猫 可 愛 が り に も ほ ど が あ る   *6 「おら、飯だ。食いやがれお嬢様」 ことり、と恭しい手つきで目の前に置かれた湯気を昇らせるお皿を睨み、 お皿を運んできてくれた仏頂面の執事さんを見上げて睨む。 どうにか普通の大きさに戻っていたあたしの頬は、再びぷーっと膨らみきった。 ――カフェのお仕事も一区切りついたところで、あたしは土方さんと二人で 遅いお昼ごはんを摂ることになった。「ちゃんは裏で待っててね」って 武田さんの指示通りにお店の裏に行ってみれば、木箱と板を組み合わせた 即席テーブルと、ビールケースにクッションを敷いた椅子が並んでいて。 そこに腰掛けて待っていたら、何と土方さんがご飯を運んできてくれた。 注文した賄いの食事はオムライス。昔ながらの洋食屋さん風なチキンライスも、 ふんわりと被せられた卵も見るからに美味しそう、・・・なんだけど、 スプーンやお皿を綺麗にセッティングされた直後の言葉が「食いやがれ」じゃあ、 お昼過ぎからご飯を待ちわびてた腹ぺこのお腹も食欲を失くすよ。 せっかくのお嬢さま呼びも台無しだよ。執事さんがお嬢さまにお食事をサーブしました、 っていうよりは飼い主がペットにドッグフードを与えましたってかんじだよ・・・! かちんかちんかちん、と行儀悪くスプーンでお皿を打ち鳴らし、ついでに 首と尻尾の鈴もちりんちりん鳴らして、あたしは「ガキか」と呆れ顔で言い捨てた 執事さまに真っ向から非難の声を上げた。 「嬉しくない、嬉しくないぃぃ。こんなの絶対差別ですよー、差別! どうしてあたしにはこんなかんじなんですかぁ、女の子を犬扱いなんてひどいですよー」 「いいからとっとと食え馬鹿犬。てめえの不機嫌はなぁ、大方が腹の減り具合に直結してんだ」 「犬じゃないですっ猫ですうぅ」 「あぁそーかよ。何でもいいから食え馬鹿猫」 面倒そうに答えながら、土方さんは嵌めていた白手袋を右手だけ外す。 タイトなシルエットが窮屈だって文句をつけてた燕尾服も、これも面倒くせぇ、って かんじに眉を曇らせながら腕を引き抜きさっさと脱いだ。 手袋と一緒にテーブルの端に投げ出すと、あたしの隣に腰を下ろす。 オムライスとパスタとサンドウィッチとサラダのミックスっていう、 見た目かなりカオス状態のお皿にざくざくとスプーンを突っ込んでいく。 どこまで掬っても底が見えなさそうな土方さんの賄いご飯は、 隣で見てるだけでお腹が一杯になってくるボリュームだ。 何でもいいから大盛りで、ってオーダーしたら、一番大きいお皿に全部ごちゃ混ぜで乗せられたんだって。 「・・・あれっ。土方さん、マヨネーズは?かけないんですかぁ」 珍しいですねぇ、と首を傾げて視線を遠くへ伸ばしてみる。 お醤油にソース、ケチャップにタバスコ、お塩に胡椒にドレッシング―― 畳二畳ぶんくらいある即席テーブルの中央には、調味料の瓶があれこれ揃えられてる。 なのにマヨネーズは見当たらない。土方さんの食卓の必需品、周囲の冷たい視線も何のその、 まるで義務みたいに一人で一日に2本以上は必ず消費、屯所の冷蔵庫に常備している ストックを誰かがうっかり使おうものなら切腹まで命じ、任務中にも携帯するほど愛用してるあれがない。 おかしいなぁ、厨房の冷蔵庫にはあったはずだけど。 「冷蔵庫に業務用のおっきいのが入ってましたよー。持ってきましょーか」 「もうねーよ」 「え?」 「武田の奴が隠しやがった。今日は女受け狙ってんだから女受けの悪りぃ悪癖は晒してくれるな、だとよ」 「ふーん、そうなんですかぁ」 山盛りのオムライスをスプーンに掬っては次から次へと早いペースで頬張るひとの表情は、 眉間がぎゅーっと顰められててなんだかすごく不満そうだ。 大好物が食べられなくてつまらないのかも。八つ当たりみたいにざくざくと チキンライスの山をスプーンで掘り返してる姿も、「鬼の副長」なんて 厳めしい異名が巷で罷り通ってる人らしくない子供っぽさだった。 こういうときの土方さんって、ちょっと可愛いよね。・・・なんて思うのは、あたしだけなのかなぁ。 いや、見た目は別に可愛くないんだけど。むしろ普段の澄ましきった顔を 被ることすら忘れちゃってて、不機嫌オーラが全身から垂れ流し状態だから普段より怖いくらいなんだけど。 だけど、マヨネーズ一つで不機嫌さが丸出しになっちゃう意外な単純さが可愛いかも。 なんて思って嬉しくなって、ご飯も食べずにふにゃあっと顔を緩めていたら、 「――ところで、お前は行かなくていいのか」 「行くって、どこにですかぁ」 「そこいらの屋台だの催し物だの、見て回らなくていいのかって話だ」 そう言って、食材入りの木箱や段ボールが小高く詰まれた向こう側を視線で指す。 そこにはカフェの食材や調理用具、食器なんかの資材を搬入する時に使われた 木箱や段ボール箱を高々と積んだ壁が出来ている。店の裏手の空きスペースに作られた この隊士専用休憩所に、一般のお客さまが迷い込まないようにするための目隠しだ。 箱と箱との隙間からは、屋台が並ぶ明るい通りと、お祭りを楽しむ町の皆さんの姿がちらほらと見える。 盛況が続くお祭り会場はとっぷりと陽が暮れていて、 赤や黄色の派手な看板が光り輝き、その光に照らされながらたくさんの人が蠢いていた。 さく、と一口大に割り取ったオムライスを、ぱくん。甘くて爽やかなケチャップ味の チキンライスを口いっぱいに頬張る。表面は固まっていた卵は中が半熟、とろとろでふわふわ、 噛みしめていると自然と顔が緩みきっちゃうしあわせな味だ。 「うわぁ、土方さぁ、これすっごくおいひーれすねぇぇ」 「フン、飯一口で早くも機嫌直ってんじゃねぇか」 単純でいいな、てめえは。 感心したような口調でつぶやいた土方さんが、馬鹿にしきった醒めた目つきであたしを眺めて、 「つーか飯の話はいい、祭りの話だ。どうする、行きたかねえのか」 「それはぁ、もちろん見に行きたいですよー。行きたいですけどー。お祭りなんて久しぶりだし」 「なら行ってこい。一人じゃつまらねぇってぇなら、総悟を呼び戻してやってもいい」 「わぁ、いいの?ほんとにいいんですかぁ」 「ああ。あと二、三時間で祭りも終わりだ、ここらで馬鹿ウサギも回収しとかねぇとな」 今頃どこをほっつき歩いてんだか、と土方さんはうんざりしたように眉間を寄せた。 オムライスは早くも食べ終えたらしくて、今度はサラダをフォークでつつきながら お皿の端に添えられていたBLTサンドにも手を伸ばす。 総悟は昼から行方不明で、誰も姿を見ていない。 ちなみに土方さんが携帯に電話してみたら、繋がった瞬間にぶちっと向こうから切られたそうだ。 「どこまで行っちゃったのかなぁ総悟。大人しく戻ってきてくれるといーですけど」 「そこは問題ねぇ。お前、後であいつに電話入れてみろ。一発で捕まる」 「えーっ、そうですかぁ?」 ああ、と土方さんがサンドウィッチに齧りつきながら頷く。 そうかなぁ。総悟が誰より懐いてる近藤さんならともかく、 あのひねくれたサボり魔さんがあたしのお願いを聞いてくれるとは思えないけど。 うーん、と首を傾げながらオムライスをぱくんと一口、大きく頬張る。 次の一口をスプーンで掬おうとしたところで、響きが高くて耳に残る 女の子たちの笑い声が聞こえて。その声に誘われるようにして、箱が詰まれた壁のほうへ目を向けた。 ――学校かお仕事帰りの寄り道、なのかな。可愛く着飾った数人の女の子が、 屋台で買った食べ物を片手に通りすぎていく。お喋りしながらお店を覗いて 楽しそうに歩く姿は、周りのお店から放たれる暖色の光に照らされて 遠めに眺めても華やかだ。彼女たちとすれ違うようにして 通りすぎていくのは、土方さんくらいの年齢に見える男の人と、 髪をアップにして簪を飾った清楚な雰囲気の女の人。 