猫 可 愛 が り に も ほ ど が あ る *7 いくら酔っても昔語りなどすることがなかったあの親父が、酒の席で折に触れては ガキの頃のあいつの話を持ち出すようになったのはいつからだったか。 どこが境目だったのか、はっきりとした覚えは無いが、 ――おそらくは、俺がの周辺と過去についてを本腰を入れて探り始めてから。 最初は親父の思惑が掴めず、戦々恐々とさせられたものだ。 それまでのとっつぁんはといえば、ことに関してだけは 「なぜそこまで」と近藤さんや俺が驚くほどの徹底した秘密主義を貫いていた。 酒が入っても素面でも呆れるほどによく回る不良親父の巻き舌は、 の話に限ってはその軽快さがなりを潜めてしまう。 これまでに開示されたあいつについての情報は、俺達がしつこく要求した時に 投げて寄越した文書が数枚。 それも親父個人の所見が加味されたものではない。どれもが役所仕事の 見本のような薄っぺらさだ。こいつは何だ、ふざけてんのか、と 長官席でふんぞり返る白髪ジジイの胸倉を掴んでやりたくなるほどにはおざなりだった。 ――そんな親父が、今になって何を。もしかして、俺にカマを掛けてやがるのか。 表面上はシラを切りつつも腹の中では狸親父の魂胆を疑い、とっつぁんの口から あいつの名が出る度に自業自得な後ろめたさで背筋を冷やしながら、 俺はどこかでの話を心待ちにしていた。 酔いどれ親父の気分次第な昔話が始まるのは、馴染みの店でひとしきり騒ぎ、 ほろ酔い気分に機嫌を良くしたおっさんの顔が朱に染まりきったその後だ。 記憶の中の情景を懐かしむような表情が、グラスを口に運びながらぽつぽつと漏らす与太話。 そんな話の断片を脳裏で重ね合わせれば、見たこともない子供時分のあいつの姿が浮かび上がる。 浮かぶ少女はどれも今よりいとけなく、何度か目にした義父の傍で屈託もなく笑っている。 好き勝手にでっち上げた偶像とはいえそんなあいつは幸せそうで、 味は良くても好みに合わない高級酒を流し込むための酒の肴としては悪くなかった。 「――それでよーぅ、を育てた義理の親ってのがよー、昔気質の古臭せぇ男でなぁ。 武士たる者質実剛健を旨とすべし、なんて時代錯誤な教義を未だに信じて、てめえの娘にも説くわけよ。 おかげでは贅沢なんざこれっぽっちも知らねぇ、不憫なくれー慎ましい娘に育っちまって・・・ ・・・っておぉい、聞いてるかぁ。オジサンの話聞いてんのかあぁトシぃぃ」 「聞いてるよ。こんだけデケぇ声で喚かれてんだ、聞こえるに決まってんだろ」 あれは一ヶ月以上前。 冷えた雨風が街に吹き荒れ、満開の桜を一晩で浚った花嵐の夜だ。 あの日、俺達は親父行きつけの会員制クラブに呼び出された。 店中の女を掻き集めた賑々しい宴もそろそろお開きだろうという頃、 何を思ったか始まったのがの親の話だった。 父母を失くしたを引き取り育てた貧乏道場の主で、 元は将来を嘱望される幕臣だったという白石彰一郎。 順風だろう出世街道を自ら蹴った偏屈ジジイは、それまでにも幾度か宴席での昔語りに登場していた。 「しかしわからねぇもんだな。その堅物親父とあんたじゃ、 水と油みてぇなもんだろうに。よく付き合いが続くもんだ」 「あいつとはガキの頃からの腐れ縁だ、気が合う合わねぇ以前の仲よ。 まぁ、気のおけないダチってのは大概がそういうもんだろ。お前とそこのゴリラみてぇにな」 そう言うと親父は俺の横へと視線を流した。 長椅子にだらりと寝そべる酔っ払いは、どんな夢を見ているものやら 時折へらへらと笑い出し、「お妙さぁあああん」と幸せそうな寝言をこぼす。 かと思えば眉を顰めて冷や汗を流し、「うごごごごっっ、いい息っ息止まるうぅぅっ、 死ぬうぅっっやめてお妙さぁああんっ」などと喉元を押さえて悶絶するのだから忙しない。 