「――ねぇねぇおじちゃん、あの花なら美代もしってるよ。梅の花!そうでしょ?」 ふっくりと丸みを帯びた幼女の指は、真冬の庭に影を落とす木立に混ざった一本の木を指している。 小さな美代が背伸びするようにして見上げた木には、光にうっすらと花弁が透ける黄色い花が咲き綻んでいた。 ぽつりぽつりと枝を彩りはじめたばかりの、粒立って丸い冬咲きの花だ。幼い少女が梅だと信じて 言い当てたその花は、色に乏しく荒涼としがちな警察病院の冬景色に、わずかな華やぎと早春の気配を添えていた。 「あれっ。でも変だよ。あのお花は黄色だもん。梅の花は赤と白だって兄ちゃん言ってたよ」 「うん。色は違うけど枝や花の形が梅と似ているね。あれは蝋梅っていうんだ」 「ろうばい・・・?」 「そう、蝋梅。梅に似ているけど梅とは違う仲間の花なんだ。でも梅と同じで、 近くに寄るととてもいい香りがする」 「わぁー、いいなぁ・・・!美代、あの花の匂い嗅いでみたい!」 「そうだね。今度ここに遊びに来た時に、誰かに頼んであの木の下で抱き上げて貰うといいよ。 あとは・・・そうだ、この木はね、春になったら青い実がつくんだよ」 「実がつくの?梅みたいに食べられるのかなぁ」 「どうかな。僕が持っていた図鑑には食用だとは載っていなかったな。たぶん食べられないんだと思うよ」 幼い美代と語り合っているのは、警察病院の広い庭に等間隔に配置されたベンチで 彼女の隣に座っている細身な男だ。二人はつい二十分ほど前に、この庭で知り合ったばかりの間柄。 兄のリハビリ訓練の見学に飽きた美代がいつものように訓練室を抜け出し、庭で気に入りのベンチに腰掛けて クマのぬいぐるみを相手にままごと遊びをしていたところに、この見知らぬ男は現れた。 男は美代の兄の爽太と同じように松葉杖を使いながら歩いており、また彼女の兄と同じように、 右の足に麻痺がある様子だった。そこに親近感を覚えた美代は、この病院で出会う誰にでも向ける屈託のない 態度で話しかけた。男は子供の扱いには慣れているようで、幼い美代が相手でも面倒がるような素振りもなく、 親切に受け答えをしてくれる。柔らかなその語り口調は、兄に週四回読み書きを指導している教師に どことなく似ていた。態度の端々から美代のことを気に入ってくれているような空気もなんとなく感じたし、 薄手な作務衣のような水色の寝間着は、この病院の入院患者が揃いで身につけているものだ。 同じ年頃の子供よりも鋭い観察眼を備えた美代から見ても、警戒心を芽生えさせる必要はなさそうな相手だった。 美代は斜めに流れた長い前髪で隠された男の目元や、微笑んでいるのにどこか淋しげな印象の横顔を、 子供ならではの罪のない無遠慮さでしげしげと眺めた。 (何階のお部屋の人かなぁ、このおじちゃん。一度もお顔を見たことがない人だ。) 男を見上げながら美代は思う。一度目にした人間の顔をすべて覚えてしまうという 希有な特技を持った幼い少女が重症を負った兄とともにここで暮らすようになり、早くも半年が過ぎている。 幼いながらに話し上手で周囲の雰囲気を明るくする美代は、療養中の兄と共に病院内を出歩くたびに 方々で知り合いを増やしていた。同じ三階の病棟で過ごす入院患者たちのみならず、他の階の病棟にも 彼女の知り合いは多い。しかし目の前の男は、そんな美代にも見覚えの無い患者だった。 最近ここに来た人なのかな。 そんなことを考えながら、透きとおった桃色の小さな粒――知り合ったばかりの男が袋ごと差し出してきて、 「僕は甘いものが苦手でね。よかったら貰ってくれないかな」と言われて譲り受けた飴を、ぱくりと頬張る。 さらりと舌に溶け出した苺味の甘酸っぱさにぱたぱたと足を振ってはしゃぎながら、男に尋ねた。 「ねぇ、おじちゃんは何階のお部屋なの?美代と兄ちゃんは三階だよ。三階のね、307号室」 「・・・・・・・・・。僕は18階だよ。18階の1823号室」 「18階?うわぁー、すごーく高いところのお部屋なんだね」 「そうだね。殺風景な部屋だったけど、窓からの見晴らしはよさそうだったよ。天気が良ければ江戸中が 見渡せそうだし、・・・あの無粋な鉄格子さえなければもっと良い眺めが楽しめるんじゃないのかな」 「・・・?なぁにそれ。ねえねえおじちゃん。てつごうし、ってなぁに?」 「そうか、三階の部屋にはないのかな。この病院の高層階の窓にはね、鉄の柵がついてるんだ。 窓を開けた人がそこから外へ出たり、うっかり下へ落ちたりしないようにね」 「ふぅん・・・、そうなんだぁ」 地面に届かない足先を交互に揺らし、左右に首を振りながら、美代は興味深げに目を輝かせる。 まだ寺子屋へ通う年にも達していない彼女には、男の説明がいまひとつ理解出来てはいなかった。 加えて言えば「こうそうかい」という語句の意味も判らなかったのだが――大人が使いそうな難しい言葉の意味など、 年幼い少女にとって格別に興味を惹くようなことではない。 彼女が興味を惹かれたのは、この男の病室が「18階」という、彼女にとって未知の場所にあることだ。 18階なんて遠い病棟には行ったことがないし、いつも使っている患者用のエレベーターの階数表示は たしか十階止まりで、そこから上の階へは上がれないようになっている。 どうやって行くのかな。