片恋方程式。 58
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・――うぉーぃいおめーら、酒は行き渡ったかぁ? よーし、そんなら気を取り直して飲み直しと行こーぜ!俺らの姐さん誕生に、かんぱあぁぁ〜〜〜〜いィィ!!」 「乾杯ぃぃぃーーーー!!!」 ――ああ。 あの声。・・・永倉さんの声だ。 どこか遠くから届くにぎやかな声の波が、ゆっくりと目覚めつつあった意識の端を掠めていく。 はなかなか上がってくれない重たい瞼を半分だけ上げる。伏せた睫毛を何度か瞬かせた。 あまり目の焦点が合っていない気だるげな表情で、目の前に広がる夜景を眺める。 縁側から屯所の庭を臨む景色。薄明かりを受けた軒先の端に斜めに切り取られた暗い空。 横向きに寝かされた恰好で見上げる、冬の夜。氷のような色味の月が天頂で輝き、星の光明が儚げに届く、 見慣れた江戸の夜空だった。 はぁ、と溜め息のように漏らした吐息は、瞬く間もなく白く煙る。見上げた冬の夜空に揺らいで消えていく。 庭から流れてくる凍てついた冷気が、ひんやりと首筋まで忍び込んでくる。顔や足先が肌寒い。けれど、ほぼ屋外と 言っていいような場所に寝かされているはずなのに、それほどの寒気は感じない。どうしてだろう。 ・・・・・・・・あたし、どうして縁側にいるんだろう。 ぼんやりとそんなことを思ううちに、再び遠くで声が上がった。 「かんぱあぁ〜〜〜〜〜いィィ!」 その声には眉を寄せた。ひどくいたたまれなさそうな、申し訳なさそうな顔になる。 薄く開いた唇の奥で、小さくぽつりとつぶやいた。 「・・・・・・・・・・違うのに・・・・・・」 「・・・ようやく目ぇ覚ましたと思やぁ、またそれか」 「・・・!」 真上から降ってきた声にはっとして、がばっ、とは跳ね起きる。ところが、長い髪をひらりと舞わせて 弾かれたように起き上がった彼女の頭は、男の片手に軽々と抑えつけられて。 「えっっ。ひ、土方さ・・・?」 目の前を塞いだ手の指と指の間から覗くわずかな視界を通して、は自分が置かれた状況を呑み込む。 呑み込んだ途端に、ぼうっと顔が熱くなった。 ・・・・・道理で寒さを感じなかったはずだ。寝かされているそこは深夜を越えた縁側の凍りついた床ではなく、 胡坐を組んで座った男の膝の上で。緩く組んだ腿の上に預けた丸め気味の上半身も、床へ降ろされた腰から下も、 誰のものだか判らない柔らかい毛布でくるりと簀巻きに覆われていた。 「むやみに動くな。酔ったクソガキがぶっ放したせいで頭打ってんだ、じっとしてろ」 「・・・・・・・・は、はぃ、・・・」 おずおずと答えれば土方の手が軽く髪を撫で、すっと頭を離れていく。 はもぞもぞと少しずつ肩を揺らし、赤く染まった顔を出した。あまり動きに自由が効かない 芋虫にでもなったような気分で上を向く。 闇に浮き上がる細い紫煙を咥え煙草の口許から漂わせている男は、伏し目がちに何かを考え込んでいる。 庭のどこかを見据えているその様子を、酒気が残ってうっすらと潤んだ目で恥ずかしそうに見上げた。 それから、自分の首元から足先までをすっぽりと包んでいる、もこもこと分厚い毛布に目を見張る。 「こんな派手な毛布をどこで売ってるんだろう」とついまじまじと眺めてしまう、けばけばしいピンク地に 金ラメのハート模様。もっとも、いくらこの毛布に驚きはしても、これの持ち主は追及するまでもない。 こんなに派手で女性的な寝具をうきうきと買い求めそうなセンスの持ち主など、屯所にたった一人しかいなかった。 「――お前。そこまで嫌か。 