「・・・・・・?」 テーブルを片付ける手を止めて、後ろのソファに振り向いてみる。 そこで寝込んでいるひとに、名前を呼ばれたような気がしたから。 だけど振り向いてみれば、こちらに背を向けて横たわる姿にあまり変化はなかった。 少し変わったところといえば、さっき被せておいた毛布がもう少しで床にずり落ちそうになっていることくらいだ。 猫 可 愛 が り に も ほ ど が あ る   *8 カフェの看板を仕舞い忘れていたことを思い出して、あたしは一度外へ出た。 黒板にチョークで書かれた手作り風なメニューボードを、両腕に抱えて持ち上げる。 もしかしたら全くお客さまが来ないんじゃないかって心配していた真選組カフェだけど、 お店をプロデュースした武田さんの尽力の成果もあって、予想以上に大勢の人が来てくれた。 そのおかげで、夕方の時点で売上目標をみごとに達成。用意した食材も あれこれと尽きかけていたところだったから「ちょうど客足も切れたことだし、 ここらで営業終了しておくか」という近藤さんの提案に従って閉店したのが一時間前だ。 入口横に提げたアンティーク風のランプも今は明かりが消えているし、 その下に置かれた椅子には、同じくアンティーク風な「CLOSED」の札もちょこんと載ってる。 とはいっても、早々に店仕舞いしてしまったのはあたしたちのカフェだけ。 お店の外に一歩出れば、朝から人がひしめいていたお祭り会場はまだまだ盛況が続いていた。 「わぁ・・・、きれいー。きらきらしてる・・・」 目に飛び込んできたのは、道を挟んでずらりと並ぶ屋台の間でぽうっと光る提灯の赤。 遊びに来ているご町内の人たちの姿を照らし出す、色とりどりな屋台の看板。 夜のお祭りっていいなぁ、と嬉しくなって目を細める。 人が多くてまぶしいくらいに明るいのはかぶき町なんかの繁華街と同じだけど、 繁華街のド派手な雰囲気にはない風情や情緒があるっていうか、もっと光がやわらかくて和やかなかんじがするよ。 通りを挟んで向かいには夕方からお客さんの列が途絶えないお好み焼き屋さん、 その先には香ばしい匂いを漂わせるイカ焼き屋さん。そのまた先のお店には、紅い宝石みたいな林檎飴が並ぶ。 爪先立ちで背伸びして通りのもっと先まで眺めてみると、どのお店の前にも人が溢れてた。 だけどメニューボードを抱えて入口を潜れば、たった二人しかいないカフェの中は 通りとは対照的にひっそりしていて薄暗い。ビーズのネックレスみたいな飾りが たくさん下がった可愛らしい照明が、入口の辺りをぽうっと白く照らしてるだけだ。 こうして改めてお店の中を眺めてみると、なんだか不思議な気分になってしまう。 すぐ外では人の声や屋台の呼び声が飛び交ってるのに、 ここには賑やかなお祭り会場から隔離されてるような空気感が漂ってる。 朝から続いていたカフェの盛況まで夢みたいに思えてくる静かさだ。 片付けていたテーブルに戻って、お水のグラスをかちゃかちゃ音を鳴らしながら重ねていくと、 どこか遠くからどおぉぉぉんと、お腹に響く音が届く。 その振動でお店の屋根になっている天蓋が小刻みに揺れて、テーブルや食器も微かに震える。 このお祭りを締め括るメイン行事、河原での花火大会が始まったみたいだ。 間もなく二発目らしい音と地響きがやってくると、寝ているはずのひとの肩がびくんと揺れた。 今の音で目が覚めちゃったのかな。 あたしはヒールの音を立てないように、そーっと、そーっと、爪先立ちで近づいていった。 「もしもーし。土方さぁん・・・?」 上からそうっと覗き込んでみたら、どう見ても安眠してるとは思えない 険しい寝顔は瞼をぎゅっと閉じたまま。さっきはびくんと動いた肩も、 規則正しい寝息に合わせて上下してる。 多分今のは、突然鳴った大音響に身体が反応しただけなんだろう。 それじゃあせめて、間近では大きな音を立てないように気をつけようと思って、 そーっと、静かに、テーブルに広がったグラスや食器をトレイに積み上げていく。 最後に乗せたのは、松平さまが使っていた小さめのグラス。 飲み残しの飴色のお酒がちゃぷちゃぷ揺れるそれを持ち上げたら、 たちまちに鼻先まで強烈な匂いが漂ってきた。近づけただけで目に染みる、 涙が出そうなくらいきつい匂いだ。うわぁ、とあわててグラスを遠ざける。 トレイに置いたそのグラスをこわごわと眺めていたら、 自分がどれだけ無謀で向こう見ずだったのかにようやく気づいて、 恥ずかしさのあまり頭を抱えて叫びたいような、なんともいえない気分になった。 これを飲もうとした時は、土方さんを庇いたくて夢中だったから気付かなかった。 だけど、こんなにキツそうなお酒をあたしが飲んだら確実に倒れるよ。 今頃は救急車で搬送されて、みんなに迷惑掛けてたよ。 「・・・ていうか、明らかに迷惑だったよね。 あたしのせいであんな騒ぎになったようなものだもん・・・」 長い長い溜め息を落として、しょんぼりと肩も落とす。 ひとしきり反省してから土方さんに振り向いて、微動だにしていない姿をじっと見つめる。 だけどそのうちにじわじわ可笑しくなってきて、ぷっ、と思わず吹き出してしまった。 そうっとソファに寄っていくと、寝ているひとの枕元で跪く。 お酒と煙草の匂いがする真っ黒な頭を前にしたら もっと可笑しくなってしまって、笑い声が漏れそうな口をあわてて押さえてしばらく笑った。 ――グラスに残っていたキツそうなお酒。 あれは松平さまが土方さんに「飲め」と差し出したものと同じもの。 調理用の大きなボウル一杯に注がれたお酒と同じ銘柄だ。 あれと同じお酒の、しかも瓶3本ぶんを一気に飲み干そうとした土方さんは、 ボウルの三分の二ほどまでを顔を顰めながらもどうにか飲んで、その直後に真っ青になって倒れたそうだ。 「あのバケモノみてーに丈夫な御方が倒れるなんて珍しいですからねぇ。 こんな貴重なもんを見逃す手はないと思って、最前列かぶりつきで見学させて貰いましたよ」 うろたえるあたしに倒れたときの状況を説明してそう締め括ったのは、一番隊の副隊長さんだ。 言われた時には気づかなかったけれど、わざと笑い話風にふざけた口調で語ることで、 副隊長さんは半泣きだったあたしを刺激しないようにしてくれたんだろう。 あたしがそんな説明を受けておろおろしている間に、土方さんは 近藤さんと原田さんの二人がかりで厨房に担ぎ込まれて。飲んだお酒の 大半を吐き出すまで、お店には戻って来なかった。二人に支えられて 足をもつれさせながら戻ってきた時にはまだ顔が青くて、 意識も朦朧としていたみたいだ。誰が何を話しかけても 「ああ」とか「おう」しか言わなくて、呂律も回っていなかったし、目つきもなんだか虚ろだった。 そんな状態でも松平さまと何か話していたらしいけど――何を話してたんだろう。 松平さまがお店を出て行って間もなく土方さんは眠ってしまったそうだし、 あたしはあたしで忙しくて、厨房に山と溜まったお皿洗いを手伝っていた。 