――つまらん余興だ。退屈だ。
余のための特別公演と言うから来てみたが、・・・何だ、この歌や演奏ばかりが大仰な三文芝居は。
これなら女を数人侍らせ、この国のくだらぬ大衆番組でも眺めていたほうがまだ刺激があるというものだ――
王族の象徴とされる純白の衣装を揺らしてゆったりと脚を組み、彼は心中で苦言を漏らす。
この劇場で最も客席数が多い擂鉢状の半円型ホールの、まばゆいスポットライトに照らされた舞台上。
そこでは両腕を天へ差し向けた美貌のソプラノ歌手が、嫋やかに優美に歌い上げている。
(三つの謎を解き明かせたなら、わたしはあなたのものになりましょう。)
劇場が寄越したタブレットタイプの翻訳機によると、この独唱曲はそんな歌詞らしい。
延々と続いた長いアリアもようやく終盤に差し掛かり、姫君役の主演女優は澄みきった高音を張り上げる。
曲の山場を迎えてじわじわと荘厳さを増してゆく管弦楽の調べが、観客席と舞台の間に設けられた半地下部分――オーケストラピットから流れてくる。
聴衆に表情で語りかけるかのような情熱的な演技を、彼は冷やかな目つきで眺めた。
やがて、目元に掲げたオペラグラスをテーブルへ放る。
脚を組み直し、首元を何連にも飾る金のネックレスを落ち着きなくじゃらじゃらと弄れば、
傍に控えていた老年の侍従長が白髭を蓄えた口元に手をやる。こほん、と控えめな咳払いを打った。
「・・・皇子殿下、おやめください。
兄君に次ぐ第二王位継承者として、いついかなる時も民の目をお忘れなきよう」
フン、と彼は舞台に目を向けたままで嘲笑った。
退屈した時の癖となっているその仕草を、彼が幼き頃から附き従ってきた教育係の老いぼれ爺はいつも見逃さない。
ほんの些細な癖だというのに「品位に欠ける仕草です」などと口煩く言い、事あるごとに指摘してくるが、
――説得力に欠ける小言だ。
母星から二つの星系を跨いで訪れたこの地に、統治する民衆の目など無いというのに。
「・・・・・・つまらん。これでは公務の合間の気晴らしにもならんな。
今朝、この街で人気だという馬鹿そうな黒髪の女が歌い踊る映像を見たが、あれ以上につまらんぞ」
「そのような不用意な発言もどうかお控え下さい。いかにお忍びでの観劇とはいえ、後ろにはこの国の政府関係者が・・・」
「別に構わぬ。どうせ卑賤な猿共に我等の言語は理解出来まい」
「ですが、――」
彼をたしなめる言葉を耳打ちしつつ、侍従長は困った様子で背後を見遣っている。
彼等が居るのは貴賓客用の桟敷席。その出入り口を護衛と称して固めている、黒服の男達の目を気にしているらしい。
フン、つくづく気の小さい奴だ。
小声で皮肉気につぶやき、侍従長の話など耳に入っていないふりで数メートル下の舞台を眺める。
しかし翻訳機で確かめなければ意味が判らない異国の歌劇はさして面白くもなく、すぐに興を削がれてしまう。
いよいよ退屈を極めた彼は、皮張りの貴賓客用椅子に鷹揚な態度で深くもたれた。
ふああああ…、と聞えよがしな長欠伸を漏らす。
おやめ下さい、と侍従長は慌てていたが、何も耳に入っていないような表情で受け流した。
侍従長がそこまで周囲を気にする理由が、彼には理解出来なかった。
ここで自分がこの国を貶めるような発言をして、何の差し障りがあるというのか。
故郷から遠く離れたこの野蛮な国では、彼がどれだけ悪態を吐こうと言葉は通じず、誰もが恭しく傅くばかりだ。
・・・いや、だが、――そういえば。こんな中にも、たまには変り種がいるものだな。
昼間の出来事を思い出し、彼はわずかに眉を寄せる。
脳裏に浮かんでいるのは、ケイサツチョウ、とかいうこの国の治安保持組織で謁見したうちの一人だ。
