴れ出したいのだろうが、最近は何か大きな心境の変化があったらしく、 恥ずかしさをぐっと我慢して俺に身を委ねようと努めているらしい。 そんなのいじらしい様子が可愛くて、ふっと目を細めた土方は すっかり涙目になった瞼の縁に指先を這わせる。 、と低めた声で囁けば、濡れた睫毛をびくんと小さく震わせた女は 恥ずかしくてたまらなさそうに唇を噛む。すこし躊躇ったような仕草を見せた後で、 おそるおそる視線を合わせてきた。 「さっきも言ったが、こいつはあくまで芝居用の小道具だ。 明後日まで使えりゃあいいだけのもんで、用済みになった後はお前に駄賃としてくれてやる。 それだけのこった」 「・・・・・・」 「ぁんだ、まだ文句でもあんのか。言ってみろ」 何か言いたげに見つめてくる女の手を取り、透きとおった石がさりげない煌めきを灯す薬指に触れてみる。 ――何が「それだけのこった」だ、我ながら苦しい言い訳だ。 が奥方役を演じきった場合の褒美。店で適当に見繕わせた、芝居用の小道具。 用済みになった後は、駄賃代わりにくれてやる――どれもこれも大嘘だ。 前々から目星をつけていた店でこれを購入したのは、実を言えば一ヶ月以上も前のこと。 目の前にずらりと並べ立てられた派手な眩しさに辟易しつつもこの少女趣味な花型の宝石を入手したのは、 店の金庫から運ばれてきた数十種類のサンプル品を、我ながら「よく途中でキレなかった」と 感心するほど根気よく選別し続けた結果だった。 「駄賃としてくれてやる」などと言ったのも、貰った指輪が彼女の負担にならないようにと 適当に捻り出した、ただの思いつきだ。他にも似たような小さな嘘を幾つか重ねたが、 それでも今のところ、が土方を疑っている様子はない。 素直で何でも信じやすい彼女は、彼の嘘をどれもすんなりと受け入れてしまったようだ。 あの様子を見る限り、俺の嘘はどれも上手く機能したのだろう。 少なくとも、指輪に込めた彼の意図をが見抜くきっかけには成り得なさそうだった。 ――全く、拍子抜けするほど予定通りな事の運びだ。 は指輪を贈られる理由も、それを贈った俺の腹積もりも疑ってはいない。 これでいい。恥ずかしそうに頬を染めてうつむく腕の中の女を眺め、土方は冷静にそう判断する。 しかし――それはあくまで、真選組副長という視座から見た場合だ。 いつかこいつと所帯を持って、名実共に自分のものにする。 そう決めて行動してきた男としては――組織を束ねる役目を離れた個人としては、 今のの反応は喜ぶべき結果とは言えなかった。 芝居のための小道具。 身分を偽装するための、嘘に塗れた結婚指輪。 今のところこれは、そう名状する以外に無いもの。 俺の本音は兎も角としても、実際は二重にも三重にも嘘を重ねて渡すしかなかったものだ。 これがあいつに拒否されることなく華奢な指に収まったところで、俺が望むような効力は発揮しないだろう。 頭ではそう理解していた。それでも、この指輪がもたらすかもしれない幾許かの変化に、 彼は仄かな望みを託さずにいられなかった。 (これをきっかけにして、ようやくがその気になるかもしれない。) 少なくとも指輪を買ったときはそう思っていたし、僅かながら気分が高揚したものだ。だが、今は―― 「・・・・・・」 ほんの少しの失意とほろ苦い気分は怜悧な面立ちの裏に押し込め、 土方は無言で女の頭をゆっくりと撫でる。胸元に広がる長い髪からは甘やかな香りが ふわりと漂い、それを深く吸い込めば、ずっと前から彼を苛んできたもどかしさとやるせなさが 身体の内に虚しく膨れ上がっていく。 けれど、そんな自分の不甲斐なさをに知られるわけにはいかない。 頬をぽうっと赤らめた女の戸惑いに揺れる目を見つめ返し、彼は平然と嘯いた。 「そう小難しく考えるな。たかが指輪じゃねぇか」 「で。でも。・・・いいんですかぁ、貰っても。これ、石がすごくきれいだし、お花のデザインもきれいだし。 たった3日ぶんのお駄賃にしては高そうっていうか」 「いや、お前が持ってるやつと大差ねぇ。たった3日分の褒美だからな」 どうということもなさそうに言い切ってみせたが、それも真っ赤な嘘だった。 