ようやくお皿を洗い終わってお店に戻っても、泥酔状態が続く土方さんは 目を醒ましそうな気配すらない。寝ている時も気配に敏感ですぐに目を醒ますひとが、 今は珍しいくらい熟睡してる。この様子だと朝まで起きることはなさそうだし、 松平さまと何を話したのかを尋ねるのは明日以降になりそうだ。 「・・・・・・ぅう・・・・・・」 そんなことを思い返していた時だ。 なんだか苦しそうな呻き声が上がって、毛布に半分隠れた頭がわずかに動く。 寝返りでも打つのかな、なんて思ってたらごそごそと衣擦れの音が鳴って、 ばさっっ、と勢いよく毛布が跳ね上げられた。 いきなり起き上がった土方さんはなぜか呆然とした表情で、 左右を繰り返し見回した視線があたしを見つけて不意に止まる。 その瞬間、何かつぶやいて目を細めた。 どうしてなのかわからないし、声もよく聞こえなかった。 けれどその時の土方さんは、あたしの背後あたりに何か特別に眩しいものでも見ているような顔をしていた。 「えっ、土方さん? うわぁ、あんなに飲んだのにもう気が付いたんですかぁ」 目を丸くしながら落ちた毛布を拾い上げて、まだ何かブツブツとつぶやいているひとの隣に座った。 高級そうなふかふかのソファに腰掛けたら、ふわん、と心地良く身体が沈み込んでいく。 額を押さえてうなだれる横顔を覗き込んでみると――嫌な夢でも見て、 うなされていたのかもしれない。きつく顰めた目許には汗のしずくが滲んでた。 「・・・どこだ、ここ・・・」 「どこってお店ですよー。覚えてないんですかぁ、さっき土方さんが倒れたところです」 「店・・・?」 目許の汗を手の甲で拭うと、土方さんが怪訝そうに唸る。 もう一度お店の中を見回してから、はぁ、と脱力しきった深い溜め息をこぼした。 お酒を吐いたときに緩められたネクタイを掴むと、気怠そうな手つきでしゅるりと喉元から引き解く。 続いてシャツの釦も外す。手つきがなんだか土方さんぽくない不器用さだったし、 釦を見下ろす目も視線が定まってないかんじだったけど、一つ、二つとどうにか外して衿元を寛げていった。 外し終えると、次は解いたネクタイに視線を戻す。 しばらく嫌そうな目つきでそれを眺めたかと思ったら、――ぽいっ。 まるで紙屑でもゴミ箱に捨てるようにぐしゃっと丸めて放るから、 床に落ちる寸前だったそれをあたしは咄嗟に受け止めた。 そういえば土方さん、執事服が窮屈だってしきりに文句言ってたっけ。 寝ている間も眉間にぎゅぎゅーっと皺なんか寄せて、なんだか辛そうな顔してたし。 「大丈夫ですかぁ。もしかして具合悪いんですかぁ?ベストも脱ぐなら手伝いますけど」 「・・・・・・」 何かブツブツとうわごとのように漏らしながら、うつむき気味だった顔ががくりと深くうなだれる。 真下をむいた真っ黒な頭は、ぐらぐらと左右に振り子みたいに揺れ動いていた。 あれっ、と首を傾げたあたしは、隣のひとに目を見張る。 これって、ほんとに目が覚めてるのかな。鬼の副長、なんて 呼ばれてる人にしては頼りないというか、どこか危なっかしく感じる仕草もちょっとおかしい。 隙だらけでぜんぜん土方さんらしくない。 なんて思って、横から不審そうに覗き込んでた時だ。 ふらーっと、目の前に倒れ込んできたのだ。ダークグレーのベストを着込んだ男のひとの肩が。 「えっっ、土方さんっ?」 咄嗟に肩を支えたら、眉を寄せた苦しそうな横顔は目をきつく閉じてる。 土方さん、と呼んでみても反応がないし、声が聞こえているかどうかも怪しそうだ。 あたしの首筋に頭を乗せてもたれかかってきた顔が、ん、と吐息混じりな声で呻く。 かと思ったら、一気にこっちへ体重を預けてきて、 「っっ!?やっ、ちょっ、重っ、・・・ぅわっ、なにこのお酒臭さ・・・!」 がくん、と脱力して崩れ落ちた頭からは、眩暈がしそうなお酒の匂いが。 硬めな感触の黒髪があたしの着ているメイド服と擦れ合うたびに、ふわあっと鼻先まで昇ってくる。 目を白黒させながら唇を引き結んで息を止めたあたしは、白いシャツの腕や肩を必死で押した。 しなだれかかってくる重たい身体には、困ったことにどこにも力が入っていない。 それでもどうにかちょっとずつ、やっとの思いで背凭れのほうまで押し戻して。 背凭れの天辺にお酒臭い頭をもたれかけさせてから、ようやくほっと息をついたんだけど、 ――ほっとしたのも束の間、土方さんの身体がぐらっと傾く。 ぎょっとしてるあたしの目の前で、ず、ず、ずずずずず、と背凭れを擦りながら倒れてきて―― 「〜〜〜ぅわゎわわ、っひ、ひじかたさんっ!?」 あっというまに巻き込まれて、逃げる間もない。 支えきれないずっしりした重みと密着度にあわてながら、それでも両腕に全力を籠めて押し返す。 ところがその手が偶然にある場所に触れてしまって、 「ひゃあああぁぁっっ」と甲高い悲鳴を上げたあたしは真っ赤になってバンザイした。 うっかり手が滑り込んだ先は、シャツが肌蹴けた土方さんの胸だ。 ただでさえ体温高めなひとの素肌は酔ったせいでうっすらと汗ばんでいて、燃えそうなくらい熱かった。 「っっっ!?ゃ、っっ、・・・〜〜〜っ!」 ずるずるずる、と指先までだらりと伸びきっている熱い手が、 あたしの脇腹から腰のあたりを撫でながらソファの座面まで滑り落ちていく。 身に覚えのあるその感触にどきっとして、声にならない悲鳴を必死で噛みしめる。 大きな手が辿った方向が、土方さんの部屋でいきなり押し倒されるあのときを連想させたせいだ。 そんなあたしの身体の強張りに反応したのか、土方さんがわずかに頭を振った。 お互いの髪が擦れ合う音がざわざわと耳元で鳴って、「うぅ…」と掠れた呻き声も滑り込んでくる。 苦しそうなその響きに頭の中を一杯にされたら身体が奥から熱くなって、 重い身体に押し潰された胸が、とくん、とくん、と鼓動を大きく高鳴らせ始めた。 勝手に反応する自分の身体が恥ずかしい。なのにどうにも出来なくて、 あたしは「〜〜〜っっ」と唇を噛みしめて土方さんの下で身を捩るしかなかった。 ・・・だって、すごくよく似てたから。偶然だって判っていても意識してしまう。 飲みすぎて酩酊してる土方さんの苦しそうな息遣いや艶めかしい雰囲気が、 副長室で過ごす夜に見てきたこのひとの姿にそっくりだったから。 だから否応なしに身体が思い出しちゃって・・・・・・っって、違う違う、違うぅ!そーじゃなくて! 「そんなこと思い出してる場合じゃないぃぃ! ぉおおっ起きっっっ、起きて土方さあぁんっ、起きてくださいぃ!」 耳まで赤く染めておろおろしながら、グラつく頭を押し返したら、 「――っっっぎゃああああ!」 次の瞬間、目を剥いて絶叫するはめになってしまった。 ・・・何これ。どうしてこんなことに。 とんでもない事故が起きてしまった。土方さんを元の位置へ 押し返すはずが、思った方向と逆に動いてしまった。 