父王と同じ年代に見えるその男は国賓である彼を前にしてもサングラスを外さず、しかもやたらと煙草臭かった。
同席した他の政府官僚たちが青ざめて非礼を詫びてくるのに対し、その男はふてぶてしくも笑いながら何かを告げてきたが、
―― 一体あれは何だったのか。王室専属の通訳者は、なぜか男の言葉を訳さなかった。
「・・・殿下。皇子殿下。聞いておられますか」
「ああ、聞いておる。お前の言い分は理解した、閉幕までは観劇を楽しむふりをするから心配するな」
ここは国王である父の代理として訪れた辺境の惑星の、名を覚える気にもなれない中枢都市の、とある劇場。
連日続いた国賓歓迎のレセプションに飽き飽きしていた彼が、ちょっとした気分転換をしたいと強引に予定を変えて訪れた場だ。
青と白、金色を基調としたシノワズリ風の装飾で統一された館内は、この都市の劇場を代表する豪華さだと聞かされている。
しかし巨万の富を有する王族の一員として生まれ育った彼の目には、どこも下卑た安物で塗り固められた観劇小屋としか映らない。
一般席を悠々と見下ろすバルコニー状の特別席も、幼い頃から真の贅沢に囲まれてきた彼の目をもってすれば、
ここから見下ろしている舞台セットと同等程度の代物だ。
ソプラノ歌手の透明な歌声は、澄んだ響きを保ったままに高音域へと達してゆく。
この都市で最高の音響設備を誇るホールの空気を、心地良く甘美に震わせる。
退屈凌ぎにと一般客席を見下ろせば、聴衆はそれぞれにこの場を楽しんでいるように見えた。
ある者は表情を輝かせて舞台を見つめ、またある者はうっとりを目を閉じ瞑想している。
この星の出身だという見目麗しいプリマドンナは、彼にとっては馴染みのない言語を操りながら頭上を仰ぐ。
胸元で組まれた腕がゆっくりと伸び、観客席を超えた向こうへ差し向けられた。
―― 貴賓席の中央で頬杖を付き、うんざりしきっている彼の方へ。
わざとらしさが鼻につく演出だ。開演前に翻訳機を届けに来た、やたらと媚び諂った態度の舞台監督の仕業だろうか。
「・・・つまらんな。どうせあの女も、昨晩のあれと同じつまらぬ女に決まっている。
余はもっと刺激のある女を欲しているというのに・・・」
――わざわざ侍従長に確認する気すら起こらない。
彼にとってはとりたてて目新しいところもないお決まりの一夜が、今夜も用意されるらしい。
今は舞台上で美声を披露しているあの女性歌手が、深夜には宿泊中の王室御用達ホテルに現れ、一夜限りの夜伽役を務める。
父王の名代として他星を訪れるたび繰り返されている裏行事は、この国の国賓歓迎のレセプションにもその一環として組み込まれているようだ。
心底つまらなさそうに舞台を眺める彼の目に、今朝、宿泊中の貴賓室のテレビで目にした黒髪の歌手がふと浮かぶ。
頭の上で髪を一つに束ねた子供っぽい見た目の女は、肩から提げたこの星の楽器をやけに楽しげに掻き鳴らしながら歌っていた。
なぜその女が目に留まったかといえば、生き生きとした表情が似合う可愛らしい顔立ちが彼の好みだったためだ。
ただし色気はあまり無く、男など知らなさそうな無邪気な様子をしていたが――
・・・そうだ。どうせ同じ星の同じ歌手なら、あれがいい。
母星へ帰って宮殿に戻れば目にする機会もなさそうな、毛並みの変わった安っぽい女のほうが楽しめそうだ。
「・・・うむ、そうだな。今朝の映像で見た歌手がいい。じい、今宵はあの女を呼び寄せろ」
「皇子殿下、どうか御考え直しを。それこそくだらぬ我儘というものでございます。父君の御威光にも関わりますぞ」
「何を言う。余の我儘など、この国を牛耳る、・・・ああ、彼奴らは何と言ったか。天導衆、だったか・・・?
