「――・・・・・・・・っ。・・・・・・・ぃ、・・・――ろ、おいっっ、っ!」 「・・・んんん〜〜・・・、なにぃぃ。 なんれすかぁもぅやめてくらさいよぅぅ。まだ眠いんれすようぅぅ・・・」 ――誰。誰だろ、この手。 誰かが肩を掴んでる。 ぐらぐらぐらぐら、あたしの身体を揺らしてる。抱きしめてるお布団を剥がそうとしてる。 「おいっっもう朝だ、寝るなおいィィ!・・・やべえぞ俺まで遅刻すんだろぉが、起きろ!」 「・・・ちょ。やめてって言ってるじゃないれすかぁ。なんなんれすかぁほんとにぃぃぃ。 朝っぱらから女の子のお布団剥がして何するつもりですかぁぁ。痴漢れすかぁぁ。痴漢なんれすかぁぁ・・・? 言っときますけどねぇ、あたしこれでもおまわりさんなんれすよぅ。こう見えても結構強いんれすよぅぅぅ」 「寝言言ってる暇があんなら目ぇ覚ませ!っっっのヤロ、十秒以内に起きねぇと蹴り出すぞコルぁああああ」 「や〜〜〜ですよぅぅ。・・・なんか身体がだるいんですよぅ。動かないんですよぅ足とか腰とかぁぁ」 肩を掴んでるしつこい手をべしべし叩いて追っ払う。すると頭の上で「ちっ」と舌打ちが鳴って、 お布団に掛けられていた力が突如緩んだ。枕元にいた誰かがどかどかと、荒い足取りで離れていく。 何だか知らないけどあたしが勝ったらしい。目を瞑ったままでもぞもぞとお布団を手繰り寄せながら 「えへへへへ〜〜・・・」と顔を緩ませてへらへら笑う。眠たすぎて何があったのかもよくわかんないけど、 どうやら無事に痴漢を撃退できたみたいだ。 ――おはようございます、天国のお父さんとお母さん。今のこれ、見ててくれましたか? は朝から江戸の治安を護りましたよ。すっごく眠いけど頑張っちゃいましたよ。 これからも可愛い娘の活躍をお空の上から見守っててくださいね・・・! なんて、気分よく笑いながらうとうとしていたら、顔の横にぼすっと何かが飛び込んできて、 「ふぇえ・・・?」 「ふぇえじゃねえ!いーからそれ見ろ、時間見ろ!」 んん〜、とうなりながら薄目を開けて横を見る。そこには見覚えがある携帯が埋もれていた。 これって、――土方さんの携帯だ。間違いないよ、だってちょっと煙草くさいし。 ・・・あれっ。そういえば、・・・・・・・・・このお布団もなんだか煙草くさいような。 それに、今の声。やたらに身体に響いてくる、地鳴りみたいな怒鳴り声は―― 「へ・・・?・・・・・・・ひじかた・・・さぁ・・・・・・?」 布団に包まったままもぞもぞと起き上がりかけると、タンスの前に立ってるひとと目が合った。 真っ黒な頭のてっぺんは妙にぼさぼさ、目元がちょっと眠たそう。なのに表情はいつになく焦ってて余裕がない。 腰から下は隊服を着てるんだけど、上半身がなぜか裸だ。引き出しから引っ張り出したシャツをばっと翻して、 ものすごい速さで袖を通して、ボタンをぱしぱしぱしっと留めていく。かあっと目を剥いてこっちを睨んで、 「急げ、時間がねえ!朝の会議まであと二十分だ!」 「・・・・・・、はいぃ・・・?」 何ですか。何ですか会議って。何ですか二十分って。 それよりどーして。どーしてここに土方さんが? 不思議になってぱちぱち瞬きしているうちに、ぽわん、とまるでしゃぼん玉みたいにおぼろげなかんじで 頭の中に何かの記憶の断片が浮かんでくる。場所は真っ暗で静かな土方さんの部屋だ。 目の前まで迫ってきたひとの顔がぼんやり浮かぶ。布団に倒れたあたしを真上から見つめてる。 大きな手のひらに納めた頬の感触を確かめるような手つきで撫でながら、うっすらと笑ってる。 いつもの険しさがすこし抜けた、あまり目にしたことがない表情で。 「・・・・・・・・・っ!?」 がばっ、と飛び上がる勢いで跳ね起きた。 急にとくとくと鳴り始めた心臓から、血の気が一気に上ってくる。全身がかああぁっと、燃えそうなくらい火照ってきた。 生々しいくらい鮮明になってきたその光景を皮切りに、次から次へと、ぽわんぽわんと浮かんでくる。 昨日の夜に目にした土方さんの姿。今はものすごい勢いでシャツのボタンを留めているあの手で、 ゆっくりと、いろんなところを撫でられたこと。それから、まだ肌に残ってるあの指の熱さや力強さとか、 恥ずかしくって心臓が破裂しそうになってた、唇が重なる直前の落ち着かない気分とか。 それから、――それから。土方さんが、あたしを――・・・・・・・・・・・・・・ 「――ひぃぃぃぃいやぁあああああ!!!」 「驚くのは後にしろ!とにかくお前も部屋ぁ戻っ、――っっっの馬鹿何やってんだコルぁぁぁ!!!」 「ふぇええ!?」 だだっと走って障子戸を開けようとしたところで、なぜか後ろから一喝された。びっくりして振り向くと、 血相変えた土方さんがこっちへ一直線に向かってくる。目の前に何かをばっと広げられて、ばさあぁっ、と 煙草くさい何かを引っ被らされた。頭を羽交い締めにされて、身体がぐいーっと後ろに引っ張られる。 