片恋方程式。 53

すでに酒が入っているらしいおっさんのだみ声が耳に痛いその電話は、 彼らが一日の仕事を終えてようやく屯所に戻ろうかという、夕方頃にかかってきた。 『新年会も兼ねて軽く呑むだけだ。面子は俺の側近ばかりだし気楽なもんよ。 なぁに時間は取らせねーよ、正月礼代わりと思ってよー、ちっとばかしオジサンに付き合えや』 ・・・という松平からの誘いを帰りの車内で受けた土方は、通話中の携帯電話を一旦遠ざける。 仕事中とは打って変わってテンションが高い親父の声を垂れ流してくるそれを嫌そうに眺め、 ちっ、と盛大に舌打ちした。 (今夜だと?明日にしろ明日に!ちっ、ここぞとばかりに邪魔しやがってこのクソ親父・・・! まさかとっつあん、俺の動向をこっそり見張ってんじゃねえだろな。俺がに手をつけたと 知って嫌がらせに出てんじゃねえだろな!?) 疑念に満ちた目で携帯画面を睨み、凄まじい人相でぎりぎりと歯ぎしりしながらも、彼は渋々に承諾した。 が、承諾はしても納得はいかない。部屋に待たせてある女が気になる。長引きそうな話もあるのだし、 自分が不在の間にあれにちょっかいを掛けてきそうな奴らも多い。気になる。一刻も早く屯所に帰りたい。 とはいえいかにふざけた親父であろうと、真選組にとって最大の後ろ盾は 常にこの破天荒な警察庁のトップでなのある。恩人に対して新年早々義理を欠くわけにもいかず、 土方は近藤とともに宴に出席。向かった高級会員制クラブでは、まだ陽も暮れたばかりというのに しこたま酔って頭にネクタイを巻いた白髪リーゼント親父に出迎えられ、その親父がこの店へ連れてくる 部下の中でも一、二、を争うイケメン幕臣の登場に湧いたホステスたちに熱烈歓迎を受け、 さらに次はあっちの店次はこっちの店とネオン街を引き回され、軽く呑むどころか四件目まで付き合わされた。 近藤が四件目で潰れたのを理由にやっと宴席を脱出。車を飛ばして屯所へ戻ったのは、 ほとんどの隊士が寝静まった真夜中となった。 自室のある棟まで戻った土方は、まずは泥酔した近藤を部屋へ担ぎ込む。 「今年こそ俺と結婚してくらさいぃお妙さぁああん」などと、どう考えても成就が見込めない願いを ふがふごと寝言で連発している局長を複雑そうな苦い顔で見下ろしつつ、寝床を整えて引っ張り入れた。 枕を抱きしめよだれを垂らし「お妙さぁああん…」とにまにまと笑う天下泰平そうな寝顔の男を残して 局長室を出ると、二つ先にある自室へと向かう。 暗く静かな縁側を速足に進む。ぎっ、ぎっ、と古い床を軋ませ歩きながら考えていたのは、 部屋で待っているはずの女のことだ。 (に兄貴の話をどう切り出すべきか。) のひたむきさと粘り強さについに白旗を挙げ、彼女の思いを受け容れる決心をしてからの 三日というもの、土方はその答えを探し続けてきた。だが、未だに最善と思える答えは見つからない。 歩を進め、目の前に迫りくる自室の戸口の前に何の策もないまま立ってみる。 縁側からの月光を浴びてほの白く浮かび上がる障子戸を、やや細めた切れ長の目がじっと見つめる。 室内に灯りは点いておらず、物音もない。 もう寝ているのかもしれない。それとも待ちかねて自室へ戻ったか。 ふぅ、と短く、冷気にふわりと躍る細い煙草の煙を吐く。ついでにかすかな溜め息もついた。 ――仕方ねえ。あれが義兄について口にしたためしは一度もねえ。 兄貴に対するの反応が、俺にはちっとも読めやしねえんだ。 ここは臨機応変に行くしかねえだろう。言葉は悪りぃが出たとこ勝負ってやつだ。 「おい。いるのか、――」 障子戸を掴み、がらりと引き開ける。 そこにの姿を見つけた。 真っ暗な部屋の奥で、襖戸に背中を預けてうずくまっている。膝を抱えてうなだれていた。 土方は怪訝そうに表情を変え、彼女を見据える。 今朝方目にした時と着物が違うことにもなんとなく気づいたが、何より気になるのは彼女の気配だ。 