「・・・あ〜〜〜・・・・・・っだこりゃ。まるで蒸し風呂じゃねーか畜生・・・」 頭全体を覆われているために熱気が籠った口許から、喉の奥まで溜め込んだ紫煙を勢いよく吐き出す。 唸るようにして文句を漏らし顔を顰めた土方が、ぽよぽよと丸く膨らんだ風船の束、という 実に彼らしくないものを手にして立っている場所。そこは、多くの人が集い賑わう区民総合グラウンドの門前に そびえ立った入場ゲートの真下である。 願 わ く ば 花 の 下 で 君 と #5 猫 可 愛 が り に も ほ ど が あ る *1 『第○○回 ××町春祭り』 毎年この日を迎えるたびに町内会の世話役たちが総出で設置するという、ゲート上の大看板を仰ぎ見る。 会場内にずらりと並ぶ屋台目当てに町民が続々と訪れているこの時間帯、看板の向こうで輝く太陽は うんざりするほど晴れ晴れしく、燦々と降り注ぐまぶしい陽射しは嫌気がさすほど暖かい。 熱中症で倒れた隊士の代役として土方がここに立ってから、かれこれ一時間ほど経っているが、 その間にも街頭の気温は着々と上がり続けていたのだろう。おかげで彼が陥っている強制サウナ状態も、 時間の経過に従って温度がどんどん上昇している。ここに立った当初は大して気にならなかった暑さも、 今やちょっと動いただけで毛穴という毛穴から汗が吹き出す、うだるような蒸し暑さに変わってしまった。 しかも――何だ、この長年かけて染み込んだような饐えた汗臭さは。 鼻先までむわっと押し寄せてくる不快さに、もはや苛立ちも最高潮だ。ただでさえ険しい目元をきつく顰めた土方は、 ちっ、と大きく舌打ちする。しかし暑さに気力が負けてしまっているのか、その舌打ちにすらいまいち力が入らない有様だった。 「・・・あんだこりゃ、何の拷問だ。稽古用の防具に負けねー汗臭さじゃねぇか。 あー畜生、脱ぎてぇ。今すぐ脱ぎてぇ・・・・・・水、いやビール。飲みてぇなビール・・・」 目元に小さく開いた穴から羨ましげに睨みつけたのは、近くのテントにずらりと並ぶビールサーバー。 町内会の親父たちが売り子をしているその出店には、休日の昼から酒を煽りたい大人たちが早くも群がり始めていた。 いっそあの列に混じりたい。冷えたビールを一杯引っかけ、喉の渇きを潤したい。 ビールサーバーと行列を切羽詰まった目で凝視していた土方は、ごくり、と小さく喉を鳴らす。 だが――と思い直した彼は肩を落とし、むっとしつつも場内の賑わいに背を向けた。 駄目だ。喉から手が出るほど飲みたいが、ここで飲んでしまう訳にはいかない。 訳あってこんなふざけた風体はしているが、これでも一応任務の最中なのだから。 「ちっ、どうして俺がこんな格好を・・・・・・あー帰りてぇ、風呂入りてぇ・・・」 日頃から彼を恐れる隊士達には聞かせられない本音を漏らし、短くなった煙草を捨てる。 地面に落ちたそれに鬱憤をぶつけるようにして踏みにじっていると、なぜか隊服の膝裏あたりをくいくいと引かれた。 ・・・いや、違う。 今身に着けているこれは、隊服ではない。町内会が用意した別の衣装だ。 しかも、単なる衣装と呼んでしまうには多少の語弊がある代物だった。 「パンダさーん、風船ちょーだい」 「おれもー!青いのちょーだい!」 振り返ったそこには、いつの間にか足許に寄ってきていたやんちゃそうな子供二人が。 早く早くと腕を伸ばしてねだられて、もこもこと分厚い白黒の衣装に全身を包んだ土方はうんざりしきって肩を落とす。 ――そう、パンダ。今日の彼が纏っているのは、隊服ではなくパンダの着ぐるみ。 やわらかそうな毛並みと愛くるしい仕草が特徴の動物園の人気者、パンダである。 