「ちょ、や、くるひぃくるひぃくるひいぃぃ!なっ、なななにするんでふがごふぉっっ」 「てめーこそ何をしてんだ何を!!素っ裸で廊下に出るんじゃねええええ!!!」 「っっ!?ななっなに今のっっ、む、胸になんか当たっ、むぎゅって!っっっなにこの手ぇええひいやぁあああ痴漢んんん!!」 「誰が痴漢だあぁぁ!!っっっだコルぁああああざっけんな、俺ぁ止めてやってんだろーが! このまま素っ裸でここを出てみろっっっ、痴女扱いされんのぁてめーだぞ!?」 なんて怒鳴り倒したひとのあたしの扱いは相変わらずひどいというか、――あんなことをした翌朝だっていうのに 泣けてくるほど容赦がない。胸とお腹を何の躊躇もなくわしっと掴まれて、そのまま後ろに二人もろともすっ転ぶ。 ぎゃああああああっっ、と半泣きでじたばた暴れているうちに、なぜかふっと、煙草以外の強い香りが鼻先を掠めた。 ・・・あれっ、何だろう。ここからだけ、妙にいい匂いがする。 お花みたいな果物みたいな、香辛料みたいな。スパイシーで甘い香りが、いろいろと、複雑に入り混じってて―― 「なっ。なにこれ。こ、香水・・・・・?」 「あぁ!?」 暗い中で目をぱちくりさせていたら、被せられていたものを一気に引き剥がされた。 その瞬間、あたしの頭を覆っていた煙草臭いもの――見ればそれは土方さんの上着だったんだけど、 その上着の左右のポケットや内側から、ばさばさばさーーーーっ、とものすごい量の何かがこぼれ落ちて。 「・・・・・・・・・・?」 思わず二人で黙り込んで、お互いの身体に降ってきた小さくて薄い紙をぽかんと見下ろす。 ばらばらと、畳にまで広がってるそれは大量の名刺だ。 白やオレンジ、ピンクや赤、黒や紫。色とりどりで模様も華やかなそれには いかにも夜のお店らしくて艶っぽい店名と、いかにも夜の蝶らしい、色っぽい源氏名が綴られていた。
片恋方程式。 55
――ひそひそひそひそ。ぼそぼそぼそぼそ。ざわざわざわざわざわざわざわ。 その朝。いつものように隊士たちでごった返す屯所の食堂は、奇妙に浮き足立った緊張感と、 同じく奇妙なさざめきとで溢れかえっていた。席についている奴らほぼ全員の目線が、窓際近くのテーブルの 方へと集中している。ここ数カ月というもの、直属の上司と部下という密接な関係にありながらも妙に疎遠で、 局内でも何かと噂を囁かれていた例の二人が、そこには久しぶりに並んでいるのだ。そんな二人をやや遠巻きに しつつ、野次馬たちは固唾を呑んで彼らの様子を窺っていた。ただし、注目の渦中にある当の二人はといえば、 自分たちがこの場の視線を一身に集めていることには気付いてすらいなかった。 ・・・人目を気にしているどころの話ではなかったからだ。 「だから違げーって言ってんだろ!?」 べしっっ、と絞りきって空になったマヨネーズをテーブルに叩きつけて土方が怒鳴る。 広い食堂の端まで鳴り渡ったその大声に、配膳の列に並ぶ隊士たちが振り返る。彼等に味噌汁やら ご飯やらを配っている調理場のおばちゃんたちまでもが、目を丸くして騒ぎを見つめた。 土方の周囲の席についていた隊士たちは、全員揃ってびくんと背中を飛び上がらせた。 数人がおそるおそる首を巡らせ、こわごわとそちらの様子を伺ったのだが、 周囲の気配に人一倍敏感なはずの鬼の副長が、物珍しげな彼らの視線には目もくれない。 ご飯にマヨネーズが山と盛られた茶碗を箸でがつがつと刺しながら、隣の席に座る部下に懇々と何かを説いている。 ――納豆入りの小鉢を一心不乱に掻き混ぜている、隣の席のに向かって。 「いいかおいっ、あれぁどれも昨日の店で押しつけられただけのもんだぞ?いちいち突き返して 女に恥でもかかせてみろ、とっつあんのテンションだだ下がりじゃねーか。場が興醒めしちまうだろーが!」 「・・・だからそれはさっきも聞きましたってば。・・・あの。いいですから。ほんとにそういうの、いいですから。 あたしのことは放っておいてください。それより土方さんいいんですか、早く食べないと会議に遅刻しちゃいますよ」 「うっせーよてめーこそ早く食え、いつまで混ぜてんだその納豆は。 糸引きすぎて謎の物体になってんじゃねーか。ナウシカの腐海みてーになってんじゃねーかっっ」 「いいじゃないですか放っといてくださいあたしはこういう食べ方が好きなんですっ。 ていうか土方さんもっと離れてくださいっ。傍で大声出されると耳痛いからっ」 がぷいっと顔を背け、紅い唇を不服そうに尖らせる。テーブルの中央に置かれた醤油挿しを引っ掴むと、 小鉢にどばどばと注いでいった。 ――何が放っといてくださいだ。目の前で、こうも判りやすくヘソ曲げられてんだ、これが黙っていられるか。 力任せにぐるぐると納豆を練る女を横目に睨み、土方は思いきり眉を顰めた。苦々しげな顔つきで味噌汁を啜る。 この席に着いて以来、かれこれ三回は同じ説明を繰り返した。なのに、なのにだ。