元は華族の邸宅で今は幕府の高官が持ち主らしいが住む者はおらず、 長らく空き家状態が続いている町内きっての大豪邸。 管理会社の点検員と庭師がたまに訪れる以外は人の出入りが皆無だったその屋敷に、 昨日の夕方、引越業者のトラック数台と運転手付きの高級車一台が入っていった―― そんな伝聞が町中に広まりつつあった、その日の午後。 屋敷の前には暇を持て余した近所の老人に好奇心を押さえきれない年頃の子供、 この町内で起こるセンセーショナルな噂やゴシップの発掘及び収集、そして何より それを言いふらすのを生きがいとするタイプの奥様方が各々に集まり、大きな門扉に注目していた。 やがて電動式の扉が開き、中から続けて二台の車が走り出てくる。 一台目は奥様たち憧れの高級ケータリングサービスのワゴン車。二台目は有名百貨店のロゴ入り大型車だ。 (・・・あのケータリング、政治家や官僚のパーティーでも人気なんでしょ。 資産家の幕臣が持ち主って話は本当みたいね) (××百貨店は高級家具でも運んできたのかしら、それともセレブ御用達の外商部?) などと女性たち全員が目を輝かせ、気になる屋敷の主の資産規模が如何ほどかを あれこれ値踏みし始めた頃だ。 走り去った二台の車からやや遅れて、古びたワゴンが姿を見せる。 その車が目に入った瞬間、彼女たちはお喋りも忘れて怪訝そうに表情を変えた。 ――高級デリバリーや有名百貨店ならともかく、なぜあの店の車が、この屋敷に? 無言で顔を見合わせた女性たちや、門から少し離れた位置で固まっている老人たちの脳裏にも まったく同じ疑問が浮かぶ。町民たちの注目を浴びつつ角を曲がった中古のワゴン。 それは、この街の住民にはお馴染みの車。近くの商店街に店を構える、小さな蕎麦屋の出前配達車だ。 (・・・ねぇ、どういうこと。この家のオーナーってとんでもないお金持ちって話よね) (午前中に庭師や電気工事の業者が入っていったそうよ、そっちの注文じゃないの) (使用人の食事かもしれないわよ。今朝門の前をメイドが掃除してたって小林さんの奥さんが) 顔を突き合わせた女性たちは、ひそひそと推論を並べ始める。 味はそこそこだが豊富なメニューと安さが売りで、町民の誰もが気軽に立ち寄る、いわゆる「庶民の味」の店。 そんな店の出前が、なぜここへ。蕎麦は蕎麦でも世界的に有名なグルメガイドの評価で 二つ星を獲得している隣町の創作蕎麦料理の店だったなら、まだしも不思議はないのだが―― 「・・・?あの〜〜・・・、みなさんご近所の方ですかぁ?この家に何か御用でしょうか」 するとそこへ、開け放されたままの門の影から一人の娘が顔を出した。 小さな財布を手にして近づいてきたその娘は、流行に敏感な女性なら 「あれは女優やモデルも着ている某ブランドの新作では」と見抜けるだろう 花の意匠がモノグラム風に織り込まれた、薄紅色のミニ丈着物を纏っていた。 門前に集まった見知らぬ人々と、その人数の多さに驚いているらしい。 語尾がやけに間延びしているおっとりした口調で話しかけてきたものの、 見ていると吸い込まれそうになる大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ、ちょこんと首を傾げている。 思っていることが表に出やすい性質なのか、娘の表情は戸惑い気味だ。けれど警戒心が薄そうな、 素直そうな笑みを浮かべていた。この正直な態度といいおっとりのんびりした口調といい、 見るからに人が好さそうというか、扱いやすい子のようだ。 加えて彼女の何気ない仕草には、いかにも良家の子女らしい所作の美しさが感じられる。 ――もしやこの子、豪邸の主の娘なのでは。 (やった!ビンゴよビンゴだわ!! これ以上なくいいカモ…じゃなくて情報収集のチャンスが向こうから転がり出てきた!) そう心の中で叫んでガッツポーズした女性の一人が「こんにちは、こちらのお家の方ですか」などと 澄ました笑顔で話しかける。その隙に他の奥様たちは女性特有の辛辣で抜け目ない観察力を 存分に発揮、娘の見た目を値踏みにかかった。 そしてものの一分も経たないうちに、彼女たちの大半が心の中で白旗を挙げつつうなだれた。 ――年は10代後半か、それとも二十歳を越えたくらいか。 瑞々しい肌は新雪のようなまばゆい白さで、肩から背中へさらさらと流れる長い髪は艶やかだ。 子供たちの一人から「あのお姉ちゃんアイドルみたい!」なんて無邪気な歓声が飛び出るほどに その顔立ちは美しく、生き生きとした表情が愛らしい。それまで退屈そうだった老人たちの目が 急に生気を輝かせ、奥様グループの背後にわらわらと集まりしげしげと見惚れるほどにスタイルも良い。 「・・・ええ、はい、そうです、昨日この家に越してきた者で・・・・・・ えぇ!?