「――ったくよー、俺らだってまだ飯の最中だってのによー。 しかし真選組初の大事件だから局長に知らせて来いって言われてもなぁ・・・、おい、どこ行きゃいいんだ?」 「今朝は寝坊してたらしいぜ。さっきうちの隊長が厠に走ってくとこ見たってよ」 「ははっ、っだよそれ。じゃあお前は部屋見て来いよ、俺は厠に行ってくる!」 先輩たちに命じられた新入りの隊士二人があたふたと言い合い、近藤を探しに食堂の戸口から飛び出していく。 ばたばたと廊下を駆けていくその後ろ姿を、彼は黙って見送っていた。室内の爆発的などよめきは 未だ収まることがない。閉め忘れたままになった扉の向こうからがやがやざわざわと流れ出てくるのは、 鬼の副長が人前で女を口説くという前代未聞の現場を目撃し、興奮しきった男たちが起こした声の渦だ。 直属の部下であるに対して「俺の女になるか」と言い放った土方がその場の全員の注目を浴び、 それでも涼しい顔を崩すことなく去ってから、ほんの一分ほど後のこと。 ――今朝早くに武州から戻ったばかりの少年の姿は、食堂内からわずか壁一枚を隔てた屯所の廊下にあった。 室内のざわめきや話し声を鮮明に伝えてくる薄い壁に背中を預け、沖田は天井を見上げていた。 淡い色をした澄んだ瞳ははっきりと見開かれ、じっと天井を見据えたまま。まるで彼にしか 見えない何かの景色がそこに存在しているかのように、どこかうつろなその視線は頭上の一点に留まっている。 別に、失意のあまりに立ち尽くしているわけでもない。ましてやこの屯所を上げたお祭り騒ぎに水を差さないように、 ――などと、彼らしくもない遠慮をしているわけでもなかった。 ・・・そう。ただ、なんとなくだ。なんとなく身体が重いせいだ。だから、ここから動く気になれなかっただけだ。 沖田がここに立ってから、すでに五分ほどが経過している。食堂から漏れ出ていた妙なざわつきが 何なのかを中へ入る前に見極めた彼は、室内の奴等に気付かれないよう壁際へと身を寄せた。 その時に丁度漏れ聞こえていたのは、まるでいつもそう呼んでいるかのような平然とした声での名を呼び、 自分のものになれ、と持ちかけていた土方の声。それからしばらく経って聞こえたのは、困惑しきっている 様子の女が「はい」とつぶやく小さな声だ。壁越しに響いたその声を耳にしても、予想していたような感慨は 呆気ないほどに湧かなかった。胸が潰れそうな悲しさも、愕然とする気持ちも、ちょっとしたほろ苦さすらも 生まれなかった。けれど。 ――そりゃあそうだ。そんなもん、当然じゃねえか。 (いずれは野郎のものになる。野郎はの思いを受け入れる。) 沖田は彼等が迎えるはずの結末を、当の本人たちよりも先に知っていた。 知っていたから、とっくに覚悟はつけていた。屯所を離れ、武州へ向かった年末のあの日。 屯所の庭先でを抱きしめたあの日には、遅かれ早かれこんな日が来ると覚悟していた。 ただ――来るべき時がやって来た。ここに在るのはそれだけのこと。あらかじめ判りきっていたことだ。 背後の食堂内で繰り広げられている賑やかな景色も。その賑わいには加わろうとせず、少し離れた場所から 傍観している醒めきった自分も。 どれも彼の想像図と寸分違わない景色で、 ――だというのに彼の気分を沈ませ、息苦しくさせる。 右へ視線を流してみれば、廊下を折れて遠ざかっていく隊士たち二人の背中が映る。 それから左へと視線を流す。自分と並んで壁にもたれている痩せた身体つきの隊士を、 眉を吊り上げて不審そうに眺めた。やがて屯所の玄関口へ向かおうと、壁から身を起こしかけたのだが―― 「――おやまぁ、これからお出掛けですか。 どちらへ行かれるんですか沖田さん。そろそろ幹部会議の時間ですよ」 彼の隣に居たその隊士が、そろばんをパチパチと弾いていた手を止めた。首元に巻いた白のスカーフに、 ベストに上着を重ねた隊長格用の隊服姿。見るからに人の良さそうな顔をした中年男は、細い目元をさらに細めて にこりと微笑む。沖田の里帰りに同行し、彼と同じく今朝江戸へ戻ったばかりの六番隊隊長、井上だ。