暗がりに溶けて消えてしまいそうなほどに弱りきっている。顔を真っ赤にして叫んでいた今朝のとは まるで別人のような生気の乏しさだった。 俺が留守にしていた間に、こいつに何があったのか。 何かに打ちのめされたかのように萎れてしまった女を見つめ、戸口に立ち尽くし眉を潜めた。 「・・・。おい、何やってんだ」 「――・・・・・・・あっ、」 土方が戻ったことにようやく気付いたのか、はあわてて顔を上げた。 「す、すいません。・・・灯り点けるの、忘れちゃって。お、おかえりなさ、・・・」 落ち着きのない仕草で動く手の甲が、うつむき気味な顔をしきりに擦っている。 土方は無言で灯りを点けた。上着を脱ぎながら一瞬だけ、彼女のほうを流し見る。 顔を隠そうとしているかのようにうつむいた女の目元には、涙の跡が残っていた。 「・・・。せめて布団に入っとけ。病み上がりが身体冷やすんじゃねえ」 「・・・・・・・・・・・土方さん」 「何だ」 「あの。あたし。・・・・土方さんに。話して、おきたい、ことが。・・・あって、・・・・・・・」 おどおどと途切れがちに出てくる声は掠れていて、視線も畳のあたりを左右に動き続けている。 上着をばさりと畳に落とすと、土方は彼女の前へと向かう。目前に立ち塞がった男を、 は見ようとはしなかった。 「聞いて。もらえますか・・・?」 「・・・何の話だ」 「はい。・・・・・・・あの。・・・・・・・・・・っ」 言いかけて声を詰まらせ、少し迷っているような様子を見せる。 しばらく黙り込み、唇をきゅっと噛みしめると、腰を浮かせて正座で座り直した。 土方は無言で彼女の様子を窺っていたが、膝を抱えていた時には隠れて見えなかった胸元に 何かがあることに気付く。 細い腕が薄い何かを抱きしめている。黒い表紙の冊子。書棚にまとめてある捜査資料の一つのようだが――、 やや眉を寄せて眺めるうち、さっと表情を曇らせる。それが何であるかに思い至ったのだ。 「これ。この人。・・・・・あたし、知ってるんです。これの最初に綴じてある、手配書の人」 掠れた声が小さくつぶやく。 黒の表紙を握りしめていた手がのろのろと動き、中を開いた。 土方は思わず拳を握りしめる。書面の右隅に貼られた顔写真を、わずかな動揺が滲んだ目つきで凝視した。 ――彼が出会う以前のとどこかで関わりを持ち、彼女を「死神」と嘲笑ったあの男。 警察病院から消えたあの男だ。性根の卑屈さが目つきに滲み出た手配写真が、目に飛び込んでくる。 荒れた溜め息になりそうだった息遣いをどうにかこらえて飲み込むと、土方は 身じろぎひとつせずに黙って座っている女に視線を落とした。 頬にかかった髪に隠された小さな顔は深くうつむき、表情は見えない。 だが、俺の態度を窺う余裕など無さそうだ。手配書を綴じた冊子を握る細い手は、かすかに、 小刻みに震えている。 彼女を見つめて難しい顔つきになり、やがて意を決した土方は の目の前にどかりと腰を下ろす。隊服の衿元を埋めている白のスカーフを指で引いて軽く緩め、 足を組み変えて胡坐にしながら口を開いた。 「・・・・・・・・・・、どこで知ったんだ、そいつを」 「・・・家出したとき。あたし。一人じゃなかったんです」 真正面から見据えた女は、感情が抜け落ちたような顔をしていた。 見てはいけないものを見てしまい、その衝撃で心を凍てつかせている人間の表情だ。 彼が声を掛けると、おそらく無意識で掴んでいるのだろう書面の端をくしゃりと手の内に握り締めた。 土方はふいと視線を逸らした。 に気づかれまいとかろうじて平静さを保ってはいるが、焦りのためかどうしても目つきが険しくなる。 その頁を捲れば、奴が渡り歩いてきたとされる方々の根城についての資料が出てくるはずだ。 口先ばかりで討幕を謳う攘夷浪士崩れたちが属する怪しい組織。