あいつらに姐さんだ何だともてはやされて、一段高けぇ場所に祀り上げられちまうのが」 淡々とした調子で言いながら、ふいと土方が顎を背ける。 煙草の先で指されたのは、二つほど先にある部屋だ。 室内の灯りを受けて真っ白に光る障子戸は眠りから覚めたばかりの目には眩しく、 その中で和気あいあいと談笑している仲間たちの大きな声は、自分を膝上に抱えた男の体温を感じて 火照ってきた耳に漫然と響いた。 「・・・。うちの連中はどいつも呆れるほど単純で、女に甘い馬鹿揃いだが」 低めた声の前置きとともに、土方の手が差し伸べられてきた。 逸らし気味になっていた顎の下に――仰け反って晒された白い首筋に、 皮膚が厚くて固い、煙草の香が染み込んだ指先が何気なく触れる。その瞬間、背筋をぞくりと這い上がった 甘ったるいくすぐったさに震えが走る。んっ、と息を詰めて身体をしならせ、あと少しで こぼれそうになっていた高い声をこらえるために、毛布の端をぎゅっと握り締めた。 そんな自分が恥ずかしくて、いよいよは顔を真っ赤に火照らせる。 もじもじと身じろぎする彼女の様子に何かを勘付いたらしい。土方が、ふっ、と抑え気味な笑いに肩を揺らす。 頭上の気配をわずかに緩めた。 「だがな。だからってどうしようもねえ抜け作揃いってんでもねえぞ。 奴等ぁ見てねえようでしっかり見てんだ。これまでのお前を」 土方は深く目を伏せる。平素はあまり彼女と視線を合わせたがらない彼にしては珍しく、 じっとに視線を注いだ。 「真選組は男の現場だ。女なんて使えるわけがねぇ。そう侮ってた連中にも、お前は自分の存在を認めさせてきた。 男に比べて膂力も体力も劣るお前が、野郎どもに遅れを取らねえようにと必死で喰らいついてくる姿を どいつも少なからず目の当たりにしてんだ」 ふぅ、と肩から力を抜く仕草を交えながら咥えた煙草を指で挟み、煙を吐く。 漏れ出た細い白糸が、ふわりと闇夜に揺らめいた。 「そういう奴の頑張りを否定するような奴ぁ、ここにはいねえ。 どいつもお前を認めてんだ。は俺の隣に並んでも見合う女だとな」 低めた声で言いながら、煙草を口から抜き取った。 赤い焔がちらつく先が、灯りがまばゆい客間を指して。 「おら、聞こえんだろ。奴等のあの箍が外れた喜びようがその証拠だ。・・・それがお前、そんなに嫌か」 「・・・・・・・・いやじゃないです。でも・・・・・・・」 思いつめた表情で口籠るの様子を、土方は黙って見定めていた。 短くなった煙草を灰皿替わりのビール缶に放る。じゅっ、と微かな音が鳴った。 「そこまで重荷か。俺の女ってえ肩書きは」 「・・・・・・・・・・・・、」 成程な。これで合点がいった。 そんなことを思っていそうな確信を得た表情で見下ろされる。 すると、土方を見つめてぱちりと開ききっていたの瞳はたちまちに揺らぎを見せ始めた。 普段は屈託のない大きな瞳が、少しずつ曇りを帯びていく。自分の身を抱え込んだ男の足元へ視線を 逸らしながら、じわりじわりと潤んでいく。 静かに問い質してきた土方に、はどう返したらいいのか判らなかった。 宴会の席では吐き出せなかった不安を、――姐さん、なんて慣れない呼び名で声を掛けられるたびに 心の底から湧き出しては日毎に大きく膨れ上がりつつあった不安を、ぴしりと言い当てられてしまったのだ。 「図星か。どうした。何でもすぐにその気になって突っ走るのが、お前の数少ねぇ取り柄じゃねえか。 だってえのにここに来て尻込みたぁ、・・・・・」 らしくねえぞ。 そうつぶやき、土方の指が動き出す。ひゃあ、と甲高い声で叫び、の背筋がびくんと跳ねる。 