そんな心和ませる被りものを、よりによって土方が――冷酷な鬼の副長と畏怖される、日頃から何かと かっこつけたがりな男が着込む羽目になってしまった。着ぐるみ役を割り振られた新人隊士が 救護室を兼ねた本部テントへと運ばれた際、たまたま現場に居合わせたのが運の尽きだ。 町内会に要請されて出店した真選組のカフェには相当数の隊士が詰めているが、その店が意外な盛況を見せており、 他の仕事に手を割くような余裕はない。かといって屯所から他の奴を呼び出す余裕もなかったので、 仕方なく土方は腹を括った。パンダの着ぐるみなどという、考えただけで身体が拒否反応を起こしてしまう道化役を 自ら請け負うことにしたのである。これに袖を通す時の本人の葛藤と屈辱感たるや相当なもので、 もしもこの場に沖田が居たら面白がって写真を撮りまくったに違いない凄味溢れる形相は、彼の着替えを手伝った 祭りの実行委員たちを怯えに震え上がらせていた。 「パンダさんもっと低くしてよー、届かないよー」 「ん?あぁ、」 子供はどちらも4、5歳といった年頃だろうか。どちらも土方の腰下ほどの背丈しかない。 手にした風船を束ごと差し出し、土方はやや腰を落とした。「ほらよ、好きなやつ持ってけ」と 無愛想に言ってやれば、無邪気な少年たちの表情がぱっと輝く。 それを目にした瞬間は幾らか気分も和らいだが、子供が普通に寄ってくる自分の見た目を思い出せば、 何ともいえない複雑な気分で汗だくになった顔が強張る。 来場客の中に不審者が紛れ込んでいないかどうかを見張る傍ら、土方が兼任しているもう一つの任務。 それが町内会が用意したイベント用の着ぐるみを着込み、祭りに訪れた町民たちにゲート前で風船を配る仕事だ。 常に危険が隣り合わせな普段の激務に比べれば、仕事とも呼べないような仕事。警察の一組織を実質的に仕切る、という 難しい役目もこなしている彼にとっては、雑用と呼ぶ部類に入るような仕事である。 こんな片手間仕事など、本来なら一も二もなく断っていたところだ。しかし、今日は事情が違う。 どれだけ汗臭かろうと蒸し暑かろうとパンダだろうと、ここはぐぐっと怒りをこらえてやり過ごす以外に道はない。 「パンダさん、どうしてたばこ吸ってるのー?へんなのー、パンダなのにー」 青と水色、それぞれに一つずつ風船を引き抜くと、子供の一人が興味津々に尋ねてきた。 黒と白のもこもこした着ぐるみ姿が踏み潰していた吸殻を、好奇心旺盛な年頃の幼児は目敏く見つけてしまったらしい。 「ねーねー、何で吸ってるのー」 「うっせーな。パンダだってヤニが吸いてぇ時くれーあんだよ」 「たばこなんか吸わないでおいしいもの食べればいいのにー。 今日はお祭りだからおいしいものいっぱい売ってるんだよ。ぼくねー、じいちゃんにわたあめ買ってもらうんだ」 「おれ、メロンのかき氷!パンダさんは?パンダさんは何がすき?ねー教えてよー」 「フン、そりゃあ断然ビールだろ」 人懐っこく脚にしがみついた子供を見下ろし、低めた声でぼそっと漏らす。 その瞬間、眼光鋭く不機嫌丸出しな中の人の目つきが、パンダの頭部に小さく開いた覗き穴から見えてしまったようだ。 うわっ、と叫んだ子供二人は、彼等を待っていた祖父らしき老人の元へあわてて駆けていってしまった。 それからも土方は、暑さと汗臭さにうんざりしながら黙々と風船を配り続けた。 町民たちは引きも切らさず会場を訪れ、パンダ姿の真選組副長から風船を受け取った彼等は、 楽しげなBGMが流れる場内の賑わいの中へと溶け込んでいく。 子供五人とその両親に祖父母まで加えた大家族に、寺子屋の同級生らしき少年たち。 