片恋方程式。 56
「いや困ります。困りますねぇ沖田さん。武州から戻った早々サボりを決め込まれたんじゃ、 お目付役の私まで連帯責任を取らされちまいますよ」 「・・・・・何でェ、頼りにならねーお目付役だなぁ。そこを適当にごまかして丸く納めるのが 源さんの年の巧ってもんじゃねーんですかィ」 「いやぁ、そうきましたか。ははは、困りましたねぇ丸投げですか」 拗ねたような目つきを向けてしれっと我儘を押しつけてくる沖田は、彼より二回りほど年下だ。 しかし井上は別に気にした風もなくにこやかに答える。口では困った困ったと連呼しているのだが、その笑顔に 困った様子は微塵も感じられなかった。玄関先へ向かおうとする沖田に合わせ、彼も廊下を歩き出す。 二人は近藤が武州で道場を構えていた頃からの顔見知りでもあり、お互いにそれなりに気心が知れた仲でもある。 仲間である隊士たちともあまり深く関わろうとせず、人を寄せつけないところがある沖田だが、 幼い頃から傍にいた井上のことは、近藤や土方と同様、どこか別格な存在と見なしているらしい。 親子ほど年の違う井上にいくら構われても、何かと世話を焼かれても、特に嫌がる様子もなく、邪険にするような こともなかった。そのあたりが武州へ帰京する際のお目付役を任じられた理由だろう。 近藤がそうだと口にしたわけではないが、井上本人は言われるまでもなく心得ていた。 「そこまで期待されたんじゃねえ。まぁ頑張ってみるとしますか。今日の副長は間違いなく機嫌が よろしいようだし、あの様子なら、多少の問題には黙って目を瞑ってくれそうですからね」 食堂での大騒ぎを背にしてさっさと廊下を去っていった土方の姿は、井上ももちろん目にしていた。 武州の貧乏道場時代から続く長い腐れ縁のせいか、井上には歩き方ひとつで土方の機嫌が判る、という 妙な特技が身についている。ちなみについさっき眺めた土方の様子はといえば、付き合いの長い井上が 物珍しさに思わず目を見張る、…という、相当な上機嫌に入る部類のそれだった。思い返し笑いに肩を竦めながら、 わざとそんなこともほのめかしてみる。話しながらちらりと隣を盗み見たが、――沖田は眉ひとつ動かしていない。 隊服の裏ポケットから音楽プレイヤー用の小さなイヤホンを探り出し、それを耳へと引っ掛けていた。 「それにしてもめずらしいじゃないですか。沖田さんが朝食抜きだなんて」 「まあねぇ。武州に居た十日で、すっかり源さんの奥さんの美味い手料理に 舌が慣れちまいましたからねィ。ここの食堂の飯なんて味気なくって、食えたもんじゃねーや」 「それは嬉しいお言葉です。帰ったら妻にも聞かせましょう、きっと喜びますよ」 我が家に逗留してもらった間、妻はずっとあなたの食欲の無さを気に掛けてましたからねぇ。 聞えよがしにつぶやいてみたが、反応の薄さに変わりはない。隣を歩く少年の 澄ました横顔をそれとなく確かめ、井上は穏やかな調子で問いかけた。 「ところで沖田さん。いいんですか」 「何ですかィ。ああ、心配しなくても飯なら適当に食いますぜ。これから外で食ってくるんで」 「いえいえ、朝食の話じゃありません。このまま引いたら後悔しやしませんかって話です」 一から十までを言う必要はなかった。自分がすべてを語らずとも、勘の良い沖田は話の矛先がどこを 向いているかを汲み取ってくれることだろう。・・・まぁ逆に、その勘の良さゆえに 沖田さんがひらりと態度を翻して「そいつは一体何の話ですかィ」と軽く誤魔化されて 終わってしまうことはあるかもしれませんがねぇ。 そんなことを思いながら隣の少年の反応を待ってみる。しかし沖田が逃げの態度を打つことはなかった。 少なくとも誤魔化す気はないようだ。