ぃ、いえそんな、お嬢様だなんて! とんでもないですあたしはそのあの、えっ、か、家族ですか!?っっかかかぞくっ、は、えっと・・・〜〜っ」 住民代表として話しかけた女性が幾つか質問を向けてみると、娘はなぜか頬を赤らめ慌て始める。 財布を両手に握り締め、気まずそうに視線を地面へ泳がせていた。 急にしどろもどろになって言葉を濁す彼女の脚が、一歩、二歩と後ずさる。 家のことを尋ねた途端にこれだ。態度の急変を不審に思い、女性たちは訝しげに目を見合わせた。 「私はあちらのマンションに住む大原と申しますの。町内のことで何かわからないことがあったら 遠慮なくお聞きになってね。・・・ところであの、もしよろしかったら、そちらのお名前を・・・」 そう尋ねた「ご近所代表」の女性が、娘の背後に高々と立つ門柱をちらりと見上げる。 昨日越してきたばかりだからか、そこに掲げられるはずの表札はまだ無かった。 女性の視線が向かう先に気付いた娘が、なぜか肩を跳ね上がらせる。 何にそんなに動揺しているのか、よりいっそう落ち着きを失くしている様子だ。暫くあわあわと口籠ってから、 「なっっ、名前は・・・あのっ、えっと・・・・・・・・・・・・・・・・・ひ、」 「ひ?」 女性たちが声を揃えて鸚鵡返しに尋ね返せば、娘の肌がどこもかしこも一気にかーっと上気した。 「〜〜〜っぃ、いえあのちがっ、ちちっ違うんです、っっじゃなくて違わないけど違うっていうか! すすすみませっっ、まだ言い慣れてなくて…!」 ぶんぶんぶんぶんっ、と財布を握った手を振り回す身振りも交えて訂正すると、 身の置き所もなさそうにもじもじと肩を竦めて黙り込む。 老人に子供に奥様たち、その数およそ20人ほど。 詰め掛けた近隣住民の視線は、動揺しきって今にも財布を握りつぶさんばかりにしている 資産家令嬢のおかしな態度に集中した。 「じ、じゃなくて名前っ、名前ですよねっ。な・・・名前は・・・・・・・・・・っっひ!」 「・・・ひ?」 「〜〜〜ぅあぁあぁああのえっと、ちちちが、違うんですっ、っひ、ひぎっ、〜〜っじゃなくて! っっひひみっ、〜〜っっじゃなくてっっ」 「・・・何だそりゃあ。てめえの苗字をそこまで噛む奴があるか」 狼狽えるあまりにぶんぶんとかぶりを振りまくっている娘が耳まで赤く染め上げて叫んだ、その直後だ。 呆れたような男の声が、娘の背後で鳴り響く。 開かれたの門の向こう――屋敷の玄関へと繋がるスロープ部分だけでも家を十数件は建てられるほど広い邸内から、 二人目の住人らしき人物が姿を現す。足早にこちらへ向かってくるその男の姿に 奥様たちの全員がはっとして、全員が息を詰めて目を見張った。 整った容貌の中でも彼女たちを惹きつけたのは、切れ長な目だ。軽く掻き上げられた漆黒の前髪から覗く、 鋭い迫力が溢れる目つき。しかし僅かに伏せられたその眼差しには、一目で女性を虜にしそうな涼やかな色香も漂っていた。 そんな目許を覆うシルバーフレームの細身な眼鏡が、きつい双眸の印象を和らげ知的な雰囲気を演出している。 均整のとれた精悍な身体つき。しかも、彼が着ているあの制服は――肩に無造作に引っ掛けられたあの上着は、 テレビの政治報道などでよく見る黒服だ。あれは幕府のエリート官僚が身に着けるものではないか。 娘の傍へと進み出た男は自分の一挙一動に完全集中している視線の多さを感じたらしく、苦笑気味に瞳を細める。 それは特に何の意図もない、男にしてみればちょっとした癖のような表情だったのだが、奥様たちの唇からは 揃ってうっとりした感嘆の溜め息が漏れたのだった。 ――イケメンだ。イケメンがいる。 しかもこの庶民的な住宅街では見かける機会などあるはずもない、最高ランクのエリートイケメンが! 「――皆さんご近所の方ですか。 ご挨拶が遅れ失礼しました、昨日越してきた土方と申します」 娘の傍までやって来た男は門前の住民を一通り見渡し、軽い会釈と共にそう名乗った。 ああ、なんてこと。 男を見つめて頬を染めていた女性たちは心の中でそうつぶやき、(心の中で)力無くよろめき崩れ伏す。 淡々としすぎていっそ素っ気ないくらいな響きの、しかし耳に残って離れない魅力的な低音。イケメンは声までイケていた。 土方と名乗ったこの家の住人は、次に彼が登場した直後から口を押さえてもごもごと 何か口走っていた娘へと視線を流す。何かとてつもなく面倒なものでも見るような目つきで 眉間を僅かに引き攣らせ、しかし何事もなかったように微笑を浮かべる。 住民たちに名乗ったときのそれよりも心持ち冷ややかな声で娘に尋ねた。 「おい、部屋で大人しくしてろっつっただろうが。メイドが家中探してたぞ」 「〜〜〜ぇっ、〜〜ぅぁああぁのっ、そそっそれはぁえっと・・・!」 