醤油色に埋もれていく納豆を 恨みがましく睨んでいるあのデカい目は、どこからどう見ても拗ねたまま。しかも、一瞬たりともこっちを見ようと しないのだ。昨晩、松平に引き回された四件の宴席で、行く先々のホステス嬢たちから押しつけられたあの大量の名刺。 色とりどりで香水臭いあの名刺の雨を目にしてからというもの、はずっとこんな感じだ。 (いいんです。何でもないです。あたしのことは気にしないでください。もう放っておいてください。) 誤解を解きたい土方が食堂で久しぶりに彼女の隣に陣取っても、少しは人の話を聞け、と周囲の人目すら構うことなく 躍起になって諭しても、返ってくるのは明らかにふてくされているとしか思えない、完全拒否の言葉ばかり。 まったくこいつときたら、妙なところで異様に頑固だ。こんな時の男の言い訳なんざ、適当に頷いて はいはいと受け流してくれればいいものを。こうも徹底して拒まれてしまえば、こちらはどうしても言い訳に言い訳を 重ねてしまう。おかげで土方は、あの大量の名刺に対してやましい覚えなど微塵もないというのに、 なぜかすっかりうしろ暗い気分にさせられてしまっていた。 ・・・先が思いやられるたぁこのことだ。昨日の今日で早速これか。 つーかどうすんだこれ。一向に話が進みやしねえぞ、朝の定例会議も間近だってえのに。 途方に暮れて溜め息をつき、飯椀に山と盛られたマヨネーズを自棄になってがつがつと掻き込む。すると横から、 少し気落ちしているような頼りない女の声が流れてきて。 「・・・だから別に気にしてませんってば。・・・・・・ただ、ちょっと。 一晩呑みに行っただけであんなにたくさん貰うって知らなかったから、・・・・びっくりしちゃって・・・」 マヨネーズ丼を掻き込んでいた土方がに目を向ける。超高速で動き続けている女の手許を不気味そうに眺めた。 ぐるぐるぐるぐる、ぐにゅぐにゅぐにゅぐにゅ。醤油の海にひたひたに浸けられてすっかり塩分過剰な納豆は 今やほとんどが擦り潰され、もはやナウシカの腐海どころの見た目ではなくなってしまっている。 ペースト状のネバネバどろどろな何かをぐるぐるとひたすらに掻き回しつつ、はぽつぽつと話し続けた。 「・・・・・・でも、土方さんにとってはよくあることなんですよね? ああいうお店のお姉さんにモテモテなのも、一晩で何十枚単位の名刺貰っちゃうのも」 丼飯を掻き込んでいた土方の箸が、ふっ、と一瞬止まりかける。が、次の瞬間には いかにも食事に没頭しているような態度でがつがつと飯を掻き込み始めた。 ――否定したなら嘘になる。かといってここですんなり肯定出来たものか。状況がさらにややこしくなるじゃねーか。 なんてことを思ってさらに気まずくなりながら、横をちらりと盗み見る。ん?と鋭い目を軽く見張った。 の様子がどうもおかしい。納豆を練り続けていた手がいつのまにか止まっている。さっきまでは完全に 拗ねていた目つきはなぜかぼんやりとしていて、何か考え込んでいるようだ。 「・・・・・あのぅ。土方さん」 「・・・・・・・・・・・、な。何だ」 「たった今気付いたんですけど。・・・あたし、今、自分にびっくりしたんです。 ・・・・・・・・・・・あの名刺見て。必要以上にショック受けて、土方さんに怒ってる自分にびっくりしたっていうか。 すっかりうぬぼれちゃってる自分に気づいて。それでびっくりした、・・・・・みたい、で、・・・」 その口調は土方に話しかけているようでもあり、それでいてどこか上の空というか、 まだ半信半疑な自分自身に言い聞かせようとしているかのようでもあった。 は急にくるりと向き直った。怪訝そうな顔をした土方へと目線を合わせる。 ぱちりと見開かれた輝く瞳が、瞬きもせずにじいっと彼を見つめてくる。 ・・・どうも嫌な予感がする。何なんだ、こいつの打って変わった呆然っぷりは。 警戒した土方はやや引き気味に構える。するとは、ぽかんと呆けきった表情で口を開いた。 「・・・・・・・・そうですよね。そういうことですもんね。 あたしが土方さんの傍にいてもいいって許して貰えたのは、・・・あくまで部下としてってことだし」 「はぁ?」 片眉を大きく跳ね上がらせ、土方がぼそりとうめく。 それとほぼ同時、がしっかりと握っていた納豆の小鉢がぽろりと手から滑り落ちた。 がちゃんっっっ。ぼちゃんっっっ。 落ちた小鉢の中身はの茶碗どころか土方の茶碗にまで糸を引きつつ散乱、テーブル上には 納豆色の大惨事が発生し、 「〜〜〜〜っっっなにやってんだてめっっ」 彼にとっては煙草と並ぶ最終ライフラインと言っても過言ではないマヨ丼を台無しにされ、 目の前が見事なまでの納豆臭一色に汚染される。当然土方は怒り出した。 空のマヨネーズ容器をの頭にぼこっと投げつけ、腹立ちまぎれの怒号を飛ばす。 …ところが。周囲の隊士たち全員を振りかえらせた彼の声が、肝心のの耳にはまったく届いていなかった。 