一体どんな夢見てんだ、と呆れ半分に眺めていると、おい、と 親父が空のタンブラーを突き出してきた。 珍しい催促を不思議に思って辺りを見回し、ああ、と気付く。 いつの間に人払いされたものか、店の女達は席から姿を消していた。 「・・・まだ止みそうにねぇなぁ。お前、もうしばらく付き合え」 「構わねぇが、あんた明日は朝からどこぞの式典に参列だとか言ってなかったか」 「なぁにこの雨だ、朝には会場が水浸しで使えねぇだろ。ああ絶対そうなるな、そうなるに決まってる」 「何言ってんだ長官殿が」 何食わぬ顔で夜景を眺める親父の言葉に苦笑しつつ、空のグラスに氷を落とした。 格式張った老舗ばかりが軒を埋めた一等地、しかもその高層階に看板を掲げる高級店だ。 煌びやかな店の様子を鏡のように映し出す展望窓からは、夜が更けるにつれて 強まってきた雨風や、大雨に煙る中にも無数のネオンを輝かせている歓楽街の様子も一望できた。 「いらっしゃいませ、松平さま」 声が響くほうへ目を向ければ、見知った顔と目が合った。 とっつぁんが陣取った椅子の後方から、しっとりとした色香を振り撒き近づいて来る。 数組の客の間をひらひらと掛け持ちで飛び回っている、この店きっての売れっ子だ。 「今日は他の子を指名なさったのね。ひどいわ、わたし待ってたのに」 「おーぅ茉莉花ちゃん、今夜も綺麗だなぁ。初めて見る着物だが似合ってるじゃねーの」 「まぁ嬉しい、気づいてくださったの。今日卸したばかりなのよ」 「次はわたしも同席させてくださいね」と甘い声音で囁くと、 深紅の振袖を纏う細腕をとっつぁんの肩に絡めつかせる。 「土方さんも、またいらして下さいね」 店の敷居を数度跨いだ程度の俺にも如才のない微笑を向けた女は、 親父と次回の約束を交わして他の席へと移っていった。 贔屓筋への挨拶回り。いや、機嫌取りとでもいったところか。 こんな場面は特に珍しいわけでもない。道楽ジジイの 豪気な夜遊びのご相伴に預かれば、一夜のうちに二度か三度はお目にかかる光景だ。 橡色の硝子瓶のコルクを捻り、燻製のような香りを漂わせる蒸留酒をグラスに注ぐ。 すると、フン、と親父が面白くなさそうに鼻を鳴らして、 「茉莉花ちゃんもあいつも、こんな朴念仁のどこがいいんだかよぅ」 「あぁ?」 「何でもねーよ、ただの喩え話だよ。 てめえに飲ますには勿体ねーくれーの、上等な酒ばかり集まってきやがるってぇ話だよ」 「・・・?どういう喩えだ、そりゃあ」 俺をじろりと睨むだけで黙りこくったとっつぁんは、テーブル上にどかりと足を投げ出しふんぞり返る。 間もなくタンブラーの半分ほどが琥珀色で満たされると、親父の口は再び開いた。 「――で、その堅物親父がよぅ」 「あぁ」 「・・・融通の利かねぇ商売下手が町道場なんぞ開いたものの、門弟は 刀なんぞ握ったこともねぇ町人やガキ共と、白石の経歴を耳にしてやって来る浪人ばかり。 士官の伝手欲しさに群がってくるだけの奴等は、当然長くは居着かねぇ。 言うまでもなく家計は火の車だ。 の乳母だった婆さんがどうにかこうにか遣り繰りして、ガキ二人を食わせるのがやっと。 娘の着物代にまで手が回らねぇってんで、こんくれぇのチビだった頃から、 あいつの着物は時代遅れの古着ばかりでな」 「こんくれぇの」と言いながら、親父は自分の腹の高さほどを指す。 テーブル上を滑らせてやった酒のグラスを手に取ると、咥えられた煙草の先がほろ苦い笑みでふっと揺れた。 「が寺子屋を出る頃には兄貴の学問所代が嵩んできやがったし、道場の経営も 思わしくなかった。潰れかけた道場をどうにか盛り返そうと必死だった孝行娘は、 近所の姐さん連中から貰い受けたお古をいじましく仕立て直して着てるわけよ。 本人はむしろ進んで古着に袖を通してたようだがな、こっちは納得いかねぇよ。 