色素の薄い大きな瞳が、相手の真意を探ろうとしているような目つきで 数秒ほど井上を眺め回す。ややあってから、ふっ、と薄い唇の端を吊り上げた。彼の年頃には不相応な 量り知れなさを秘めた目が――、背筋に微かなうすら寒ささえ覚える静謐を秘めたその目が、 可笑しそうに細められる。 「へーぇ。珍しいや、源さんがんなことに首突っ込んでくるたぁ」 「ええ。たまには沖田さんとこんな話をするのもいいかと思いまして」 私みたいな干からびた中年男が言ったんじゃ、どうも口幅ったく聞こえちまいますがね。 色を変えた沖田の目つきを気に掛ける様子もなく、井上はのんびりと頭を掻く。 まだ年幼い自分の子供に何かを言い聞かせるときと同じような、柔らかな口調で話しかけた。 「いいんですか、ここで黙って身を引いても。 あなたが黙って見ているだけじゃ、さんは絶対にあなたの思いに気付きませんよ。 男どもからの好意にはびっくりするくらい鈍いですからねぇ、我等のお姫様は」 「いーんでさぁ、それで」 「いいんですか何もしなくても。このまま不戦敗で終わっても」 「案外しつけーなぁ源さんも。いいったらいーんでさぁ。 ・・・・・・・・いーんでさぁ、俺は。が笑っていられるんならそれだけでいい。今は他に何にもいらねーや」 それを聞いた井上が困ったように眉をひそめて立ち止まり、遠慮がちな苦笑を浮かべる。 これでいいのだと繰り返した割には、沖田の声音は力が無くて自嘲気味だ。微かな音を外へ漏らす イヤホンの位置を直しながら普段通りのやる気の無さそうな態度で歩いていく細身な姿を、井上は黙って追いかけた。 「源さん。俺ぁねぇ、時々わからなくなるんでさぁ」 「・・・?ええ、何がです?」 「俺ぁずっと、が早くフラれちまえばいいと思ってた。あの野郎の態度一つで一喜一憂する女を見せられんのぁ 姉上だけでもう真っ平だ。んなもん見たってムカつくだけでさァ。だから姫ィさんが野郎のことで落ち込んでる時は、 慰めてやりたいとか、励ましてやりてえとか、そんなこたぁ一度も思わなかった。姫ィさんが野郎のことで 傷ついてたって、別に構わねぇと思ってた。今にも泣き出しそうな面してても、見ねぇふりして放っといたんでェ」 姉上の存在を知って落ち込んでいるにも、俺は何もしてやらなかった。 それどころか、傷ついているをもっと傷つけるような真似もした。 あの野郎と姉上は今も互いに思い合っている。今でも秘かに連絡を取り合っている。そんな大法螺も吹き込んだ。 姉上から野郎へ宛てたものだとうそぶいて渡した、中身が白紙の手紙。副長室の引き出しに 仕込んだ昔の写真。――どれもが人を疑わない「姫ィさん」にしか通用しそうにない、単純で見え透いた 小細工だったけれど。 「けど、姉上が逝っちまって。俺ぁ何にも手につかなくなって、二月の間、何でも姫ィさんに甘えっ放し。 姉上の一件で塞ぎ込んだ野郎は、案の定、姫ィさんに辛く当たるようになった。俺も大概だが野郎も相当な もんでェ。二人揃って惚れた女におんぶに抱っこだ。・・・おまけにその女を泣かせてばかりで、どーしようもねえや」 「そうですかねぇ、そんなに卑下したものでもないでしょう。 知ってますか沖田さん。いい女を泣かせられるってのは色男だけの特権なんですよ」 私のような十把一絡げの凡人にとっては、まったく羨ましい限りです。 芝居がかった様子で溜め息をつき、肩を竦めてみせる井上に、沖田がわずかに視線を送る。 かしゃかしゃと弱いノイズ音を漏らしていたイヤホンを少しずらした。 朝の廊下を並んで歩く隊長格二人に、すれ違う隊士たちは軽い会釈で挨拶を送る。その一人一人に おはよう、と声を掛けながら進む井上を、彼は斜め後ろからじっと眺めた。 「さんは優しいお嬢さんだ。苦しんでるあなたを放っておけるような子じゃありませんよ。 彼女は沖田さんの力になろうと一所懸命だっただけで、あなたに迷惑を掛けられているだなんて夢にも 思わなかったんじゃないですか」 話しながら角を折れれば玄関口はすぐ目の前だ。