『明日のお休みは何か予定ありますか』 そのメールが土方の携帯に届いたのは、屯所の自室でのこと。机上に山と溜まった 事務仕事の処理に追われていた時だった。開いた液晶ディスプレイに目を留めた彼は、 簡潔に一言、ない、とだけ返す。すると送信して三十秒足らずでマナーモードの携帯が震えて、 『明日はお仕事しなくていいんですか。暇なんですか』 文面を読み上げた彼は、ほんの一瞬、切れ上がった涼しげな目元を寄せた。 『暇じゃねえ。』 簡潔すぎて素っ気ないくらいの返事をピピピと打ち込み、ふと手を止める。 近藤の右腕として真選組を立ち上げ、警察組織のNo.2という要職に就いて以来というもの、 働き詰めな生活を送ってきた彼である。暇だ、などと言い切れるような気楽な状態には、ここ数年来さっぱりご無沙汰だった。 とはいえこの一か月ほどは、江戸の市中は平和そのもの。大きな事件が一つも起こっていないため、そこそこに 余裕のある日々を過ごせている。目の前に山積している残務処理も、根を詰めればどうにかなる程度の量だ。 急ぎの仕事も特にないわけだし――これならまあ、暇と言えなくもないだろう。 思い直して入力してあった一行を消し、そこそこ暇だ、と変えて送信。携帯は背後の畳にぽいと放る。 するとものの十秒で背後がぶるぶると騒ぎ出して、 『じゃあ明日 一緒にお出かけしませんか』 お、と意外そうに目を見張った土方だったが、なぜか怪訝そうな顔になる。視線を真横にすっと送り、 ややあってから携帯に向き直ると、判った、と入力。すぐさま送信し、ぱちんと折った携帯を 「まったく、何だってぇんだ」とでも言いたげな顔で畳に放る。これが今日の何本目になるのか判らない煙草に火を点け、 半日書類に向き合っていたせいで疲れ気味な目元を揉みほぐしながら一服。たった半日で吸い殻がてんこ盛りになった 灰皿に、とんとんと灰を弾き落とす。するとふたたび背後で携帯が騒ぎ出して、 『!!!!!いいんですか!!!!!』 『やっぱりやめたとか面倒だから行かねーとか後で言い出すのナシですよ???』 『どうしようどうしようどうしよう!!まさかOKしてくれるなんて思わなかったもん!ああ何着ていこう迷っちゃう…!!』 『土方さんは桜色と紺色と淡いオレンジ色ならどの色が好きですか???どれでもいい、とかナシですよ???』 『朝の九時半に門の前で待ち合わせでいいですか?』 『土方さんはどこか行きたいところありますか?』 『そういえば今 土方さんが好きなあの映画の続編上映してるんですよ!知ってました???』 『前に総悟と三人で入った甘味屋さん 覚えてますか?またあんみつ食べに行ってもいいですか???』 『先週テレビで見たんですけど 甘味屋さんの近くに行列が出来るたこ焼き屋さんがあるみたいで そこのたこ焼きが』 『そうだ!今思い出したんですけど この前全ちゃんが遊園地の割引チケットくれたんですよー!』 『真冬は空いてるから結構楽しめるぜって言ってました!!ジェットコースター乗りたーーーーーい!!!』 それから数分間――携帯はまるで故障でも起こしたかのように、休むことなく震えまくった。 十秒に一回は新着メールが届くという、息もつかせぬメールラッシュ。ぶるぶると揺れ続ける画面に次々と届く、 カラフルな絵文字を満載した文面の数々。ひっきりなしに表示される新着メールの通知画面。 下へ下へとあわただしくスクロールされていく件名を呆れたような目つきで追いつつ、土方はこめかみをひきつらせる。 白々と冷えきった視線を横に向けた。 「・・・おい、一つ訊くが。この距離からメールする意味がどこにあんだ?」 土方が座る位置から畳二つぶんほど離れた場所。そこに置かれた小さな机に向かう女の手元からは、 携帯の小さな電子音が響き続けている。 ピピ、ピピピピピピ、ピピピ、ピピ。ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ。 