せっかく母親似の別嬪に育ったってぇのに、身に着けてんのは地味で煤けた襤褸布ばかりだ。 街に出りゃあ、同じ年頃の娘がやれ晴れ着だ何だと着飾ってんのによぅ・・・」 「・・・うーん、そうかぁ・・・・・・そーだったのかぁぁぁ」 俺の隣でまどろんでいた人の気配がふと変わり、短く髪を刈った頭がふらりと上がる。 寝転んだままで腕を伸ばし大欠伸をついた近藤さんは、どう見ても酒気が抜けきっていない寝惚け面だ。 眠そうな目はどんよりと濁り、今にも瞼が落ちそうだった。だというのに、得心したとばかりな顔で俺の眼を覗き込んで、 「なぁトシぃ、だからは流行りの短けー着物ばっか着てるのかぁ?」 「あぁ?」 「金に困ってる親父さんの手前、欲しいと言うわけにもいかなかったもんをよー、 今になってやっと自由に楽しんでるんじゃねぇか。なぁ、そうだろ?なぁトシぃ、聞いてるー?どうなんだよぉぉ」 「知らねぇよ、本人に訊けよ。つーかあんたいつ起きた」 「の着物が古着ばっかだってあたりだよぉ。そうかそうかぁ、苦労したんだなぁもぉぉぉ、なぁトシいぃぃ」 「だから俺ぁ知らねぇって。そのへんのこたぁに訊けよ」 人の腿をべしべしと叩いて酔っ払いは絡んでくるが、 隊服から出した煙草を咥えながらその手を避けた。 俺の口からあいつの名が出た途端にとっつぁんの目は訝しげに細められたが、 何か追及したがっているようなその視線も気付かないふりでやり過ごす。 酒に酔った近藤さんが失言を増やし、その都度俺が話の矛先を逸らすのはいつものことだ。 の名を口にすれば親父の反応が剣呑さを増すのも いつものことで、その時の俺にとっては別段気になることでもなかった。 「で、着物がどうしたって」と話の先を促せば、親父は何か不愉快なものでも思い出したような渋面を作って、 「でよぅ、聞きゃあ祭りに着ていく浴衣までお古だっつうから、 それはさすがに不憫だってぇんで俺が贈ってやったわけよ。 若い娘が好きそうな流行りのやつをな。まぁ、見立てはうちの母ちゃんに任せたが」 「へぇ。そいつは喜んだだろ」 「ああ、はな」 渡した時の嬉しそうな顔ときたら、今でも忘れられねぇよ。 そう口にすると同時で顔を緩ませ、ヤクザ面が板についた不良親父はでれでれと相好を崩した。 ところが何を思い出したのかたちまちに表情を豹変させ、グラスをテーブルに叩きつける。 ぱしゃりと宙に躍り上がった酒は、うちの平隊士どもの給料一ヶ月分を 全て注ぎこんで買えるかどうかの逸品だ。その高級酒が黒檀らしきテーブルの 重厚な木目にあっけなく吸い込まれた頃には、親父の顔はとてつもなく不愉快そうに顰められていた。 「・・・だってぇのにあの頑固親父、いくら金に困ってもお前の世話にはならん、 とか何とか文句つけて突き返しやがった。 それで揉めに揉めて、襤褸道場で取っ組み合いの喧嘩になって。がえらく慌ててなぁ」 「はぁ?取っ組み合いだぁ?…あんたなぁ、ちったぁ年甲斐ってもんを考えろよ」 呆れたもんだ、と俺は隣で溜め息まで吐いたが、 当時の激昂で頭を熱くした親父の耳はどちらも素通ししたらしい。 同席する俺達の存在など忘れているような様子で吸い差しを噛みしめ、それをぐしゃりと灰皿で潰すと、 「終いには「自分の事で喧嘩しねえでくれ」ってが泣き出しちまったもんで、 ようやくあの偏屈も我に返って折れたわけよ。 その後でよー、他に礼も出来ねぇから、ってが俺に手紙を寄越してな。 友達に見劣りのしねぇ格好で祭りに行けて嬉しかった、今までは引け目を感じて 楽しめなかった祭りがこれまでよりもずっと好きになれました、来年も 頂いた浴衣でお祭りに行けるのが楽しみです、ありがとう小父さまってよぅ。 それがまた琴音さん似の素直で可愛らしい字面でよーぅ・・・どうだお前も見たいだろ、見せてやるよ今度」 「――」 同じ長椅子で隣り合わせたこの距離で、まっすぐに顔を合わせて尋ねられれば避けようもない。 