江戸市中にはびこる 大小の暴力団組織。それらについての情報のすべてがその中には集約されていた。 代表者や幹部たちについての個人情報。本拠地の所在や構成員数などの仔細を事細かに網羅した捜査資料。 そのどれもが、の件に関してを極秘扱いで専任している山崎ともう一人の監察が、 ここ一年足らずの間に調べ上げてきた。彼らの地道な努力の上に成り立ったその成果は、 人目にはつきにくく、しかし常に取り出しやすい場所に保管されていた。 普段であれば決してが手を伸ばすことがない書棚の奥だ。しかも用心を重ねて、 手前に並べた一、二冊を取り出しても目につかないよう、下に伏せておいたのだが―― 「育てて貰った家に、義理の兄がいるんです。あの日、二人で家出しました。 義父さんが眠った真夜中に、二人で、こっそり抜け出して。あたし、兄に・・・、兄さんに、ついて行ったんです」 はゆっくりと語った。たどたどしいまでにゆっくりと。 言葉の合い間にわずかな間を置き、途切れ途切れに喋る小さな声が、少しずつ震えを帯びてくる。 「一年くらいの間です。二人で、いろんなところを転々としました。この人はその時に、 あるところで会って、・・・そこにはわりと長く居たから。だから。顔も。はっきり、覚えてて・・・」 土方は眉根を寄せ、じっとを見据えた。 はこの二年、誰にも――土方にも言わずにいたことを口にしようとしている。 義兄がいることすら周囲に漏らそうとしなかったこれまでを思えば、これは格段の進歩と言えた。 だが、話しながら何度も言葉を詰まらせている。まだ迷いを捨てきれずにいるのだ。言葉を重ねるごとに、 細い肩はじわじわと竦んで委縮していく。彼女の内側から溢れ出している不安と焦燥が、その表情からも 見て取れた。手配書の男をうつろに見つめる大きな瞳は、暗く澱んだ色へとうつろっていく。 「・・・去年の春頃に。美代ちゃんに見せた手配書の中に。この人が。混ざってて。 あの時も気づいてたんです。ああ、あの人だって」 「・・・・・・・・、そうか」 (お前、どこでそいつの顔を覚えた) 話の流れに乗って仔細を引き出そうと、土方は口を開きかける。 しかしの様子がまた変化していることに気付き、苦い表情で口を引き結んだ。 うつむいて話し続ける女の顔がやけに白い。血の気を失って褪めたその肌色は、 三日前の朝、病院のベッドに力なく横たわっていた時の痛々しい姿を彷彿とさせた。 「・・・・・・・・・でも、言い出せなかった。言いたくなかったんです」 消えいりそうな小声でつぶやいたその口調は、あまり呂律が回っていなかった。 唇が震え始めているせいだ。舌足らずさを変に思ったのだろう。は自分で唇に触れ、 ようやく原因が判ったような、けれど他人事を無表情に傍観してもいるような顔をした。 太腿に載っていた手配書が丈の短い着物の上をつうっと滑り、畳にばさりと広がり落ちる。 はその音にびくりと背筋を震わせる。ひどく緊張した表情で、手配書の写真を見下ろした。 唇の震えを確かめていた右手を、やけに緩慢な、異様に遅い動作で下げていく。 膝の上で左手と重ね、薄桃色をした着物の裾を皺になるほどきつく、ぎゅうっと握り締めた。 「だって・・・この人のこと。言っちゃったら。・・・・・・・・・・あたし、・・・」 着物の裾を掴んでいた手が、ゆるゆると帯の辺りまで上がっていった。 自分の身体を抱きしめるようにして、の腕が腹部に沿った。 視線はぼんやりと畳の辺りに浮いているというのに、表情は苦しげに歪んでいく。 土方はぴくりと眉を上げてその仕草を見つめた。 無意識に腹を庇うようなあの仕草。こいつ、また腹が痛んできたんじゃねえのか―― 「ここに。いたかったんです。どうしても。いたくて。だから。だから、・・・・・・・・・・・」 (知られるのが、こわくて。) ほんの小さな声すら発しなかったが、彼が瞬きもせずに凝視した女の唇は確かにそうつぶやいていた。 