夕暮れ前の陽射しを浴びて薄紅色に輝く温室は、広い邸内の奥深く――薔薇の蔦が絡まる アーチを幾つも抜けた先に待っていた。 硝子で出来た透明な建物の屋根やドアにはステンドグラスも 嵌め込まれていて、「植物園」って呼ばれてもおかしくないような大きさだ。 隣には真っ白な四阿があって、その奥では大きな鋏を手にしたツナギ姿の三人が 脚立に昇って枝を切り落としていた。じきに来る冬に向けて、庭木の剪定をしてるみたい。 枝垂れた深緑色の蔓は薔薇に似ていて棘がある。でも、葉の形は細長くて薔薇っぽくない。 温室には江戸では自生しない植物もあるって執事さんが言ってたそうだけど、 もしかしたらあれも何か珍しい植物なのかな。 気になったから近寄ってみたら、一番年長に見える小柄なおじさんがこっちへ気付いて振り返った。 素早く脚立から降りてくると日除けの布が付いた大きな麦わら帽を外して、 ぺこり、と深めに頭を下げて、 「土方様と奥方様でいらっしゃいますね。 私共はこちらのご当主から庭の管理を任されている者です、ようこそおいでくださいました」 「〜〜〜っっっ!!? っっちちっちがっっっ、ちがいますっ誤解ですっっぉっ奥方さまなんて!」 そんな、まさか、違う違う違う!あたしなんかが「奥方さま」なんて! とんでもない誤解にびっくりしたあたしはとにかく全力で否定しようと、両手をぶんぶん振りまくる。 それでもおじさんが納得いかなさそうに首を傾げてるから説明しようと踏み出したら、 ――ぐいっ。 着物の衿首を後ろから鷲掴みにした手に、身体ごとぐいっと引き戻される。うわわ、ってよろよろ 下がったら、ブーツの踵がふわっと浮いた。 まるで猫の子か何かみたいにあたしを吊るし上げた人が横からぎろりと睨みつけてきて、 「待てコラ、何が誤解だ。何が違げーってんだバカ奥方」 「何がって何もかもですよー!何もかも誤解じゃないですかぁ、あたしが奥方さまだなんて」 「はぁ!?どーなってんだてめえの頭は、あれだけ注意したってえのにもう忘れやがって・・・!」 「忘れてませんよ覚えてますよー、ご近所の人にバレないようにしろって話でしょ。 でも、このお屋敷の人にまで嘘つく必要はないですよー。それに・・・ 前にも似たようなことがあったじゃないですかぁ。ほら、あの旅籠で」 それはあたしがまだ副長の補佐役(という名の専属雑用係兼パシリ)を務めてた時で、 お付き合いを始めて間もない頃のこと。土方さんが「誕生祝いだ」って 連れていってくれたのは、ターミナルもそう遠くない江戸の中心街の、 しかも一等地に建つ立派な温泉旅籠で。なぜかそこの皆さんは あたしをこのひとの奥さまだと勘違いしていて、なのに土方さんときたら、 そのとんでもない勘違いをまったく訂正してくれなかった。 それ礼来何度かその旅籠には連れていってもらってるけど、行くたびに声を揃えて 「いらっしゃいませ、土方さま」って出迎えられて、 貧乏育ちの専属雑用係が気後れしちゃうような特別待遇も続いていて―― 「土方さんは誤解されたままでも平気かもしれないけど、あたしはけっこう気まずい思いしてるんですよー。 だからね、今回は嘘つく相手を最小限に留めたいっていうか」 「駄目だ。素性は一切伏せておけ」 「えーっ、どうしてですかぁ」 「どうせここに居るのは明後日までだ。それまでの間、適当に話合わせときゃ済むだろうが」 「うーん、それはそうかもですけどー・・・出来れば嘘はつきたくないじゃないですかぁ」 あたしだって元は隊士だ。身元を偽る必要がある潜入捜査の基本は 土方さんにみっちり仕込まれてきたし、それを忘れたわけじゃない。 用心深いこのひとがどんなことを懸念してるのかも、自分なりには解ってるつもりだ。 それでもこうして上流階級の奥さま扱いされちゃうと、なんだか騙してるみたいで申し訳なくなっちゃうよ。 だいたい「奥方さま」なんて恭しい呼び方、あたしには分不相応も甚だしいし。 