「――・・・・・・んふ、っっ、んっ、・・・・・・ぅ、く、んんっ・・・・・・」 呼吸すら許さないとばかりに深く潜った口内に、侵入してきた男の舌を拒もうとするような 甲高い喘ぎ声が切れ切れに広がる。苦しそうな表情で繰り返されたその抵抗を捻じ伏せようと、 土方は腕の中でもがく女の背中が反り返るほどにきつく抱きしめた。 大人しくしてろ、と言い聞かせるつもりで小さな頭の後ろを掴み、 隅々まで知り尽くしている身体の弱い部分ばかりを狙って責める。 蕩けそうなやわらかさの粘膜を舌先でなぞれば、彼を拒もうとしていたはずの口中は びくん、と舌を震わせた。これまで何度も繰り返されて覚え込まされてきた快感に、 感じやすい彼女は逆らえなかったらしい。ふぁ…とせつなげな吐息を漏らしたの手が、 土方に救いを求めるかのような弱々しい仕草で隊服の袖に縋りついてくる。唇を僅かに離してやれば、 腕の中の華奢な身体はぐったりと力を抜いて腕に凭れかかってきた。 「・・・・・・ひ、じか・・・・・・さ・・・・・?」 とろりと濡れた紅い唇がかすかに開いて、息苦しそうな吐息混じりに彼を呼ぶ。 そんな声にすらぞくりとさせられた土方が熱を帯びた視線を注げば、 暗闇でも輝く大きな瞳に何か言いたげに見つめられた。 ――またこれか。 もどかしそうな苦笑いに口端を歪めた彼は、薄紅色に染まった頬にそっと唇を落としてやる。 ――恥じらいや恍惚、不安や期待が複雑に入り混じったのまなざし。 濡れたような輝きを放つ瞳が、男を誘うように揺れている。だがこれもどうせ、こいつにとっては無意識の媚態だ。 彼女を内側から苛む熱を土方の手でどうにかしてほしいと、素直で頼りなげなまなざしは 無意識で彼に強請っていた。そんなまなざしで見つめられてしまえば、たとえ無意識と知ってはいても心は躍る。 この表情を眺められるのは――にこんな顔をさせられるのは、俺だけだ。 そう思えば独占欲まで満たされて、弾む鼓動をさらに高鳴らせるような嬉しさが背筋をぞくぞくと這い上がった。 「・・・っ。ぁ。あの・・・・・・見張り・・・は?みはり、しなぃ、と」 「あぁ。後でな」 「あ、あとで、って」 「どうせ浪士共は呑んだくれてんだ、少しくれぇ目ぇ離したって構わねぇだろ」 「でも」とは恥ずかしそうに言いかけたが、そんな彼女の言葉を遮るようにして唇を塞ぐ。 歯列を割って熱い口中へ潜り込み、女の舌を絡めとる。するとも観念したのか、そこから後は 口内のどこを可愛がってやっても鼻にかかった甘い声ばかりこぼすようになった。 くちゅ、ちゅ、くちゅ、とひそやかで艶めかしい水音に混じって頭の中に響き渡っているその声を、 土方はまるで夢の中にいるような、現実味のないぼうっとした気分で聞き流していた。 自然と彼女の頬を撫でていた手が、いつのまにか肌を這い降りていく。 首筋を滑った指先が着物の衿の併せ目を勝手に辿って、薄い色合いの生地の上から膨らみに触れた。 するとそれまでは彼の胸に凭れて甘い吐息を漏らしていた身体がびくっと跳ねて、 耳まで真っ赤に染め上げたが「ひぅぁああああ!」と鼓膜に突き刺さる高音で叫び、 「ひ、ひじかたさっ、まって、まっ、ちょっっ、聞いて、聞いてる!?」 「あぁ聞いてる。聞いてるが待てねぇ」 「〜〜っ!ゃ、まっ、〜〜んっっ、っ」 徐々に荒くなってきた呼吸の合間に断言して、濡れた柔らかい感触に食らいつく。 布越しに感じる瑞々しい弾力に直に触れてみたくなり、膨らみを閉じ込めた襦袢の縁からゆっくり指先を滑り込ませていった。 「――っ、〜〜こんな、ところ、で・・・・・・っぁ、だめ・・・っ、っふ、んんっ・・・」 (――おい、やめておけ、何をとち狂ってやがる、張り込み中だぞ――) 思考のどこかから別の自分が強い口調で制止してきたが、そんな指令も間に合わない。 急激に温度を上げて滾り始めた衝動のほうが、一瞬早く彼の身体を乗っ取っている。 いつになく制御の効かない自分がどうにも滑稽で、土方はと深く重ね合せた唇を こらえきれなかった笑みに緩める。 