ぎゅっと竦めた肩がさらに震えを増していく。華奢な身体は彼女が抱えた抑えきれない不安を ああして震えに変えて発散しているのだ。そんなを前にして、土方は珍しく決断を躊躇っていた。 咥えっ放しにしていた煙草を口許から引き抜き、うつむいた女を見つめて表情を曇らせた。 ――どうする。 ここで引いてやるか。それとも、このまま喋らせるか。 俺が黙って聞きに徹していれば、は自然と自分から口を割るだろう。 行方の知れない義兄について。今までは決して明かそうとしなかった家出の原因について。 これまでは推測の域を出なかった幾つかの事柄についても、ここで本人から何がしかの情報を引き出せたなら、 ・・・陰で進めていた捜索は、一足飛びに進むだろう。だが。 だが、どうだ。 俺の前でたった二、三言、それらしいことを漏らしただけでこの有り様だ。 白状したことといえば、義兄と二人で家を出たこと。自らの意志で兄貴について行ったらしいこと。 これだけですっかり怯えきって、血の気まで失くして震えてやがる。 ただでさえ今は、ここ数カ月で負わせた無理がすっかり身体に祟ってんだ。 だってえのに、これ以上の重荷を負わせて、―― 耐えきれるのか。この弱った身体が。人一倍思いつめやすいこいつが。 「・・・・・、違う」 「・・・え、」 「いや。・・・・・・・・・・そいつは、・・・」 たまりかねた土方は思わず先に口を切った。ところが言葉が続かない。 困惑を隠しきれていない視線をぎこちなく斜め下にふらつかせ、手にしていた吸いかけを戻すふりで口許を覆う。 病み上がりのこいつにこれ以上は酷だ。こんな姿を見せられる俺にしたって、たまったもんじゃねえ。 ・・・いや。だが、何を。 どうする。どう言ってやる。どうすりゃあこいつの負担を減らしてやれる―― 「・・・・・・・・・・・・・・・・・。そいつは、死んだ」 「・・・・・・・・・、えっ・・・・、」 低くぼそりとつぶやき、土方はふいと顔を逸らした。 極力の視線を避けたがっているような、複雑そうな顔つきで煙を吐く。 いつにない焦りに追い立てられながら逡巡した末に捻り出した嘘。 への効き目はどうあれ、どうにも苦し紛れで一時凌ぎな言い逃れだ。 彼の言葉に息を詰めたは、強張っていた表情をかすかに変えて顔を上げた。 驚きになのか安堵になのか、震えていた唇がゆっくりと開いていく。 え、ともう一度土方に尋ね返すかのように、吐息を漏らすような淡い声がほろりとこぼれる。 どうも気まずい。だがここで引き下がるわけにもいかず、土方はふたたび「こいつは死んだ」と 厳しい声音で繰り返した。 「・・・お前が何を勘違いして、そこまで重っ苦しい面してんだか知らねえが。」 意識的にまっすぐにの目を見据え、はっきりと言った。 嘘の念を押した自分の態度に惑いが出ることのないよう、それらしい体裁を作ったのだ。まぁ、謂わばハッタリと同義だが。 「こいつと関わりがあった案件は半年前に終わってる。それ以前にこの男は、わざわざ追いかける価値もねえ小者だ。 大方、他の案件でも掘り返した時に紛れ込んだもんがそのまま残ってたんだろ」 「・・・・・・・・・・・・・、そ・・・・・・ぅ、なん、です・・・か、・・・・・・・・・?」 切れ切れにつぶやいた女の顔は、大きな目をぼうっと見開いている。心底放心しきっていた。 肩の震えもいつのまにか止まっており、彼だけを見つめて大きく開いた目には ほんのわずかだが輝きが差した。生気を取り戻しつつある女の様子に心の中では安堵を覚えていたが、 土方はいつにもまして素っ気ない口調で尋ねた。 「それで全部か、言いてぇことは」 「・・・・・え。あの、・・・・・・・・・・」 「話が無ぇんならもう休むぞ。とっつあんに四件も梯子させられたせいで疲れてんだ」 苦し紛れにそう言うと、ふっ、との唇が震えを起こしたかのように動いた。 