土方が声を掛けた女――ほんのり頬を染めた顔をふにゃふにゃと幸せそうに緩めたは、 手にした携帯を目にも止まらぬ早業で高速連打、仕事そっちのけで怒涛のメール攻勢を繰り出していた。 『判った。』 愛想もなければ捻りもない、たった一言の承諾の言葉。しかしそんな一言が、彼女には飛び上がりたいほど嬉しかったのだ。 ピピピピピ、ピピ、ピ、ピピピピピピピピピピピピピピピピピピ。 鳴りやまない電子音にうんざりしきった土方が、眉を顰めてを睨む。煙草をぐしゃりと灰皿で潰し、 気づけ、と言わんばかりに大きめで長い溜め息を吐く。ピピピピピピピピピピピ。それでも鳴りやまない ピピピ音の嵐に、鬼の副長のこめかみがびしっと激しく浮き立って―― 「もういいもう判った。てめーが浮かれてんのはよーーーく判ったから仕事しろ」 「えーとぉ、それからー…それじゃあ明日のスケジュールはあたしが組んでおきますねー、 どーんとおまかせくださーい!それとー、言い忘れてましたけどー、あたしお給料日前だからお金ないんですよー。 土方さぁん、もちろんおごって・く・れ・ま・す・よ・ねっ、・・・・・っと!」 嬉しげな笑いに緩んだ女の唇がへらへらとつぶやく。 語尾にいちいちハートマークが付いていそうな、はしゃいだ口ぶりのひとりごとが次々と漏れる。 それからも携帯の音は軽快に副長室に鳴り響き続けた。部下の堂々たるサボりっぷりに業を煮やした土方が 無言ですっくと立ち上がり、彼女の頭に拳骨を一発振り下ろすまで続いたのだった。

願 わ く ば 花 の 下 で 君 と #1  L O V E & R O L L *1

翌朝はこの時期にしては天気も良く、降り注ぐ日差しにほんのりした温かみを 感じられるような陽気だった。前週から庭に降り積もったままの雪も陽光に融け、 きらきらとまばゆく輝いている。そんな庭の景色を横目にちらりと見遣りつつ、普段着にしている黒の着流しに 同色の羽織を重ねた土方は、屯所の門前へと向かっていた。との約束の時間よりも早めに自室を出たのだが、 局長室に寄って軽い打ち合わせを済ませたり、廊下で顔を合わせた隊長連中に指示を与えたりするうちに 存外に時間を食ったらしい。玄関先で壁の時計を見上げると、九時半は目前に迫っていた。 「おっ、来た来た副長。遅いじゃないですか、いつまで待たせておくつもりですか」 「――あぁ?」 「さんですよさん。門のとこで寒そうに肩竦めて待ってましたよー」 「お忙しいのはわかりますけどねえ、駄目じゃないすか、女の子をあんな吹きっさらしに三十分も立たせといたら」 「はぁ?あんだそりゃ」 市中見廻りから戻ってきた隊士たちの賑やかな一群に声を掛けられ、面食らった土方は足を止める。 何の話だ。三十分だと?約束は九時半のはずだったが。 「俺ぁ時間通りに出てきたぞ」 「またまたぁ。さんは九時からここにいるって言ってましたよー。 これから土方さんとお出かけするんですー、なぁんて、嬉しそうにニコニコしちゃってよー」 「九時からだぁ?・・・てめえで時間指定しといて、何やってんだあの馬鹿は」 「・・・?副長、話がよく見えないんすけど。もしかして待ち合わせしてたんですか、さんと」 「あぁ。俺もよく判らねーが、待ち合わせがしてーんだとよ」 「へ?同じ宿舎で寝起きしてんのに?」 「・・・・・」 返答に詰まった土方は眉間を曇らせ、副長のために道を開けた彼らの中央を、 カツカツと足早な下駄の音を響かせて通り過ぎる。 なぜ、どうして待ち合わせなのか。それは俺も訊きたいところだ。そもそもがだ、同じ屯所に住んでいて、 しかも今朝方まで同じ布団で寝ていた女と門前で待ち合わせ、ってのはどうなんだ? 「待ち合わせするからいいんですよー。別々の部屋から別々に出て玄関を潜って、待ち合わせ場所に 現れる土方さんを、まだかなぁ、いつ来るかなぁ、って心待ちにしてることに意義があるんじゃないですかぁぁ」 …なんてことを、昨日のは目を輝かせて豪語していていたが。 ・・・つくづく女ってのは判らねぇ。何が待ち合わせだ、一緒に出りゃあいいじゃねえか。 俺達が別々に暮らしているならまだしも、この場合は単に互いの手間が増えるだけじゃねえのか? 合理性ってもんを知らねえのか、あいつは。 そんなことを考え、口端に咥えた煙草から濛々と煙を噴き上げながら門前へ向かう。今日は彼にとって 久しぶりに羽を伸ばせそうなゆったりした休日。しかも誰に邪魔されることなく、 丸一日をと二人で過ごせるという、仕事漬けな土方にとっては実に貴重な休日だ。 決して機嫌は悪くないのだが、昨日の遣り取りを思い出すうちに微妙に不機嫌そうな顔つきになっていた。 「――あっ。土方さぁん!」 屯所の門前を警備する見張り番二人に挟まれていたは、土方の姿を認めるなり とびきり嬉しそうな笑みに瞳を細めた。高く挙げた手をぶんぶんと、無邪気な様子で振ってくる。 真冬でもミニ丈の着物を愛用している彼女だが、今日は薄紅色の着物に温かそうな白いコートをふんわりと重ね、 肩には桃色のストールを巻き、膝上までのロングブーツですらりとした脚を冬の冷気から守っていた。 それでも屋外の寒さは堪えるらしい。土方が門前に着くまでの短い時間にも寒そうに身を縮めてみたり、 顔の前で重ねた手に、はぁー、と吐息を吹きかけてみたり、指先を擦り合わせてみたりと忙しい。 「なぁんだ時間ぴったりじゃないですかぁ、つまんなーい。遅刻したらお詫びに何か奢ってもらおうと思ってたのにー」 「ぬかしてんじゃねえ図々しい。それよりもおい、どこまで頭が悪りぃんだてめーは。 んなとこで三十分も突っ立ってやがっただと?」 「あれっ。土方さん、どーして知ってるんですかぁ」 が目を丸くする。人並み外れて大きな瞳が土方を見つめて輝きを増し、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。 土方は激しく寄った眉間を抑えてうなだれた。 …どーしてもこーしてもあるか。お前がここで話したんだろうが、見廻りから戻った奴等を相手に。 まぁこの際、んなこたぁ果てしなくどーでもいいが。 「何やってんだ。九時半っつったのはそっちだろーが」 「だって土方さんいつも時間に厳しいから。もしあたしが遅刻したら、即置いていかれちゃいそーじゃないですかぁ。 だから急いで支度して時間よりも早めに来て、置いていかれないように待ってたんですよー」 「・・・。時間に煩せぇのは仕事中だからだ。非番は別だ」 「えー。そーなんですかぁ?」 寒さに頬を染めた小さな顔に不思議そうに見つめられ、土方はむっとした表情で目を逸らす。 どーしたんですか土方さん。あたし何か気に障るようなこと言いましたか。 そんなことを困った顔で尋ねられたが、先に門を潜って表通りへと足を速めた。 背後からぱたぱたと、軽い女の足音がついてくる。ついさっきまではあんなにはしゃいでいたは、 打って変わって静かになった。問いかけを無視されたことに萎れているような、しゅんとした気配が気になるが―― ――違う。そうじゃねえ。別に頭にきたわけでもなければ、機嫌を損ねたわけでもない。 ただ、困る。こいつのあの表情に困るのだ。 こんな時のはいつも、何の警戒心も持っていないのが丸わかりな表情でじっと俺の目を覗き込んでくる。 あの飼い主を見つめる子犬のような、信頼心がありありと現れた可愛らしい表情には、普段からして弱いのだ。 しかもこんな顔をした奴が、この手足がかじかむ寒空の下、自分を心待ちにして待ち侘びていたのかと思えば、 を可愛く思う気持ちも自然倍増するというものだ。左右から見張り番の隊士二人に囲まれているというのに、 うっかり頭を撫でそうになったくらいだが。 ――・・・・・なんてこたぁこいつに言えたものか。それも間が悪りいことに、うちの連中の目前だぞ。 