この病院のどこかに、美代がまだ乗ったことがないエレベーターがあるのかもしれない。 後で看護師のお姉さんに、18階への行き方を教えてもらおう。 「美代ねぇ、兄ちゃんのおつかいでこの病院のいろんなところに行くんだよ。兄ちゃんの代わりに看護師さんの ところに行ったり、一階のお店で兄ちゃんがお勉強するノート買ったり、鉛筆買ったりするの。それでね、 最初は兄ちゃんのおつかいだけだったんだけど、今は他の人のおつかいもしてるの」 「へぇ・・・そうなんだ。まだ小さいのにしっかりしてるんだね、美代ちゃんは」 「うん、美代、おつかい得意なんだよ!同じ三階のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちや、四階や五階のおばあちゃんたちの おつかいもしてるの。みんな美代のお友達なんだよ。だからこれからはおじちゃんのおつかいもしてあげるね」 そう話すと男は穏やかに微笑み、美代の頭に手を置いた。目つきにどことなく影のある、 しかし温厚そうな笑みを浮かべて幼い少女のふさふさとした髪を撫でる。 「ありがとう。美代ちゃんは優しい子だね」 「えへへ・・・!」 誉められた美代は地面に届かない足先をぱたぱたと揺らし、抱きしめたくまのぬいぐるみに顔を擦りつけて 照れ気味に笑う。耳の下で切り揃えられたおかっぱの黒髪が、身体の動きにつれてさわさわと揺れた。 男は横に立て掛けていた杖を突き、ゆっくりとベンチから立ち上がる。 立ち上がりかけた男の足元で、ぎっ、と軋んだ音が鳴った。今のは何の音だろう。この古いベンチに 座ったり立ったりするときに鳴る、ぎいぎいした音によく似ていたけど、 ・・・あの音とはちょっと違っているみたい。 美代は小さな頭をひょこんと下げる。男の足元を興味津々に覗き込もうとすると―― 「じゃあ。・・・・・早速だけど、ひとつお願いしてもいいかな」 「うん、いいよ!なぁに?」 「ときどき君に会いに来る、仲良しのお姉さんがいるだろう。髪が長い警察の人だ」 今度あの人が来たら、これを渡してほしいんだ。 懐から何かを取り出すと、男は美代の手にそれを預けた。幼い子供のちいさな手のひらには余る大きさのそれに ――あちこちに傷が入った薄桃色の携帯電話に、不思議そうに見開いた黒目がちな瞳でじいっと見入る。 傷だらけの表面を撫でてみたり、持ち上げて裏返したり。ひとしきりそれを観察すると、美代は男を再び見上げた。 「だけど、病院の人に知られたら、子供がこんなものを持ってちゃいけませんって 取り上げられてしまうかもしれないからね。 次にあのお姉さんに会ってこれを渡す時まで、これのことは誰にも内緒にしておいてくれるかい」 君のお兄さんにも内緒にしてくれるかな。 優しげな声に念を押され、こくんと大きく頷き返す。 「うん、わかった!美代、誰にも言わないよ」 預かった携帯を着物の袂にそっと落とし、大丈夫だよ、とにっこり笑う。 幼女はふっくりとしたその手を彼へと向けた。 男が差し出してきた小指に自分の小指を絡める。男は成長途中の少年のような身体つきの細さに 見合った、青年としては貧相とも言えそうなくらいに華奢な手をしていた。労働の跡のない 柔らかく真っ白な指はひんやりと冷たい。 ゆーびきーりげーんまーん、と弾んだ声で歌いながら指切りをすると、美代はふと小首を傾げて。 「ねぇおじちゃん。おじちゃんはだぁれ?どうして美代とお姉ちゃんが仲良しだって 知ってるの?おじちゃん、お姉ちゃんのお友達なの?」 変なの。どうしてこのおじちゃんは、お姉ちゃんのことを知ってるんだろう。 指切りする間にぽわりと浮かんだ不思議さが気になり、子供らしく率直な疑問を立て続けに投げかけてみる。 すると男は表情を僅かに曇らせ、悲しげな目をして微笑んだ。それから何かに気付いたような様子で、 美代の背後へと視線を向ける。 「美代ちゃん、お兄さんが来たよ。君を探しに来たんじゃないかな」 「あっ。そーだ!体操のお部屋に戻るの、忘れてた!」 すっかり話に夢中になって忘れていたけれど、――爽太の訓練はとっくに終わっていそうな頃合いだ。 ぴょん、とあわてて飛び跳ねてベンチを降りた美代は、背後の建物のほうへと振り返った。 病棟と病棟の間を繋ぐ長い渡り廊下の窓辺に爽太の姿を認めるや、小さな下駄をかたかたと鳴らして駆けていく。 「兄ちゃあん!」 美代が庭と廊下を繋ぐ通用口を抜け、爽太の許へと飛び込んでいく。 右脇を松葉杖で支え歩いている美代の兄――妹に比べておとなしめな印象の爽太は、 利発そうで落ち着いたその表情を和らげて彼女を迎える。 抱きつかれた際に少しバランスを崩しはしたが、しっかりと妹を受け止めていた。 「ここで遊んでたんだね。戻って来ないから探しに来たよ」 「ごめんなさぁい。でもね、美代ね、また新しいお友達が出来たんだよ」 「えっ、また?・・・すごいなぁ美代は。本当に誰とでも友達になれるんだね。ちょっと羨ましいな」 驚いて目を丸くした爽太は美代を見つめ、やがて控え目な笑顔を浮かべる。つられて美代もにっこりと笑う。 美代は兄が時折見せる、このはにかんだような笑顔が好きだった。まだ物心つく前に母を失くした少女にとって、 爽太は他の誰とも比べようのない、幼い彼女の世界の中心ともいえる存在だ。