お互いに慣れたかんじで手を繋ぎ合っている二人は、花火が上がる 河川敷のほうへ向かうのか、同じように河川敷を目指す人たちの影に呑まれて見えなくなった。 「・・・・・・あれって、デートかなぁ・・・」 「あぁ?何か言ったか」 「えっ。ぅ、ううん、何もっ」 ひとりごとを聞かれてしまってあわてたあたしは、オムライスをどんどん口に運んで 隣から注がれる怪訝そうな視線からどうにか逃れようと必死になった。だけど その間も、目に焼きついたカップルの姿がちらちらと浮かんでくる。 ――屋台そっちのけでお互いを見つめ合っては笑う二人は、甘い雰囲気に溢れてた。 あれは間違いなくデートだよね。いいなぁ、うらやましい。 憧れちゃうなぁ、お祭りデート。そんなことを考えながら、 隣のひとをちろりと見遣る。仲の良さそうなカップルを羨ましがっていた間に、 土方さんはBLTサンドとサラダを驚異の早さで食べ終えていた。 大きなお皿に残っているのは、バジルの緑とトマトソースの赤が色鮮やかなパスタだけだ。 黙々と頬張り続けるその横顔を見ているうちに、なんだかさみしいような、 ちょっとだけ物足りないような気分になった。 「・・・土方さんは?見に行かないんですかぁ、お祭り」 「行くと思うか、俺が」 「それはその・・・思いませんけどー。もしかしたら行くかなぁって」 「行かねぇよ」 「あはは、そーですよねぇ、土方さんはお祭りなんて興味ないですよねぇ。だと思いましたよー」 なんて言いながら隣のひとの反応を窺ってみたけど、 ああ、とか、いや、なんて短い返事すら返ってこない。 隣ではかちゃかちゃと、フォークを動かす音が鳴っている。 傍のグラスを手に取って、氷入りのお水を口にする。 こくんとひとくち飲み込めば、爽やかに広がるレモンの香りがすうっと鼻を抜けていく。 グラスの中をゆらゆら漂う氷の粒に視線を落とすと、あたしはほんのちょっとだけ肩を竦めた。 ・・・そうだよね。土方さんて、人混みとか賑やかな場所はあまり好きじゃなさそうだし。 心の中ではしょんぼりしながら、もう一度お水を口に含む。 すると、からんっ、と隣で高い金属音が響いた。なんとなく隣に目を向けてみれば、思わず目が丸くなる。 ――土方さんが食べてたお皿が、もう空だ。残っているのは お皿に投げ出されたフォークとスプーン、あとはサラダの彩りのパセリが隅に転がってるだけで―― 「早っっ!もう食べちゃったんですかぁ」 「お前が遅せぇんだ。ぼさっとしてねぇで早く食え」 スプーンとフォークを包んでいた紙ナプキンで口元を拭ってる人を唖然と眺めてから、 すっかり空になったお皿をまじまじと眺める。多忙なせいで食事にかける時間すら 惜しいと思ってるのか、普段からとにかく早食いな土方さんだけど、 あの量をこの短時間で食べきっちゃうなんて。びっくりしてるあたしをよそに、 土方さんはグラスのお水をごくごくと喉を鳴らして飲んでいた。 この飲みっぷりだ、お腹も空いていたけど喉も相当乾いていたみたい。 たんっ、と打ちつけるみたいにしてテーブルに置いたグラスの中で、からん、と 小さく音が鳴る。表面に水滴が滴るグラスの中身はほんの一瞬で飲み干されて、もう氷しか残っていない。 細身な黒のネクタイを緩めてシャツの釦もひとつ外すと、はぁ、と土方さんは ようやく落ち着いたように息を吐く。早速シャツのポケットから煙草を出して、 「近藤さんが町内会のジジイどもに誘われてんだ。 河原の桟敷席で酒でも飲みながら花火見物でもどうだ、ってな。お前も総悟と付いて行け」 「わぁ、花火見ながら宴会ですかぁ。豪華ですねぇ」 目をぱちくりさせながらつぶやけば、山崎くんに渡したお祭りのチラシが頭の中に浮かんでくる。 夜景をバックに鮮やかな光の輪を描いていた花火。印刷されても光の鮮やかさが 目を惹く写真はなかなかの美しさで、町でポスターを見かけたときに立ち止まって眺めたこともある。 お金持ちで目が肥えてるお隣のご隠居さんからお墨付きが出るほどの花火だ、きっと実物は 溜め息ついて見蕩れちゃうほど綺麗なんだろうけど―― ――でも、いいのかなぁ。なんだか気が引けるよ。 副長が店番してるのに、その部下の専属雑用係がほいほい遊びに行っちゃうなんて。 「・・・すっごく楽しそうですけど、今日は遠慮しておきます。 こういう可愛い服着てカフェのお仕事してるだけでも楽しいし、今日はそれだけで充分ですよー」 「俺に遠慮してるなら気にすんな。これぁ不貞腐れた飼い犬の機嫌取りみてぇなもんだ」 「・・・?何ですかぁそれ。あたしのどこが不貞腐れてるっていうんですかぁ。 あたしはずーっとご機嫌ですよ?土方さんと違ってお祭り大好きだもん、 カフェの準備始めた半月前からずーっと浮かれっ放しですよー」 そう言い返したら、咥えた煙草に火を点ける寸前だった土方さんの動きが止まる。 何を思ったのか煙草を口から引き抜くと、握ったスプーンでオムライスを つついていたあたしのほうへ視線を流す。 ふっと両端が吊り上った唇に、嘲笑うような笑みが浮かんで、 「はっ、言いやがる。他の女にいい顔しただけで水風船みてぇに膨れた奴が」 「〜〜〜っ。だから違いますってば、あれはっっ、・・・・・・――っ」 スプーンを振りかざして言い返したけど、その後の言い訳が続かない。 上げた右手をへなへなと下ろして、あたしはぷいっと顔を逸らした。 それでも意地の悪い視線が斜め上から突き刺さってくるから、やっぱり何も言い返せない。 かといってご飯を食べる気にもなれなかったから、水風船に例えられた頬を ぷーっと大きく膨らませて、スプーンをかちゃんとお皿の上に放り出した。 お水のグラスを手に取ると土方さんに背を向けて、両手で持ったそれをちびちびと飲む。 ・・・言葉が続かなくても当然だ。だって、違うも何も、大当たりだもん。 土方さんが言った通り。本当はあたし、ぜんぜん面白くなかった。 あたしには見せてくれたこともない顔で、お客さまを丁重にもてなす土方さんが嫌だった。 それでも「違います」って言い返したくて、意地になって他の理由を探してみたけど―― 「・・・だから、えっと、違いますよ、あれですよー、あれ。 や・・・やきもち妬いたとかそういうのじゃ、なくて。 ただ、ちょっと、もうちょっと待遇の改善を要求したいっていうか・・・ぁ、あたしのことも、もう少し・・・」 「どこも違ってやしねぇだろ。要は妬いてたって話じゃねぇか」 「〜〜ち、違うぅ、そうじゃなくて!だって・・・だって、土方さんが・・・〜〜〜っっ」 ・・・ううぅ、悔しいっっ。 何とかここで言い返したい。言い返したいのに、頭に血が昇ってるせいで それらしい言い訳ひとつ思いつけない。まぁそれ以前に、ここで 何を言い返したところで無駄っぽいけど。普段からバカだ間抜けだって こき下ろされてる飼い犬が、真選組の戦術師まで兼任してる鬼の副長さまの 裏を掻けるはずがないんだけど・・・! うぅ〜、と口をうんと尖らせて、お皿に半分くらい残ってる 食べかけのオムライスをスプーンでざくざくつつき回す。 なめらかでふわふわな卵の膜を半ば八つ当たりで崩しまくっていると、 頬がじわじわ熱くなってきた。その熱は首や耳まで広がっていって、 そのうちに頭の中までかーっと熱くなってくる。 卵できれいに巻かれたオムライスがかわいそうなくらいぐちゃぐちゃになってしまった頃には、 つまらないことで嫉妬していた自分が、それが土方さんにもお見通しだったことが、 ――なのに意地になって「違います」なんて言い張った自分の可愛げのなさが、 どうしようもなく恥ずかしくなってしまっていた。斜め上からの強い視線を 黙って浴び続ける気まずさにも、どんどん耐えきれなくなっていって―― 「・・・・・・あ、あのぅ・・・あの。あの、ね・・・?」 弱りきってしまったあたしは、とうとう自分から切り出した。 どう言おうかと迷いながら喉の奥から絞り出したその声は、 自分に対する情けなさが滲み出ているせいか、やけにか細くて自信がなさそうだった。 