気が付けば、何もかもが血を浴び暗い赤に染まっていた。
はぁっ、はぁっ、と荒れた呼吸を繰り返していた彼女は、疲れきって棒のようになった腕をだらりと下げる。
握った刀の切っ先が床にぶつかる。
かつん、と硬質な音を立てた廊下はほんの十秒ほど前の騒乱などなかったかのように静まり返り、吐き気がこみ上げそうな異臭が空気をどんよりと重く澱ませていた。
内部の様子が見えないようにとすべての窓を塞がれた、昼間でも薄暗い隠れ家の廊下。とめどなく汗が流れる細い喉を逸らし、彼女はその天井を振り仰ぎながらまぶたを閉じる。
肌を伝う冷えたしずくが、じっとり湿った着物の内側を――心臓が破れそうなほどに暴れている、火照った全身を濡らしながら這い落ちていく。
ゆっくりとまぶたを上げていくと、うつろな表情で唇を開いた。
『・・・・・・終わったよ。もう大丈夫だよ、兄さん・・・』
ぼんやりと呼びかけた彼女に呼応するかのように『うぅぅ…』と痛みに泣き咽ぶ男の声が小さく上がる。
けれどそんな声も耳に入らなかった。胸の内側でどくどくと鳴り続けている心臓の鼓動が煩すぎて、他の音など聞き取れない。
やがて斬り伏せた男たちの血でぬるぬると滑る、足元の床に目を向けた。
すぐ傍で倒れているのは、彼女が最後に斬った男だ。うつぶせになった背中は着物が縦に裂けており、肉がぱっくりと割れている。
不自然なまでに滑らかな断面を晒す傷口から、泉穴から噴き出る清水の勢いで鮮血は溢れ出していた。
みるみるうちに広がっていく血溜まりを朦朧とした表情で見つめていた彼女は、がくり、と床に膝をつく。
一直線に続く廊下の床上には十数人の男が転がっている。ついさっきまでは兄さんが吐血するほどの暴行を繰り返し嘲笑っていたのに、たった数分で物言わぬ骸に成り果てた男たち。
目視すらままならない速さで奮われた女の剣に断裁され、千切れ飛んだ腕。その手から離れて方々に投げ出され、床へ落ちた刀。投げ出された勢いで壁にざくりと突き立った刀。
床も壁も、血飛沫が散った天井も、廊下中のすべてが赤黒く変色しつつあった。
そんな光景を前にしても何も感じていないような顔をしていた彼女は、次に血で汚れた自分の手許を見つめる。
頭から返り血を浴びたせいで、視界は薄赤く濁っていた。
『・・・・・・うそ・・・・・・』
荒い呼吸を繰り返しながら、ぽつりとつぶやく。刀が手から離れない。あまりにもきつく握り締めていたせいだろうか。
いくら手放そうと引っ張っても指は柄を放そうとせず、関節は刀を握りしめた形のまま凍りついてしまっていた。
(――夢中だったから気付かなかった。こんなに必死に握りしめてたんだ・・・)
疲れきってぼんやりした意識の片隅で彼女は思う。ふ、と乾いた笑い声を漏らすと、息が上がって干からびた喉はひゅうっと奇妙な音を立てた。
どろりと粘る血のしずくを滴らせる白刃の先を、力尽きて上がらなくなった腕で赤黒い床に突き立てる。すると、ぱきり、と小さな音を立てて刃の先が折れた。
先が割れた刀身をしばらく無言で見つめてから、もう一度床に突き立てる。そこでようやく刀の柄は手から離れた。
どこかほっとしたように表情を和らげた彼女は、壁際でうずくまり腹を抱えている兄の元へ寄っていく。傍にすとんと腰を下ろした。
ぐったりとうつぶせになった兄は、彼女が男たちを斬り殺している間も『痛い……いたい…』と泣きながら漏らし続けていた。
今も嗚咽に喉を引きつらせている男の頭を、なるべく揺らさないよう気をつけながら掬い上げる。か弱い幼な子でもあやすかのように、そうっと胸に抱きしめた。
『ごめんね。一人にしてごめんね。あたしが護るって言ったのに・・・ごめん。ごめんなさい・・・・・・』
ひどく殴られたせいで青紫に腫れ上がった頬に、痛みを感じない程度にやわらかに触れる。冷えて固まった血が髪のあちこちにこびりついた頭を、労わるように優しく撫でた。
痛みに喘ぐ兄の全身から、返り血で赤く染まった自分の着物の胸元から、眩暈がしそうな強い匂いが昇ってくる。その血生臭さがたまらなく嫌で、きゅっと唇を噛んで怒りをこらえた。
――ああ、だから言ったのに。あんな刀じゃだめだって。もっと頼りになるいい刀がほしいって。
あんな薄っぺらいなまくら刀一振りじゃ、二、三人の腕でも斬り飛ばしたらすぐにひび割れ波打ってしまう。
あんな脆い刃じゃ駄目だ。いざという時に十二分には揮えない刀。そんなものだけじゃ、どうやったって兄さんを護りきれない。
『・・・うぅ・・・・・・っっ。もういやだ。どうして僕が、こんな奴等にっ・・・』
『大丈夫。大丈夫だよ。兄さんを傷つける人はもうここにはいないよ、落ち着いて。・・・あのね、夕方には戻るって、小父さまが言ってたから。すぐにお願いして、お医者さまを呼んでもらうから・・・』
兄に優しく言い聞かせながら、彼女はさっき床に突き立てた刀をじっと見つめる。
切っ先は折れ、刃はぎざぎざに欠けている。ほんの数分で十人以上を相手にしたから当然だけれど、無茶な使い方をしたものだ。
あれじゃあもう誰も斬れそうにない。でも、大丈夫。あんな刀、もういらない。あたしや兄さんに斬りかかってくるような奴なんて、この家にはもう残っていないはずだもの。
だから、あれはもう使わない。使わなくていいんだ。
腹の奥でまだ熱く燃え滾っている怒りや憎しみに言い聞かせるようにして、彼女はぼんやりと念じ続けた。
――そうだ。刀なんてもういらない。
もう終わった。終わったんだ。ここで倒れてる人たちはもうみんな息絶えている。誰も動けない。だから、もう誰も兄さんを襲ったりしない。
襲われなければ、斬る必要もない。もう斬らなくていい。よかった。誰も殺さなくていいんだ。もう、誰も――