ひさしぶりに手のひらに収めたやわらかい感触を、指先でゆっくりと弄ぶ。 不安そうな涙目を向けてくる少女のような顔と目が合えば、その物慣れない様子がたまらなく可愛くなって、 もっと困らせてやりたくなる。やだ、と拒む吐息混じりでか弱い声にも煽られて、指の動きは止められなくなった。 胸の奥では心臓が徐々に鼓動を早めていき、手足の先までどくどくと沸騰した血を巡らせていく。 全身を駆けるその音を感じていると、まるで早くを抱けと身体に急かされているようだ。 ――もう何度味わったかもわからない、この感覚。 初めて彼女の唇を奪った日から幾度となく陥ってきた、このどうにも自分らしくない鼓動の高鳴り。 これを否応なく感じさせられるたびに、が俺にとっていかに特別なのかを思い知らされる。 ――ああ、そうだ。まったくどうかしている。 どんな女に触れようが心臓の片隅さえ震わすことがなかった奴が、今はこいつに口付けただけでこのザマだ―― 「――・・・・・・っ!」 女の肌のやわらかさや甘い香りに埋もれかけていた土方の意識が、急に何かに反応する。 背筋を電流のように一瞬で通過していったその感覚にはっとして、彼は反射的に目を見開いた。 いつのまにかの肌を滑り降りていた唇が春物の薄い着物地を噛んで肌蹴けさせ、 まっしろな膨らみを包んだ淡い色の下着を引き下げようとした寸前だ。耳慣れた機械音が、 頭の中を繰り返し突き抜けている。 連続したブザー音だ。この部屋の中で――いや、ごく間近で鳴り響いている。 鳴っているのは着信を知らせる音。目の前で頬を赤らめ固まっている女のものではなく、自分のものだ。 隊服の内側へ手を差し込み、そこへ仕舞い込んでいた携帯を取り出す。 ぶるぶると小刻みに震え、低めな音を鳴らし続けている液晶画面の隅に表示された時刻は、10時27分。 その数字を目にして一挙に現実に引き戻され、火照りきった頭が冷えていく。 間もなく10時半――料亭にいる連中のアジトを張っている監察に、状況報告を入れろと指定した時間だ。 「・・・。定時連絡だ」 液晶画面を睨んだままで気まずそうにぼそりと告げると、彼はの腰へ回した腕を解いた。 密着していた身体を放してやり、赤らんだ顔を隠したがっているのか、 恥ずかしそうに口許を覆って深くうつむいたままの女の頭を撫でてやる。 それから乱れた髪越しに、色づいた耳へ唇を落とした。 甘い香りを漂わせる耳たぶに触れただけで、やわらかい肌が微かに震えたのが伝わってくる。 土方は名残惜しさに後ろ髪を引かれながらも、渋々で彼女に背を向けた。ようやく監察との通話に専念したのだが―― ――その30分後。 「・・・わからねぇ。心底わからねぇ。っっっとに何考えてやがんだこいつ・・・!」 くー、くー、くー。 真下から立ち昇ってくる健やかそのものな寝息を耳にしながら、顰めた眉間を抑えた土方は悔しげにぶつぶつと漏らしていた。 一体何しに来やがったんだこいつは。俺を休ませるつもりで来た奴が、なぜ俺そっちのけで眠りこけてやがるのか。 山崎からの電話に出て、煙草一本を吸いきる程度の時間を情報交換や打ち合わせに費やし、 そろそろ切ろうかという頃に別の奴からの着信が入って――別件を捜査中の八番隊隊長に幾つか細かい指示を出し、 その直後、今度はへべれけに酔っ払った警察庁長官、松平公から馴染みのキャバクラへ同行しないかとの お誘いが入り――結局彼は、すべての通話を終えるまでに30分近くの時間を要した。 しつこい上に頭痛がするほど声がデカい親父を宥めすかしつつも強引に通話を終了させ、 「お前さっさと帰れ、枕も持ってけ」と振り向いた時には、 彼を眠らせに来たはずの女はこの体勢ですやすやと心地良さげに眠っていた。 腕には土方のために屯所から持ち出したはずの枕をきゅっと抱きしめ、 着物の裾からすらりと伸びた脚線は、惜しげもなく彼の眼前に晒されている。 