押したはずみに意識が戻りかけたらしい土方さんが、んん、と唸って何度か頭を振ったからだ。 もごもごと寝言を口籠る顔は、最後にぐらりと倒れ込んだ先にうつ伏せ状態で埋まってる。 つまりその、あの、 ・・・・・・恥ずかしくて直視できないくらいにぴったりと、挟まってしまった。メイド服の胸の間に・・・! 「ん・・・っ」 ぎゅっと目を瞑った顔が呼吸し辛そうに短く唸って、胸の膨らみに 鼻や唇を擦りつけながら身じろぎする。服越しとはいえ押し潰される感触がくすぐったいし、 吐息の熱さが生々しい。まるで頭から浴びたみたいな濃くて強烈なお酒の匂いと、 ぎゃああっと叫んで一目散にここから逃げ出してしまいたいような、 とてもじっとしてなんていられないくらいの凄まじい恥ずかしさが襲ってきて、 ぶるぶる震えて悶絶していたあたしの全身は一気にかーっと火照りきった。 「ひぃいいやぁあああ!!起きて!起きて土方さんんん!」 ぎゃーぎゃー喚きまくりながら、ずしりと覆い被さってる身体を力の限りにべしべし叩く。 だけど、ただでさえ頑丈な副長さまときたらちょっとやそっとの攻撃じゃびくともしない。 いくら叩いても反応すらない。それどころか顔を埋めた位置が ちょうどいい枕になってるみたいで、やけに心地よさそうな顔ですーすー寝息なんか立て始めたし! 「〜〜〜ゃ、っちょ、そこで寝ないでぇ、く、くすぐった・・・っ! ・・・うぅぅ〜〜、もし誰か来たらどーするんですかぁぁ」 ふえぇぇ、と情けない声を上げて今にも泣きそうになりながら、 汗に湿った黒い前髪をぐいぐい引っ張る。 それでも起きないからどうしようかとあたふたしていると、 じきに土方さんの重さのせいであたしまで姿勢が崩れてきた。 ずずず、と背中が横に滑り始めて、何とか踏ん張ろうとしたけどどうにもならない。 土方さんてなまじ鍛えてるから、上半身だけでもすっごく重いんだもん・・・! 「っぅわわわ、わ、ちょっっ、ひ、ひじっ、ぅ、――んぎゅぅう、っっ!!」 焦ってる間に脱力しきった身体に覆い被さられて、視界が一気に反転する。 そのままどさっとソファに倒れて、ちりんちりんっ、と首元と背中で甲高く鈴が鳴って、 ――気が付けばあたしは、うつ伏せになった土方さんとソファの間でむぎゅっと押し潰されていた。 こんな状態でも目が覚めないひとの顔は、あたしの耳に唇をくっつけて寝息を立ててる。 胸から腰はぴったり重なり合ってるし、スカートが膝上まで捲れた太腿の間には男のひとの骨太な脚が。 傍から見れば執事さんがメイドを押し倒していて、閉店後で誰もいないのをいいことに 破廉恥な行為に突入する直前としか思えない大胆ポーズだ。 あはは、はは、と引きつり笑いで強張る顔から、すーっ、と血の気が引いていく。 ・・・どうしよう、これはマズい、もしここに誰か来たらどう言い訳すればいいの!? 「〜〜っっししししっ、しっかりしてください土方さんんん! 今すぐ起きてっ、起きろ土方あぁぁ!起きないと後で後悔しますよ大変なことになりますよっ、 土方さんが副長室にストックしてるお取り寄せ高級マヨネーズぜーんぶ燃やしちゃいますよ!?」 「・・・」 「〜〜ぃやぁあああ!!うそっっ、うそです今のうそ! お願いだから目を覚ましてくださいぃ副長さまあぁぁ!お願い300円あげるからあぁぁ!」 「・・・・・・・・・ちっ。・・・っだぁ、こりゃ・・・頭痛てぇ・・・」 「!土方さんっ!?よかったぁ、目が覚めたんですね!?」 真っ黒な頭がもぞっと動いて、耳を塞いでいた唇から疲れきったような声が漏れる。 喜びのあまり涙ぐんだあたしは、白いシャツの衿をぎゅっと握って、 「えっと、あのっ、そのっ・・・〜〜ぃ、言いづらぃ、んですけどっ、 具合が悪いのに申し訳ありませんがっ、ょよ、よかったら、今すぐ即座に直ちに即刻どいてくださいぃぃ!」 「・・・」 お布団の中にいる時と変わらない、あられもなく密着した体勢だ。 ほんの少し身じろぎしただけで唇と唇が触れてしまいそうな、顔の近さも恥ずかしい。 だから土方さんから顔をめいっぱい逸らして、「どうしてこんなことになったのかを 尋ねられませんように」と祈りながら、動揺しすぎて裏返った声で頼み込んだ。 あたしの上でうつ伏せている人から、ああ、とぶっきらぼうな返事が返ってくるまでしばらくかかった。 でもよかった、声はちゃんと届いたみたいだ。 「・・・。あ、あのぅぅ・・・どいてって、言ったんですけど・・・き、聞こえた・・・? ね、聞いてますかぁ?もしもーし、土方さぁん。大丈夫ですかぁ、気分悪くないですかー」 「・・・・・・あぁ?」 「あ、そうだ、お水。お水持ってきましょうか」 「・・・水ぅ・・・?っだお前、なに言っ・・・・・・」 「そうそう、お水ですお水。今すぐ持ってきますからちょっとどいて・・・ あれっ、土方さぁん・・・?ちょっとちょっと、聞いてる?あたしの話、聞いてますかぁ」 「・・・・・・」 「えっっ、やだ、もしかして、また寝ちゃうの!?」 あわてて自分の胸元へ視線を戻してみれば、 ぎゅぎゅーっ、と眉間を最大限に険しく顰めた、ちっとも安らかそうじゃない寝顔がそこに。 その顔を見てはっとして、あたしはおろおろと土方さんの頭に手を伸ばした。 前髪の中に指を潜らせて遠慮がちに額に触れたら、思わず表情が曇ってしまう。 触れた肌は高温を放ってすごく熱い。なのに、冷えた雫が指先を濡らした。 「まだ具合悪いの・・・?だいじょうぶ・・・?」 汗を拭いながら尋ねてみても、瞼はきつく閉じたまま。 見れば手足もだらりと伸びきっていた。 ・・・そうだよね、こんな短い時間でお酒が抜けるはずがない。きっとまだ気分が悪いんだ。 ああ、これってあたしのせいだ。 あたしを庇おうとしたせいで、松平さまにあんなにたくさん飲まされたんだもの―― 心の中ではしょんぼりしながら、今度は背中に手を伸ばした。 あまり刺激しないように気を付けながら、ベストの上からゆっくり撫でる。 「土方さぁん、もしもーし、聞こえてるー?聞こえてますかぁー?」 「・・・・・・ぅだ」 「聞こえてたら手上げてみてくださぁい、――って、えっ、ゃ、ちょっっ!?」 急に腰の下に差し入れられた感触に、びくぅっと全身が跳ね上がる。 ソファの端に投げ出されていた土方さんの腕だ。 もう一方の腕は背中に回ってきて、痛いくらいにぎゅーっと、力任せに抱きしめられて。 何が起こったのかもわからないまま呆然と視線を上げてみれば、 お酒のせいで赤く潤んだ寝惚け眼が、かちんと固まりきったあたしをじとーっと凝視してた。 かと思えば再びがさごそと動き始めて、下へ下へと身体をずらす。うっっ、と思わずあたしは息を飲んだ。 「!?ぅ、うそ、まさか、・・・〜〜っっ!?」 まさか土方さん、またあれを――!? 危険を感じてすぐに逃げようとしたんだけど、あたしよりも一瞬早く動いた腕に食い止められた。 