「・・・〜〜〜ち。ちがうの、ほ、ほんとは、そうじゃなく、て・・・ じゃなくて、あの、そぅなんだけど、そ、じゃ、なくて・・・・・・っ」 「声が小せぇ。もっとはっきり言いやがれ」 「〜〜〜・・・っっ」 困りきって肩を小さく竦めながら、視線を横に流してみる。 恨めしさたっぷりなあたしの視線は、頬杖をついてあたしの答えを待っている 余裕たっぷりな執事さんに涼しい顔で受け止められた。 「言えるもんなら言ってみろ」 そう言いたげな目に、あたしの反応を面白がっているような愉しげな色が浮かんでる。 おかげでただでさえ赤く染まっていた頬がさらにかぁっと火照ってしまって、 「あ、あれはぁ・・・えと、えっと・・・っ」 「あれぁ何だ。言ってみろ」 「〜〜〜っだ、だからっ、あれは、ぁの、うぁ、ゃ、 ・・・・・・・・・・・・ゃ。ゃき、もち、だった、かも、しれなぃかも、しれなぃ、けど・・・〜〜っ」 深くうつむいて視線を左右に泳がせながら、途中で何度か舌を噛みそうになりながら、もごもご、ぼそぼそ。 真っ赤になって口籠っていたら、メイド服のスカートとスプーンを握った 自分の手だけが映っていた視界が、ふっと何かに遮られる。 それが土方さんの手だって気付いた時には、もう下唇に触れられていて。 親指の先に染みついている煙草の香りにどきっとして、とくん、と心臓が跳ね上がったのと同時だ。 半開きになったそこをなぞるようにして撫でられて、あたしの頭は真っ白になった。 「〜〜っっ!?」 びくんと背筋が跳ね上がって、首に巻いたチョーカーの鈴が、ちりんっ、と音を弾ませる。 驚きすぎて喉が詰まって、声が出ない。熱い指の感触に身体中が竦む。 唇の端から端まで指先が滑り終えたかと思えば、もう一度、 今度は上唇の感触を確かめるみたいに、ゆっくりと弱く押しながらなぞられた。 こっちへ身を乗り出すようにして迫ってきたひとが、ん、と怪訝そうに唸る。 ほんのわずかに頭を傾げて、目元に薄く影を作る長さまで伸びた 黒い前髪を揺らしながら、いつもよりも鋭さが和らいだ不思議そうな目で覗き込んできて―― 「――見慣れねぇ色だな」 「ふぇえ!?」 ようやく出た甲高い声で喉を震わせて叫んだ時には、土方さんは 何か珍しいものでも見つけたような、無遠慮なくらいの強い視線であたしの顔を眺め回していた。 手袋を外した右手――その親指の腹を染め上げた、青みがかった淡いピンクが目に入る。 あれって――あたしの口紅だ。 「・・・き、今日は武田さんが、メイク、してくれたから・・・」 「あぁ。そういやぁ聞いたな、そんな話も」 フン、と鼻先で軽く笑い飛ばしたひとの伏し目気味な眼差しは、少し色落ちしたはずのあたしの唇から動かない。 なかなか逸らされない視線がいたたまれなくて、顔を背けてうつむいた。 ・・・まただ。また見られてる。 一体どうしちゃったんだろう。チラシ配りをしていた時といい今といい、普段はめったに 目を合わせてもらえない雑用係が、今日はなぜかこのひとに注目されっぱなしだ。 だけど、ここまで注目される理由がわからない。どうして見られてるんだろう。 「ぁ。あのぅ・・・・・・あたし、どこか、変・・・?」 「あぁ?」 ひょっとして――塗ってもらった口紅が似合ってないのかな。 それともさっき擦られたせいで、口の周りが汚れてる?それともオムライスのケチャップが・・・? どれもありそうだから落ち着かなくて、あわてて手の甲で口許を拭って、 「はっきり言ってくださいっ、どこ、どこですかぁ、どこがおかしいんですかっ。 あたし、どこか変なんですよね・・・!?」 すると土方さんは切れ上がった目元を怪訝そうにひそめた。 何言ってんだこいつ、ってかんじの呆れきった表情で、 「今更慌ててどうすんだ。お前の頭の具合がおかしいのは別に今始まったことじゃねぇぞ」 「違うぅぅ!頭じゃなくて見た目ですっ、見た目っっ。 だ、だって土方さん、さっきから、じっと見てるじゃないですかぁ。もしかしてどこか、おかしいのかなって・・・!」 恥ずかしいから口許を覆って上目遣いに尋ねたら、視線も逸らせないくらいの 近さまで迫ったひとの顔が、不意を突かれたように目を見張る。 なぜか面食らったような表情になった土方さんは、あたしのほうへ 傾けた身体を起こして距離を取った。 きらきらと眩しいお祭りの人混みのほうへ、ふらりと視線を彷徨わせると、 「――・・・。まぁ、あれだ。変っつうか・・・」 口紅が移ってピンクに染まった親指を眺めて、言い辛そうに言葉を濁す。 かと思えば何かに不貞腐れているような、けれど少し困ってもいるような目つきで睨んできた。 ぐ、と急にあたしの手首を握りしめて、 「退けろ、その手」 「ぇ、――んっ」 止める間もなく引っ張られたら口を覆った手が外れて、ぐらりと前に身体が傾く。 その瞬間を狙ったように間を詰めてきたひとに、素早く唇を塞がれた。 いきなり押しつけられたやわらかさと、熱い体温、ほろ苦い香り。 それだけでも驚いて肩が跳ね上がったのに、唇よりもうんと熱くて濡れた感触がぬるりと割り込んできて―― 「――っっ!?〜〜っぅん、んっっっ」 何の躊躇いもなく舌を口内まで押し込まれて、喉の奥で言葉にならない悲鳴を上げる。 そこであたしは、やっと他の異変にも気付いた。 エプロンドレスとメイド服のスカート、その下で膨らむパニエ。 三枚の布で覆われた腰は、いつのまにか両腕で抱きしめられている。 びっくりして身じろぎすると拘束がさらにきつくなって、白いシャツの胸元にぐっと強引に押しつけられて、 「ゃ、ちょっ、っ、くる、ひっ・・・・・・んふっ、〜〜んんっ」 びくん、と弱い電流でも流されたみたいに腰が小さく跳ね上がる。 舌の付け根まで素早く潜り込んできたひとに、尖らせた先で悪戯に撫で上げられたせいだ。 つうっと辿られた奥の粘膜は、何度触れられても触られ慣れない部分。口の中でも特に敏感な部分だ。 あたしはあわててシャツの肩を掴んで、縮み上がっていた自分の舌で土方さんを押し返そうとした。 なのに土方さんは、もっと深く入り込もうとする。 ぐっと押しつけられた唇に隙間なくぴったりと塞がれて、呼吸ごと封じ込めるみたいにして飲み込まれた。 「――っひ、ひじっ・・・っぅ、んっ」 くちゅ、って濡れた音を立てて喉奥から舌に絡みつかれて、ぞく、って背筋を震わせる何かが走る。 肌を粟立たせる寒気に似ていて、だけど、感じるたびに身体を芯まで痺れさせてしまうこの感覚。 それが腰から背筋を擦り抜けて消えても、また次の痺れが駆け抜けてびくびくと震える。 狭い内側を占領して好きなように蠢いてる土方さんの舌先が、感じやすい顎の裏や口の奥をなぞってるせいだ。 「んっっ。・・・んふ、ぅっ、っく、んっ・・・」 ちゅ、くちゅ、くちゅ。 口内を掻き乱す水音の隙を縫って頭の中に響くのは、会場中に流れている祭囃子と、 ちょっと耳に刺さって煩いくらいの屋台からの呼び声。それから、屋台が並ぶ通りを 過ぎていく人たちの話し声、笑い声、足音。どれがどこから 届いたものかも聞き分けられないくらいに混然としているざわついた音が、 すぐ傍から――木箱や段ボールを積み木みたいに重ねただけの、隙間だらけの壁の向こうから流れてくる。 満足に呼吸も出来なくてどんどん温度が上がりっ放しな頭の中で、あたしは呆然とつぶやいた。 ――待って、ちょっと待って。 何が起こってるの、何されてるのあたし。ここって外だよ、外なのに・・・! 「〜〜〜っんっ、んむっ、ぅ、ゃぅ、んっっ」 「少し黙ってろ。大人しくしてりゃあすぐ終わらせてやる」 「ぅ、ゃあ、〜〜っ」 顔を左右に振ってみたり、握りっ放しになっていたスプーンで だめだめ、やめて、って肩をばしばし叩いてみたり。 めいっぱい抵抗してみたけど、逆に頬や後ろ頭を押さえられて がっちりと動きを封じられてしまう。