ころんと畳に寝そべる様子や、唇を半開きにした無防備な表情はあどけなくもあるのだが、 時折寒そうに柔らかな太腿を擦り合わせたり、んん…、とか細い声を漏らしては眉をひそめ、 頬や胸を枕に押しつけむにゃむにゃと寝言をつぶやく女の仕草は、子供のような寝姿に反した色香を放って艶めかしい。 ――呑気なもんだぜ、この野郎。人の気も知らずに見せつけやがって。 もやもやとした不満を判りやすく露わにした表情で、眠るを恨めしげに眺める。 それでも彼女の寒そうな様子が気になり、土方は例のガキっぽいうさぎ毛布を掛けてやった。 今の彼の目には毒にしかならない女の素足を浮かない顔つきで覆い隠してやってから、 使い終わった携帯電話を乱暴に弾いて二つ折りに畳む。 だが――畳んだ瞬間にあることに気付き、すぐさま携帯を開き直した。 「――」 畳む直前に偶然目に入った、液晶画面のとある表示。 普段はあまり気に留めることもない上部の文字を数秒見つめ、また携帯を操作する。 通話履歴から呼び出したのは、おそらく今日は屯所にいるだろう近藤の携帯の番号だ。 通話のボタンをぴっと押せば、思った通りに数コール目で繋がった。 繋がった瞬間から、窓の外の繁華街に負けない賑やかさの騒音がわっと耳に飛び込んでくる。 音の鳴り響き具合がやたらと近い。どれも近藤の傍で鳴っている音のようだ。 まるで近藤の元に大勢が集まり、あれこれと話し合いながら皆で何かやっているように聞こえた。 『――おうトシ、お疲れさん。どうだそっちは』 そう尋ねてくる近藤の口調や声音は、普段と何ら変わりのないおおらかさだ。 しかし彼が「トシ」と口にした瞬間から、周囲のざわめきは半減していた。 近藤さんの一声で電話の相手が俺だと気付き、日頃から大きく騒がしい自分たちの声が 携帯のスピーカーに拾われないようにと、あわてて声をひそめたのだろう。 「こっちは特に変わった動きはねぇ。近藤さん、聞きてぇことがあるんだが」 『んー?何だって?悪い、後ろがうるさくて聞こえづらくてな。あぁそうだ、はそっちに着いたかぁ? あいつ何を思ったんだかお前の枕抱えて飛び出して行っちまってよー』 足が速すぎて止める暇もなかった、と近藤は手許で何やら がさがさと音を立てながら、可笑しそうに笑う。 「あれならさっき着いた」と障子戸の隙間から料亭を見遣りつつ答えると、土方は淡々とした口調で切り出した。 「それはいいがあんた、今年もまた何か企んでるのか」 単刀直入に尋ねれば、電話の向こうの気配が一瞬固まる。 しかし間もなく『そうか、今年は気付いちまったか』と悪びれるふうもなく返され、 土方も苦笑しながら「ああ」と答えた。近藤の話に耳を傾け、眠る女の小さな頭を撫でてやりながら 通話相手に相槌を打ち、張り込み現場の状況を簡潔に報告してから携帯を閉じた。 それから毛布に包まれすやすやと眠る呑気そうな女に目を戻せば、普段は厳しいその表情に 自然と和らいだ笑みが浮かぶ。煙草くさいだ何だと文句ばかりつけられていた彼の枕は、 の胸にしっかりと、後生大事そうに抱きしめられていた。 まるでこの枕が俺の身代わりにされているようだ。 そう思えば悪い気はしないし、何か収まりの悪い、ぎこちない嬉しさも湧いてくる。 眠るの表情もより可愛く思えてきて、いつのまにか眠っていた女に肩透かしを食らって 行き場をなくしていた虚しい気分も、自然と薄らいで身体の中から消えていった。 『そうか、今年は気付いちまったか』 眠るを見つめるうちに、さっき聞いたばかりの近藤の声が頭の隅から蘇ってくる。 今年は、などと近藤が口にした理由。 それは、去年も、その前も――あまり記憶がないが、おそらくはそれ以前も―― 近藤が何やらあやしい動きを見せるこの日が目前に迫っていることを、ここ数年ほど決まって失念していたせいだ。 そして今年も例年に違わず、彼はすっかり失念していた。 例年通りに任務の忙しさに日々追われ、忘れていたのだ――明日が何の日なのかを。 携帯画面に表示されている今日の日付が目に入らなければ、たぶん明日の夜まで気が付かなかっただろうが、 何気なしに目にしたそれのおかげであらゆることが腑に落ちた。 ――思い返してみれば、何ということもない。 今日のの行動は、こいつを抱きしめる前にも思い浮かべたあの認識から一歩たりとも外れてはいない。 時折飛び出すの突拍子もない行動。唐突すぎていつも理解に苦しまされる、彼女の奇行の原動力。 そこには基本的に悪気や害意というものがほとんど含まれておらず、大方が ――いや、必ずといっていいほど、彼女がいつも周りの奴等に惜しみなく与えている、 純粋な善意や好意によって発生している。 そんな彼女の純粋さに誰より近くで触れてきて、この呆れるほどお人好しな女の好意を 誰より多く受け取ってきた奴が俺だろう。そう、何も今に始まったことではない。 こっちはこいつに何かしてやった覚えなどないのに、それでも何度も、何度でも――は笑顔で差し出してくる。 細い腕の中からこぼれ落ちそうなほど抱えている思いを、少女のようなひたむきさを、こうして惜しみなく与えられて困惑する。 そんなことも別に、今に始まったことではないのだが―― だというのに、この単純なからくりを必要以上に複雑に捉えた俺は、女の行動の突拍子もなさに頭を抱えて唸っていた。 「・・・何が昼寝含めて八時間寝た、だ。近藤さんが言ってたぞ。 午前から酒だのつまみだの買いに走り回って、その後も準備で屯所中走り回ってたそうじゃねぇか」 この馬鹿が。非番の日くれぇゆっくり休んどけって、今朝言い聞かせたばかりだろうが。 毒気の抜けた穏やかな声でそんな悪態を吐きながら、眠る女の前髪に触れる。 彼女が目覚めることがないように注意しながら、白い額をそうっと撫でた。そこにはらりと 乱れかかっていた髪は、指先で梳きながら耳のほうまで流してやる。 「――ったく、毎回振り回しやがって」 笑い混じりに土方はつぶやき、眠る女の顔の横へと腕を突く。 に覆い被さるようにして上半身を倒して迫り、心地よさげに閉ざされた瞼にほんの一瞬唇で触れた。 子供のような寝顔を見つめるうちに、ここへ来てからの彼女の姿が目に浮かぶ。 屯所に帰れだの、ここで寝ろだの、どうにか俺を狙い通りに動かそうと こいつなりの策を講じていたようだが――馬鹿のくせにやるこたぁ妙に遠回しっつーか、回りくどいんだよ。 だから話がややこしくなるんじゃねぇか。 「つーか・・・馬鹿なりに仕組んだつもりらしいが、穴だらけなんだよ。 何が帰れだ。こんなもんまで抱えてきたんだ、お前、ハナから俺が帰らねぇと踏んできやがっただろう」 もし俺が真に受けて屯所に戻っちまったら、どうするつもりだったんだ。 心中でそう問いかけながらくすりと笑った土方は、どことなくぎこちない顔つきで瞳を細めた。 ふと思いつき、火の粉が飛んで焦げ跡が出来たほうの袖を捲ってみる。 じっと目を凝らした女の素肌に、やはり火傷らしき跡はない。 先刻も確かめているのだから当然といえば当然なのだが、それでもどこかに跡が 残りはしないかと通話中も気にしていたのだ。着物の袖を元に戻しての頭を 無造作に撫でると、次に土方は、細腕の中に閉じ込められている自分の枕を少しずつ引っ張り始める。 やわらかい感触に縋りついて眠る女の胸元から、ぎゅうぎゅうと抱きつかれ温もった白い塊を抜き取った。 を起こさないように慎重に引き抜いたそれと、未だあどけない女の寝顔。 その両方を見比べるうちに、彼はが自分の部屋で夜を過ごすようになった当初のことを思い出した。 ――あの頃。風呂上りの浴衣姿でおずおずと、今よりも幾分緊張した面持ちで 副長室に顔を出していた彼女は、いつも自室から持ってきた枕を抱えて所在なさそうにうつむいていた。 (枕が変わると眠れないんです。) 赤らめた頬や落ち着きのない表情を抱きしめた枕の影に隠し、ぎこちなくそう言っていたは、 今でも自室から枕を抱えて俺の部屋へやって来る。おそらくそんな自らの習慣のせいで、 これがあったほうが俺が熟睡できると思い込んだのだろう。だがそれは まったく的外れな思い違いだ。 