「それに・・・、土方さんは嫌じゃないんですかぁ? 結婚してるどころか結婚の約束してるわけでもない子と夫婦扱いされるのって」 「・・・・・・、あぁ?」 「まぁそれはともかくとしてー、何なんですかぁこの扱い。 仮にもお嫁さん役に対してひどくないですかぁ。 早く下ろしてくださいよー、高級ブランド着物が破れちゃったらどーしてくれるんですかぁ」 首根をわしっと掴んだままの猫扱いにむっとして、ぷーっと思いきり膨れた顔で言い返す。 だってこれはないよ、これは。仮にもお嫁さん(に見せかける必要がある子)に対して、 この「逃げようとしたペットを捕獲しました」的なぞんざいな扱いってどーいうこと。 もし世の旦那さまが何かあるたびに奥さまを飼い猫みたいに吊り上げてたら、 江戸の離婚率はたちまちに倍増するに違いないよ。なんて思ってるうちに、 土方さんの口端で細い煙を昇らせてる煙草がぎりっと深く噛みしめられる。 元々険しい印象の目許がもっと険しく顰められて、 黒い前髪から覗くこめかみにはびしっと大きな青筋が浮かんで、 「・・・おい、するってぇと何か。お前は嫌なのか、俺と夫婦扱いされんのが」 「夫婦扱いがいやっていうか、誤解されるのがいやなんですよー。 だってとんでもない誤解じゃないですかぁ、あたしが土方さんの奥さまだなんて」 「・・・・・・・・・〜〜〜っ」 「・・・?あれっ。 どーしたんですかぁ土方さん、なんかすっごい形相になってますけど。 てゆうかその煙草そんなに噛みしめたら吸えなくな・・・って、えっちょっぃたっ、いっったぁああい!」 掴みっ放しだった首の後ろをぱっと放されたと思ったら、ぐりぐりぃぃぃっ。 頬を思いっきり抓られて、一瞬で頭の天辺まで駆け上がってきたのは あともうちょっとでほっぺたのお肉をぶちっと捩じ切られるんじゃないかってくらいの激痛だ。 だけど鬼の副長のお怒りはこんなことまでしたくせに収まらなかったみたいで、 腹立たしげに唸った人の馬鹿力全開な腕にがしっと首をホールドされて、 「ちょっっやめっギブっギブギブギブうぅぅ!何するんですかあぁおまわりさん暴力反対いぃぃぃ!」 声の限りに叫びながら、いくら解こうとしてもびくともしない白シャツの腕を必死にべしべし連打してたら、 「ぁ、あのぅ、土方様・・・?」 ちょっと怯えているような、怪訝そうな声を掛けられた。 そう、あたしたちに声を掛けてきた小柄な庭師のおじさんだ。 「そ、その、今日のお客様はご夫妻だとお聞きしていたのですが・・・、 もしや私共のほうで何か間違いがありましたでしょうか」 「ああ、騒がせて済まねぇ。これは日頃から落ち着きの無ぇ奴でな」 「〜〜〜ちょっっ、誰のせいで落ち着きがなくなってると思っっっいたっっいだだだだ!」 「はぁ、ま、まぁ確かにそのようで。いやぁ随分と変わった奥方さ・・・・・・ 〜〜いやそのっ、げ、元気な奥様でようございますな!」 しどろもどろに掛けてくれた言葉は、たぶんおじさんが苦心して捻り出した精一杯のお世辞だったんだろう。 軍手を外しながら寄ってきた人の日焼けした笑顔は、太い眉や口許を気まずそうに強張らせていた。 旦那さまに羽交い絞めされてじたばた暴れてる「変わった奥方さま」の様子をちらちら眺めたおじさんが、 四阿の周りで剪定を続けてるお仲間の庭師さんたちのほうへ視線を向ける。 そこではおじさんよりもさらに小柄で、うんと細身な体型なのか、着ているツナギがだぶだぶな庭師さんが。 目深に被った麦わら帽で顔が見えないその人はもう一人の庭師さんが切り落とした枝を 黙々と拾い集めていて、おじさんはその庭師さんの様子をしばらくそわそわと窺っていた。 やがて何かに諦めをつけたかのように溜め息をつくと、ぎこちない笑顔で振り返る。 丸くて分厚い職人さんの手が温室のほうを指して、 「ではさっそくですが、中へどうぞ。ご案内するようにと申し付かっております」 「いや、案内はいい。