「張り込みお疲れさまです土方さーん!交替に来ましたぁ」 「・・・・・・おい、何が交替だ。今日はお前、非番だろうが」 陽が沈み空が宵闇に染まっても数多の人々が路上に溢れ、 昼間とは雰囲気の異なる妖しげな喧騒に包まれている江戸市中、某繁華街。 とある旅籠の一室で張り込み中の真選組副長、土方十四郎の元へ現れたのは 彼の恋人であり、同時に副長専属隊士でもある。 隊服ではなく普段着のミニ丈着物姿でやって来た彼女は、攘夷浪士たちの動向に目を光らせるための 殺伐とした張り込み現場には不似合いな、しかしどうにも見覚えがあるものを胸に抱えて笑っていた。 願 わ く ば 花 の 下 で 君 と #6 す べ て の 夜 と す べ て の 朝 に  「ねぇねぇ土方さん、土方さんってばー、聞いてましたかぁ今の話」 「ああ、聞いた。聞いたから帰れ」 隊服の袖口をきゅっと摘まんだ女の指を「邪魔すんな」と言わんばかりに振り払い、土方は素っ気なく背中を向けた。 とはいえたったこれだけで、懲りるということを知らない彼女を追い帰せるとは思っていないが。 案の定は土方の隊服の裾を力一杯に握り締め、ぐいぐいと遠慮なく引っ張りまくりながら不服そうに迫ってくる。 「ねぇちょっとだけ、ちょっとだけ聞いてくださいよー」 そう食い下がる女の大きな瞳は照明を落とした暗い室内でもきらきらと輝き、尖らせ気味な唇はやわらかそうだ。 紅など差していなくともほんのりと色づいているそこは、いつも目にしただけで触れたくなる。 だが触れたい気分は頭の隅へ追いやって、土方は再度背を向けた。これ以上を眺めていれば、 厄介な事態に陥りそうな気がしたからだ。 ――そういえば、最近こいつを抱いていない。最後はいつだ、先週だったか―― などと記憶を巡らせるうちに、には何とも説明しがたい虚しい気分が押し寄せてくる。 このところ任務も屯所内での残務処理も立て込んでおり、睡眠時間は削られっ放し。 おかげで疲れは溜まりっ放しだ。週の半分以上は同じ寝床でと共に眠っているが、 先に寝ている彼女の隣へ潜り込み、どこもかしこもやわらかい女の温もりを腕の中に抱き寄せるだけで 睡魔に負けて熟睡してしまう。いくら彼女に構いたくても、構ってやるだけの余裕がないのだ。 そして昨夜に至っては、本庁への提出期限が目前の書類をなんとか完成させようと二人揃って作業に没頭。 部屋に布団を広げる暇すらなく、お互い一睡も出来ずげんなりした状態で朝日を浴びる有様だった。 ちっ、と密かに舌打ちし、部屋の暗さと融け合っている黒髪を面白くなさそうにわしわしと掻き乱す。 相変わらずの無防備さで縋ってくる女の、小鳥がさえずるような甘い声を聞きながら彼は歯痒い気分で思った。 ・・・ったく、人の気も知らねぇでのこのこと顔出しやがって。 こっちは二晩徹夜続きで、何かと鬱憤も溜まってるってぇのに。もしここが張り込み現場でなければ、 一も二もなく押し倒しているところだ。 「土方さん、聞いてますかぁ?聞いてないですよねぇ、その顔は聞いてない顔だもん」 「あぁ聞いてねぇ」 「聞いてるじゃないですかぁぁ」 平然とした態度で煙を吐きつつ無表情に断言してやれば、ちょっとしたことでも表情を変える 感情豊かで賑やかな女は予想通りに甲高く喚いた。それだけでは悔しさが収まらなかったのか、 持参した例のあれで滅茶苦茶に土方の背中を乱打してくる。 ――まったく、心底、訳がわからねぇ。 ぼふっ、ぼすっ、と空気を含んだやわらかい感触に背中や後頭部を殴られつつ、彼は溜め息混じりの紫煙を吐き出す。 たまに飛び出るこいつの奇行が総じて突拍子が無く理解不能なのはいつものことだが、 今日のこれは極めつけだ。さっぱり訳がわからねぇ。 だいたい何だ、いきなり現場に押しかけてきて「張り込み交替します」ってのは。 いや、最も訳がわからないのは、非番のこいつが任務でもないのに張り込み現場までやって来た理由か。 まぁ他にも疑問はあれこれとあるし、加えて言えば、後生大事そうに抱えてきた例のあれも気になるところだ。 しかし、こいつが何をしようと何を言おうとこちらからは敢えて追及するまい。