隣でわなわなと肩を震わせている鬼の副長を完全に無視、じわじわと赤らんできた頬を手で覆い、 髪を振り乱してかぶりを振って、 「〜〜〜っっ、うわぁ、どうしよぅ、恥ずかしいぃぃぃ・・・・・・・! やだなぁあたし、思いっきり勘違いしちゃってたんだ・・・!あぁもうっこんなつもりじゃなかったのにぃぃ・・・!」 などと、裏返った声で独り言をつぶやき、おろおろと左右を見回すばかり。 周囲の人目もテーブル上の惨状も、こめかみをひくひくと派手にひきつらせ始めた土方の 腹の中が歯痒さで煮えくり返っていそうな険しい目線もおかまいなしだ。 「・・・いや待て何だこの流れは。まさか、またあれか?あれなのか?また何か勝手に思いこんでねえかお前っっ」 「ご、ごめんなさいっ。あのっ、違うんです、最近、怪我とか病気のせいで土方さんが優しくしてくれたから! だからあたし、いつのまにか思い上がってたみたいで。すっかり勘違いしてましたっっ」 「おいィィィ!」 「いっ、いいんですもう何も言わないで!お願いです恥ずかしいからっっっ」 恥ずかしさのあまりか目元に涙をにじませたが、ふたたび小鉢をがしっと掴む。 ぐるんぐるんと力任せに掻き回し、ペースト状の納豆は更なる悲惨さで飛び散った。 「そ、それであのっ、あたしからこんなこと言い出すのって、すごく変なのかもしれないですけど・・・!」 「っってっめえどこ見てんだコルぁぁ、いい加減に納豆離せ、こっち見ろ人の話を聞け!!」 「もしこの先、土方さんに大事な人が出来ても、あたしのことは気にしないでくださいっ。 いちいち言い訳する必要なんてないですから。もしあの名刺のお姉さんの中の誰かと土方さんがお付き合いする ことになっても、あたし邪魔したりしませんから。安心してください、ちゃんと祝福しますから!」 「安心出来るかぁあああ!!!」 かぁっと目を剥き土方が怒鳴る。 箸を卓上にかなぐり捨てて、の頬をむぎゅっと掴む。全力で一気に、ぎゅーーーっと捻られ、 は泣き叫んでじたばたともがいた。 「っだだだだ!!いだっっいだだ痛いぃぃなにするんれすかぁああっ」 「うっせえコルぁぁぁざっけんな、何が祝福しますだ!?まるごと間違ってんじゃねーか、ひとつも合ってねーんだよ!!」 「いだいだいだだだだっやややめ離しっっひひひ土方さっ、ほほっほっぺた千切れるうっっっ」 「いいからおい聞けっ、てめーが言うところの勘違いが正解で、正解だと思ってんのが勘違いだ!!」 と食堂を突き抜けるほどの大声で怒鳴ってはみたものの、やはりには通じない。 「痛いいいぃ」と泣きじゃくって頬を抑え、どうしてあたしがここまで怒られなくちゃいけないの、とでも 思っていそうな非難の目を向けてくるのだ。 そんな彼女を烈火燃え滾る険しい目つきで睨みつけ、土方はぎりぎりと、どこにもぶつけようのない歯痒さを噛みしめた。 ああ畜生。またこれだ。冗談じゃねえぞこの野郎・・・!! 「おいィィィもう一遍言ってみろ、誰が何を祝福するだ?俺が誰と付き合うだぁ!? んなこたぁなぁ、てめーにだけは言われる筋合いねーんだよ!!・・・・・つーかてっめえええ、またあれか、 また忘れちまってんのか!?たった三晩寝ただけでまたころっと忘れちまってんのかこっっの野郎・・・!」 あっただろーが決定的なアレが。あっただろーがついこの前、誰もいねえ病室で! あれぁほんの三日前だぞ?しかもあれほど何度も念押しして、 互いの認識にすれ違いが無いようにとしつこく言い聞かせたってえのにこの女・・・・・!! 「だっっ、だからぁぁあ。土方さんがどんな人とお付き合いすることになってもあたしは祝福しますって」 「はぁああああ!!?何が詰まってんだてめーの頭ん中は!納豆か?納豆腐海か!!?」 と、勢いに任せてテーブルを殴り、が耳を抑えて逃げ出そうとするほどの大音量で怒鳴り倒したのだが、 ――その直後、なぜか急激な虚しさを感じ、土方はいきなり我に返ってしまった。 恨めしさを怨念のように漂わせた目でをじとーっと睨みつけ、がくりと大きく肩を落とす。 激しく寄った険しい眉間をぎゅっと抑え、頬杖をついてうなだれた。 呆れた。疲れた。煙草が恋しい。・・・・・・いや、とにかく虚しい。 どーなってんだこいつの頭は。こいつに俺の言い分をしっかり理解させるよりも、 地球を侵略しに来た天人を母星に帰れと説得するほうがまだしも容易いような気さえしてきた。 ・・・しかも何か、妙に悔しい。 何だ?何なんだ、このさっぱり腑に落ちねーっつーか、妙に胸クソ悪りぃっつーか、釈然としねえ状況は。 「・・・気のせいか?俺がこいつにそれとなくフラれた体になってるような気がするのは気のせいか・・・!?」 苦悩に満ちた表情でぼそぼそっと独り言をつぶやき、土方は腹の奥底からの重苦しい溜め息を吐く。 どうする。この手の誤解は時間が経つほどこじれるもんだ、出来ればこの場で解決したいが、 ・・・難問だ。このむかっ腹が立つほど思い込みが激しい女を、俺は一体どう納得させたらいいのか。 ――いや。勿論、手っ取り早い解決策は知っている。ここは単純でガキ臭いこいつのレベルに合わせて、 何のひねりも造作もない手を使えばいい。ただそれだけの話なのだ。そう、例えばこいつの手でも握って 「俺が惚れてんのはお前だ。他の女になんざ興味はねえ」と、考えただけで首や背筋がむず痒くなるような、 歯が浮く台詞の一つもほざけばいい。ただそれだけで済むのだが、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 ・・・いや、だが、しかし。 いくら何でもここは駄目だ。ここは無ぇ。さすがに場所が悪すぎる。 くるり、と土方は急に背後を振り返る。「何を見てんだ何を、喧嘩売ってんのかコルぁあああ」とでも怒鳴り出しそうな、 牽制を兼ねた険しい目つきで、周囲に無言の睨みをきかせていく。久しぶりに目にする土方との痴話喧嘩を 息を呑んで見守っている野次馬たちは、いったいどこから聞きつけてやってきたのか、着々とその数を増やし続けている。 鬼の逆鱗を怖れてなのか、どいつもこいつも遠巻き気味だ。それでもわらわらと固まり合って額を寄せ合い、 興味津々な好奇の目をこちらへ向けてくるのだからたまらない。そんな奴らを眺めるうちに、 ただでさえ狭まっていた土方の眉間はさらにぎゅーっと、極めて不愉快そうに寄せられていった。 無理だ。冗談じゃねえ。誰がこんな衆人環視の真っ只中で女を口説けるかってぇんだ・・・! 「副長、はよーっす!」 「うぃーっす、はよーっす」 と、そこへ――隊士たちが行き交う通路を縫って、朝食の乗った盆を手にした二人組がやってきた。 一人は二番隊隊長、頭に巻いた白タオルがトレードマークの永倉。もう一人は長身の八番隊隊長、藤堂だ。 土方は声がした背後を肩越しに流し見る。おう、と一言、不機嫌さ丸出しな素っ気なさで応えた。 そんな隣の男の気配にやや怯えながらも、が笑顔で挨拶する。 「お、おはようございますっ、永倉さん、藤堂さん」 「おぅちゃん、おはよー!隊服着てるってこたぁ今日から復帰かぁ?」 「働き者だよなぁちゃんは。無理しねえであと二、三日休んでおきゃあいいのによー」 「そんなぁ、平気ですよー、もうすっかり良くなったんですよー」 は二人それぞれににっこりと微笑みかけた。ここ空いてますからどうぞ、と 土方と自分の向かいを指す。腰を下ろそうとする二人に、見舞いに貰った菓子やら花やらの礼を 心から嬉しそうな表情で伝えていた。そこから話は弾んでいき、黙りこくって飯を食っている土方をよそに、 三人は親しげな会話を続けるのだった。やけに義理がたいところがあるにしてみれば、ここで二人に感謝を 伝え、話に付き合うのは当然のこと。ところがそれが土方の目には、彼女が二人に必要以上の愛想を 振り撒いているように見えてしまう。横から様子を見ているだけでむっとしてしまう。二人の隊長たちが見せる いかにも気安い彼女への態度も、妙に癪に触るのだ。 話を聞いているうちに無性にむしゃくしゃしてきて、土方は終いにはぷいと顔を逸らしてしまった。 こいつらもこいつらだ。黙っていりゃあと、慣れ慣れしく連呼しやがって。 面白くねえ。しかも、おとといの見舞いの話から察するに、どうやら最近のこいつらはに狙いをつけているらしいが―― 「・・・おい。会議まであと五分だぞ。今から飯たぁえれぇ余裕じゃねえか」 「ああそうそう、副長、局長から伝言です。今朝の会議は中止してくれって」 「はぁ?中止だぁ?何だそりゃあ、俺ぁ何も聞いてねえぞ」 「どうも局長、寝坊したらしくて。さっき目が醒めたばっかみたいっすよ、まだ寝間着着てましたから」 目の前に座った永倉にそう言われ、土方はげんなりした様子で目を伏せ、額を抑える。 ・・・失敗した。寝床を作ってやったついでに、目覚ましもセットするべきだった。 「いやぁ俺もよくわかんねーんすけど。ここ来る途中に廊下でばったり出くわしたんですけどねぇ、 とにかく副長に伝えてくれっつって、あわてて厠に走ってったんで」 「何やってんだあの人ぁ・・・・」 「ところで副長。どーしたんすか久しぶりじゃないすかぁ、ちゃんの隣に座るなんて」 「・・・・・・・」 「ずいぶん盛り上がってたじゃないですか。何の話です?俺らにも聞かせてくださいよ」 笑顔でそれとなく探りを入れてきた藤堂に、土方は眉をかすかに吊り上げて視線を向ける。 天然気味で人が良い永倉はともかく、この男がこの場に流れる微妙な空気を察していないとは思えなかった。 藤堂という男はそつがない。それなりな容姿や愛嬌のある雰囲気も持ち合わせているだけあって、 うちの連中にしては珍しく女の扱いにも慣れている。そういう奴が何食わぬ態度で、わざわざ首を突っ込んできやがった。 ――何かしら魂胆があるに決まっている。 フン、と面白くなさそうに顔を背け、ガタンと椅子を鳴らして席を立った。 