まあ、彼奴らの名などどうでもよい。とにかく余の些細な我儘など、あれと通じている父上の威光があれば容易く通るであろう」
よいな、閉幕までに手配しておけ。
自信に満ちた笑みを浮かべ、皇子はきっぱりと言い渡す。
侍従長は苦い顔をして黙り込んでいるが、彼としてはそこまでの無理難題を押しつけたつもりはなかった。
父王が財政の主権を一手に掌握する我が母星とは違い、この国の財政の根幹は、この星を軍事で制した他星の組織に押さえられていると聞く。
父はその組織を忌み嫌っているようだが、輸出入上では彼等と密な提携を結んでいる。そんな関係性がある以上、父王の名代である自分が何をしようと、
天導衆とやらは大抵のことに目を瞑るだろう。保持しているのが兄に次ぐ第二継承権とはいえ、向こうも王族の機嫌を損ねたくはないはず。
――であれば、余が今宵あの女を部屋へ呼び寄せ好きにするのも、そう難しい話ではないはずだ。何も問題などあるまい。
昨日閨に現れた女も、舞台上のあの女も、テレビで眺めたあの女も、どれも惨めな敗戦国の女。
戦に破れた国の女たちとは、勝利した国に隷属するもの。人間以下の扱いを受けて然るべきものなのだから。
ソプラノ歌手とテノール歌手の掛け合い場面へと転じた舞台を眺めて微笑しながら、彼はゆったりと足を組み変える。
最高級シルクにたっぷりとドレープを寄せた純白の衣装の裾が、しゃらん、と優雅に揺れて流れた。
これまでに訪れたどの星系の、どの星でも同じだった。
敗者は勝者に虐げられつつも媚を売り、どうにか生き残る活路を見出すよりない。
生まれながらの勝者である彼にとっては、今眺めている歌劇のあらすじよりもつまらなくてありきたりな法則だ。
「・・・ですが、殿下――」
暫く口を閉ざしていた侍従長が、重苦しい表情で声を掛ける。
いつも思いつきで物を言う、軽率で傲慢な第二皇子。
その御守り役という難役に任命されている老人は、慎重に言葉を選びつつも迷っていた。
偏狭な見方でしか物事を測れない我が皇子の、何かといえば人を軽視する悪癖をどうにか治して差し上げたい。
これだから老人は、と疎まれるような諫言も敢えてしたいが、・・・しかしここは、他国の警備兵に囲われた場。
見栄っ張りな皇子に人前で恥をかかせることのないよう、やんわりとたしなめるほうが無難に思えた。
「観劇中に申し訳ございません。少々お耳を拝借できませんでしょうか」
「何だ。つまらぬ説教なら耳を貸さぬぞ。余は退屈しているのだ。こんな茶番劇ではなく、もっと刺激に溢れた場を求めて――」
真剣な表情の侍従長に、皇子が馬鹿にしたような笑みを返して、
「――よう、楽しそうなショーだな!俺らも混ぜてくれねえか!」
――そこへ、ホールを突き抜ける男の怒鳴り声が鳴り渡った。
眼下の一般席からだ。
ばんっっ、と場内に数か所ある分厚いドアの一つを蹴り開け、誰かが入ってくる。
余が観劇中だというのにあのような大声を張り上げるとは、何と恥知らずな輩か。訝しげに眉を曇らせ、皇子は観客席後方を見下ろす。
それは一見、空気を読めないただの無礼な闖入者にも見えた。
ホール後部の扉を蹴り開け入ってきたのは、目元を縦に走る長い傷がある凶悪そうな人相の男。
長身で分厚い身体つきをした男は、舞台を目指し通路をまっすぐに進んでくる。
彼の後を追うようにして、場違いな一団が続々と観客席に乱入してきた。
全員がこの国の民族衣装を纏っているが、見ればどの者の衣装にも肩に鋲が打ってあったり、