勝手に眺めさせてもらうが、構わねぇか」 そう言われたおじさんはすこし躊躇った様子だったけど、はい、ともう一度頭を下げて あたしたちを見送ってくれた。緑が鮮やかな芝生を踏んで温室のほうへ向かう途中で、 なんとなく四阿へ振り返ってみる。するとおじさんは麦わら帽子を被り直すこともなく、同じ場所に佇んでいた。 あたしたちが中へ入るまで見送りを続けてくれるつもりなんだ。 そう気づいてあわてて立ち止まって、四阿のほうへぺこぺこと頭を下げる。 それから土方さんの背中を追って駆け出す。困ったなぁ、ってまだ着慣れない贅沢な着物の肩を竦めた。 ・・・隊士だった時の潜入捜査でも痛感してきたことだけど、やっぱりあたしってこういう役目が向いてない。 あんなに丁寧に「お見送り」されたら申し訳なくて、ついつい「違うんです」って言いたくなっちゃうよ。 これはあくまで任務のための演技なんだって、土方さんみたいに割り切れたらいいんだろうけど―― 「うわぁ・・・・・・!」 薔薇の紋章が刻まれた金色の取っ手をおそるおそる押していけば、ステンドグラスで飾られた ドアがゆっくり開かれていく。感嘆の声を上げながら覗き込んだ温室内は、 外の肌寒さを一瞬で忘れさせてくれるくらいのあったかさだった。 一面に広がる花園に見惚れてぼーっと突っ立ってたあたしの肩を、大きな手が前へ押し出す。 その手に誘導されるままに一歩踏み出したら、今度は甘くて鮮烈な花の香りに包まれた。 「ふあああぁぁ、いい匂い・・・! あっ、あのお花!図鑑に載ってた!たしか熱帯でしか咲かない珍しい蘭だって・・・ああっ、あれも! 土方さん見て、ほらぁあれ!見えますかぁあの棚のうえの、籠に入ってるオレンジのおっきいお花!」 「お前の手が邪魔で見えねぇ」 高めな棚の上に幾つも並ぶ鉢植えの蘭をうんと背伸びして指差したら、ぺちっ。 醒めきった顔で辺りを見回してた土方さんに軽く弾き落とされて、 「つーかうるせぇ、無駄にはしゃぐな。入って早々叫びっ放しじゃねぇか」 「えぇっそんなぁ無理ですよー!こんな豪華な温室ですよ、興奮しちゃって黙ってられませんよー。 すごーい、寺子屋の遠足で行った大江戸植物園にはこんなお花なかったのにー」 「殆ど空輸で取り寄せたらしいからな。おら、突っ立ってねぇで歩け」 「うわぁ何これ百合かなぁ、これもいい匂いー!ちょ、押さないでくださいよー」 入口近くで咲き乱れていた純白の大輪にぽーっと見惚れて突っ立っていたから、 気が短い土方さんには面倒だったんだろう。肩に置かれていた大きな手は、 あたしの後ろ頭をぐしゃっと髪ごと鷲掴みした。 そのままぐいぐい前へ押し出そうとするから「やめてくださいよー」って 膨れっ面で抗議したけど、その膨れっ面も、綺麗なお花が勢揃いした温室の光景に目を戻せば 自然と笑顔に戻ってしまう。嬉しさで緩みきった顔をあちこちへ向けて、きょろきょろと室内を見渡した。 ああどうしよう、どこから見ようかな、たくさんありすぎて目移りしちゃうよ。 しかも、どれも見たことないお花ばっかりで―― 「えっ何あれっ、あっちの天井から吊るされてる薔薇! 白とブルーのグラデーションなんて初めて見たー!ああ!隣の紫色もグラデ・・・ああーっ!」 「ったく・・・、今度は何だ」 「噴水!ねぇあれ噴水ですよ噴水っ、うわぁ可愛い・・・!」 思わずぱたぱたと駆け寄ったのは、温室内を十字に走る通路の中央にある丸い池だ。 白と藍色のタイルでモザイク模様に飾られた、小さくて可愛い人工の池。花瓶みたいなかたちの陶製の 噴水が、穏やかな水音と細かな飛沫を振り撒いていた。桃色や薄紫の睡蓮が浮かぶ水の中を、 メダカみたいなちいさな魚が泳いでる。端のほうにはクロッカスに似た黄色いお花や 白い実のついた水草の茂みもあって、室内を循環する温かな微風に頭をゆらゆら揺らしてる。 人工的に作られた水辺と、その周辺に植物が群生したり、虫や鳥、魚なんかの生物が生息する環境。 