大きな瞳が何かを切実に訴えようとしてくる。未だ言葉にならない何かを発しようとしている。 だがその決意はすぐに揺らいだらしい。 急に脱力したように肩を落とし、へなりと泣きそうに眉を曇らせた。 「・・・・・・・はい。おつかれさま、でした」 「ああ」 別段何も気にしていない、といった平静な態度を装い、土方は軽く頷き返した。 頷いて視線を下げた時に、咥えている吸いさしが指の先ほどに短くなっていることに気付く。 灰皿を求めて立ち上がり、文机へと向かったのだが、 「・・・・・・・・・・・・・・、おい何だこれは」 「何って。・・・灰皿ですよね」 「んなこたぁ見りゃあ判る。そーじゃねえ、何でこれが空になってんだ? ・・・つーかこら、お前このあたりの山を動かしただろ。俺が居ねぇ間に掃除しやがったな」 「ああ・・・はい。そうです。そうでした、そういえば、・・・お掃除したんです。 ほんのちょっとだけ。・・・・・・・ああ、そうだ、そーいえば。・・・天気が良かったからお布団も干して」 「はぁ!?干してどーすんだ、今日も寝てろっつっただろーが!」 「ああ。そういえば。・・・・・・・・そうでしたっけ。忘れてました」 かっと目を見開いて手厳しく問い詰めたというのに、首をちょこんと傾げて 放心しきっている女にはまったく懲りた様子がない。ぽかんと丸く開けた目にぼーっと見つめられ、 上の空な口調で白状される。 土方は呆れきったとばかりに溜め息を吐き、勢い込んで強張っていた肩をがくりと落とした。 「・・・・・・・これだからてめえは頭がザルだってえんだ」 短くなった吸殻は、苛立ちごとぐしゃっと灰皿に押しつけて揉み潰した。書類の山に手を伸ばし、 上から一枚を取り上げる。むっとした顔つきでそれを眺めつつ、さらにもう一枚へと手を伸ばす。 「おいコラ十秒で思い出せ。たった三日前だぞ、お前、何て言われたあのヒョロい医者に。 最低三日は休めって言われただろーが。最低三日は寝床に入ってろってぇ話だったろーが。 ・・・ったく、知らねえぞ、後で不養生が祟っ、――」 積まれた書類の順番を確かめながら説教を垂れていると、とん、と何かが背中にぶつかってきた。 お、とつぶやき、手を止める。すると、ぽか、と軽く背中を殴られた。 何事だ、と振り返るうちにもぽかぽかと、小さくて柔らかい、手応えのない感触に叩かれる。 土方が黙って受け止めてやっていると、まるっきり力の籠っていない、幼い子供にじゃれつかれているような 連打はさらに続いた。 「・・・何やってんだ。つーか何がしてえんだ、お前は」 いつの間にか背後に貼りつき、いきなり背中を殴って刃向かってきた女は 反抗的な行動に反して頼りなげな表情をしていた。 噛みしめた唇がへの字に歪んでいる。ちょっとでも口を開けばすぐに気が緩んで、 めそめそと泣き出してしまいそうな情けない顔だ。 土方は困惑気味に目を見張る。 やがては手を止めて、透明なしずくをじわりと溢れさせた目で縋るように彼を見上げた。 「ごめんなさい。もうすこしだけ、・・・一緒に、いても。いい、ですか・・・・・?」 覚束ない足取りでふらりと一歩踏み出す。おずおずと、戸惑いを見せながら伸びてきた 細い腕が、白いシャツの肘のあたりをきゅっと掴んだ。 土方の反応を確かめながらこわごわと寄りそってきた柔らかな感触が、とん、と彼の胸に頭を預けて しなだれかかってくる。自分から飛び込んできた女に息を呑み、土方はを見下ろした。 肩が小さく震えている。とはいえそれは、先程までの震えとは性質が違っているようだ。 安堵で一気に気が緩み、身体まで急に、どっと弛緩したために起きた震え。要は極度の緊張が長時間続いた反動か。 軽い驚きをもてあましつつも、の頭に触れてみる。落ち着け、と言い聞かせるつもりで宥めるように軽く叩いてやると、 その感触が心地良かったのか、小さな頭の柔らかな重みが甘えかかるように胸元へ沈み込んでくる。 