独り者だらけの真選組では数少ない自宅通勤者たちが ちらほらと玄関を潜って来る姿が見える。すれ違った彼等に挨拶の声を掛けていた井上は、おや、と つぶやいて背後を振り向く。隣から流れ出ていたノイズ音がいつのまにか消えていた。 やや後ろにあったはずの沖田の気配も消えている。首を傾げながら廊下を戻ってみれば、 沖田は角を曲がる手前に立っていた。うつむいて顔を伏せ気味にした少年の細い肩に 耳から外したイヤホンが垂れ下がっていて、そこからは流行りに疎い井上には馴染みのない、 テンポが速くて賑やかな音楽が流れ出ていた。 「どうしました沖田さん。外へ食べに行くんじゃ――」 「わかってまさァ。・・・・・・だから情けねーんでェ」 「・・・・・・、」 そうつぶやいて薄く笑った沖田に、井上は何も告げなかった。 ただ彼の許まで戻って、うつむいた蜂蜜色の頭をじっと眺める。何も言われないことが 却って息苦しくて、沖田は伏せた顔をわずかに歪めて床を睨んでいた。 ――俺はに救われた。なのに俺はどうだ。姫ィさんに何をしてやった。 もしもあの日――姉上が逝ったあの日。がビルの最上階まで駆け上がってこなかったら、 俺はあのまま煙に巻かれて死んだっておかしくなかった。あの時からは俺の傍を離れなくなった。 俺の様子ばかり気遣っていた。葬儀中も葬儀の後も、は何かと泣いていた。目元にハンカチを当てて 啜り泣いている隣の姿を、疲れと寝不足で頭の中が真っ白になっていた俺は、まるで他人事のような 呆然とした気分で眺めていた。葬儀が終わった途端に張りつめていた何かがぷつりと途切れて、 その後のことはよく覚えていない。多分、そのまま眠っちまったんだろう。気が付いた時には 間近から近藤さんの声がしていた。 聞き慣れた太い声の響き。小さく潜めた、けれど楽しそうなの笑い声。しゅんしゅんと上がる 湯気の音の柔らかさ。身体を覆った暖かさ。 回りに漂っているのはどれもほっとする心地がいいものばかりだ。まだ夢ん中にいるのか、と 錯覚しそうになるその心地良さに何も考えず浸っていたくて、耳に入ってくる音を意識が遮断しかけた、 その時だった。 『 はそれでもトシが好きか 』 あれはいかにも近藤さんらしいうっかりだった。常々思っていたことをそのまんま口に出しちまったらしい。 がばっと畳から起き上がり、すまんすまんと謝り倒し、えらくあわてふためいていた近藤さんを黙らせたのは、 ほんの短い『はい』という一言で。 『好きです。・・・自分でも困っちゃうんですけど。それでも好きなんです』 それを聞いた時には、心臓に冷水を流し込まれたような冷えた感覚に凍らされた。 が野郎に惚れている。そんなこたぁ勿論、とうの昔から知っていた。なのにのあの言葉が 頭から離れなくなった。その後はもう一度寝つこうにも寝つけなくなり、だだっ広い客間で 近藤さんの寝息を聞きながら、虚しい気分で何度も自分に言い聞かせた。 が野郎のことを気にしていないはずがない。俺に構ってくるのは今だけだ、と。 けれど次の日も、次の日も、――その次の日もだ。 いつまで経っても、は俺の傍を離れようとしなかった。内心では野郎のことが気掛かりだったんだろう。 ことごとく無視を決め込んでいた野郎の姿を目で追うの表情からも、そんな素振りは見え隠れしていた。 それでもは俺の傍を離れなかった。自分だって朝に弱い寝坊体質のくせに、毎朝早くに人の部屋へ 乗り込んできては起きろ起きろと急かしたり。屯所中から他愛もない話ばかり拾ってきては、 俺に話して聞かせたり。籠りがちになる俺を宥めて、外へ引っ張り出してみたり。いつでもは笑っていた。 野郎のせいで曇りがちだったあの笑みは、けれど、確かに俺のための笑顔だった。 笑おう、笑わなきゃ、と無理をしているような、どこか不自然な表情だった。 でも。 それだってよかった。