「」 「は、はいっ」 「俺ぁ出掛ける。午前中は現場検分、午後は近藤さんと入管だ」 「はい、判りました。・・・・・あの、あたしも同行してもいいですか」 「お前は部屋で先月分の集計でも片付けてろ。何かあったら連絡寄越せ」 「はいっ」 さっきのことを気にしているのか、の表情は硬かった。 軽く目を合わせて彼女に頷き、土方は早くも懐から煙草を取り出しながら通路を進む。 ところがその足はすぐに止まった。 彼が席を離れた途端、藤堂がに話しかけたからだ。 「ちゃんさぁ、どう、今日の夜は何か予定とか入ってる?」 耳に飛び込んできたその声は、実にこなれた、さりげない口調だった。 むっとして口端を大きく下げた土方が、再びたちの居るテーブルへと振り返る。 はきょとんとした表情で藤堂を見つめていた。ちょこんと首を傾げ、何の警戒心もなさそうな態度で、 「今日ですか?いえ、特に何もないです、けど・・・?」 「空いてる?空いてんだ、やった!なぁなぁ、快気祝いに俺らと飯でも食いに行かねぇ?」 軽く握った拳でガッツポーズを作り、永倉がはしゃいだ様子で尋ねている。 藤堂はそんな仲間を眺めてにんまりと笑っている。それは土方の目からすれば、 どう見ても何か企んでいるとしか思えない顔だ。隣で喜んでいる永倉は、藤堂の様子に気づいてすらいないようだが。 口許まで寄せたライターで煙草に火を灯そうとしていた手を自分でも気付かないうちに降ろしながら、 土方はぎりっと煙草を噛みしめた。 あれを目にしているだけで胸の奥がじりじりと焦げついてくる。 身体の内であちこちに飛び火してもやもやした感情を増幅させる、この厄介な熱の正体なら判っている。 有り体に言えば、こいつは嫉妬だ。 ・・・ざまあねえな。たかが女一人の挙動に振り回され、焦りを募らせている自分の何と馬鹿馬鹿しいことか。 「・・・・・ちっ。くだらねえ」 くだらねぇ。まったくもってくだらねぇ。 自分以外は聞きとれない程度の声でつぶやき、胸の内でも繰り返す。 むっとしてへの字に曲がりきっている口の奥で、ちっ、と短く舌打ちした。 鋭いその目を細め気味にしてたちを見据えた土方は、軽く握っていた右手に力を籠める。 手の内にあった煙草の箱を、ぐしゃりと一息に握り潰した―― 「――え。・・・・・・ええと。ご飯ですかぁ・・・」 一方、永倉藤堂に迫られているは、二人からの提案にやや困り気味だった。 別に嫌な訳ではない。隊士としても副長の補佐役としてもまだまだ半人前な自分を、 二人の隊長たちは仲間として扱い、励まそうとしてくれる。そう思えば、むしろ嬉しい気持ちのほうが強かった。 ただ、なんとなく気が重い。ここのところは、土方とのことで頭が一杯だ。 この二人からの珍しい誘いを嬉しくは思っても、外に遊びに出掛けるような気分にはなれなかった。 「そうですね、楽しそうですけど、でも、あのぉ、・・・」 「ちゃんが来るなら山崎も行くって言ってたぜ。 他にも隊長連中を数人誘うけど、何も気兼ねはいらねーから。ここは大勢で賑やかにってことで」 「は。はい。そうなんですか、ありがとうございます。ええと・・・・・」 なんだかすこし心許ない気分になって、膝の上で重ねた手でスカートの裾を軽く握る。 いつのまにか沸いていたこの心許なさの理由には、もなんとなく心当たりがあった。 誘われている宴席にあの二人がいないからだ。今まで、こんなふうに誰かにご飯に誘われた時には、 必ず土方さんか総悟がついてきてくれた。けれど、今日はいつもとは状況が違っている。 総悟は武州に里帰りしているし、土方さんは―― ・・・・・・・まさか。理由は判らないけどなんだかすごく怒っているみたいだったし、来てくれるはずがない。 もしも「一緒に行ってください」なんて頼んだりしたら、きっと迷惑するだろうし。 ――そうだ。そうだよ。それこそ思い上がりっていうか、ひとりよがりな勘違いだ。 これまでも、これからも、あのひとの傍に居るために。 何でもあのひとに頼ってちゃいけない。一人でどうにか出来ることは、一人で解決出来る自分にならなきゃ。 あたしは違う。ミツバさんとは違う。何か困ったときには甘えてもいいような立場じゃないんだから。 「・・・・・行ってみよう、かな。・・・楽しそうだし」 山崎くんも来るみたいだから、もしも隊長さんたちに囲まれちゃってもそんなに気を遣わなくて済みそうだ。 それに、最近は色々あったせいでずっと屯所に籠りっ放しだった。みんなで楽しく盛り上がって ちょっとお酒でも飲めば、いい気晴らしになるかもしれない。 「そうそう、何も構えるこたぁねーから。気軽に来てくれればいーからさ。 今夜はちゃんが主役なんだから、たまには男どもに奢らせてやる、くれーのつもりで楽しんでくれよ」 「はい。じゃあ、・・・たいした病気じゃないのに申し訳ないですけど、お言葉に甘えて・・・」 そう言ってぎこちなく笑ったの前が、ふっと暗くなる。誰かが目の前に立ったせいで、 テーブルには影が落ちていた。