「――・・・っだ、煩せぇなぁ・・・・・・、電話か・・・?」 「あっはいすみません、今止めま・・・、」 そこへ少し掠れて眠たげな低い声を投げかけられ、反射的にはくるりと後ろへ振り向く。 と同時で、え、と目を丸くして全身をかちんと固まらせた。 目の前に男の顔がある。それも、近すぎてすべての輪郭がブレるような距離に。 ぱっと振り向いただけで、のおでこと相手の口許が軽くぶつかってしまったくらいの近さだ。 連日の徹夜疲れが祟っているのか、土方はシャツの袖を捲り上げた腕で黒い前髪に隠された目許を 眠そうに擦り、しきりに瞬きを繰り返していた。はぁ…、と気怠そうな重い溜め息を吐くと、 「ちっ、何時だ今ぁ・・・・・・ったく、また眠っちまったじゃねぇか。どうなってんだ。 お前が横で眠りこけてやがると、どういう訳かこっちまでつられちまう」 「・・・」 「まぁいい、音止めろ。お前の携帯だろ」 「・・・・・・」 「。おい、。っだその面、化け物でも見たような仰天面しやがって。まだ寝惚けてんのかコラ」 前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱しつつ眠そうに眼を細めていた土方が、むにっとの頬を抓る。 週の半分は寝床を共にしていてもあまりお目にかかったことがない、屯所の鬼と呼ばれる男の 油断しきった起き抜けの仕草。それを瞬きも忘れてまじまじと食い入るような目つきで 見つめてから数秒後、は人並み外れて大きな目をかぁっと剥き、飛び上がらんばかりに驚愕した。 そこでようやく気が付いたのだ。自分が畳の上ではなく、やけにごつごつして 温かい何かに――目の前の男の脚の上に、抱え込むようにして乗せられていることに。 「――ひぅあぁああぁあああああ!?」 「ひぅあああ、じゃねぇ」 「っ!んぷっっ」 眠そうに欠伸を噛み殺していた男の腕が素早く伸びて、熱い手のひらと煙草の匂いに 唇をきつく塞がれる。彼女が放った甲高い声で目が覚めたらしい土方は、 今にも舌打ちを鳴らしそうな、あからさまにうんざりした表情だ。 やばい、こんな顔のときは間違いない、絶対あたし怒られる! ふえぇえ、と半泣きで焦りながらも部屋の左右に視線を泳がせ、あわてて白いシャツと 黒のベストを纏った男の胸から離れようとしたが、 ――悲しいことにそんなの行動は、部下の行動パターンを本人以上に熟知している上司には 全てがお見通しだったらしい。 がしいいぃぃっ。 唇どころか頬のあたりまで大きな手のひらで思いきり掴み直され、見た目以上に馬鹿力な五指に むぎゅっと力を籠められて、 「ぃだだだだ!ゃややめて痛いぃ潰れるっ、顔潰れるうぅぅ」 「おい、何遍言やぁ覚えんだてめえは。現場で大声張り上げんじゃねぇ!」 「〜〜すすっすみませっっででででもでもっ土方さんの声もけっこう大きっぅぷ、っむ、んむむ!」 「だから声抑えろっつってんだろ馬鹿パシリ。向かいの店に監視がバレたらどーすんだ、あぁ!?」 斜め向かいの料亭を障子戸越しに窺ってから振り向くと、土方は眼光鋭くぎろりとを睨み据える。 その形相は寝不足のためか目が血走り、普段よりも殺伐とした凄みに溢れていた。 (どうしよう怒られる、ていうか殴られる、どうしよう!) 隊士達の間では「頭蓋骨ごと脳を粉砕されそうな激痛」と評される鉄拳制裁が頭に浮かび、 は震えが止まらなくなった。両手で頭を庇いつつ全身を竦めて唇も噛みしめ、 さらにはぎゅっと目まで瞑って、入隊以来何度落とされたかわからない恐怖のお仕置きに備えたのだが、 「朝まで居座る気なら大人しくしてろ。耳に刺さって煩せーんだよ、お前の声は」 「〜〜っっふふっふみまふぇっ、・・・・・・・・・・・ふぇぇ?」 うんと頭を低めてびくびく怯えていたが、気の抜けた声を漏らして首を傾げる。 てっきり激怒しているんだと思って、塞がれた口の奥でもごもご謝ってしまったが ――意外なことに、土方はそれほど怒っていないようだ。頭上から落とされた素っ気ない口調に、 怒っているような気配はあまり感じられなかった。どうやら徹夜続きで著しく睡眠不足な 男の寝起き顔が、鬼の副長の機嫌が最悪な時の表情とたまたま似通って見えただけらしい。 それに・・・どうしてだろう。今の言葉は、あたしがここに居ても構わないような口ぶりだった。 眠る前に見ていたこのひととは、まるっきり逆の反応だ。 じきに口許を覆っていた手が離れていき、がおそるおそる目を開けてみれば、 土方は彼女のバッグを手元まで引き寄せ、中を勝手に探ろうとしていた。 先月買ったばかりの春らしいフラワープリントのバッグからは、ぷるるるるる、と、 軽やかな音が漏れ続けている。 「おい、携帯どこだ。この中だろ」 「え」 「こっちも煩せぇ、さっさと止めろ」 「!あ、は、はいぃっ」 そうだ、忘れてた。アラームがずっと鳴りっ放しだ。 目が覚めてすぐに驚いたせいで、ずっと途切れず鳴り響いていたこの音のことを忘れていた。 「すすす、すみませんっ」とはあわてて謝ったが、 彼女があわあわと頭を下げたその時には、土方は彼女の声など 聞こえてもいないような平然とした表情で、鳴り続ける携帯電話を勝手に開いていた。 二人が座る窓辺あたりをぽうっと白く照らし出す液晶画面。 その光のまぶしさにどきどきしながら顔を寄せ、土方が見つめている自分の携帯を覗き込む。 そこに示された時刻は――11時52分。日付が変わる8分前だ。 「・・・・・・っ」 よかった、まだ8分もある。 ほっとしたは、着物の胸元あたりをきゅっと掴む。 何かと勘のいい土方に悟られないよう気を付けつつ、こっそりと安堵の 溜め息を漏らしてちいさな幸運を喜んだ。 しかし――気になることもあった。 