ひとたび追及してしまえば、 今よりさらに面倒な事態が待ち受けていそうだ。そんなことを考えながら、土方は懲りずに隊服の裾に縋ってくる めげない女をしれっと無視。口端から細い煙を昇らせていた短い煙草を、窓の桟に置かれたコーヒー缶に押し入れる。 じゅ、と音が鳴り火が消えれば、暗い室内を漂っていた薄い靄も闇の深さに呑まれるようにして消えていった。 普段は従業員の休憩室として使われているという、座卓と座布団が据えられただけの簡素な和室。 その窓辺を覆う障子戸の、ほんの2、3センチ開けた隙間から目を凝らす。 見下ろした夜の歓楽街は、5階にあるこの部屋までざわざわと音の波が昇ってくるほど騒がしく、そして眩しい。 室内の暗さに慣れた目には、通りを埋め尽くす光の洪水が起きているかのように見えた。 監視している店の前は、数分前に確認した時とほぼ状況に変わりはない。 駅の方向から流れてくる人々、駅へと向かう千鳥足な親父の集団。道行く男達にティッシュを配る 風俗店の呼び込みの男、チラシ配りのキャバ嬢たち。夜の街に立つ顔ぶれに怪しげな奴が混ざっていないかを 一通り見定め、それから瞳を細めて注視したのは、この旅籠から通りを挟んだ斜向かいに建つ店だ。 蛍光色の看板が輝く主張の激しい飲食店や風俗店が並ぶ中、大きな看板も暖簾も上げず 人目に付きにくい雰囲気で佇む三階建の料亭は、隣町の問屋街の主人連中や、 そのまた向こうの金融街から大銀行の重役なども通う、知る人ぞ知る店らしい。 だが同時にあの店は、真選組が狙う幾つかの攘夷党派の間で会合の場として重用されている店。 主に互いの得た情報の交換や活動資金の受け渡しなどを目的として、党派の頭目や幹部たちが密かに集う店でもあった。 「・・・宴席に八人、廊下に一人。先週奴らがここへ顔を出した時と面子は同じ…、か」 双眼鏡を手に取り、丸く切り取られたレンズ越しの景色に鋭い双眸をじっと凝らす。 窓が一部開け放たれた、三階の座敷の窓辺――そこに居並ぶ組織の幹部連中は、 真選組の監視の目など気付きもせずに三人の芸妓と戯れている。あの店を囲んだ計五か所で 警察の目が光っていることには、部屋の戸口前で見張り番を務める下っ端も含め、 誰一人として勘付いていないように見えた。 すると土方の背後から「へー」とが意外そうな声を上げて、 「真ん中のあれが頭目ですかぁ?実物見るの初めてですよー、手配書よりもがっつりハゲてますねぇ」 「手配書のあれはヅラで盛ってんだろ。つーか独り言に茶々入れてくんな、帰れ馬鹿」 レンズから目を離すことなく言い返せば、「ええー」と悲しげな声音が耳元で響く。 くいくいくい、と隊服の裾のあたりを甘えるように引っ張られ、 「いいじゃないですかぁ無視されてさみしいんですよー、ちょっとかまってくれたっていいじゃないですかぁ。 あ、そういえば山崎くんが言ってましたよねぇ、あいつらがあそこで飲む時は帰りが必ず明け方だって」 「あぁ、だな。てこたぁ今回も明け方まで飲んだくれて、払暁に紛れてアジトへ戻ろうってわけか」 ここから覗いた限りでは、あそこへ出入りしているのは仲居の女一人だけ。 その仲居が配る酒を片っ端から飲み干している浪士たちの表情を見る限り、奴らは単なる息抜きとして 酒を楽しみに来ているようだ。これならあの料亭に下働きとして潜り込ませた監察からの報告どおり、 今夜は特に大きな動きはないだろう。 どいつもだらしのない顔つきを酒気に染め上げ芸妓の酌に相好を崩し、見るからにご満悦そうなご様子だ。 奴らが店から姿を消すだろう明け方までずっとあの調子であれば、間に多少の仮眠が取れる楽な見張りになりそうだが―― 「あーあー、全員真っ赤な顔しちゃって。すっかり酔いが回ってますねぇ。ねぇ土方さん、 あのかんじなら今夜の見張りはそう難しくないですよねぇ?あたし一人でも大丈夫ですよね?」 「あぁ、まぁ問題はねぇだろうな――っておい、てめえは茶々入れてくんじゃねぇって言ってんだろーが」 「いたたたた、痛いいぃっ」 いつのまにか彼の肩に掴まり双眼鏡を覗き込んでいた女の顎を、わしっと掴んで押し返す。 