自分を取り囲むどんなものにも愛着を持っていそうなと違い、こっちは 身の回りの物に大した拘りがあるわけでもない。それに――週の半分は 床を共にしているのだ。そろそろ気付いてもよさそうなもんだが―― 昼夜問わず俺の様子を目にしているはずのこいつは、どうしてか気付かないらしい。 俺を眠らせようというなら、枕で釣るよりもっと確実で効きの良い方法があることに。 しかもそれが、ほかの誰でもなく、自分にしか出来ねぇ芸当だってことにも―― 呆れ混じりな思い出し笑いに表情を緩めつつ、健やかな寝息を立てる頬を指先でくすぐるように撫でてやる。 こいつと共に過ごすようになった最初は、こうしているだけで不思議な気分に陥った。 寝顔を眺めながらこのやわらかさに触れているだけで、味わったこともない甘ったるい気分で胸が 満たされていくのが不思議だった。今でも時折不思議になるが、 なめらかな素肌の温もりを確かめるうちに、そんな疑問も忘れてしまう。 「俺の隣じゃ緊張して寝付けねぇだのと泣き言吐いてた奴が、今じゃすっかり馴れたもんだな。 毎晩毎晩、呆けた面見せやがって・・・」 すやすやと安心しきった表情で眠る女の頬を、彼はやんわりと抓ってみた。 すると、ふにゃぁ、と仔猫のような寝惚け声を漏らしたが、うぅ、ときつめに眉を寄せて、 「・・・・・・もぉ・・・ぃたいれす、よぅ、ひじか・・さぁ・・・」 静かな寝息を漏らしていた唇が閉じられ、むずかる幼い子供のような、 拗ねて甘えているような声が女の唇からこぼれてくる。 掛けられた毛布の縁を握りしめ、もぞもぞと身じろいで身体を丸くする姿を 険しさの抜けた目で眺めてから、土方は斜向かいの料亭に肩越しの鋭い視線を向けた。 現場の状況に変化がないことを確認すると、繁華街の薄赤い光が射し込むだけの暗い室内を見回す。 それから畳に横たわる女の身体を抱き寄せ、隊服の胸元に凭れかからせる。不要になった枕は、座卓のほうへ押しやった。 せっかく持ってきたのにと、目覚めたらこいつは拗ねるかもしれない。 だが、こんなもん俺には用無しだ。これを持ってきた女のほうには 自分でも呆れるほど執着しているし、目も当てられないような独占欲を晒すこともしばしば有るが、 枕なんぞに大した執着は持ち合わせていない。だってあれにもう用は無いだろう、所詮は身代わりなのだから。 それに――代用品なんぞにしがみつかずとも、どうせこいつの夢に登場中の俺が あれこれと、目も当てられない独占欲丸出しで構っている頃合いのはずだ。 そう思ってどことなくむず痒い充足感を覚えたのと同時で、眠気がどっと押し寄せてくる。 腕の中に収まっているの身体が温かく、やけに抱き心地がいいせいだ。 肩に凭れた女の素肌は嗅いでいるだけで目を閉じたくなるような甘い香りを立ち昇らせているし、 やわらかな胸からはとくとくと、弾む心音が伝わってくる。消えそうに儚いその音と健やかな寝息に 耳を澄ませば、他の何もかもがはるか遠くで起こっている朧げな出来事のように感じた。 窓を隔てても肌で感じる、深夜の街に息づき蠢く得体のしれない生物のような喧噪も。 この界隈へと接近しているらしい、けたたましい救急車のサイレンも――どういったわけか、 耳元で穏やかに繰り返される女の寝息と重なれば、どれもぼんやりと霞んだ響きに聞こえてしまう。 おかげでじわじわ眠気が増して、うっかり欠伸まで漏らしそうだ。 何も知らずに眠るを横目にしながら土方は小さく肩を揺らし、声もなく微かな苦笑を浮かべた。 ――最近、朝が来て目が覚める瞬間が前よりずっと楽しみになった。 真新しくてやわらかい陽射しを浴びながら、夢見心地で微睡む短い時間。 ぼんやりと薄目を開けてみればいつもそこに広がっているのは、最近ようやく見慣れてきた光景だ。 物が少なく置かれた家具も最小限、目を楽しませるような彩りなど皆無で、殺風景なまでに整頓された室内。 部屋の主の愛想知らずで生真面目な性分をそのままに映した部屋の中で、 まだ抜けきっていない眠気にうとうとしながらも、いつもは微笑みを浮かべて 開けられた障子戸の向こうを眺めていた。 