初々しい様子の学生カップル、話し声も笑い声も派手で大きい中年女性の一団、 幼い子供をぞろぞろと引き連れたママ友集団、目つきの良くない若い男二人、そして仲睦まじそうな老夫婦―― ここ数分の来場者を思い返すだけでも、ざっとそのくらいはいただろうか。目前を通りすぎた一人一人の特徴を覚え、 無意識に思い返してしまうのは、いつの間にか身に染みついた職業上の癖である。 「――いやぁご苦労さまです副長さん。こんな役目を押しつけてしまい、申し訳ない」 暫くすると来客が押し寄せるピークの時間帯を過ぎたらしく、ゲートを潜る入場客も次第にまばらになってくる。 そこへ藍染の法被を羽織った町内会の世話役がやって来て、土方に少し休憩を取るよう勧めてきた。 下がった目尻が柔和そうで物腰も上品なその老人は、屯所の隣に豪邸を構える町内一帯の大地主だ。 評判の悪い真選組の一体どこを気に入ったものか、血の気の多い隊士達が煩く騒ぐことがあっても 「若い人はこのくらい元気なほうが宜しい」などと笑って面白がっているような、見た目以上に豪気な爺さんでもある。 何でも一代で財を成した商売上手だとかで、あちこちに顔が利くらしい。真選組が現在の位置に屯所を構えて以来、 商店街の有力者を紹介してくれたり、近隣住民との橋渡し役を引き受けてくれたりと、近藤も土方も 世話になることが多かった。毎年断ってきた祭りへの参加を今年に限って拒めなかったのは、 持ち回りで務めるという世話役の中にこの爺さんがいたからだ。 「祭りへの出店と会場の警備、出来れば両方をお願いしたい」 常に友好的だった隣人にそんな打診をされてしまえば、人の好い近藤は無碍には出来ない。近隣住民との 持ちつ持たれつの関係にこちらからヒビを入れるわけにもいかず、土方もやむなく条件を飲んだ。 それにまぁ、爺さんが持ちかけてきた話が祭りへの参加だったところが、偶然とはいえ彼にとっては都合が良かった。 ――いや、そこはごく個人的な思惑絡みというか、人には言えない公私混同した動機なのだが―― 「お疲れでしょう、休憩中にこれでもどうぞ」 にこりと目元を細めた老人が手渡してきたものは、冷えた水のペットボトルだ。 礼を言って受け取ったそれをゲート横の植え込みの端にとんと置き、ふわふわと揺れる風船の束は 手近に立っていたのぼり旗に括りつける。パンダの内部でげんなりしきっていた土方は、 溜め息混じりにペットボトルの隣に腰を下ろした。 貰った水もすぐにでも飲んでしまいたかったが、それより先に煙草を吸いたい。着ぐるみの内側でごそごそと動いて 二本目の煙草を探り出した彼は、もこもこした腹部に取り付けられたポケットを探ってライターも出す。 ご丁寧に肉球まで付いている着ぐるみの手で、パンダの口許から先だけを出した煙草に火を灯そうと試みる。 しかしこれが難しく、何度やっても上手くいかない。さっき吸っていた一本も、 数分に渡る四苦八苦の末にようやく火が点いたのだ。着ぐるみの手がもこもこと分厚く大きいため、 掴んだライターが肉球に埋もれてしまうのが原因か。それでもどうにか火を灯そうと、 グローブのような両手に全神経を集中させて煙草の先を睨みつけていた、その時だ。 「土方さーん!」 聞き慣れた声に背後から呼ばれ、ぎょっとした彼の手が揺れる。 おかげでライターを落としてしまい、動きづらい全身を屈めて早く拾おうと焦っていると、 「土方さん!こんなところにいたー!」 仕方なく土方が――パンダの着ぐるみが振り向けば、ビール屋台の行列の影から女が姿を現した。 