指輪を購入した宝飾店で一番に伝えた購入予算は、それを聞いただけで 店員の態度が丁重さを増し、得意客用の別室にすぐさま案内される程度には大きな額だ。 が知ったら飛び上がって驚愕しそうなこの余談も、彼女に知らせるつもりはない。 は廃刀令が布かれたこの時代に町道場を営む武家出身の義父に育てられ、 着物にも不自由するほどの質素な生活を送ってきた娘だ。 自分の指に嵌められたものの本来の価値を知ったなら、途端にあわてふためき指輪を外して 「もらえませんっ、そんな高価なもの!」と突き返してくるのは目に見えている。 「それから――アジトへ乗り込む予定が一日繰り上がった。 今夜決行だ。階下は一晩中騒がしいだろうが、気にせず寝てろ」 不意に思い出した予定の変更を髪を撫でながら伝えれば、がわずかに頭を揺らす。 土方の胸元に伏せていた顔をゆっくりと起こし、眉を曇らせた表情で彼を見つめて、 「繰り上がるって・・・じゃあ、明日の予定も変更ですか」 「そいつは今夜次第だな」 それを聞いた女の瞳がさみしげに揺れる。 「そう、ですか」とつぶやいたきり再びうつむいてしまったは、 温室に行く前にこの寝台で見せたそれとよく似た表情で唇を噛んで黙り込んでしまった。 明日の予定は今夜次第。つまり今夜の作戦の結果によって明日以降の日程も変わり、 明後日までのはずだったこの屋敷での滞在期間が短縮される場合もある、ということだ。 そういった可能性を、彼女は言われるまでもなく察したのだろう。 真選組の任務内容はいつ起こるかも判らない犯罪や事件の勃発次第でどうとでも変わり、 隊士達のスケジュールは刻々と変化し続ける。あらかじめ決められた日々の行動予定など 半ば建前のようなものだということは、元は土方の補佐役を務めていたもその身を以って知っている。 しかし――こいつも変わったもんだ。 土方はふとそんなことを感じ、瞳を細めて彼女を見つめる。 除隊した直後のなら、こんな落ち込んだ顔は決して見せようとしなかった。 むしろこんな時ほどあれこれと俺に文句をつけ、ふざけた態度で本音を隠すのに必死だった。 そんな良くない兆候が特に目についたのは、除隊した直後から半年ほどの間だろうか。 (自ら別れを切り出したうえに隊士ですらなくなった自分が、これ以上世話になるわけにはいかない。) それはこいつと本当の意味で別れるつもりなど無かった俺にしてみれば 全く的外れな遠慮でしかなかったわけだが、精神的に弱りきっていたこいつにとっては 殊の外大きな問題だったようだ。 今思えば、そんな遠慮とその奥にある本心との間で常に心を揺らしていたのだろう。 あの頃のの言動には、多くの矛盾が潜んでいた。 別れた女を呼び出す暇があるなら早く新しい女を見つけろ。そんな強がりを笑って口にする一方で、 俺の些細な言動に対してもやけに過敏になり、時にはあからさまな動揺を見せたりもした。 出来るだけ俺から距離を置こうとするくせに、内心では俺との距離が離れてしまうことに酷く怯えているようだった。 (こんな面を見せられるくらいなら、いっそ一晩中泣きじゃくられたほうがまだマシだ。) 目にするたびにそう痛感させられ歯噛みしたくなっていたあの頃の笑顔は、 いつもさみしそうで不自然で、つつけばすぐに泣き出しそうだった。 だが、今は違う。 あの危うい状態は、覚悟していたほど長く続くものでは無かったらしい。 あれから時が経つにつれ、は少しずつ本来の自分を取り戻しつつある。 心境に何らかの変化が見えたこの頃は、不自然な偽物の笑顔を目にすることもなくなり、 感情をそのままに表した素直な態度が増えてきた。 今腕の中に横たわっている女の姿は、まさに彼女が快復の途上にあるという証拠だ。 土方のシャツの胸元にやわらかな頬をそっと摺り寄せ、しゅんと萎れたさみしげな表情を隠そうともしない。 そんな姿はまだ恋人として傍に居た頃のが戻ってきたようで、土方にとっては嬉しかった。 指で掬えばさらさらと流れて逃げていく、手触りのいい女の髪。 うつむいたままの女に気付かれないようにその髪を手の内で弄びながら、指輪の件に話を戻した。 「まぁ・・・何だ。 