「・・・まあいい。ところでお前、ご挨拶は済ませたのか」 「ま、まだですっっ。今からするところだったのに いきなり来るからっっぃたっっっひひぎっやめっちょっ待っいたたたたいたぁああい!」 「何が「ひぎっ」だ、その噛み癖どうにかしろって言ってんだろ。何回言わせんだコラ」 「あ、あのぅ・・・?土方さんとこちらのお嬢さんは、どのようなご関係ですの?」 先程まで「住民代表」として娘に問いかけていたあの女性が、おそるおそる口を挟む。 呆れきったような表情で溜め息をこぼした土方と、その土方に頬を抓られ痛い痛いと男の手を掴んで暴れる若い娘。 見たところお互いに遠慮などなさそうな雰囲気だし、土方が娘に向けるぞんざいな口調や態度は 家族へ向けるもののようでもあるのだが―― 「とっても仲がよろしいようだし、もしかして妹さんかしら」 「いえ。これは私の妻です。、皆さんにご挨拶を」 男は眉一つ動かさない平然とした表情でそう答え、隣の娘の肩を抱く。 「っっ!!?」と絶句して固まった娘を住民たちと向き合わせると、「私の妻」の一言で悲鳴を上げて固まった女性たちにこう告げた。 「この通りのバ・・・落ち着きの無い変わった女です。 今後も失礼があるかもしれませんが、その際は遠慮なくご指導ください」 お お か み さ ん と お ま ま ご と 「だからー、お昼にテレビで見たんですよー。ここから2分で行けるコンビニがね、 新作デザートのいちごミルクプリンを出してるんですよー今日までの期間限定なんですよー」 「はぁ?プリンだぁ? ったく、戻って早々てめーの姿が無ぇって山崎が騒いでやがるから何かと思やぁ・・・」 ずるずるずるずるずる、ずずーーーっ。 三時のワイドショーを映してる大画面テレビを流し見てから、土方さんはうんざりした顔で 勢いよくお蕎麦を啜る。麺をうんと多めに手繰り上げて、ずるずる、ずずーーっ。 元は「副長専用雑用係」だったあたしや、ここで一緒に昼食を摂ってるみんなは もうとっくに見慣れてるけど、このお蕎麦を作った職人さんが見たら嘆きそうなくらいに 大量のマヨで汚染されてる丼の中身は、あたしと話す間にもどんどんどんどん減り続けてた。 相変わらずな早食いだなぁ、なんて思ってるうちに丼を両手で持ち上げて、ごく、ごく、ごく。 ほんの数分前までは細めなおそばと茶色いそばつゆ、それから黄色いゲル状のあれが 山盛りだった丼は、あっというまに汁だけに。見慣れたはずの今でも 長めに見てるといまだに食欲がなくなる色合いの残り汁から目を逸らして、 大所帯な真選組でも全員で雑魚寝できるくらいに広い室内をぐるりと見回す。 土方さんを始めとする今回の作戦に動員された隊士たちが集まったここは、三階建てのお屋敷の二階にある和室。 数十畳はありそうな広ーいお座敷は、子供なら探検ごっこを始めたくなるくらい広大なお屋敷の中でも 二番目に広い部屋なんだそうだ。ちなみに一番広いのは、一階の玄関口から一番近い西洋風の大広間。 この豪邸の最初の持ち主だった華族さまが、娘さんの社交界デビュー用に お披露目会場として作ったダンスホールだ。午前中も暇だったあたしは家中くまなく見学して その体育館みたいに大きなホールも見せてもらったんだけど、「かつて某国のお姫さまが王子さまと ダンスに興じられた場所です」って言われても何の疑いも持たないくらいに豪華だった。 そこを案内してくれたのは、この豪邸の本来の持ち主の執事さんを務めてる品のいいおじいさん。 六番隊隊長の井上さんが三十年くらい年をとったらこんなかんじになるかも、って 想像してしまうタイプっていうか、糸目でいつもにこにこしてる穏やかそうな人だ。 「こちらはとても歴史的価値の高い部屋でして…」ってあちこち指しながら、 まるで美術館の学芸員さんみたいに豊富な知識をすらすらと披露してくれて、 そういった価値のあるものなんて義父さんが持ってる古い刀くらいしかない貧乏道場で 育ったあたしは、おじいさんが語ってくれる「すごすぎる豪邸とそこに住む セレブ一族の華麗なる歴史」にただただ唖然とさせられっ放しだった。 ――きっとこの家の代々の持ち主さんて、あたしには想像もつかないような、 別世界レベルのお金持ちなんだろうな。あんなに贅を尽くした部屋を娘さんのためだけに 作っちゃった華族さんも、この家の現在の持ち主の「今回の作戦の協力者」さんも。 なんて思い出しながら凝った室内装飾をきょろきょろ眺め回してたら、 何か軽いものが後ろ頭に当たった。へ、って呻いて振り向けば、 髪に刺さったそれがぽとって落ちる。土方さんが投げつけてきた割り箸の袋だ。 「おいコラどこ見てやがる、人の話聞いてねーだろ」 「えぇー聞いてますよー。