そういうのを「ビオトープ」って呼ぶんだって、子供の頃、図解付きの分厚い植物図鑑を見ながら 教えてもらったことがある。もしかしたらこういう温室内の池も、その仲間になるのかな。 そんなことを興奮気味に話したら、温室の奥を見回していたひとはなぜかこっちへ振り向いた。 え、ってあたしはつぶやいて、いつになく大きく見開かれた切れ長な目を見つめ返す。 ――どうしたんだろう、土方さん。 滅多にあたしを見てくれない人の、思いもしなかった何かを前にして衝撃を受けているような表情。 それがなぜか自分へ向けられているのが不思議で、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。 だけどすぐに違う可能性を思いついて、うわわ、と赤面しながら後ずさる。 たちまちに熱を帯びてきた頬や口許をあわててぺたぺた触りまくりながら、 「〜〜やだ、まさか、何か顔についてるんですかぁ、 お昼に食べたサンドイッチのパン屑とか!?ちょっ、そーいうことは早く言ってくださいよぉっっ」 「――・・・いや、」 まだ困惑を残した表情でつぶやくと、土方さんは視線を逸らした。 一番手近に飾られている花――天井から吊るされた白薔薇のハンギングバスケットに手を伸ばしながら、 「そうじゃねぇ、今のはあれだ、その・・・・・・何だ、そのビオなんとかってぇのは」 「ああ、はい、えっと・・・小さかった頃にね、そういう自然に近い環境を作る計画が江戸にもあるって、 教えてもらったんです。うちの離れの広い部屋が大きな書棚で囲まれた書庫みたいな部屋で、 並んでるのは科学書ばかりだけど、中に少しだけ子供向けの図鑑が混ざってて。 それを教科書代わりにして、植物や動物のことを教わるのが楽しくて・・・――え、わぁ、なにこれっ」 「・・・・・・」 「ちょ、これ、気付いてましたか土方さぁん!通路までお花尽くしですよ、かわいい・・・!」 摘まんだシャツの袖端を夢中でくいくい引っ張って、足許からまっすぐに伸びる通路を指した。 池と同じように細かいタイルが敷き詰められた通路には、緻密なモザイクでお花がたくさん描かれている。 ブーツで踏むのがもったいないくらいの、絵画みたいな通路だ。 そういえば――屋根のステンドグラスにも、これをうんと大きくしたようなお花模様が組み込まれてた。 ドアの取っ手には大輪の薔薇が彫られていたし、こんなにお花尽くしな温室を作り上げてしまう この家のご主人って、よっぽど植物が好きな人なんだろうな。 なんて思ってわくわくしながら、綺麗な通路に踏み出してみる。 とても個人の持ち物とは思えない充実した温室内の植物は、近くで見ればどれも瑞々しい。 通路沿いを飾るハーブ類の青々とした葉色を見ただけでも、 ここを管理する庭師たちさんの日々のお世話がいかに行き届いてるかが判るくらいだ。 右の壁面に目を向ければ、咲き乱れているのは南国の植物らしい色鮮やかな花ばかり。 真っ赤なハイビスカスにピンクのブーゲンビリア、真っ白なプルメリアに胡蝶蘭。 その奥に並ぶ蘭みたいな黄色い花や、藤みたいに蔓が枝垂れてる翡翠色の葡萄みたいな実は 家にあった図鑑に載っていた気がする。江戸より南にあって冬も暖かい、常夏の国で咲く花だ。 けれど、その名前が思い出せない。子供の頃は名前どころか、そのページの内容を丸ごと 暗記するくらい読み込んでいたのに―― 難しい科学の専門書ばかりが山積みされている部屋のすみっこに仕舞われていた、たった一冊の植物図鑑。 今も記憶にうっすらと残っているそのページを頭の中で捲りながら、あたしは反対の左側へ視線を向けた。 「――わぁ、こっちはぜんぶ薔薇なんだぁ。 お庭にもたくさん植えられてたし、この家のご主人って薔薇がお好きなんですねぇ」 鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる右側とは対照的に、左側の壁は天井近くまで伸びた 蔓薔薇の深緑色で覆われていた。