唐突に肌をくすぐられたのだ。触られ慣れていない喉元の薄い皮膚を、爪先で掠めるようにして。 「〜〜〜っっ!」 「おら吐け。吐くまで止めてやらねえぞ」 「ふゃあぁ。ぅ、やぁ、や、くすぐった、ひ、ひじか、さ、〜〜〜〜ばかぁっ、ゃめ、っ」 「んだとコラ言いやがったな」 さっきは何も考えずに自然と肌に触れてきたような様子だった男の指は、今度は明らかに確信犯だろう動きをしていた。 首を竦めてやだやだと嫌がると、上から肩を掴まれる。それでも肩を揺すって拒んでいたら、 土方は余計に面白がって手を速める。はぞわぞわと身体を駆け廻る感覚に 涙が湧くほど苛まれ、大きく腰を捩じって拒む。寝返りを打って床に転がろうとしたが、 ――今の彼女は普段のすばしっこい彼女ではない。毛布でぐるりと簀巻きにされた、身動きがとれない状態だ。 「吐けませんっ。吐けませんってば!ひぁ、や、は、吐くほど呑んでないし、っっ」 「そっちじゃねーよ。つーかそっちの意味で吐きやがったらてめえ、擽り殺すぞ」 「っっ。だ、やだぁ、ね、やだ、ここ、やだっ、だって、誰か、来っ、〜〜〜〜・・・っ」 「来ねーよ。どーせそこで全員呑んだくれてんだ、誰も通らねぇよ」 「そ、そんなの、わかんな・・・っ!」 それでもどうにか土方の腕を掴み返し、猛烈なくすぐったさに身を捩り、 涙が滲んだ目をきつく閉じたはじたばたと毛布を蹴り上げる。短いスカートから下着が丸見えになったが、 そんなことを構う余裕すらなくひたすらに暴れた。しかしいかに彼女が暴れたところで、 二人の腕力差は実に歴然としたもので。いくら必死にぐいぐいと押しても、黒い隊服の腕はびくともしない。 追い込まれたがふぇええん、と悲鳴を上げているうちに、頭上が突然真っ暗になる。頭を下げた男が素早く 折り重なってきたのだ。 「ん・・・・・!」 拒む間もなく唇を奪われた。塞がれたことに驚く間もなく、手首をぱしりと摘まれる。 大人しくしてろ、とでも言いたげなやんわりした指の動きで、土方が力を籠めてくる。 何が起こっているのかを認める隙すら与えずに唇を割られる。酒の味がする舌で撫でられ、 口内へとあえなく入り込まれる。まだ覚えたてで身体が慣れていない、深く追い求められるキスに呑み込まれた。 「んっ、んぅ・・・・・・・・・・・・・・・・・ふ・・・ぅ、く・・・・・・・・・っ、」 息苦しくなったは隊服の胸元を押し返そうとしたが、抵抗はあえなく跳ね返される。 結局、土方のなすままにされてしまった。掴まれた腕も、男の脚で包まれた背中も、 重ねられた顔も、絡みつかれた舌も――触れ合っているところすべてが、こうしていると燃え上がりそうに熱くなる。 舌に這い移った煙草の香りが頭の芯まで侵入してきて、思考まで土方に埋め尽くされたような錯覚が起きる。 何も考えられなくなってきて、身体の奥で何かがとろりと蕩け出すのが自分でもわかって、 もうどうしたらいいのかわからない。 そんな泣きたくなるような状態になっているのに、土方の唇が今度は唇から喉元へと這い移っていく。 湿った熱さに肌を舐められる。ちゅ、と微音を鳴らして吸いつかれる。 吸われるたびに肌に弱い痺れが走って、はぁ、はぁ、と甘い吐息が上がり始める。ついには身体の震えが止まらなくなって―― 「ふぁ、ぅ、だ、だか・・・こういう、とこ・・・で、しちゃ、やぁ、っ・・・っ」 「はっ、言いやがる。とても嫌がってるようには見えねえぞ」 「〜〜〜ぅうぅ、ばかぁ、もぉ、や・・・っ!ひ、ひじか・・・さ、の、ばかぁっっっ」 しどろもどろな涙声で抗議する。