表情に動揺を出すことこそなかったが、俺はわずかに視線を揺らして躊躇った。 ――来た。釣りにかかってきやがった。 ごくり、と思わず息を呑んだことに、抜け目のない狸親父が気づいたかどうか。 どうにかその顔色を窺おうにも、雰囲気重視な店の照明は薄暗い。 そのうえ親父の表情は暗色のサングラスに隠され不明瞭だ。 ・・・どうする。ここは乗ってみるべきか。それとも興味など無さそうに装うべきか。 いや、それとも――これこそ潮時というやつなのか。 ここ数か月というもの、この過激でキレやすい親馬鹿ジジイの 報復を恐れた俺と近藤さんは屯所全体に緘口令を敷き、 俺との新たな関係をひた隠しにしてきた。 しかしいくら隠したところで、人の口に戸が建てられるものではない。 バレるのは時間の問題だ。それに――俺だけならまだしも、にまで嘘を吐かせているのだ。 あいつのためにも、この状況に早くケリをつけてしまいたい。そういう思いは常にあった。 ・・・どうする。 いっそここで腹を決めて切り出してみるか。 いや、だが、この手の店で、というのはどうか。酒の力を借りて言い出すようでは、 俺が中途半端な気持ちでに手を出したと思われかねない。それではこっちも不本意だ。 何しろ俺は、あれを自分のものにしただけでは飽き足らず、その先のことまで見据えているのだ。 その本気度を示すためにも、互いが素面の時を狙うべきだろう。 しかし、だったらどこで切り出せば―― ところが俺が顔中を強張らせて逡巡していたその時、がばっと横で赤ら顔の酔っ払いが跳ね起きて、 「おぅ、手紙かぁ!見る見る!なぁトシ、見るよなあっっ」 「あぁ、いや、・・・俺ぁ別に」 「フン、言われなくとも見せねーよ。何があろうとおめーにだけは見せてやらねーよぉぉ」 「・・・・・・」 気乗りしなさそうな体を作って断れば、さっきまでとは打って変わって冷えきった親父の声が告げてくる。 無論顔には出さなかったし、向こうも気づかなかっただろう。 だが、正直その瞬間は背中に伝う冷や汗が止まらなかった。 「・・・つーかあんた、その手紙わざわざ取っといたのか」 「あぁ?そりゃあ大事に取っておくに決まってんだろぉ。 栗子が幼稚舎の時に描いた絵と重ねて額に入れてな、たまに酒呑みながらこっそりと」 「そうか。親馬鹿ここに極まれりだな」 「てめえも判っちゃいねぇなぁ。そういうもんなんだよ親ってぇのは」 呆れたような口調でボヤいたとっつぁんが、眉間に皺を寄せて苦笑いをこぼす。 辛そうな琥珀色の酒を口に運び、まるで水でも飲むかのような勢いでグラスの中身を飲み干すと、 「ちっ、白石の奴・・・今思い出しても腹が立つ。 いーじゃねーかよ浴衣の一枚くれーよー。俺ぁただ、あいつに知ってほしかっただけなんだよ。 どこにでもいる年頃の娘の、どうってことねぇ楽しみってやつをよー」 何年越しかの不満と本音を吐き出すと、空のグラスをテーブルに下ろす。 酔いが回って目つきも呂律もいよいよ怪しくなったとっつぁんは、グラスの中の 虚空を見つめてほんの僅かに肩を落とした。 意外そうに耳を傾けていた近藤さんが細い目尻をふっと下げ、どこか嬉しげににんまりと笑う。 橡色の酒瓶を親父の目の前で掲げ持つと、 「よーし、今夜は飲むかとっつぁん!ぱーっといこうぜ、ぱーっと!」 「・・・おいゴリラ、どう思う。俺ぁ間違ってねーよなぁ?余計なこたぁしてねぇよなあぁぁ」 「あれっひでーなぁ、そこでゴリラはねーだろぉ」 ははは、と豪快に笑い飛ばした近藤さんが、指の間に挟んだコルクを一息に引き抜く。 傾けた瓶から流れ出る酒をとっつぁんのグラスに注ぎながら、 「まぁ間違ってるかどうかは判らねぇが、あんたとの親父さん、 どっちもを大事にしてきたこたぁよく判るよ」 「けっ、言うじゃねぇか。