「いたたたた、首折れちゃううぅ!もーすこし手加減してくださいよっ土方さん馬鹿力なんだからっっ」 痛そうに首を摩りながらも頬を最大限に膨れさせたを、土方は醒めきった目つきでじろりと睨んだ。 しかし障子戸の隙間に視線を戻せば、「それでね、土方さぁん」と たった今痛い目に遭ったことなどもう忘れてしまったかのような、至って気楽そうで緊張感のない女の声が明るく響く。 ・・・ついていけねぇ。どうしてこうも立ち直りが早ぇーんだ、こいつは。 双眼鏡を目許から離し、土方は何ともいえない複雑そうな渋面で溜め息をつく。 やがてがくりとうなだれて、頭や肩のあたりにずーんと圧し掛かってくる重い徒労感に肩を落とした。 「ねぇ土方さん、土方さんてばぁ」 「うっせぇ馬鹿帰れ馬鹿、これ以上人を疲れさせんじゃねぇ馬鹿」 「まだ何も言ってないぃ!なにそれひどくないですかぁ、いくら何でもバカバカ連呼しすぎですよー。 ていうかいったい、あたしのことどこまでバカだと思ってるんですかぁ」 「どこまでも何も、馬鹿は一生馬鹿のままだろ。未来永劫果てしなく馬鹿だろ」 「ひどいぃぃっっ」 常々思っていたことをそのまま告げながら振り向けば、案の定はぷーっと頬を膨らませて怒っていた。 ひどいひどいと、彼の半分ほどの厚みしかない華奢な手にぽかぽかと肩や胸を叩かれる。 しかしいくら叩かれようと、叩いてくるのは折れそうに細い女の腕だ。 数回に一度の確率で顎だの目許だのをどさくさまぎれに狙いやがるのはムカつくが、 どこを叩かれようとたいした痛みは感じない。 それにのこういった素直な反応も、土方が彼女をつい構いたくなる理由のひとつだ。 軽いからかいを真に受けて拗ねる女のどこかあどけない表情は、眺めるだけで気分が和む。 顎や頬にぶつかってくる手を適当に避けたり払ったりしながら、まだ少女じみた部分が残る女の 可愛らしい反抗を彼は密かに愉しんだ。ところが間もなくは振り上げた手をぴたりと止め、 土方をぽかぽかと殴りまくっていた時とは真逆の澄ました顔でにっこり笑い、 「それでね土方さん、話の続きですけどー」 「・・・ちっ、もう立ち直りやがって。…… 早すぎんだろ、もう暫く拗ねてりゃ可愛げがあるもんを ……」 「あれっ、今何か小声で暴言吐かなかった? ねぇ聞いてる?聞いてます?聞いてるなら返事してくださいよー」 「聞いてねぇ。つーか聞く気がねぇ」 「聞いてるじゃないですかぁ!じゃなくて聞いてっ、聞く気になってくださいよー」 お前こそ俺の話を聞く気になれ、とうんざりした気分で思いつつ、黒い前髪の影で鋭い目許を軽く顰める。 新しい煙草に火を点けながらしばらくシカトを決め込んでみたが、はその間も繰り返し 「聞いてー土方さぁん」「土方さんてばー」と彼を呼んでは、呼ばれるたびにわざと顔を逸らす男の 目の前へ素早くささっと回り込み、彼の視界を塞ぐようにして覗き込んでは邪魔をする。 そのうちしつこく呼ばれるのにも辟易してきて、仕方なく諦めをつけた土方はひどく嫌そうに振り返った。 ――まったく、こいつはいつもこうだ。 何かに夢中で突っ走っている時のは、呆れるほどに人の話を聞いていない。 しかも付き合う以前の土方に幾度も突き放された経験があり、加えて何に対しても諦めるということをしない性格だ。 たかだか数分無視を決め込まれる程度の仕置きで、鬼の副長と畏れられる男の主張を大人しく聞き入れる、 …なんてことは、彼女に限ってはありえない。役目上は副長の専属隊士なのだから 大人しく聞き入れて当然なのだが、困ったことにありえないのだ。 「仕様がねぇ聞いてやる、100字以内で簡潔に述べろ」 「えー無理ぃ、そんなに短くまとめられませんよー無理ですよー土方さんのケチー」 「っだコラ、50字に減らすぞ」 「えぇぇ、そんなあぁぁ」 おねがいですぅせめて原稿用紙一枚分にしてくださいよー、と情けない声で泣きつきながら、 頼りない感触の女の手が上着の肘あたりをむぎゅっと掴む。 濡れたような輝きを放つ瞳で懇願するように見つめられ、土方は思わずたじろいだ。 見つめた相手に目で縋ってそいつの庇護欲を煽るような、無自覚な色香を孕んだあの表情には 普段からどうも弱いのだ。