するとの耳たぶへつうっと這っていった唇が、くくっ、と笑って、 「――」 「・・・っ!」 かり、と感じやすいところを甘噛みされる。笑いを含んだ囁きを、とどめとばかりに耳打ちされた。 ――へなへなと全身の力が抜けていくうちに、はここ数日の間に何度も思い知らされ、 その意外さに驚かされてきたとある発見に、またしても赤面させられることになった。 ・・・まさか土方さんが――あの土方さんが、こんなに子供っぽい意地悪をする人だとは思わなかった。 あの土方さんが。局内のほぼ全員に怖れられてる、おっかない鬼の副長が。まさかこんな風に 何かといえばじゃれてきたり、あたしをおもちゃにしてからかって遊びたがるようなひとだなんて思わなかった。 朝の食堂に詰めかけた全員の前で自分の女になれと請われ、わけもわからず頷いてしまった数日前。 あれからというもの二人きりになるたびにこんなかんじで、男のひととのこういうことに慣れていないあたしは 土方さんに困らされっ放しだ。 ――ほんの一カ月前のあの冷たい態度はどこに行っちゃったんですか。 思わずそんなことを叫んでしまったこともあるくらいだ。けれど土方さんに構われるのが嫌だとか、こわいだとか、 そういうことは一度もなくて。触れて貰えることは素直に嬉しい。むしろ触れられるたびに嬉しい気持ちが 強まっていく。車庫で車に身体を半分突っ込んでいたときみたいに、土方さんにちょっと触れられただけで とても口には出せないことを期待してしまうようになって、 ・・・・・そんな風になってしまった自分がすごく恥ずかしい。 だからついこんなふうに、まったくの無駄な行為だと知りつつ逆らってしまう。ばか、ばかと連呼してしまう。 後になって思い返すと自分でも子供っぽいなと気落ちしてしまう、可愛くない照れ隠しばかりしてしまうけど―― たぶん、そんなことだってこのひとにはお見通しなんだと思う。 だって、こうしてさんざんあたしをからかって楽しんだ後で、決まってあの鋭い目の奥は愉快そうに笑ってるから。 「〜〜〜〜〜っ、ギブ!ギブうぅぅぅ!!ぜんぶ!全部吐くからぁっ、も、やめて、っっ」 「よし。なら吐け。・・・・・・いや待て。言っとくが、吐くもん間違えた、なんてオチは要らねえからな」 「そんなオチあたしだっていやですっっっ」 喉元をざわつかせていた憎たらしい感触がついに止まる。は涙目で土方を睨みつけた。 ぜーはー、と丸めた肩を大きく上下させながら、荒くなった呼吸を色気の無い様子で繰り返す。 毛布にくるまれたままの腰から上は、冬だというのに汗だくだ。ところが頭上から彼女を見下ろす 土方ときたら、一人でのうのうと涼しい顔で。しかもその顔つきには、表情の薄さこそ普段とあまり変わらない ものの、どことなく可笑しそうな気配が滲んでいるのだ。澄ましきったその顔つきに却ってかちんと来てしまう。 ここは喉に指を突っ込んででも、放送禁止な汚物をお見舞いしてやりたい。 そんな馬鹿馬鹿しくもむっとした気分がめらっと持ち上がったが、はぷーっと頬を膨れさせて目を閉じる。 ゆっくりと息を整えていった。すぅーっと深く、身体の奥まで行き渡るような深い呼吸を繰り返し。 気持ちも呼吸も落ち着いたところで、土方さん、と呼びかけて彼を見上げる。 やや眉を寄せた、拗ねた表情を彼に向けて―― 「・・・・・・ちがうの。嬉しいから。嬉しすぎて。だから。・・・こわいの・・・・・」 「――・・・・・・・・・。あぁ」 「最初はね。嬉しいだけだったんです。屯所のみんなにおめでとうって言われるたびに、だんだん実感が湧いてきて。 