誰だろう、と見上げてみれば―― 「・・・・・・土方、さん・・・?」 ぱちりと大きく瞬きを打ち、はかすかにつぶやいた。 行ってしまったはずの男がそこに居る。 火の点いていない煙草を口端に咥え、やや驚いたような顔をしている藤堂のほうに 噛みつくような険悪な目線を向け、握り潰した煙草の箱を手にしてそこに立っていた。 「――」 「は、はいっ」 鋭い声に呼ばれ、慌てて答える。直後にふっと息を呑んだ。 苗字じゃなかった。今、あたし、土方さんに名前で呼ばれた。 「・・・・・・・・え・・・・・・・?」 驚いて半開きになったままの唇から、ほんの小さな声がこぼれる。 がやがやとにぎやかだったはずの食堂はいつのまにか水を打ったように静まり返っていて、 普段なら誰も聞き取れないはずのそのつぶやきは、広い室内の隅まで届きそうなくらいに響き渡った。 切れ上がった目がゆっくりとこちらに振り向く。視線が合っただけで、心臓を射竦められたような気分になった。 きゅうっと締めつけられるような感覚で胸が震えて、は全身を竦ませて彼を見つめた。 「お前、俺の女になるか」 「・・・・・・・・・・・・・・・は?」 ひどく素っ気ないその声は、まるで職務上の小さな疑問でも確認しているかのような口調だった。 ぶほっっっ。 目を丸くした永倉が味噌汁を吹き、藤堂がぽろりと箸を落とす。 ごとっっっ。がちゃんっ。ぱりーんっ。がちゃがちゃんっっ、からぁーんっっ。 茶碗を落として割る奴やお盆ごとひっくり返してしまう奴が、食堂のあちこちで続出する。 どれもかなり大きな、耳につく音が鳴っていたのだが、大きな瞳をぽかんと見開き まじまじと土方を見つめるには、周囲のおかしなざわつきなどはまったく聞こえていなかった。 「返事がなってねえ。はっきり答えろ。なるのかならねえのか、どっちだ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は・・・・・・・、」 ぱくぱくぱく、と数回、口を大きく空回りさせる。 頭の中が真っ白だ。何も考えられない。というか、珍しくまっすぐに自分を見つめてくる土方とこのまま 目を合わせ続けていたら、そのうちに頭がぱーんっと、空気を詰めすぎた風船のように破裂してしまいそうだった。 身体中がかぁーっと火照ってくる。とくとくとくとくとく、と心臓がものすごい速さで脈打っている。 驚きすぎて言葉が出ない。いや、声すら出ない。呼吸すらまともに出来ないくらいの有り様だ。 けれど、気の短い土方はすでに痺れを切らし始めているようだ。涼しげな目元をきつく顰め、 あからさまに不満そうな顔でこっちを見ている。さらにはの頭を上からがしっと鷲掴みし、 長い指でぐちゃぐちゃと乱暴に髪を掻き回しながら彼女に返事を迫ってきた。 「ぁんだその反応は。お前まだ寝惚けてんのか。つーか聞こえてんのか?おい、返事はどうした」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は。・・・・・・は・・・ぃ。」 自分の頭をボールか何かのような扱いで片手に納めている男と目を合わせたまま、すっかり呆然自失のは 蚊の鳴くような小声で答えた。すると、いかにも不満そうに引き結ばれていた男の口端が、ふっ、と片方だけ 吊り上がる。気難しげだった表情がほんの一瞬だけ緩み、どこか意地の悪そうな、けれどいつになく 愉快そうな笑いに歪んでいって。 「戻りは夕方だ。外に飯食いに行くから部屋で待ってろ」 手に納めていたの頭を真上からぽんぽんと叩きながら、低い声で早口に告げる。 再び取り出したライターでようやく煙草に火を灯し、土方は何事も無かったかのような平然とした態度で 通路を足早に去って行った。 食堂内はあいかわらず静まったままだ。も永倉も藤堂も他の隊士たちも、 調理場のおばちゃんたちまで含めた全員が、ごくりと固唾を呑んだままで鬼の副長の背中を見送る。 扉がばん、と荒い手つきで閉められると、緊張感で凝り固まっていた室内は一気に爆発、 どっ、と空気を奮わせんばかりに、男たちのむさ苦しい興奮とむさ苦しいどよめきが溢れ返って。 「うぉぉおおおおおおおおおおおお!!ぇええええええっマジで!?今のマジで!!?」 「何、今の何!どーなってんのあの二人っっ、いつのまにそーいうアレになってんだよぉっっっ」 「おいィィィィィ!!誰か局長に報せて来いっっっっ、祭りだ、今夜は宴会だ!」 「うぅぅぅっ・・・ついに、ついにこの日が来ちまったっ。畜生っっ、副長の馬鹿野郎ぉぉぉぉ〜〜〜〜〜!!」 「泣くな、辛いのはみんな同じだ、FC会員の掟第一条第三項を思い出せ! お前も誓っただろぉぉ、いつかこんな日が来たとしても俺たちは笑ってちゃんの幸せを祈ろうって・・・!!」 驚きの声が飛び交い、嘆きの声や罵声や泣き声も飛び交い、食堂中を騒音と混乱でひっくり返したような渦の中。 