しかし何かと鈍いは、そんな自分の無自覚な媚態にも、 土方の表情の微妙な変化にも気づけないらしい。 「だからね、聞いてくださいよー」と店先に並ぶ玩具を買ってくれと親にねだる子供のように、 力一杯にぐいぐいと隊服の袖を引き、 「今日はやることなくて暇だったからお昼寝しちゃって、おかげでちっとも眠くないんですよー。 お布団に入っても眠れそーにないし、だったらこのところ徹夜続きで睡眠不足な土方さんをサポートしようと思って! てことで見張りは交替しますから、土方さんは屯所に戻ってください。一晩ぐっすり寝てきてください」 「はぁ?またてめえは、素っ頓狂なことを・・・」 土方は呆れきった顔でを眺め、きつくて険しい印象の眉間をさらに狭める。 はぁ?寝てろ?何を言い出すかと思えば、任務を放棄して「屯所で寝てろ」だと? いや、こいつを部下にしてから早2年。この女の思い込みの激しさが招く 突飛すぎてわけのわからない言動には、さすがに俺も慣れている。 こうした理解に苦しむ目に遭わされることもしばしばで、日常茶飯事、むしろ通常運行と言っても過言ではないのだが、 「何が一晩ぐっすりだ、どういう寝言だそりゃあ。 いーから帰れ、てめえだって昨日は俺に付き合って徹夜しただろうが、言うほど眠れてねーだろうが」 「眠れましたよー、今日はお昼寝含めて8時間も眠ったもん。それに近藤さんが言ってましたよー、 土方さんは幹部の連中を確認しにいくのが目的だから、そこの料亭に入るところさえ見れたら もう現場に用はないはずだ、あたしと交替しても構わないって」 「あぁ、目当ての面は一通り拝んだ。だが、用が済んだからって任務を放り出すわけにいくか」 きっぱりと強い口調で言い切ってやると、はなぜか一瞬だけ、ふっと表情をほころばせた。 彼の口から出た全面拒否の言葉をなぜか喜び、それどころか安堵しているかのような色が 大きな瞳にも微かに浮かぶ。しかし表情がほころんだのは、瞬きするほどのほんの短い時間だけ。 土方の拒否など予想の範疇だとばかりな顔でうんうんと頷き、「やっぱりねー、そうくると思いましたよー」などと 言いつつ小首を傾げてへらへらと笑うと、胸元に抱えているものを差し出して。 「仕事バカの土方さんならきっとそう言うと思って、秘密兵器持ってきましたぁ。 じゃーん!ぱらららっぱらー!たーばーこーくーさーいーまーくーらー!」 「・・・・・・」 口端をうんと下げた苦々しい顔で黙りこくった土方は、呆れと蔑みが入り混じった目で テンション高く叫んだ女を厭そうに眺める。 未来の世界の猫型ロボット風に口調や音程まで真似ながら紹介された、が言うところの秘密兵器。 それは枕だ。まぁ、胸に抱えて持ってきた時点で秘密兵器も何もあったものではないのだが、 猫型ロボになりきっている本人はそこに気付いていないらしいし、いちいちツッコむのも面倒だ。 差し出された枕はといえば、どことなく使い込まれた風合いの、どこにでもある普通の枕だ。 市中のどこでも売っていそうな白いカバーを被ったそれに、土方はが「煙草くさい」などと 言い出す前から見覚えがあった。なぜならあれは、どう見ても彼の私物。 副長室の押入れに布団と一緒に詰め込まれているはずの、愛用の枕にしか見えないのだが―― 「はいはいどーぞどーぞ、屯所に帰らないならここでぐっすり眠っちゃってくださぁい。 料亭の見張りなら、この副長専用雑用係ちゃんが責任持って引き受けますからぁ」 とん、と着物の胸元を握りしめた拳で叩き、は自信たっぷりな笑みを浮かべている。 語尾が常に間延びしており、聞いているこっちの緊張感まで削いでしまうふわふわと頼りない女の口調に、 責任、という言葉の重みはまるで感じられなかったが。 「・・・待て、そこまでされる理由が解らねぇ。どーいうこった、最初から順を追って話せ。 いやこれだけ先に確認させろ、何から何まで意味がわからねぇがこれだけは判るぞ、その枕俺のだろ」 「そうですよー、土方さんが毎日使ってる煙草くさい枕ですー。ぱらららっぱらー、たーばーこーくーさー」 「うるせぇ何遍もやるなバカえもん。