ああ、食堂で言われたことは夢じゃなくって本当のことだったんだ、って思えるようになってきて。でも、・・・・・・・」 ぽつりぽつりと語ったが口を閉ざす。その頭を軽く叩くような無造作な仕草で、土方の手が被さってくる。 さっきまでは彼女を抑えつけていたその手が、さっきまでとは正反対な穏やかな動きで彼女を撫でる。 乱れた前髪を掻き上げて直し。頬に落ちていた髪を指先に引っ掛け、耳許へと流す。 たまに耳たぶや首筋に触れてくるその指が熱くて。 まだ肌に慣れていないその熱は、自然と溜め息が漏れてしまうような心地良さで。 怒り気味だった眉を下げて泣きそうな表情になっていたを、宥めるような優しい手つきで 続きを聞かせろ、と促してきた。 「・・・みんなが認めて、喜んでくれるから。誰も反対なんてしなくて、よかったなって、おめでとうって言ってくれるから。 だから嬉しくて。嬉しすぎて逆に不安になったの。・・・こんなあたしで。あたしなんかでいいのかなぁって。 ・・・みんなのことも。土方さんのことも。いつか、がっかりさせちゃうんじゃないかって・・・・・・・」 小声でたどたどしく話し終えると、は唇を噛みしめた。 瞼の縁に溜まった雫のせいで視界はぼやけて、土方の表情がわからなくなる。急に熱くなった鼻の奥がつんとしてくる。 噛みしめてこらえてもこらえても、泣きたい気分は波のように次々と打ち寄せてくる。 信頼して貰えることが嬉しい。 けれど嬉しさのぶんだけこわくなる。 期待して貰えることが嬉しい。 けれど期待されたぶんだけこわくなる。期待してくれた人たちみんなを裏切られた気分にさせてしまうに 違いないことを、――あたしはまだ、誰にも打ち明けていない。土方さんにさえ言い出せていないのに。 「こわい。こわいの。・・・・・・ここに来る前のあたしを知ったら。みんな、きっと、がっかりする。 土方さんだって幻滅する。あたしは。ほんとは。みんなに。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 (――本当は。みんなが知らない、本当のあたしは。 ・・・・・・・土方さんに。真選組のみんなに。――誰かに信頼して貰えるような、良い子じゃない。) そう続けようとして、やっとの思いで口を開きかけて。・・・なのに、喉が動かない。 声を出すことを拒んでいるかのように、急に引きつって固まってしまった。 どうしてなのか声が出ない。ぶるっ、と開いた唇に震えが走る。 はあわてて横を向き、土方から顔を背けた。涙のしずくがこぼれ落ちる寸前だった目をきつく閉じ、 毛布の中に顔を埋めた。ぽろぽろとこぼれ落ち、染み込んでいく水滴で毛布があっという間に湿っていく。 借り物を汚してしまう申し訳なさはあったが、毛布を手放す気にはなれなかった。 土方さんがどんな表情でこっちを見ているのかが気になる。すごく気になる。 なのに、それ以上に、土方さんの反応がこわくて。不安で。 ――とても顔を出す気にはなれない―― おびえたは毛布をきつく握り、外の気配を息を詰めて窺う。 ところが、・・・彼女へと投げかけてきた男の声は、拍子抜けするほどあっさりした口調で。 「――判った。そこまで怖気づかれたんじゃ、まぁ仕方がねぇな。てめーのこたぁ諦めて他の女を当たるか」 「っ・・・!?」 思わず「えっ」と叫んでしまいそうになった。は毛布の中で目を点にして、ぱちくりと瞬きを繰り返す。 言われたことが信じられなくて、あまりにショックで、ほんの数十秒前まで自分が泣いていたことすら忘れていた。 焦った顔で毛布を捲くり、涙で濡れた赤い目で土方を見上げる。すると、 「冗談だ」 「っっ!」 