土方さんが女の子にプリン一個食べさせてくれない ドケチだって話ですよねあーあーひどいなぁ土方のドケチ横暴陰険鬼ハゲ」 「誰がハゲだコルぁぁ。つーかどんだけプリンに執着してんだ、ガキかてめえは」 「まぁまぁまぁ、二人とも落ち着いてくださいよ。 ところでさーちゃん、そんなにプリンが食いたいなら俺が買いに行こうか?」 「あぁっこの野郎、一人で抜け駆けしてんじゃねーよ!さんっコンビニなら俺が行ってきます俺が!」 「えぇっ、ほんとに?いいんですかぁっっ」 「てめーらがその格好でか?ざっけんな、俺達がここに拠点を置いたのが近所の連中にバレんだろーが」 「何のために俺がこんな胸糞悪りぃ変装してると思ってんだ」って、完食した丼を、どんっ。 ほとんど畳にぶつける勢いで下ろした鬼の副長に銀色フレームの伊達眼鏡越しにぎろりと睨みを効かされて、 土方さんと背中合わせな位置から声を掛けてきた八番隊の二人ががくりと深く肩を落とす。 二人と土方さんを見比べてから、もちろんあたしも肩を落とした。 ひどい、ひどいよ、今本気で喜んだのに。プリンすっごく食べたかったのに、土方さんのケチ。 眉を吊り上げてお水を飲んでる土方さんの後ろでは、ついさっきお屋敷に到着した 六番隊と八番隊が遅めなお昼ご飯を取ってるところだ。松平さまの口利きでカムフラージュ用に借りた ケータリングサービスと百貨店の車で屯所から移動してきた人たちは、いつもと同じ隊服姿。 変装してるのは本庁から借りてきた幕府の偉い人用の制服を着た土方さん、それからあたし。 某高級ブランドの新作お着物に帯にブーツにアクセサリーまで、同じブランドの品で 固めた超高額全身コーデも、言うまでもなく借り物だ。 だってこれ、アクセサリーひとつとっても、多いとはいえないバイト代で細々と 一人暮らし中の女の子には手が届かない値段だし。 それじゃあ本当の持ち主は誰なのかといえば、 ――ここと同じくらい広ーーい豪邸で暮らしてる正真正銘のお嬢様、松平栗子さんだ。 『先月お母さまに買って頂いたものがちょうどお姉さまに似合いそうだったので どうぞお召しくださいませ!帯もアクセもわたくしがコーディネートしてみたのでございまするー!』 前に松平邸でお世話になった時からメールを交換するようになった栗子さんは、 ブランド品一式を送ってくれるのと同時でそんなメールも送ってくれた。ファッション雑誌で 眺めるだけだった憧れのブランドだ。あたしは「きゃーっ!」と声まで上げて喜んだ。・・・だけど、 「お前これ、汚したら弁償できんのか」 この着物一式とメールを横から覗き込んできた土方さんにいつになく強張った顔で指摘されて はっとして、着物を持った手が緊張でぶるぶる震え出して止まらなくなった。さっきも土方さんに 叱られたばかりだけど、あたしが緊張してテンパったときの落ち着きがなくてそそっかしい行動が どれだけ危ない結果を生むかについては、いっそ自慢できるくらいに自信がある。 どうしよう、こんな時に限ってカレーうどんが食べたくなって汁が着物に飛んじゃったらどうしよう! すっかり弱気になってありえないことばかり考えてガクブルしてたその直後に、 『普段着ですからお洗濯は不要でございまする もし汚れてもそのままお返し下さいませね』 って、松平家のみなさんにはとっくにバレてるあたしのギリギリな懐事情までさりげなくフォローした ありがたい追伸メールが届いたから、今回は栗子さんの優しさと心遣いに目の色変えて全力で縋りつくことに・・・、 ・・・・・・じゃなくて、遠慮なく甘えさせてもらうことにしたんだけど。 「――まぁとにかくだ、あさってまではここから一歩も出るな。 コンビニ菓子なんざこの任務が終わったら幾らでも買ってやる」 「えぇー!やですよー今日食べたいぃぃ! いいでしょちょっとコンビニ行くくらい、いーじゃないですかぁプリンくらい!」 「駄目に決まってんだろ。菓子欲しさに浮かれきった面でコンビニに駆け込む 大金持ちの奥方がどこにいる」 「そっ。それは・・・・・・・・・そんなお金持ち、いないかもしれないけどー・・・」 「いーや絶対いねーだろ。いいか、もしまたあの手の噂好きな連中に囲まれても ボロが出ねーように、もう一回頭に叩き込んどけ。今回のお前の役柄は」 「えっ。ぇえ、ぇっっ、っこ、こんかいの、ぅあ、っっと、・・・・・・〜〜〜っ」 うぅぅぅ〜〜、って噛みしめた唇の奥でもごもご唸る。 わ。わかってる。わかってるんだけどな。 これはぜんぶ捜査に協力するための、嘘の役割。この豪邸から数十メートルの古い家に アジトが存在する攘夷浪士の組織を一斉捕縛するための、あくまで演技上の役割だ。 演技なんだから意識しなくていいんだって、ほんとはわかってる。・・・あたしと一緒に 演技する立場の土方さんが、あたしと違ってこの設定をこれっぽっちも意識してないことも。 