あわてて伸び上がろうとした背中を、逃がさねぇ、とばかりな強引さで抱きしめられて、 真っ黒な頭ががくんと落ちる。まるで落下位置を狙いすましていたかのように、 ぼすっ、と見事にメイド服の胸の間に嵌まってしまった。 「んぎゃあああぁぁ!!」 甲高く泣き喚いたあたしの声なんて、ちっとも聞こえてなかったみたいだ。 軽く潰された膨らみに顔の右半分を押しつけるようにして、またもや土方さんが目を閉じる。 目の前にどどーんと迫ったその光景が刺激的すぎる、恥ずかしい、そしてものすごくお酒臭い。 せめてここから這い出せたら、と背中を反らして伸び上がってみたけど、 どう頑張ってもどうにもなりそうにない。鬼の副長の見た目以上な馬鹿力は 酔い潰れてもその威力を失わないみたいで、腰を捩っても脚をばたつかせても、 どう足掻いても腕の中から逃げ出せなかった。 「どどど、どーすれば・・・そっ、そういえば前にも屯所でこんなことあったよね? えっと、あの時は確か・・・そーだ山崎くんに助けてもらったんだ! 山崎くんっっ、助けて山崎くんんん!!」 焦りに焦ってじたばたしながら必死に呼んでも、もちろん山崎くんの返事はない。 聞こえてくるのはご近所のイカ焼き屋台からの「産地直送、新鮮なイカだよ美味しいよー!」 なんて威勢のいいおじさんの呼び声くらいだ。すっかり途方に暮れていたら、 真上に見える天蓋が、ぱぁあっ、と赤い光に染め上げられる。 どおぉおおんっ、どどおぉぉおんっっ、と鼓膜を破りそうな 大音量が轟いて、景気良く連発された花火の振動がお店を揺らした。 ああ困った、これって何発目の大玉だろう。お祭りの世話役をやってる お隣のご隠居さんの話によると、打ち上げられる花火の数はそんなに多くないはずなんだけど―― 「ど、どうしようぅ・・・、せめて花火が終わるまでにどうにかしな――・・・っ、んっ」 ぐ、と薄い生地越しに唇を押しつけられて、唇を噛みしめて声をこらえる。 熱くてやわらかい感触と、はぁっ、と悩ましげに吐き出された吐息が 布地を通して肌までじわぁっと染みてきた。ぞくぞくした背筋がぶるりと震え上がったら、 んっ…、と吐息みたいな甘ったるい声が鼻から抜けて、組み敷かれてる身体からふうっと力が抜けていって。 それを見計らったかのようなタイミングで、胸に顔を埋めているひとが衣擦れの音を立てて身じろいで、 「〜〜ぇっ?ち、ちょっと、土方さ」 「・・・・・・にも・・・く・・・な・・・」 さっきからずっと暴れっ放しで、とくとくと速いリズムを刻んでいる左胸の内側。 心臓に一番近い場所に、何かうわごとを漏らした土方さんが唇を寄せてくる。 止める間もなく目の前で、胸の膨らみに噛みつくようにして唇を開いて―― 「・・・っ!っや、ゃめ・・・っ」 歯を立てられたのは一瞬だけだ。 熱っぽい吐息を漏らす唇で何度も触れて、離れて、また触れて。舌先を伸ばして吸いついてくる。 メイド服の薄い生地越しに、熱い舌がゆっくり蠢く。ふと強めに吸いつかれたら、 肌を直接舐められているみたいに感じてしまった。覚えがあるその感覚にぞくぞくして、 否応なしに背筋が跳ねる。胸の膨らみがぶるりと弾む。 揺れた膨らみをやんわりと、下から持ち上げるようにして掴まれて、 「――っっ、〜〜っも、ゃだぁ、っ、やめ・・・〜〜っ」 やわらかさの中に埋もれた指が、膨らみのかたちを確かめるみたいにそこを握る。 身じろぎしても伸び上がっても、土方さんは同じところに吸いついてきた。 背中をがっちり抱きしめた腕は、いくら抵抗を繰り返してもあたしを閉じ込めようとする。 ちゅ、ちゅ、と胸元からは甘い音が上がり続けて、熱い唇はそこからちっとも離れてくれない。 おかげで我慢しきれなくなった声が唇から漏れて、土方さんの手が動くたびに背中が跳ねる。 かーっと火照りきった身体中を、煩いくらいの心臓の音が駆け巡ってる。 こんなにぴったりと身体を重ねているんだから、上から圧し掛かってるひとにも響きが伝わってるはずだ。 それでも土方さんは目を閉じたまま。お酒のせいでまだ寝惚けてるんだ。 「〜〜ひ、土方さんのばかぁああっ」と恨めしげな泣き声を上げて、あたしは涙が滲んだ瞼を瞑った。 はぁ、はぁ、と息が乱れてきた唇も手で覆って、どきどきと弾む自分の胸が大きな手のひらの中に 閉じ込められてる感触に震えていたら、 「・・・・・・どこにも・・・・・・行くな・・・・・・もどって、こ・・・ぃ・・・」 「・・・ぇ、・・・?」 土方さんの唇から、さっきよりもはっきりとしたうわごとが漏れた。 あたしの胸を閉じ込めている手の力が、徐々に、すこしずつ緩み始める。 なのに背中を抱いた腕の力はなぜかさらに強まってきて、背骨が軋んで痛いくらいだ。 スカートの裾が大きく捲れたメイド服が、ざわ、ざわ、と身体の下で衣擦れの音を起こしてる。 「・・・・・・ど。どこにも、って・・・?」 何なの、どこにも行くなって。 目を開ければまた恥ずかしい目に遭いそうだから、目を閉じたままでおそるおそる尋ね返す。 (どこにも行くな。戻って来い。) そう言った声が、なんだかあまり土方さんらしくなくて気になってしまった。 大抵のことじゃ動じないこのひとが、普段の余裕を金繰り捨てて 何かに必死に追い縋ろうとしているような、やけに真に迫った声だったから―― 「・・・な、何ですかぁ、それ。ぁ、あたし、どこにも、行かなぃ、です、よ・・・? っていうか、無理じゃないですかぁ。こんなことされてるのに、どうやって行けって・・・・・・」 そんなことをうわずった声で言いかけて――ふと我に返って、あたしはぱちりと目を見開いた。 ぎゅ、ともう一度きつく抱きすくめてきたひとを、頬をぼうっと赤らめたままでしばらく眺める。 やがて土方さんの動きが鈍くなって徐々に眠りに落ちていくと、腕に籠められていた力も緩みきってしまって。 ようやくあたしは腰を捩って、重たい身体の下からもぞもぞと、少しだけ這い出す。 胸の上に突っ伏して規則正しい寝息を立てる横顔を複雑な思いで見つめながら、へなりと眉を下げて笑った。 「・・・もう。何やってるんだろ・・・」 汗に濡れて額に貼りつく黒髪が、薄闇の中でほんのかすかに光ってる。 遠慮気味な手つきでその髪に触れて、眠ったひとを起こさないように気をつけながら掻き上げてみる。 その間、あたしはひとりでくすくすと忍び笑いに肩を揺らし続けた。 おかしかったのは土方さんじゃない。酔っ払いの言葉に振り回されて、本気であわてふためいていた自分だ。 だってあれは、ただの寝言だ。酔ったこのひとのうわごとだ。 あたしに対しての言葉じゃない。 夢を見ている土方さんが、夢の中の人に向けて口にした言葉。 どこにも行くな、と引き止められたのは――夢の中で抱きしめられているのは、 見た目よりうんと優しいこのひとの同情に縋って彼女にしてもらったあたしじゃなさそうだ。 今もこのひとの胸の奥にいる誰か。夢の中にまで棲みついている誰か。 それは、もしかしたらあたしの知らない人かもしれない。