ゆっくり呼吸するように努めながら、兄の頭を何度も撫でる。
男のそれにしては細く柔らかな髪質は、何も知らずに兄と戯れ遊んでいた幼い頃と手触りが同じだ。
成長してからは触れることなど滅多になかった、兄の髪。幸せだった子供の頃を思い出させてくれる、懐かしい手触り。
ただ触れているだけで自然と呼吸が落ち着いてくる。
肩や腕の重さやだるさも、幾分軽くなってきた。ほっとした彼女は、未だ泣きじゃくっている兄の頭をそっと床に下ろした。
『・・・・・・待ってて。氷と布巾、持ってくるから。腫れたところを冷やしてあげる』
掠れた声で言い置くと、脚をふらつかせながら立ち上がる。
ちょっと動いただけで鼻先まで匂い立ってくる血の匂いが不愉快で、自然と眉間が引きつってきてわずらわしそうな表情になった。
廊下の先にある台所へと踏み出そうとしたが、そこへ、ぱちゃ、と水が跳ねたような音が響いた。
反射的に振り向けば、この家の小間使いとして雇われている少年がいつのまにか廊下へ出てきていた。
『――も、戻っておいで!今行っちゃだめだよ・・・!』
『そうだよ、あんたまで殺されちまうよ!戻っておいで・・・!』
震える声で呼びかけているのは、この家で働く女中たちだ。部屋の戸口の影に座り込んでいる女たちは、揃って血の気を失くしている。
突如起こったこの惨状に心底怯えているらしく、腰を抜かして動けなくなっているようだった。ところが少年だけは違っていた。
何の恐怖も感じていないような、何も聞こえていないような、ぼんやりした顔で彼女のほうへ向かってくる。
ぱちゃ。ぱちゃ。ぱちゃ。奇妙な静けさに満ちた薄暗い廊下を、誰の血なのかも判別出来ない血溜まりの上を、彼女の脇をゆっくりと過ぎた。
玄関前までふらふらと歩き、そこで折り重なっていた数人の遺体の前で、かくん、と膝を折って崩れ落ちる。ぽつりとかすかにつぶやいた。
『・・・・・・とうさん・・・・・・』
抑揚のない声だった。ただ反射的に口から出てきただけのような、何の感情も籠められていない声。
子供はゆっくりと振り返る。黙って彼女を見つめてきた。呆然と開ききった光のない瞳に一瞥され、ぶるりと身体が震え上がる。
(とうさん)
血臭を放つ大きなゴミのようにしか見えない屍の中の、どの男にそう呼びかけたのか。
それすらも彼女には判らなかった。この子供のことなど何も知らない。名前も年も、どんな子供なのかも、どうしてこの家で働いているのかも。
自分が斬り捨て殺した男たちの中のどの男が、彼の父親だったのかも。
この家に匿われて以来、小父さまか兄さん以外の誰かと話したことなど一度も無い。
だから私室に食事を運んでもらう時以外は、この子とは顔を合わせることすら稀だった。
剣客とは名ばかりのゴロツキを集めて護りを固めたこの家に、子供がいる。その不似合いさを妙だと思うことはあった。でも、それだけだった。
それ以上には興味など持たなかった。
兄以外の何にも興味を持てなくなっていた彼女の目には、あの少年はこの家の家具の一部か何かのように見えていたから。けれど――
けれどそんな、存在を意識したことすらない子供であっても――その親を、斬ってしまった。殺してしまった。
あの子がどんな子であれ、子供は子供だ。誰かの庇護が必要な、護られるべき存在だ。
幼いころから親がいなかったあたしは、知っている。親のいない子供が何を思い、周りと自分との差をどう感じるかを。
親に寄り添い甘える子供をどんなにうらやましく思い、どんな孤独やさみしさを味わうのかを。
なのに――殺してしまった。奪ってしまった。あたしはこの子から、親を奪ってしまった。
ごく、と彼女は自分でも知らずに息を詰めた。
(――殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した――)
ぐるぐると絶え間なく頭を巡る短い言葉が、まるで呪詛のように彼女を縛る。自分がしたことの怖ろしさが、今になってようやく実感として迫りつつあった。
怒りで沸騰しきって何も冷静に考えられなくなっていた頭は、目の前にある現実を少しずつ理解し始めている。
少年は彼女から目を逸らそうとしない。ただ黙って彼女を見ていた。
一瞬で親の命を断った女を責めるでもなく、親の亡骸を前にして涙を流す訳でもなく、取り乱すこともなく、瞬きもなく見つめてくる。
暗く沈んだそのまなざしを浴びるうちに、彼女は子供に視線を注がれることが怖ろしくなってきた。
渦巻き奔る溶岩のように燃え上がっていた憎悪が、冷たい恐怖に浸食されてゆるゆると冷える。黒く凝り固まっていく。
身体中を活発に巡っていた血の気が、すうっと静かに引いていく。寒気にも似た絶望が、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔の念が、背中から襲いかかってくる。
全身を凍りつかせてしまいそうな冷たさが襲ってくる。
その冷たさはあっというまに身体の内側まで支配してゆき、どくどくと早鐘のように鳴っている彼女の心臓を鷲掴みにしようとしていた。
『・・・・・・ご・・・めんなさ・・・・・・・・っ。・・・・・・・ぁ、あたし、あた、し・・・っ』
それだけを口にするのが精一杯だった。
何か言おうとしても唇の震えが止まらない。歯ががちがちと鳴っている。脚に力が入らなくなり、膝ががくがくと揺れ始める。
全身を恐怖に縛られた彼女は、それでも少年から目を逸らせなかった。ふらりと一歩後ずさり、真っ赤に染まった足袋の足で鮮血の飛沫を跳ね散らし、逃げるようにして兄の元へ戻った。