危ない仕事に手を染めて 子供のことなど顧みなかった父親と暮らしていた時も、人身売買組織で幽閉されていた時も、 常に彼女のことを第一に考え、護り抜いてくれた兄。思慮深くていざという時に頼もしい兄は、 父が他界した今となっては美代の唯一の肉親でもある。嬉しくなった少女が爽太にぎゅっと抱きつくと、 優しい兄はいつものように頭を何度か撫でてくれて。 「今度はどの階の人かな。どんな人?」 「今度のお友達はね、すっごく物識りなおじちゃんなんだよ。 お花のこととか虫のこととかいっぱい知ってて、いっぱい、いっぱーい教えてくれるの。すっごく楽しいんだよ!」 「そうなんだ、たくさん遊んでもらえてよかったね。 じゃあ僕からも美代と仲良くしてもらったお礼をしようかな。――それで、その人はどこにいるの?」 爽太に問われ、美代はきょとんとした目を兄に向けた。 どこにって――すぐそこのベンチにいるのに。こんなに近くにいるのに。 兄ちゃんはどうしてそんなことを訊くんだろう。 ぱちぱちとつぶらな瞳を瞬かせ、不思議に思いながら首を傾げた。それから背後の窓へと、くるりと振り向く。 「・・・・・おじちゃん・・・・・・・・・・・・?」 つい先程まで話していた名も知らない男に、ぽつりと美代は呼びかける。 男の姿は庭から消えていた。 ペンキが剥げかけた木製の古いベンチに、桃色の粒をぎっしりと閉じ込めた飴の袋だけを残して。
片恋方程式。 59
「――じゃあすみません、戸締りはお願いします!みなさんお疲れさまでした!」 「お疲れさまでした!」 「うぃーす!先輩、ありがとうございましたぁ!」 先月入った新人さんたちの野太い声を背中に浴びながら庭へ駆け出す。 稽古後の道場の拭き掃除が終わったときには、予定の時間を二十分もオーバーしていた。 掃除に付き合ってくれた人たちに戸締りを頼んで、まだ雪の白さがあちこちに残る庭を たまに転びそうになりながらあたふたと駆けて。玄関口へ飛び込んで、真冬の早い夕暮れを受けて 茜色に染まった縁側沿いを、稽古着の袴の裾を摘み上げながらぱたぱたと走る。 首に掛けたタオルで顔の汗をせっせと拭きながら急いだ。着ているのは 屯所に来てからの二年間ずっと着倒してる汗臭い胴着。稽古が激しかったせいで着崩れしてるし、 シュシュで一つに結った髪だって、あちこちほつれてボロボロだ。 ・・・これって好きなひとの前に出る恰好としては最悪かも。でも、着替える時間がないから仕方がない。 だけどあのひとの前にいる時は、ちょっとだけでもいいから女の子らしいって思われたい。 あたふたと髪を撫でつけて、乱れた胴着の衿元もささっと直す。閉め切った障子戸が並ぶ縁側沿いを 駆けて行って、 「土方さぁん、稽古終わりました!・・・・・って、うわぁ・・・!」 がらあっと戸を開けて滑り込んだ副長室には、灰色っぽくてけむたい空気がもわもわとたっぷり充満していた。 思わず鼻と口を押さえる。なにこれ、この目にきつーく染みてくるかんじ。あとちょっとで火災用の警報機が 鳴り響きそうな煙の濃さだ。ぅううぅぅ、と涙目になって唸りながら、障子戸を左右に大きくすぱーんと開ける。 解放された戸口からやっと新鮮な空気が流れ込んでくる。くるっと振り返って文机の脇に置かれた灰皿を見れば ――視線がそこに固定された瞬間、目が点になった。 午前中に中身を綺麗に片付けておいた灰皿には、すでに吸殻の小山がこんもりと盛り上がってる。 「なんですかこの山っ。午後だけで何本吸ったんですかぁ」 「さぁな。一箱くれーじゃねえか」 「えーっ、うそぉ。とても一箱って匂いじゃないですよ。ていうか土方さん、たまには空気の入れ替えしてくださいよー」 胴着の袖でぱたぱたと空気を仰ぎながらぶちぶち文句をつけていたら、文机の前で身体に悪い煙を 量産し続けていたひとが顔を上げた。黒髪の合間から覗いた鋭い目がかすかに光って、ちらりとこっちを見上げてくる。 後ろの畳には隊服の上着と首元に巻く白のスカーフが放り投げてある。机に突いた白いシャツの腕は 肘までざっくり捲くってる。別に本人に聞いたわけじゃないけれど、何かと動きを制限される堅苦しい隊服の 窮屈さが実はあんまり好きじゃないみたいだ。外出する必要がない時の土方さんて、大抵こんな恰好だもん。 ・・・それにしてもこの煙たさ。この様子だと、昼休み後から今まで、ずーっと机に齧りつきっ放しだったのかな。 目つきがちょっと荒んでるし、眉間に疲れ気味な皺が寄ってる。あたしの全身を上から下まで 相変わらずの無表情さで観察すると、土方さんの片方の眉がぴくりと大きく吊り上がって。 「ぁんだ、まだ胴着じゃねえか。五時には出るからそれまでに支度してこいっつっただろーが」 「すいません、予定よりも手間取っちゃって・・・いま、今着替えてきますからっ」 「おい、あれぁどうなった。監査課がダメ出ししてきた例の会計報告は」 書類を持ち上げた手が動いて、机の端に出来ている確認済の書類の束の上に、 ざっと放った。と思ったら、早くも次の一枚に手を伸ばす。そこから続けて数枚ひったくると、 ぱしりとあたしに押しつけた。 「あそこは時間に煩せぇからな、提出が遅せぇとねちねちと厭味言われんだ。向こうに連絡入れておいただろうな」 「あ、はいっ。