それでも改めて言わされると、なぜか無性に恥ずかしいよ。じわじわ熱くなってきた 顔を隠すためにうつむいて、さっき投げられた割り箸の袋を両手の中で弄り回しながら、 「・・・・・・・・・ここに引っ越してきた・・・けっっ。けっこん、したばかり、の、ゎ、若奥さま」 「それだけじゃねぇ。両親は名家の出身、親父は某星に赴任中の大使、 本人は名門私立の女子高育ち、従者無しじゃ外に出たこともねぇ生粋の御令嬢だ」 当然、コンビニなんて貧乏人ご用達の店には入ったことがねえ。 そう言いながら、わかったな、って念を押そうとしてるみたいにじろりと睨んできて、 「その苦労知らずの御令嬢が見合いして嫁いだ先が、このだだっ広い屋敷を ポンと買っちまうほど金が有り余った資産家のエリート官僚。いわゆる政略結婚ってやつだ」 「・・・聞いたときも思ったけど、なーんかすごいですよねぇそのお嬢様。漫画みたいな身の上ですよねぇ」 「とっつぁんが考えた設定だ。金が有り余った名家育ちのあのおっさんが これでいっとけってぇんだから、上流階級の金持ちどもにはよくある話なんだろ」 そう言うと、土方さんはあたしに無言で手を差し出した。だからこっちも さっき運んできたペットボトルのお茶を一本箱から出して、反対の手で 借り物の上着のポケットから煙草を探り出そうとしてるひとに冷えた雫が滴るボトルを渡す。 おう、って一言つぶやくと、黙ってキャップを捻り始めた。どうやらこの話は ここで終わりにしたいみたい。 ――はっきり聞いたわけじゃないけれど、今回の案件には秘匿事項が多いらしい。 除隊して今は部外者のあたしは、詳しく教えてもらっていない部分がたくさんある。 例えば――上流階級の人っぽく身分を偽らなきゃいけない理由とか、そもそもこのお屋敷は どこの誰が持ち主で、どうして真選組がここを借りられたのか、とか。 他にも疑問はあるんだけど、そういった疑問にはあまり答えられないことを 理解したうえで「土方さんの奥さま役」を演じてくれないか、っていうのが、 近藤さんからこの作戦の内容を聞かされた時のいちばん大きな条件だった。 聞いた時には「お嬢さまの役があたしに務まるかなぁ」って思ったし、引き受けようかどうか迷ったんだけど―― 『トシもお前が嫁さん役ならやってもいいって言ってるし、俺達を助けると思って引き受けてくれないか。 あーそうそう、もしに断られたら本庁に助っ人を要請するつもりなんだが…、 いやーどんな人が来るだろうなー、あそこは美人の才媛揃いだからなー』 なんてにやにやしながら言われたから気になっちゃって、続けて聞かされた他の条件が ほとんど耳に入らなかったくらいだ。 捜査の一環なんだから、お仕事だから仕方ない。それは判ってるつもりでも、 胸の奥がちくちく痛んでしまった。あたしとは真逆の「大人でお仕事ができる 美人エリート刑事さん」が土方さんと腕なんか組んで、とても演技とは思えない らぶらぶ新婚夫婦ぶりを見せつける――そんな場面を想像しただけで、 いてもたってもいられなくなってしまって。だからついついその場で 「やりますっやらせてくださいぃぃ!」って、近藤さんに引かれるくらいの勢いで飛びついてしまった。 (…今思えば、あれこそあたしに引き受けさせるための近藤さんの「作戦」だった気もするんだけど…) ・・・でも「エリート官僚」なんて役どころを土方さんが引き受けた、って聞いた時にはちょっと意外だったな。 出世しか頭にない性根の腐った奴ばかりだって日頃から毛嫌いしてる人たちの、しかもお金持ちのご子息の役なんて、 「あのいけすかねぇ連中の真似ごとしろってのか、冗談じゃねぇ」って聞いた傍から断りそうだけど。 「――おいどこ見てやがんだ馬鹿女。てめ、やっぱ人の話聞いてねーだろ」 「っっきききいてるぅぅっ聞いてまふぅぅっっ、ひじはふぁさ、がっ、 ぷりんも買ってくれらいドケチらっれ話れすよれぇぇっっぃひゃひゃいひゃいぃぃほっぺたとれるぅぅ!」 油断してた間に伸びてきた手に、頬を思いっきり抓られる。 しかも元雑用係の馬鹿女へのお仕置きには一切容赦なんていらないと思ってるらしい 鬼の副長さまの馬鹿力な指は、手加減なしにぐりっとスクリューまで掛けてきた。 あまりの痛さに涙目になって煙草の匂いがする指をべしべし必死に叩いてたら、 「ふん、やっぱ聞いてねーじゃねーか。 いいな、お前がこれ以上ヘマをやらかせば作戦にも差し障りが出かねねぇ。 俺が同行する時以外は家から出るな。コンビニなんざ言語道断だ」 「ええぇ〜〜〜〜!」 「えぇー、じゃねぇ。つーか必要なもんがあったらこいつに頼めっつっただろ」 後ろをひょいと親指で指す。 