開花の時期は過ぎてしまってるみたいで、お花の数は少なめだ。 それでも白薔薇に淡い色の黄薔薇、お菓子みたいな甘いピンク色の薔薇が点々と慎ましく咲いている。 そして噴水池のさらに向こう――温室の正面奥には、 小さなテーブルと二人掛けのソファーが置かれてた。そっちへ歩いていった土方さんが、 どさっと勢いよく腰を下ろす。 座ると同時であたしのほうへ視線を流して、隣の空いたスペースをぽんと叩いて、 「」 「はい?」 「座れ」 「えぇー。まだ何も見てな」 「話が先だ、座れ」 「お前の言い分なんざ聞く暇はねぇ」とばかりにあたしの言葉を遮った声が、 びしりと短く命令してくる。水飛沫を躍らせる噴水の池を腕を組んだ姿勢で じっと見据えているひとは、どうやら何か思案中みたいだ。 屯所の自室で膨大な量の資料に囲まれながら浪士掃討作戦の案を練ってるときみたいな、 気難しそうで険しい顔つきになってる。 「・・・?ど、どーしたんですかぁ。あたしまた何かしましたかぁ」 「モタモタすんな、さっさと来い」 「〜〜は、はいぃっ」 焦れたような声の催促と射るような視線が飛んできたから、あたふたとソファを目指して走る。 甘い香りを漂わせてる満開のプルメリアの傍を名残り惜しさたっぷりな目つきで通り過ぎると、 土方さんのご機嫌をこれ以上損ねないよう細心の注意を払いながら、おっかなびっくりに隣に座った。 横目でおそるおそる盗み見たひとは、肩に引っ掛けていた上着を下ろして内側をごそごそと探ってる。 幕府高官の偉い人達が身に着けてる黒いコート丈の上着の、内ポケットの奥のほう。 そこへ沈んでる何かを取り出したいみたい。たぶん、煙草で一服するつもりなんだろう。 何かを熟考してるときや考えを纏めようとしてるときは、まず無意識に手が動いて 煙草に火を点けるのがこのひとの癖だ。 ・・・何だろう、話って。 あれっ、もしかして――ひょっとしてさっきのお説教の続き?また怒られるの、あたし? また「もっと奥方らしくしろ」って怒られちゃうの?土方さん、さっきもあたしが 庭師さんに言い訳しようとしたのがすっごく不満だったみたいだし・・・ 「〜〜え、えっと、ひ、土方さぁん・・・?もしかしてまださっきのあれで怒って」 「怒ってねぇ」 「えー、どう見ても怒ってるじゃないですかぁ顔が」 「うっせぇ俺ぁ元々がこんな面だ、放っとけ。それよりあれだ、手ぇ出せ」 「へ?手?」 目を丸くして問い返したら、土方さんは探してたものを発見したみたいだ。 用済みになった上着をすぐさま背凭れへ放ってしまうと、なぜか握り拳をこっちへ突き出してきた。 「おら手だ手、早くしろ」 じれったそうな早口で催促されて、あたしはぱちぱちと瞬きする。 思いきり首を傾げて土方さんを見つめ返した。 いや手って、何で?どーいうこと?それだけじゃ何が何だかわかんないんですけど・・・? 「・・・?なんですかぁ手ぇ出せって。えっ、まさか手品?手品ですかぁ? 手を出すとハンカチ被せられて「ワン、ツー、スリー!」って数えたら鳩がポンっと出てくるとか」 「誰が出すかそんなもん」 眉をきつく吊り上げて言い放った土方さんが、じろりと不満そうに睨んでくる。 かと思えばふいと噴水のほうへ視線を逸らして、なんだか面白くなさそうな仏頂面で口を開いた。 「・・・あー、まぁ、あれだ。 手品めいた小細工までは用意してねぇが、出てくんのは鳩より多少はマシなもんだ」 「ええー!まさかあれですかぁ、期間限定いちごミルクプリン!?」 「またそれか。つーかどんだけだ、お前のプリンに対する執着は」 「じゃあ何ですかぁ、ちょ、まさかあれですか、お仕置き? さっきのお仕置きですかぁ?土方さんの好きな任侠映画みたいなひどいこと する気ですかぁ、煙草の火でヤキ入れるとか指詰めるとかぁぁぁ」 「仮にも警官がんなことするか馬鹿。〜〜〜あぁ面倒くせぇ、いいからとっとと出しやがれ」 歯痒そうに呻いたひとに、左手の手首をがっしり掴まれる。 