朝に弱いと違って早朝に起床するこの部屋の主は、徹夜続きで疲れている時以外は 道場での朝稽古を欠かさない。早朝の稽古も日課なら、稽古後に身支度や着替えを 済ませてから縁側で一服するのも日課らしい。天気が良ければ 縁側に面した障子戸は大抵開けられていて、ちょうどが目覚める頃には 縁先に座り細い煙を空へ昇らせている男の背中がそこにあった。 穏やかで静かな朝の空気と煙草の匂いを感じながら、布団に残る好きなひとの温もりに包まれて ぼんやり眺めるまばゆい景色。 最近ようやく慣れ始めたこの部屋の朝の風景が、はとても好きだった。 土方がこちらに気付いて振り向き、「おう、起きたか」とか「いつまで寝てんだ」などと、 低めな声音の素っ気ない朝の挨拶を投げ掛けてくれると、それだけで胸の中まで温かくなって 幸せな気分に満たされる。もちろん、気付いてもらえなくても幸せな気分になれる。 土方に片思いしていた時から、にとってひそかに彼の背中を見つめていられる時間は幸せだった。 今だって毎日のように胸を高鳴らせているし、隊服を纏ったあの背中を追いかけて歩くだけで嬉しくなる。 けれど朝に眺めるこのひとの姿は、片思いしていた頃には遠目に眺めることすら叶わなかった特別な姿だ。 庭の緑や早朝の空模様を眺めながら思索に耽っているようなあの姿は、 真選組の任務に没頭している昼間の土方とはすこし違う。鬼の副長と呼ばれる男が 常に身に纏っている張りつめた空気も、起き抜けだけは和らいでいるというか、 昼間に比べて若干緩みがあるようだ。隊服の上着や首元を覆う白いタイがいつも傍に投げ出されているのも、 その「緩み」の表れのような気がするし、シャツの釦が一つ二つ外れたままだったり、 たまにはベストを着ていなかったりと、身支度が完璧に整っているわけではないところもそうだ。 よく眺めれば、縁側に座る男の姿のあちらこちらに点在しているその緩み。 それは、実は隊服の堅苦しさを苦手としているらしい土方が、こうした朝のひとときだけは、 日頃の難しい役目も忘れて素の自分に戻っている証拠のようにには思えた。 近藤や沖田、それから屯所設立時からの古参の隊士など、警戒心の強そうな土方が 気を許している、ごく一部の人間しか知らなさそうな彼の姿。 そんな姿を目にしながら副長室で朝を迎えるたびに、は好きなひとの傍にいられる幸せを実感する。 あまりに幸せで、幸せすぎて――時折不安になるほどだ。 こんなに穏やかで夢のような時間を、自分のような過去を持つ娘が手に入れてもいいんだろうか。 そう感じて胸が痛むこともあるけれど、いくら胸が痛んでも、この先どんな苦しい思いをしても、 この幸せをもう手放したくないとも思う。 好きなひとと一日の始まりを迎えられる時間。誰より大切なひとの姿をこっそり独り占めしていられる、贅沢な朝。 何度も冷たく突き放されて、それでも土方を諦めきれなくて、夢の中でも目覚めてからも泣いていた頃には 思いもしなかった朝の景色が目の前にある。 まさか自分がこのひとの傍で、こんなに幸せで優しい時間を迎えられるようになるなんて思わなかった。 ――もっとも、そんな幸せと布団の温かさに浸っていたらついつい寝坊してしまい、 時間に煩い鬼の副長に酷く怒られたり、開けられていたはずの障子戸がいつのまにか閉ざされ、 気づけば傍へ来ていた土方に頬を撫でられ口付けられたり、下手をするとその前日の夜に 褥の中で求められたことの続きが始まってしまったりと、土方に思いを受け入れてもらう以前には 考えもしなかった、片思い中とは別の意味で大変な朝になることもある。 けれど「とっとと起きろ!」と大声で怒鳴られ怖ろしい形相で布団を剥がされても、逆になかなか 布団から出してもらえなくて困る日があっても、それだってどこか楽しく思えてしまうのだ。 目覚めればいつもの煙草の匂いを近くに感じて、土方が当たり前のように傍にいてくれる朝。 