平然とした顔の男にぼそっと告げられ、逃がすか、とばかりに構えていた手に捕獲された。 がっ、と額を掴まれ、目覚めた時にされたのと同じように、軽々と上から抑えつけられる。 土方は素直なが動揺して顔を出さずにいられなくなるような言葉を餌に、彼女が顔を出す瞬間を 見計らっていたらしい。 「〜〜〜っひ、ひじかたさ、痛っ、いだだだだいだいいぃっ。ははは放してぇ、おでこ割れちゃうぅっ」 「おい、好きなほうを選ばせてやる。 このまま大人しく俺の話を聞くか。聞かずに暴れて擽り倒されるか。お前、どっちがいい」 「っど、どっちも、やぁっっっ」 ぶんぶんとかぶりを振って泣きわめく。すると土方は、ぱっ、と呆気なく手を放して。 「――俺ぁな。江戸に出てきた時分から、女に割く時間なんて無駄なもんだと決め込んできた」 「・・・・・・え、」 「真選組を立ち上げてこの隊服で出歩くようになってからってもんは、肩書き目当てに寄って くる女も多かった。俺にしてみればそんな女のほうが気が楽だ。そういう現金な奴のほうが 別れ際の後腐れがねぇ。なまじ気に入った女でも見つけちまって、そいつに情でも移ったら面倒だしな」 まぁ、つまりはさっき武田が言ってやがった通りの薄情者だったってぇことだ。 淡々と語る土方を見上げ、の動きがぴたりと止まる。 あまり感情の籠っていない声が、これまで一度も口に出すことがなかった彼の本音らしきことを ありのままに淡々と、しかも突然に切り出してきたのだ。 息を詰めて身構える彼女を見下ろし、土方はばつが悪そうに眉根を寄せた。じきに口端に薄い笑みを 浮かべると、額に乱れかかっていた女の髪をこめかみへ流すようにして撫でつけていった。 「そんな調子だ、決まった女を傍に置くつもりなんざ毛頭無かった。ところがだ。 捨て猫みてえに道端に転がってたおかしな女を拾っちまってからこっち、思ってもみねぇ番狂わせ続きでな」 「――・・・・・・・・・、」 「いくら邪険にしても諦めようとしねぇそいつのおかげで、すっかり調子を狂わされた。 ・・・まったく、俺をここまで振り回すたぁ、とんでもねえ女がいやがったもんだ」 妙に実感が籠った口調でしみじみとつぶやき、喉奥に湧いた苦笑をわずかに漏らす。 自分を見上げてくるの放心しきった顔が可笑しかったのだ。大きな瞳がこれ以上ないほどに見開かれ、 表情をかちんと固めている。 思いがけなく漏らされた、土方の本心らしき言葉。初めて聞かされたその言葉に、は瞬きすら忘れるほど驚いていた。 「・・・・・。ここに居るのは誰だ」 笑みに細めた目を向けて問いかけながら、頬へ張り付いていたの髪を指先で流す。 なめらかで感触の良い髪を梳きながら、身じろぎすらしなくなった女の頭を宥めるように優しく撫でた。 「何があっても俺の傍を離れねえ。俺の前で、もう一歩も引いてやるかって顔して、そうほざいた奴ぁ誰だ。 俺の凝り固まった思い込みまで木っ端微塵に叩き壊して、ここに居座ってんのは誰だ。 どこぞのよく出来た女じゃねえ。 慣れねえもてはやされ方したってだけで尻込みしちまう、臆病者で泣きっ面の情けねえ女じゃねえのか」 昼間は常に鋭い眼光を周囲へ向けている眼はいつになく和んだ様子に細められ、可笑しそうに笑っていた。 皮膚が硬くて力の強い指先が、の目尻に触れてくる。 すこし引き攣れて肌が痛むくらいの強い感触で目元をこすって、こぼれた涙を拭っていって。 「いいか。俺ぁここにお前以外の女を据える気はねえ。 ・・・もしもお前が俺に愛想を尽かして、ここから逃げ出すようなことがあったとしても、だ」 その言葉を目を見張って聞き届けたは、ふにゃりと崩れた情けない顔に表情を歪める。 