そのままぐいっと引っ張られてしまえば自然と身体も引っ張られて、 ぐらりと大きく傾いた頭は土方さんの胸元にぼふっと音を鳴らして埋まった。 うわわ、って喚いて顔を上げれば、睨むようにしてこっちを見つめる顔も、ふわりと漂う煙草の匂いも、 何もかもが格段に近くなってる。このひととちょっと目が合っただけで未だにどきどきしてしまう あたしにとっては、いっそ身体に悪いくらいの至近距離だ。女の子が倒れ込んできた程度じゃ びくともしない上半身と密着してしまった胸の奥で、とくとくとくとく、心音が勝手に速まっていく。 「お前が豪邸の奥方役を上手く演じきったら、褒美をやる」 「・・・っ、ご、ごほうび・・・?」 じわじわ熱っぽくなってきた目許や頬のあたりに感じる視線の圧力を避けたくて、 もじもじとうつむきながら小声で尋ねる。 すると、目の前に突き出されたままになっていた土方さんの拳はゆっくりと指を開き始めた。 ところどころに傷跡が残る大きな手の中から現れたのは、きらりと光る小さな何か。 土方さんの爪先にも満たない大きさのそれは、銀色の指輪だ。 えっ、てあたしが目を丸くしてる間に、指先にリングを摘んだ手はまったく何の躊躇もなさそうな仕草で動く。 下から支えるようにして持ち上げられたあたしの左手は、そのリングをあっという間に通されてしまった。 「いいか、明後日まで外すんじゃねぇぞ」 「・・・・・・へ?」 ・・・・・・は?あさって? 土方さんの胸元にこてんと凭れかかってる頭を、耳が肩にくっつきそうなくらい深く傾げて見つめ返す。 わかったな、と念を押してきたひとの少し怒ってるような表情を、 口をぽかんと開けたままの間抜けな顔で見つめ返した。 それから男の人の大きな手で支えられてる自分の手の甲に視線を落として、 控えめな輝きを放ってる銀色のリングをまじまじと見つめた。 ・・・・・・何これ。 いや、これが何なのかはさすがにあたしもわかってるけど。 どこからどう見ても女の子用の指輪。どう見ても土方さんは嵌めそうにない、可愛いデザインリングだけど。 小さくて透き通っててきらきらした石の粒がいくつも嵌め込まれていて、 マリーゴールドみたいな丸いお花を形作ってるリング。 繊細なデザインに合わせてあるのか、リング自体も華奢なかんじだ。 「・・・?どうしたんですかぁ、これ」 「あぁ?」 「いやだって、びっくりするじゃないですか、土方さんがこんなの持ってるなんて。 ていうかこれに比べれば、まだ鳩かいちごミルクプリンを出されたほうが驚かないですよー」 目も口も開きっぱなしの間抜けな顔で答えてみれば、土方さんはうんざりしきったような苦々しい表情で 口端を下げて黙り込んだ。どうしてそんなにうんざりしてるのかは判らないけど、 あの苦虫を噛み潰したような表情を見る限り、とにかくあたしの反応がありとあらゆる面において 悉くお気に召さなかった、ってことだろう。 じきに土方さんはあたしの左手に視線を落として、仕方なく諦めをつけたかのように溜め息をつく。 関節のところで引っ掛かってたリングを、熱っぽくて硬い指先はきゅっと付け根へ押し込んでくる。 さらにもう一度爪先で押されたら、なめらかな感触の細い金属はひたりと肌に吸いついてきた。 「どうだサイズは。緩くねぇか」 「・・・?はい、ぴったり、です、けど・・・・・・?」 こくこくこくこく、何度も頷く。 うん、ぴったり嵌まってる。まるであたしのために誂えられたみたいな丁度良さだよ。 緩すぎず締めつけすぎず、何の問題もなくフィットしてる。 むしろこわいくらいのジャストサイズっていうか、こんなにきっちり嵌められたら 外す時にちょっと苦労しそうなくらいで―― 「そいつはだな、まぁ、あれだ、・・・要は小道具だ。 ここに来る途中の店で適当に見繕わせた安物だがな」 「は?小道具・・・?お店で、見繕わせ・・・・・・?」 