組織を律する者としての威厳も何も台無しじゃねーか。 「・・・。おい。予定は決めてきたんだろうな。最初はどこだ」 「――え、は、はいっ」 甘味屋さんに、行きたい、・・・です。 緊張で小くなった声が背後から届き、ああ、と土方は頷いた。 徐々に歩調を緩めての隣に並んでみれば、思った通り、うつむき気味な女の表情はぎこちない。 肩をさらさらと流れる長い髪の陰から覗く頬の赤みを、気まずい思いで眺める。 すっかり気後れしてしまったのだろう。普段は彼の周囲でさえずる小鳥のように賑やかなが、 一言も口を開かない。どうしたもんか、と土方は彼女に気づかれない程度の溜め息を漏らす。 隣を歩く固い気配にそれとなく注意を配りながらも、なんとなく話を切り出せずにいると、 「・・・!」 ぎょっとして彼は目を見張る。数十メートル先の路上に、非常事態を発見してしまった。 それは長い車体が黒々と艶光りしている高級車だ。大きな屋敷ばかりが立ち並ぶ住宅街の角を曲がって、 一台の車が接近してくる。後部座席にはふんぞり返るように腕を組んだ、グラサンに白髪リーゼント親父の姿が。 ――来た、と土方は引きつった顔でぎりっと煙草を噛みしめる。 破壊神の異名を持つ警察庁長官、松平片栗虎のお出ましだ。 「やべえ、んな時に来やがった・・・!」 ごくりと動揺を呑み干し、鋭い双眸に焦りを浮かべつつも素早く周囲を見渡した。 桃色のストールに覆われた女の肩を強引に抱き寄せて、 「おいっ、隠れろ!」 「――へ?」 「へ、じゃねえ隠れろ、こっちだ!」 「ぇ?え、えええ、ちょ、土方さ、――っ!?」 傍に立っていた電柱の陰に、を連れて回り込む。道沿いに建つ屋敷の塀と電柱の狭い隙間に をぐいっと押し込んだ。羽織の衿元を軽く掴まれて下を向けば、ぽかんとこちらを見上げてくる 間の抜けた顔をした女が、声こそ出ていないもののぱくぱくと唇を動かしている。 まずい。ここで騒がれてはまずい。ちっ、と舌打ちした土方が迷わずその唇を手で塞ぐと、 「ふぐぐぐご、ふごひふふぉふぉ!」 「騒ぐな、黙ってろ。今あのおっさんに見つかるとマズい。無事に出掛けてーなら黙ってろ・・・!」 だんっ、との頭上あたりで塀に腕を突き、ふがふごごっ、と籠った抗議の声を上げているの顔が 自分の羽織の袂で隠れるような体勢で覆い被さる。焦りが滲んだ視線を背後の路上に向けつつも、 息を殺してじっと待つと―― ――間一髪。電柱を盾にした彼の背後を、ぶぅぅんっ、と唸りを上げた黒塗りの車が駆け抜けていく。 そのまま通りを駆け抜けた車は屯所の門前で停車。 運転席から出てきた長官専属の運転手がドアを開ける。松平は見張り番隊士たちの挨拶を鷹揚に受け、 悠々と屯所へと消えていった。 「・・・あっぶねぇ・・・」 ・・・間に合った。どうにか気づかれずに済んだらしい。 長い溜め息を吐いた土方がぐったりと肩を落とす。吸っていた煙草はいつの間にか足元に落ちており、 つーっとこめかみに伝う汗が何とも冷たく、不気味だった。 ――あの親父、また来やがった。いや予想はしていた。前回の来襲との間隔からして、 もうそろそろか、とは警戒していた。 だが、よりによって今日に狙いを定めて来やがるとは。…おっさんの嗅覚たるや侮れねぇ。 「・・・・なっっ。なんなんですかぁぁいきなりっ。何があったんですかっ」 「松平のとっつあんが来た」 「それだけ!?」 「うっせえ、てめーは甘やかされてっから知らねぇんだ。あの親父の真の恐ろしさを・・・!」 不服そうにを睨んでいた土方がうなだれ、苦渋に満ちた表情で唸る。 ――ここ数か月ほどのことだ。松平は以前よりも頻繁に、しかも何の前触れもなく屯所を訪れるようになった。 いや、その理由なら知っている。別に本人の口から聞いたわけではないが、おそらくあれは俺に対する抜き打ち検査。 とっつあんは俺を見張りに来ているのだ。