ちりん、ちりん、と転がるような鈴の音を響かせ、頭に白い猫耳を付けたメイド姿が走ってくる。 鈴の音がどこから響いているかといえば、首に巻いたチョーカーと、 ワンピース型の黒いメイド服の背中のあたりから。ウエスト切り替え部分から生えた ふわふわした尻尾に鈴が結びつけられており、動けば可愛らしい二つの音色が 重なり合って響く…、という、お祭りらしく賑やかで目を惹く趣向を衣装担当者が凝らしたようだ。 それでもあまり派手さやあざとさを感じないのは、衣装自体が清楚で上品な印象だからだろう。 膝下でフリルが揺れるスカートは隊服よりも丈が長く、彼女と始終行動を共にしている土方の目にも新鮮だった。 ――真選組唯一の女隊士。土方の直属の部下でもあり、半年ほど前から恋人でもある。 今朝からやけに機嫌が良くて絶えず笑顔を振りまいていた彼女は、風船配りのパンダの中身が土方だと見抜いても 何の不思議も覚えなかったようだ。土方さーん、と大きく手を振り、ゲート前の着ぐるみ目指して満面の笑みで駆けてくる。 本人は土方を見つけて喜んでいるようだが、にだけはパンダ姿を見られたくなかった土方は思わず頭を抱えて唸る。 ・・・・・・なぜだ。どーいうこった、どうしてバレた。 何かと鈍さを発揮しては人をやきもきさせやがるが、このナリでどうして俺だと判ったのか・・・!? 「土方さんたらどーしてそんなの着てるんですかぁ。・・・って、ちょっとー、他人のフリしてもだめですよー、 土方さんでしょ?足許に吸い殻落ちてるし」 「うっせえ放っとけ。ちっ、鈍感女がこんな時だけ勘働かせやがって」 「?何で怒ってるんですかぁ、せっかく探しに来てあげたのにー」 シラを切るつもりで背を向けてみたが、は彼の前に回ってきょとんとした表情で覗き込んできた。 頭の上にちょこんと乗ったやわらかそうな猫耳が揺れ、フリルで飾られたスカートの裾もふわりと揺れる。 パンダの頭の通気孔からわずかに見える、土方の表情が見えたらしい。 生き生きとした輝きを放つ大きな瞳が細められ、ふにゃりと嬉しそうに目尻を下げた。 着ぐるみ姿を見られてしまい面白くなかった土方が顔を逸らせば、ちりんちりんと鈴を鳴らしながら視界に回り込んできて、 「会場の見廻りしてたはずの人がどうして風船配ってるんですか。ここでパンダになってる暇があるなら、 お店に戻って手伝ってくださいよー。ねぇ、武田さんが用意したスーツは?」 「突き返したに決まってんだろ。あんなチャラついたもん着てられるか」 「着てくださいよー、土方さんがいるとそれだけで女性のお客さんが寄ってくるんだから」 「着ねぇったら着ねぇ。女の相手がしたい奴ならうちには腐るほどいるんだ、コスプレはそいつらにやらせとけ。 だいたい俺ぁてめえみてぇに、祭りが――」 途中まで言いかけたものの、土方は口を噤む。 目元の穴からじいっと覗き込んでくる女の視線をふいと躱して、 「・・・だからあれだ、俺ぁ客商売向きな性質でもねぇからな。お前らみてぇに張り切れるかよ」 するとは「ああ、それなら大丈夫ですよー」と笑って、 「いいんです土方さんは張り切らなくても、要は客寄せパンダですから」 「なら何も問題はねぇだろうが。今の俺ぁ文字通りパンダだぞ、この格好でいいだろーが」 「それはダメですー。武田さんとあたしが厳選に厳選を重ねて女の子受けのいい服用意したんですよ、着替えてください!」 「・・・・・・」 着ぐるみの中の土方が嫌そうに唇をひん曲げる。 満面の笑顔を崩さないはきゅっとパンダの両手を握って、 「今日はチンピラ警察の汚名を返上するいいチャンスですよー。 ご町内のみなさんにいい印象持ってもらえるように、がんばりましょーね!」 