苦しい思いや泣きたい思いをたくさん重ねて、誰にも言えない辛い夜をたくさん過ごして―― 一度は生きることすら諦めたが辿りついたその夜明けは、彼女にとっては他の何にも替え難い幸せの象徴だった。 目覚めの瞬間から好きなひとの温もりを感じられる朝。晴れていても曇っていても心は光に溢れていて、 目にするすべてがきらきらと輝いて見える朝。 先に起きている男に「おはようございます」と寝惚けた顔で笑いかけて、ああ、だとか、おう、だとかの 短くて素っ気ない言葉を返してもらえる満ち足りた瞬間―― だから――最近ようやく慣れてきたそんな朝を、明日も二人で迎えたいと思ったのだ。 だって明日は、特別な日だ。誰より早く土方さんに「おはようございます」の挨拶をしたいし、 誰より早くその言葉を伝えたい。あのひとはどんな顔をするだろう。 皆の話によると土方さんは毎年のようにその特別な日を忘れているらしいし、 『あの様子ならきっと今年も忘れてるぞ』と近藤さんも太鼓判を押していた。 だったら――滅多なことでは驚かないあのひとの、驚いた顔が見られるかもしれない。 それとも「そういやぁ今日だったか」なんてどうでもよさそうに言って、 いつもと同じように稽古着に着替えて道場へ行ってしまうんだろうか。それとも、それとも―― そうやって土方の反応を想像するだけで明日の朝が楽しみで仕方なくなって、 徹夜明けの疲れも吹き飛んでしまったは、一睡もしないまま明日の準備に奔走した。 けれど、困ったことが起きてしまった。寝不足のせいで腫れぼったい目をこすりながら、 こっそり大広間に籠って明日の準備をしていた昼過ぎだ。 土方が急遽現場の見張りに行くことになったと近藤から知らされ、 彼女がひそかに立てていたささやかな計画は変更を余儀なくされてしまった。 知らされた時はさすがにがっかりしたけれど、落ち込んでばかりもいられない。 その日が来るのは年にたった一度、明日だけだ。明日を逃せば、片思いしていた去年までは 叶うはずがない夢だった「特別な日のささやかな楽しみ」だって、一年も先送りになってしまう。 (・・・そうだ、張り込み現場に押しかけてみようかな) 最初に浮かんだその方法は、そう悪い思いつきではない気がした。 だけどよくよく考えてみれば、あまりいい思いつきでもなかった。 運が悪いことに、今日は非番の日だ。非番のあたしが命令を受けてもいないのに 張り込み現場に顔を出せば、あのひとは変に思うだろう。冷たそうな態度に反して、 優しいところのある人だ。自分だって徹夜続きで眠れていないくせに 「徹夜明けの奴は帰って寝てろ」なんて言って、あたしを追い帰そうとするかもしれない。 でも、今夜は一緒にいたい。一緒にいたい理由があるから。そう言ってしまえたらいいのだけれど、 困ったことにそれはまだ言えない。あたしが理由を言わなければ、あのひとはもっと不審がるだろう。 そういう土方さんは何度も見てきたから、想像するのは容易かった。何がしてぇんだお前は、と 煙草を燻らしながら眉をひそめて尋ねてくるときの、怪訝そうな顔つきが目に浮かんでくる。 でも、それでも一緒にいたい。怪しまれても一緒にいたい。 去年は皆で土方さんを囲んで過ごしたし、それはそれでとてもいい思い出だ。 でも、今年は去年とは違う。 土方さんの傍にいることを許してもらってから、初めて迎えるその瞬間だ。 だから同じ場所にいたい。同じ場所で張り込みのお手伝いをして、 いつも忙しいあのひとの役に立てたらもっと嬉しい。行けばたぶん怒られるけれど、 何かと厳しくて気難しい上司に頭ごなしに叱られるのには慣れている。怒られたっていいから一緒にいたい。 (そうだ、怒られたっていい。何か適当な理由を作って現場に行こう。) 折り紙を切って作ったカラフルな紙の輪をひたすらに糊で繋げながら 心の中でああでもないこうでもないとつぶやき続けていたは、迷った挙句にそう決めた。 決めた瞬間に立ち上がり、止めようとしていた近藤の声すら耳に入らないまま、 自分でも意外なくらいに軽い足取りで副長室を目指して走った。