亡き親友の忘れ形見であるに、俺が手を出しやしないか。 己の娘同様に可愛がってきたを、警察とは名ばかりのヤクザな稼業に就いているヤクザな男に奪われはしないか。 まったく笑わせやがる。これでは破壊神の名が廃るってもんだ。ヤクザ以上にヤクザ面が板についている 自分のこたぁすっかり棚に上げて、世間並みの父親面でヤキモキしてやがるのだあの馬鹿親父は。 俺と顔を合わせた時には必ずすっとぼけた面をしているが、ふとした瞬間に感じるのだ。隙あらば標的を背後から 殺ろうとしているヒットマンのような、殺意と怨念をたっぷりと漲らせたうすら寒い視線を。 おかげで未だに、との仲を報告出来ずにいるのだが―― ・・・これは土方のみならず、真選組全体が現在頭を悩ませている懸案事項でもあった。一体あの松平に、 いつ誰がどう事実を切り出せばいいのか。を除いたほぼ全員が破壊神の反応を恐れているのだ。 てめえの娘を人質に取った過激派攘夷浪士どもを、たった一人で殲滅しちまったあの親父のこった。 実は俺がすでにと付き合っている、なんて馬鹿正直に言い出してみろ。…報告と同時に屯所ごと殲滅されかねない。 「・・・・・あ、あのぅ・・・」 我が身の行く末を半分本気で憂いつつ、嫌な汗を浮かべた土方が再び長い溜め息をこぼした、その時だ。 蚊の鳴くようなか細い声が、深くうつむいた女の口からぽそっと漏れて。 「・・・あの。お疲れのところ申し訳ないんですけど。 ・・・・・・・・・・・・ひ。土方さぁん。・・・どうにかしてくれませんかこれ。あの。だから、ええと」 「何だ。まだ文句でもあんのか」 「いや文句っていうか。・・・文句じゃないです。文句じゃなくて。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その。あの。お、お願い、って、いぅ、か・・・」 しどろもどろにつぶやく声はへなへなと萎れていき、しまいには何を言っているのかすら判別不明な超小声に。 不思議に思っての顔を覗き込もうと額を寄せると、なぜか細い肩がびくんと跳ねる。 頬まで流れた髪に隠された顔を、すいっ、と素っ気なく逸らされてしまう。 それが面白くない土方は眉を吊り上げ、そっぽを向いた女の顔を追いかけたのだが。 「・・・・・・・・・・は。離れてくださいぃ・・・」 ぎこちなく動く紅い唇が、必死に絞り出したような切羽詰まった声で訴えてくる。 あぁ?と呻いた土方が、怪訝そうに細めた目を黒髪の陰で瞬かせて。 「土方さん、近すぎ・・・っ」 「・・・・・・」 彼女をしげしげと眺め、それから塀に突いた自分の腕を見上げる。 そこで初めて合点がいって、思わず吹き出しそうになった。 ――成程、これは―― 「ああ。・・・そういやぁ近けぇな、随分と」 笑い出したい気分を噛み殺しながらつぶやく。随分と、のところに含みを持たせたせいなのか、 の肩はぴくりと揺れた。つややかな髪に隠された線の細い横顔に、わざと顔を寄せていく。 華奢な身体から漂う甘い匂いや、息遣いまで感じられるような距離――ごく近しい者にしか許されない 領域まで迫ると、細い肩が再び揺れる。あと僅かで互いの肌が触れ合うような近さまでに距離を詰めていけば、 はようやくこちらを向いた。その表情を無言で眺めて、土方の目元が愉快そうな笑みに細められる。 塀を背にした逃げ場のない状態で男の腕の中に閉じ込められたことが、にはひどく恥ずかしかったらしい。 短いコートの裾から伸びた脚は、もじもじと膝を擦り合わせている。 温かそうな桃色の布に覆われた肩は、いたたまれなさそうに竦んでいる。 そこから覗く細い首も、何かをこらえているかのように唇を噛みしめた小さな顔も、ぽうっと赤くのぼせ上っていた。 見開かれた大きな目に今にも涙を滲ませそうな表情だ。これ以上土方に近づかれたくないのか、 滅茶苦茶に腕を振り回して、 「ゃ、やだっっ、ややゃやめてくださいぃっ、ガン見禁止ぃぃ!