一体何がそうも嬉しいのか、もこもこした手をぶんぶん振ってはしゃいだ様子でぴょんぴょん跳ねる。・・・ガキか、お前は。 多少文句を付けてやれば、こいつは引くと思ったが――今日は引く気がないらしい。 祭りにはしゃいで気が大きくなってやがるな、こいつ。 「・・・身なりだけそれらしく整えたところでどうにもならねぇだろ。客商売には愛想ってもんが不可欠だ」 「そんなの平気ですよー!土方さんならいつもと同じ仏頂面でOKです、 愛想のかけらもない怖ーい顔でお客さんにお水でも配ってくれればそれでいいの!」 「ああそうかよ悪かったな、普段から愛想のねぇ仏頂面で」 「ていうか何でパンダなんですか、いくら接客が嫌だからってパンダになることないじゃないですかぁ」 「俺だって好きでパンダになってんじゃねえ。 これに入った新人がのぼせてぶっ倒れやがった、その代理で仕方なく入ってんだ」 初夏並みに暖かい春の陽気に当てられたらしい。 着ぐるみ担当の新人隊士はイベント開始一時間後に脱水症状でダウンしてしまい、おそらく今も簡易ベッドで ぐったり寝込んでいるはずだ。 土方の弁明に目を丸くしたは、「えーっ、新人さんは?大丈夫なんですかぁ」と心配そうに表情を変えたが、 既に新人が救護室に運ばれたことを教えてやると、ほっとしたような笑みを浮かべる。 メイド姿には似合わない古い無線機を白のエプロンドレスから取り出すと、ぱちん、と通信オンのスイッチを入れて、 「――です、ゲート前でパンダ・・・じゃなくて、土方さん捕獲しましたぁ。 はい、至急連行します!ええ、はい、お願いしまぁす!」 「おいコラ、捕獲たぁ何だ」 しかも連行だと、人を犯人扱いしやがって。 パンダの内部で汗だくになったこめかみにびしっと大きく青筋を浮かせ、土方はの頭をわしっと掴む。 しかし肉球付きの着ぐるみの手はやはり物を掴むには適さないようで、何度指に力を籠めても猫耳付きの女の頭を つるっと撫でるだけの動きにしかならない。そんな土方がおかしかったのか、それともパンダに頭を撫でられるのが 面白かったのか、は着ぐるみの手で髪をくしゃくしゃにされても、思うように動かない手にイラつくパンダに べしべし頭を殴られても笑っていた。へらへらと表情を緩めきって土方を見上げるその顔は、明らかにこの状況を 楽しんでいるようにしか見えない。二年近く彼に付き従ってきた直属の部下は、パンダの中の人に怖気づいていた 子供とは違い、日頃から何かと怒りっぽい上司の不機嫌さを軽くスルーするつもりのようだ。 頭上からの肉球攻撃に遭いながらも耳に当てた無線機に相槌を打ち、真っ白な猫耳をふわふわと揺らしてこくこく頷き、 「はぁい。えっ?はい、はぁい、・・・・・・えーっ、またですかぁ。 お昼が一番忙しいんだからサボっちゃだめって言ったのにー。わかりました、大至急戻りますね!」 「・・・?おい、誰と話してんだ」 試しに土方も無線機に耳を寄せてみたが、通信の内容は判らなかった。 通気の悪い被りもので頭全体を覆われているため、ノイズが多い無線の音声は周囲の騒音に紛れてしまう。 は無線機に何度も頷き、楽しそうにくすくすと笑う。普段からその明るい笑顔で屯所中を和ませている彼女だが、 今日は祭りの雰囲気に浮かれていつもより気分が上がっているらしい。たまにちらりと悪戯っぽく土方を見上げる表情は、 任務中に見せる顔よりもうんと楽しげで屈託がなかった。 ・・・まぁ、口調がやたらと呑気そうで緊張感に欠けていたり、とても警官とは思えないほど語尾が間延びしているのはいつものことだが。 「しかしまぁ、よく俺だと判ったな。