赤黒く汚れきった手を伸ばし、倒れ伏す兄にしがみつくはずだった。ところが、その手の先から炎が上がった。
――見つめる指先にふっと生まれ、ちろちろと肌を舐め焼き尽くしてゆく紅蓮。
指先から噴き出る劫火が手を溶かしていく。まるで火が蝋燭を溶かしていくかのように爪先が溶け、次いで関節も焔に包まれ、手のひらが赤く燃え上がる。
なのに、痛みも熱も感じない。
動揺しているために視線が落ち着きなく泳ぐ目で震える指先を見つめながら、おかしい、とは思う。ふと顔を上げてみれば辺りは一面が火の海だ。
すぐ傍に居るはずの兄はなぜか忽然と姿を消し、小さな竜巻のように燃え盛る焔を透かしてあの少年らしき子供がうっすらと見えた。
――おかしい。どうして燃えてるの。どうして。ここが火事になるなんて――
はたじろぎつつもこの状況の不可解さを疑い、どうにかして考えを巡らせようと必死になった。
おかしい。こんなことになるはずないのに。こんなことが起こるわけがないのに。あの日のあの家で、こんな火事が起こるなんて。
そうだ。火事なんて起こらなかった。でなければあの日、ここに帰ってきた小父さまを青ざめさせることはなかった。
小父さまのあたしを見る目が一変したり、腫れ物を扱うような態度に変わることもなかった。
そうだ。あの後、近所の無免許医師に兄さんを診てもらった。兄さんと一緒にあの男の元へ連れて行かれるまで、あたしが一人で看病を続けた。あの時以来、あの子供を見かけることはなくなった。
・・・・・・そう、間違っていない。
どれもあたしの記憶。兄さんと離れ離れになった今も強烈に覚えている、忘れられない後悔の断片。
そうだ。あたしは殺した。小父さまやあたしが留守にした隙に兄さんを嬲り、半殺しの目に遭わせたあの男たちを怒りに任せて殺した。
あの子の父親もその中の一人だった。だから殺した。あの後も、命じられるままに殺してきた。たくさん殺めた。殺したんだ。殺してしまった。
あんなことをするはずじゃなかった。兄さんを護りたい、最初はただその一心で剣を取った。違う。人を殺すためにじゃない。護りたくて剣を取ったのに。
なのに――なのに。 結局、何も護れなかった。
何も護れない、弱い自分に気付きたくなくて、自分がしていることの恐ろしさを忘れたくて。
これは兄さんのためだから、なんて見え透いた言い訳に縋りたいがためにあたしは斬った。
兄さんを脅かすものを排除するつもりで、自分を怯えさせるものを排除していた。
『全部兄さんのため』いつもそう言い聞かせていないと、気がおかしくなってしまいそうだった。違うのに。本当は兄さんのためなんかじゃない。
壊れそうな自分を脅かすものから逃れたい。ただその一心で、あたしは斬った。言われるままに人の命を奪ってきた。
今では顔もよく覚えていないあの子の親の命も、そのうちのひとつだった――
『・・・・・・違う。違うの。あたし、知らなくて・・・そんなつもりじゃなかったの・・・あたしは、ただ、兄さんを・・・・・・っっ』
いやだ。認めたくない。目の前にあるすべてが信じられない。狂ったようにかぶりを振って「違う」と何度も繰り返してから、はびくりと身を竦ませる。
信じる……?どうして。どうして信じなくちゃいけないの。こんな辛いことは忘れてしまえばいい。なかったことにしてしまえばいい。
だってこれは夢だ。あの日起こったこととは違う。ただの夢だ。
信じる必要なんて、覚えている必要なんてどこにもない。これはきっと悪い夢。
そうだ。おかしい。そんなはずがない。あたしがこんなことを――こんなに大勢の人を手に掛けたなんて。そんなはずがない。
そう。あの日、あの家からは火なんて上がっていない。だからきっとこれは夢だ。
けれど。 ああ、だとしたら――これは何。何なんだろう。身の内から焼け爛れていくような、蝕まれていくようなこの感覚は。
『・・・・・・・・・・・・け・・・て・・・・・・っ』
途方もない重さで圧し掛かってくる罪悪感に苛まれながら意識が混濁していく中、は震える手のひらを見つめながら口の中でつぶやく。
何度も何度も、同じことばかり、祈るようにつぶやき続けた。そうしている間にも、消えない幻覚の焔で視界は燃え上がっていく。
まぼろしのはずが手指の先に痛みが回り、おそるおそる見つめた爪の内側で焔が激しく噴き上がる。
まぼろしの焔はまるで生き物であるかのように不気味に蠢き、めらめらと手を舐めつくしていく。皮膚を溶かし骨肉を融かし、赤く焼け爛れさせていく。
苦痛はなくても恐ろしすぎて、耐えられなくて、震えが止まらない身体を抱きしめながら啜り泣く。
腕に火が移り、頭にも火の粉が飛び散り、長く伸ばした髪の先が眼前に赤く舞い上がる。
なす術もなく全身を焔に包まれてしまった彼女は、悲痛な声を震わせ叫んだ。
――助けて。 誰か、助けて。
#02
『音響調整室』
二階フロアの中央にあるドアにはそんな札が貼りつけてあり、数か所を弾痕で穿たれていた。わずかに開いた隙間からは、耳に刺さる煩い音楽が漏れ出している。
うんざりした顔になって片耳を手で抑えた彼は、黒く固まった血がこびりついたドアノブを回し戸を開けた。
「・・・・・・〜〜っ!」
途端に流れ出てきた室内の空気も音楽も、どちらも最悪だった。
騒音、と呼ぶのに相応しい大音量でギターやドラムの爆音が轟き、鼻が曲がりそうな強烈な血の匂いが瞬時に広がる。
そのどちらもが苦手な彼は慌てて一歩引き下がり、鼻と口を覆い顔を顰めた。
一階ロビーで誰かが焚いた発煙筒の煙のせいでここも相当に煙臭いのだが、一階の大きなホールやこの部屋の匂いに比べれば幾分マシだ。
内心では怯みきっている自分を押し隠しながら、ずっ、ずっ、と何かが擦れるような音が聞こえる部屋の奥へ向かう。