お前が気に入ったなら、って話だ。欲しくもねぇもんを無理に押しつける気はねぇ」 要らねぇなら遠慮なく突き返せ。 そう告げてやればの表情はさらに複雑そうに曇っていったが、これだけ戸惑うのも無理はない。 自分の左手の薬指用にわざわざ誂えられた特別な指輪。 そんなものを男から贈られる体験は、年頃の娘にしてみれば間違いなく人生の一大事のはず。 ところが指輪を贈った当の男ときたら、まるで造作もないことのように 「気に入らなければ突き返せ」などと平然と言い切ってみせるのだ。 おかげで余計に混乱が増してしまった彼女は、この唐突な贈り物に込められているはずの男の真意を どう捉えていいものかと迷いに迷っている――本当のところがどうかは知れないが、 少なくとも土方の目には、彼女の様子がそんな風に見えた。 「・・・――あぁ。そういやぁ、これもあったな」 鼻先まで微かに漂ってきた甘い匂いにふと気付き、胸元へと手を差し入れる。 上着の内側に潜ませていたものを、彼女の目前へ差し出した。 「温室であいつに・・・いや、庭師に押しつけられたやつだ。要るか」 先程訪れた温室で「偽の庭師」に押しつけられた、七分咲きの薔薇の花。 花に興味が無い土方にとっては、屯所の近所で咲いているものとどこが違うのかも判らないが、 おそらくこれも執事の爺さんが言うところの「希少な品種」とやらだろう。 外側はの好きそうな甘ったるいピンクで、花芯へ近づくほどにその色は純白へと変化していく。 顔を近づけた時にだけ鼻先を掠める程度の、ほのかな香りも悪くない。 しかし一つだけ問題があり、分厚い上着の内側に閉じ込めっ放しにしたせいか、手渡されたときは ふっくらと丸く膨らんでいた花のかたちはすっかり不格好に潰れていた。 ん、と土方は眉間を寄せて唸り、手にした花を改めて眺める。 江戸では出回っていない希少種とはいえ、潰れた花など貰ったところで喜ぶ女がいるものか。 そう思い直し、一度は差し出したそれを引っ込めようとしたのだが、 「わぁ・・・!どうしたんですかぁこれ」 「・・・・・・」 引っ込めようとした彼の動きよりも早く、ほっそりした女の手は潰れた花に飛びついてきた。 土方は意外そうに目を見張り、を眺める。 こいつがこれまで見せていた、あの思い悩んだ表情は何だったのか。 そんなことを思ってまじまじと目を見張ってしまうほどに、彼の手許を見つめる女の目は 打って変わってきらきらと輝いていた。 そんなの変わりようが可笑しくて、土方は彼女を見つめた双眸をふっと細める。 自分の反応を愉しんでいる男の目線に気付きもしないのか、嬉しそうなの視線は花だけに注がれていた。 世の女の大半なら、これより指輪のほうを喜ぶだろう。ところが花好きなこいつには、 ともすればゴミとして扱われそうな潰れた薔薇が宝石の数倍は光り輝いて見えるらしい。 「あっ、でも・・・これもきっと珍しい花ですよね。いいのかなぁ、そんなもの貰っても」 「庭師が切って寄越したもんだ。遠慮なく貰っとけ」 「そっか、そうですねぇ。それなら遠慮なくいただきます。 えっと、あの・・・土方さん、ありがとう」 「礼ならこいつを寄越した奴に言え。・・・いや、まぁ、後で伝えておいてやる」 そう付け足せば、頬を紅潮させた顔が彼を見上げてはにかんだような笑みを浮かべる。 まだ幼い少女のようなあどけなさが残るその表情は、出会った頃から変わらない。 そんな可愛らしさに惹かれた土方が、彼女の頬を手のひらに収める。 甘い香りのする肌を撫でながら女の顔を上向かせ、そのまま唇を重ねようとしたのだが ――ぽうっと頬を染め上げたはくすぐったそうに首を竦め、彼の手から逃げるようにしてうつむいてしまった。 軽く上げられた前髪のせいもあり、本来の年齢よりもやや年上の、余裕を持った大人の 男に見える土方の顔が微かに眉を吊り上げる。どことなく恨めしそうな目つきで 腕の中の女を見下ろし、小さな頭の天辺を睨んだ。 いや、これもいつものことだ。この程度の些細な行き違いなど、別にどうってこたぁねぇ。 何しろ俺は慣れている、色事方面にはやたらと疎いこいつの、 こういった空気を読めないがゆえの無自覚な肩透かしに。 ・・・まぁ、だからといって、この罪の無い拒否反応に全くダメージを受けないかと言われたらそうではないが。 「わー、いい匂いー。ねぇねぇ土方さぁん、この薔薇すっごくいい匂いしますよー」 「・・・・・・ちっ。後で覚えてやがれ」 「え、なに?何か今、舌打ちと暴言が聞こえた気がするんですけどー」 「何も言ってねぇ。言ったとしてもてめぇにゃ言ってねぇ」 「・・・?なんですかぁその嫌そうな声。 あ、そーだ、花瓶を見つけないと。この子にお水あげないといけませんね」 薔薇を顔に近づけて鼻孔をくすぐる甘い香りを楽しんでいるうちに、はふと思いついて ぱちりと丸く目を見開く。主寝室だというこの贅沢な部屋には、瑠璃色に光り輝く 壺のような大花瓶が専用の飾り棚に乗せられていたり、サイズは普通だが 金箔をふんだんにあしらった美術品のような花瓶がテーブル上に飾られていたりする。だが、 「普通のコップとかでいいんですけど・・・なさそうですねぇ、そーいうの」 チェストが並ぶ壁際を眺めながらつぶやくと、土方も同じことを思ったらしい。 だな、と頭上からやけに不機嫌そうな声色の、素っ気ない返事が降ってきた。 というか隅々まで贅を尽くしたこの大豪邸に、たった一輪を生けるための素朴な花器はあるんだろうか。 あったとしてもすごく価値のある、触れるのもためらうような高級品かもしれない。 どうしよう。そんな立派なものじゃなくていいんだけど――そうだ、花を挿すのに適当な コップが厨房にあるかどうか、後で執事さんに尋ねてみよう。 そう思いついたは、大切そうに手のひらに包み込んだ薄紅の花を見下ろした。 幾重にも重なるやわらかな花弁が作り出すグラデーションの美しさに目を凝らせば、 自然と左手の薬指も目に入る。 透き通った小さな石の粒が花のかたちに散りばめられた、銀色に輝く細いリング。 (ここに来る途中の店で適当に見繕わせた安物だがな。) 土方さんはそんなふうに言っていたけれど、こんなに綺麗で繊細なリングだ、 可愛らしさも女らしさも足りない自分には明らかに不釣り合いな代物に見える。 こうして指に嵌めていても、ちょっと指輪に申し訳ないような気がするくらいだ。 などと思って肩を竦めたりもしたけれど、それでもは嬉しかった。 指輪への引け目はまだ感じているのに、身体が浮き上がりそうなふわふわした気分が胸の中を満たしていく。 土方から指輪を贈られたのはこれが二度目だったが、自分の指にきちんと嵌まる指輪を贈られたのは 初めてだし、男の手から直接に薔薇を贈られる、なんて経験も初めてだ。 その両方の初めての相手が誰よりも好きな人なのだから、心が甘い喜びに弾まないないわけがなかった。 まぁ、庭師さんがくれたというお花も、土方さんが指輪をあたしのご褒美にしようと思いついたのも、 単なる偶然や気まぐれが重なったせいにすぎないんだろうけど―― 「で、どうなんだ。演れそうか。上流階級の奥方役は」 くい、と髪を軽く引かれ、こくん、と大きくは頷く。 土方に連れられこの屋敷に着いたときからずっと考えていたことを、たどたどしく言葉に変えていった。 「・・・が、がんばりますっ。でも・・・、 演技なんて全然、自信ないから・・・・・・ひ。土方さん、フォローしてくださいね。 〜〜ほ、ほら、あの、し・・・自然にっていうか・・・ふ・・・夫婦、に、見えるよ・・に・・・っ」 この指輪は、ただの偽装用の小道具。 それはもちろん判っているけれど、仮にも結婚指輪と名が付くものだ。 そんなものをそう簡単に貰っていいのかと悩んでしまうし、要らないなら突き返せ、などと 言われたことにもまだ困惑している。時間をかけてじっくり考えてみないと、とても答えは出せそうにない。 だから、とりあえず、このリングを受け取るかどうかについては一時保留することにしよう。 そう判断した涼音は、自分に言い聞かせるようにして小さく頷く。 それよりも今は、指輪よりも大切なことを――今の自分がこのひとに何を望まれているかを考えよう。 この指輪を嵌めていられる間は、あたしは土方さんの奥さま役を任されているのだ。 