午前中にやっと直し終わったんで、お詫びの電話してからデータ送信しておきました。 それから隣町の幼稚園の交通安全指導なんですけど、七番隊から二人出してくれるってことで手配済みです」 「そうか。まぁお前入れて三人もいりゃあ充分だろ」 当日はお前が仕切っとけ。 そう指示する間も手にした書類に視線を走らせてるひとに、はい、と答える。 あたし用の小さい折り畳み机まで走った。貰った資料を分類して、いつも使ってる水玉模様のファイルにしまう。 ――ここ数日でこのお仕事ファイルは急に分厚くなった。理由は、あたしが任される仕事の量がぐんと増えたから。 受け取る資料や書類の種類も、先週よりもずっと増えたからだ。急に仕事が増えた訳は、あたしから土方さんに こんなことをお願いしたから。 『あたし、少しでも土方さんの役に立てるようになりたいんです。みんなの期待にも応えたいし、 早く一人前になりたい。今はまだ何も出来ないけど、いつかはあたしが土方さんの右腕ですって 胸を張って言えるようになりたいんです。だからこれまでよりも仕事の量を増やしてください』 それを聞いた土方さんは、なんだか意外そうな顔をしていた。 屯所のみんなに「姐さん」なんて呼ばれるプレッシャーで半べそ状態だったあたしが、 まさか自分からそんなことを言い出すとは思ってなかったみたいだ。 「右腕たぁ大きく出たな」と、その時は半笑いでからかわれた。でも、早く仕事を覚えたいっていう やる気だけは買ってもらえたみたいだ。それからというもの日に日に事務仕事は増えてきたし、 これまでは土方さんがその場に立ち合って行ってきたようなことも、あたし一人に任せて貰えるようになった。 今日の新人さんたちの稽古もそのひとつだ。稽古とはいえ一人で二十数人の男の人を相手取るのは正直キツい。 けど、キツいからこそ、キツいことを一人でもやり遂げられたっていう実感も大きい。それに何より、 見る目が厳しい土方さんに仕事を任せて貰えるっていう嬉しさがとびきり大きい。だからついつい張り切っちゃう。 昼から休み無しで汗まみれになって腕が棒みたいになったって、これって土方さんの右腕になるための 貴重な第一歩だよね、・・・なぁんて思えば身体の疲れも吹き飛んじゃう。それどころか、身体の疲れすら 嬉しいっていうか、疲れてるのに不思議と爽快な気分になったりするんだけど。 ――ほんと、単純だよねあたしって。しかもずいぶんと現金な子だ。だって、これがもしも土方さんとの仲が 最悪だった一カ月前の話だったら、同じように仕事を任されたってここまで気分は弾まなかったんじゃないのかな。 「、さっさと部屋ぁ戻って着替えろ。五分で車庫まで来ねえと置いてくぞ」 「えぇっ。ちょ、五分ですかぁ?五分はちょっと。せめて七分にしてほしいんですけど」 「五分だ。パシリが時間延長要求すんな、あつかましい」 「そんなぁ〜!無理ですよー、汗拭いて着替えて髪とお化粧直すだけでも 十分くらいかかりますよ!?男の人と違って女の子の身支度は色々とやること多いんですっ」 自分の遅刻は棚に上げて、頬を膨らませてぷりぷりと食ってかかる。 すると土方さんは書類をぱらぱら捲る手を止めて、眉をややひそめた。 何を言ってやがる、とでも言い出しそうな皮肉っぽい目つきであたしを眺めて、 「嘘つけ。今朝のあれぁ一分もかかってなかったぞ」 素っ気ない口調で投げかけられた言葉にぎくっとした。 ・・・・・・・・・しまった地雷を踏んじゃった。 朝ごはんのときも午前中の見廻りのときも昼ごはんのときも特に何も言われなかったし、 大人な土方さんにとってはどうってことないんだろうなって、内心ほっとしてたんだけど、 ―― しまった。やっぱり朝のあれ、根に持たれてたんだ・・・! 長い稽古で火照っていたはずの顔にたらーっと冷汗が流れる。ぴくぴくと引きつりはじめた顔の筋肉を 動け動けとどうにか無理やり宥めすかして、あたしはなんとか笑顔を作った。絶体絶命なこのピンチを 何としてでも切り抜けたいがための防御策、・・・まぁ、ようするにただの誤魔化し笑いなんだけど。 「〜〜〜っなぁんてね!冗談ですってば、冗談っっ。ももも、もちろん時間厳守しますよ、速攻で着替えて 車庫まで猛ダッシュしますよ!?あぁっ当たり前じゃないですかぁっ、副長命令は何があろーと絶対ですからっっ」 「そっちの話じゃねえ。俺が言ってんのはなぁ、」 「じ、じゃあ早速行ってきまぁす!車庫で待っててくださいねっっ」 お腹が空いた肉食獣にロックオンされてるよーな危険な何かを本能的に感じ取って、あたしはあわてて立ち上がった。 こういう時は逃げるに限る。書類を仕舞うのもそこそこにして土方さんの机の横をそそーっと爪先立ちで 擦り抜けようとしたら、 「ふ、ぎゃっっ!」 ・・・・・なに。なにこれ。何が起こったのかもわからない。腰に腕を回されて、抱き留められた感触に唖然とする。 急に天と地がひっくり返って、転びそうになって――寸でのところで土方さんに抱えられたおかげで畳との激突は 免れたみたいなんだけど、目の前数センチに影が落ちた畳目がある。一体何がどうしてそうなったのか、あたしは顔から 畳にダイブしそーになったらしい。 ・・・あれっ。でも、転ぶ瞬間、何かに足が引っ掛かったような気がするんだけど―― 「・・・・・・・・・・。え。