大きな音響機器が並ぶ部屋には、この計画の首領を張っている男の子分が居る。
首領の命令でこの部屋の襲撃を任された二人は、何が起きたのかも判っていない様子だった舞台監督とその助手を拳銃で首尾よく撃ち殺し、与えられた仕事を終えていた。
それから彼はこの部屋を出て、大ホール内を占拠し終えた首領の元へ報告に走った。
しかし今日の相棒となった若い男はといえば、彼があくせくと走り回っていた間もこの部屋にのうのうと籠りきりだった――
「・・・・・・まだやってんのかよ。お前、よくこの血生臭せぇ中でそんな気になれるな」
「臭いなんざどうでもいいだろ。それに女ってのはな、首絞めた後が一番いいんだぜ」
やけに馴れ馴れしい態度のにやついた男は、腰ほどの高さがある音響用コンソールの影に隠れていた。ずっ、ずっ、と鳴り続けていたのは衣擦れの音だ。
男は腹を撃たれて失血死した音響助手の女の下肢を暴き、上に跨りひたすらに腰を振り続けている。
ああ、と思いついたかのように振り返り、「あんたももどうだい」と悪びれない態度で勧められたが、彼はあからさまに顔を顰めて首を振る。
荒い呼吸を漏らしながら死体を突き上げている男に背を向け、声を潜めて「てめえと兄弟になるなんて、冗談じゃねえや」と吐き捨てた。
どうやら男は今までにも、この胸糞の悪い行為をたびたび繰り返してきたらしい。
撃たれた直後はまだ意識があって泣きわめいていた女の首を手際よく絞め、窒息死させてからコンソールの影に引きずり込んで犯していた。
涙と嘔吐物と血と小便を垂れ流す肉の塊を凌辱するのが、頭のどこかがぶっ飛んでいそうなこの男にとっては他では味わえない至極の愉しみらしい。
自分以外がこの部屋にいることなど忘れているかのように行為に耽り、異常な性癖を他人の前で披露することには何の抵抗も感じていなさそうだ。
「惨めだよなぁこの女も。こんなデケぇ劇場で金持ち向けの気取った三文芝居なんぞ作ってんだ、どうせ鼻持ちならねえクソ女だぜ。
そんなクソ女とハメたがるのは、芸術家気取りのクソ野郎どもだ。そこで倒れてるデブのおっさん・・・あぁ、何つったっけ、その男」
「・・・・・・。舞台監督、だろ」
「そうそう、それだ。どーせそいつともハメまくってたに違いねえや。へっ、このアバズレが・・・!」
腰を振る速度が上がったのか、コンソールの影から上がる衣擦れの音が早くなる。
女の身体が鳴らす聞きたくもない生々しい音が、煩い音楽に入り混じって響くようになった。
すっかり興奮しきった男がげらげらと、悪魔のように笑い出す。もううんざりだ、と彼は引きつった顔で視線を逸らした。
「そんなことより、あの爺さんはどうした」
「あぁー?」
「皇子の代わりにとっ捕まえたジジイだよ。・・・布っきれ何枚も巻きつけた、見たこともねえ衣装着てやがったな。あれも天人なんだろ」
入口近くの床に広がる血痕を見遣り、彼は尋ねた。ああ、と動きを止めることなく男が答える。
ここを出て一階へ降りる前、室内にはもう一人男がいた。
彼等が今回の殺害対象として狙いを定めていた某星の王子ではなく、その側近の爺さんだ。
彼が聞いたところによると、この計画の依頼人はあの爺さんにとってそう遠くない関係の人物だと言う。
爺さんの母国の世継ぎを挿げ替えたいと企む、王朝内の革命派勢力。そのジジイどもが星の海を越えてこの江戸までやってきて、あいつらに仕事を依頼した。
最近たちどころに勢力を拡大して凶悪な窃盗団へと変貌しつつある、今江戸で最もヤバいとされている暴走族に。
(皇子を拉致し、確実に息の根を止めてほしい。)
連中の指示はそれだけで、手段は問わず、首領の男を介して方々から人を集めるための資金や、銃火器などの準備資金にも糸目をつけなかったという。
おかげでこの仕事に斡旋人を通してありついた「雇われ組」の彼にも、通常の仕事とは桁違いな破格の報酬が約束されている。
厳重な警備で守られている国賓待遇のVIPを襲撃するとなれば相当に危ない橋ではあるが、そんな危険度の高さを割り引いても、充分に美味しい仕事のはずだった。
だが――皇子を襲撃する役目を担った奴等は、まんまとしくじりやがったらしい。
連中が捕え連れてきた人物は、依頼人が指名してきた皇子ではなかった。
どういうつもりか知らないが、顎に髭を生やした痩せっぽちの爺さんを連れて来たのだ。
爺さんは爆撃で吹き飛ばされたらしく腿には大きな破片が突き刺さっており、そこから多量に血を流し、息も絶え絶えに床に転がっているだけだった。
あの様子ではまだ息があるかどうか危ういもんだと、彼は老人の姿を思い出しながら血が染み込んだ床を眺める。
・・・まあ爺さんが生きていようがいまいが、俺にはどうでもいいことだ。依頼人がご所望なのは皇子の首だ。
あのジジイの首を差し出したところで、金は一銭たりとも入らない。
「――ちっ。どこがいい仕事だ、大ボラ吹きが・・・!」
吐き捨てた彼は手近な椅子を蹴り倒し、焦燥も露わな落ち着きのない態度で舌打ちする。
身入りのいい楽な仕事だと斡旋人は吹聴していたが――どこがだよ。大外れじゃねえか。あのクソ野郎、とんだ外れクジ掴ませやがって。
どうしてくれんだ、もし一銭も稼げなかったら組へは戻れねえぞ。
先月もロクな稼ぎは入らなかったんだ、ここで手ぶらで帰ろうもんなら兄貴たちに半殺しの目に遭わされちまう。
「ジジイねえ・・・あのジジイなら、さっき他の奴が縛り上げて連れてったぜ。大事な金ヅルだから一階に下ろして見張っとけってお達しらしい」
「――・・・・・・おい。ちょっと待て、今、・・・金ヅルだと?あれが?」
あの爺さんが――大事な金ヅル?