何か言いたげにふわりと解けた唇が、かすかに震えた。 「・・・・・・・・。はじめて、ですよね・・・?」 「ああ?」 「はじめてです。土方さんが。あたしに。・・・そういうこと、話してくれるなんて」 「――そうか?」 「ふふっ。そうですよ」 気付かなかったんですか。 肩を竦めてくすくすと笑う。細められた目は笑っているのに、は今にも泣き出しそうな顔をしていた。 胸に湧き上がって喉から溢れ出しそうになっている感情を噛みしめこらえるかのように、 震えが収まらない唇を引き結ぶ。涙に濡れて輝きを増した瞳が、まっすぐに土方を見上げてきて。 「・・・・・・・・・土方さん。ちょっとずつで。・・・ううん、ちょっとだけでいいの。 ほんの少しだけでいいから、あたしのこと。 ・・・すきに、なって、・・・くれますか・・・・・・・・・・?」 ひどくせつなげな、けれど夢心地な気分の中を漂っているような、ぼうっとした表情でがささやく。 土方の隊服の肘あたりに触れ、袖にきゅっと縋りついた。 心細げに懇願してくる女の表情に目を奪われた土方は、自分の脚上を覆った長い髪に触れようとしていた手を止める。 ふっと息を呑んで彼女を見つめた。 自分の口からほろりとこぼれたその言葉が、土方の耳にはどう聞こえたのか。 そんなことはおそらく判っていなさそうな、扇情的でとろりとした表情で触れてくる女に目を見張る。 二人は黙って見つめ合う。やや間を置いてからは急に我に返り、涙に濡れた大きな瞳をぱちりと見開き。 「・・・・・・っっっ。す。すいません、図々しいこと言っちゃって。い。今のは、ね?ちが、ちがうの、ほら、えーーとぉ、・・・っ」 無言の静けさが気まずくてとりあえず謝ってはみたものの、続く言葉が浮かばない。 ・・・・・・・・・・・・・なんで。あたし、どうしてこんなことを。 土方の話の腰を折り、筋道をがくんと90度逸らすようなことをどうして言い出してしまったのか、 自分でもさっぱりわからなかった。かーっと頬を染め上げ、縋っていた隊服の袖をぱっと離す。 離した途端に土方の眉がびくりと動き、表情が不機嫌そうに曇っていった。なぜか頬をむにっと掴まれ、 さらにきつい捻りを加えられて、 「っっの野郎ぉぉぉ・・・・・・!」 「っったたた、いた、痛いぃ!」 「おい言ってみろ、お前、今の今まで何を聞いてやがった。一体俺の話のどこをどう聞いたらそうなるってんだ? 何がちょっとだけだ、ざっっっっっけんな。いくら酔ってるたぁいえてっっめええええ、人の話をろくすっぽ 聞いてねえじゃねえか・・・!」 「ふぇ!?う、ぁ、あのっ、や、ややっ、やっぱり。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だめ、・・・ですか?」 いかにも自信無さげな、しかられた子供のような目がうるうると土方を見上げてきた。 はしゅんとした表情で毛布に半分顔を隠して、 「そっ、そーですよねもちろんだめですよねっっ。す、すみませんでしたパシリが図々しい事言っちゃって・・・!」 「だからそれが聞いてねえってんだ・・・!」 勝手に思い込むんじゃねえ、馬鹿が。 眉をやや吊り上げてむっとしている土方が、すっかり紅潮したの頬をぺちりと叩く。 かと思えば、その手で彼女の頬から首筋へを撫で始めた。 「ひ・・・、っや、やめてくださ、ってば、それ、くすぐった、〜〜〜・・・っ」 「・・・ったく、何だってんだ。毎度毎度、的外れな早合点しやがって」 「え、なっ、何ですかぁ、早合点って、な、ひゃ、ぅ・・・!」 