以前のように朝から晩まで土方さんの傍にいられる時間を貰ったんだから、 この機会に何か少しでも役に立ちたい。土方さんに協力してもらわないと 上手く出来そうにない部分もあるけれど、自分が出来る精一杯で奥さま役を演じよう。 そして――そうしながら、忙しいこのひとの手が届かないようなことを探してみよう。 ほんの短い期間だけれど、隊士だった頃に戻ったつもりで。 誰よりも土方さんの近くにいて、その背中を追いかけていられるのが嬉しくて、 いつでもこのひとの役に立ちたくて。こんな自分でも出来ることをいつも探していたあの頃に、一時だけ戻ったつもりで―― 「ああ、判った。明後日までよろしく頼むぜ、奥方殿」 「は、はいっ、がんばりますっっ」 こくこくと何度も何度も焦った仕草で頷きながら、は上擦った声で叫ぶ。 よろしく頼む、とまで言われたのだ、こんな時は目を見てはっきり返事をしたほうがいい。 そう思うのに、恥ずかしくて顔を合わせられなかった。あの切れ長な目がこっちを見下ろし、 自分をじっと見つめているような気がする。単なる自意識過剰な気もするけれど、 なぜか、どうしてか頭のあたりに視線の熱を感じてしょうがない。じわじわと赤らみ始めた頬の温度は上がっていく一方だ。 ――あぁ、まただ。またこれだ。 最近、ごくたまに、なんだけど――これって、あたしの錯覚なんだろうか。 それとも、自惚れすぎなんだろうか。 最近の土方さんは、前とは少しだけ違った素振りを見せるようになった。 今感じているこれも、そのうちのひとつ。 隊士だった頃から滅多に目を合わせてくれなかったひとが、時折あたしをじっと見つめている気がする。 こんなふうに二人きりでいるときや、このひとの腕の中で甘えていられる時は、特に。 「自然に、か。てぇこたぁだ、まずは稽古だな」 「・・・ふぇ?け。けいこ?」 何だろう、稽古って。 唐突に出てきた「稽古」の意味が解らなくて、顔を見られる恥ずかしさも忘れたは ぽかんと土方を見上げてしまった。すると土方は彼女の腰を抱え直し、 女一人ぶんの重さなどどこにも感じていなさそうな、軽々とした動作で身を起こす。 険しく眉間を寄せた横顔がベッド横の小さなテーブルに置かれた時計を見遣り、 「ここにいる間のお前の名前をフルネームで言えるようになれ。 制限時間は・・・ああ、もうこんな時間か。15分以内だ」 「えぇ!!15分!?むりっ無理無理ぃぃっ絶対無理ぃぃ!」 「無理ぃ、じゃねぇ。せめててめえの苗字くらい噛まずに名乗ってみせやがれ馬鹿奥方」 じゃねぇとまた近所の連中に不審がられるだろうが。 まだ何か腹に据えかねている様子の土方が眼光鋭くそう言い放ち、 鬼より厳しいと評判な元鬼上司によるスパルタ式特訓はその瞬間から始められることとなってしまった。 その元鬼上司の膝の上、ちょっと身じろぎしただけで互いの唇が触れ合いそうな至近距離に 抱きかかえられたは、悲鳴を上げて嫌がった。だってこれでは、近隣住民を相手に名乗るよりも 数段ハードルが上がってしまっている。よりにもよって土方本人を前にして、 しかもこんなふうに抱えられながら彼の姓を名乗るなんて。 そんなの無理だ、絶対に言える気がしない。想像しただけで心臓が ばくばく暴れて頭に血が昇ってくるし、恥ずかしくて死にそうになってしまう。 だからお願い、お願いです――と、は土方に縋って頼み込んだ。 ほんのちょっと、ちょっとだけでいい。お願いだから少しは譲歩してほしい。 少しでいいからあたしの言い分を聞いて、あたしの身になって考えてほしい。 どうしても15分以内にこの無理難題をクリアしろというなら――せめてこのくっつきすぎな体勢だけでも何とかしてくれないと! 「〜〜っだだだだからぁっっ、せめて放して!放してくださいよぅっっっ、 やだやだやだぁっこんなの無理ぃぃっ頭ぱーんって破裂するぅぅっやだやだベッドに降ろしてぇぇぇ!」 「あぁ?誰が放してやるか。 どうせまたさっきみてぇに、放した途端に人の面突き飛ばして逃げんだろうが」 自分の腰をがっちりと抱えて離そうとしない男の腕を何度も引っ張りながら、 はそんなことをあわあわと、必死の形相で訴える。