こんなもん被ってんのに」 が通信を終えてから、土方はなんとなく尋ねてみる。 すると、本人も今頃になってその不思議さに気付いたらしい。表情豊かな女の瞳が、ぱち、と大きく瞬きを打って、 「言われてみればそうですねぇ、どーしてかなぁ。あれっ、どーして?どーしてですかぁ?」 「知るか。それを尋ねられて俺が答えられると思うか」 「あはは、それもそうですねぇ」 無邪気な表情で笑いかけてから、は小さく首を傾げて「どうしてかなぁ」と考え込む。 やがて、あぁ、と思いついたような表情でつぶやき、晴れやかな笑顔で言い切った。 「なんとなくわかっちゃうんですよねー、土方さんだけは。あたし、入隊してからずっと土方さんばっかり見てきたし」 「・・・・・・」 思いがけない告白にどきりとさせられ、煙草に火を灯そうとしていた土方の手が一瞬止まる。 しかし言い切った奴の方には、そんなつもりはなさそうだ。 試しに目元の覗き窓からを流し見てみれば、案の定、にこにこと土方を見上げてくる女の顔は 油断しきった表情のまま。自分が口にした言葉にどんな意味が含まれていたのかも、 自分の言葉を土方にどう取られるかも、あまり深く考えることなくぽろっと口から出してしまったのだろう。 そんな彼女の無自覚さに思わず吹き出しそうになったが、何も気づいていない風を装い尋ねてみた。 「それだけで、このナリでも見分けられるようになるもんなのか」 「はい、そうみたいです。他の人は無理だけど、土方さんだけはどんな格好でもわかっちゃうんですよねー。 特に背中はよく見てたから、今も背中見ただけでピンときたっていうかぁ」 「へぇ、そういうもんか。そう頻繁に見られてたんじゃ、こっちも油断出来ねぇな」 「そうなんですよねー、普段も気が付いたら土方さんのほう見ちゃってるし、 自分でもたまにびっくりしちゃうくらい見てるんです。 だからね、自慢じゃないけど土方さんならどこにいたってわかりま、すよ・・・――って、えっっ、ゃ、っ、えぇえ!?」 ようやく自分が何を口走ったかに気付いたらしい。 かーっ、と急にのぼせ上がって顔中を真っ赤に染めた女が、長い髪を振り乱してこっちに振り向く。 そのままたっぷり十秒間は絶句していたは、恥ずかしさのあまり震え始めた唇を両手で押さえて固まってしまった。 途中で可笑しさをこらえきれなくなった土方は着ぐるみの内側でくつくつと肩を揺らしていたのだが、それも今になって 気づいたらしい。彼女に背を向け声もなく笑うパンダの肩を、泣きそうな顔でべしべし殴って、 「だ!だだだだだ、っだだ騙したぁ!ひどいっ、騙しましたね!?」 「俺ぁ相槌打ってやっただけだ。お前が勝手に白状したんだろうが、聞かれもしねぇことまでぺらぺらと」 「ち、ちが・・・!〜〜違うのっ今のは毎日後ろにくっついて仕事してるから自然と見慣れてるって意味で!」 「おい、何をそこまで焦ってんだ。今の話に、知られると不味いことでも混ざってたのか」 「〜〜〜っ」 笑い混じりに尋ねてやれば、真っ赤に染まった女の頬がぷううっと膨らみ、紅い唇が不満そうに尖る。 パンダの口から先だけが飛び出ている煙草を奪うようにして抜き取って、 「〜〜〜っそ、そんなことより、早くお店に戻らないと!このパンダも早く脱いじゃってくださいっっ」 「戻るのはいいが、客商売の真似事なんざやらねえぞ。つーか風船配りはどーすんだ。 ここで放り出そうもんなら、後で町内会の親父どもから苦情が来るぞ」 「それなら大丈夫です、みんなに交替でパンダ役やってもらえるようにお願いしますから。 