世間話でもするかのように軽い口調で語り始めた男の話には、意外な情報が含まれていた。彼は持っていた銃でコンソールの端をゴンと殴り、
「どういうことだ。あの爺さんが金ヅルだって?」
「うちの兄貴はそう言ってたぜ。狙いはとりあえず皇子だが、失敗したら傍付きの爺さんを捕えろってよー」
「何だよそりゃあ、俺はそんな話聞いてねえぞ・・・!」
「知ってんのは俺たち兄貴の子分だけさ。他から来た奴には伏せておけって、兄貴の命令だったからなぁ・・・って、はは、やべえ、うっかり話しちまった」
兄貴に殺される、と男は荒い息遣いの合間に笑う。
男が居るコンソールの影からは女の足だけが飛び出して見えて、だらりと伸びた爪先がぐらぐらと揺り動かされていた。
「よく知らねえがあの爺さん、皇子の次に価値があるらしいぜ。
兄貴ははっきり言わなかったが、天人共との交渉に立ち会った奴の話じゃあれも王族ってぇやつらしい」
「はぁ?あれが王族?どう見てもただのジジイじゃねえか」
「それがただのジジイじゃねえんだとよ。目つきが妙に鋭かったが、他は・・・どう見てもくたびれた只のジジイだったよなぁ」
確かに、と彼は内心で男に同意した。遠目にはこの星の人間にも見える老人は、この国の人間にしては皮膚が浅黒く、彫りの深い顔立ちをしていた。
皮と骨で出来ているような痩せこけた身体つきだったが、見た目以上に渋太いというか、気骨のある爺さんらしい。
傷口は相当痛んでいただろうに一言も声を上げず、歯を食い縛り、黙って痛みをこらえていた。
束の間の間だが同じ部屋に居た彼とは目も合わせようとせず、しかし、たまにおかしな気配を見せた。
彼が銃に弾を詰めていた間はそれとなくこちらの動向を窺っているような空気を感じたし、部屋の外で仲間の声が響くと、じっと耳を澄ましたりもしていた。
不審に思って「外に何か気になることでもあるのか」と話しかけてみたが、この国の言葉は解らないらしい。
爺さんは不愉快そうに彼を睨み、聞いたこともないおかしな発音で一言漏らしただけだった。
薄灰色の布を何枚も重ね合せたような衣服の内側を彼が探ってみても、そこから財布を引き抜いてみせても、反応はほとんど同じだった。
あの爺さんが騒がずにいてくれたおかげで、こちらとしても仕事はしやすかったが――
「なぁ、そういやあよー。兄貴に言われたよなぁ、終わったら片っ端からスイッチ入れとけって。そこのデカい台だろ」
「ああ。今からやる」
着物の懐に詰めたものがしっかりそこに収まっているか、手を突っ込んで確認しながら彼は答えた。
それから、壁一面を使った窓の方へ向かう。数十人の死体が転がったままの凄惨なホールを眼下に一望できる大窓は、硝子が粉々に割り砕かれていた。
おかげで風通しがよくなり、ホール内の空気がここまで上がってくる。困ったことに、彼が苦手としている濃い血生臭さまで昇りつめてくるのだ。
喉奥にこみ上げてくる嘔吐感を我慢しながら、階下のホールで首領に指示された通りに行動した。
まず最初に、窓際に設置された幅広な音響卓に向かう。
頭から血をぶちまけてコンソール上に倒れ伏している舞台監督の男の身体は、肉付きが分厚くやけに重い。押してもなかなか動かなかった。
死体の重みに辟易しながら、どうにかそいつを床に落とす。どす黒い血でべっとりと濡れた数十のスイッチを、ぱしぱしと端から跳ね上げていった。
すると館内に設置された全てのスピーカーが甲高く耳障りなハウリングを起こし、やかましいギターやドラムの音が溢れ出す。
この手の音楽に嫌悪しか感じない彼の耳にはがなり立てているだけにしか聞こえないボーカルのダミ声が、館内すべてに広がっていく。
特に首領たちが占拠したホール内には、耳どころか骨にまで響く武骨な轟音が溢れ返っていた。
舞台の左右の壁面に埋め込まれたスピーカーは塔のような巨大さで、ホール中の空気を振動させながら耳をつんざく男の声を撒き散らす。
・・・畜生、何て気に障る声だ。
ちっ、と舌打ちを漏らし、彼は仕方なく口を開いた。いくら表面上は手を組んでいるとはいえ、あんな変態とはあまり口を聞きたくないのだが。
「煩せぇ声だなぁ。デカすぎだろ。音下げていいか」
「やめとけよ。こっちの動きをポリ公どもに気取られねえよう、館内中にデカい音流しとけって命令だぜ」
余所者のお前は知らねえだろうが、うちの兄貴に逆らうと後が怖えーぞ。
せせら笑いながら忠告してきた男は、音響機器の影で女の身体を激しく揺らし、うっ、と低く息を詰めた。
じきに立ち上がり、腰履きにした緩いカーゴパンツを引き上げる。
カチャカチャとベルトの音を鳴らし、にちゃにちゃとガムを噛みながらこちらへと向かってきた。
あんなことをしておきながらどこにも罪悪感を感じていなさそうなにやついた顔が、彼には不気味だとしか思えなかった。