・・・あのー。土方さん?な。何してるんですか」 抱きかかえられた状態で自分の足元を見下ろして、ぽかんと目を見開いた間抜けな顔で問いかけた。 袴が。あたしの袴の裾が鷲掴みされてる。煙草を指に挟み込んだ大きくって図々しい手に、がしっと。 「逃げようったってそうはいくか。つーか先の行動が見え見えなんだよ、てめーの態度は」 「っっ、な、う、ぁ、ちょっっ!?」 「だいたい情緒ってもんがねぇんだ、お前の寝起きは」 「じ、じょう!?――ひぁ、や、ちょ、ちょちょちょ、ちょっっっっ」 ぐい、と胴着を首根から掴み上げられる。まるで猫の子でも摘み上げるような造作の無さで、 うつぶせになってた身体を起こされた。気付いたときには土方さんの組んだ脚の中にお尻がぽすんと 収まっていて、子供が親に抱っこされるみたいに土方さんの胸に背中を預ける格好にされていて。 背中や腰がぴったりくっついてる熱さに心臓がばくばくと騒ぎ出す。ふーっ、と顔の横で長めに吐き出された煙草の 香りにどぎまぎする。目の前の障子戸は開けっ放しになったまま。かぁ〜、かぁ〜、と啼きながら夕空を渡っていく カラスの声や、隣の棟から聞こえてくる女中さん達の話し声が、やけに生々しく耳に響いて。 ああっ、あんなにあけっぴろげにするんじゃなかった。今は運良く人目がないけど、庭からも廊下からも丸見えだし!!! 「っっっははははなしてっ、離してひじかたさっ、戸、戸が、ガラ開きっっ」 「今朝も何だあれぁ。起きたと思やぁ人の胸突き飛ばして浴衣ひったくって帯巻いて、さっさとトンズラしやがって。 あれでカツラでも挿げ変えようもんなら、さながら舞台袖に戻った役者の早着替えじゃねえか。ちっ、面白くねぇ」 「お。面白くねぇって・・・あれは土方さんが悪いんじゃないですかっ。寝起きにちょっと油断してぼーっと してると手癖の悪い人が急に襲っ・・・ってそーじゃなくて!ちょっとぉぉ、聞いてる!?人の話聞いてる!?」 「――お前、すげぇ汗だな」 「〜〜しっ、仕方ないでしょ!?さっきまで道場で、けい―― っっ!?」 ごつん。石みたいに硬いおでこをこめかみあたりにぶつけられる。 いたぁい、と涙目で叫んでも土方さんは知らん顔だ。しかも首筋に鼻先を近づけて 肌の匂いを嗅ぐような仕草をするから、頭の芯がかーっと火照った。 お腹の上からあたしを抑えつけていた隊服の腕が、衣擦れの音を引き連れてざわりと動く。 胴着と袴の重ね目に当たる腰の横あたりを押さえていた手は、ゆっくりと袴の襞の上を滑り出して。 「・・・・・や。やめてくださいその手。な、なんで撫でっっ」 「えらく湿ってんな、顔も頭も。・・・まぁ、ゆうべも夜中はこのくれぇだったが」 「〜〜〜〜っ・・・!」 横から覗き込むようにして目線を合わせて、土方さんが耳元に声を吹き込む。 言った本人は至って堂々、平然とした涼しい顔を微塵も崩していないのに、 言われたあたしの顔はもう真っ赤。あと何か一言でも言われようものならごうっと全身が火を吹いて燃え上がりそうだ。 鈍い鈍いと毎日のように叱られているあたしにも、このひとが昨日の夜のどんな時のあたしを揶揄して きたのかくらいは判る。ていうか、判るからこそいたたまれない・・・! あわてて前屈みになって少しでも土方さんから離れようとしたら、 汗が滲んだ首筋に、くっ、と押し殺した笑い声を吹きかけられる。それだけで背筋の力がへなへなと萎えていった。 「ふぇえええぇ。だめですってばぁ。もうっ、し、しし、信じらんないっ・・・。 ひ。・・・・・ひじかた、さんが。・・・・・こんなひとだと。思わなかっ・・・!」 「フン、悪かったなこんな奴で」 幻滅したか。 そう訊かれたけど答えられない。幻滅した、って言えればいいけど、ちっとも幻滅なんてしてないから 困ってしまう。恥ずかしくてそっぽを向こうとしたら、顎を掴み戻された。 あたしの本心なんて聞くまでもなく見透かしていそうな、意地の悪い表情で土方さんが目を細める。 横から顔を覗き込まれる気配が近い。まるで昨日の夜に、同じお布団の中にいたときみたいだ。近すぎる。 指先に力を籠めた土方さんの手は、あたしに自分の仕草を見せつけようとしているような遅さで動いていく。 意味深な手つきに袴の生地を通してゆっくり撫でられた。おへその上まで辿り着いたその手は、 お腹の膨らみを円を描くようにして確かめる。下へ下へと伸びていこうとする骨太な指の感触が、 袴の襞にすうっと深く潜っていって。あっ、と腰を捩って逃げようとしたら、いっぱい汗を掻いた首筋に 熱い何かがちゅっと触れる。ぞくぞくと肌に震えが走った。煙草を挟んだほうの手が耳を撫でて、 汗で湿ったこめかみから髪の奥へと滑り込んでいく。びくん、と背筋が勝手に跳ね上がる。 ――我慢して噛みしめていた唇が震えて、ふぇえん、と情けない泣き声が漏れて。 「〜〜や、やだああぁ。ごめんなさいもう朝逃げたりしないからぁっ。やだ、こんなとこで、やだぁああっっ」 「あぁ。だな。さすがにここはねぇな」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、 ふぇえ?」 「生身の女に飢えたうちの野郎どもに、その赤い面見せてやる義理もねえしな。――よし。もういいぞ」 「は・・・・・・・、はいぃ?」 