ぎこちない偽物の笑顔だって、何だってよかった。 ――それでもあの時の俺には必要だった。 俺のためだけのの笑顔が。俺のためを思って傍にいてくれるが。 姉上を失くして何処かが壊れちまっていた俺には、どうしたって必要だった。そんな毎日が二ヶ月も続いて、 姉上を失くした痛みがじわりじわりと癒えていくうちに、少しずつ考えるようになった。 俺はに救われた。 なのに俺は――俺のために泣いてくれたあの姫ィさんに。二ヶ月も付きっきりでいてくれた姫ィさんに、一体何をしてやった? (早く野郎にフラれちまえばいい。昔の姉上を見ているようでムカつく。) そんなことばかり思って何もしてやらなかった奴が。野郎に辛く当たられて苦しそうにしている姫ィさんに、何を―― 「――源さん。やっぱりわからねーや」 しばらく黙りこくっていた沖田がくすりと笑い、隊服の腰許へ手を伸ばした。 無為に音を奏で続けていた音楽プレイヤーが止まって、耳につくノイズがふつりと途絶える。 髪色の明るさでやや透けてみえる伏せた目は、可笑しそうな口調に反してどこか沈みがちだ。 「といい姉上といい、人が良いにもほどがあらぁ。 二人とも自分のことはそっちのけで俺の世話ぁ焼いてばかりで、見返りも何も求めてこねぇ。こっちは やってらんねぇや。・・・・・・何なんでェ。一体何が嬉しくってあんなに笑っていられるんだか、わかりゃしねえ」 俺は何も返せねえのに。何もしてやってねえのに。 だってぇのに、あの二人に何か向ければ返ってくるのはいつも笑顔だった。 「・・・姉上がいなくなってからというもの、そんな俺らしくもねーことばっか考えてたせいですかねぇ。 このままいけば野郎は必ずを突っ撥ねる。は姉上の二の舞を踏んじまう。・・・そう思ったら どうしたわけか、いてもたってもいられねえくらいムカついたんでェ。これまではがこっぴどくフラれ ちまえばいいって思ってた俺が、そうはさせるか、冗談じゃねえやって思うようになっちまってた。 野郎にを奪られるのは癪だ。――けどねぇ、には姉上みてぇな思いはさせたくねーんだ。・・・絶対に」 俺は土方さんを恨んでた。野郎が姉上をあっさり捨てやがったから。姉上が奴を恨んじゃ いなくても、俺が許してやるかと決めていた。だけど姉上が逝っちまったら、あれほど根深く 腹ん中に積もってた恨みが嘘みてぇにすーっと引いちまった。例の事件のせいで、 これまでよりも野郎の腹積もりがちっとばかし透けてみえるようになったせいもあったかもしれねぇが。 「・・・ははっ。あーあぁ、やってらんねぇや。つまるところが、俺が好きなってのは あの野郎ありきのなんでェ。野郎を諦めちまったなんて俺の姫ィさんじゃねえ。とても見ていられねーや」 姫ィさんには笑っていてほしい。俺が姫ィさんを見ていられる限り、ずっとだ。 だから武州に向かった年末のあの日、柄にもなく背中を押してやるような真似をした。 あの二人がこの先どうなるか。そんなことまでは俺の知ったこっちゃねえし、俺が居ねぇうちに二人で どうとでもなりゃあいい。 そんなことを思いながら半分自棄になってしでかした世話焼きは、食堂での二人の様子を見る限り、 思いのほか早く作用したのかもしれなかった。 「――これでいーんでさぁ。姉上とあの密輸商との一件で、土方さんには色々と借りが溜まっちまった。 そのぶんも合わせて、ここは花ぁ持たせてやりまさぁ。まぁ、あの朴念仁に花ぁ持たせるのも今回限りですがねィ」 「おやまぁ、これまためずらしいこともあったもんですねぇ。あなたらしくもない殊勝さだ。 幼い頃から何かと土方さんに張り合い続けてきた沖田さんが、あの人相手に戦わずして負けを認めるだなんて」 「・・・なんでェ、どーしたんです。今日はえらくけしかけてくるじゃねーですか源さん」 「おや、バレましたか。実は次回の会議前に賭けるネタが見つからなくてですねぇ、さて何か皆が乗ってくる 面白い話題はないかと。