「・・・たいした神経だな。仕事の最中に死んだ女相手に腰振ってたなんて知られたら、あのおっかねえ頭に叩き斬られるんじゃねえか」
「兄貴は何も言わねえよ。言われた通りにやることだけやっときゃそれでいい、後は自由にしろってのがあの人が決めた掟だ。
あんたの組の親分さんよりよっぽど懐が広いからよ、うちの兄貴は」
「・・・・・・」
馴れ馴れしく肩を組んでくる男の自慢に厭味のひとつも差し挿みたい気分になったが、彼は黙ってやり過ごした。
またこれだ。首謀者となった男が率いる暴走族上がりの集団は、あの男を崇めたてまつる盲信によってその結束を強固なものにしているらしい。
その崇拝ぶりときたら、宗教に近い何かがある。どいつもこいつも二言目には兄貴兄貴、口を開けば「うちの兄貴」だ。
「余所者」である彼が少しでも異を唱えようとしたものなら「兄貴の言うことは絶対だ、お前らも従え」
「余所者が兄貴の考えに口を挟むな」と、銃や刀を突き付けて噛みついてくるような奴ばかり。
おかげで彼はその都度ムッとさせられ、「てめえら三下に命令される覚えはねえよ」と幾度も鼻白む目に遭っていた。
――どうにも目出度い奴らだな。この野郎といい他の子分どもといい、よくあの血も涙もねえ猛獣みてえな男にここまで心酔出来たもんだ。
じきに喉元噛み切られても知らねえぞ、と皮肉を籠めて彼は思う。力はありそうだが信用ならない男。
それが、彼があの首領に抱いた印象だった。
(こいつ、これまでに一体幾人殺ってきたんだ)
(人殺しなんて呼ぶよりは、殺人鬼とでも呼んだほうが似合いそうな面構えだ)
一目見ただけでそんなことを考えてしまう怖気が立つような雰囲気を、目元に傷がある長身の男は持ち合わせている。
近くに寄れば獰猛な獣のような殺伐とした気配を漂わせていて、階下のホールで二階の状況を報告した時は冷や汗が流れて止まらなくなった。
「まあ俺にも兄貴の考えは読めねえことが多いけどよー、言われた通りに従っときゃあ間違いねえぜ。
今日はあんたも俺らの仲間だ、ここは俺らの掟に従っとけよ」
「お前らの掟とやらは知らねえしどうだっていいが、俺もお前らの評判だけは知ってるぜ。こないだの強盗事件もお前らの仕事なんだろ。随分と悪どい真似やったらしいな」
「ああ、おかげで羽振りはいいぜ。代替わりしてから羽振りが悪くてじきに黒鉄組に身売りすんじゃねえかって噂の、あんたの組と違ってな」
「――何だと。おい、言ってくれるじゃねえか」
彼は声を荒げて男を睨んだ。
これまではガキの戯言と見逃してきたが、組の情勢まで持ち出され、足元を見るような真似をされては話は別だ。
拳銃を持っているほうの腕を振り上げ、肘で男を突き放す。口で脅す代わりに銃口を眉間に当ててやれば、男はふざけて両手を挙げ、
「あー悪い悪い、そう怒りなさんなって」
「よくも言えたもんだな。女の死体目当てで仕事に精出すような外道が、偉そうに」
「そうかぁ?あんたも人のこたぁ言えねえだろ」
「・・・・・・。俺が何したってんだ。てめえと一緒にすんな」
「気付いてねえとでも思ったのかぁ?俺が女をヤってる間に、そこのデブから剥ぎ取ってたじゃねえか。時計だの指輪だの財布だの、金目のもんをごっそりと」
「・・・!」
「下のホールは金持ちの死体だらけだ、あんたにしてみりゃカモだらけのいい仕事場だったんじゃねえか。なあどうだった、コソ泥さんよー」
さっと顔を青ざめさせた彼に、目ぼしいもんは見つかったかい、と男は再び肩を組んでくる。
まるで彼が死体たちの懐を漁り金目の品を奪う様子を、ガラスが大破したそこの窓から一部始終目にしていたような言いぶりだ。
男の顔はさっきと変わりなくにやけていて、ぞくり、と背中に悪寒が走る。
じっとりした嫌な汗が首筋を流れ、彼はいつのまにか湧いていた生唾を大きくごくりと呑み込んでいた。
「そう心配するこたーねーよ。兄貴や他の奴等には、あんたの秘密の副業のこたぁ黙っといてやるからよ」
「・・・・・・どういうつもりだ。俺を脅して金でも巻き上げるつもりか」
「まさか。もっと信用してくれよ、兄弟。俺達ぁもう仲間だろ」
疑り深いなぁと男は笑うが、どうせあれも上辺だけの笑顔だ、信用出来ない。
眼下のホールで首領の指図通りに動いている男たちを苦々しい顔で睨みながら、彼は追い詰められた気分になっていった。
――煩い。周りの音が煩すぎて、上手い反撃を思いつこうにも集中出来ない。
耳触りなボーカルの声が、重低音が部屋中を振動させる音楽が、男がくちゃくちゃとガムを噛む音が頭に響く。
「なあ、もう一遍言うけどよー、この仕事を振ってきた天人どもは、そいつらの国の皇子か側近のジジイ、そのどちらかを仕留めりゃ文句はねえんだ」
男は彼の懐に手を差し入れてくる。潜り込んできた手の先が、着物の内側を探ろうとしている。