お腹を押さえていた手つきが変わる。意味深な動きはあっけなく消えて、首筋に触れていた唇も離れた。 いきなりな仕草の豹変についていけなくてぽかんとしていたら、土方さんの手が耳の上あたりで動く。がさがさと、 何かが擦れる音がした。紙とか布とか、乾いた何かが擦れ合ったみたいな音だ。 続いて、ぱちん、と硬い何かを弾いたような音が響いて―― 「・・・・・・土方さ・・・?」 「――こいつは今までの詫び代わりっつーか、貢物っつーか。要は最初の機嫌取りだ、取っとけ」 土方さんの手があたしの手を取る。持ち上げられた右手はゆっくりと、頭の横まで挙げられて。 「・・・今朝方のうちに渡すつもりだったが、どこかの馬鹿が話も聞かずに逃げやがったからな。 今ぁお前の反応が可笑しすぎてつい悪ふざけが過ぎた。あやうく目的が逸れるとこだったが」 「ぇ・・・?」 持ち上げたあたしの手を、今度は耳の上あたりに触れさせた。 かさ。くしゃ。 指先から伝わってくる薄くて乾いた何かの感触にはっとして、手がびくんと揺れた。 自分の髪の質感とは違う何かがそこにある。あたしの髪に留められている何か。その触り心地には覚えがあった。 でも、・・・そんなはずがないのに。 だって。あれは―― 「まぁ、つまりはあれだ。・・・てめえがそんなんだからことごとく潰れんだ。こいつを返す機会がな」 指先で触れていたそれを手のひらに包んだ。そっと撫で回して確かめる。 撫でているうちに、最初は小さかった指の震えが収まらなくなってきた。 目の奥に自然と、熱いものがじわあっと湧く。唇を噛んでこらえようとしたけど、 目の奥をいまにも溶かしてしまいそうなその熱は、逆にぶわりと膨れ上がってくる。 「・・・・・・・っ。土方さんのばかぁ。どーして普通に返してくれないんですかあぁぁ・・・?」 泣き出してしまう寸前の情けない顔でぽつりと尋ねた。 ・・・ああ、きっと今のあたしって、土方さんの右腕になるには程遠い。どうしようもなく子供っぽくて、駄目な子だ。 「うっせぇ、そう易々と出来るもんならとっくにやってんだよ。そのへんの事情は気配で察しろ」 「・・・・・・・・・・っ。・・・・・・・・・・・うそぉ・・・どうしてぇ・・・? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・って。これ。・・・・っ。捨てたって。言って、・・・・・・・・・っ」 気がつけばぽろぽろと涙をこぼしていた。 触れていたものを手の中に閉じ込めて、髪の上を滑らせて頭から外す。横から伸びてきた土方さんの手が、 あたしの握り拳を上から包んだ。ごつごつと硬い手のひらのあったかさを感じたら気が緩んで、 もっと泣きたくなってくるから嗚咽をこらえるのが大変だった。二重に包まれた手を膝上まで下ろす。 涙ぐんだ目でじっと見つめる。二人ですこしずつ、すこしずつ、ゆっくりと手を開いた。 泣いたせいで輪郭がぼうっと滲んだ視界にそれが映る。 ひどく寒かったクリスマスイブの夜に。 ――あの夜に失くしたはずの白い花飾りは、あたしの手のひらの上で咲いていた。 「・・・捨てようにも捨てきれなくてな」 土方さんは言いにくそうに切り出してきた。隊服の両腕が衣擦れの音を鳴らしながら 胸のあたりに回ってくる。あたしを閉じ込めたその腕に、ぎゅ、と力強く抱き締められて。 「何度かゴミ箱に放りかけたが、そのたびに決まって女の泣きっ面が浮かんできやがる。 そうこうしてるうちに年が明けて、お前が倒れて、俺の気が変わって。結局捨てきれねえままだ」 「・・・嬉しい・・・・・・・・・・・。これ。宝物だったの・・・」 震える唇から声を絞り出して、でも、止まらなくなった涙のせいで喉が詰まって。その後は何も喋れなくなった。 うそみたい。 ・・・だって。捨てたって言われたから。あの時の土方さん、すごくこわかったから。 だからもう駄目なんだと思って諦めたのに。 この髪飾りも、これを買って貰った頃の楽しかった思い出も、もうあたしには二度と戻ってこないんだと思って。 ・・・・・一度は泣く泣く、諦めたのに。 「初めて土方さんに貰ったものだから。 だから。すごく。すっごく。大事にしてたの。うれしい・・・・・・」 うれしい。 ぐすぐすと啜り泣きながら繰り返す。ああ、と無愛想な相槌を打った土方さんの手の甲が、 涙で濡れた目元や頬を拭ってくれた。ごしごしと肌を擦って無造作に動くその手つきはちょっと乱暴だ。肌が痛い。 そのうちにほっぺたや目元がむにーっと伸びておかしな顔になっちゃうくらいに擦られるようになって、 あたしはなんだか無性におかしくなってきた。濡れた顔をほころばせてくすくすと笑っていたら、 頭の後ろで、ぼそり、ときまりの悪そうな声がして。 「・・・まぁその。何だ。お前を酷でぇ目に遭わせた罪滅ぼしがこれだけで済むたぁ思ってねえが、 これも含めておいおい返していってやる。完済するまで気長に待っとけ」 「・・・・・・おいおい、って・・・・・・?」 「さぁな。一年先か、数年先か。・・・十年。いや。もっと先かもしれねえが」 一言ずつを慎重に選びながら口にしているような様子で語ると、土方さんはしばらく黙り込んだ。 低めた声に、、と呼ばれる。腰に回されていた大きな手が肩を掴んで、 膝上に座っていたあたしの身体の向きをゆっくりと変える。