つかお前、気に入ってんのかそれ」 「使い慣れた枕のほうがよく眠れると思って、押入れから引っ張り出してきましたぁ。 でも途中で持ってくるんじゃなかったって後悔しましたよー、すっごく煙草くさいんだもんこれ」 「・・・。ああそーかよ。悪かったな煙草くせーもん運ばせちまって」 「ほんとですよー、街でも電車でもじろじろ見られちゃってもぅ人目が痛くてー」 「・・・」 を無言で睨み据えた土方は、視線を障子戸の向こうへ戻す。 窓の桟に肘を置き頬杖をつくと、けっ、と小声で悪態を吐き肩を竦めた。 そこそこ直球な皮肉を投げたつもりが、どうやらこいつには掠りもしなかったらしい。 性格的に鈍いせいか、はたまた土方の口の悪さに慣れているためか、 は特に怯むような様子もない。いつ眺めても子供っぽいあの笑みも絶やそうとしない。 つーか――また思い違いしてやがるな、こいつ。俺の枕が人目の痛さの原因だと? それだけのはずがねぇだろうが、と不服そうに歪めた唇から勢いよく煙を漏らし、心中では呆れきった溜め息をつく。 じろじろ見られた原因は、枕に染みついた煙草くささ。 はそう信じて疑わないようだが、どう考えてもそれだけが見られた原因ではないだろう。 電車でここまでやって来たのは、使い古しのくたびれた枕を後生大事そうに抱えた若い娘。 しかも、どこにいても人目を惹く容姿の娘だ。 生き生きと輝く印象的な瞳に、品のある顔立ち。 華奢な肢体には不釣り合いな大きさの胸。短い着物の裾から伸びる脚線は美しく、雪のような素肌の白さは目にまぶしい。 こんな女を電車内で目撃すれば、大概の乗客はじろじろと、不躾な視線を送ってくるに違いない。 特に、同じ車内に乗り合わせた女をいちいち品定めしては妄想を滾らせているような不届きな輩は。 「・・・ちっ、警察官が変質者どもを無駄に色めき立たせてどーすんだ」 「あれっどーしたんですかぁ 怖い顔しちゃって。もしかして怒ってる?」 「怒ってねぇ。それよか、どうにかならねぇのかそのガキじみたナリは。 前にも言っただろうが、夜中に女が隙だらけの格好で街うろつくんじゃねぇ」 「だってミニのほうが動きやすくて楽なんだもん。ねぇねぇそれより土方さん、見てくださぁい」 持参した少女趣味な花柄の手提げ袋を膝上に乗せて中を探り、「ほらぁ毛布も持ってきたんですよー」と自慢げに出す。 ぱぁっと広げてみせたのは、これまた少女趣味な花柄の毛布だ。しかも布上に描かれた花畑の中央には、 どこぞのキャラクターものらしきもこもことした白うさぎが数羽。持ち物が所有者の趣味や人となりを 反映しているのはままあることだが、どいつもこいつもによく似た邪気のない笑顔で跳ね回っていた。 はぽんぽんと丁寧に叩いて高さを均した枕に、花柄の毛布をふわりと被せる。 花の香りを放つ布製の小袋、さらには沖田が愛用している例のアイマスクとピンクの耳栓までちょこちょこと乗せ、 「はいはいどうぞー」と土方の鼻先へそれらを重ねて差し出して、 「どーですかぁこれ、泣く子も眠るちゃん特製安眠セットですよー! アイマスクは総悟から、最近人気のアロマショップの匂い袋は武田さんから借りてきましたぁ」 「いや待て、その前にこっちの話を聞け。そもそも何で俺が眠らなきゃならねぇんだ」 「さぁさぁどーぞ、遠慮なくごろーんと、ずずずぃーっといっちゃってくださぁい。朝までぐっすりおやすみなさーい」 「おやすみなさーい、じゃねぇ。ったく・・・」 困惑にきつく狭まった眉間を煙草を挟んだ二本の指で抑えつつ、彼は力なくうなだれた。 枕や毛布と共に差し出されたのほほんとした笑顔ときたら、布の表面で楽しげに跳ねている うさぎどもに匹敵するほど屈託がない。 いや、これほどまでに屈託がないのも頷ける。 時折飛び出すこの手のの奇行には、基本的に悪気や害意というものがほとんど含まれていない。 つまり、大方が彼女の善意や純粋な好意によって発生しているものなのだ。そこはこれまでの経験上でも 知っているつもりだが、そこ以外はさっぱりだ。何だ?今回は何だ。見当がつかねぇ。 いきなり来ておいて、俺に寝ろだと?