だけど。 ――そう、たぶん、きっと―― 「・・・そうだよね。うん、そうだった。・・・」 ずっと夢みたいに幸せだったから、忘れてたけど――あたし、勘違いしちゃいけないんだった 濡れた髪を撫でながら自分にそう言い聞かせたら、胸の奥がちくりと痛んだ。 すぅ、と深く息を吸い込んで、それからゆっくり目を瞑る。 霞でできた残像のようにほわりと浮かんだ儚げな姿は、どこよりも遠い場所へ行ってしまったひと。 もう二度と、土方さんの前に戻って来ることがないひと。 偶然にあたしと出会ったあの日のままに、優しく温かな表情で微笑んでいた。 (どこにも行くな。) 夢の中でそう言われたのは。 ――抱きしめられたのは、きっと、たぶん、あたしじゃない。 そこに気付いてしまった時に、少しも悲しくなかったっていったら嘘になる。胸が痛んだのも本当だ。 ・・・・・・だけど、どうしてなんだろう。さみしさはあまり感じずに済んだみたい。 煙草の苦い香りが染みついた髪を指先で弄って、瞼を閉じていても 険しい目元をぼうっと見つめながら考える。 土方さんの腕の中にいる安心感のおかげなのかな。それとも―― 「・・・・・・近藤さんが教えてくれた話のおかげ、・・・かな」 たった一つしかない心当たりを、ぽつりと口に出してみる。 すると胸の奥にあった棘のような痛みがすうっと溶けて、強張っていた口許もふわりと緩む。 自然と顔中がほころんでいくのを感じながら、花火が打ち上がるたびにまばゆく光る天蓋を見つめる。 それは近藤さんが教えてくれた話。 さっき聞かせてもらったばかりの、あたしが知らなかった裏の話だ―― 「――何だ、近藤さんの話ってのは」 「・・・、へ?」 「つーかお前いつまで続ける気だ、その百面相」 「っっっ!?」 驚いて自分の胸元に目を移せば、ばちっ、と視線がぶつかり合った。 ぼそりと疑問を投げかけてきたひとは、まるで世界中で一番 馬鹿にしてるものでも見るような辛辣な目つきでこっちをじとーっと眺めてる。 寝起きでも眼光鋭い土方さんの目はばっちり開眼、多少の赤みは残ってるけど これまでに見せた寝惚け眼とは迫力が違う。あたしの胸に埋まっていた顔も、いつの間にか離されていた。 うそっ、いつから起きてたの!?もしかして、あたしのひとりごとって全部聞かれてた!? 「ひぁあああ!?ぃいいいつ起き、っっ」 「真上でブツクサ言われりゃ誰でも目ぇ覚めんだろうが。まぁんなこたぁいい、状況報告しろ」 「えっ、――ゎ、きゃあ、っっ」 いきなりぐらりと揺らされたから床に落っこちそうになって、目の前の肩にあわててひしっとしがみつく。 何も言わずに背中を支えた土方さんが身体を起こして、そのまま脚の上に座らされた。 もたれかかって身を預けるようなその姿勢は、かなり、すごく恥ずかしい。 それでも「ぎゃあああっっ」と叫びたい気持ちは必死に我慢、真っ赤に顔を火照らせたあたしは ぅわわ、とあわてふためきながらもされるままになっていた。ここで抵抗したり暴れたりしたら、 なんだか悪いような気がしたからだ。あたしを抱きかかえているひとの顔色は、まだうっすらと青白い。 きつく顰められた自分の眉間を指で掴んで、なんだか歯痒そうな舌打ちをすると、 「っだこの頭痛、いってぇなぁ畜生・・・ぁー気持ち悪りぃ。 何だ、どーなってんだこれ。他の奴等はどこ行った。人っ子一人いねぇじゃねぇか」 「あっ、はいっ。ま、松平さまはもう帰りました」 しどろもどろに答えたら、土方さんは珍しく驚いたみたいだ。 痛そうに細めていた瞳を意外だとばかりに見開いて、 「帰った・・・?何のお咎めも無しにか」 「お咎めっていうか、そういうかんじじゃなさそうなんですけど・・・ 週末にどこかの星の大使を接待するから、詫び代わりに一晩付き合えって言われた、…って、近藤さんが」 「それだけか。お前、とっつぁんに何か言われてねぇか」 「いえ、あたし、あれからずっと厨房にいたから・・・。 土方さんが倒れた後にね、武田さんのお友達が松平さまを上手く宥めてくれたんです。 それで、あの、お姉さんたちのお店で飲み直そうって話になって、四人でかぶき町に行くって」 「・・・。どれも夢かと思ったが、そうでもねぇらしいな」 そうつぶやいた土方さんが、何か考え込むように視線を伏せる。 鋭い双眸に影が落ちて、あたしには見えないどこか遠くを見つめるような目つきに変わった。 言おうかどうか少しためらってから、あたしは精一杯に何気ない口調を作って尋ねてみた。 「そういえば土方さん、いっぱい寝言言ってましたよ。どんな夢だったんですかぁ」 「・・・さぁな。どんなもんだったか、起きた途端に粗方消えちまった。 ああ、言っとくが馬鹿犬の出番はねぇぞ」 「・・・・・・ふーん。そうですか」 「そうだお前は出てきてねぇ。出てきてねーったら出てきてねーぞ。絶対に出てきてねぇからな」 「はいはい、そんなにしつこく否定されなくてもわかりますよー。 ていうか土方さん、何でちょっと悔しそうなんですかぁ」 「フン、うっせぇ」 すごく嫌そうにこっちを睨んだその顔は、わかりやすくムッとしていた。 常に冷静沈着なひとがたまに見せる、感情剥き出しで子供っぽい表情。 そういう表情は何度も目にしてきたけれど、いつ見ても、何度見ても嬉しくなる。 なのに今は嬉しくなれない。ちくり、と胸に痛みが走る。 そんな自分を気付かれたくなくて、あたしは土方さんに笑いかけた。 ちょっと無理して作った笑顔は、わざわざ鏡なんて見なくても判るほどぎこちなかった。 ――ほら。やっぱり勘違いだった。夢の中にいたのは、あたしじゃない。 「――で、お前はここで何やってんだ」 「え?」 「店ん中が薄暗れぇってこたぁ、もう店仕舞いしたのか。残ってんのはお前一人か。近藤さんは――」 照明を落としたお店の中に土方さんが視線を巡らせたところで、また天蓋が発光する。 目が覚めるような鮮やかな青から萌黄色、それからオレンジと、 次々と色を変えていく店の天井へと顔を上げれば、どぉおおん、と身体を揺らすほどの爆音が。 かちゃかちゃ、かちゃん、とテーブル上の食器まで揺れていた。 「・・・もう始まってんのか。てぇこたぁ、あいつら連れて花火見物か」 「はい、さっき始まったんですけど・・・あ、そーだ、近藤さんから伝言です。 行ったついでに総悟も探してくるし、戻ったら撤収作業に入るから、 後のことは任せて寝てろ、だそうです。よかったですね」 「・・・・・・」 言われたとおりに伝えたのに、土方さんは返事もしてくれない。 引きつり気味なこめかみを抑えて、なぜだかすごく不服そうな顔だ。 そのうちにぐらりと後ろに倒れ込んで、ソファの背凭れに身体を預ける。 おかげであたしも重心が崩れて、シャツが肌蹴た逞しい胸に 自分の胸を押しつけるような格好で突っ伏してしまった。 するとたちまちに、衿元や首筋からふわりと昇ってきた強烈なお酒の匂いに包まれてしまって、 「〜〜ひ、ひじかたさんっ。