真正面から向かい合うような格好で 脚の上に座らされる。座らされた途端に間近でぴたりと目が合って、とくん、と心臓が柔らかく跳ねた。 土方さんはちょっと怒っているようにも見える、何か言いたげでぎこちない表情を浮かべていた。 瞬きもしないであたしを見つめる切れ長の目にぼうっと見蕩れる。すごく真剣なんだって、その目を見ただけで 判る表情だった。 今、土方さんは、あたしのことだけ見てくれてる。――あたしだけを、見つめてくれてるんだ。 そう思ったら、身体の奥から溢れてきた甘い気持ちが身体を縛る。こころが、心臓が、きゅうっと強く締めつけられた。 「・・・・・・。お前、それまで俺と、ずっと――」 「――っっ、いてぇ。っだよいてーよやめろって。誰だぁ、俺の背中に肘ついてる奴」 何か言いかけていた土方さんは、半端に口を開けたままで目を見張った。 それから三秒も経たないうちにこめかみがびくびくっと疼く。眉がびしっと、激しく鋭角に吊り上がる。 あたしは耳まで赤らめて絶句した。ぽろっ、と手から髪飾りが落ちる。 意味なく口をパクパクさせてはいるけれど、言葉なんて一つも出てこない。 今のは土方さんの声じゃない。 もちろんあたしの声でもない。 低く、低く、最小ボリュームまで声音を押さえてモゴモゴとつぶやく誰かの声だ・・・! 「おい押すなって。押されっと決定的瞬間が撮れねーだろーが。カメラのピントがブレるじゃねーか」 「んだよ蹴んなよ。俺じゃねーよこいつだろ」 「いや俺でもねーよ。つーかうるせーよ静かにしろよ。副長が気付いたらどーすんだぁ?俺ら全員斬り殺されんぞ」 声は全開にした障子戸の影から流れてくる。ざわざわとこそこそとうごめく大勢の気配がそこにある。 あまりの恥ずかしさに混乱して訳がわからなくなって「ぎゃあああっ」と悲鳴を上げそうになったら、 がしっ、と口を塞がれた。かぁっと目を見開いた土方さんが「喋るな」とばかりにぐぐーっと口を抑えつけてくる。 瞳孔全開のその顔は、子供が見たらすぐさまびいびいと号泣しそうな凄まじく怖い形相だ。 ちっ、と吐き捨てるような舌打ちをしたひとは、寒気がするような殺気を籠めた流し目で ぎらりと障子の向こうを睨みつけて。 「・・・ん?おい誰だこの臭い、靴下かぁ?猛烈におっさんくせーんだけど」 「あーそれ局長だろ、局長室の座布団と同じ匂いだし、・・・ってうごごごっ、おぉお沖田隊長っっ、な、なんで首絞めっ」 「いーんですかィ近藤さん、山崎の奴が面と向かってディスってますぜ。あぁ、俺が替わりに殺っときましょーか」 「殺るってぇええええっ、ちょ、え、マジで、ちょ、ふごげふぉおっっ」 「黙って!お前ら黙って!総悟もザキも静かにしてぇえ!! 今クライマックスだから、すんげえいいところだからっ。マジでキスする五秒ま、――ぶふぉおぉぉぉっっ」 近藤さんのくぐもった呻き声に、ドゴォォォォっ、と身体に響く重たい破壊音が重なる。 みんながああだこーだと喋りまくってる間に廊下へ向かった土方さんが、無言で障子戸に踵落としを浴びせたからだ。 「〜〜〜〜〜〜ぁにやってんだてめえらぁああああああああ・・・!!!」 建物全体をビリビリと痺れさせるくらいに重くて低い怒鳴り声が、部屋から庭へと突き抜ける。 部屋の端に寄せられていた障子戸二枚は、その影にいたみんなを道連れにして廊下に倒れて、 ・・・しかも怖ろしいことに、たった一撃で見事な縦真っ二つに割られていた。 「す、すすすすすすんませんんんんん!! おおっ俺らはそんなに乗り気じゃなかったんすけどっ、局長が、局長がっっっ、」 「局長がどーしても映像を残そうっていうからししし仕方なくそのっ、な、なぁおめーらっ、そーだよな!!?」 「ざっっっっっけんなどう見ても全員ノリノリだったじゃねーか。 ぁんだそのカメラは、ぁんだその携帯は!てめーらそいつで何撮りやがった、ぁあァ!!?」 障子戸の下からモゾモゾとおどおどと、野次馬さんたち総勢十数名が這い出てくる。全員顔が引きつってる。 まるで死刑宣告でも受けた人みたいな、青ざめて血の気がない顔してる。全身から殺気を大放出して凄む鬼の姿に ガクブル状態でおびえていたみんなは、どっ、と一斉にその場から逃げた。副長室を突っ切って襖戸の向こうへ ダッシュする人、裸足で庭へ飛び出していく人、ぎゃああああああっと絶叫しながら廊下を爆走していく人。 全員が散り散りに逃げていく。…ただし近藤さんは障子戸の下敷きになったままびくりともしないし、 土方さんの強烈な蹴りを運悪くお腹に喰らって吹き飛んだ山崎くんは庭の灯篭に激突して悶絶してるし、 土方さんが戸を蹴り壊す寸前にちゃっかりその場から避難していた総悟は、澄ました顔で口笛なんか吹きながら さっさと逃走済みだけど。土方さんは組んだ両手の指をバキボキと鳴らすと、いまいましげに怒鳴り倒した。 「あんの馬鹿共がぁあああああああ、ナメた真似しやがって!おいっっ、行くぞ!」 「えっ。行くって、」 「今の奴ら全員潰しに行くに決まってんだろ。 携帯でムービー撮ってた奴に、ハンディカメラ担いだ奴までいただろーが!」 えぇっ、と驚いてる間に手を掴まれた。ぐいっと引っ張り上げられて、手をがちっと握られたままで 廊下に飛び出す。