ぎくり、と彼は全身を竦み上がらせた。
ホールに倒れる死体から手当たり次第に探り出した財布、指輪やネックレスなどの宝飾品、その他の高級品を詰め込んだ懐から、じゃら、と重そうな金属音が漏れ出てくる。
中を探っていた男の手が、彼が舞台監督の男から盗った長財布を器用にすっと摘み上げ、
「大丈夫だって、こんなもん盗まなくたって金は確実に手に入る。ここから逃げる手筈だって確実だ。
それもこれも兄貴と俺達のおかげだろ。あんたの稼ぎの半分くれーは、分けてくれたっていいんじゃ――」
コン、コン。
そこで分厚い防音ドアを軽く叩く音が、背後から響いた。
仲間の誰かが来たらしい。彼はほっとしたような面持ちで振り返り、話を中断された男は苛立っているような顔で振り返る。だが――
「――話の腰を折るようで悪いが、てめーらが逃げる手筈ってえのはどんな算段でェ。そこいらをもう少し詳しく聞かせてくんねーかィ」
二人の表情が同時に固まる。
耳を澄まさないと煩い音楽に消されてしまいそうな声。どこか幼さを感じさせる、少年めいた細い声だった。
こんな声の持ち主など、劇場に押し入った奴等の中には居ないはずだ。しかも扉の向こうからの声は、二人を警戒させるのに十分なことを尋ねてきていた。
「――誰だ、てめえは」
手にした小銃の撃鉄を上げ、扉に向けて両手で構えながら彼は尋ねた。
男は床に放っていたライフル銃を手に取り残弾数を素早く確かめ、彼に目で合図してくる。緊張が漲った顔を見合わせ、二人は無言で頷いた。
「誰って、あんたこそ誰なんでェ。人に名前を尋ねる時ぁ、訊いた奴から先に名乗るもんだろ」
「・・・・・・」
足音を立てないよう注意しながら戸口へ向かい、耳を扉に貼りつける。
覗き穴から外の様子を確認してみたが、向こう側から塞がれているらしい。目に映ったのは暗闇だけだ。
「ところでさっきの話の続きだ。この劇場の外はサツどもに包囲されちまってんだが、あんたたち、こっからどうやって逃げるつもりでェ。
何か良い策があるんだろ、俺にも聞かせてくれねーかィ」
「・・・他の奴から訊けよ。通路の端や階段のあたりに、見張り番の奴らが立ってんだろ」
「そいつぁ無理だ。あんたのお仲間はどういう訳か全員伸びちまってて、何尋ねても話しちゃくれなくてねェ」
「――」
外の物音を窺っていると、かち、と微かな金属音が耳に入った。あの音は――刀を鞘から引き抜く瞬間の音だ。
――刀を持ってやがる。ポリ公だ。俺達がここに籠っていた間に、警察が忍び込んできやがった。
外の状況が、扉の向こうの男が言った通りかどうかは判らない。
奴は俺たちを騙そうとしているのかもしれない。だが、二階の見張り番としてフロアの各所に立っていたはずの男たちの声が途絶えている。
見張り番は全員伸びている、と言っていたが、そこだけはあながち嘘でもなさそうだ。
彼はごくりと唾を呑む。大音量で流れる音楽だけが室内に響く。心臓がどくどくと煩く鳴り出し、緊張が否応なしに高まっていった。
「おーい、聞こえてんだろ。ここ開けてくれねーか」
再びのノックで催促され、どうする、と背後で銃を構えていた男に目で尋ねる。
男は表情に焦りを浮かべつつも「行けよ」と顎で指図してきた。
これまですべてが兄貴頼みで自分の頭など使ったこともなさそうな若造は、この不測の事態に動揺しているのだろう。
すっかり腰が引けた姿勢で銃を構える姿を眺めていると、いよいよ絶望的な気分になった。
・・・どうする。だだっ広くて身を隠す場所もないそこの通路に出るよりはマシだが、ここに誘い込めば俺達に退路はない。
戦り合う前に下に報せるべきか。それとも――
「どうしたんでェ。黙ってねえで答えてくれよ」
――いや。先にホールへ報せるべきだ。
決めるが早いが、彼は銃を構えたまま後退を始めた。
そうだ、奴の話に乗せられてどうする。相手がどんな奴等かも、何人居るのかも判らねえ。ここはホールに居るはずの首領に異変を伝えるのが先決だ。
とにかく時間を引き延ばそうと、彼は適当な会話を考えながら口を開く。ところがその直前に背後から声が上がり、
「鍵は開いてるぜ、入って来いよ!」
「っっ、おい!」
「うっせえ、てめーがチンタラやってるからだろうが!」
緊迫感に耐えられなかったのか、すっかり顔を青くした男が逆上してライフル銃を真上に向ける。
どどどどど、と立て続けに銃声が轟き、数発の弾が天井を穿った。頭上から防音壁の屑がばらばらと降ってくる。
扉の向こうの男はこちらの遣り取りを聞いているのか黙りこくっていたが、やがて愉快そうにくすりと笑い、
「そうかィ。じゃあ遠慮なく入らせてもらうぜー」
気楽そうな口調で断りを入れてくる。何の気負いも殺気も感じられない声が却って恐ろしく、妙な胸騒ぎで身体中がざわつき始めた。
(――もしやこいつ、相当にヤバい奴なのか・・・!?)