重そうな鉄の鎖を下げていたりと、どこかしらに攻撃的な装飾が施されている。また、毒々しい色に髪を染めた者の姿も目立っていた。
しかもほぼ全員が武器と思しき鈍器や銃火器、長刀などを携えている。
皇子よりも早くそれらが何なのかを認識した侍従長は血相を変え、老人とは思えない力強さで彼の肩をぐいと引き、
「殿下!早く、早くこの場から御退出を!」
「・・・じ、じい?何だ、何なのだ?これも今宵の趣向のひとつか?それにしては随分と、野蛮、な・・・――」
訳がわからず彼等を眺めていた皇子も、その集団が武器を手にしているとようやく気付き、固唾を呑んで立ち上がった。
それと同時で、鼓膜を突き破りそうな爆音が轟く。オーケストラピットで奏でられていた専属楽団の演奏も、舞台上の美声も掻き消される。
呼吸出来なくなるほどの強い風圧が暴力的に吹き荒れ、きな臭い黒煙がホール中に広がる。
客席からはコンサートプログラムが、オーケストラピットからは楽団員の譜面が、まるで紙吹雪のように宙に舞う。
異常な事態に観客席がどよめきで沸く中、不審な男たちの数は増えていく。
最後に長大な銃火器が持ち込まれ、彼等はそれを数人がかりで通路の最後方に設置する。
鉄製の砲台に据え付けられた鋼色の武器に気付き、皇子は我が目を疑った。
全長3メートルほどの数本の銃を、一つに纏めたような形状の砲身。その口径は、皇子が趣味としている狩猟に使うライフル銃の数倍も大きく――
「・・・・・・・・・な・・・・・なぜ、あのようなものが、ここに・・・・・・?」
光り輝く舞台上へ照準を合わせた、鋼色の銃火器。
・・・・・・信じられない。なぜこんな場に、あのような兵器が持ち込まれているのか。
それとほぼ同じものを、彼は自国の軍事演習で何度か目にしていた。
高速連射で広範囲を銃撃できる、破壊力の高い武器。戦場でも用いられる機関銃――ガトリング砲だ。
「・・・ど、どういうことだ、じい、これは・・・」
放心しきった皇子が尋ねたその瞬間、数人がかりで固定された太い砲身が火を噴いた。
どどどどどどど、と全身に響く重い射撃音が連続で鳴り、金色に光る薬莢がばらばらと周囲に撒き散らされる。
銃口を向けられた観客席に、百を超える数の弾丸が襲いかかる。
椅子や床材が砕かれ破片が宙に舞い、観客たちの血に染まった赤い骨肉や衣服が無残に跳ね散り、
「〜〜〜〜ひ、っぁぁあ!あああぁああ!」
大ぶりな高級アクセサリーで顔回りを飾り立てた派手な女が、慌てて立ち上がったところを標的にされた。
高速連射される弾丸を浴びた全身が、肉や臓器を惨たらしく飛散させながら揺れ躍る。
撃たれるごとに女の喉から狂ったような絶叫が飛び出て、爆煙に濁った空気を切り裂く。
続けて銃撃されたスポットライトの鋭利な破片が舞台へと降り、出演者たちの悲鳴が絶えず上がった。
主演女優の絹を裂くような絶叫が耳を貫く。ついさっきまで美声を披露していたテノール歌手のものらしき、苦しげな呻き声がそれに続いた。
壁面上部から客席を見下ろす前面ガラス張りの音響ミキサー室でも銃声が数回鳴り、がしゃあああんっ、と割れたガラス片がきらきらと瞬きながら客席を襲う。
破片を被った後方席が悲鳴で騒然となり、まばゆかった舞台が突如として暗転。明かりを失くした広いホールが暗闇に沈み、
「おーい聞け、今から十秒時間をやる!死にたくねえ奴は他の奴殺してでも逃げろ!いーち!にー!」
唐突にカウントダウンを始めたのは、最初に入ってきた長身の男だ。酒の飲み過ぎで喉を潰したようなダミ声を、パンッ、と短く銃声が遮る。