携帯を見ている土方の様子が、どことなく変だ。待ち受け画面を眺めると、なぜかふっと目を細めたのだ。 それから妙に楽しげな色を浮かべた視線を流し、の表情もちらりと見遣る。 ・・・何だろう、今の目つき。どうしてあたし、見られたんだろう。 何か含みのありそうなその仕草にどきっとさせられ、視線の意味が気になってしまう。 いっそ理由を尋ねようかと思ったが、ちょうど口を開こうとしたところで 「おら止めろ」と携帯を押しつけられてしまった。 「はははいぃっ」とあわてふためき、横目にちらちらと土方の様子を窺いながらも はアラーム画面を呼び出す。ぴ、ぴ、ぴぴ、と手早くキーを押しながら、 「・・・ひ。土方さん」 「あぁ」 「もう屯所に帰れって言わないんですかぁ・・・?」 「何だ、言われてぇのか」 「えぇっ、ち、違いますよー、言われたいとかじゃなくて」 「言わねぇよ。当のお前に帰る気が無ぇんだ、言ったところで無駄だろうが」 「それはそうかもですけどー、・・・気になるじゃないですかぁ。土方さん、車呼ぶとか言ってたのに」 眠る前は何を言っても「帰れ」の一点張りで、ちっとも許してくれそうになかったのに―― そう思って不思議がりつつも、アラームをオフに切り替える。 鳴り続けていた音色が消えてしまえば、暗い部屋の空気は急にしんと静まりかえった。 五階にあるこの部屋まで届くのは、外からざわざわと波音のように昇ってくる夜更けの街の騒音だけだ。 すると次は自分が置かれた状況にはっとして、は男の腕の中でぼんっと音がしそうな 勢いで頬を赤らめ、うわわわわ、と真っ赤に染まった顔を覆って身を竦めた。 今頃になって思い出したのだ、土方の脚の上からまだ降りていないことに。 手の影から盗み見るようにして土方の表情を確かめれば、自分を抱きかかえている男は 窓の桟に凭れかかる格好で外を窺っている。 射るような鋭い視線は一点を注視して動かない。見つめているのは、 薄明るい照明で窓辺がぼんやりと光っている店――攘夷浪士たちが居座っている、 例の料亭の見張りに集中しているらしい。 逃げるなら今かもしれない。ごくりと息を詰めた彼女は、周囲の気配にやたらと敏い土方に 気付かれないように全身の神経を使いつつ、少しずつ、少しずつ、そろそろと身じろぎを始めたのだが―― 「――で、もう済んだのか。この真夜中に目覚まし鳴らしてわざわざ起きなきゃならねぇ用事は」 「えぇ!?」 不意の指摘にどきっとして、は思わず土方を見上げる。 どうしよう、何か答えないと。黙ってたら変に思われるかもしれないし。 でも、何て答えれば――上手く言い訳したいけれど、咄嗟のことで言葉が出ない。 「っっ、それはぁ、ほ、ほらあれですよ、ぁれが、あれなんですってば、だだだからあの、えっと・・・」 焦って何も浮かばない頭をフル回転させながらぱくぱくと唇を空回りさせていると、 外へ向けられていた土方の視線が何気なくこちらへ戻ってきた。 かと思えば首を傾げた無表情な顔をなぜか無言で近づけられ、どんな些細な変化も 見逃してくれそうにないあの目に、しげしげとじろじろと覗き込むようにして眺められる。 肌に刺さってくるような視線の鋭さが耐えられない。困ったはおろおろとうつむき、 しかし次の瞬間、頬や目許がぴくぴくと引きつり気味な笑顔を作って顔を上げる。 怪訝そうに彼女を眺めていた男の肩をどんっと押して突き放し、 「〜〜〜もももぅっ、ゃやややだなぁそんなにじろじろ見ないでくださいよー! そんなに見惚れちゃうほど可愛いですかぁあたしって、まぁそんなことわざわざ教えられなくても知ってますけどー!」 土方をごまかしたくて必死なは、うわずった声で言い放つ。作り笑いで顔中をひきつらせながら、 べしべしと白いシャツの胸元を叩いた。しかし、その後が続かない。 男の胸を叩いていた腕は次第にへなへなと下がっていき、しまいにはもごもご口籠りながら、 耳まで赤らめた顔を覆ってがっくりとうなだれるしかなかった。 ・・・・・・辛い。辛すぎる。いくら切羽詰まっていたからとはいえ、今のはひどい羞恥プレイだった。 普段の土方なら、がこんな調子に乗ったことを言い出そうものなら間髪入れずに 「ざっけんな馬鹿女」と拳骨付きでツッコミを入れてくれるし、もそこに期待して わざとこんな自爆ネタを口にしてみたのだ。ところがいくら待っても拳骨は落ちてこないし、 それどころか目の前の男には口を開きそうな気配すらない。唯一感じる気配はといえば、 真上から頭にちくちく突き刺さってくる醒めきった視線だけ。ああ、恥ずかしい。恥ずかしすぎて泣きそうだ。 「〜〜ぅうううう〜〜、すいませんごめんなさいぃもうしませんゆるしてくださいぃぃ」 「おい、許すも何も俺ぁまだ何も言ってねぇんだが」 顔を覆ってぶんぶんと頭を振りまくるに対し、土方は訝しげに片眉を吊り上げ言い返す。 彼がツッコむ気にもなれないくらい呆れ返っていると思い込んでいるの耳には、 その声すら入っていなかったが。 ――ああ、出来ることなら時間を巻き戻して今のを全部なかったことにしてしまいたい。 だっていくら言い訳に詰まったとはいえ、自分の容姿が「見惚れられるほど可愛い」だなんて・・・! もちろん冗談っぽくふざけたかんじで言ってはみたのだが、それにしたってあれはない。 そもそも、あたしが土方さんに見惚れてもらうこと自体がありえないのに。あたし程度の見た目じゃ、 黙っていても女の人が寄ってくる「屯所一のモテ男」の目を惹くわけがない。見惚れるほどの魅力が どこにあるというのか。直属隊士として常に傍で付き従っているのに、殆どこのひとと 目が合わないのが何よりの証拠というものだ。