一体何をどうしてぇんだこいつは、ここで俺を寝かしつけて何になる。 「・・・相変わらずてめえのやるこたぁさっぱりわからねぇが、とにかく帰れ。 もう深夜だってのに女が一人で、こんなガラの悪りぃ街の奥まで来んじゃねぇ。今すぐこれ持って屯所に帰れ!」 「えぇえええーー!」 「うっせえぞコラ、仮にも張り込み現場で叫ぶんじゃねえ。 ガタガタ言わずに駅に戻れ、今ならまだ電車も動いて・・・いや駄目だ、電車は駄目だ」 土方は即座に二つ折りの携帯電話を指先で弾き、液晶画面を開くと同時で連打する。 瞳孔が常に開き気味な目をかぁっと剥いてアドレス帳から検索したのは、屯所の電話番号だ。 駄目だ、冗談じゃねえ、これを酔っ払いばかりの深夜の電車なんぞに乗せられるか。 どうせ電車内でも降りた後でも男の目線を浚いまくり、痴漢だのナンパ野郎だのが群がってくるに決まっている。 もちろんタクシーを使うという手もあるが、この時間帯、女が一人でタクシーってのも間違いなく安全とは言いがたい。 ここは屯所から車を呼び寄せ、身内の運転で戻らせるのが万全だろう。多少気になるのは運転手の人選だが、 こいつが俺の女になっても弟面でベタベタしやがるあのふざけたクソガキ以外なら誰でもいい。 「・・・?土方さん、どこに電話するんですかぁ」 「屯所だ。車呼んでやるからそれで帰れ、いいな!」 「えーっ、いやですよーあたし帰りませんからね。帰らないし土方さんが寝てくれるまで諦めませんからっ。 近藤さんだって、あたしが料亭見張ってれば土方さんが仮眠取っても問題ないって言ってましたよー!」 「近藤さんが認めようが俺が寝ていい理由にはならねぇんだよ。・・・・・・いや。つーか、どうも妙だな」 ふと土方は思いつき、連打していた携帯電話を一旦閉じる。 横に居る女に視線を合わせて怪訝そうな目つきで見据えれば、は不思議そうに首を傾げて、 「妙って、何がですかぁ」 「お前がだ。おい、どうしてそこまで俺を寝かせたがる」 「えっ。・・・・・・〜〜〜そ、それはぁ」 しどろもどろにそう言うと、はきまり悪そうに顔を逸らした。 胸元に抱いていた土方の枕を、細い指先でいじり始める。 彼が試しに覗き込んでみればやけに焦った表情をしているし、わざと顔を寄せていけば 枕に顔を埋めるような姿勢で土方の視線を避けようとする。どう見ても怪しいその態度を 間近から隙のない目つきで観察すると、土方は赤く染まった煙草の先で彼女の頬のあたりを指して、 「妙なこたぁ他にもあるぞ。お前、これまで任務以外で深夜の現場にわざわざ 顔出したことなんざねぇだろうが。しかも非番だってぇのに、どうして今日に限って来やがった」 「ええっ。そ。それはぁ、だって、・・・土方さん、最近徹夜続きで眠れてないし、疲れてるし」 「んなもん今日に始まったことじゃねぇ。よくある事だろうが」 「そ、そうだけどっ・・・・・・でも。・・・寝不足なままじゃ、明日はキツいんじゃないかなぁって・・・」 「明日?明日がどうした」 「〜〜っほ、ほらぁあれですよあれっ、え、えぇと、えっと・・・!」 返答に詰まって困り果てたのか、それとも土方との距離の近さを恥ずかしがって困っているのか。 どちらに困っての行動なのかは知れないが、唇をぱくぱくと動かしてうろたえるが、どんっと枕を押しつけてくる。 枕越しに見据えてくる男のほんの小さな異変すら見逃してくれなさそうな鋭い視線を、どうにかして避けたがっているようだ。 押しつけた枕をさらにぎゅうぎゅうと彼に押しつけ、それでも迫ってくる土方を、 この暗さの中でも判るほどに頬を赤らめて突き放し、 「〜〜〜っっっ、つべこべ言わずに眠ってくださいぃっ」 「これがつべこべ言わずにいられるか。どう見ても態度が怪しいじゃねーか」 「いいから眠ってくださいよー!とにかく今日は眠ってくれないと困るんですー!」 「あぁ?誰が困るってぇんだ、言ってみろ」 ばしっっ。 滅茶苦茶に押しつけられる枕を片手でがっちりと握り止め、土方は薄い唇の端を吊り上げる。 わざとすべてを見透かしたような、不敵な表情で笑ってみせた。 