ここは是非とも沖田さんに一暴れしてもらって、あの二人の間に波風立てて欲しいところです」 などととぼけた調子で訴えながら、井上は抱えていたそろばんとメモ帳を持ち出してみせる。 表紙に「閲覧禁止」と書かれた古ぼけたメモ帳。それは、朝の幹部会議の際に皆の息抜きとして 行われてきた賭け事の収支台帳だ。 「成程ねぇ。妙に熱が籠ってると思ったらそーいうことですかィ。いやぁ、それもなかなか面白そうだ。 けど今回は遠慮しときやすぜ」 んなことしたって姫ィさんを困らせちまうだけだ。 言わずに呑み込んだ言葉を腹の中まで押し戻す。じゃあ、と手を上げ再び歩き出した沖田に並び、井上が声を掛けてきた。 「いけません。いけませんねぇ沖田さん。いつも率先して土方さんを遣り籠めようって人がどうしちまったんです。 殊勝なあなたなんてどうにもあなたらしくありませんよ。ええ、らしくなくって笑っちまいますよ。 ミツバさんも今頃空の上で、私と似たようなことを思って笑っていらっしゃるでしょうねぇ」 「あぁ、そーでしょーねィ。俺が野郎と取っ組み合いになったって、けらけら笑って眺めてるような人でしたから」 話す合間に浮かんできたのは、幼い頃に眺めた姉の笑顔だ。 病に侵されて入退院を繰り返す前の、まだ顔色が良くて頬もふっくらとしていた姉上。たまに道場へ遊びに来ては、 何がそんなに楽しいんだってくらいに顔を綻ばせて、俺とあの野郎の喧嘩を愉快そうに眺めていた。 「ええ、そうですねぇ。・・・ですがねぇ沖田さん」 肩に落ちていたイヤホンを手繰って、音を溢れさせているそれを耳に差し込む。 小さな栓で塞がれた聴覚は、外の音を僅かにしか拾わなくなる。いつにない長話が気まずかったせいもあって、 沖田は足を速めようとした。だが―― 「早くにご両親をなくし、あなたの親代わりを務められたあの方なら、きっとこうも思うでしょう。 好きな女性を思い遣れるようになったあなたが誇らしい。自分以外の誰かを自分以上に 大切に出来るようになったあなたが嬉しい、とね」 「――・・・・・・・・・・・、」 頭の中を隙間なく占領する大きさの音でも、背後からついてくる声の響きは遮断しきれていなかった。 一字一句漏らさずに聞いてしまった、意外な言葉。戸惑った沖田は、その言葉に縛られたかのように足を止める。 イヤホンの片方を外しながら振り向くと、彼とは親子ほども年が違う六番隊隊長はゆっくりと、けれど たしかに頷いてみせた。我が子を見守る親のような表情で、にこやかに彼を見つめると。 「沖田さん。――いえ、沖田隊長。またひとつ成長なさいましたね。 本当に残念でなりませんよ。今のあなたをミツバさんがご覧になったら、さぞかし喜ばれたでしょうに」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、」 そう言った井上に大きな瞳を見開くと、半ば呆れたような思いで沖田は彼を眺めていた。 眺めているうちに妙なことが起きた。なぜか急速に眼の中が熱くなっていく。胸の奥にぽつりと、 ほんの小さな何かが――淡い火のような、暖かな何かが灯っていた。 「・・・・年の巧ってのもたいしたこたーねぇもんですねィ」 「はい?」 「姉上が何を喜ぶってんです。・・・そんなんじゃねーや。そいつは買い被りすぎってもんですぜ、源さん。 俺ぁただ、姫ィさんをあれこれ悩ませたくねーから。・・・だから、仕方なく野郎に勝ちを譲っただけだ」 手に違和感を感じて見下ろすと、軽く握り締めた指先には小さく震えが走っていた。 沖田は曇った目つきでその手を見つめた。身体がおかしなやるせなさに囚われていて、うまく機能していない。 そんな自分が不思議になってくる。笑って茶化してやろうにも腹に力が入らない。腹の中に湧いてくる何かを 懸命にこらえながら声を絞り出しているような、くぐもった声しか出てこない。 