普段だって、確実に目が合うときといえば 叱られる時と呆れられた時くらい。それ以外にも視線を感じることがあるにはあるのだが、 どれもあたしが可愛いとは言いがたい顔をしていそうというか、見惚れられるには 程遠い表情をしていそうな瞬間ばかりだ。そう、例えば―― 何の前触れもなく唐突に口づけられて真っ赤になり「ぎゃあぁああ!」と 色気のない悲鳴を上げてしまった時とか、深夜の副長室で何の前触れもなく 後ろから抱きしめられて真っ赤になり、そのままお布団に運ばれそうになって 「ぎゃあぁあああああ!」と色気のない悲鳴を上げてしまい、うんざり顔の土方さんの腕の中で じたばたもがいている時とか、その後で服を脱がされて死にたくなるほど恥ずかしいポーズで お布団に抑えつけられ嫌だやめてと喘いでいる時とか、さらにその後で何が何だかわからなくなって 土方さんにしがみついて甘い声を上げて顔をぐちゃぐちゃにして啜り泣いてるときとか・・・! ――といったふうに、どう考えても土方に見惚れてもらえる可能性がゼロに等しい 普段の自分を思い出し、もっと情けない気分になり、はふにゃりと泣きそうに表情を歪める。 もう泣きたい、いや、すでに泣いている。すでにうっすらと涙目だ・・・! ぐすん、ぐすん、と早くも湿った目許を擦りながらおそるおそる顔を上げれば、 待ち構えていた男と視線が重なる。ふざけた勘違いと自惚れを自慢げに披露したばかりの女が 何を思ったか黙り込み、かと思えばめそめそと啜り泣き始めたのだ。当然ながら、不可解そうに 眉間を狭めてを凝視する呆れきった顔には「何考えてんだこの女、さっぱり訳がわからねぇ」と書いてあった。 「ぅううう、もうやだ泣きたいぃ、ていうかいいですか泣いても、泣きじゃくっても!」 「ざっけんな駄目に決まってんだろ。ここをどこだと思ってんだ、現場だぞ」 だからさっきから言ってんだろーが、てめえの声は煩せぇから抑えろってよ。 溜め息混じりにそう言うと、土方はを宥めようとしているような手つきで彼女の頭をぽんと叩く。 まるで子供を構うかのように髪をくしゃくしゃと掻き乱しながら、 「だがまああれだ、面倒臭せぇが一応聞いてやる。てめえの素っ頓狂な頭ん中で何がどーなってんのか説明しろ」 「〜〜〜っ。ぅ・・・うそですすいません降参しますごめんなさいぃ」 「あぁ?」 「今のは冗談っ、ていうか嘘です土方さんに気付かれないようにごまかそうとしてたのっごめんなさいぃ!」 「・・・」 「あのアラームは・・・だから、あの、もし眠っちゃっても、ひ、日付が変わる前に・・・目を覚ましたくて・・・」 赤く染まった目許を指先で拭いながら、はしゅんとした表情で言葉を繋ぐ。 そうだ、最初からこうすればよかったのだ。いくら小さなこととはいえ、 隠し事なんて、何でも顔に出てしまう馬鹿正直なあたしには向いてない。 だったら正直に白状してしまおう。12時ちょうどを見計らって言うはずだったから 予定より数分早くなってしまうけれど、この際贅沢は言っていられない。 「枕持ってきたのも、見張り交替するって言ったのも、ぜんぶ口実なの。ごめんなさい。 それに、明日も夜遅くまで眠れないだろうから、今仮眠しておけば土方さんも少しは楽かなって・・・」 「明日?明日がどうした」 「だ、だから。・・・明日は。・・・・・・もうすぐ明日だから、一緒にいたかったの。 日付が変わる瞬間に一緒にいれば、一番早く言えるって思ったの。他の人より先にお祝いしてみたかったの。 だから、あの、明日は。土方さん、忘れてるみたいだけど、ぁ、明日が・・・・・・」 胸の前で組んだ手の指をもじもじと絡ませ、左右にふらふら視線を泳がせながら 蚊が鳴くような小声でつぶやく。一番伝えたかったあの言葉を口にしようとする直前、 は目を閉じ深呼吸した。 なぜかどきどきと高鳴り始めた心臓の音に困りながら、すーっと深く息を吸い込む。 意を決して赤らめた顔をぱっと上げ、土方と真っ向から向き合うと、 「ぉおお、ぉたっっお誕生日っ、おめでとうござひ、ましゅっっっ。 ・・・・・・〜〜っっって、ゃ、やだっ、ちが、ぃっ今のは、きんちょう、して、か、噛んじゃって・・・〜〜っ!」 「――くっ」 「・・・・・・ふぇ?」 ぽかんと丸く目を見開いて、自分を抱えた男を見つめる。 土方は天井を仰ぐ姿勢で障子戸に凭れており、肩を小刻みに震わせ笑っていた。 長い指で覆い隠された隙間からわずかに覗いた口許が、もう我慢しきれない、とばかりに可笑しそうに歪んでいる。 がきょとんと見つめていると、しきりに肩を揺らしながら窓の桟に頬杖を突いた。 顎を支えた手の指先が、笑いの止まらない口許を覆っている。あまり感情を表にしない切れ上がった目には、 珍しく愉しげで険の無い笑みが浮かんでいた。漆黒の前髪の影で細められたその目が、ちらりとのほうを見遣る。 しかしすぐさま視線を逸らし、くく、と噛み殺したような笑い声を漏らすと、 「近藤さんが笑ってたぞ。枕抱えて飛び出してった奴はそっちに着いたか、ってな」 「えっ」 「他にもあれこれ言ってたな。 どこぞの馬鹿が張りきったおかげで紙の花だの輪っかの飾りだのが あちこちにぶら下がってる、保育園児の誕生会みてぇで面白れぇ、だとか」 「!」 「あー、あとはあれだ。天井あたりで五月の節句のあれみてぇな鯉の群れがうようよ泳いでて、 それがどれも付け方が甘くてぼとぼと下へ落っこちてきやがる、見兼ねた奴らが今付け直してる、だとよ」 「えぇぇ!落ちちゃったんですかぁ鯉のぼり、しっかり吊るしたはずなのにぃ!」 思わず身を乗り出して叫んでしまってから、ははっとして唇を覆う。 「〜〜っ、こ、近藤さんがって・・・近藤さんと、いつ話したんですかぁ」 「お前が寝ちまった後だ」 「ぃ、いつ、気付いたの・・・?」 