あの、このままだとあたし、酔っちゃいそう・・・だから、 っで、できれば、もぅ、降ろして、ほしぃ、なぁ・・・なーんて」 「・・・・・・よかねぇ」 「え・・・?」 よくないって、何が。 そう思って首を傾げたけど、気軽に尋ね返せるような雰囲気じゃない。 いつもより近い距離のおかげで、あからさまに不満そうなこのひとの気配が いつもよりはっきりと、直に伝わってきてるし。 膝の上に乗せられて逃げ場もないあたしの頬が、ぴくぴくと正直に引きつり始める。 精一杯に頑張って強張った笑みを作った目元から、つーっ、と一滴の汗が流れる。 ああ、これだから土方さんってむずかしい。あたしは今、何の地雷を踏んじゃったの。 「何でお前が居残ってんだ」 「ええっ、何でって・・・そ、そりゃあ居残りますよー。 ぐでんぐでんになった上司さまが寝てるんだもん、専属雑用係が居残ってお世話しないと」 「・・・」 不穏な気配にびくびくしつつも正直に答えたら、土方さんの唇がむっとしたように引き結ばれる。 ただでさえ険しかった眉間も、さらに険しさを増していく。 さらに何を思ったのか土方さんは、殺気溢れる目つきでぎろりとあたしを睨み据えた。 その顔と目が合った瞬間、ぞわーっと一斉に湧いた悪寒が背筋をひゅうううっっと通過する。 ・・・何で、どうしよう、副長さまが怒ってる。なんか知らないけど怒ってる! だってこの顔は危険だ、嫌になるくらい見覚えがあるんだもの。 「ざっけんなこの馬鹿女!」とか怒鳴り出す直前の、鬼の鉄拳制裁が降ってくる直前のあの顔だ・・・! 「そっ、そーだ!そういえば土方さんが吐いた後で、松平さまと二人で ひそひそ話してたって聞いたんですけど!なななっ、何の話だったんですかぁ」 ちょっと強引に話を逸らして、気になっていたことを尋ねてみる。 すると土方さんの顔から不機嫌そうな表情が消えて、ほんの一瞬口を閉ざした。 すっ、と店内を囲う白いカーテンに視線を流すと、 「さぁな、覚えてねぇ。つか、吐いたって何だ」 「そ、そうですよねぇ。具合悪そうだったし、何も覚えてませんよねぇ」 「んなこたぁいい。お前、どうして行かなかった」 「またそこに戻るんですかぁ!?だ、だってぇ・・・土方さんが・・・〜〜〜っ」 あわあわと口籠りながらうつむいて、鬼の副長さまの逆鱗に触れなさそうな 上手い言い訳を探してみた。だけどしっかり抱き寄せられたこの体勢じゃ 目の前のひとの顔の近さが気になってしまうし、上からの視線を感じて焦るほどに頭の中は真っ白になる。 どうしよう、と困っていたら、嘆かわしげな溜め息が流れてきて。 見れば土方さんは、背凭れの天辺に頭を預けてすっかり脱力しきっていた。 表情までぐったりと疲れきって見えるひとが、薄暗い灰色の影を落とす天蓋を仰ぐ。 斜め下からのあたしの視線を避けるようにして、顔をうんと逸らして。 「・・・ちっ。・・・・・・結局いつもと同じじゃねぇか・・・」 投げやりでどこか歯痒そうな声を耳にして、あぁ、とあたしは瞬きした。 もどかしそうなつぶやきは花火の爆音にちょうど重なっていたけれど、 ダークグレーのベストの胸に凭れかかっていたあたしには、身体を通してしっかり届いた。 どおぉぉん、と天蓋を震わせるほどの大きな音を唸らせて、再び遠くで花火が上がる。 布製の天幕を鮮やかな閃光に染めて、すうっと引いて、またぱぁっと、光の花が咲いて輝く。 次々と上がり続ける大小の音が、重なって、広がって、お店中を残響で震わせながら消えていく。 その音の行方でも追いかけるような表情で、土方さんの視線はもう一度真上の天蓋に注がれた。 「俺のこたぁいいから、お前も行ってこい。今行きゃあまだ間に合うだろ」 「・・・・・・ううん、花火はいいの。あのね、土方さん」 「何だ」 「さっき近藤さんに教えてもらったんです。 このお店の準備資金を松平さまが出してくれたのって、土方さんが交渉してくれたから、…なんですよね?」 そう尋ねたら、天蓋を見上げる横顔がほんのわずかに瞳を見開いた。 「近藤さん、言ってました。去年まではお祭りの参加を要請されても 頑として受け入れなかった土方さんが、松平さまにあたしがお祭り好きだって聞いて 今年はその気になったみたいだ、って。警察のお仕事してるとお祭りで遊べる機会なんて 滅多にないけど、今日ならあたしを遊ばせてやれるって思ったんじゃないかって・・・」 入口前に吊るされた白色の薄明りでほのかに照らされるお店の中には、他に誰もいない。 土方さんとあたしの二人だけだ。 今なら伝えたかったことを伝えられるかも。そう思って、すぅ、と小さく深呼吸する。 だけどこれから言おうとしていることを思うと、表情を見られるのはなんだかちょっと照れくさい。 だから肌蹴た衿に縋りついて、赤らめた頬を摺り寄せるようにして目の前の首筋に顔を埋めた。 触れた肌は燃えそうに熱くて汗ばんでいて、煙草の香りと男のひとの匂いは自然と あたしにも纏わりついてくる。そのまま身体の力を抜いて体重を預けてしまえば、 背中を支えてくれていた手がさりげなく腰まで降りてきて、無言であたしを自分の身体に押しつけた。 「・・・っ」 好きなひとと触れ合うことになかなか慣れてくれない身体が、心音を高く跳ね上がらせる。 お互いが近すぎるせいで土方さんの息遣いまで感じてしまって、 なんだか気分が落ち着かない。頭の芯までぼうっと熱くて、胸は壊れそうなくらいどきどきしてる。 なのにこうしていると他の誰といる時よりもほっとするから、このひとに触れられるたびに不思議になってしまう。 近藤さんが教えてくれた話。――それは、 土方さんが大量のお酒を一気に飲んで昏倒した後に聞いた話だ。 お酒に酔ったときの松平さまの話に、時々あたしが出てくること。 義父さんや義兄さんと暮らしていた頃に、松平さまがプレゼントしてくれた浴衣のこと。 お祭りへの出店はこれまでも毎年のように要請されていたけれど、すべて土方さんがにべもなく断っていたこと。 その土方さんが今年に限って申し出をすんなりと引き受けて、近藤さんも驚いたこと。 松平さまに出資を持ちかけている土方さんを見て、お酒の席で聞いたあたしの話を思い出したこと。 屯所の皆とお祭りの準備に走り回って楽しそうだったあたしを、土方さんが遠目に眺めていたこと。 その様子が、いつになく機嫌よさそうだったこと―― 「・・・あのね、あの、・・・・・・今日ね、 いつもと違う場所で、違うお仕事してるおかげで、いろんな、発見が、あって・・・」 たどたどしく言葉を繋ぎながら、白いシャツの開いた衿口をそうっと握った。 軽くそこを引いてみても、土方さんは何も言わない。黙ってあたしを抱きしめたまま、 身じろぎする気配すらなかった。 「カフェのお仕事は慣れないことばっかりで、目が回りそうなくらい忙しかったし、 色んな人がいて驚いたり、ちょっと悲しくなったりもしたんですけど。 ・・・でも、みんなと一緒にお祭りの場に居られて楽しかった。それだけですごく楽しかったの」 今日一日で出会った人たちの姿やその表情が、熱い胸に押しつけた瞼の裏に浮かんでくる。 揃いの法被姿のお祭りの実行委員さんたち。その中に混じったお隣のご隠居さん。 会場の門前まで探しに行ったのに、なぜかあたしを無視しようとした着ぐるみ姿の土方さん。 和やかだったお祭り会場を騒然とさせた引ったくり。たこ焼き屋さんからふらりと出てきた燕尾服姿の総悟。 チラシを受け取ってくれた人。受け取ってくれなかった人。カフェまで足を運んでくれた女の子。 真選組の店にお客さんなんて来るはずがない、と嘲笑っていた金髪頭のお兄さんたち。 カフェのお仕事に奮闘していたみんなの姿。堂々と女装姿を披露していた近藤さんに原田さん、 メイド服が似合いすぎて女の子にしか見えなかった山崎くんに、ドレス姿が大迫力だった武田さん。 お店の中を埋め尽くしたお客さまたちの笑顔。土方さんを庇ったあたしを複雑そうな表情で睨んだ松平さま。 その松平さまを連れ出してくれた武田さんのお友達。それから。それから―― 「・・・それにね、普段の任務じゃ会えない人たちともお話できて、 普段は気付けないことにも気付いたんですよー。そのおかげで、自分のことがちょっとだけ判ったの」 最後に浮かんできたのは、カフェに来てくれたおばあさんと娘さんの笑顔だ。 見た目はそれほど似ていない二人。なのにその優しい笑顔はそっくり同じで、 励ましてもらったときの時間が止まったような感覚を思い出せば、今でも胸の中にほわりと、 やわらかなろうそくの火みたいな温かさが灯る。 「・・・・・・ほんとに素敵な日でした。すっごく楽しかったぁ・・・」 うっとりと、しあわせな気分に浸りきって吐息めいた声でつぶやく。 じんわりと熱を伝えてくる引き締まった胸にこつんとおでこをくっつけたあたしは、 開いたシャツの衿口に隠した顔をこっそりと嬉しさにほころばせた。 ――名目上は任務だけれど、刀を抜くどころか帯刀すらしなかった一日。 それはもう普通の女の子に戻れないあたしにとって、誰にも言わずに心の中にしまっておいた 叶わないはずの願いが、まるで魔法でもかけられたみたいに叶ってしまった一日だった。 この一日で、普段の任務じゃ味わえない思いを、手のひらからこぼれ落ちそうなくらい たくさん――数えきれないくらいにたくさん、貰った気がする。 今日会ったひとたちから。真選組のみんなから。あたしが知らなかったことを 教えてくれた近藤さんから。――そして、目の前のこのひとから。 「だからね。・・・あの、えっと・・・・・・土方さん、ありがとう」 この胸の奥に秘めてる思いも感情も、冷淡そうな表情と素っ気ない態度で覆い隠してしまうひと。 ほんとうは人一倍優しくて周りの人を放っておけないくせに、そういう自分をあまり表に出したがらないひとだ。 あたしがわざわざお礼なんて言い出さないほうが、土方さんにとってはたぶん都合がいいんだろう。 それは知っているけど――ほんの少しでいいから、知ってほしかったの。 土方さんのおかげで過ごせた今日一日が、どれだけしあわせで、どんなに楽しかったかを。 寝る間も惜しむくらいに忙しい毎日を送っているひとが、余裕のない時間をわざわざ削って こいつのために何かしてやろうって考えてくれてた。そのことがあたしにとって どれだけ嬉しかったかを ――言葉だけじゃ伝えきれないくらいに溢れる気持ちを、ほんの少しでも伝えておきたかったの。 「・・・。何をどう吹き込まれたか知らねぇが、礼なんざ言われる覚えはねぇぞ」 どぉん、どぉぉん、と響く爆音が、あたしたちが座るソファをかすかに揺らす。 頭上からの花火の光で時折照らされる店内に、しばらく沈黙が降りた後だ。 話している最中も終わってからもこっちを見ようとしなかったひとは、 あまり関心もなさそうにそう言った。 じきに何気なく背凭れに頬杖をつくと、あたしから完全に顔を背ける。 俺は知らねぇ、全部近藤さんとお前の思い込みだ。 取りつくしまもない拒否の姿勢がそう言っていたけれど、そんな素っ気ない態度がいかにも土方さんさんらしい。 振り向かない背中を見つめて、ふにゃりと表情を崩して笑ってしまうくらいに嬉しい。 また怒られるかも、なんて思うのに、ついくすくすと、声まで上げてしまったくらいだ。 「いいじゃないですかぁ。たまには素直にお礼くらい言わせてくださいよー」 「いらねぇよ、そんなもん」 「それじゃああたしの気が済みませんよー。 そうだ、じゃあお礼の代わりに何かしてほしいことないですかぁ」 「そうか、なら今すぐ口閉じろ。うるさくて敵わねぇ、しばらく黙ってろ」 「えぇー」 「だから黙れって」 言ってんだろ、と凄みながらこっちを睨みつけてきたひとの手が、 目の前でぴたりと構えられる。 視界に影を落としてくる長い指の先が、あたしのおでこをとんっと突いた。 「〜〜〜っ!?ぅわわ、や、ちょっっ、待って待って、待っ」 「フン、誰が待つか」 「〜〜そそそんなぁっ、待ってくださいよぉっ」 ヤバい、またあれだ。今日は通算で二回食らった土方さんの恐怖の破壊兵器、 たった一発で人を死にそうな目に遭わせるあの強烈なデコピンが降ってくる!! 絶句して青ざめたあたしは、ほとんど条件反射で頭を庇う。 ばっと上げた両腕を盾にして、深くうつむいて目を瞑った。 ――そのまま数秒、身体を縮めて身構えて。なのに、デコピンはいつまで経っても落ちてこない。 「〜〜〜・・・っ、・・・ぁ。あれっ・・・?」 どうしたんだろう、土方さん。 気になっておそるおそる目を開こうとした、その時だ。 熱っぽい吐息が、頭を庇った手の甲を掠める。 びくっと震えて目を開けたときには、吐息の感触は消えていた。 薄目を開けて眺めた視界は、ぼんやりしていてほの暗い。おでこを庇った腕の影だ。 その腕を両方とも掴まれて、ぐい、と無理やりに引き下ろされる。 そこからはほんの一瞬だった。 不貞腐れたように唇を曲げたひとが迫ってきて、あっけにとられたあたしの視界はその影に暗く覆われて―― 「・・・ったくてめえは・・・どうしようもねぇ馬鹿犬だな」 「――っ!」 もどかしそうな声と一緒に降ってきたのは、意外なことにデコピンでもなければ、 その他のやたらと痛いお仕置きでもなかった。 もっと、うんと柔らかい触れ方だ。 まるで壊れ物にでも触れるように優しく前髪を掻き上げられて、 思わず目を丸くしたあたしのおでこに、そうっと唇が押し当てられる。 その熱さにどきっとしてびくんと身体が震えた時には、 もうソファに押し倒されていて。どさっっ、と背中から音が上がった。 二人分の体重が沈み込んで、ふかふかなソファの座面が揺れる。 スプリングの動きに合わせてゆらゆらと全身を上下させられながら、あたしは声も出せずにいた。 