娘どころか嫁もいねぇ独り者が」 「独り者でも感じるところはあるもんさ。俺もなぁ、を見てるとたまに思うんだ。 俺達に混ざって刀握ってるあいつにも、年頃の娘らしい楽しみってぇのが必要なんだろうなぁってよー。 それによー、あいつが嬉しそうに笑ってるだけでうちの奴等の士気も上がるしな!なぁトシ、そーだよなぁ」 「だから俺に訊くなって・・・」 この場で事を荒立てたくなかった俺は、どうでもよさそうなふりを装いライターを出した。 隙を見せれば食らいついてきそうな親馬鹿ジジイの目の前だ、 目立つ反応は不味いだろう。わざと視線を窓へと逸らし、風雨に打たれる深夜の街に目を向ける。 しかし、そうして興味なさそうに振る舞いながら――腹の内ではあの人に同意していたのだ。 とっつぁんの話に耳を傾けながら頭の隅に浮かべたのは、近藤さんと似たような思いであり、 それを元にして生まれた一つの問いかけだった。 年頃の娘らしい楽しみ。そう呼べるようなものが今のあいつにはあるのか、と。 ――血生臭い生業に身を投じてまで俺の傍にいると決めたあいつに、 普通の娘としての道を捨てさせたことを後悔させるつもりはない。 だがとっつぁんの話を聞けば、自然とその自負も曇りを帯びる。 これでいいのか。知らぬ間に俺は奪っていやしないか。そう自分自身に問わざるを得なかった。 そしてその問いかけと共に湧いてきた後ろめたさも、認めざるを得なかった。 こうも俺が引っかかっているのは、頭の隅に多少なりともそういった自覚や罪悪感があるからだ、と。 「・・・つーか、多少どころの話じゃねぇな。引っかかりまくりじゃねぇか・・・」 「あぁ?トシぃ、何か言ったかぁ?」 「いや。言ってねぇ」 不思議そうに尋ねてきた酔っ払いから顔を背けて、陰でひそかに眉間を顰める。 これまでの自分を思い返してみれば、何とも不甲斐ない気分になった。 結局のところ、俺は無意識にに甘えていたんだろう。 日々の忙しさを言い訳に。荒事ばかりの任務に明け暮れる仕事漬けの毎日に、あいつが文句一つ口にしないのをいいことに。 だが、何か、 ――そう、せめて、ひとつふたつ程度はある筈だ。 娘に甘いこの親父が見つけたように――今のに、こんな俺でも与えてやれるものが―― 「――どうしたんですかぁ、難しい顔しちゃって」 口に咥えた煙草の先を睨みつけつつ考えていると、笑い混じりな女の声に話し掛けられた。 と同時に、鼻先に光る何かが差し出される。 ライターの火だ。気付けば目の前にあったそれにはっとさせられたが、 今は頭の中で纏まりつつある考えのほうを優先させたい。 それに、客の煙草に火を灯すのはこういった店の女たちの仕事の一つだ。 俺はさほど不思議に思うこともなく、咥えっ放しにして忘れていた煙草の先を小さな炎に寄せていった。 「・・・ああ、あれだ、その、大した事じゃねぇんだが、ちょっとな」 「眉間に皺が寄ってますよー、また何か考え事でもしてたんですかぁ土方さん」 「あぁ、まぁ、そ――」 そんなところだ、と言いかけた口が止まる。 差し出された火が煙草の先を焦がす直前、ライターを両手に包み持った女の顔が目に入ったからだ。 そいつは緊張感のかけらも感じられない緩みきった顔で、やけに嬉しそうに笑っていた。 普段とは髪型が少し違い、頬や唇に挿した紅の色も違う。 頭には飾りの猫耳、細身な身体を包む黒のメイド服、ひらひらと揺れる白いエプロン―― 「――っっ、!?ぉ、お前、んなとこで何やって――」 「何ってメイドですよー、猫耳メイド!ねぇどうですかぁ、可愛いですかぁ」 「・・・・・・ぁ、あぁ。まぁ・・・・・・だな」 呑気そうに間延びした声で尋ねられ、恥ずかしがり屋のこいつらしくもないと違和感を感じる。 