それどころか、いつのまにかお尻の下まで 滑り込んできた手に持ち上げられて、そう軽くはないはずの あたしの身体は、ふわ、といとも簡単そうに宙に浮いた。 しかも当然のように抱き降ろされた先は、あろうことか土方さんの脚の上で―― 「〜〜〜っ!」 びっくりして涙目になりながら、背筋を反らして離れようとする。 こうなってしまえば身動き一つ自由にとらせてもらえないことは、 これまでの体験で知っているけど、――それでも恥ずかしくて耐えられない。 シャツの肩口やベストの衿元をあわてて握って、隙間なく触れ合った 硬い身体を押し返す。だけど、いくら押してもびくともしない。 腰と背中に回された腕の力だって、とても女の子が振り解ける程度のそれじゃない。 「〜〜っ、ゃ、やめっ、ここっ、外ですぅっ、外・・・っ」 「外だな。お前がそうやって素っ頓狂な声上げ続けてみろ、じきにそこらの祭り客が気付く」 「〜〜〜っっ。土方さんのばかぁ、へんたいっ、鬼ぃ、人でなしっ、いじめっ子ぉぉぉ」 「いいから黙れ。こっちは朝からてめえに煽られっ放しで、いい加減堪り兼ねてんだ――」 「なっっ、ぁっ、あおられた、て、――っん、ふぁ、っんんっ」 煽られたって、何のこと。 そう尋ねたかったのに、ふっと吐息を漏らして笑った土方さんの唇があたしの言葉を遮った。 逃げる間もなく舌を絡め取られて、声を上げる間もなく奥まで入り込まれる。 くちゅ、くちゅ、と音を立てて吸われて、捻じ込まれた舌先で顎の裏をくすぐられる。 埋め尽くされた息苦しさにはぁはぁと喘ぐ口の中を、好きなように掻き乱される。 その動きが激しくなるにつれて、腰に回されていた手まで動き始めた。 薄くて滑らかなメイド服の布を隔てた向こうから、手袋を嵌めた左の手のひらに腰や背中を撫で回されて、 「ゃあ、も・・・やめ・・・っ」 「あぁ。気が済んだらな」 ぷつ、と顎の下あたりからほんの微かな音が響く。 大きめな白い衿が付いたメイド服の胸元だ。 後ろ頭から首筋を伝って胸の上まで滑り下りてきた手が、 服の合わせ目に挿し込まれる。人差し指の先がそこを弾けば、一番上の釦が外れてはらりと衿元が肌蹴てしまった。 「・・・!えっ、や、ゃだ、うそ、っ、〜〜んんっっ」 あわてたせいでちりちりと鈴が揺れ動いたチョーカーのあたりを、つうっと舌先でなぞられる。 上げそうになった甲高い声を必死でこらえて、んっっ、と咄嗟に唇を噛んだ。 それでも身体の震えはこらえきれなくて、濡れた感触が ゆっくりと這い込んできた鎖骨のあたりと、スカートに縫いつけられた猫の尻尾が音を立てた。 土方さんの舌や唇があたしの肌に触れるたびに、甲高い音色がちりんと転がる。 幾度も幾度も、二つの音色が重なり合う。可愛らしいその音が 響くたびにどうしようもなく恥ずかしくて、耳を塞ぎたくなってきた。 こうやって舐められるたびにあたしが反応してるって、この音が土方さんに教えてるみたいで―― 「・・・んふ・・・ぅ・・・・・・っ」 ちりちりと鈴が鳴り続けている首筋に舌を押しつけて吸われると、 ちくりと刺されたような痛みと肌をざわつかせる痺れが走る。 声はなんとか我慢出来たけれど、鼻にかかった吐息が漏れてしまうのが恥ずかしい。 背中をゆっくり這い上がった手にうなじや耳も撫でられてしまえば、 煙草の匂いがする大きな手にすっかり馴らされてしまった身体が、 好きなひとに触れられた気持ちよさで蕩け始める。 その間にもちゅ、ちゅ、と舌を押しつけて顎の下や耳の付け根の薄い皮膚を きつめに吸われて、そのたびにぞくぞくした何かが腰から背筋を走り抜ける。 太腿に力を籠めて震えをこらえようとしても、じわじわと火照りを 帯びてきた身体は土方さんの舌の動きに敏感に反応する。びくびくと正直に揺れ動いてしまう。 「・・・・・・ひじか・・・さぁ・・・っ」 呼んでみても、肩に縋った手に力を籠めても答えてくれない。 土方さんは何も耳に入っていないような様子で、夜気に晒された胸の谷間に吸いついていた。 火照って色づき始めた肌をちゅ、ちゅ、と啄んでは、胸元から鎖骨へ、さらに首筋へと熱い唇が這い上がってくる。 涙のせいで視界がブレてきた目で見下ろしても、その表情は長めな前髪に隠されて見えない。 見えるのは、首筋に顔を埋めた土方さんが違う場所へ吸いつくとき。 唇を離して顔の角度を変えるその時にだけ、唾液で濡れた唇や 赤い舌先が近くの屋台の光に照らし出される。 その短い瞬間の動きを目にしただけで、あたしの胸はきゅんとした。 肌へと伸びる舌の艶めかしい動きに、少し荒くなってきた吐息の熱さに、 まるであたしの肌を夢中で味わっているような仕草に、どきどきと心臓が弾んでしまう。 はぁ、はぁ、と乱れた呼吸を繰り返しながら、涙が滲んだ瞼をぎゅっと閉じた。 ――ちりん、ちりん、ちりん。 鈴が揺れ動くたびに可愛らしくて甘い響きが身体中に鳴り渡って、まるで その音に操られてるみたいに、頭の芯までぼうっと霞がかってくるのはどうしてなんだろう。 服の上から撫でてくる手の熱や、首筋の薄くてやわらかい肌を這う舌のせいで、 身体中がじんわりと汗ばむくらいに熱を上げてしまってる。もうどこにも力が入らない。 濃いグレーのベストを纏った肩に縋りついていた手が、シャツ越しに触れても 逞しさが判る二の腕を滑り落ちていく。 じきに意識が遠のいて、ざわざわと擦れ合うお互いの服の音まで 遠いもののように感じ始めて、指先の感覚まで曖昧になってきて。 からん、と真下で音が鳴った。 握りっ放しだったスプーンだ。脱力しきった指から滑り落ちたそれが、 あたしを膝上に抱き上げているひとの黒い革靴の足元に転がる。 「ん、ぁっ。・・・はぁ、も、やめ・・・っ」 ちゅ、と舌を押しつけて吸われるたびに、鼻先で押し上げられた鈴が ちりんと鳴るたびに、煙草の香りがする黒髪の硬い感触が 肌に当たって擦れるたびに、あたしの身体はおかしくなる。 背中や腰がびくびくと震えるのを止められない。 唇を噛んで必死に押し込めようとしても、鼻にかかった甘い声が漏れる。 大勢の人が行き交う屋台のすぐ傍だ。誰に聞かれてもおかしくないのに、なのに声が我慢出来ない。 うなじまで潜ってきた手に撫でられるたびに、宥めるような優しい手つきが 肌をゆっくり這うたびに、この手の動きに馴らされた身体は何もかも忘れて蕩けたがる。 そんな自分をこのひとも感じてるんだと思うと、身体中に火が点いたような強烈な恥ずかしさが襲ってきた。 きつく閉じた瞼の裏が、じわぁっと潤む。ぽろ、と溢れた涙の粒が頬を転がる。 「〜〜っ・・・ふ・・・あぁ・・・っ」 「・・・はっ。ようやく猫らしくなってきたじゃねぇか」 熱っぽく掠れた低い響きが、耳元で囁く。 耳の奥まで侵入してきた声の熱さに震えていると、はっ、と荒れた息遣いを 漏らしたひとに、背中が反るくらいにきつく抱きしめられる。 乱暴でどこか子供っぽいその仕草にきゅうっと胸が締めつけられて、 背中や腰から這い昇ってくるぞくぞくが止まらなくなる。 シャツの胸に顔を押しつけてこらえきれない感覚に背筋を震わせれば、スカートに縫い付けられた ワイヤー入りの尻尾も震える。その先の鈴まで、ちりん、ちりん、と甲高い音を響かせて震えていた。 「・・・・・・そろそろ、戻るか」 耳たぶにそっと口づけながら、土方さんが囁いてきた。 いつのまにかじんわり汗ばんでいた額にも、ぽろぽろ涙がこぼれていた目元にも、 ちゅ、と啄むだけの優しいキスが落とされる。 吐息と熱をそうっと掠めさせるような、甘いキス。 そんなふうに触れてくれることが嬉しいのに、それでも目を合わせられなくて、 あたしは隊服のそれと似た形をした白いシャツの衿元に顔を埋めた。 「おい。大丈夫か」 「・・・・・・大丈夫、ですぅっ・・・」 「なら顔離せ。