「ははっ。まさか。そんなはずねーや。・・・・・・・・・・・・・・、」 ・・・そうだ。そうに決まってる。そんなはずがねーんだ。 俺が姉上に何をしてやった。俺ぁ最後まで姉上の幸せを奪い続けた、どうしようもねえ弟だった。 頭の片隅で誰かがそう言って嘲笑っている。 ―― けれど、その一方では。そうじゃない、思い出せ、と別の何処かにいる別の誰かが告げてくる。 力強く言い聞かせてくる。 違う。そうじゃない。思い出せ。 姉上はそんなことで立ち止まる俺を認めなかった。思い出せ。 集中治療室で姉上に縋りついて見届けた最後の笑顔。残り僅かだった力をすべて使って伝えてくれた、最後の言葉は―― (そーちゃん。 あなたは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、) 最後に聞いた声が脳裏に甦ってくる。じわじわと目の中を浸していた熱はさらに温度を上げて膨れ上がっていく。 肩先に落ち、音を溢れさせているイヤホンのことはいつのまにかすっかり忘れていた。 沖田は井上と目を合わせる。色素の薄い大きな瞳はやや潤んでいて、長めの前髪の影でぱちりと瞬く。 頭の中で渦巻いている困惑がそのままに顕れた表情。他人に本音を見せたがらない彼にしては、珍しく素直な表情だ。 「こんなことくれーで。・・・・・・この程度で。・・・・・・・・・・・・喜んでくれるってんですか、姉上が」 「ええ、きっと手放しに喜ばれますよ。親にとって、子の成長に勝る喜びはありませんから」 半信半疑に尋ねれば、井上は大きく頷いて応えてくる。 「以前のあなただったら、すぐ食堂に飛び込んで副長に当たり散らすか、さんに詰め寄るくらいの ことはしたはずです。ですが今のあなたは違います。大切にしている女性の幸せを願って、自分の思いを押し殺して、 踏み留まっていらっしゃる。あなたはさんへの思いを通して、人を思い遣ることを学ばれた。 以前のあなたを考えれば、実に大きな成長じゃないですか」 「源さん」 「はい?」 「・・・たかがこれっぽっちのことで本当に喜んでくれるんですかィ、姉上は」 「ええ。保証します。子を持つ親の端くれとして、私が太鼓判を押しますよ」 「・・・・・・・・・・・源さんの太鼓判なんて当てにならねーや。そんなもんいらねーから飯奢ってくだせェ」 そう毒づいた沖田の顔に、どこか嬉しげにも見える苦笑いが浮かぶ。 喉のあたりには泣きたいような気分が入り混じっていたが、井上には気付かれないよう顔を逸らして 唇を軽く噛んだ。鼻先まで漂ってきていた湿った気分は、無理矢理に腹の中まで押し戻す。 「さぁて、そうと決まれば行きやしょーか。 俺ぁ角の定食屋の日替わり定食か二丁目のファミレスのハンバーグセットがいいや。あぁ、どっちも大盛りで」 「おや、食欲が出ましたか。それはよかった」 喜んでお供しましょう。 とぼけた調子の嬉しそうな声は、聞こえていないふりで受け流した。 沖田は音楽プレイヤーの音を止め、耳から外したイヤホンをぶんぶんと振り回して遊びながら玄関口へと歩いていく。 ――それは彼なりの照れ隠しだ。もっとも、笑顔でついてくる見た目以上に曲者な六番隊長には、 そんな子供騙しなど通用していないことは判っていたが。 「このまま昼までサボるのもオツですねぇ」などと、土方が聞いたら無言で殴ってきそうなことを 言い始めた井上と並び、沖田は玄関から出ようとした。ところが彼等の背後に、 うっく、うっく、うぐぅぅぅぅ、と嗚咽をこらえる男のむさ苦しい泣き声が漂い始めて。 「総悟ォォォォォ!!」 「あれまぁ局長、いつの間に」 振り向いた彼らの目の前を、ばばっ、と塞いで現れたのは近藤だ。沖田に飛びかからんばかりな勢いで 抱きつき、どどーっと流れまくっている涙で濡れた顔をぐりぐりと押しつけてくる。最初は呆気にとられていた 沖田だったが、自分より頭一つほど背が高くて過剰に男臭い局長にがっちり抱きつかれている状況を 流し目で確かめて仕方なく飲み込む。