がこういったことを言い出す時は、どこか照れ臭そうに俺の様子を窺い、 それから冗談めかした風を装って尋ねてくるのが常だからだ。 しかしそれでも、突然の登場に唖然とさせられた俺は乞われるままに頷いた。 ・・・ああ、そうだ、可愛い。確かに可愛かった。 心から楽しそうな笑顔を振り撒き祭にはしゃぐこいつの姿は、 何の脈絡もなくとっ掴まえてそのまま腕の中に閉じ込めておきたくなるくらいには可愛かった。 おかげでこっちはすっかり調子を狂わされ、朝かららしくもない真似ばかりだ。 そう、例えば――俺を呼んで駆け寄ってくるこいつの笑顔に見蕩れたり。 祭り客がそぞろ歩く通りのど真ん中で、人目を全く憚ることなく猫耳頭を撫でてみたり。 その程度で済めばまだ良かったが、飯を食った直後には、 人目の遠さをいいことにもっととち狂った真似もした。 止めるつもりが止められなかったのだ。 他愛ない嫉妬心を恥じてうつむく薄紅色の頬に、見覚えのない色に染まった唇に、 どうしようもなく掻き立てられた。あの唇に一度触れてしまえば 理性は歯止めを果たしてくれず、軽く触れて終わるはずが我を忘れて貪った。 そうしてしまえば、あの身体の柔らかさや甘い匂いまで確かめずにはいられなくなると知ってはいたが―― 「・・・ん?いや、待て、どういうこった。 何でお前メイド服なんざ着てんだ。こいつは今日初めて着たもんだろ。だってのにどうしてこんな店で」 「まぁまぁ、いいじゃねぇか細かいことは。今日は祭りだ、ぱーっとやろうぜ」 「っっ!?こっっっ、近藤さん!?」 背後から肩を掴まれ振り向いてみれば、口端に挿した煙草がぽろりと落ちる。 ついさっきまで隊服を着ていた人がどんな早変わりをしたものか、 近藤さんはと揃いの格好に身を包んでいた。 ただしそのメイド姿ときたら、とは似ても似つかない全くの別物。いや、全くのゲテモノだ。 「〜〜〜いや待て、何だこれ!?何なんだ、どーいうこった、 そもそも、お前、ここは会員制だぞ?どうやって店ん中まで入って」 「そりゃあ俺が呼んだからに決まってんだろぉ」 血相を変えてに詰め寄ろうとしたところで、それまで黙っていたとっつぁんがおもむろに腰を上げた。 グラサン越しの食えない目つきが、困惑する俺を威圧感たっぷりに見下ろしてくる。 ふぅ、と短く煙を吐いて、 「おーい聞きやがれクズ野郎」 「――っ」 いまいましげに言い放たれ、不意に湧いた既視感に固唾を呑んだ。 ――既視感。そう、既視感だ。 今のとっつぁんの表情には見覚えがある。 いつだ。いつだった?つい最近のはずだ、クズ野郎と罵られたのは―― 「はっ、こいつは見物だ。どうしたトシ、てめえらしくもねぇ仰天面だな。 こんな手にまんまと引っかかるようじゃ、鬼の副長とやらもまだまだケツの青いガキだってぇこった」 「――と。とっつぁん・・・?」 「普段のお前なら気付いたはずだぞ。 こんなもんは娘を盗られた親父の腹いせで、何も本気で飲めなんて思っちゃいねえってことはな」 そう言いながらとっつぁんは何かをぽいっと投げつけてきた。 からんからんと音を立てて駒のように足元へと 転がってきたのは、どこかで見たような銀のボウルだ。 それを呆然と見つめる間に、どこかで嗅いだ気がする強烈な酒臭さが辺り一面にさぁっと広がる。 うっっっ、と喉からこみ上げてきた不快さに呻いた俺は、後ずさりながら鼻と口を覆った。 何だ?なんなんだ、この強烈な吐き気は。 今にも喉から飛び出しそうな嘔吐感をこらえつつ、長椅子の背凭れに崩れ落ちる。 突拍子もない状況の変化に戸惑いながら親父の様子を窺ったが、なかなか吐き気は収まらないし、 急激な体調の悪化のせいで目まで回ってきたらしく、周囲の景色がぐらりぐらりと歪みを帯びて揺れ出した。 平衡感覚が急に消え失せたような気持ち悪さが襲ってきて、耐えきれずにきつく目を瞑る。 