まだ驚きから抜け出せていない唖然とした顔で問いかけてみたが、土方は答えてくれなかった。 あわてふためく女の様子を楽しんでいるような目つきが、をじっと眺めるだけだ。 滅多に目を合わせてくれない彼の視線にどきりとさせられ、とくん、とくん、と心臓が跳ねる。 珍しくまっすぐに投げかけられた、視線の意味は判らない。けれど――これって、あたしの勘違いなんだろうか。 睫毛を伏せ気味にした切れ長の目の奥に、眠る前に口づけられた時にも感じたものと同じ熱が 密かに燻っているように見えたのだ。 じきに土方はのほうへ手を伸ばし、耳の後ろまで指先を潜り込ませるようにして 彼女の頬を手のひらに収めた。耳に掛けた髪の流れに指を通しながらゆっくり肌を撫でられたら、 ごつごつと硬い指先の感触が耳裏を掠めてくすぐったい。ぞくっとしたはきゅっと目を閉じ、 恥ずかしそうに唇を噛みしめて身じろぎした。 何度感じても胸がせつなく締めつけられて、くすぐったいのに身体中が蕩けそうにもなる好きな人の手の感触。 ここ、張り込み現場なのに――そう思えばいけないことをしている気がしてはらはらしたりもするけれど、 いつも素っ気ない土方さんにこうしてじっと見つめられて、いつになく優しくて甘い仕草で 構ってもらえるのはもちろん嬉しい。 けれどあたしよりも一枚も二枚も上手なこのひとに、そこを利用して上手くごまかされているような気もするのだ。 だからこうやって嬉しい思いをするたびに、いつもちょっとだけ拗ねたくなる。 子供扱いされている気がしてしまうのだ。 ・・・まぁ、実際に毎日のようにガキっぽいと連呼されているし、男の人とのこんな触れ合いに 慣れていなくて、ちょっとこのひとに撫でられただけでどきどきしてしまう子供なんだから仕方ないけど。 ぷぅ、と軽く頬を膨らませたは、とくとくと心臓を弾ませながらも上目遣いに視線を上げた。 「・・・・・・アラーム掛けた理由、知っててからかってたんでしょ・・・?」 小声でぽそぽそつぶやきながら、恥じらいと戸惑いがない交ぜになった表情で土方の返事を待ってみる。 ところがどうやら、そんな彼女の初々しい反応も可笑しかったらしい。 即座に顔を逸らした男が「もう我慢出来ねぇ」といった様子で全身を小刻みに 震わせくつくつと笑い始めて、は真っ赤に染まった頬をぷーっと思いきり膨らませた。 『保育園児の誕生会』 そう例えられたのは、この旅籠に来る前に準備していた大広間の飾りつけのことだろう。 というか、そうに決まっている。仮にも警察の一組織である真選組の屯所内に、 「天井で鯉のぼりがうようよ泳いでる部屋」がそう幾つもあるとは思えないし。 ・・・でも、どうして。どうして土方さん、明日が誕生日だって気付いちゃったんだろう。 あたしが眠ってしまうまでは、気付いたような雰囲気はちっとも感じなかったのに。 (もしかして、近藤さんがバラしちゃったのかな) などと一瞬考えたが、それはありえない話だ。当日の夜までにこっそり宴会の準備をして 土方を驚かせてやろうと提案してきたのは、他でもない近藤なのだから。 首謀者が自からこの「サプライズ宴会」の計画をバラす、なんてことはないだろう。 ――そう、この計画が持ち上がった10日ほど前には、こんなふうに土方にバレるなんてまさか思いもしなかった。 あれは土方が不在な日で、数人で赴いた市中見廻りの途上だった。 端午の節句が差し迫り、屯所近くの住宅街でも空に泳ぐ鯉のぼりをちらほらと見かけるようになった頃。 からりと爽やかな春風に靡く赤や金の錦鯉たちを頭上に仰ぎながら、近藤はにその内緒話を持ち掛けてきた。 何でも、近藤にとっては毎年のように行ってきた恒例行事なのだそうだ。 滅多なことでは驚かない土方が見せるほんの僅かな驚きの色や、 その瞬間の微妙なぎこちなさが面白いのだと言っていた。 けれどそう話した後で苦笑を浮かべ、何か思い出しているような表情で 澄みきった青空に泳ぐ大きな鯉を見上げながら、こんなことも話してくれた。 『・・・トシはなぁ、周りのこたぁ気に掛けるくせに自分の事にはあまり頓着しねぇ性質だろう? そのせいかあいつ、毎年決まって忘れちまってんだ。五月の節句なんて、忘れようにも 忘れられねぇ目出度い日の生まれなくせによー』 隣を歩く近藤のそんな言葉にくすくすと笑い、「土方さんらしいですね」と頷きながら、 は二ヶ月ほど前の自分の誕生日を思い出していた。 その前日――の誕生日など知りもしないような顔をしていた男は、しっかりその日を覚えていて、 貧乏な町道場で質素に育った彼女にとっては夢のように贅沢な体験をさせてくれた。 任務に追われる多忙な毎日を送っているくせに、いつのまにか彼女のために 小さな贈り物まで用意してくれていた。 『周りのことは気に掛けるくせに、自分のことには頓着しない』 ――近藤さんが言ったとおりだ。 土方さんが考えてるのは、いつだって周りのことばかり。 真選組のこと、近藤さんのこと、屯所の皆のこと、任務のこと。・・・それから、あたしのことも、少し。 屯所の誰より厳格で規律にも厳しい人だけど、それも屯所の皆のことを誰より真剣に考えてるからだと思う。 頭の切れる人だし責任感も強いだけに、人よりも色々と考えざるを得ない部分もあるんだろう。 あたしにはちっとも見通せないような先のことだって、あのひとには手に取るように見えていそうだし。 でも――いつだってそんなふうに、周りのことや先のことばかり気に掛けているせいなのかもしれない。 たまにその思考の中からぽろっと抜け落ちているのだ、自分のことが。つまり、土方さん自身のことが。 