銃弾は男が手にした拳銃から発砲されたもので、近くの客席から立ち上がりかけていた男の眉間を一発で撃ち抜いた。
撃たれた男は眉間から血を溢れさせてびくびくと痙攣、どっ、と客席に倒れ込む。
周囲の観客たちは揃って青ざめ震え上がり、椅子や床を深紅に染めながら徐々に動かなくなっていく男の姿に絶句する。
乱入してきた一味の首領格らしきその男は、微かな煙を昇らせる拳銃を眺め下ろして、
「ちっ、撃鉄上がってんじゃねーか」
不快そうな声を唾とともに吐き捨て、何事もなかったかのようにカウントダウンを再開した。
「さーーん!しーー!おらおらどーしたぁ、モタついてる奴ぁ数え終わる前に殺るぞ!ごー!」
撃たれた男の背後に居た若い女は飛び散った血を頭から被ってしまい、目前で起こっているすべてが信じられないといった表情でよろよろと下がる。
床に出来た血溜まりで足を滑らせ、腰からがくんと崩れ落ちる。恐怖に呑まれた震え声で高く叫んだ。
「――きゃああああああぁぁぁ!!」
「あなた!あなたしっかりして!誰かぁっ、誰か夫を助けてぇぇ!」
「ああああぁ!どけ!どけっっウスノロどもっっ、邪魔なんだよっっ」
「やだ、やだやだやだやだぁぁっこわいぃっ死にたくないぃっ」
「〜〜な・・・何なんだこれは、どういうことだ。どうして私がこんな、こんな目に、あぁ、血が、血が、・・・止まらな・・・っ!!」
まるで暴動でも起きているかのような光景だった。
眼下の観客席が、恐怖と混乱と銃声と爆煙、嗅いでいるだけで気分が悪くなる強烈な血の匂いに満ちていく。
表情は固まり血の気を失い、がくがくと膝が震え始めた皇子は、バルコニー状に作られた桟敷席の欄干にしがみついて身体を支えた。
・・・・・・何だ?何なのだ、これは――
暗闇にひっきりなしに響く悲鳴、湧き起るどよめき。
通路や出入口に人の群れが押し寄せ、逃げ惑う人々の叫びと口汚い罵声で溢れ返り、それを嘲笑うかのように無法者たちが観客の群れへ砲弾を放つ。
その着弾音と爆風に次いで、皇子たちが観劇していた貴賓席後部でも銃声が上がり――
「――――殿下!!」
迫りくる異変にはっとした侍従長の姿が皇子の前から消し飛ばされたのは、その僅か数秒後のことだった。
狼 と 踊 れ #01
「――ああ、判った判った!判ったから少し落ち着いてくれねえかなぁ、兄さん!」
平伏せんばかりに頭を下げて地べたに座り込む異国の青年を前に、近藤は困り果てていた。
場所は江戸の中心部、この国で最も由緒正しい大劇場の前。
幕府が定めた国指定の重要文化財でもあるこの施設は、一時間半ほど前に正体不明の侵入者によって乗っ取られている。
館内に居た大半の者は外へと逃げて助かったようだが、確認が取れている限りでも、
数名の死者と数十名の負傷者、そしてかなりの行方不明者が出ていた。正確な人数は不明だが、
館内を占拠した賊の手を逃れて脱出した人数は、劇場側から報告された観客や関係者の総数より明らかに少ない。
相当数の人間が中に取り残されているはずだ。そして時間が経過するほどに、生存者を無事に救出できる可能性は低くなる。
それを考えれば一分一秒もが惜しく、まさに予断を許さない状況だった。
警察庁から出動要請を受けた真選組は直ちに三隊を出動させ、近藤も現場へと急ぎ向かった。
ところが車を降りるや否や、一目でこの国の人間ではないと判る金髪碧眼の青年に必死の形相で縋られたのだ――
「・・・なぁ兄さん、とりあえず泣き止んでくれねえか。
俺ぁ学が無ぇからあんたが何言ってるんだか、さっぱりだがな。それでもあんたが何か必死に訴えたがってるってこたぁよーく判るよ」