どうにか揺れが収まったと感じてから、おそるおそる瞼を上げていく。すると―― 「・・・!」 どういうこった、とまた目を見張る。 ほぼ真上から俺を見下ろすとっつぁんは、 武田のオネエ仲間だというけばけばしい三人組を左右に侍らせていた。 親父と腕を組んだ桃色のドレスの奴が嫣然と微笑み、 青いドレスの奴が「じゃあね副長さん」と俺に手を振ってみせる。 とっつぁんがくるりと踵を返せば、その背後に寄り添った 白いドレスの奴は芝居がかったウインクを投げてきて、 「いつでも遊びにきてね、待ってるわぁ」などと意味不明な戯言をぬかす。 ――何だ、あれぁ。あいつら何処から現れた。 俺が目を瞑っていたのは、ほんの数秒といったところ。奇術師か何かの大仕掛けにしたって早すぎだ―― 「・・・!?どうなってんだ、これぁ一体」 「よーし、雨も止んだしそろそろ次の店に行くとするか」 「賛成ー!今夜は飲み明かしましょうね渋いオジサマぁ」 「おぅ、今夜は俺の奢りだ、好きなだけ飲んでいいぜ姉ちゃんたち。 ああ、も俺と来い。このままお前をクズ野郎の側に置いとくわけにはいかねぇよ」 「はーい!じゃあね土方さん」 「はぁ!?いや待て、お前どこ行く気だ!?待てよとっつぁん、!」 ひらひらと手を振り離れていくは、なぜかメイド服から浴衣姿へと衣装を変えている。 白地に藍色で描かれた満開の紫陽花。古風だが上品な柄はあいつの雰囲気によく似合っていた。 どこかで目にしたようなそれが、一昨年の夏の縁日であいつが身に着けていたものだと 気付いた時には、とっつぁんを追っていそいそと駆けていく女の両脇に男二人が出現していた。 一人はシルクハットに燕尾服のウサ耳小僧。何気なくと手を繋ぐと こちらに視線を送ってきたクソガキは、焦る俺の心中を見透かしたかのような優越感たっぷりな顔で笑った。 そしてもう一人は――胸糞悪いことに、未だににちょっかいを 出してくるあの銀髪侍だ。浴衣姿の細腰にさりげなく腕を回して 抱き寄せた野郎は、総悟と同じように俺を見遣り、崩れきったにやけ面で目を細める。 そしてその背後には、仮装行列と見紛うような馬鹿げた格好の集団がわらわらと続いた。 ついさっきまではメイド姿だったはずが、なぜかパンダの着ぐるみを被った近藤さん。 なぜか頭に巨大なたこ焼きを乗せ、手錠を掛けられうなだれているのは昼間に逮捕した引ったくり犯だ。 をナンパしやがったチャラついた金髪三人組は頭にオムライスを乗せているし、 祭り会場の門前で風船を配ったチビ二人はなぜか総悟と同じウサ耳を生やし、 無邪気な様子でぴょんぴょんと跳ねては俺の横を通過する。 どこからともなく唐突に現れた山崎に原田、その他大勢の女装メイドたちもガキの後に連なり、 行列の殿を務めるのは赤のロングドレスを着込んだ屈強なオカマで、 「やったわ、これで売上目標達成よ!ほーほほほほ!」と口元に手を添え、 野太い声で高笑いしながらハイヒールを鳴らして遠ざかる。 どこからどう見ても奇妙奇天烈なそいつらは、わいわいとがやがやと、やけに楽しげに去っていく。 追いかけようにも全く床から足が離れず、悔しさにぎりぎりと歯噛みして総悟と万事屋を睨みつける俺を残して。 『俺はに何もしてやれねぇ、不甲斐ねぇ親父だ。 だからせめて、あいつを託す奴の覚悟だけでも試しておきたかったのさ――・・・』 立ち尽くす俺に天啓でも授けるかのように、酒嗄れした不良親父の声が頭上から響いた。 はっとして真上を見上げれば、そこにあるはずの店の天井が消えている。 代わりに広がっているのは、武州の田舎で目にしていたようなどす黒くだだっ広い夜空だ。 どぉおおおんっっ、と鼓膜を震わす破裂音が鳴り、色鮮やかな閃光を撒き散らす特大の花火が闇を彩る。 どう考えても辻褄の合わないド派手な光景に息を呑みつつも、俺は我が目を疑った。 