醒めきった目つきで近藤を眺め、はっ、と皮肉っぽく笑い飛ばした。 「やめてくだせェ近藤さん。朝っぱらから暑苦しいんでさぁあんたは」 「偉い、偉いぞ総悟ォォォ!!俺ぁ嬉しい、嬉しいよ!あんなちびっこかった小僧が なんだか知らねーうちにすっかり大人になっちまってよぉぉぉ・・・!」 「へいへいそーですかィ、そいつぁよかった。 つーかあんたももういい年こいた大人なんだから人に鼻水擦りつけるのはやめてくだせェ」 ぐぐぐぐぐ、と馬鹿力全開で沖田を抱きしめ、近藤は大声でむせび泣いている。 号泣している男はなぜか未だに寝間着姿だ。しかも昨夜の遊興が余程に派手だったのか、全身が妙に酒臭い。 あーあぁ、と皮肉っぽい目で彼を眺めていた沖田だが、やがて少しずつその表情を和らげていった。 十日ぶりに見るこの情けない姿も、このうっとおしい暑苦しさも。――今はただこそばゆくて懐かしくて、嬉しいだけだ。 「飯食いに行くんだろ、俺も行くぅぅぅ! 総悟っっ、今日は全部俺の奢りだから!何でも好きなだけ食っていーから!!」 「では三人で行くとしますか。いやぁこれはどうも、楽しい食事になりそうで」 「へー、そーですかィ。俺ぁおっさん二人に挟まれてちっとも楽しかねーや」 寝間着姿の男も交えて外へ出て、肌を凍てつかせる真冬の風を頬に浴びる。 出た途端に「寒みぃっ」と叫んでくしゃみが止まらなくなった近藤の様子をにやつきながら眺め、 お貸ししましょう、と自分の上着を脱いで近藤の世話を焼き始めた井上を眺める。 連れ立って歩く三人の間を、乾いた風が吹き抜けていく。 沖田は目の前を歩く対照的な見た目の二人を、不思議そうなまなざしで見つめる。 今となっては滅多に見なくなった組み合わせだ。だが、幼い頃は道場の行き帰りに毎日目にしていた二人の背中だ。 その姿を見ているうちに、隙間だらけのボロ道場に通っていた日々を――武州の道場を思い出した。 ふと思い出すたびに、今でも鮮やかに目の前を彩る光景。 懐かしさについ苦笑が浮かんでしまう光景ばかりだ。 汗臭くて古びた道場。稽古中の怒鳴るような掛け声。裸足の足裏に当たる、ささくれ立った床が軋む感触。 幼かった自分を囲んで見下ろしていた大人たちの顔。近藤の笑顔。井上や永倉の笑い声。 ムカつく男の気に食わない態度。道場の片隅にちょこんと座り、田舎剣法の力任せな手荒い稽古を 楽しそうに眺めていた姉の笑顔も。 ・・・姉上。どうですこの二人。警察の隊服なんて着込んでたって、中身はあの頃とちっとも変わんねーや。 姉上も懐かしいでしょう。 心の中でつぶやいてみる。ええ、と返事が返ってくることこそなかったが、 遠い何処かで口許を手で覆ってくすくす笑って、そうね、と頷いてくれているような気はした。 何か覚悟でも決めたかのような表情で足を止め、沖田は静かに深呼吸する。今はまだ雲に閉ざされて 春を待つばかりの、暗い乳白色に染まった空を見上げた。舞い上がった前髪が風に靡いてちらちらと金色に光り、 まぶしさに細めた彼の目元を掠めていく。 ――もしもこの世で生を終えた人間が向かう中のひとつに、天国、なんて都合の良いものがあるとしたら、 人斬りの俺にはどう足掻いたって辿りつけそうにないその場所から、姉上は俺を見ているんだろうか。 今の俺を誇らしく思ってくれているんだろうか。 ( そーちゃん。あなたは私の、自慢の弟よ。 ) そう言って、笑って。嬉しそうに――心からの嬉しそうな笑みに、目元を細めてくれるだろうか。
「 片恋方程式。56 」 text by riliri Caramelization 2012/07/08/ ----------------------------------------------------------------------------------- next