せめて目線を合わせて語りかけようと、近藤は苦笑いしながら地面にしゃがみ込む。
続々と到着する救急車のサイレン、パトカーのサイレン、苦痛に喘ぐ負傷者たちの声、混乱する現場を仕切る隊士たちの怒鳴り声。
そんな騒然とした中で思いがけなく足止めされてしまった近藤だが、本音を言えば早く現場へ向かって指揮を執りたい。
だが、――生来が兄貴分気質で頼ってくる者を放っておけない彼は、嗚咽で身体を震わせている憐れな異邦人を見捨ててもおけない。
何とか励ましてやりたい、とも思うのだ。
「我々が来たからにはもう大丈夫だ、だからそう泣くな」
せめてそんなことを伝え、安心させてやりたかったのだが、・・・とある事情からそれが出来ない。
「・・・・・・うーん、こいつはどうしたもんかなぁ・・・」
男臭くて豪胆そうな印象の眉目をへなりと緩めて考え込むが、やはりいい案は浮かばない。
それならせめてもの慰めにと、分厚い掌でぽんぽんと青年の肩を叩いてみた。
――逃げ出してきた劇場内で、余程に恐ろしい思いをしたらしい。
どこか高貴さを感じさせる華やかな容貌の青年は、普段であればさぞ美しいだろうはずの面立ちをぐしゃぐしゃに歪めて泣きじゃくっている。
近藤の脚に子供のように縋り、怪我こそしていないようだが腰が抜けて立てないようだ。
出身国の民族衣装らしき白絹の衣服は事件現場で浴びた血で汚れ、裾がぼろぼろに擦り切れていた。
そんな男に飛びつかれた近藤は最初こそ戸惑ったが、泣きじゃくる被害者の姿が憐れに思えて、ちょっと宥めるつもりで話しかけた。
――しかし宥めるどころか、青年にはまったく話が通じなかった。
美しい唇から流れ出てくる言葉は、聞いたこともない奇妙な発音ばかり。
「悪いが先を急ぐんだ、脚を放してくれないか」などと身振り手振りを交えながら頼んでみても、意志の疎通が計れない。
狼狽しきっている彼はこちらの態度を気にする余裕もないようで、泣きながら一方的にまくし立ててくる――
この必死な様子だけでも、青年の身に深刻な何かが起こったのだろうとは判る。しきりに劇場を指して身振り手振りで訴えてくる仕草から、
こうもなりふり構わず必死になる理由は劇場内にあるのだろう、とも察せられた。
――が、それ以上の事は判らない。地面に突っ伏している金髪の頭を見つめ、近藤はやれやれ、と頬を掻いた。
多数の窓の隙間から煙を漏らしている大劇場をちらりと眺める。
事件発生から一時間半が経過した。その間に多少の情報は入手したものの、事件は未だに不明な点ばかりだ。
犯人たちからの犯行声明や要求等は今のところ無く、何を目的としているのかが判らない賊たちに劇場内は占拠されたまま。
30分前に館内へ突入した隊からの状況報告が徐々に届き始めても、幕府の重臣を狙った過激派組織のテロかもしれない、
という不確定な情報を警察庁から得ても、犯人たちを抑えられずにいる今、現場を取り巻く状況はあまり変わらない。
生存者の安否に直結しそうな情報は、依然として殆どが不明なままだ。
――あの中で今、何が起こっているのか。ホール内に取り残された観客たちはどうしているのか、どんな状況に陥っているのか――
「そりゃあよー、あんたの身振り手振りである程度は判るさ。あの中に何かあるんだろうってな。
だがなぁ・・・言葉が通じねえんじゃ、こっちも事情を知りようが」
「×××××っっ、×××××、×××〜〜〜〜!!」
「・・・って、いやいやいや!何でそうなるんだ、やめてくれよ兄さん!」