みんながお蕎麦とかかつ丼とかラーメンとかチャーハンとか湯気がほわほわ昇る あったかい昼食をおいしそうに食べてる中、なぜか一人だけあんぱんを美味しくなさそうに もそもそ食べてる隊士の一人を。 ――ああ、そうそう、そうだった。 豪邸の住人っぽく変装してる人が、土方さんとあたし以外にもう一人いる。 男の人には似合わないはずの黒いワンピも白いエプロンドレスもすっかり身体に馴染んでて、 その上女性用ウィッグまで付けてるからどこから見ても本物のメイドさんにしか見えない山崎くんだ。 前にも真選組でこのメイド服と似たようなコスプレをしたことがあって、近藤さん以下ほとんどのみんなが ゴツいオカマさんの女装パレードみたいになってたけど、その時も山崎くんだけは仕草まで 完璧に女の子だったもんね。このクオリティの高さ、メイド役に抜擢されるのも納得だよ。 「こいつは資産家夫人の専従メイドって役柄だ、メイドが買いに出るぶんには近所の連中も不審がらねぇ」 「えぇー。それはまぁ、そーですけどー。まったく異論はないですけどー。山崎くんの女装って 完璧に女の子だし完璧にメイドさんだしむしろこれで女の子じゃないってどういうことって思うけどー」 「さん。その大絶賛、あんまり嬉しくないよ…」 黙って食べてた山崎くんが、ははは、って乾ききった表情をひくひく引きつらせて笑ってる。 頬張ったあんぱんを紙パックの牛乳で喉に流し込みつつもごもご噛んで、 「女装で潜入っていっつも俺なんだよなー…そんなに男らしさに欠けてるのかなぁ、 だからモテねーのかなぁ……だから万事屋に行ってもたまさんに気付いてもらえないのかなぁ……」 そんなことを沈んだトーンで悲しそうにつぶやくから、隣でラーメンを啜ってた 八番隊の藤堂さんが吹き出した。 「いやいやいや、そりゃあお前が山崎だからだよ」なんて、ふざけたかんじで 山崎くんの肩をぱんぱん叩く。おかげで部屋中が笑いに包まれて和やかな雰囲気になったけど、 そのひとことでさらに山崎くんは落ち込んじゃって。さりげなくフォローしに来た 六番隊の井上さんに「まぁまぁ元気を出してください、じきに気付いてくれますよ」って慰められていた。 ――昼食の後、異国のお城にありそうな繊細な装飾が施された階段を昇って戻ったのは、 三階の長い長い廊下の突き当りにある大きな部屋だ。 一階のダンスホールに比べればさすがに小さく見えるけれど、あたしが住んでるアパートの 数倍くらいの広さはありそう。昨日の夜も泊まらせてもらったここは、執事さんの話によると このお屋敷の「主寝室」なんだそうだ。寝室として使われる部屋は他にもたくさんあるけれど、 ここが一番窓からの眺めが素敵で陽当たりの良い部屋らしい。そんな部屋に、どうして あたしみたいな身分も地位も何もない小娘を泊まらせてくれるんだろう。不思議に思って尋ねたら、 執事さんは少しだけ考えてから答えてくれた。「それが当家の主の意向でございましたので」って。 「・・・ですから遠慮なくくつろいでお過ごしくださいって、言われたんですよー。 このお屋敷のご主人といい栗子さんといい、いるんですねぇ心の広い親切なお金持ちって」 「ああ。・・・そりゃあ主の意向っつーか、主の嫁の意向だろ」 「?お嫁さん、ですかぁ?」 「多分な」 あれぁ昔から、なんやかんや人の世話ぁ焼いては面白がるのが趣味だ。 明るい陽射しが降り注ぐ窓際のライティングデスクで視線を書類に走らせながら、 土方さんはひとりごとみたいにそう言った。その言葉にあたしがきょとんと目を見開いても、 振り向くこともなく黙々と、書面に目を通してる。その横顔がふぅと吐息を吐き出せば、 煙草を挿した口端からふわりと紫煙が舞い上がる。二人きりの静かな部屋から声が途絶える。 他のみんなは二階と一階で待機中だから、まるでこの豪邸に二人きりになったみたいな静けさに部屋中が包まれていく。 あたしは少し首を傾げながら、操作していた携帯電話に目を戻した。 ――土方さんは「このお屋敷のご主人のお嫁さん」を知ってるみたいだ。 でも、どこで知り合ったんだろう。こんなすごい豪邸の奥さん。つまり、真選組とは 縁もゆかりもなさそうな上流階級の人ってことになる。セレブな方々には仕事以外では 関わりたくないと思ってそうな土方さんに、そんな雲上人と知り合う機会なんてあるのかな。 そこは正直気になるけれど――ううん、今はやめておこう。 尋ねたら作業の邪魔をしてしまいそうだし。 縁をぐるりと蔦の葉や蝶々なんかの彫刻で飾ったライティングデスク上の書類の数は、 屯所のこのひとの部屋に溜まってる山みたいな高さから考えれば少なめな量。 でも、山崎くんがここに持ち込んで処理してる枚数の三倍くらいの厚さはある。 