実際のところは彼女の考えを未だに見透かせていないのだが、の動揺を誘って本音を引き出すには こういった強引な押しの姿勢が有効なはずだ。すると彼の狙いどおり、素直で人を疑わない性格のは 面白いくらいあっさりと彼の罠に引っかかった。土方の手で固定されたために押しても引いても 動かなくなった枕からおろおろと手を放し、膝上に散乱した毛布を握りしめると何やらもごもごと口籠り始めた。 よし、この様子ならもうじき白状するだろう。 ところが土方が口端に薄笑いを浮かべて確信したその時、不測の事態が起こってしまった。 細く開けたままの障子戸から、の髪がふわりと高く舞い上がるような 突風が滑り込んできたのだ。室内へ飛び込んできた風はふたりの間を通り抜け、 土方が手にした煙草の先もひゅんと掠める。その拍子に長さ2センチほどまで 溜まっていた灰がほろりと崩れ、突風に躍った灰と火の粉がめがけて跳び散って―― 「〜〜っっぅわ、ひゃあ、あつっっ!」 「――っ!っ」 いきなり叫んだ女の身体がびくんと跳ねて、二の腕の付け根あたりを細い手がぱしっと叩く。 ぱしぱしとそこばかり何度も叩きづづける仕草は、どう見ても降りかかった火の粉を払おうとしている動きだ。 着物越しでも相当に熱かったらしく、あつい、あつい、と動揺しきった表情でしきりに漏らし、 何とか火の粉を消し止めようと必死だ。その手をあわてて掴み止め、焦りに血相を変えながら土方は怒鳴った。 「馬鹿、素手でやるな!」 「っっ、あっ、そ、そっか、そぅ、ですよねっ」 俺がやる、ときな臭い匂いを放つ焦げ跡を隊服の袖口で繰り返し払う。 払いながら彼女の身体の他の部分に火の粉が移っていないかを素早く確かめるうちに、 そういえば、と指に挟んでいた煙草がいつのまにか手中から消えていることに気付く。 視線をやや遠くまで伸ばしてみれば、座卓の周囲に敷かれた座布団の近くに 赤い光の点がぼうっと浮き上がっていた。飛んだ火の粉との悲鳴に身体が反応した結果、 無意識にかなぐり捨てたらしい。 やばい、燃え移る。 周囲をざっと見渡せば、窓の桟に置かれたコーヒー缶が目に入る。 考える前に手が動き、奪うようにして引っ掴んだ黒い缶を赤い点の方向へ投げつけた。 ぱしゃっっ、と軽い水音が暗闇に散る。ああっ、とがあわててその方向を指差して、 「土方さんっ、畳っ、畳が」 「んなもん気にしてる場合か!おいここだけか、他は」 「えっ、ぁ、あたしはだいじょうぶ、ですっ、熱くて、びっくりしただけで・・・!」 「どこが大丈夫だ、痕が残ったら一生もんだぞ!?そこ捲れ、見せてみろ」 「〜〜っっっ!ちょっ、ぁ、あのっ・・・・・・ひ、土方さぁん」 「あぁ!?何だ、他にも火が飛んだか」 「ぅうん、そそそ、そうじゃ、なくてっ、じゃなくて、も、もぅ、・・・・・・〜〜っ」 やけに歯切れが悪い口調のうわずった声を耳にしながら、ひどくうろたえているの 二の腕を掴む。煙草の灰が嵩んでいたことに気付かなかったほんの一分ほど前の自分が、今は無性に腹立たしい。 歯痒そうに舌打ちした土方は、女物の着物の袖を肩までぐいと一気に捲り上げた。 が払っていたのは二の腕の内側だ。しかし暗い室内で目視できる限りでは、 抜けるように白い素肌に火傷の跡らしき赤みは見当たらない。捲った袖を下ろしてみれば、 淡い色合いで小鳥や草花が描かれた生地には、米粒大の黒点がぽつぽつと数か所に浮き上がっていた。 飛んだ火の粉は思いのほか小さく、着物を僅かに焦がしただけで済んだらしい。 「おい、他に痛みはねぇか」 「な。なぃ、ですっ」 「・・・・・・、そうか――」 ようやく安堵した彼は肩を落とし、いつにない動揺に強張った表情をかすかに緩めた。 に気付かれない程度の短い溜め息を漏らしたところで、放った煙草を思い出す。 振り向けば、さっき目にした赤い点はどこにもなかった。上手い具合に火は消えてくれたようだ。 ぶちまけたブラックコーヒーはとうに畳目に吸い込まれており、今から拭いたところでどうにもなりそうにないが。 「・・・・・・・・・・・っ。ひ・・・土方さぁん・・・っ」 蚊が鳴くようなか弱い声と火照った吐息に、ふっと耳元を撫でられる。 