き、今日はいつもより丁寧に お化粧してきたけどでもだからってこんな近くから見・・・・・じゃなくてぇええ!早く離れてくださいよっっっ」 「まぁそう急かすな。どうせ丸一日休みだ、時間はたっぷり余ってんだろ」 「っそ、それは、そうだけど、・・・〜〜っ!」 の動きを阻んでいた腕を下げていく。竦んだ肩にそれとなく回し、軽くこちらへ押してやると、 華奢な身体はふらりと傾く。ひゃぁ、と甲高い声を上げて胸に飛び込んできた。 「俺ぁお前のせいで肝が冷える思いさせられてんだ。ちょっとくれー休ませろ」 「〜〜〜〜っっ」 往生際悪くじたばたともがく女の柔らかさと温かさを楽しみながら、やんわりと腕に閉じ込める。 それでもは赤く染まった顔をぷいっと逸らし、黒の羽織をきゅっと握った華奢な手は あたふたと彼の胸を押し返してくる。そのくせ、土方の腕の包囲を突破するほどの必死な暴れ方はしないのだ。 この様子から察するに、今にも湯気が出そうなほどに顔を火照らせて恥ずかしがってはいるが、 これが嫌という訳ではないのだろう。 ――しかし、もがいたせいで髪が乱れた額に軽く口づけてみれば、ぎゃあぁっっ、とあわてふためいた悲鳴が上がった。 その声に眉を曇らせた土方が急に醒めた目つきになり、 「ぁんだそりゃ。色気の無ぇ・・・」 「わ、わかんないぃぃ。わかんないですよ土方さんっ、何なんですかさっきまで怒ってたくせに!」 「別に怒ってねえ。つーかあれぁてめーが悪りいんじゃねえか」 「はぁああ!?」 驚きと呆れを浮かべたの目が、これ以上ないくらいに見開かれる。 土方は「それがどうした」とでも言わんばかりな無表情を装い、今にも吹き出しそうになるのをこらえた。 ・・・何だあの顔は。ますます色気が失せてやがる。それにしてもだ、今の俺の言い分ときたらねえな。 我ながら何と理不尽な屁理屈か。そうも思うのだが、の前だとついついこんな言い方になってしまう。 焦るこいつをからかうのが面白いのだ。大人の女ならさらりと受け流しそうな屁理屈も、 素直なはいちいち真に受けてしまう。黙っていれば高飛車そうに澄まして見える表情ががらりと崩れ、 子供っぽくあわてふためいては口を尖らせて拗ねてくる。そんなを間近から眺めるのは楽しかった。 おかげでこの一か月、こんな遣り取りは飽きるほどに繰り返してきた。それでもまだ、もっと見たいと思ってしまう。 この頬を染めたガキっぽい表情を見飽きるような醒めた気配が、未だ俺の中には見当たらねぇ。――困ったもんだが。 「――ねぇちょっと。見てよ、ほら、あれ・・・・・」 「・・・まぁ。今どきの若い子は凄いわねぇ。少しは人目ってものを・・・・・・・」 「〜〜〜っ!」 ひそひそとざわめく年配の女らしき声が耳に届き、が背筋を跳ね上がらせる。 いよいよ泣きそうな顔になった。背後を通り過ぎていく足音と共に、往来の人目を背中に感じる。 そういやぁここは外だったか、と土方は改めて周囲を見渡した。 動揺しきっているとは対照的な平然とした視線をそれとなく伸ばせば、あの高級車が目に入る。 見張り番二人が立つ屯所の門前に動きはなく、土方たちの姿に気づいているような様子もない。 離してぇぇ、と慌ててもがく女の頭に顎を乗せて抱き締め、くくっ、と顔を歪めて土方は笑う。 さらさらと肌をくすぐる髪の感触が心地良く、着物越しの温もりを独り占め出来ることに満足する。 いくら抵抗されても当分離してやる気にはなれなかった。 まったく、どうしてこんな破目になっちまったのか。じたばたと無駄に足掻いているこいつのおかげで、 今や俺の日常は面倒と騒動と、口にするのも馬鹿らしいような厄介事だらけだ。 ――そう、あれは正月の末。ほんのひと月前の話だ。 屯所の奴等の注目の前で、に「自分のものになれ」と持ちかけてから一か月。 過ぎてみればこの一月はあっという間だった。 こいつは自分の手で護る。――そう決めた女を始終傍に置いておける毎日は、想像以上に賑やかで。 