何をするのも早くて要領がいい土方さんのことだから、きっと数時間かからずに すべて目を通してしまうだろうけれど―― たまにぱさりと紙の音が鳴るだけのデスクのほうを盗み見ては、そんなことを見積もった。 腰を下ろしていた天蓋付きの巨大ベッドのつやつやなカバーに、音を立てないようにうつ伏せて寝転ぶ。 ぴぴぴぴぴ、ぴぴ。 キーを軽く連打して最後の一行を打ち込んで、メール送信のボタンを、ぴっ。 それからまた、視線だけをちらりと窓際へ戻してみた。 目に入ったのはさっきと同じ姿勢。切れ長な目を深く伏せて集中してるときの、 ちょっと近寄りがたい表情。昨日も「いちいち掛けんのか、面倒くせぇ」って ぼやいてたけど、眼鏡はやっぱり邪魔だったみたい。30分くらい前に出した お茶のカップの隣に放り出されてる。 そんなことをこっそり観察していたら、書類を持った手が動く。 手にした一枚が、ぱさ、って掠れた音で机上に放られる。ふと何かに気付いたみたいに、 横顔がこっちへ振り向いた。ゆっくり逸れていった鋭い視線が偶然にあたしと重なって、 ベッドカバーに伏せた胸の奥で、とくん、と心臓が大きく高鳴る。 ――ずっと見てたって、気付かれたかも。 動揺してしまったあたしはあわてて身体の向きまで変えて、ハーブっぽい爽やかな香りを 昇らせるモスグリーンのカバーに顔をぼふっと思いきり埋めた。 肩を竦めて小さく縮めた身体の下で、上質なマットレスがゆらゆら柔らかく弾んでる。 「・・・。何がしてぇんだてめーは。狸寝入りならもっと上手くやれ」 案の定、何事にも目敏い鬼の副長さまに怪訝そうな声を投げられたけど、ひとことも答えられない。 今答えたら、すでにぽーっと火照り始めてる顔の赤みに気付かれちゃいそうだから。 ・・・これってやっぱり、おかしいのかな。あたしだけなのかな。 隊士だった頃から傍にいるのが当たり前だったのに、今でも視線が合っただけでどきどきさせられてるなんて。 「ところでお前、何やってんだ。さっきからピピピピ鳴らしっ放しじゃねーか」 「えっ、ええと・・・あたしなりに画策してるんですよー、ここに閉じこもったまま 期間限定いちごミルクプリンを手に入れる方法を」 「またそれか、どんだけ食い意地張ってんだ。つーか下行って頼みゃいいだろ山崎に」 「山崎くんは忙しいもん、プリンごときでお使いなんて頼めないですよー。 今日も屯所から持ち込んだ報告書に懸かりきりで、朝から大変だったんですよ。 言えないでしょ、そんな人に「コンビニでプリン買ってきて」なんて。それになんかすっごく落ち込んでたし」 「ああ、お前が突き落としたせいでな」 「・・・それに朝からここに一人で、退屈だったんだもん。目が覚めたら土方さんいなかったし」 言い訳のつもりで口に出してから、あ、って叫んで口許を覆う。 そんなことをしても、とっくに土方さんの耳にはあたしの言葉が届いてるのに。 あわてて身体を起こしてみれば――思った通りだ。 視線がぴたりと重なったのは、鴉みたいに真っ黒な前髪の下で眉間を曇らせた複雑そうな表情だった。 「・・・〜〜っ。ゃ、ち、ちが・・・!今のは、そういうんじゃ、 いなかったからどうとか、何も言わないで行っちゃったから、とか・・・っっ、 っち、違うの、だから、そういうこと、言いたいんじゃ、なくて・・・・・・・・・・っ」 起き上がって身を乗り出して、赤面した顔を気にする余裕もなくして しどろもどろに言い訳した。けれど口も頭も回らないし、土方さんにちっとも伝わってる気がしない。 それどころか、何か言おうとすればするほど墓穴を掘ってるような気がして泣きたくなった。 だってあれじゃあ、おねだりみたいだ。我儘を言えば困らせてしまうってわかってるのに、 それを知った上で駄々をこねて甘えてるみたいだ。 あたしがこっそり抱えてる子供みたいな本心を、うっかり白状してしまったようなものだ。 「土方さんがいなくて退屈だったし、目が覚めたら土方さんがいなくてさみしかった」って―― 「・・・・・・ごめんなさい」 曇った表情から目を逸らす。 揺れがおさまりかけたベッドの上で座り直して、いつのまにか乱れてた着物の裾も整えた。 すると、ずっ、って窓際で音が鳴った。 椅子が絨毯を引き摺った音だ。立ち上がった人の影がまっすぐにこっちへ近づいてくるのを、 あたしは深くうつむいて着物の裾を弄りながら、情けない気分で黙って眺めた。 「。ここの庭は見たか」 「・・・・・・ぉ、お庭・・・?ううん。見てない、けど」 「執事の爺さんから勧められたが、奥に硝子張りの温室があるらしい。 ここの主の趣味で、江戸じゃ咲かねぇ珍しい品種も多いんだとよ。見に行くか」 「――・・・!」 驚いてぱっと顔を上げて、涙ぐんで濡れた睫毛をぱちぱちと瞬かせながら目を見張る。 (見に行くか) 土方さんはそう言った。