おかしい、なぜ上から声が降ってくるのか。オネエどもに囲まれたとっつぁんの姿は前方にあるのに。 「〜〜って、んなこたぁ構ってられるかあぁぁ!おい待てそこのクソジジイっっ」 瞬間接着剤でも塗られたかのようにべったり貼りつき動かない足を どうにか前へ動かそうと躍起になりつつ、テーブルから取り上げた酒瓶を 半ばヤケクソで投げつける。まるで歓楽街のネオンでも着込んでいるようなギラギラと 眩しいオネエに囲まれた親父に怒鳴りつけたが、 酒瓶は虚しく床で割れ、高級酒の飛沫は宙に躍り、親父の背中は振り向かない。 ――そうだ、花火なんぞに気を取られている場合じゃねぇ。 何が「試しておきたかったのさ」だ、酔いに任せて尤もらしい言い訳ほざきやがって!! 「あいつを託す」だと? あんたどう見ても俺に託す気なんざねぇだろうが。 どっちかっつうと逆だろうが、俺からを引き離す気満々だろーが!? 「っっ、戻れ、戻って来い!つーかてめえらも待ちやがれそこのウサ耳と馬鹿侍! 特に馬鹿侍っ、てっっめええぇぇ人が動けねーのをいいことにどこ触ってやがる!? 今すぐそいつから離れねぇとぶった斬んぞコルあぁぁ!」 ついには腰に提げた刀まで握り、腹から出した大声で怒鳴りつける。 するとその声が届いたのか、がこちらに振り返った。 去っていく集団の中で一人立ち止まった女は、暗闇の中に俺を見つけると、 何がそこまで嬉しいのか、と不思議になるほどの無邪気な笑顔をぱぁっと咲かせる。 かと思えば紅で染まった唇がやわらかく動き、「土方さぁん」とどことなく気遣わしげに俺を呼んで、 「大丈夫ですか、気分悪いんですかぁ。あ、そうだお水、お水持ってきましょうか」 「はぁ!?水?お前何言って」 「あれっ、土方さぁん・・・?もしもーし、聞こえてるー? 聞こえてますかぁー?聞こえてたら――・・・」 の声を爆音が遮る。頭上では絶え間なく花火が打ち上げられていた。 遥か上空で弾け散ってあっけなく消えるはずの大輪は、 地上に降り注ぐ光の雨のように俺達の周りに落ちてくる。 きらきらとちかちかとばちばちと、騒々しく瞬く無数の粒が目に煩い。 おかげで暗闇に佇む女の姿は目映いくらいに浮き上がって見えた。 土方さん、とまた呼ばれ、白くか細い指先が、すう、と俺へ向けて差し伸べられる。 男の身体にはどこにも持ち合わせがない、滑らかな曲線で造り上げられた身体。 白地の浴衣に包まれたその身体が一歩、また一歩とこちらへ踏み出す。軽やかな足取りで駆けてくる。 いつ見ても何故そこまで嬉しそうなのかと不思議になる、ガキのように純真な笑顔。 その表情を目にすれば胸が詰まって、らしくもない安堵感や嬉しさが身体中を熱くした。 「・・・そうだ、どこにも行くな、戻って来い・・・!」 戻ったところで今までと同じだ。たいした事ぁしてやれそうにねぇ。 だが、親馬鹿ジジイにお前の何を託されたかも、「不甲斐ねぇ親父」などという とっつぁんらしくもない自虐の言葉に秘められた意味も、誰より俺が知っている。 だからこそ俺は託されたのだ。 普通の娘でいたかったはずのあいつに、せめて普通の娘の真似事だけでもさせてやるための盾になれ、と。 そう思えば腹の奥底から力が湧いて、地面を踏み込む足にも力が籠る。 自分をこの場へ縛りつける力をようやく振りきり、俺は前へと踏み出した。 駆け寄ってくる女を抱き止めようと、身体を震わす爆音と流星群めいた光を降らせる闇の先へ手を伸ばした――
「 猫可愛がりにもほどがある #7 」 text by riliri Caramelization 2015/08/29/ ----------------------------------------------------------------------------------- next →