茜色に暮れた冬の縁側には誰もいなくて、風を切ってばたばたと走る廊下はまるで氷でも踏んでるみたい。 冷えた汗のせいで胴着はぐっしょり、肌にも寒さが染みてくる。真冬の空気は顔や手足にぴりぴりと刺さって、 身体中のどこもかしこも冷たい。 ――でも、大きな手のひらに包まれた手の甲だけがあったかい。 あたしをぐいぐいと引っ張っていく手をぼうっと頬を染めて見つめる。それから、一度も振り返ることなく斜め前を 走っていく隊服の背中を。 「・・・・・・・・土方さぁん」 「あぁ?何だ、」 「・・・さっきの。言いかけてた、あれって、どういう・・・・・・・・」 ――土方さんは確かに言った。 『一年先か、数年先か。・・・十年。いや。もっと先かもしれねえが』って。すごく真剣な顔してた。 あれってどういうつもりだったんだろう。どういう意味で言ったんだろう。 数年先。十年先。それよりもっと先まで、――土方さんは、あたしに。 ・・・それってつまり。 そんなに遠い先の土方さんの未来にも、あたしが居てもいい場所は用意してあるってこと・・・・・・? 「・・・・・ま。まさかね。違いますよね・・・?」 「だから何だ。訊きてぇことがあんならはっきり言え」 「・・・・・・っ」 大きな手に縋るみたいにして絡めていた指に、待って、と念じながら力を籠める。 あたしの仕草に気付いてくれた土方さんは、怪訝そうな顔で足を止めた。 何だ、さっさと言え。 そんなことを言いたげな、口端が不満げに下がった仏頂面に見下ろされる。 だけど話をどう切り出せばいいのかわからなくて、もじもじと胴着の衿元を弄りながら口籠った。 どうしよう。 これってまたあたしの自惚れかな。勘違いなのかな。でも。あれって。あれって。 ・・・・・・・・ひょっとしたら。もしかして―― 「・・・ま。まさかとは思うんですけど。あ。あたしの。目には。ぷ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロ、ポーズ。 ・・・・・・・・・・・・・しようとしてる・・・みたいに・・・見えたっていうか。見えてもおかしくなかったって、いうかぁ・・・・・っ」 と、声を詰まらせながらモゴモゴとおっかなびっくりに言ってみたら、 ・・・・・・・・・・・・言うんじゃなかった。やっぱりあたしの目って悲しいくらいに節穴らしい。勘違いもはなはだしかったみたいだ。 ほら、あのむっとした顔。 口に挟んだ煙草はぎりぎりっと噛みしめられて折れ曲がる寸前。眉間の皺は激しく寄って、 こめかみにはびしっと浮き上がった青筋が。しかも眼光鋭いあの目が不満たらたらな雰囲気で睨んでくるから、 あたしはひぃっ、と肩を跳ね上がらせて後ずさった。しまった、また地雷踏んじゃった・・・!!! 「〜〜〜〜っっっっなっ、なぁああんて図々しいこと思っちゃったりなんかしたんですけどぉお! あは、あはははは、やっっやだなぁもう、ありえないありえない!そんなはずないですよねっっっっ」 「ったく、・・・どうしたもんか」 「え?」 「てめえとは一生話が噛み合う気がしねぇ」 「そ、そうですよねっっすいません変な勘違いしちゃって! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・って、えっっっっ。・・・い、一生!?」 思わず叫んでしまったら、土方さんはわざとらしく片眉を吊り上げた。呆れきって言葉もねぇよって顔をする。 怖すぎて直視できなかった険しい目元がふっと緩む。わずかに緩んだ表情は一瞬で可笑しそうに崩れて、 くくっ、と喉の奥で押し殺した低い笑いに、すっかり曲がった口端の煙草や白いシャツの肩が揺れる。 あっけにとられるあたしの前で、ははっ、と珍しく声まで上げて土方さんは笑った。 これまでにほんの一、二度しか目にしたことがない顔。心の底から愉快そうな、可笑しくってたまらなさそうな顔だ。 「しょーがねえな」って笑い混じりにつぶやいて目を細めたひとの視線を受けて、頬がかあっと熱くなる。 「あぁ。一生だ」 意味深な笑みに口端を歪めて、土方さんは繰り返した。 睫毛を伏せたせいで薄く影が落ちたその目つきには、見ているとなんだかちょっと憎たらしくなる、 悪戯っぽい色がちらついている。繋いでいた手をきゅっと強めに握り返されて、こっちに来い、とでも 言いたげな仕草で腕を引かれた。 目の前に迫った咥え煙草の涼しげな笑顔を、心臓をとくとくと弾ませながらぽうっと見上げる。 期待で胸が一杯になったあたしは、どうしようもなく欲張りなお願いをひとつ、心に唱えた。 ――ああ神様。どうかどうか、お願いです。 出来ることならもうちょっと。 叶うものならいつまでも。 もっと、ずっと、ずーーーーーっと。 この幸せすぎる勘違いから、一生、醒めずにいられますように。
「 片恋方程式。 」end. text by riliri Caramelization 2012/08/04/ ----------------------------------------------------------------------------------- 長い話にお付き合いいただきありがとうございました 次は過去編/連作短編集。この後のらぶらぶあまあまなふたり、です next