・・・あー、その、・・・あれだ。化粧が服に移ると不味い」 「・・・ぅうう、そんなぁ・・・・・・まだ、むり・・・っ」 「はぁ?」 「無理ですぅ、そんな、すぐなんて、無理ぃぃ、・・・〜〜まだ、はずかしぃ、から・・・っ」 ぐりぐりぐり、とおでこをおしつけるようにして、いやいや、とかぶりを振る。 駄々をこねる子供みたいな甘えた仕草に呆れたのか、土方さんは短く溜め息を漏らして黙り込んだ。 腰を抱いていた手が頭にぽんと触れてきて、かなり乱れているはずのあたしの髪を梳き始める。 きっと手持ち無沙汰っていうか、他にやることもないから仕方なく撫でてくれてるんだろう。 いつまでもあたしが脚の上に居座ってるから店にも戻るに戻れないし、こんな不自由な体勢じゃ煙草の一本も吸えなさそうだ。 ・・・信じられない。何だったの。 あたし、今、何してたの。自分で自分が信じられない。 こんなところでキスされて、身体まで触られて、それでも感じてしまった自分が死ぬほど恥ずかしい。 でも、最後の優しいキスのせいで、そんな恥ずかしさも半分くらいは薄れてしまってる。 ――いつも素っ気ない土方さんからの、ご褒美みたいなキス。 何かを我慢させられたあとに貰えるこのキスに、なぜかあたしはすごく弱い。 それに、あたしがちょっと恥ずかしい思いを我慢しさえすれば 土方さんは喜んでくれるんだって、ご褒美まで貰えるんだって思えば、 身体中を火照らせて気怠くさせるこの困った感覚も、ただ恥ずかしいだけじゃなくて、 恥ずかしいけど心を満たしてくれる、特別なことのようにも思えてしまう。 「・・・・・・今のって・・・何だったん、ですかぁ・・・?」 縋りついていたシャツの生地を爪先で弄りながら、もじもじと籠った声で切り出してみる。 すると頭を撫でてくれていた手が止まって、真上から心外そうな唸り声が降ってきた。 「あぁ?」 「・・・だって、こんな・・・こんなところでなんて、おかしいです。 ・・・・・・ぃ、いつもと、ぜんぜん、違ぅもん・・・」 「違ってんのはお前もだろ。つーか、お前が普段と違ってっからこうなるんだろうが」 「〜〜っっ!?なにそれっ、まるであたしのせい、みたいにっっ」 顔を起こして上目遣いに睨んでみると、視線がぴったり重なり合う。 すっかり熱に浮かされて涙目になったあたしを眺めると、眉間に皺まで寄せて憮然としていた 土方さんは表情を変えた。ちりん、と指先でチョーカーの鈴を弾くと、 ふ、と緩んだ唇が皮肉っぽい笑い声をこぼして、 「・・・まぁ、俺がてめえのせいでイカれてんのは今日に限ったことでもねぇが」 きつく吊り上った鋭い目元が歪んで、少し困っているような笑みに細められる。 そのまま黙って間を詰めてくるから、胸の中では心臓が破裂しそうなくらいに高鳴り始めた。 それでもおずおずと目を閉じて、頬をそっと覆ってきた手のひらの感触にうっとりしながら、 唇と唇が重なる甘い瞬間を待っていたら―― 「――ほーぅ、そーかそーか。 おめーはそーやって俺の目ぇ盗んではとニャンニャン遊んでやがるのか」 「っっっ!!!?」 ぐっと息を詰めた土方さんが、あたしの肩をぐいっと押して距離を取る。 あたしもぱちっ、と目が飛び出そうなくらいに見開いて、あわてて辺りを見回した。 何の前触れもなく突然に、しかもかなりの至近距離から 耳に飛び込んできたのは、ここで聞こえるはずのない人の声だ。 うそ、どうして、何でここに!? 屋台の看板や提灯の光で薄明るく照らされた狭いスペースを探しても、 声の主の姿はない。それじゃあどこに、と視線を少し遠くへ向けてみれば、 箱を積み上げただけの目隠しの壁の隙間から、こっちを見ているサングラスのおじさんと目があった。 ――リーゼントに整えた白髪頭に、どう見ても警察の偉い人には見えない悪そうな顔。 江戸を守護する警察庁の長官でありながら、一方では破壊神と怖れられるそのお方は、 家出中のあたしの身元引受人でもある松平片栗虎さまだ。 箱の一つをどかっと蹴って目隠しの壁をがらがらと崩壊させてしまうと、 松平さまはこちらへゆっくり歩み寄ってきた。あたしたちの前まで転がってきた大きな木箱を ばきっと豪快に踏み砕くと、苦々しげに歪めていた口許から煙草の煙を吐き出して、 「いよーぅ、ー。よく似合うじゃねーかその格好」 なんていつもの鷹揚な口調で声を掛けられた瞬間、完全にあたしの思考は停止した。 それと同時で、がちゃんっっ、と背後のテーブルの上でコップが倒れる。 それまでは息が止まってそうな青い顔で絶句していた土方さんが、 「げっっ」と呻いて大きく仰け反ったからだ。 目の前で何が起きてるのか理解できていなかったあたしも、 数秒遅れで飛び上がらんばかりに驚愕した。 「ひいぃぃぃやぁあああああ!」と周囲の屋台まで轟く金切声で絶叫、 土方さんの脚の上から転げ落ちてもんどりうって、 「〜〜〜っっまままっ松平さま!?いっっいいいぃ、いっ、っっ!?」 おたおたとおろおろとじたばたと、テーブルの下に潜り込んで身を伏せながら泣き叫ぶ。 あまりの恥ずかしさに全身が真っ赤、心臓はばくばくと暴れてるし頭の中は混乱してるし、今にも目が回りそうだ。 (いつからそこに!?) そう尋ねるつもりだったけど、思いもしなかった人の登場で 心拍停止しそうなくらいに驚愕したせいか、ちっとも口が回らない。 あうあうあうぅっ、と今にも舌を噛みそうになりながら、 斜め上に見えたダークグレーのベストの裾をぐいぐい引いた。 その土方さんはといえば――かろうじて椅子に座ったまま・・・なんだけど、 今にも地面に転げ落ちそうな不安定な姿勢のまま固まってる。 コップが倒れたテーブルに背を預けるような格好で仰け反っていて、 身体の向きこそ松平さまに向き合っているけど、明らかに腰が引けちゃってる。 顔はまるで死人のように真っ青、瞳孔はかあっと開ききったまま。 幽霊か何かを見てしまって、恐怖と戦慄で全身が硬直してしまった人みたいだ。 ふっ、と肩を揺らした松平さまが、珍しく取り乱している土方さんを眺めて失笑する。 ただし、濃い灰色のサングラスで覆われたその目はちっとも笑っていないけど・・・! 「おい、ついに尻尾出しやがったなあぁぁ。どこのキャバクラに連れていっても 靡かねぇ堅物のおめーが、えらく楽しそうじゃねーかトシぃぃぃ。 そんなに楽しいんならよーオジサンも混ぜてもらおうかなー、いいよなぁ、あぁ!?」 「〜〜〜〜っっっ」 ごくり、と大きく喉を鳴らして、土方さんが松平さまを睨み上げる。 石像が何かのようにかちんと固まっていた身体が次第にわなわなと震え出し、 こめかみや額から汗がだらだら流れ落ちて、かぁっと剥いたままの目には隠しきれない焦りの色が滲み始める。 テーブルに肘をついて身体を支えていた腕がわなわな震え出したかと思えば、 握った拳を高く振り上げて、ばんっっっ。 食器ががちゃんっと鳴る勢いでベニヤ板の即席テーブルを殴りつけて、ばたっとそこに突っ伏すと、 「〜〜〜〜〜ちっっ、ジジイが鼻利かせやがって!まさかここまで来やがるたぁ・・・!」 「そうやって俺を欺いた気でいやがったのがおめーの敗因だな。 おいこのスケコマシ、よくも今まで騙してくれやがったな。今日こそは現行犯逮捕だ、腹ぁ括れ」 「えっ、ええっ、なに、何がどうしたんですかぁ・・・!??ひ、土方さん?松平さま・・・!?」 「いやいや何でもねーよ、お前が気にするこたぁねぇ。今日はちょっとトシに話があってな」 二人に挟まれておろおろしていたあたしの肩をぽんぽん叩くと、 松平さまはサングラスの奥の目を光らせて凄みたっぷりな笑みを見せる。 顔どころが全身からダラダラ汗を流し始めた土方さんの衿元を鷲掴みすると、そのままくるりと踵を返して、 「まぁ、はそこでゆっくり飯食ってろ。俺ぁちょっと忙しいからよー。 