声の近さとわずかに感じた熱の近さに驚いて、土方は思わず顔を上げた。 と同時で目を見張り、言葉を失い黙り込む。 彼を呼んだやわらかそうな女の唇が、すぐそこにあった。 目の前、ほんの数センチ先だ。 距離の近さに今頃になって気付いた土方が、半ば彼女に圧し掛かるようにして迫った身体を身じろぎさせると、 薄く開かれたの唇がぶるりと震える。 ぁ、 と吐息のような響きがその奥からかすかに放たれた。 「・・・・・・っ」 ごくり、と彼は喉奥で息を詰める。 は背後の障子戸に背中を預け、彼と障子戸の間に挟まれるような体勢で身を竦ませていた。 細身な女の身体のあちこちが、暗い室内の窓戸を彩る繁華街特有の艶めいた色調に照らし出されている。 上目遣いで困りきったように彼を見上げてくる、今にも涙を滲ませそうなほど潤んだ目が。 羞恥に淡く色づいた頬が、赤い唇が、滑らかそうな首筋が、肩を覆うしっとりした髪が。 着物の衿元からわずかに覗く胸の谷間や、横座りに崩した太腿まで―― 暗がりの中でも白く発光する素肌の綺麗さに、土方の視線が奪われる。 まるで時間が止まったような感覚に陥り、頭が芯からのぼせ上ってくらりとかすかに視界が揺れる。 自分でも知らないうちに腹の奥に湧き上がっていた熱が喉元までせり上がってくるのを、唐突に感じて―― 「ぁ、あの、もう、いいです、平気です、だから、ははは、はなれてっ」 「――離れろだ?・・・無茶言いやがる」 「え」 「無理だっつってんだ。目の前でこんなもん見せつけられて、引けるかよ」 「っ、ま、まって、土方、さ――、っっ!」 指先で軽く頬を撫でてやっただけで、がびくんと震え上がる 触れられてよりいっそう赤みが増したやわらかい肌を、土方は何も考えることなく手のひらで覆った。 その途端にまたびくんと震えて、んっ、と唇を噛みしめた女は、泣きそうなのに悩ましげな表情できつく目を瞑っている。 男の手に触れられただけで身体の奥にこみ上げてきた、甘い感覚をこらえるのに必死らしい。 土方が指先をそっと肌に這わせるだけで、足元に落ちていた毛布をきゅっと握り締め、 肩から爪先まで小刻みに震わせていた。手中に収まった頬は温かく、けれど瑞々しくて、 絹のように滑らかな手触りが心地いい。こうして触れているだけで腹の奥がどくりと唸り、 息苦しさに溜め息が漏れた。くすぐったそうに竦められた首筋までを何度も繰り返し撫でるだけで、 もともと彼女の手触りに飢えていた身体はぞくぞくと騒ぐ。 一分一秒でも早くが欲しいと、あらゆる感覚が一斉に熱を上げて訴え始めているようだ。 「っ・・・ひぁ、ゃ、ゅ、ゆび、くすぐった・・・!ひ、ひじかたさっ」 「まぁ、つまりだ、・・・お前は平気かもしれねぇが、生憎と俺は平気じゃねぇってこった」 「っきゃ、っぁああのっ、ゃ、ちょっ、〜〜っっ」 もう片方の腕が細い腰を浚うようにして掬い上げ、障子戸の桟に凭れていた身体を抱き寄せる。 同時に唇を塞いでやり、素早すぎる口づけに目を丸くした女の熱くやわらかい中に舌を深く滑り込ませた。 「・・・っ、ゃ・・・!・・・んっ、・・・んふ、んっっ・・・・・・!」 頭を振って拒むの後頭部を抑えつけ、苦しげに喘ぎつつも逃げようとする小さな舌を絡め取る。 くちゅりくちゅりと水音を鳴らして口内を掻き混ぜたが、幾日ぶりかの口付けはいくら激しく求めても 満足するどころか物足りなさを煽るだけだ。撫で回している女の舌が泣き声混じりの抵抗を見せるほどに、 もっと、もっとと彼女のやわらかさや甘い肌の匂い、せつなそうな喘ぎ声が欲しくなるばかりできりがない。 ここがどこかも忘れて腕の中にきつく抱きしめ、すっかり紅潮した頬に乱れ掛かった髪を梳きながら、夢中でを貪った――

「 すべての夜とすべての朝に 前編 」 text by riliri Caramelization 2016/05/05/ ----------------------------------------------------------------------------------- 前後編です 副長今年もおめでとうしろう!       next →