あたしが知っている範囲でも、土方さんの行動にそういう傾向はよく感じられる。例えば―― 屯所の皆が寝静まっている深夜でも、文机に齧りついて残務処理に追われている背中に。 見張りを交替すると申し出ても、任務を放り出すわけにいかないときっぱり断ったときの表情にも。 そうして挙げていけばきりがないくらいだ。きっとあたしが配属される前から、 土方さんは常にそうしてきたんだろう。そうやって、常に自分を後回しにしてしまう癖をつけたのかもしれない。 あのひとが自分自身より大切にしてきたものを――自分のすべてを賭けたものを、 ――真選組を、近藤さんや周りの皆を、常に自分よりも優先させておくために。 (二年傍にいるだけのあたしでも、たびたび感じるようなことだ。近藤さんは何度それを感じてきたのかな) そう思えば、近藤が土方のことを語る直前に見せたどこか申し訳なさそうな苦笑いが、 土方とは付き合いの長い彼の思いを物語っているような気がした。 『去年は任務が立て込んで何も出来なかったからなぁ、今年は派手にやりてぇんだ。 他の奴等にも声は掛けるが、どうだ、も手伝ってくれねぇか』 『はい、もちろんです!そーだ近藤さん、宴会場に鯉のぼりいっぱい飾るのってどーですかぁ』 『おぉ、そいつはやったことがねぇな。いいじゃねぇか派手で!』 頭上に翻る鯉のぼりを指差しながらそんな約束で盛り上がって、見廻りの合間に当日の計画を話し合って ――その日からは、土方の様子をそれとなく窺うようになった。 ひそかに観察を続けた結果、近藤が言っていたように、 土方は自分の誕生日が目前なことにさっぱり気付いていないのだと数日後には確信を抱いた。 (この調子なら、日付が変わる深夜零時に計画を実行できるかも・・・!) そんなことを思うたびにうきうきした気分になり、誕生日が間近に迫ったここ数日は、 その時を想像しては嬉しさに頬を緩めてにやにやしてばかりいたのに―― 「――・・・なのにこんな直前で気付いちゃうなんて。 あーあー何これサプライズのし甲斐がないですよー、あーあーつまんなぁい、土方さんつまんなあぁぁい」 「ああそうかよ、悪かったなつまらねぇ男で」 言い返してきた口調は皮肉たっぷりだったが、土方はまだ可笑しさが収まらないのか、 微妙に肩を揺らしながら和らいだ笑みを浮かべていた。頬を撫でる手の親指が、 不満そうなの肌をふにゅっと摘まんで、 「――で。お前はそのつまらねぇ男のために、わざわざここまで何しに来たんだ」 「・・・っ」 笑みを湛えた涼しげな顔が、瞳を覗き込むようにして尋ねてくる。 澄ました口調でからかってくる低い声音と、肌に沈んだ指先の熱。 両方にどきりとさせられてしまったは、いたたまれなさにふらふらと視線を泳がせた。 全身の血が沸騰したかのように熱くなっていくのを感じながらうつむき、 両手で携帯を握りしめれば、土方はさらに顔を寄せてきて「」と耳元で囁いた。 こっちを見ろ、と言いたげに彼女を見つめるその顔は、憎たらしくなるほど自信に満ちて平然としている。 は土方と密着しているこの体勢が恥ずかしくてたまらないし、 高めな彼の体温や、着物越しに感じる骨太な男の身体つきを意識してしまって仕方ないのに。 困ったが林檎のように赤々と染まりきった頬をぷいと背け、もじもじと身じろぎを繰り返し、 身体を後ろへ退こうとすれば、頬を撫でているほうとは逆の男の腕がすかさず動く。 逃げようとした彼女の腰が、ぐ、と片手で抱き止められて、 「何だ、違うのか。ろくに寝てねぇくせに俺を祝いに来たんだろ」 「〜〜っ」 腰を抱えた腕がゆるやかに動いて、薄い春物の着物地の上からを撫でる。 「答えろ」と促すかのように滑る指先の熱がそこに残って、肌がじわりと溶け出しそうだ。 「」ともう一度吐息めいた声で囁かれたら、背筋がぞくりと震えて跳ねる。 そんな淡い刺激にも敏感に反応してしまう自分の身体が、どうしようもなく恥ずかしい。 色づいた頬や首筋のあたりに据えられた熱い視線を感じていると、まるで身体中が心臓になったみたいに 鼓動はとくとくと大きく高くなっていく。 「・・・そ。それは、だって・・・っ」 うわずった声でつぶやきながら握った携帯を胸に抱きしめ、はさらに深くうつむき赤らめた顔を髪で隠した。 いっそ冗談でごまかして逃げてしまいたいけど、土方さんが許してくれないだろう。 ここで下手な言い逃れなんかしようものなら、余裕たっぷりに詰め寄ってくるひとに 散々からかわれ、遊び飽きるまでおもちゃにされてしまうことはこれまでの経験で学習済みだ。 「黙ってねぇで何とか言え」 「〜〜そ、そ・・ぅ、です・・・っ」 「――」 「あたしの誕生日にしてもらったみたいな、豪華なことは出来ないけど・・・ ちゃんとお祝いしたかったの。あたしに出来ることなら、何でも、したかったの・・・っ」 だから――だから、徹夜明けでも宴会の準備に走り回れた。「何しに来た」って 叱られても構わないと思った。はようやく覚悟を決めると、思いきって顔を上げた。 なぜか息を詰めたような表情で黙りこくっている土方を、潤んだ瞳でまっすぐに見つめる。 あたしが好きになった人は、自分より周りを大切にしている人。 自分自身より大切にしているものを常に優先させるために、無意識に自分を後回しにしてきた人。 土方さんはそういう人だ。そんな土方さんにとっては、自分の誕生日なんてどうでもいいことなのかもしれない。でも―― 「あたしにとっては、他の何よりも優先させたい日なの。 他の日とは違うの。すごく大切な、特別な日なの。だ、だから・・・」 だから――ああ、だから。 あたしがここへ来た理由なんて、意味なんて――それ以外に何があるっていうんだろう。 