上司ってぇ立場を悪用して人の娘に手ぇ出しやがった女たらしのクズ野郎に用があるからよー」 「〜〜〜〜っっあぁあああああ畜生っっ、どうにでもしやがれ!」 「ふぇえ・・・?ぁ、あのっ、松平さまぁ、土方さん?えぇっ、ちょっ、く、クズ野郎って――・・・?」 頭をわっしわし掻き乱しながら怒鳴る土方さんを引きずって、松平さまはずんずんとお店へ進む。 ぽかんとしたままその背中を見送ったあたしも、そこでようやく我に返った。 というか、すっかり失念していたことを唐突に思い出して愕然とした。 「ゎ・・・〜〜わわわっわゎわわゎゎわすっっ、忘れてたあぁぁ・・・!!」 わなわなと震え始めた唇から裏返った声を絞り出すと、頭を抱えて地面に突っ伏す。 ああ、どうしよう。どーしたらいいの。さーーーっ、と盛大な勢いで全身から血の気が引いていく。 ――土方さんとあたしの「お付き合い」が始まったのは今年の冬。 だからもう、とっくに報告したような気になってたけど、 ・・・そうじゃなかった、まだだった。まだ松平さまには、土方さんとのことを報告してない。 近藤さんも土方さんもなぜかこの件には慎重で、「お前からは何も言うな、 とっつぁんには俺達から話す」って、ずっと口止めされてたから・・・!! 「〜〜〜あぁどうしよう。どうしようどうしようどうしようぅぅっ」 「・・・なぁ、何だあれ」 「何って、猫耳メイドだろ」 「いやだから、どうして猫耳メイドが地べたでじたばた暴れてんだよ」 松平さまの一撃で目隠しの壁が崩れたせいで、きっとあたしの姿は 通りがかったお祭り客の皆さんに丸見えだったんだろう。 ぼそぼそとひそひそと、背後で不審そうに会話を交わす人たちの声が聞こえてきた。 ああすみません市民のみなさん、楽しいお祭りの場をおまわりさんが お騒がせしてしまって申し訳ないです。でも、正直今は みなさんの目を気にしてるどころじゃないんです!色々と心臓に悪いことが 連続したせいで震えが止まらなくなってしまった両手で口許を覆って、 あたしは焦りながらも必死で脳内をフル回転させた。 ――さっき、松平さまは何て言ってた? 上司って立場を悪用したとか、人の娘に手を出したとか、女たらしのクズ野郎とか、 土方さんのことをかなりあからさまに、面と向かって罵ってなかった・・・? それって、つまり――松平さまが誤解してるってことだよね。 いくら家に帰れって説得しても聞き入れない友人の娘を、仕方なく、渋々で 真選組に預けてたのに、実質的にあたしの身柄を任せたはずの責任者が、見境いなくその娘に手を出した。 松平さまの目にはそう見えたんだよね。それで怒ってるんだよね? 全部土方さんが悪いって、俺のダチの娘に手ぇつけやがって土方コノヤローって、そう思い込んで怒ってるんだよね!? 「〜〜まっっ、待って!待ってくださいっ松平さまぁぁ!」 そうと判ったら座り込んでなんていられない。 血相を変えて立ち上がったあたしは、全力疾走で二人の後を追いかけた。 松平さまがお店に入る寸前のところで追いついて、 「松平さまぁぁ!お願いです待ってくださいっ、あたしお話しないといけないことがあって!」 「あーは来なくていいぞ、こいつだけ借りてくからよー」 「借りてく!?借りてくって、どこまで連れて行くんですかぁ!」 「心配すんな、どこにも連れて行きゃあしねぇよ。お前らが店なんぞ出しても 誰も寄りつかねーんじゃねーかと思ってよー、心優しいオジサンは綺麗どころ連れて遊びに来てやったのよー」 「えっ、綺麗どころって・・・って待って、ちょっと待って、待ってください松平さまぁ!」 顔面蒼白で黙りこくって完全に無抵抗の土方さんをまるで荷物か何かみたいに ズルズルズルズル引っ張って、松平さまがお店の入口を潜っていく。 その後に続いて飛び込めばお客さまの姿は殆ど無くて、 入口近くのテラス席に移動した武田さんのお友達が残ってくれているくらいだ。 ・・・・・・ていうか――何これ。 みんなどうしちゃったの。何の緊急召集なの。 お店を離れていた間に、一体何があったんだろう。近藤さんを始めとして、 武田さんに原田さんに山崎くん、十番隊に五番隊に一番隊と 店中の猫耳メイドさんたちが勢揃い、なぜか直立不動で整列してる。 全員が松平さまの動向にはらはらしつつも様子を窺ってるみたいなんだけど、 どの人ももれなく顔色が悪い。先頭に立ってる近藤さんなんて、 青ざめる、なんてレベルを通り越して土色だ。しかも表情がガチガチで、顔中に汗がダラダラ流れてて―― 「〜〜〜とっっ、とっつぁんよー、その、あんたが実の娘と同じように を見守ってきたこたぁ俺も知ってる。だから気持ちは判るが、ちょっと勘弁してやってくれよー」 「あぁー?ぁんだとこの猫耳カマゴリラが。娘もいなけりゃ嫁もいねぇお前に 何が判る。つーかぱっつんメイド服のキモゴリラに判ってたまるかってぇんだよぉぉぉ」 近藤さんに顔を寄せて言い募った松平さまが、懐から抜いた銃をびしっと構える。 眉間にぐりぐりと銃口を押しつけられて顔中がびくびく引きつってきた近藤さんは、 それでも引こうとしなかった。あたふたと両手を上げて全面降伏の態勢を示しつつ、 「キモゴリラでもカマゴリラでも何でもいーからよー、ちったぁ話を聞いてくれよー! あんただって知ってんだろ、はトシの直属だぞ? 職務上二人でいるこたぁ珍しくねーし、今はその、明日の会議の打ち合わせをだな!?」 なんておろおろしつつも果敢に場を収めようとしていたけど、懇願する 近藤さんを振り切った松平さまはお店の中を突き進んでいった。 向かったのは、武田さんのお友達が座ってた奥の席だ。 そこにはなぜか、松平さまもご贔屓のかぶき町のキャバクラ「すまいる」にもありそうな、 フカフカの革張りソファと大きな金色のテーブルがすでにセッティングされていた。 三脚並べられたソファの左右には、早くもお酒のボトルやグラスを手にした 妖艶なお姉さん二人がスタンバイしてる。 うわぁ、お姉さんがどっちも美人!・・・じゃない、どこから出てきたのこのソファ、このテーブル!? 「――フン、どいつもこいつも青っ白い面しやがって。 つまりここにいる全員が共犯ってことか」 まるで別人みたいな生気の無さで黙りこくってる土方さんを、松平さまは床にどさっと放り出す。 直立不動で立ち尽くしている隊士全員をゆっくりと、一人一人を睨むような目つきで眺め回すと、 「で、どうなってんだ近藤。いつから俺を謀ってやがった」 「謀る?謀るって何のことだよ」 「シラ切ったって無駄だぞ。 生憎と俺ぁこの目で見ちまったんだよ、この女たらしが裏でとイチャこいてる現場をよー」 「・・・!」 「てめえらにを預けた時から、俺ぁ口酸っぱく言ってきたよなぁ? は俺のダチの忘れ形見で、大事な預かり物だ。手ぇ出しやがったら只じゃおかねぇ、ってな」 語気も荒く言い捨てた松平さまが、中央のソファにどかっと腰掛ける。 フカフカと柔らかそうな背もたれに腕を乗せてふんぞり返ると、ふーっっ、と盛大に煙を吐いた。 その足元にうつ伏せで転がされている土方さんの頭上にも、ゆらめく紫煙が広がっていく。 松平さまの不機嫌にあまり動じていない様子の右の席のお姉さんが、 丸い氷が入った小さめなグラスに飴色のお酒を注ぐ。 それを左のお姉さんが綺麗な手つきでステアして「どうぞ」と笑顔で 差し出せば、おう、と松平さまは手を伸ばして、 「・・・おい、どうだトシ。言えるもんなら言い逃れでも何でもしてみせろ」 最初の一口をあまり美味しくもなさそうに口に含むと、サングラス越しの目が土方さんにぎろりと凄んだ視線を送る。 近藤さんが「もう駄目だ」とばかりに天井を仰いで目元を覆って、 その横に立つ原田さんが、近藤さんを励ますかのようにぽんぽんと肩を叩く。 その隣の武田さんも、近藤さんの後ろに控えた山崎くんも――ふと店内を 見回してみれば、ずらりと並ぶ猫耳メイド全員がそれぞれに土方さんに注目していた。 