かしましく騒がしく忙しなく、これまでは知らなかった互いの一面に面食らったりで、何かと衝突が絶えなかった。 今までは見て見ぬふりで流してきた、真正面から女と向き合う面倒も山積みだ。だというのに、そんな 手の掛かる毎日が嫌にはならない。こう思ってしまうのだ。 (これまで散々酷でぇ真似を繰り返してきたツケが溜まってんだ。一度くらいは女一人に手を焼かされる 不甲斐ない手前を知るのも、――少ない時間が許す限りをこいつ一人に費やしてやるのも、そう悪くはねえだろう。) そんな妥協で自分を納得させようとするのだから奇妙なもんだ。そうして自分の中に生まれた 不可思議な変化に疑問を抱く一方では、自分の傍で幸せそうに過ごしているの姿を眺めるたびに、 今までは味わったことがない、熱い感情が心を満たす。ただの部下としてではない、今までには見ることが 叶わなかったの表情を知るたびに、今までは知らなかった嬉しさが湧く。 とはいえ反面では、そのこそばゆい嬉しさを持て余しもするのだが・・・、そんな自分の内なる矛盾に きまりの悪い思いをしながらも、愛しさは日々膨らんでいく。ただ何度も、何度も、の笑顔を目にするたびに、 己の内側に理屈抜きで膨れ上がっていく感情がいかに強いものかを思い知らされる瞬間が続いて。 どうしたって俺にはこいつが必要だ。そう感じると同時に、決意は日々新たに塗り固められていった。 手放すものか。この先に何がこいつを待ち受けていようと、何があろうと。 思いつめやすいには伏せているが、あれからも多少の憂慮を想起させるような出来事はあった。 だが、これをこうして腕の中に囲っておける日々は、そんな憂慮などまるで塵芥のように 吹き飛ばしてしまうほどに心地が良い。この心地良さを独占出来る充足感を思えば、 あの娘馬鹿親父程度が何だというのか。理不尽な発砲で脅されようが、凄味を利かせた ヤクザ面の激怒と叱責が待っていようが、構うものか。何なら降り注ぐ弾丸の雨程度は躱してやる覚悟だ。 そんな怖さ知らずのガキのような勢い余った戯言まで、頭の隅に巡らせてしまう始末で。 ――まぁ、つまりは、だ。 そんな勢い任せな覚悟を決めてしまう程度には、近頃の俺は浮かれているってぇことになるわけだが。 「・・・で、これからどーすんだ」 「ど。どーするって・・・」 「どこに行くつもりだ、甘味屋の後は。 まさかお前、そのまま甘味屋巡りに付き合わせようってんじゃねえだろな」 「違ぅぅっ、ちゃんと予定立ててきたのっ。甘味屋行って映画観てたこ焼き食べて遊園地!だから離してぇぇ!」 「何だ、お前にしちゃあまともな日程じゃねえか。上映は何時からだ」 「映画は11時から・・・・・・じゃなくてぇええ!〜〜〜っ、離してくださいってばぁぁ!」 こんなところで時間潰してたら、映画に間に合わないですよっ。 腕の中から涙目で抗議してくるを眺め、土方はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。 びいびいと泣きわめく女の文句を巧妙に論点をずらして煙に巻きつつ、またその一方では、 誤魔化すなんてずるい、と怒る彼女を宥めすかしつつ。着物越しでもほんわりと伝わる温かさを もっと近いものに感じたくて、彼は抱きしめた腕にからかい混じりな力を籠める。 真冬の寒さで凍えきっていた女の手足が火照り出すまで、その腕の中に閉じ込めていたのだった。

「 LOVE & ROLL *1 」 text by riliri Caramelization 2012/11/13/ ----------------------------------------------------------------------------------- 彼女時代の連作短編集です …とかいいつつやっぱり1話で終われなかったんで2に続きます       next