寝惚けていたときと同じようにうつ伏せであたしを組み敷いたひとに腰を抱かれて、 すかさず回ってきた腕の感触にびっくりして「うぎゃああっ」と背中を跳ねさせたら、 「おい馬鹿犬。仕方ねぇからお前の礼とやら、受け取ってやる」 「っっ、っな、なな・・・っ!?」 「こら、暴れんな。他の奴等が戻ってくるまで、少し黙って好きにさせろ」 「〜〜〜っっ、す、すきにって、ひぁ、ゃ、ん・・・っ!」 胸が潰れそうなくらいにきつく抱きしめられながら、吐息めいた掠れ声に耳の中を撫でられる。 言ってることは酷いのに、口調だけはやけに甘い。 そんな土方さんの囁きのせいで背筋がぶるっと震えてしまうほどぞくぞくして、 一度は冷えたはずの顔がまたもやかあぁぁっと熱くなってしまう。 ・・・・・・何、なんなの、またこれだ。本当に今日の土方さんって、ちっとも訳がわからない。 なんだか急に怒り出したから、てっきりお仕置きだと思ったのに・・・! 「〜〜ゎ、わわっ、わかんない、ぜんぜんわかんないっ。土方さんって訳わかんないぃ!!」 「そうか、なら黙って考えてみろ。俺がてめーにどんだけ我慢を強いられてんのか、 女一人のためにどんだけムカつく目に遭ってんのか、ちったぁその軽い頭使って考えてみろ」 「ほらぁやっぱり怒ってるうぅ!えっっ、まさか、またお仕置きする気!? デコピン?今度こそデコピンですか?ぼぼっ暴力反対いぃぃ!」 「・・・ざっけんな。やっぱ判ってねぇじゃねーか馬鹿犬が」 「犬じゃないですっ、猫ですぅっっ」 「どっちにしたって首輪付きだろ。似たようなもんだろうが」 「違うぅ!ぜんっぜん違いま――・・・〜〜っん、んぅ、ふ、ん・・・っ」 言いかけた唇をちゅっと啄まれて、途端に流れ込んできたお酒の匂いで噎せ返りそうになる。 あわてて唇を噛もうとしたけど、土方さんは何度も何度も、触れては離れるだけの甘いキスを繰り返した。 やわらかい熱を押しつけるようにして呼吸を塞いで、胸をせつなくする ほろ苦い香りと濃い酒気であたしの内側まで一杯にしようとする。 触れてきたときと同じようにゆっくりと離れて、また塞がれて、また離れる。 唇と唇を触れ合わせるだけの口づけは短いけれど、離れたと思えばまた塞がれて息もつけない。 「・・・っん、ゃ、ぅ・・・ひ。ひじ・・・っ」 「」 「――っ」 キスの雨を降らされる合間にかぶりを振ったら、熱っぽい声に呼ばれて背筋が跳ねる。 途端に固まってしまったあたしを見下ろす土方さんが、暴れるな、と目で言い聞かせながら 乱れた前髪を耳のほうへ流す。汗ばんでしまった髪の生え際を撫でて、宥めるようなキスをそこに落とした。 男のひとの重みに潰されて少し息苦しくなった胸が、きゅんとせつなく締めつけられる。 途端に身体の奥がじわりと熱を帯びてきて、そんな自分を知られてしまうのが恥ずかしい。 あわてて腰を捩って湧いてきた熱から逃れようとしたら、その仕草で土方さんも気づいたみたいだ。 くく、と喉の奥で笑われたら羞恥心に火が点いてしまって、もうどうしたらいいかわからない。 おかげでもっと身体の熱が上がってしまった。 ・・・これだから土方さんはずるい。こういうときに呼ばれると弱いって、しってるくせに。 「はっ、珍しく大人しいじゃねぇか。もうその気になってきたか」 「なっっ、なってないぃ・・・!」 「ったく・・・毎度毎度、面倒臭せぇ女だな。 さっさと諦めて好きにさせろ。人間諦めが肝心って言うだろうが」 ちゅ、ちゅ、と唇を重ねられて、真っ赤に熟れた頬にも吸いつかれて、 頭や身体を大きな手のひらに撫でられる。口では呆れるような理不尽を言うくせに、 土方さんは優しかった。何度も繰り返される口づけも、メイド服越しに背中を撫でてくる手の仕草も、 後ろ頭まで伸びて髪を梳いている指の動きも、いつになく優しくて甘やかすような触れ方だ。 このひとの全身から漂うお酒の匂いに、あたしまで酔ってしまったんだろうか。 やわらかい感触でちゅ、ちゅ、と吸いつかれるたびに心地良くて、今にものぼせそうで、 ここがどこなのかも忘れそうになるくらいうっとりして、頭の中がくらくら揺れる。 とくとくと心臓を鳴り響かせている身体が火照って、芯からゆるゆる蕩けはじめた。 これじゃあ土方さんの思い通りだ。こんなところで言いなりになったらいけないって、わかってるのに。 なのに離れたときに土方さんが漏らした吐息の熱まで敏感に感じとってしまって、背筋が震える。 触れられるほどに痺れが走って、首に結び付けられた小さな鈴がそのたびに転がる。 澄んだ音色がちりん、ちりんと、天蓋の向こうで夜空を輝かせている花火の爆音の合間に響き渡っていた。 やがて花火の打ち上げ音が途切れて、瞼の裏を明るくしていた光も止んでしまって。 重なり合った唇がわずかに離れると、おい、と頬を軽く指先で叩かれた。 困ったあたしは、子供が駄々を捏ねる時のように頭を振る。 土方さんとは幾度となく唇を重ねてきたけれど、こんな時に目を合わせるのは今でもやっぱり恥ずかしい。 それでも硬い指先が頬を突いてくるから、唇をつんと尖らせた拗ねたような顔で、おずおずと瞼を上げていく。 するとあたしとは真逆の余裕な表情を湛えたひとは、口端を歪めて意地悪く笑っていた。 「どうだ。そろそろ諦めはついたか」 「〜〜〜・・・っ」 「犬だろうと猫だろうと、どのみち愛玩動物ってのは飼い主を癒すためのもんだ。 黙って首輪に繋がれて、主人の思い通りに可愛がられてんのがてめーの仕事だ」 「・・・・・・か、かわぃ、がる・・・・・・って、ど・・・やって・・・?」 どきどきと胸を弾ませながらしどろもどろに聞き返すと、頬を撫でていた土方さんの手の動きが変わる。 頬から首筋、そこから髪を撫でてうなじへと、硬い手のひらは滑っていった。 すっかり火照ったあたしの肌の熱を楽しむような手つきで撫で下ろしていったその先で、 黒いリボンを結んだ鈴付きのチョーカーを捉える。くい、とリボンの結び目に指先を引っ掛けると、 「――どうするか、知りてぇか?」 低くひそめた囁き声が、誰にも秘密の内緒話でもしているみたいに尋ねてくる。 頬を染めて見蕩れるあたしを焦らすみたいに、ゆっくりと、少しずつ顔を寄せながら、 飼い主さまは涼しげな目許に不敵な微笑を浮かべる。飼い猫を繋いだリボンの結び目をするりと解く。 重なる寸前の唇が開いて「教えてやる」とほんのひとこと、甘い声音でつぶやいた。

「 猫可愛がりにもほどがある 」 text by riliri Caramelization 2015/08/29/ ----------------------------------------------------------------------------------- 捏造五番隊隊長と一番隊副隊長は「片恋方程式。」「狼と踊れ」にちょっとだけ登場してます ちなみに60巻でぎんたまファンを震撼させた監察32歳設定ですが ここでは20代前半ですご了承を orz