いまいち理解できなかった説明を頭の中で反芻してから数秒後、 ああ、とあたしは目をぱちくりと瞬かせた。土方さんの手に乗せられたままの 自分の左手をじぃーっと見つめて、うんうん、そっかぁ、と何度も頷く。 「あぁそっかぁ、なるほどー小道具なんですねぇ、今回のお芝居用の」 なんだ、そーなんだ、そういうことか。言われてみれば納得だ。 つまりこれって、エンゲージリング。いわゆる「結婚指輪」なんだ。 また誰かの前で夫婦の演技をする必要があった場合に、あたしの指にこういうものが 光ってるほうがお嫁さんらしく見えていいだろう、ってことだよね。 そっかぁ、さすが土方さんだよ。たしかにこういう細かいところまで 演出が行き届いてるほうが、格段に奥さまらしく見えるはずで―― ――ああ、そっか、そういうこと。 だから土方さん、「あさってまで外すんじゃねぇぞ」なんて言ってたんだ。 あたしが持ってるプチプラリングと違って、結婚指輪ってお家にいる時も外出する時も お風呂に入るときも眠るときも、ずーーーーっと、一日中嵌めたままだもんね。 そうそうこんなふうに、常に左手の薬指に、肌身離さず身に着け・・・て・・・・・・・・・、 「・・・・・・・・・・・・ん?」 ・・・・・・・・・・・・薬指? ・・・・・・左手の? ふっと湧いた違和感が頭のどこかを掠めていって、あたしは眉をへなぁっと下げながら首を傾げた。 下を向いた瞬間に目に入ったのは、一回り大きい男の人の手のひらで支えられてる自分の手。 その指にぴったりと、まるでわざわざ誂えたみたいにジャストフィットしてる銀色のリング。 その中央の――お花の形に散りばめられた光る石を、 今にも目玉が飛び出しそうなくらい、かあぁっっ、と最大限に見開いてガン見する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・待って。なにこれ。土方さんがリングを通した、この指って、 「・・・・・・・・・・・・・ひ。 左手の・・・・・・くすり、ゆ・・・び・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・???」 のろのろと顔を上げていって、呆けきった表情で土方さんを見つめる。 ・・・・・・指輪。左手。しかも薬指。土方さんが、あたしの手に。 うそでしょ。なにこれ。薬指?うそでしょ、だって、それってそれって・・・・・・あれっ。どういうこと? リングの中央――ビーズ大の透き通った石をお花の形に嵌め込んだ細工を、 瞬きも忘れて凝視する。そいうえばこのお花って、何の石で出来てるんだろう。 最初に見た時も思ったんだよね、透明度高くてきれいだなぁって。 偽物の宝石とは思えないくらいきらきら輝いてるなぁって。 それにこのお花のデザインも洗練されてるっていうかさりげなくて品のいい可愛らしさで・・・・・・いやそうじゃなくて、 「あの〜〜〜〜・・・、ひ。土方さぁん・・・?」 「何だ」 「・・・・・・えぇと、だから・・・確認しておきたい、んですけどー・・・、 土方さんの言うご褒美って、鳩でもいちごプリンでもなくて・・・でも薬指で左手だからつまりここに嵌める指輪って・・・、 ・・・・・・・・・・・・・・・えぇ?」 左手できらめくリングを指して、ぱくぱくぱくぱくぱくぱくぱくぱく、ひたすらに口を空回りさせる。 言いたいことも尋ねたいことも色々あるのに、何ひとつ言葉に変換できない。 半分パニックを起こしかけてる頭の中では、たった今インプットされたばかりの 驚愕の新情報がぐるぐるぐるぐる、まるでお洗濯中の洗濯機の中みたいな高速回転で回りっ放しだ。 頭のキレる副長さまの専属パシリだった頃は「お前の頭は一体何が詰まってんだ、昨日食った団子か何かか」とか 「どうしてそうも察しが悪りぃんだ」とか日々こき下ろされ続けていたあたしの理解力じゃ、到底事態が呑み込めない。 ていうか無理、こんなの無理!