は目も口もぽかんと開いた間の抜けた顔で、身じろぎのひとつもないまま黙りこくって座っていた。 彼女と向かい合っている二人の男がどうしているかといえば、藤堂は意外そうな顔つきで土方が去った扉を 眺めており、片や永倉は、とほとんど変わらないほどの驚き顔で唖然としている。 そんな彼の肩が、ぽんぽん、と軽い調子で叩かれた。 へ、とうめいて振り向いた永倉の背後には、左右に二人の仲間が待ち構えていて―― 「いっやぁあああ残念だったなぁ永倉くーん?悪りーなぁ俺らの一人勝ちで」 「・・・・・・・・・・へ?一人勝ち?」 「おいおい何だよ、とぼけんじゃねーよ。目の前で見ただろぉ今の決定的瞬間をよぉぉ」 「だよなー!お前もあの時、沖田さんに賭けたんだもんなぁああああ」 いつのまにやらせしめてきた賭け金の払い戻しを永倉に見せつけるようにびらびらと両手に挟み、 にたぁーーっと目を細めて得意満面に笑う二人がそこに居た。 ――年末のある日の朝。幹部会議の直前に、いつものように催されていた即席賭場で 唯一土方に賭けていた山崎と原田だ。かちんと固まったままの永倉を面白そうに眺めると、 原田は藤堂に声を掛けた。 「おぅ、お疲れ。朝からご苦労さんだったな」 「いやーやっぱ違うわ、女慣れしてる奴はやっぱ説得力が違うわ!副長相手に上手くやったじゃん」 俺らがあの役やったって絶対副長乗ってこねーもんなぁ、と緩みきった顔で山崎が頷く。 にやつきながらも心底感心しているらしい二人を前に、ははっ、と藤堂は苦笑した。 「そうでもねーよ。こっちはいつ見抜かれるかと内心ひやひやもんだったんだぜ? ところでお前ら、約束の一割は間違いなく寄越せよな。いやあ、それにしても・・・」 まさかここまで効き目があるとはなぁ。 相当に喉が渇いていたらしい。湯呑のほうじ茶を一気に飲み干し、からからと爽快に藤堂が笑う。 それを聞いた永倉が目玉が飛び出そうな顔で絶句、「んだよおめーらっ、知らなかったの俺だけぇええ!!?」と 叫び、「俺にも寄越せ、金寄越せぇええ!」と、がばぁっと藤堂に飛びついた。 「まあまあまあ、そう怒りなさんなって。騙して悪かったよ、後で奢ってやるから勘弁してくれや。 それにしても残念だなぁー、副長が戻って来なけりゃ今夜はちゃんと二人で呑みに行けるはずだったのによー」 「っだよ二人っておいィィ!俺は?つーかちゃんを誘ったの俺なんだけど!!?」 「ははは、いざとなったらお前の一人や二人、適当に巻くに決まってんだろぉ」 「バーカ調子こいてんじゃねえよ。お前みてーな軽い奴がさんの相手なら、うちの連中は誰も納得しねーよ」 「そうそう、どう間違ってもお前じゃねーよ。ありえねーんだよ、あの人以外は」 藤堂の後ろ頭をべしべしと叩いた山崎と原田は、お互いに何か意味ありげな目配せをして笑い合う。 それからどこか感慨深そうな目つきになり、さっきから一言も発していないの方へと振り向いたのだが。 「よかったねさん、おめでとう!これで俺らも晴れてさんを姐さんと呼べ、 ・・・・・・、あれっ。さん?ちょっと、どーしたのさん」 ・・・揺れている。ぐらんぐらんと前後左右に、の頭は髪を振り乱して揺れまくっていた。 どうやら首が、――というよりは身体全体が、脱力しきってふらついているらしい。しかも顔も耳も首も、 まるで熱湯でぐつぐつと茹でられた直後のような赤さだった。まったく焦点の合っていない目にはじわあっと涙が滲み、 今にもぐるぐると回り出しそうで、驚きすぎてぽっかり空いたままの口は、あうあうあうぅ、とうわずった奇声を漏らしている。 「・・・・・・・や。山崎くん。・・・・・・・・・・・・・だっっっ。だめ」 「は?」 を見つめた山崎と原田が、声を揃えて怪訝そうにつぶやく。 それとほぼ同時、ぐらんぐらんと揺れまくっていたの頭がついに堕ちた。 ごっっ、っと鈍い音を立ててテーブルに墜落、納豆まみれになったお盆ががたがたと揺れて、 「だ。だだだだだだめ。もうだめ。あたし。頭が。・・・あ、あた、ま、ぱぁーーんって、爆発し、そ・・・、っっっ」 「えっ、ちょ、さん? ・・・・・・・あれっ。何だこれ。さんの頭から煙が昇っ・・・・・えええぇちょっっ、さんんんんんんん!!!??」 食堂内の興奮さめやらぬ賑わいの渦に、うろたえまくった山崎の叫びが轟く。 土方の爆弾宣言にパニックを起こして頭がショートしてしまったはそのまま昏倒、 四十度の高熱を出してしまい、その日一日使い物にならず。 結局、前日までと同じように土方の部屋に引き篭もり、うんうんとうなされながら寝て過ごしたのだった。
「 片恋方程式。55 」 text by riliri Caramelization 2012/04/21/ ----------------------------------------------------------------------------------- next