硬かった気配が少しずつ、しかしたしかに解れて、落ち着きを取り戻していく。直に身体へ伝わってくる その実感にほっとして、土方は彼女に気づかれない程度に抑えた短い溜め息を漏らす。 まだ震えが止まっていない背中に腕を回し、そのまま抱き寄せて頭を撫でた。 深くうなだれた頭に指を入れ、手櫛で髪を梳きながらしばらく黙っていたのだが、 ――彼女と自分との間の、とある認識の差にふと気が付く。細い手で胸元に縋りつき、 すっかり安心した様子でもたれかかってくる女を、少し困っているような失笑を浮かべて見下ろした。 「・・・少しと言わずに、ずっと居ろ」 耳元に顔を寄せて低く抑えた声で告げると、胸に埋もれていた小さな頭が 隊服を擦ってわずかに動く。頬にほのかな血色を取り戻してきたはぱっと顔を上げ、 ぱちぱちと何度か目を瞬かせた。申し訳なさそうに眉を下げて首を横に振る。乱れた長い髪がさらさらと揺れた。 「・・・でも。土方さん疲れてるんですよね?あの、いいです、やっぱりあたし、すぐに部屋に」 「誰が戻れと言った」 「・・・え?」 頬に当てた手をつうっと動かし、指を顎下へと潜らせる。顎先へ向けてすっと撫でた。 滑らせた指先にやんわりと力を籠めるとの顔は自然と上向き、撫でられた女は ひゃあと悲鳴を上げ、くすぐったそうに首を竦める。どことなく拗ね気味な子供っぽい表情になったが、 瞳を潤ませて彼を見上げてきた。しかし、自覚を促そうとしているような仕草で自分に触れてくる 大きな手が意図するところは、彼女にはいまひとつ伝わりきっていないようだ。 顎から首を撫で下ろす土方の手を目を丸くして眺めていた。だがその手がすっと横へ伝って肩を覆い、 彼女を自分のほうへと抱き寄せようとすると、驚いた目がぱちりと大きな瞬きをひらめかせる。 ようやく理解したらしい。 ぽかんとしていた顔が一転して困惑した表情になり、声が出ない唇がぱくぱくと動き、 血の気が薄かった頬をかあっと薄桃色に染め上げる。 見る間に赤みを帯びていく頬を指の腹でぴたぴたと打ち、土方はわざと皮肉気な、呆れた目つきで切り返した。 「お前の物覚えときたらつくづく最悪だな。俺ぁ一度も、もう部屋に戻っていいたぁ言ってねえぞ」 の目を見つめながらそう言い、羽二重のように柔らかい耳たぶをふにっと摘むと あっけにとられて彼を見ていた彼女の耳と、ほっそりした首筋までもがぽわっと一気に昇った朱に色づく。 面白くも無さそうに引き結んでいた男の口端がふっと緩む。 表情が薄く印象がきつい顔も口許の変化につれて笑いに歪み、喉奥ではくくっと、 可笑しさを押し殺したような声が鳴る。 それはにとってはまだまだ見慣れない姿。 人に隙を見せたがらない、始終険しい顔ばかりしている男の、気を許した相手だけに見せるひどく和らいだ表情だ。 は自分のために浮かべられた笑みを、熱を帯びた目でぼうっと眺めた。 かと思えば急に顔を逸らし、軽く握った手をあたふたと口許に当て、落ち着かない様子で 左右をおろおろと眺め回し。もうどうしていいのかわからない、といった困りきった表情で唇を噛んでうつむくと―― 「・・・・・・・は。・・・・・・はぃ・・・、」 こうして抱き合ってようやく聞き取れる吐息程度の淡い声が、恥ずかしくてたまらなさそうにつぶやいた。

「 片恋方程式。53 」 text by riliri Caramelization 2012/03/17/ ----------------------------------------------------------------------------------- *54は裏扱/大人限定です 大人年齢の方は → * こちら * からどうぞ。 *まだ大人ではない方は → * こちら * へどうぞ。