それって―― 一緒に行ってくれる、ってことだ。 俺が同行するとき以外は家から出るな。二階であたしにそう命令したのは、このひとなんだから。 目の前に立った土方さんは、あたしの表情が可笑しかったみたいだ。 くく、って小さく肩まで揺らして笑ったひとの目許が、愉しそうに細められる。 大きな手のひらで包むようにして、頭を軽く叩かれた。からかって面白がっているような、 なのにどこか甘い声が降ってきて。 「おら、答えろ。行くのか行かねぇのか、どっちだ」 「い、行く・・・!お花、見たい!」 あわてて何度も頷きながら答えたら、自然と顔がほころんでいくのが自分でもわかる。 そんな自分を我ながら単純だと思うし、子供っぽいって呆れてしまう。 けれど、いつからだろう。以前のように、そんな自分を土方さんから隠そうとは思わなくなったみたいだ。 ――隊士を辞めてしばらく経って、土方さんとの関係もすこしずつ変化して、 それでようやく気付いたことだ。 土方さんとお別れしてからも、このひとの傍から離れられなかった自分。 あたしはそういう自分が情けなくて、ずっと引け目を感じてばかりいて、 このひとが何をしてくれても、素直に嬉しいって言えなくなっていた。 本当なら喜んでいいことを素直に喜ぶことすら出来なくて、胸の中でいくら感情が溢れても 見ないふりをして我慢してた。 ――見ないふりで心の奥に閉じ込めて、ずっと忘れかけていたこと。 でもそれは、とっても大切なことだ。誰よりもこのひとにしっておいてほしい、大切なこと。 恥ずかしさと嬉しさで染まった頬を両手で隠して、あたしはどう言おうか迷いながら口を開いた。 「・・・土方さん、ありがとう。 えっと、あの・・・・・・・・・あのね。すっごく嬉しい」 最近ようやく素直に口に出せるようになった言葉を、うつむきながら小声でつぶやく。 もっと気持ちを伝えられるように言えたらいいけれど・・・まだ無理かも。今のあたしにはこれでも精一杯だ。 戸惑いながら顔を上げてみれば、見上げた冷淡そうな顔はほんの僅かに唇の端を緩めてる気がした。 起きろ、って催促するみたいに腕を上へ引っ張られて、そのまま引っ張り起こされる。 ベッドの上で膝を崩して座り込んだあたしの背中を白いシャツの腕の中へ抱き寄せると、 土方さんは姿勢を屈める。お互いの衣服が擦れ合って、ざわざわ掠れた音色を鳴らした。 見上げれば視線が重なって、苦笑気味に歪められた目に間近からじっと見つめられる。 心臓をきゅうって掴まれたみたいなせつなさが湧く。 土方さんの視線に吸い込まれてるみたいに、ゆるゆると、自然と瞼が落ちていく。 あたしは自分の肌の赤さを気にして、どきどきしながら目を瞑った。 「・・・・・・っん、ふ、ぁ・・・ん、ふぅ・・・・・・っ、んん・・・っ」 こつんと額が重なって、当たり前のように唇が触れ合う。 高い熱でなぞられた唇の隙間から土方さんが入り込んでくるとぞくぞくして、 舌で撫でられたところがどこも熱くなっていった。 痺れ始めた頭の中まで燃え上がりそうなのに、そんな自分を見られたくないのに、 どうしてこんなに気持ちよくなってしまうんだろう。 身体の芯から力がどんどん抜けてしまう。震える手でシャツの衿元に 縋りつくのが精一杯で、潤みきった目尻から涙がつうっと溢れ出す。 どれだけの間そうしていたのかわからないけど、強く抱きしめられた身体はずっと震えていて、 飼い主に甘えてる猫みたいな喘ぎ声が恥ずかしいくらいにたくさん漏れた。 ――好きなひとの熱と煙草の匂いを感じて、蕩けそうな気分に浸って。 お仕事の合間のほんの短い時間だけれど、それでも十分だと思った。 忙しいこのひとの傍にいられて、たまにこうして振り向いてもらえる。 気が向けばこっちを見つめてくれて、大好きなあの手を伸ばして、大切そうに触れてくれる。 それってあたしにとっては、この豪華なお屋敷で贅沢に囲まれて過ごすよりもうんと贅沢で幸せな時間だ―― 「――行くか」 「・・・・・・ぅん」 素っ気なくて愛想のない声を耳元で漏らしたひとの腕は、声音とは裏腹な、 触れ合った肌が燃え上がりそうな熱を孕んでる。いつ抱きしめられても心地よくて安心できて、 つい目を閉じて浸りたくなる。 あたしを身体ごとベッドの上から浮き上がらせると、土方さんは 午後のやわらかい陽射しが溢れる室内を重厚なドアへと横切っていった。
「 おおかみさんとおままごと *1 」 text by riliri Caramelization 2017/05/05/ ----------------------------------------------------------------------------------- 副長今年もおめでとうしろう! next →