何も土方さんが一人でやることないですよ」 着ぐるみって重いし暑いし、意外と大変なんですから。 そう言っては上目遣いに土方を見上げ、何か面白くないことでも思い出したような顔になる。 ああ、そういえば、と土方はが付けた猫耳をぽんと叩いて、 「そういやぁお前も前に一度被ったな」 「そうですねぇ。あの時は横暴な上司に無理やり被らされて、子供がいっぱい群がってきて揉みくちゃにされて」 「・・・案外と根に持ってやがるな、お前」 「とにかく脱いでください、こーいうハードなお仕事は手が空いた人が交替でやればいいじゃないですかぁ。 えぇと・・・ここから外せばいいんですよね?」 巨大な着ぐるみの頭部を両腕で抱え、えいっ、とはパンダの顔を持ち上げる。 かぱっ、と頭上の覆いが外れ、暗く狭かった視界が開けて、反射的に目を細めてしまう白昼のまぶしさに包まれた。 と同時に流れ込んできたのは、汗だくになった肌を冷やしてくれる涼しさだ。 全身をもわもわと覆って不快感を与えていた最悪な蒸し暑さは、それだけで簡単に半減した。 ・・・やれやれ、これでふざけたナリと地獄の釜のような蒸し暑さ、両方から一挙におさらば出来る。 そんなことを思いながら、土方は軽く頭を振る。 鬱陶しそうに顰めた目元に濃い影を落とす前髪の先から、透明な雫がぽたぽたと垂れた。 「〜〜〜っ!うわぁ何これ、汗臭いぃ!超危険物じゃないですかぁっっ」 パンダの頭を抱えたが、うっかり手にしてしまった汗臭さの根源をどうしようかとおろおろしている。 「貸せ」と右往左往する女から被りものを取り上げ、背後の植え込みに放り投げてから、 土方は首元から腹部へと続くジッパーを下げた。 着ていたシャツは汗に濡れて透けており、薄い布地は胸から腹の筋肉を浮き立たせるようにして貼りついている。 着ぐるみの中で肩を動かし、がばっ、と上半身だけ脱いでしまい、中に着ていたシャツのボタンもさっさと外す。 シャツの袖から腕を引き抜き、引き締まった腹のあたりまで外気に肌を晒してしまえば、 だらだらと汗が伝う背中も冷やされ不快さも幾分かマシになった。 とはいっても、衣服がぐっしょりと貼りついている下半身は熱気が籠って暑苦しいままだが。 「――、ペットボトル。そこの植え込みに投げてあるだろ、寄越せ」 背後にいるはずのに呼び掛け、ふぅ、と土方は苦い顔で溜め息を漏らす。 顔や喉元にだらだらと垂れる汗を面倒そうに二の腕で拭い、もう片腕はのほうへ差し出して待ってみたが、 いくら待ってもペットボトルは手渡されない。それどころか、斜め後ろにいるはずの女からは返事すらなくて―― 「聞いてんのかコラ。水だ、水。そこにあんだろ」 「・・・・・・」 「おい、いい加減にしねぇか。さっさと――」 全身の細胞が訴えてくる喉の渇きに痺れを切らして振り返ってみれば、後ろにいたはずのは 忽然とそこから消えている。どこ行きやがった、と怪訝そうに辺りを見回してみれば、ちりんちりんと鈴の音が。 その音の鳴る方向に目を向けた土方は、ようやくメイド姿の女を見つけた。 この施設を囲む塀に沿って並ぶ、街路樹の影だ。 鮮やかな新緑を生い茂らせる木の幹に隠れた猫耳メイドは、ひぁああ、だの、うにゃああああ、だのと 素っ頓狂な悲鳴を上げてはかぶりを振って取り乱している。この距離でも判るくらいにその顔は赤く、 大きくかぶりを振った拍子に彼と偶然に目が合えば、色気のない奇声を上げてさらに遠くへ逃げていく。 またか、と土方は呆れ顔でを眺め、切れ上がった目元を困惑気味に顰めた。 「ツッコむのも面倒くせぇが一応聞いてやる。何やってんだ馬鹿女」 「〜〜〜〜ぅうう、だってだって、土方さんがははははだっ、じゃなくて、こんなところで脱ぐからぁ!」 