「×××××!×××××、×××××っ、×××××〜〜!!」
話の途中で青年が叫び、地面に額を擦りつけて土下座する。ヒステリックに泣き喚きながら同じ単語を繰り返しているが――
まるで弱々しい子犬にくんくんと鳴かれ「見捨てないで」と懇願されている気分だ。はぁー、と近藤は深い溜め息をついた。
ふと煙草の匂いを背後に感じて振り返ると、そこには先に現場の状況を確認しに行ったはずの土方の姿が。
「近藤さん。あんたいつまでそいつに構ってんだ」
煙草の煙を噴き上げながら、鋭い目つきで問い質してくる。一見普段通りにも見える彼の右腕は、実は一時間程前から相当に機嫌が悪い。
なんというか、これは・・・前方は弱りきった子犬、後方は今にも噛みついてきそうな野犬に挟まれている気分だ。
近藤はもう一度、深い溜め息をついた。
「弱ったなぁ。熱意と必死さは伝わるんだがなぁ・・・・・・何が言いてぇんだろうなぁ」
「さぁな。頭の下げ方が足りねぇ、とでも言われてると思ったんじゃねえか」
「つまり、こっちの言い分は全く通じてねえってことか。・・・いやぁどうにかならんもんかなぁ、トシ」
「どうにか出来ると思うか。あんたよりも学の無ぇ俺が」
冷淡に返され、ははは、と近藤は苦笑する。
「判ったから頭を上げてくれ」と土下座を続ける青年の肩を抱き起すと、
「いやぁ困った困った。今日は特別講演で観客はお偉方とその関係者のみらしいし、
・・・この兄さんもなぁ。身なりからして、どうも身分の高い御仁のようだが」
「んなもん放っときゃいいじゃねえか。・・・ちっ、まだ泣いてやがる。泣きゃあどうにかなるとでも思ってんのか、役立たずの腰抜け野郎が」
「トシぃ、お前もなぁ・・・・・・気持ちは判るが落ち着いてくれよー」
近藤が呆れ気味に言い、立ち上がって土方の肩をぽんぽん叩く。
すると土方はむっとしたらしく、涼しげな切れ長の目元をびくりと引きつらせた。地面の一点を睨む表情に、じわじわと殺気が漲っていく。
キレたときの彼の恐ろしさをよく知る隊士たちがこぞって震え上がりそうな顔つきになり、
「・・・あぁ?何だそりゃあ。俺ぁいつも通りだろうが」
「いやぁそうは見えねーぞ。お前あれだろ、さっきのあれが面白くねえってんでイライラしてんだろ?
だがよー、だからって何の罪も無ぇ被害者に当たるのは」
「うっせえな、別に当たってねえよ!」
と、煙草を投げ捨て怒鳴る土方を前にして、近藤は気にした様子もなくくすりと笑う。
ほらな、図星じゃねえか。感情剥き出しで怒鳴るその面、どう見たっていつも通りには見えねえぞ。
心中でそう告げながら泣きじゃくる青年に肩を貸しているうちに、土方は自分が冷静さを欠いていたことに気づいたらしい。
不貞腐れた顔で地面を睨みながら煙草の箱を取り出して、
「・・・それはともかくまぁ、あれだ、そこまで気を揉む必要はねえだろ。
あんたの見立て通りにこいつがどこぞの御曹司なら、じきに関係者が拾いに・・・、」
報道陣や野次馬がわらわらと詰めかけている劇場の門前では、駆けつけた消防隊が消火準備に当たっている。
そちらへ視線を伸ばした土方が、何かに気付いて眉間をひそめる。
涙で濡れた青年の顔をいまいましげに見下ろして、
「・・・フン。この腰抜け、どうやら予想以上の賓客らしいな」
「賓客?この兄さんがか?」
どうして判ったんだ、と近藤が目を丸くしたところで、見覚えのある黒の高級車がこちらへ直進してきた。
「 狼と踊れ #01-1 」
Caramelization *riliri 2013/09/16/ next →