この場に漂う只ならない空気をどうにかしたいけれど、 下手に動けば松平さまの不興を買いそうで手を出せない。 全員が全員そう思って、固唾を呑んで事の成り行きを見守ってるみたいだ。 ――ああ、何か、何か言わなくちゃ。 ここはあたしが説明しないと、土方さんの立場がなくなっちゃう―― 黙ってお酒を飲んでいるだけの松平さまが放つ怒りのオーラに 怖気づきながら、あたしはおそるおそる一歩前に進み出た。 メイド服のスカートをぎゅっと握って、思い切って 口を開こうとした、その時だ。静まり返った店内で全員の注目を 集めていた土方さんが、何か真剣に考えを巡らせているような顔つきで身体を起こす。 しばらく無言で床を睨みつけていたひとは、顔を上げて一瞬だけあたしを眺めた。 再び床に視線を戻して気まずそうに溜め息を吐くと、胡座を掻いて座り直す。 自棄を起こしたような乱暴な仕草でがしがしと頭を掻きながら、 「・・・ここに来て言い逃れも何もあるかよ。 申し開きなんざ出来た立場じゃねぇってこたぁ、こうなった時から判ってんだ」 うんざりしたような口調でそう言うと、頭を掻いていた手がぴたりと止まって。 ごほん、となんだかぎこちない咳払いをした土方さんは、複雑そうな表情で視線を遠くへ泳がせた。 かと思えば太腿を両手で掴んで深々と頭を下げるから、そう広くない店内に隊士全員のどよめきが走る。 「お、おいっ、トシ」 驚いた近藤さんが狼狽え気味に声を掛けても、土方さんは頭を上げない。 おい、とか、ええっ、とか、嘘だろ、とか、口々にざわつく みんなの声を背後に感じながら、あたしも無意識に口許を押さえて目を見張った。 ――みんなの前で、頭を下げた。 あの土方さんが。人に頭を下げるなんて何があろうと真っ平だって思ってそうな、筋金入りの負けず嫌いなひとが―― 「〜〜た、ただし、あれだ、その、 ・・・・・・頼む、とっつぁん。今日だけは見逃してくれ」 「あー?てめえ、たいしたタマだな。この期に及んで俺を誤魔化そうってぇのか」 「そうじゃねぇ、後で必ず詫びは入れに行く。だが、今日のところは腹に納めて帰ってくれねぇか」 頼む、と籠った声で漏らした土方さんが、さらに深く頭を下げる。 そのまま動こうとしない土方さんを呆れたような目で眺めると、 松平さまは、フン、と笑い飛ばすような声を上げた。 目の前に待機しているメイドさんの群れをざっと見回し、端に立っていた山崎くんに視線を留めると、 「おーいそこの空気より地味な奴。 厨房行って丼か何か・・・とにかく一番デケぇ器だ、持ってこい」 「はっ、はいィ!」 煙草の先でひょいと差された山崎くんがビシっと敬礼、あわてた様子で走り出す。 すぐさま戻ってきた猫耳メイドさんの手には、お風呂の湯桶くらい大きい銀色のボウルが。 ひったくるようにしてそれを手に取った松平さまは、手近にあった ウイスキーの瓶を開ける。豪快にどばどばとボウルの中へ中身を全て注いでいって、 瓶が空になるとまた次の瓶を開けて、それが終わればまた次の瓶を―― 嗅いでるだけで酔っちゃいそうな濃いお酒の香りが店中にふわふわ漂い始めた頃には、 大きなボウルには深い飴色の液体がなみなみと、ちょっと傾けたらこぼれそうなくらいに溜まっていた。 「おぅクズ野郎、これ全部飲んでみせろ。 一滴残さず腹に納めやがったら、今日のところはてめえの要求通りに引いてやる」 「松平さま!」 両手で持ち上げられた重そうなボウルが 土方さんに差し出されると、あたしはそこへ飛び込んだ。 水面が揺れてちゃぷちゃぷと音をこぼすそれを奪い取って、二人の間に座り込む。 あっけにとられた顔で見下ろしてくる松平さまを、切羽詰まった表情で見上げた。 すると今にも口端から煙草が滑り落ちそうなくらい 唖然としていた松平さまの表情がじわじわと曇って、歯痒そうに顰められていく。 その表情を目にしたら、申し訳なくて泣きたくなった。 亡くなったお父さんの友達で、育ててくれた義父さんとは 親友でもある小父さまは、義父さんが営む町道場にも たびたび顔を出してくれた人で。あたしにとっては物心ついた頃から慣れ親しんできた人だ。 だから、この表情を目にすれば判ってしまう。今のあたしの行動が、松平さまにはどれほど心外だったかが。 「だ・・・黙っててごめんなさいっ。でも、違うんです、土方さんは悪くないの!」 悪いのはあたしだ。土方さんじゃない。 土方さんとお付き合いするようになったのは、あたしがしつこく食い下がったから。 何度拒絶されても諦めようとしなかったから。今の土方さんとの 関係は、そんなあたしを見兼ねたあのひとが仕方なく受け入れてくれたことで始まった。 なのにさっきの土方さんは、そのことを少しも口にしなかった。 口にしたのは、すべて自分に非があるとでも言いたげな言葉だけ。 きっとあたしを庇ってるんだ。事情を知れば、松平さまの誤解は解けるはずなのに―― 「誤解です、謝らなきゃいけないのはあたしなんです、聞いてください!」 「・・・何やってんだ、退け」 「違うんです、土方さんじゃないの、あたしが無理に」 「!」 白手袋を嵌めた手に肩を掴まれ、ぐいと後ろへ引っ張られた。 振り払うようにして身を捩れば、じわぁっと目の奥が熱くなる。 泣きたくなったのは、歯痒かったからだ。何をしても土方さんのお荷物になってしまう自分が情けない。 大きな瓶で数本ぶんのお酒だ。たぷたぷと波打つボウルから 立ち昇ってくるウイスキーの香りは、目に染みるくらいきつかった。 飴色の水面を見つめているだけで怯んでしまいそうになったけれど、 唇を噛みしめて気合いを入れる。 やたらと重くて持ちづらいボウルを、ぐぐっと口許まで持ち上げて、 「嘘ついてごめんなさいっっ。これ、あたしが全部飲みますっ」 「――はぁ!?ビール一杯で腰が抜けちまう下戸が何言って、っってめっおい待てっっ、やめろ!」 「…おいトシ、てめえまさかこーやってを酔い潰して手籠めにしやがったのか?あぁ!?」 「してねーよ!!!つーかあんたも止めろ親馬鹿ジジイ!」 「いやあぁぁ!あたしが飲むのっ、止めないでくださいぃ!」 「てめえはやめろっつってんだろぉが!何やってんだ死にてーのか!?」 「そーよダメよ危ないわちゃん!!!ちょっとこっち来てっっっ」 両脇から腕を入れられ羽交い絞めにされて、それでもあたしはボウルにじりじり 口を近づけていく。ところが、あと少しというところで飛び込んできた人に阻止されてしまった。 ロングの金髪ウィッグを振り乱しながら鬼気迫る形相で猛ダッシュしてきた武田さんだ。 その顔があまりに怖くて「ひいぃっ」と震え上がった隙にボウルを土方さんに掻っ攫われて、 武田さんにずるずる引きずられて――問答無用で連れて行かれた先は、 調理担当のみんながこぞって仕切り口のカーテンに貼りついて店の様子を窺っていた厨房で。 どどどどど、とハイヒールで地響きを鳴らして武田さんが飛び込むと、 後を追ってきた原田さんと山崎くんもばたばたと続いて飛び込む。 客席との仕切りになっているカーテンが素早く閉められると、 それまでは「死んでもこの手は離さないわっ」てかんじで あたしを押し留めていた腕の力がふっと緩んだ。 ついさっきまでの剛腕ぶりが嘘みたいに思える女らしい仕草で、 武田さんはなよなよと床に崩れ落ちる。 ぜえはぁと肩で呼吸しつつ、青ざめた顔にダラダラ伝う脂汗をリボンの刺繍入りの可愛いハンカチで何度も拭って、 「あぁっ危なかったわぁ・・・今ので寿命が数年縮んだわあたしっっ」 「いいかいさん、聞いてくれ」 ポンと肩に手を置かれて振り返ると、いつになく深刻そうな顔つきの原田さんが、 「さんは関わらねぇほうがいい。あんたが副長の傍にいるだけで とっつぁんの機嫌は悪くなるし、火に油注ぐようなもんだからな」 「そーよ、あなたは松平さまに可愛がられてるからピンとこないだろーけど、 今日は危険よ、ヤバいのよ。