かーっ、と首筋まで赤く染め上げたは、きつく目を瞑り自棄になって叫んだ。 「だ・・・だからっっ。ひ、土方さんが、〜〜すすっ、すきなひと、がっ、ぅ、ううう、生まれた日、だもんっ。 それだけで嬉しくて、素敵な日なのっ、特別な日なのっ。だからっ、ほ、他の人より早く、 ぉ、お祝い、してっ、プレゼントも、渡して・・・ぃ、一緒にいたかったのっ。それ以外に、何があるっていうんですかぁぁ」 情けないくらい噛みまくりながらそれでもどうにか言い切ってしまえば、へなへなと全身の力が抜けた。 うぅぅ、と唇を噛みしめてはうなだれ肩を竦める。 何も言ってくれない土方の気配を気にしながら、傍に落ちているバッグのほうへ手を伸ばした。 フラワープリントの生地の狭間からちょこんと頭を覗かせている、ラッピングされた小さな箱。 それを探り出して手に取ると、おそるおそる視線を上げていく。 「これ、あの、・・・・・土方さんの趣味に合わないかもしれないけど。ぅ、受け取って、くださぃぃ」 口の奥でもごもごと恥ずかしそうにつぶやきながら、土方と向き合おうとしたのだが―― ――がばっっ。 腰に回された男の腕に、突然強引に引き寄せられる。 何が起きたのかもわからないうちに、逞しい胸に押しつけられるようにしては土方に抱きしめられた。 あまりに突然だったので、逃げるどころか反応すら出来ない。 手から滑って落ちた小箱が、暗い室内の奥のほうへころころと転がっていく。膝に乗せていた携帯も、 ごっっ、と鈍い音を立て畳に落ちた。 煙草の薫りと熱い身体に包まれたまま、呼吸も忘れてぱちぱちと瞬きだけを繰り返していたら、 「〜〜〜っ!?っっひ、ひじかっ、んん、んっっ・・・!」 呆然としていた彼女の唇を、熱くて柔らかい何かが無理やりに深く塞ぐ。 咄嗟に唇を噛みしめようとしたのに、煙の苦い香りが染みついた舌にぐいと大きくこじ開けられて、 「っふぁ、ぅ」 「煩せぇ叫ぶな、声抑えろって言っただろうが。――・・・ったく、どうしようもねぇ馬鹿だな」 「〜〜んふっっ。・・・んっ、っっん、ふ・・・ぁ・・・・・・!」 拒むことなど許してくれなさそうな勢いで潜り込んできた舌に、感じやすいところを狙われる。 ちろちろと舌先でなぞられてしまえば、甘い声が止まらない。こうして土方の腕に閉じ込められるたびに 教え込まれてきた甘い痺れや気持ちよさに、の身体は勝手に反応して震えてしまう。 何で、どうして――土方さん、怒ってる。どうして―― 口内を掻き乱す濡れたものの熱に蕩けそうになるのを我慢するのが精一杯で、には判らないことだらけだった。 何がどうしてこうなったのかも判らなければ、自分を抱きしめ貪っている男の気持ちもわからない。 唐突にの唇を奪った男が時折漏らす唸り声は、なんだかとても歯痒そうだ。 どことなく腹立たしげで――けれど聞いたの身体の奥にぞくりと甘い感覚が走るほど、艶めかしくて熱っぽい。 んぅ、ふぁあ、と切なげな吐息や嬌声を漏らしてしまうたびに、引き締まった硬い腕の中で身体が跳ねる。 そのたびに腰をくねらせて、背筋をぞくぞくと這い上がる何かに震えて。恥ずかしさで涙が滲んでくる―― 「・・・・・っゃ、ぅ、ふぅ、んん・・・・・・っ」 「これだからてめえは・・・・・・人が好すぎだ。 こんなつまらねぇ男にほいほいと、何でもありったけ差し出しやがって」 「ふ・・・ぁ、ひ、ひじ、っ、っふ・・・・・・っ」 「おい、覚えとけ。何を用意したんだか知らねぇがな、こっちはこれ以上欲しいもんなんざねぇんだよ。 大体なぁ、俺がお前から剥ぎ取れるもんなんてひとつも残ってやしねぇだろうが」 満足に呼吸させてもらえないまま口内をいいように弄ばれた後で、ようやく土方が唇を離す。 はぁ、はぁ、と息を乱してのぼせた身体をぐったりと崩れさせたには、もう身動きする力すら残っていなかった。 そんな彼女を伏せた目でひとしきり眺めていた男は、腕の中に収めた柔らかな身体をもう一度きつく抱きしめる。 息遣いに荒さが残る唇をの耳に強く押しつけ、耳の中に吐息ごと注ぎ込むようにして低めた声で囁いた。 「これぁとっくに全部、俺のもんだろ」 「・・・ぇ・・・・・・?」 「この髪も、その目も・・・頭の先から爪先まで全部。お前はもう、ひとつ残らず俺のもんだ」 「――・・・・・・っ」 頭から湯気が出そうなほど真っ赤に顔を染め上げたは、瞳を細めてにやりと笑った土方を思わず見つめる。 しかし目が合った瞬間に唇を啄まれ、むぐっ、と喉を詰まらせた。 ちゅ、ちゅ、と角度を変えながら続く愛おしむような甘い口づけにもついていけず、 優しく唇を重ねられるたびに、ふぇ、だとか、ぅぷ、だとかの色気の欠片も 感じられない間抜けな声が唇から飛び出てしまう。そのたびに土方が喉の奥で笑っていたが、 口づけの合間にいくら意地の悪い顔つきで眺められても、沸騰しきった頭の中には文句ひとつ浮かばない。 ややあってからゆっくり離れていった彼の顔を、目も口もぽかんと開いた呆けきった表情で見つめていると、 「今年はこれと、そこの箱だけ貰っといてやる。来年からは無しだ。いいな、判ったか」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・し。しんじゃ・・・ぅぅ」 「はぁ?」 はやっとで震える声を絞り出し、怪訝そうに呻いた土方のシャツの袖をきゅっと掴む。 真っ赤に茹で上がった顔から男の脚の上に乗せられた足先までをわなわなと震わせ、うにゅぅぅぅ、と 今にも泣きそうな表情で呻くと唇を目一杯引き結んだ どうしよう、知らなかった、恋人になって半年近く経って、すっかりこのひとを知ったつもりになっていたけど―― 「〜〜〜・・・・・・っ。ばかぁ、土方さんのばかぁ。 ・・・・・・ぃ、今ので・・・心臓・・・とまっちゃうかと、思っ・・・」 うまく回らない口をどうにか動かし、白いシャツの胸元に額をぐりぐりと押しつけながら 涙声をぽつぽつと漏らす。 どうしよう、死んじゃう、あたし死ぬ。これってきっと命の危機だ。だって、今にも息が止まりそうだ。 このままじゃ1分後くらいには確実に呼吸困難に陥りそうだし、そういえばなんだか腰も 抜けてしまってるような気もする。身体のどこもふにゃふにゃして力が入らなくて、クラゲか何かになった気分だ。 ・・・・・・あぁ、本当に何て人だろう。土方さんて、本当に心臓に悪い。 まさか見張り現場でこんな、心臓がばくばくして死にそうな思いをさせられるなんて思わなかった。 知っていたつもりが、まだまだ知らないことだらけだ。 まさか土方さんが――あの不愛想と仏頂面が板についた、皮肉屋な鬼の副長が。 馬鹿パシリなんて呼んでるあたし相手に、何の臆面もなく、 こんな、こんな・・・甘ーーい砂糖菓子をさらにとろとろに煮詰めて数倍甘くしたような激甘殺し文句を浴びせてくるなんて・・・・・・! 「はっ、火が点いたような面しやがって。おい、聞こえてんのか」 呆れたような声で笑われ、顔上げろ、とでもいうようにぺちぺち頬を叩かれて、 いやいや、とは駄々を捏ねる子供のようにかぶりを振って拒む。 しかし土方は許してくれず、頬をゆっくり持ち上げられてしまった。 「どうしよう、今土方さんと顔を合わせたらあたし心臓破裂するのに…!」などと ありえない心配に混乱しつつも、目尻に涙の粒が溜まった情けない顔を上げていけば、 「ところでお前、どうすんだ。今夜一晩、俺の代わりに見張りするってぇ話はどうなった」 「・・・。そのつもりで、来たん、ですけどぉ・・・・・・・・・むりぃ。もうむりですぅぅ」 徹夜続きで疲れてる人には悪いけれど、そんなのもう出来る気がしない。 ぶんぶんぶんっ、と涙目で土方に訴えながらかぶりを振る。 思いもしなかった甘い睦言のせいで腰砕け状態にされ、死ぬんじゃないかと思うくらい激しく動揺させられたのだ。 これじゃあ朝まで正気を保てそうにない、とても見張りなんて無理だ、。・・・というか、 朝まで生きていられるかどうかも自信がない。今にも胸を破りそうな勢いで ばくばく暴れる心臓の音は全く小さくならないし、この先もちっとも静まりそうな気配がないんだけど・・・! 混乱するは隊服の胸にぼふっと自ら顔を埋め、「どーするんですかぁこれ、 あたしが死んだら土方さんのせいですよぅぅ」と裏返った声で泣きわめく。 そうしている間にも土方は彼女の耳たぶや髪に唇を落としたり、背中や頭を撫で回したりと 好き放題に触れていた。やがてくつくつと押し殺し気味な声で笑い出し、 「そうかよ。なら見張りを免除してやる代わりに、二時間ばかり身体貸せ」 「〜〜〜かっっ、からっ!?っそそんなゃやややだぁぁっ、それはもっとやですっっもっと無理いぃぃ!」 「馬鹿、仮眠するだけだ。何もしやしねぇよ」 「〜〜っっ!まぎらわしい言い方しないでくださいぃぃっ」 「どこも紛らわしくねぇだろうが、お前が勝手に深読みしたんだろうが。 まぁ要は枕代わりだ、じっとしてりゃあそれで役目は果たせる」 お前を抱いて寝た日は、どういう訳か寝つきがいいからな。 低めた声で独り言のようにそう言いながら、土方は彼女をゆっくり畳に横たえた。 身体中を小さく竦めてもじもじしながら、は自分からわずかに離れた男の気配をちらちらと窺う。 こんな時はいつもどんな顔をしていいのかわからなくて慌ててしまうだが、 同時にいつも嬉しくなる。自分の物扱いしているあたしが添い寝を断るかもしれないなんて、 このひとは微塵も思ってないらしい。あたしをどこかに抱き下ろす時の手の仕草は いつも自信たっぷりで、何の躊躇も感じられない。そんな彼の行動はちょっと身勝手にも 思えるのに、こんな時の土方に腹を立てたことは一度も無かった。それどころか、 こうして身勝手に我が物扱いされるたびになぜか胸がきゅんとしてしまう。 こういった何気ない行動に土方の独占欲めいた感情が見え隠れしている気がして、 当然だと言わんばかりに男の腕で身体を横たえられるたびに、どうしようもなく嬉しさを感じてしまうのだ。 とはいえ――押し倒されたに等しいこの無防備なこの状態で、土方と顔を合わせるのは恥ずかしい。 うろたえたがもぞもぞと動いて彼に背を向けてしまうと、毛布をふわりと被せられた。 ざわ、ごそ。 硬い衣擦れの音を鳴らしながら迫ってきた身体に、後ろから覆い被さるようにして抱きしめられる。 背中に感じる熱い重みで押し潰されたら苦しくて、思わず開いた唇からは悩ましげな溜め息が漏れてしまった。 「おい。寒くねぇか」 「・・・・・は。はぃぃ・・・っ」 こくこくこく、とひたすらに何度も頷き返す。実際今のには、寒さなんてちっとも感じられなかった。 寒いどころか暑くてたまらないのだ。腰のくびれにがっちりと両腕を回され閉じ込められて、 ただでさえ火照っている身体がさらにかぁっと燃え上がりそうな火照りを帯びていく。 ここまで熱くなってしまう原因は、身体中がむずむずしてじっとしていられないようなこのたまらない恥ずかしさだろう。 他に誰もいないとはいえここは張り込み現場だし、もしかしたらこの旅籠の従業員さんとか、 ここに入ってくる可能性のある人に見られてしまうかもしれない。 そう思っただけで顔から火が出そうだし、後ろからぎゅっと抱きしめてくるひとの 煙草の薫りが混じった吐息がうなじに当たっただけでぞくりとして、身体がびくんと震えてしまうのも恥ずかしい。 それに他にも、あれもこれもと、は火照りきって今にもショートしそうな頭の中で 彼女を動揺させるこの猛烈な恥ずかしさの原因を挙げ続けた。