「ったく、またこれか・・・」 ――何があっても諦めなかった女の一途さに根負けして、密かに思ってきた部下を恋人にしてから半年近く。 今時珍しいくらいに純情な彼女の初々しさは、良くも悪くも変わっていない。 土方としてはのそういう部分も気に入っているし、真っ赤になってあわてる彼女をわざとからかい、 身の置き所も無さそうなくらいに恥ずかしがる表情を眺める時間は、と二人きりになった時の愉しみの一つになっている。 だが、困らされるのはこんな時か。 極端な恥ずかしがりやで男慣れしていないこいつは、てめえの男になった奴の裸を目撃するたびにこの騒ぎ。 おかげで付き合い始めて以来というもの、錯乱したに何度得意の足技を食らわされたかわからない。 特に酷ぇ目に遭わされたのは、こいつとそういう仲になった当初か。部屋で着替えようとするだけでも、 ぎゃーっと叫ばれ蹴り倒されるのだ。深夜の寝床で機を見計らってそれらしい雰囲気に持ち込んでも、 俺が衣服を脱ごうとしただけで凶暴な蹴りが飛んでくる。それでもどうにか怒りをこらえて捻じ伏せてやれば、 熱に喘ぐ細い身体が可愛らしく縋りついてくるものの、こいつを抱こうとするたびに生傷が増える一方で――、 ・・・・・・いや、そんなこたぁともかくとして。問題なのは、今の俺達が大勢の人目に取り囲まれているということだ。 ちりんちりん、ちりんちりんちりん。 があわてて意味不明に動き回るたびに二つの鈴が揺れて鳴り、その度に土方の背中には痛い視線が突き刺さってくる。 視線の主は、会場内の屋台で買い食いしている町民たちだ。 彼等は手にした焼きそばだのたこ焼きだのを口に運ぶことすら忘れ、何事か、といった顔つきで 不審そうな目を向けてくる。とはいえ、町民たちの不信感露わな目つきの理由は土方にも理解出来ないことはない。 この状況を客観的に見た場合、誰の目にも怪しむべきは俺だろう。 木影に隠れて悲鳴を上げる猫耳メイドと、彼女を追い立て怖がられている半裸男、しかもその下半身はなぜかパンダ。 子供受けのいい被りものも、こんなシチュエーションでは却って変質者風情を引き立てるだけだ。 「ゃややややめてくださっこっち向かないでぇぇ!こんなところでななな何で脱いでっっ」 「上しか脱いでねぇだろうが、この程度でガタガタ言うな。そもそも脱げって言ったのはお前じゃねーか」 「そこまで脱げなんて言ってないぃぃ!」 「あーわかった、わかったから叫ぶな、人目が痛てぇ。着てやるからとにかく落ちつけ」 周囲の注目を一身に浴びつつ、仕方なく土方は立ち上がる。 半分脱いだパンダの皮をずるずると引きずり、一度は脱いだシャツに袖を通しながら の方へ寄っていこうとすると―― 「――きゃ―――っ!」 楽しげなBGMが流れる会場の和んだ空気を裂くようにして、女の悲鳴が甲高く上がった。 はっとした表情のと目を見合わせた土方は、踵を返してゲートへ向かう。 「――何だ今の声は、何かあったのかぁ?」 ビールを売っていた町内会の実行委員がテントから出てきて、屋台の列に挟まれた通路の奥を眺めている。 揃いの法被を羽織った彼らや辺りをきょろきょろ見回している祭り客の波を掻き分け、二人は足早に進んでいった。
「 猫可愛がりにもほどがある #1 」 text by riliri Caramelization 2015/05/03/ ----------------------------------------------------------------------------------- next →