あのオヤジの機嫌が最悪な時にあなたが 副長を庇うのはマズいわ、絶対に逆効果よ!下手すると今夜中に先月本庁が 導入した最新式のレーザー砲で屯所が爆破されるわ、町が焦土と化しちゃうわ!」 「えぇ!?まっ、まさかぁ、いくら何でもそこまでは・・・!」 ないない、まさか、そこまではないよ。 だっていくら子供の頃から可愛がってもらってたとはいえ、実の娘でもない あたしのことでそこまではしないよ。ねぇそうだよね、しないよね、嘘だと言って! 縋るような目で山崎くんを見れば「そのまさかだよ」と言いたげな顔で ぶんぶんぶん、と大きくかぶりを振った無言の答えが返ってくる。 「そんなのいやあぁぁっ」と取り乱した武田さんが、金髪ウィッグの頭を抱えて悲鳴を上げる。 真っ赤なネイルが綺麗に塗られた逞しい手で、あたしの両手をがしっと握って、 「だからね、ここは隊士一丸となって乗り切るべきなの。そのためにもちゃんは この場から離脱するべきだわ。ちゃんが傍にいると副長も動揺しやすくなるし、 そうなると松平さまはまた無理難題を吹っ掛けてくるもの。ねぇ判ってちょうだい、 組織が存続出来るかどうかの命運が副長の肩にかかってるって時に、 これ以上の負担を増やすわけにいかないのよ」 「め?命運!?」 驚きすぎて口をぱくぱくさせてるあたしの横で、すっかり遠い目つきになった山崎くんがぼそりと言った。 「俺達の命運っつうか、命じゃないかなぁ」 「えぇ!?」 「だな。まぁ、どのみち勝負はあの人にかかってるこたぁ間違いねぇよ。 ここで副長が失敗したら真選組も解体。俺達ぁ職失って刀も取り上げられて、ただのチンピラに逆戻りだ」 「えぇぇえええ!?」 相槌を打った原田さんも困りきった顔だ。何か考え込むような様子で腕を組んでる。 じわじわと青ざめ始めたあたしの肩に、山崎くんが手を置いて、 「そうだよ、だから何が起こってもさんはあそこに近寄っちゃダメだ。 俺達に構わず、他のお客さんの相手してくれたらそれでいいから。ね?わかった?わかってくれた?」 「う、うんっ・・・よくわかんないけど、すっごく大変な事態だってことはわかったよ・・・」 顔色を失くしたあたしがこくこくと大きく頷けば、三人はそれぞれにほっとしたような顔つきになる。 その顔を見たら何とも言えない申し訳なさが湧いてきて、 同時にもやもやとした不安な気分で胸の中が一杯になった。 そのうちに心臓の音がどんどん大きくなっていって、しまいにはばくばく暴れ出して、 つーっ、とこめかみを冷汗が流れて、 「・・・・・・ど、どどどどどっっ、どうしようどうしようどうしようぅぅぅ!!」 「えぇ!?ちょっっ、さん!?どーしたのさいきなり!」 「放っといてやれよ山崎。ようやく実感が湧いてきて混乱してるんだろ」 「もう、今頃?やっぱりちゃんてどこかズレてるわよねぇ・・・」 ごんごんごん、ごんっ。 がばっと床に座り込んで頭を床に打ちつけてたら、三人分の声やら溜め息やらが降ってくる。 あああ、どうしようどうしようどうしよう!こんな大事になるなんて思わなかった。 今まで一度も考えたことがなかった。あたしが土方さんを好きになったせいで、こんな騒ぎが生まれるなんて・・・! 「・・・やれやれ、どうしたもんか。 一度キレちまうと手がつけられねぇからなぁ、とっつぁんは・・・」 そう言いながら白いカーテンを押し上げて顔を覗かせたのは、猫耳カチューシャを外して 頭を掻いている近藤さんだ。呆れたように笑っていても、その表情はやっぱり晴れない。 「悪い、ちょっと向こうを頼む」 近藤さんが潜ったばかりのカーテンを視線で指すと、 おう、と頷いた原田さんが入れ違いで出て行く。武田さんと山崎くんも後を追った。 三人の姿を見送っている背中に向かって、あたしは手を着いて思いきり頭を下げた。 「近藤さんっ!すみませんでした、ごめんなさい・・・!」 「おぉ!?なっ、何だ、どうした?お前何で土下座してんだ!?」 「あたし、ぜんぜん判ってなくて。今まで考えもしなかったんです。松平さまがあんなに怒るなんて、思わなくて・・・」 おそるおそる頭を上げると、眉をへなりと下げた近藤さんが困ったような表情で笑っていた。 子供でもあやすような手つきで頭をぽんぽん叩いてくれて、 「そんな泣きそうな面しねぇでくれよ。大丈夫だ、後はトシがどうにかするさ」 「・・・・・・。土方さん、どうして・・・あそこまですることないのに・・・」 「どうしてって、・・・そりゃあ、お前をここで遊ばせてやりたかったからじゃねぇか」 「え?」 「はは、そうか。やっぱり聞いてなかったか」 だと思った、と可笑しそうに笑って肩を揺らすと、 客席との仕切りになった薄いカーテンのほうへ振り返る。 「本音を見せるのが照れ臭ぇのか、肝心なこたぁあまり言いたがらねぇ奴だからなぁ」 見えるはずのないカーテンの向こう側の景色をその目に捉えているような横顔が、 短い髭に覆われた顎を弄りながら独り言のように口にする。 全く話が見えなくてぽかんとしていたあたしのほうへ振り向くと、 「きっと、今日だけは邪魔されたくなかったんだろうよ。とっつぁんにあんな話聞かされちまったからな」 「・・・?今日だけはって、どういうことですか。松平さまの話って・・・」 それってどんな話ですか。そう尋ねようとした時だ。 「――ふ、副長おぉぉぉぉ!!」 耳に突き刺さってきたのは、甲高く裏返った叫び声。山崎くんの声だった。 はっとして目を見合わせた近藤さんと二人で、カーテンのほうへ振り向く。 山崎くんの声はすごく取り乱していた。土方さんに何が起こったんだろう。 「こ、近藤さんっ、今のって」 「〜〜あーあぁ、やっちまったか。 ったく、普段みてぇに適当にあしらっときゃあいいのによー。昔っから妙なとこでクソ真面目なんだよなぁ、トシは」 山崎くんの叫び声一つでお店の状況を察知したらしい近藤さんは、 なぜか苦笑いしていた。「はここにいろ」と言い置いて客席へ向かう。 どうしようかと迷ったけれど、どうしてもじっとしていられなかったあたしも、 カーテンをばっと跳ね上げてお店の中へ走り込んだ。 入った途端に「うわっ」と呻いて足を止めて、反射的に鼻と口元を覆って、 「・・・!?なっ、何これ、すっごい匂い・・・!」 ウイスキーの強い香りが押し寄せてくる。さっきよりもお酒の香りが充満してる・・・! 纏わりつく強烈な匂いを振り払うように頭を振って、何歩か前へ踏み出した。 だけどその先で待っていた光景が目に入ったら、足が竦んで動けなくなって―― 「――・・・・・・ひ。 土方、さん・・・・・・?」 呆然と目を見開いて、力が抜けきった声で呼びかける。 だけど、あたしの声は誰の耳にも入らなかっただろう。 お店の中はみんなの声と走り回る足音が飛び交って、煩いくらいに騒然としていた。 土方さんがテーブルに突っ伏してる。 眩暈がしそうなお酒臭さの原因も、その姿を目にすれば判った。 うつ伏せで倒れた金色のテーブルには、端から端まで飴色の液体が広がってる。 中身が零れてすっかり空になったボウルは、いまいましげに土方さんを 睨みつけている松平さまの足元に転がっていた。 今にもずるりと床に滑り落ちそうなくらい 脱力しきった身体は、すでに意識も失いかけているみたいだ。 ぐったりと手足を放り出したままで、動かない。助け起こそうとした一番隊の副隊長さんがいくら揺さぶっても、何の反応も示さなかった――

「 猫可愛がりにもほどがある #6 」 text by riliri Caramelization 2015/07/12/ -----------------------------------------------------------------------------------       next →