主が不在なその部屋から 枕をひとつ持ち出すと、自室で私物をバッグに詰め込み、気付いたときには 屯所を飛び出し駅へ向かって駆けていたのだ。 ただ、早く土方の顔が見たくて。彼の隣で、誰よりも近くで、その瞬間を迎えたくて―― ――ぷるるるる、ぷるるるる―― 「――・・・・・・ん・・・・・・うぅ・・・?」 聞き覚えのある音が鳴っている。知っているメロディーだ。 それから、ぶるるる、と何かを小刻みに震わせているような振動音。 どちらも聞き慣れた音だ。そう、この音は ―― 携帯のアラームが鳴ってるんだ。 ゆるゆると薄目を開けながら、はぼんやりと思い出す。 寝不足なせいだろうか。ぼうっと熱を持った頭の芯が腫れ上がってるみたいな、 高熱を出したときにも感じる、ちょっとおかしな感覚がある。 おかげで頭がぼんやりしてすごく眠い。眠たすぎて目を開くだけでも億劫だ。 すぐ近くから、煙草のほろ苦い香りが漂ってくる。すごく近くだ。どうしてこんなに近いんだろう。 ・・・アラームが鳴ってる。どうして鳴ってるんだろう。 ああ、そうだ、たしか――そう、電車だ。旅籠へ向かう電車の中で携帯を出し、 うきうきした気分でアラームをセットしたことを思い出す。 セットした時刻は、23時50分。日付が変わる10分前に鳴るように設定した。 もしうっかり眠ってしまっても、数分前には必ず目を覚ましていられるように、って―― 「・・・っ!」 肩のあたりを覆っていた重たいものを、ばっ、と高く跳ね上げる。 意識をゆらゆらと揺蕩わせていた眠気の波が一挙に引いて、あわてては飛び起きた。 ぱちぱちと瞬きしながら目を見張ったのは、見覚えのある暗い室内。 ついさっきまで彼女の肩を覆っていた真っ黒な隊服の上着、畳に転がるコーヒーの缶。 脚を覆っているふわふわした毛布、忙しなく色を変える蛍光色のネオンが射し込む窓辺、 そこに置かれた煙草の箱と双眼鏡。障子戸の隙間から流れ込んでくる 繁華街の煩雑な賑やかさや、威勢のいい呼び込みの男たちの声が途切れ途切れに耳に届く。 ここは――電車に乗ってやって来た旅籠。料亭にいる浪士たちを見張る張り込み現場だ。 その張り込み現場でなぜか土方にキスされて、張り込み現場なのになぜか抱きしめられて、 いろんなところを撫でられるうちに頭も身体ものぼせ上がって、いつ触れられても熱く感じる あの手の動きに逆らえなくなって――首筋や胸元まで唇を這わされあっというまに着物まで肌蹴られ、 心臓が破裂しそうな思いをさせられていたところに、定時連絡の電話が入ったのだ。 そこまでは覚えているけれど、そこから先の記憶がない。 どことなく不機嫌そうに通話している男の涼しげで整った横顔をちらちら盗み見ていたことと、 「こういう時ってどんな顔して待ってたらいいの!?」と困り果てて泣きたくなったこと、 ふと下を向いたらブラが丸出しになっていて土方の背後で「〜〜っっっ!!?」と 声にならない悲鳴を上げたこと、気が遠くなるような恥ずかしさのせいで 顔中を茹で蛸のように赤くしながら、乱れた着物をあたふたと直したことなんかははっきり覚えているけれど、 「〜〜っって、そうじゃなくてぇぇぇ!アラームでしょアラームっっ」 再び茹で蛸のように沸騰してしまった頬を覆い、裏返った声では叫ぶ。 携帯は何分くらい鳴り響いてたんだろう、ひょっとしたらもう日付が変わってるかもしれない。 音が響いている方向を探しておろおろと周りを見回せば、 携帯を半分はみ出させている自分のバッグが窓際でかすかに震えていた。 手を伸ばせば届く近さだ、すぐにそちらへ乗り出そうとしたのだが――

「 すべての夜とすべての朝に #2 」 text by riliri Caramelization 2016/06/12/ -----------------------------------------------------------------------------------       next →