混乱しすぎて今にも目が回りそう・・・!! それでも何とか気を取り直そうとして頭をぶんぶん振りまくってたら、ぐ、って左手を握り締められた。 無言で頭を振りまくってるあたしの訳のわからない行動にすっかり痺れを切らしたのか、土方さんは顔を傾けて迫ってきて、 「何だ、その酸欠起こして水面まで浮いてきた鯉みてーな面は。 つーかおい、今度こそしっかり聞いてんだろうな。この距離で聞こえてねえとは言わせねえぞ」 「〜〜〜っっ!?」 反射的に仰け反ったら、硬い手のひらに腰を支えられる。 目の前で片眉を吊り上げて凄みを効かせてくるひとは、依然としてあたしを見つめたまま。 さっきからずっと、あたしの左手を取ったままだ。自然と寄り添ってしまった白いシャツの胸から、 嗅ぎ慣れた煙草の苦みのある香りがふわりと立ち昇ってくる。 ・・・・・・・・・・・・あれっ。 そ。そういえば。今のあたしたちのポーズって、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・これってもしかして、あれに似てない? まるで西洋式の、教会で挙げる結婚の宣誓みたいっていうか・・・・・・新郎新婦みたいっていうか、 神父さんの前で指輪の交換を終えた花嫁さんが旦那さまに抱き寄せられて今から誓いのキスを交わすところですっていうか・・・・・・・・・・、 「・・・・・・えっ。ええっっ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こっっっ、こここ、これって・・・〜〜〜っっっ!!?」 一気に顔まで昇ってきた血の気で、頬が真っ赤に染まっていく。 一言ずつ絞り出すようにして動かしていた唇が、ぷるぷるぷるぷる震え出す。 混乱と驚愕と恥ずかしさでみるみるうちに全身が茹でダコ状態に陥ってしまったあたしは、 ごく、って大きく息を飲んだ。 言葉が全く出てこないあたしと、眉をぎゅーっときつく顰めて今にも怒鳴り出しそうな顔をしつつも、 あたしの第一声を辛抱強く待ってくれてる土方さん。 二人揃って黙り込んでしまえば、可憐なお花たちが見渡す限りに咲き乱れて 甘い香りを漂わせてる花園に、涼やかな噴水の水音だけが優雅に穏やかに鳴り響く。 あたしは土方さんの顔と自分の左手を何度も何度も見比べてから、 すっかり赤面してしまった顔中をひくひく引きつらせながら問いかけた。 「こ、ここここここれってまさかそそそそそっっっ、そーいうゆびわ、なんですかぁ? いわゆるあのっ〜〜〜っっぇええええっ、エンゲージリング的な???」 「そーいうもどーいうもあるか。 旦那が嫁の手に嵌めてやる指輪ったらそれ以外に無ぇだろうが」 「きゃああぁぁあぁああああああああああああぁぁ―――――!!!!!」 「んぐっっっっはぁああああああああ!!」 どんっっっっっっ。 怪訝そうに眉間を顰めて答えたひとの顔を、両手で思いっきり突き飛ばす。 すっかりパニック状態に陥ったあたしの一撃を全く予想していなかったのか、 土方さんはソファからどどっと転落。起き上がると同時で凄まじい殺気を漲らせた目をこっちへ向けて、 「〜〜〜っっっってっっっめえぇぇええええ待ちやがれコルぁああああ!!」 鬼の副長の本気の怒号が温室中に轟いたけど、その時にはすでに混乱が頂点に達してたあたしは 意味不明な金切り声を上げながら訳もわからず駆け出していた。 モザイクのタイルが美しい通路を全速力で猛ダッシュ、噴水もジャンプで飛び越える。 気付けばドアも突破して、花園の奥で何かを怒鳴り続けてる土方さんから一目散に逃げ出した――

「 おおかみさんとおままごと *2 」 text by riliri Caramelization 2017/07/08/ -----------------------------------------------------------------------------------        next →