・・・・困ったことに、いくら挙げてもきりがなかったが。 ――けれど。こんなに恥ずかしい思いをさせられているのに、なぜか土方に抵抗したり、 いつものようにじたばた暴れて無謀すぎる逃亡を図ろうという気になれない。 は全身真っ赤になりつつも火照った身体を土方に委ね、背後の男を気にしては やたらとどぎまぎさせられながらも、しおらしく抱き枕の役目を果たそうとした。 ずっと土方さんにくっついていたせいで、この高めな体温に身体がすっかり馴染んでしまったせいだろうか。 眠る前とは違って、いくら恥ずかしくてもこの腕の中から逃げ出したくはならないみたいだ。 それどころか、もっとこうして抱きしめられていたい、なんて大胆なことまで思ってしまう。 結局のところ、上手く土方に慣らされたというか――眠っている間に勝手に抱き上げられて この密着状態に慣らされたせいで、好きなひとの温もりから身体が離れたがらなくなってしまったらしい。 そんな彼女の内側の変化を、すでに見越していたのかもしれない。 華奢な女の手をすっぽりと包んでしまうほど大きな手がするりとに指を絡ませ、 お前も寝ろ、とでも言いたげにやわらかく握って力を籠める。 ちゅ、と音を立てて頬に触れてきた唇が、されるがままに抱きしめられているに 「どうした、もう暴れねぇのか」と甘い響きで囁きかけた。 「つーか少し力抜け、抱き心地が悪りぃ。すっかり背中が固まってんじゃねぇか」 「・・・ぁ。あの。何もしなぃ、って。ぅ。うそじゃないですよねぇ、それ。信じていいんですよねぇ、それ」 「あぁ?」 「だって、この前も、そんなこと言って、明け方、ぁ、あたしが完全に熟睡してるときに、いきなり・・・〜〜っ」 「・・・・・・」 「〜〜どっっ、どーして黙るんですかあぁっ。ねぇちょっと、む、むりですからねそんなのっ、 そんなことされたら向かいの店に届きそーな大声で泣きじゃくるからっっ。って聞いてる?聞いてますかぁ土方さんっ」 「ああ、聞こえねぇ」 「聞いてるじゃないですかぁぁ!」 外に響かないよう声を押さえて、けれど自分を抱えた男の耳には届くように やや振り向いては叫ぶ。しかし「煩せぇ」と一言放った無表情な男に、 一向に赤みが引かない顔を力任せに元の方向へ押し戻されるだけ。まったく相手にしてもらえない。 ・・・・・・どうしよう。やっぱり明日の朝まで生きていられる気がしない。 これじゃあ明日の夜の宴会の時間には精根尽き果ててしまいそうだ。同じ人間とは思えないくらい 頑丈で二晩三晩の徹夜明けでも平気で現場の陣頭指揮を執っている土方さんはともかく、自分の体調が思いやられる。 (だけど――もし大変なことになってしまっても、きっとそんなふうに大変な目に 遭わされることだって、明日のあたしはどこか楽しいような気がしてしまうのかも。) そんなことも思ってしまい、なんだか少しおかしくなった。ふふ、と小さく肩を揺らせば、 なぜか後ろで微かな笑い声がした。絡まってきた長い指をそっと撫でれば、 抱きしめてくるがっしりした腕に力が籠る。狭くなった囲いの中は熱いしちょっと息苦しいのに、 ほうっと蕩けた溜め息を漏らしてしまうくらい心地がいい。 「・・・土方さぁん」 「あぁ」 「背中が、あったかすぎて・・・これじゃあ、二時間どころか朝まで熟睡しちゃうかも・・・」 「心配すんな。そん時ぁこないだの明け方と同じ状況に持ち込んで、強制的に目ぇ覚まさせてやる」 しっかり絡まって離れようとしない男の硬い指先に、とんとん、とん、と着物の衿の合わせ目を何度か軽く叩かれる。 しれっと言い切る土方の声音もおかしくて、ふふ、とは思わず表情をほころばせ楽しそうに笑った。 ――そう、何も心配することはないかもしれない。 大変な目にあっても、別にいいのかもしれない。だって、それもいつものこと。 どんなに気分よく目覚めても、起きた瞬間からどんなに大変な目に遭わされて困らされても、 それだって最近ようやく慣れてきた朝の光景のほんの一部。屯所で目にするのと同じ、いつもと変わらない朝の景色だ。 (だから、明日もそんな朝になってくれたらいい。 出来ればあさっても、その次も、その次の次の朝も――これから先も、ずっと。いつも変わらない朝が続けばいいな。) そう願っては目を閉じ、絡め合わせた男の指を握り返しながら嬉しそうに微笑んだ。 これからも、どこにいても、何が起きても、どんなことがあっても。 このひとと一緒に迎えられるなら、それはきっとどこでどうやって迎えても、いつもと同じ朝になる。 夜更けの街の片隅でこうして抱き合って眠る時間が、土方さんの部屋にいるときと変わらず 心地よく流れていくように――明日の朝目覚めてから見上げた空が晴れていても曇っていても、 目覚めた瞬間からきらきらとまばゆく輝く、いつものように光に溢れた素敵な時間が待っているはずだ。 ――最近ようやく慣れてきた、大好きな時間が。 目覚めればいつもの煙草の匂いを近くに感じて、好きなひとが当たり前のように傍にいてくれる朝が。 そしていつもと同じように、ごく当たり前のことのように始まるのだ。 「やっと起きやがった」なんて素っ気なく声を掛けてきたひとに寝惚けた顔で笑いかける、夢のように幸せな一日が。
「 すべての夜とすべての朝に 」 text by riliri Caramelization 2016/06/12/ ----------------------------------------------------------------------------------- タイトルはサンボマスターの長めな曲名、の前半。