背筋にうすら寒さを感じた彼が、数歩後ずさった時だった。目の前の扉が、びっっ、と軋んだような音を立て震える。
吸音材や鉄の板を仕込んだ防音扉に縦横に何本も亀裂が走り、次の瞬間にはその亀裂を境にしてドアが割り砕かれる。
数秒前までは分厚い防音ドアだったはずの断片は、驚きに目を見張った彼の前で瞬時に崩れ落ちていく。
崩れ落ちていく欠片の間を身を低くして擦り抜け、黒い疾風のような人影が二つ躍り込んできた。
「――おいっ、隠れろ!」
飛び込んできた人影にあっけに取られている男を、死体が横たわるコンソールの影へ突き飛ばす。
彼はスピーカーが積まれた部屋の隅に飛び込み、その陰から夢中で引き金を引いた。乾いた銃声が鳴り渡り、黒い影めがけて弾が跳ぶ。
しかし影の一つが刀らしき銀色の光をひらめかせてそれを跳ね返し、跳弾は天井へ突き刺さった。
二つの影は左右に別れ、身を低くして物陰の間を移動しながら接近してくる。
どちらも同じ人間とは思えないほどに動きが素早い。残像程度にしか目視できない。
ちっ、と舌打ちした彼はスピーカーの陰から転げ出て、隣に置かれたコンソールを盾にして銃を連射する。これで少しは室内が見渡せるようになったが、
――駄目だ、敵の動きが速すぎて狙いを定められない。
いまいましいことに、放った弾は一発も当たらなかった。
あの男もうろたえた様子で何か叫びながらライフルを連射していたが、素早すぎる標的を捉えきれていない。
お互いに敵を仕留められず、煩い音楽と跳弾の音だけが室内に響き、全身に脂汗が滲むような焦燥ばかりが募っていく。
暫くすると、部屋の隅から引きつった呻き声が上がった。あの男の声だ。
はっとした彼はそちらに目を向けようとしたが、しなやかに駆ける黒い影が眼前に飛び込んできた。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、彼の目は敵の姿を視界に捉えた。
――あの制服。奉行所の。 いや、警察庁の狗どもか―― いや。違う。あの黒ずくめは――
敵の手に携えられた銀色の刃が振り上がる。やけにまぶしい色の――光に透ける金色の髪が男の目元を隠している。
漆黒の隊服を纏ったそいつは、身をひるがえし迫ってくる。そうか、あの制服は――
「――しっ、真選ぐ――・・・・・・――っぁああ!!」
引き金に指を掛け構え直そうとしたが、その指は引き金に達する前に斬り落とされ、銃とともに宙を舞った。
嘘だろう、と心中で叫んだ彼は、放物線を描いて落下する肉片を呆然と目で追う。
ひゅん、と風を唸らせながら、黒い疾風のような男が握る刀身が――銀色の残像が彼の頭から足までを縦断、目に止まらない速さで彼の身体の中心を擦り抜ける。
苦痛など微塵も感じないうちに、彼はどうっと床を揺らして仰向けに倒れた。
「――あんたが言った通りだったなァ。中に居るのは二人だけ、持ってんのは銃とライフル一丁ずつ、…と」
「少しはお役に立てましたでしょうか」
「少しどころか充分でさァ。しかし随分と言葉が上手いもんだねェ、この国に住んだことでもあるんですかィ」
「いえ、十数年前に国王陛下の護衛で滞在しただけでございます。我が国と国交を結んでおられる国の言語はひととおり覚えるよう、普段から努めておりますので――」
銃を拾い上げた男は彼に背を向け、どこかで聞いたような声の誰かと語り合っている。男の背中の向こうには、ぼやけた薄灰色の影がうっすらと見えた。
斬られた、なんて感覚はあまり無かった。痛みもなければ、血が流れ出ていくような感覚もない。ただ、身体のどこにも全く力が入らない。指先ひとつ動かせない。
少し指を伸ばせば届きそうな位置にはホール内で死体から剥ぎ取ってきた時計や宝飾品、財布などがばら撒かれていたが、触れることすら出来なかった。
天井のライトがやけに眩しい。目が焼けそうだ。
あの歌が――気に障った男のダミ声が、犬のようにだらしなく舌を出してはぁはぁと喘ぐ自分の呼吸の音が、どんどん遠ざかっていく。
生温かい何かが、頭や顔、腹や胸を濡らして広がっていく。
力の入らなくなった身体には、その生温さが何なのかを考えるだけの気力も残っていない。
どんよりと濁った目を向けた部屋の奥には、あの若い男が肩や腹から血を垂れ流して倒れている。
右腕は斬り落とされたのか、肩から下が無くなっていた。
男の傍に立っているのは、顔や首筋に返り血を浴びた若い女だ。
長い髪を振り乱した女は瞳が大きく美しい顔立ちをしていたが、鬼気迫った暗い表情で倒れた男をじっと見つめている。
意識を失いつつある彼の目にも、女の表情は怖ろしかった。夜叉、などと呼ばれる化け物の類が死に際に迎えにきたのかと、彼は思った。
――そうか。こんな化け物に魅入られちまったか。俺もお前も、ついてねえな――
力の抜けた口元を歪めてつぶやく。その声は大音量の音楽に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。
細々とした息を吐き出し、全身が冷たくなっていくのを感じ、ぼんやりと意識を掠れさせながら瞼を閉じていく。
最期に目に映ったのは、少年のようにか細い男が生意気そうな表情でこちらを覗き込んでいる姿だ。
額を隠す長さの金色の髪が揺れていて、そのまぶしさに見惚れるうちに彼の意識も閉じていった――
「 狼と踊れ #02-1 」
Caramelization *riliri 2014/03/10/ next →