最初はただくすぐったくさに身じろぎしていただったが、土方の手に髪を掻き分けられたり、耳を弄られたり、 指で唇をなぞられたりするようになると、次第にぼうっとした目つきになり、困惑しながら土方を見上げた。 ――自分の手とはまるで違う手が。 ごつごつとして骨太な男の手が、の肌の感触を確かめるかのような手つきで撫でてくる。 この先にどんなことが待っているのか。それをにはっきりと意識させようとしている、 妙に間を持たせた手の動き。それを感じ取りはしたのだが、はこんな時の男にどう応えればいいのかがわからない。 こっちを見ろ、と促すように動く男の手を、深く睫毛を伏せた目で恥ずかしそうに見つめる。 土方はそんな彼女を瞬きもなく見つめていた。注がれる視線の強さと、鋭い眼の奥で燻っている ちょっとした不機嫌さにも似た何かに困ったがうつむこうとすると、人差し指の先でくいと上向かせて。 かあっと火照った女の顔を、大きく広げた手のひらにしっかりと納めた。 耳に掛けていた髪の流れを梳くようにして、硬い指先がすうっと髪の奥に潜っていって。 「っっ。や、そ、そこ、くすぐった・・・っ」 「おい酔っ払い。そのガラクタ紛いな頭の中身よーく振り絞って考えろ。俺は今、お前に何て言った」 「・・・・・・・・・・っ?」 「思い出せ」 俺ぁ一度でも駄目だと言ったか。 呆れすぎてもはや怒る気にもなれず、すっかり脱力しているような掠れ声が苦々しい溜め息混じりにつぶやいた。 髪を撫でながら後ろ首へと滑り込んできた手に軽く頭を持ち上げられる。 あ、とつぶやいた唇に温かさが触れる。 姿勢を低めて覆い被さってきた土方に、ゆっくりと呼吸を塞がれた。 んっ…、と甘い吐息が混じった声を零したは、熱に浮かされているような蕩けた表情で目を閉じる。 すこしずつ、すこしずつ。 反応を窺うようにして啄ばまれた。 唇の熱さと、煙草の香りの濃さに眩暈がする。心臓がどきどきと、壊れそうなくらいに強く弾んで。 「―― 誰も駄目とは言ってねぇだろうが・・・」 唇が一度離れ、ふたたび奪うようにして重ねられた瞬間に囁かれた、独り言のような言葉が嬉しくて。 ――は閉じた目尻に光る雫を滲ませて、こくりと頷く。 自分を背中から抱え上げようとして動く逞しい腕の感触と、その腕が自分と擦れるたびに鳴る 衣擦れの音に包まれる。 ( 土方さん。すき。 ) 胸の奥で小さくつぶやき、ぎこちない仕草でそうっと縋れば、涙が自然と湧き上がってきて 瞼の裏を熱くした。荒めな息遣いで絶え間なく繰り返されるキスに翻弄されて、頭の芯まで蕩かされていく。 ・・・別に何かが劇的に変わったわけじゃない。 遠慮していて言い出せなかった、ちいさな悩みを打ち明けただけだけれど。 でも。たったそれだけなのに。 たったそれだけのことで、昨日よりも少しだけ土方さんに近づけた気がする。 ――これからもこんな夜が。 こんな夢みたいな毎日が、ずっと、ずーっと、続くのかな。 そんなことを霞む意識の狭間でうっとりと思いながら、煙草の香りがする温かい胸にしなだれかかる。 隊士たちの笑い声が飛び交う客間の未だ目映い明るさを背に受けて、二人きりで過ごす幾度目かの夜は ひめやかに静かに更けていった。
「 片恋方程式。58 」 text by riliri Caramelization 2012/07/23/ ----------------------------------------------------------------------------------- next