ところが土方は頑として 聞き入れてくれず、彼女が上着の袖を引っ張っただけで面白くなさそうに口端を下げてムッとしていた。 というか、そもそもがベッドに降ろしてもらえるどころの話ではなかったらしい。 職務上でもやたらと疑り深い元鬼上司は、「逃げませんっ、今度は逃げませんってば!」と 半泣きで喚くをこれっぽっちも信用してくれなかった。いくら懇願しても放してくれず、 それどころか、彼女がちょっと腰を浮かせただけで無言で身体を羽交い絞めにして 自分の膝の上まで引き戻す、という子供じみた嫌がらせまでしてくる始末だ。 そんな密着状態のままで土方の姓を名乗らされ、緊張と羞恥と混乱でますます口が回らなくなり、 とうとう耳まで真っ赤に染めて涙目になったは、「もうやだ死んじゃうぅぅ」とかぶりを振って泣き言を漏らし始めた。 なのに言い間違えるたびになぜか罰として唇を奪われ、徐々に深くなっていく口づけのせいで かぶりを振って抵抗する力すら萎えてしまう。口内を好きなように貪られるごとに、 弾む呼吸はさらに乱されていく。それでも煙草の薫りが残る熱い唇から 解放される瞬間をどうにか見計らい、ようやくはぁはぁと息を吸い込む猶予を与えられたと思ったら―― 「おいコラ、休んでんじゃねぇ。何が「ひみかた」だ、違げーだろ」 「〜〜〜・・・っっ!」 ようやく与えられた貴重な猶予は、醒めた口調の命令によってすぐさま断ち切られてしまった。 罰と称して彼女の唇を塞ぐことで溜まった鬱憤でも晴らしているのか、なぜか機嫌が 良さそうな雰囲気に変わってきた元鬼上司に、「おら、もう一遍言ってみろ」と 男の色香と迫力が溢れる笑みを浮かべて凄まれて―― ――それから15分が過ぎ。 厳しいのか甘いのか判らないおかしな特訓は、時間に正確な真選組副長らしくきっちり15分間で終了された。 生意気にも特訓を拒んだ元直属部下を思う存分弄んで、すっかり満足したらしい。 土方はいつもと変わらない平然とした態度で火を灯した煙草を咥え、フン、と勝ち誇ったような 薄い失笑をその口端に刻んでいた。細い紫煙を背後に従えた男が悠々と寝台から去っていっても、 休む間もなく繰り返された特訓のおかげで息も絶え絶えになったは起き上がる力すらなく、 ベッドカバーが思いきり崩された寝台に突っ伏し両手で顔を覆って啜り泣いているというのに、だ。 ――土方に凄まれたその直後。 寝台にどさりと押し倒されたは「次にあれをやりやがったらここに噛み痕も付けてやる」という 彼女にとっては全く意味不明な宣言をされ、彼女にとっては何も身に覚えのないことで 怒っているらしい土方から、太腿の至るところに唇を這わされてしまった。 その理不尽かつ訳の判らないお仕置きは、にしてみればちょっとした拷問に等しい行為の連続だった。 ちゅ、と男の舌が弱い音を鳴らすたびに身体は勝手に震え上がるし、高級な深緑のカバーを夢中で握り締め、 ひっきりなしにこみ上げてくる恥ずかしい声を我慢し続けるだけで精一杯。本当に頭がおかしくなりそうだった。 その上帯まで解かれて着物を半分脱がされてしまい、終いには自分が何を言わされようとしているのかも 忘れるくらいに頭も身体も蕩けきってしまったところへ、元鬼上司は非情にもぴしりと命令を下してきた。 至って涼しい顔で女の脚に唇を寄せ、彼女の素肌に口づけを繰り返す男が下した命令とは、 ――この特訓の本来の目的に則したもの。 そう、つまりは「土方」を噛まずに言えるようになるまで延々と復唱することだ。 おかげではわずか15分の間に7回も舌を噛んでしまい、口の中のひりひりした痛みに泣きながら 「っひ、ひじからさんの鬼ぃぃばかぁあぁへんたいぃぃぃ」と、部屋を出て行く男の背中と 音も無く閉まっていく扉に向けて舌足らずに叫んだのだった。
「 おおかみさんとおままごと *4 」 text by riliri Caramelization 2017/07/16/ ----------------------------------------------------------------------------------- next →